まこと、と呼ぶ声が聞こえたから、
 彼女はその時、目覚めたのかもしれなかった。

 

twilight-children



「ぴーっくにっくー、ぴくにっくー♪」
 上機嫌な鼻歌が、木々の黄々色に吸い込まれていく。沢渡真琴は満面の笑顔で、腕とか足とかぶんぶん振り回しながら、行進するみたいに折れ曲がった坂道を踏破している。何でそんなに元気なの、私とそう年が違うはずもないのに、ここまで体力の差が出るものでしょうか、と天野美汐は内心でぼやいた。
 季節は秋。春には桜と菜の花に覆われ、パステルの楽園を形作っていたこの山は、今は黄緑色に姿を変えていた。季節の変わりをもたらす、北国育ちの紳士のくちづけに、舞い上がった楓や銀杏がそろってドレスに身を包み、きらびやかな舞踏会の準備を始めたようだった。
「真琴、そんなに急がなくても……。時間はたっぷりあるんだから」
「だーめ! 美汐みたいにのんびりしてちゃ、今日なんかあっという間に終わっちゃうよっ」
 十歩先で振り返った真琴が、えへへっ、とはにかむ。三つ編みにした明るい茶髪の、上手にまとめ切れていない先端の部分が、美汐をせき立てるようにひと跳ねした。この夏生まれて始めて訪れた美容院で、セミロングにしてもらった髪を色々といじるのが、近頃の彼女のお気に入りだった。
「……ちょっと休憩しましょう」
「えー? 美汐体力なさすぎーっ」
「私はインドア派なんです。……自分から行楽に来ておいて、こんな言い方もないものですが」
「へえ、だから肉付きいいんだって痛いイタイいたーいー」
 十歩の距離がゼロになった。ほとんど一瞬。
「……確かに肉付きが良いですね。水枕のようなふにふにほっぺです、真琴」
「ひはいー、はめへひひおー」
「感触がとてもステキなので、このままピクニックを中止して揉み続けようと思います。3時間くらい」
 真琴がすごい絶望的な顔をしたのを見て、ぱっ、と美汐は手を離した。『ぼたり』と地面に落下した真琴は、頬っぺたを林檎のように真っ赤にして、美汐をむむーっと睨みつけた。
「ということにもなりかねないので、真琴、冗談はほどほどにして下さいね」
「……美汐の、バカ」
 真琴の悪態を、美汐はくすりと笑って受け流した。さあ行きましょう、と促すと、根に持たないタチの少女はうーうー唸りながら、ふたたび坂道を登り始める。


「今日は祐一さんはおいでないのですか?」
「うん。ちょうどアルバイトなんだって……。日曜なのに大変だよね、祐一も」
 ま、いい気味だけどねっ――と言う真琴の頬には、口先とは違う想いが見え隠れしていた。他人の感情の機微に敏感な美汐が、それに気付かぬわけも無かったけれど、彼女は敢えて知らない振りをした。
 ものみの丘への林道は、敷き詰められた落ち葉でいっぱいだった。いつもと変わらない道筋なのに、ピクニックという言葉の魔法か、真琴は普段以上にはしゃいでいた。大方ピクニックの場面が出てくる漫画でも読んで、自分も同じことがしたくなって、自分を連れ出したのだろうと美汐は苦笑した。
 ――背格好は大きいのに、何故こんなにも子供っぽいのでしょうね。
 美汐はふと思った。そして、小さかった頃の自分を思い出した。
 真琴を見た。あの日、蒼空を塗りつぶした曇の下で、ひそやかに息を引き取ったはずの横顔がいた。ひとつの季節が巡り、訪れた春風とともに還ってきた、幸せで満ち足りた横顔がいた。
 空を見上げる。目の眩むようなその群青は、淡い硝子の光で満ちている。
「見て美汐、何か変なのがあるよ」
 真琴が坂道のはずれを指差していた。見ると、その先には赤い小さな鳥居と、古びた石段と、その両脇を守護する阿吽の狐の像があった。
「稲荷様ですね」
「……おいなりさま?」
「食べ物を想像したでしょう?」
 真琴が怪訝そうにしているのを見て、美汐は苦笑していた。「関係がないこともないのでしょうけど」と言いながら、石段に近付いた。
「行ってみますか」
「うん」
 段を登りきったところにまた鳥居があり、ささやかな造りの本殿が見えてきた。枠木はすっかり黒ずみ、所々に苔が生えていた。手水舎に近付くと、古い石の井戸から湧き出た清水が、木漏れ日でキラキラ光っていた。
 美汐はひしゃくで手を清め、静粛な足取りで社に向かった。賽銭を入れ、礼を二回、それから大きな柏手を二回鳴らした。最後に社の方を、いたわるような眼差しで見つめた後、目を閉じて哀悼のような礼をした。
 真琴が遅れて真似をした。ぴょこんっと音が立ちそうな礼だった。
「稲荷様は農作物の神さまです。そしてその遣いは、きつ――」
 言いかけて、ふと美汐は思いとどまった。
「……いえ、天使さまと言い換えたら、真琴にはわかりやすいかもしれませんね」
「天使さまがいるの? こんなところに?」
 真琴は驚いた顔で社を覗き込んだ。『こんなところ』の部分がかなり強調されていたのは、無理もないところではあった。
「そうですね。この社の管理者は、あまり信心深いとは言えないようです」
 美汐はため息をついて境内を振り返った。杉や楓の葉がそこら中に散らばって、緑と茶色と黒色の、湿っぽい絨毯のようになっていた。誰かがお参りに来ている様子も、掃除に来ている様子もなく、ほとんど放置されているようだった。
「あうー……天使さま、かわいそう」
 真琴が悲しげな顔をした。美汐はそれを見て柔らかい笑顔を浮かべた。
「真琴、掃除、しちゃだめかな」
 え? と美汐は声を上げていた。真琴はねだるような顔つきで美汐を見ていた。
「天使さまの居場所、きれいにしてあげたいの。こんなところじゃ落ち着けないし、毎日いろんな人のために頑張ってる天使さまに、真琴も何かしてあげたいから」
 彼女のそんな顔は珍しかった。真琴は優しい子ですね、と思いながら、美汐は頷いた。


 社の隅に竹箒が掛けられていたので、丁重に借りることにした。
「結構時間を取られてしまいそうですね」
 美汐は上空を見て言った。木の葉のブラインドの向こうの陽は、もうかなり高いところまで昇っていた。
「でも、がんばる」
「そうですね。急いで終わらせましょう」
 意気込んだは良いものの、辺りが日陰になっているせいで、湿り気を帯びた木くずや枯葉が地面にくっついているため、作業はなかなか進まなかった。おまけに落ちているのは細かい杉の葉が多かったから、なおさら掃きにくかった。
 それでも、三十分も経った頃には二人とも調子をつかんできて、境内の三分の一を掃き清めていた。そしてそこまで慣れてくると、おしゃべりをする余裕も出てくる。
「そう言えば真琴、ちょっと聞きたいんですけど」
「うん」
「その鈴、お気に入りなのですか?」
 え、と真琴は手を止めて、自分の左手を見た。赤茶けたゴムで留められた、メッキのはげた鈴が揺れていた。それから彼女は少し照れた顔をした。
「祐一に貰ったの。真琴がどうしても欲しいって言ったら、いいよ、って」
 かわいいでしょ? と真琴は鈴を鳴らした。ちりん、ちりんというかすかな音が、木漏れ日の境内で静かに鳴った。
「真琴がいなくなる前、祐一に貰った、最初で最後のプレゼントなの」
 ――それは、その言葉のために用意された、前置きのような音だった。
 真琴は穏やかな顔をしていた。それなのに、美汐にはそれが愁い顔に見えた。
 美汐の記憶の片隅で、何かの欠片が音を立てた。
 懐かしい光景だった。辺り一面にはシロツメクサが、細やかな雪のように咲いていた。……春の原っぱ、ものみの丘、その正式な名称を――喪飲みの丘、と呼ばれる場所で、彼女に渡した花の冠が、惜しみない季節の光できらめいていた……。
「美汐」
 真琴が言った。その口調は、美汐が今まで聞いてきた彼女の声とは違っていた。
「真琴ね、美汐に言わなきゃいけないことがあるの」
「なん……ですか」
「真琴がここに戻れた理由。真琴だけが……戻ってこれた理由」
 記憶のかさぶたが、ぱき、と剥ける音がした。
 陽炎のような景色が、その時のままの鮮明な姿で蘇ろうとして、


「まーいー、もうやめようよーっ」


 困ったような声は、真琴ではない少女のものだった。
 杉の森の向こう側で、がさがさ……という作為的な音がしていた。反射的に身構えた真琴たちだったが、すぐにそれが、差し当たって意味のない警戒だと気付く。
「もう引き返そうよ、ここどう見ても道じゃないよ」
「……道は自らの手で切り開くもの」
「はえー、クモさんがいっぱいいるー」
 がさがさがさ。
 茂みをかきわける音がする、ということは、その先は道ではない。
 がさん、と最後の一音が立った後で、「あ」と誰かが言った。
 現れたのは二人の少女だった。一人はお下げの黒髪で、もう一人は綺麗なブロンドの髪を、緑色のリボンで留めていた。
 二人の頭についた落ち葉が、地面に着地するくらいの間があって、
「…………あーっ! あの時のあぶない奴っ!」
 いきなり真琴が叫んだ。まっすぐに黒髪の少女を指差して、今にも暴れ出しそうなありさまになっていた。美汐ともう一人の少女は、え、何のこと? という顔をして、ただただ彼女を見ていた。
「………?」
 それどころか、指差されている当人さえ、何のことやらわかってない様子だった。
「忘れたとは言わせないわよっ、夜の学校で真琴を刺そうとしたでしょ! あの時真琴本当に恐かったんだからねっ」
「……………」
 言われた当人は、それで初めて真琴の方をじっと見る。それから十秒くらい間を置いて、
「……ああ」
「何よその間ー! ものすっごいムカつくんだけどー!?」
「あの、真琴。もうそのくらいで」
 威嚇を始めた真琴を、美汐がどうどうとなだめた。それは、事態が飲み込めずに目をぱちくりさせている、帽子の少女に配慮してのことだった。
「真琴というの」
「え?」
 気付けばお下げの少女が、真琴に歩み寄ってきていた。「……あなたの名前」
「……なによぅ、寄ってこないでよぅ」
 ずりずりと真琴が後退していた。学校での出来事とやらは相当にトラウマらしかった。
 警戒されていることを悟ってか、少女はそれ以上近付くのを止めた。彼女は無表情だったが、美汐には何となく寂しそうにしているように見えた。
「えーっ、と」
 後ろの方から、もう一人の遠慮がちな声がした。
「よくわからないんですけど、お二人とも、舞のお友達なんですか?」
「そんなんじゃないっ! こいつは真琴のテキなのっ」
 それは、と美汐が反応する前に、真琴が先に答えてしまった。
「敵……」
「あ、いいえ、言葉のあやです」
 舞と呼ばれた少女がうつむくのを見て、慌てて美汐は取り繕った。「お知り合いなんでしょう。ね、真琴」
 違うもん、テキだもんと言いそうだった真琴を、美汐は目で制した。祈るようなアイコンタクトで、ここは話を会わせて下さい、と語りかけた。真琴は不服そうだったが、美汐がそういうなら……という態度で、しぶしぶ「――うん」と答えた。
「そうなんですかっ」リボンの少女がポン、と手を打ち合わせていた。さっきまでとはうって変わった満面の笑顔だった。「舞のお友達かぁ。それじゃあ、佐祐理ともお友達ですねーっ」
「え?」
 美汐が、彼女にしては珍しい類の素っ頓狂な声を出していた。真琴を横目で見遣ると、そちらも『いきなり何言ってんのよこの人は』という顔をしていた。
 その空気を察してか、佐祐理は笑顔で説明を始める。
「簡単ですよー。佐祐理は舞のお友達で、お二人も舞のお友達。だったら、お二人と佐祐理もお友達です」
「……いえ、その三段論法にはかなり無理が」
「いやですか?」
 一転、しゅんとなる佐祐理に、美汐は言葉に詰まってしまう。と、佐祐理が口もとに両手を当て、はっ……と大きく息を呑んだ。
「……そーですか、いやなんですか。お二人は佐祐理のような子がお嫌いなんですね。確かに佐祐理なんて、普通よりちょっと頭の悪いただの女の子ですから、誰かに好きになってもらおうだなんておこがまいですね。ぐすぐす」
 ぐすぐす、と言いながらハンカチを取り出すと、彼女は目元をそっと拭う。
「いえ、そんなことは一言も」
「ああお父様、佐祐理はとっても傷心中です。もう一生立ち直れないかもしれません。これからも佐祐理はひとりで生きていきます。ダメな女の子にはエイエンのコドクがお似合いなんです。明日も陽のささない部屋で、観葉植物とテレビだけを友達に、寂しくつましく暮らすんです。ぐすぐすぐす」
「佐祐理、泣かないで。私がついてる」
 落ち葉にくずおれる佐祐理の肩に、舞が優しく手を置いた。
 楓の葉が一枚、ヒュリ、と吹いた風にもてあそばれ、二人のそばに落ちていった。
「ねえ、ひょっとして真琴たち責められてる?」
「……何なんですかこの人たちは」
 美汐がため息をついた。改めて佐祐理たちの方を見てみると、二人して何かを期待するような表情をしていた。
「友達だと言って欲しいのですか」
「強制はしない」
「代わりに脅迫されてる気がする……」
 真琴が、美汐には言えなかった本音を代弁してくれた。
「……ああもう! わかりました。私も真琴もお二人の友達です。それでいいんでしょう」
「わ、本当ですか!? よかったね舞ーっ」
「……嬉しい」
 いえーい、とか言いながら、舞と佐祐理は上機嫌なハイタッチを決めた。言うまでもなく、さっきまでの翳りに満ちた暗い顔はどこにもない。
 美汐は無言で真琴を見た。真琴も困って美汐を見ていた。
「……はぁ」
 ため息。


 とはいえ、境内を掃除する人が増えたことが、美汐たちには単純にありがたかった。
「こう見えても佐祐理、お掃除好きなんですよーっ」
 などと笑顔で言うだけあり、佐祐理の箒さばきは見事なものだった。美汐たちを随分手間取らせた落ち葉の複合層を、魔法でも使うように追いやっていく。瞬く間に境内が元の姿を取り戻していき、二人としてはその手つきに感心するほかなかった。
「……ごしごし」
 舞は箒がなかったので、手水舎や賽銭箱など細かいところをきれいにする役に回った。水垢を拭ったり、苔を落としたり、砂埃で汚れた宮を雑巾で磨いたりと、一番労力のかかる仕事だったが、彼女は弱音ひとつ吐かずに作業を続けていた。
「思ったよりいい人たちみたいですね」
 美汐はそんなことを口にしていた。正直なところ彼女は、自分と同年代の少女達など、勝手気侭で自分とは合わない者ばかりだと思っていた。しかし、二人の懸命な姿を見ていると、それこそ自分の勝手な思い込みだったのかもしれないと感じていた。
「真琴?」
 美汐は真琴の方を振り返った。普段はおしゃべりな真琴が、珍しく黙っていたからだ。
「え? 美汐、呼んだ?」
「ええ。……ひょっとして、嫌でした?」
 美汐は掃除中の二人を指し示した。真琴はううん、と首を振り、「嫌じゃないよ。……変だとは思うけどさ」と言った。
「真琴が嫌なのは、もっと別のこと。――何時かは言わなくちゃいけないことが、また先延ばしになっちゃったってこと」
「……それは」
 ついさっき、彼女が言いかけて中断された言葉だ。美汐は不安に駆られて、真琴のことを急かしていた。
「何なんですか、真琴、あなたは一体何を言おうと」
「……すごく大事なこと。でも、二人じゃないと言えないから、もうちょっと後ね」
 そう言って彼女は笑った。やはりそれは愁い混じりだった。
 美汐が追及しようとしたとき、丁度佐祐理が「終わりましたよーっ」と言って、二人のところに駆けてきた。
「舞も、そのくらいでいいよーっ。こっちにおいでよ」
 すると「……もう少しだけ」という返事が来た。舞は単純作業から抜けられない性格らしかった。もうっ、と小さく笑ってから、佐祐理は美汐たちに向き直った。
「ところでお二人とも、お昼はどうします?」
「お弁当を用意していますが。何か?」
「あのですね、よかったら、佐祐理たちと一緒にどうですか?」
 その提案が急すぎて、美汐は少し戸惑っていた。どうしてこの人は、初対面の相手にこんなくだけた態度で向かえるのだろう? 雰囲気も性格も、恐らく歩んできた毎日も、自分とは対照的な女性だと思った。
 とはいえ、嫌な気はしなかった。掃除のことで警戒心が和らいでいるようだった。「私は構いませんが」と断ってから真琴を見ると、迷っている様子ではあったが、最後には結局頷いた。


 境内の片隅に風呂敷を広げる。靴を脱いで、正座したり足を崩したり、各々が自由な姿勢を取った。リュックから包みを取り出すと、佐祐理は馴れた手付きで結び目をほどいていく。
「それでは、お昼を始めましょう」
 と言う佐祐理の手元には、おせち料理のような重箱が二つ置かれていた。ぱたぱたとそれが分解されて、中から次々におかずが出てきた。コーンサラダにカニフライ、鳥の唐揚げと三色おにぎり、さわやかな色合いのチキン南蛮……。デザートはウサギの耳をつけた林檎と、水滴でつやつやに光るマスカットだった。
 とぽとぽと注がれた紅茶からは、ほのかなレモンの薫りが立って、杉の森の中にとろけていった。
「……豪勢ね」
「……豪勢ですね」
 美汐たちが驚く横で、舞が一足先に食事を始めていた。まるでそれが当たり前だというような態度だった。
「……おすすめは煮物系」
 ぽつりと言ってから、彼女は山芋の煮付けに箸をつけた。
 真琴は何故か真剣な表情で、丁寧に割り箸を二つにして、重箱の一角に狙いをつけた。
 黙ってもぐもぐする彼女を、美汐と佐祐理が息を呑んで見ていた。
 やがて、ごくんと喉を鳴らすと、彼女は大きな瞳を潤ませて、
「……すっごく美味しい」
「ありがとうございますーっ」
 佐祐理が満面の笑顔になった。真琴はすっかり遠慮するのを止め、いろいろな料理に挑戦していた。美汐もつられて食べてみたが、それは確かに美味しくて、真琴が言うことも納得できるものだった。
「……こんな見事なきんぴらごぼう、初めてです」
 そんな賛辞が思わず出てくるほどだった。
 でも、彼女には素直に喜べない理由があった。
「そういえば」佐祐理が朗らかに言う。「天野さんのお弁当はどんなものなんですか?」
 ぎくり、と美汐が固まった。
 真琴がピクニックに誘ってきたのが今朝の9時。前もった約束もしない、本当に抜き打ちの提案だった。当然、弁当を一から作る時間はなく、反則技のような真似を駆使して、何とか見れる形にするのが精一杯だった。
 とてもではないが、佐祐理の弁当の隣に並べられる代物ではない。ないというのに。
「ええと、倉田さんのお弁当でおなかいっぱいなので、食べる余ゆ」
「美汐のお弁当はねー、真琴も一緒に作ったのっ。自信作なんだから!」
 美汐の言葉を遮って、真琴がすごい嬉しそうに言った。
「あの、真琴」
「わあ、そうなんですかーっ。佐祐理も食べていいですか?」
「うん。真琴たちも佐祐理のお弁当貰ったから、そのお返しっ」
「……私も食べたい」
「うー、テキに塩は送らないわよっ……と言いたいとこだけど、特別にあげる」
 美汐が干渉する暇もなく、話はとんとん拍子に進んでいた。
 こうなったら何とかごまかしましょう、と美汐は自分のリュックを後ろ手に隠す。子供の浅知恵のようなものだけど、現物さえ見せないようにすれば、最悪の危機は乗り切れると踏んだのだった。
「お弁当はね、真琴のリュックに入れてあるのっ」
 無駄だった。
(……何で私は自分で持たないんですかッ……)
 美汐は誤算を激しく悔いたが、もう遅い。
「わあ、盛り付けが可愛いですねーっ」
「……タコさんウインナ」
「えへヘ、すごいでしょー」
 もう遅い。
「あ、このエビフライ美味しいです」
「それは真琴が作ったのっ。レンジでチンって」
「……これもいい」
「それは美汐がね、お鍋に残ってたやつを火にかけて――」
「……羞恥プレイです」
 美汐がぼそっと呟いた。
「でも、いいですよね。二人でお弁当作るのって」
 にこにこ笑った佐祐理が、食事の合間にそう挟んだ。隣で舞がこくこく頷いていた。
「だって、真琴ちゃんも天野さんも、作ってる間楽しかったでしょう? 大切な友達と一緒に何かをして、しかもその結果が、こんなにもはっきりと形になる――それ以上幸せなコトなんて、少なくとも佐祐理には思いつきません」
「…………」
 真っ赤になっていた美汐は、少しだけ顔を上げて佐祐理たちを見てみた。気遣ってくれているのかと思ったけれど、二人にそんな様子はなかった。ただ純粋に、自分たちのことを羨ましがっているようだった。
「ねー舞、佐祐理たちも、今度一緒にお弁当作ろっか」
「……私は不器用だから迷惑をかける」
「そんなことないよ。舞と一緒なら、佐祐理はいつでも楽しいんですから」
 ねっ、と佐祐理が向けた表情に、舞はこくんと頷いた。
「ほら、美汐。おべんと食べよ」
「……ええ、そうですね。いただきます」
 真琴が促すのに応じて、美汐も自分の弁当に箸を付けてみた。
 もちろん、おいしくないはずがなかった。


「そう言えば、倉田さんたちはどうしてここに?」
 食後のおしゃべりの時間、美汐はそんなことを尋ねてみた。陽は中天を少し回ったくらいだった。腕時計は12時27分。太陽が真上から照りつけてくるので、木陰はいっそう濃くなり、陽だまりとのコントラストが際立っていた。
「行楽に来るにしても、こんな本道から外れた場所は通らないでしょう」
 ものみの丘への入り口は、山を舗装する道路から脇に逸れたところにある。地面はそのままで、木の枝が低く張り出していたり、腰丈の雑草で塞がれているところもしばしばあるから、わざわざ訪れるのは相当の変わり者か、恐いもの知らずの子供くらいだ。
 そんなことを指摘すると、佐祐理があはは……と困ったように笑って、こう答えてきた。
「舞は道なき道が好きなんです」
「は?」
「獣道とか林道とか、歩きづらい道を好んで選ぶんです。男の子みたいなところがあるのかな、そういう道を制覇して、どこか知らない場所にたどり着くのが好きなんだー、って」
「……ハードルは高いほど燃え上がるから」
 どうやら変わり者の方だったらしい。
「そんな性格だから、舞と一緒だと大変ですよー。目的地がすぐそこにあるのに、わざわざ変な道を選んで、結局行き止まりになって引き返したり」
「……それは一回だけ」
「一緒に街に出ても、知らない道ばっかり選んで歩くから、迷子になることもしょっちゅうだし」
「……でも、おかげで可愛いお店を見つけた」
「と、まあ、そういうわけなんです」
 そんな締め方をしてから、今度は佐祐理が質問をしてきた。
「天野さんたちは、どうしてこの神社を掃除なんか?」
「それはね、真琴が、天使さまの居場所をきれいにしてあげたかったから」
 美汐よりも先に、真琴が元気よく答えていた。餌付けと言っていいものか、彼女はすっかり佐祐理に懐いたようだった。
「天使さま?」
「うん、美汐が言ってたの。ここには天使さまが住んでいるって」
「はえー……」
 佐祐理が感慨深そうに境内を見回した。「舞、すごいねー。天使さまだって」
「……聞いたことがある」
 舞が顔を上げていた。さっきまでよりも、少しはっきりとした声で言った。
「え?」
「この街の天使さまの話。ずっと昔、お母さんに教えてもらった。私たちの街の伝承」


「この街は……神様からの寵愛を受けた街。街の境界に在って、山の中腹にあるひとつの広場……ものみの丘、と呼ばれる場所の物語」
 ピク、と表情を変えたのは、美汐と真琴だった。
「遠い昔、この地にひとりの神様がいた。それは、この世界に住まう八百万の神々の中で、いちばん優しく、慈愛に満ちた神様だった」
「神様にはたくさんの子供がいた。子供はみんな仲良く、毎日平穏に暮らしていた。……けれど、子供達の中には、それに退屈した者もいた。兄弟といるばかりではなく、もっと別の誰かと遊んでいたいと」
「ある日子供達は、人間の住んでいる村を見つけた。子供達は人目で、人間と自分たちが、本質的に異なる存在なのだと気付いた。……それに焦がれて、子供達は次々に村に降りていった。人々は最初こそ驚いたけれど、すぐに子供達と仲良くなり、満ち足りた日々を送っていた」
「ハッピーエンドで終わるんですよね?」
 美汐が尋ねたのは、確認ではなく、個人的な願望に近かった。舞は黙って先を続けた。
「神様の子供には、人間の願いを叶える力があった。彼らの幸せのために、子供達はたくさんの願いを叶えてあげた。すぐに、そこにいる人たちは裕福になった。ただ」
 そこからが斜陽の始まりだった。
「ただ――その力には限界があった。未成熟な子供の身体には、力が大きな負担になり、願いの全てを叶え尽くすことは出来なかった。子供達に頼りきり、苦労することを忘れ、貪欲になった人々は、力を亡くした子供達を疎んだ。そして、要らなくなったその躯を、高い丘に運んで――土に埋めた」
「……ひどい」
 佐祐理が呟いた。それに頷きながら、舞は続けた。
「それを知った神様は悲しんだ。けれど、けして怒りはしなかった。世界でいちばん優しい神様は、子供達が不遇の目に遭ってなお、ただ慟哭するだけだった。なぜなら」
 そこで初めて、舞の表情が和らいだ気がした。
「ひとりの人間が、彼らの死を悼んでいたから。我欲に囚われた人々の中で、他人のために心を痛めた存在が、その丘で絶え間ない涙を流したから。……優しい神様は、人を愛することを止められなかった。その人間は、神様と子供達への哀悼に、この地にひとつの社を建てた」
 それが――この場所。
「神様は社を居とし、永久の鎮守となることを約束した。だからその地を、喪飲みの丘と――そう呼ばれる」
 静かに舞は語り終えた。
 ひくひくと誰かの鳴き声がしていた。
「…………真琴?」
 見ると、真琴が両目を真っ赤にして、顔を両手で覆っていた。
「真琴ちゃん、大丈夫……?」
「……うん、大丈夫。……おかしいな、真琴、どうしてこんなに悲しいんだろう。悲しいお話だったけど――でも、こんなに胸が痛むのは――どうして、だろう」
 ひくひくとしゃくりあげ、何度も目元を拭いながら、真琴は途切れ途切れに語った。
 美汐にはその理由が解かっていた。きっと真琴も漠然と理解しているのだろう……そうでなければ、ひとりの人間の瞳から、こんなにもたくさんの涙が流れはしない。
「ごめんなさい。暗い話をした」
「ううん、舞のせいじゃないから。気にしなくていいよ」
 俯く舞に、真琴はそう声を掛けた。
「……今日ね、真琴たち、ものみの丘に行くつもりだったんだ。その物語の場所に」
 ぽつりと真琴が言った。佐祐理と舞の表情がわずかに変わった。彼女の言葉に、何か特別な意味が秘められていることを、感覚的に理解したようだった。
「……私たちは、一緒でもいいの」
 舞が静かに尋ねてきた。それは『私たちがいては迷惑では?』という質問と同じ意味だった。真琴は静かに首を振った。
「……ううん、ついてきて。真琴はそうして欲しい」
 いいでしょ? と真琴は美汐に尋ねた。美汐は一瞬戸惑ったが、真琴の目を見て頷かざるを得なくなった。
 今まで彼女を見てきた中で、一番真剣な顔をしていたから。


 ものみの丘までの道のりは、会話の数が極端に少なくなっていた。
 佐祐理が気を利かせてか「しりとりでもしませんか?」と言った。皆が何とか重たい空気を遠ざけたいと思っていた折だったので、反対意見は出なかった。厳正なジャンケンの結果、順番は佐祐理、美汐、舞、真琴になった。
「じゃあ行きますよー。クラリネット、はい天野さん」
「時計台。……川澄さんどうぞ」
「犬さん」
「…………あのねえ」
 真琴がため息をついた。「あはは、まあ最初ですからーっ」と、佐祐理が仕切りなおす。
「それじゃあ改めてーっ、シフォンケーキっ」
「きなこもち。次こそお願いしますね」
「……チョウチョさん」
「こらーっっ」
「だって、今そこを飛んでいたから」
 キレた真琴を横目に、舞が中空を指差した。そこでは確かに小さな蝶が飛び回っていた。
「はぁ……。舞がこれじゃあ、真琴の番なんて一生来ないわよ」
「でも、自分に嘘はつけないから」
 舞は『これだけは譲るわけには行かない』という口調で言った。
「嘘って何よぅ」
「……動物さんを呼び捨てには出来ない」
 うっわ、と真琴がうめいた。
「舞って年いくつなの?」
「……今年で19になる」
「もうすぐ大人じゃない……。なんでそんな子供みたいなのよぅ」
「……悪いこととは思わないけど」
 そんな会話をしているうちに、長かった林道が突然開けた。ぱっ、と光の飛沫を散らされたように目の前が明るくなって、それに目が慣れてくると、色彩豊かな広場の姿がまのあたりになった。ススキの穂やカタバミの花、八分咲きのコスモス、それに群生したクローバーが、それぞれの秋の色で地面を覆いつくして、その奥に清らかな静謐を閉じ込めたような、そんな景色だった。
「ここが……ものみの丘、ですか」
「…………」
 舞と佐祐理は、初めての景色を見回していた。真琴と美汐も、夏の盛りを過ぎ、秋の色を見せ始めたこの場所に来るのは初めてだったから、その素朴な美しさには息を呑んでいた。
「きれいな場所ですね。さっきの悲しいお話さえ、優しく包み込んでしまいそうです」
「……闇よりも暗い夜の帳で、喪に伏せる神様が救われた場所。それが人でも、人でなくても、その悲しみを癒せるのは、涙より力強い幸福だけ――」
 舞は、丘の真ん中まで歩み出ていった。幾つものススキの穂が、一斉に強い風でざわめいて、彼女の姿を霞ませた。
 彼女が振り返る。その視線の先に真琴がいる。
「真琴」
「……なに」
「……ここから先はあなたたちの時間。私たちは離れているから――あなたの気持ちを、あなたの親友に話してあげて」
 舞は佐祐理を見た。佐祐理は頷いて「それじゃあ二人っきりで、この素敵な丘を散歩でもしていましょうか?」と、おどけながら舞の腕を取った。
 二人のいなくなった場所で、美汐は真琴を見つめた。真琴はまだ口を開かなかった。風はとても強く、彼女の三つ編みを吹き散らして、どこか手の届かない場所まで飛ばしていくかと思えた。
 いつだったか、美汐はそんな光景を見たことがある気がした。――ああ、それはやはり風の強い日。ひどく晴れた、剣のように硬くて鋭い陽射しが、幼かった子供の身体に、癒えない痕を遺した日だ。
 忘れるはずもない、それは彼女が、美汐の前から消えた日で――。


「本当はね、祐一は今日バイトじゃないの。真琴が今から言おうとしてることをね、こないだ、祐一に言ったんだ。そしたら祐一が『それは美汐と二人で話すべきことだ』って」
 真琴はとつとつと語り始めた。右手は絶え間なく左手の鈴を弄って、かりかりと音を鳴らしていた。
「……真琴さ、人間じゃないんでしょ」
 美汐は答えなかった。今さら否定することでもないと解かっていた。
「それは、とっくに、真琴が消えたときから知ってたんだ。でも、それが嫌なわけじゃないの。もし真琴が人間じゃなかったとしても、やっぱり真琴は真琴で、真琴でない誰かになるわけじゃないと思うから。でも」
 でも、と真琴は続けた。
「真琴が真琴であるために、真琴じゃない誰かに、誰かで在り続ける事を諦めさせたとしたら?」
 ちりん――と強く鈴が鳴った。
 真琴は鈴から手を離して、美汐をまっすぐに見つめていた。
「……あの日から後のことを、おぼろげに覚えているの。真琴が消えて、最初にこの丘で目を覚ましたとき、そこは見渡す限り真っ暗で、ああ、今は夜なのかなって思ったけど、空には星も月も浮かんでなくて……。急に悲しくなって、何もしないで座り込んでたらね、遠くに誰かの気配がしたの。近付いてくと、そこには何だか、懐かしくてあたたかいひとが居て……その人は真琴に、お帰りなさい、って言ったの」
 それは真琴と同じ存在なのだろう、と美汐は思った。
「あたたかいひとは一人じゃなかった。たくさん居たの。みんな優しかったから、寂しくはなかった。……でも、真琴は本当は寂しかった。どうしてだと思う?」
 美汐は答えなかった。真琴は少し恥ずかしそうに目を伏せた。
「だって、そこに祐一は居ないから。美汐も居ないから。名雪も、秋子さんも……誰も居なかったから。寂しくないはずなのに、月のない夜がやってくるのが、いつでも寂しくて仕方なかった。……そんなある日、真琴は言われたの。あなたは人間になってもいいのよ、もう一度、あの世界で暮らしてもいいのよ、って」
「そんなことが可能なのですか?」
 驚いた美汐に、真琴は「だから真琴がここにいるんじゃない」と笑いかけた。
「ある存在が別の存在に生まれ変わるには、すごくたくさんの力が必要なんだって。それは、真琴みたいな子供には扱い切れない力だから、試しても上手く行かないって……最初だけは上手くできても、すぐにあちこちが崩れてきて、最後にはすべての力を無くしてしまうんだって。それは真琴も、一度経験したから知ってる」
 その話から、美汐は自分が小さな勘違いをしていたことに気付いた。真琴たちは、けして命を代償として人間になるわけではない。その姿が一度消えても、それは人の眼に映らないだけで、自分の見えない場所で生き続けている。
 そうして彼女は思う。だとしたら、あの子もまた、この丘で生き続けているのだろうか?
 続いていく真琴の声が、美汐への答えになろうとした。
「その暗い場所にはね、かつて亡骸が在ったの。100と8つの、さっきのお社と同じくらい古い亡骸――ひょっとしたらそれは、ずっと昔にこの場所で埋められた、優しい天使さまたちの躯だったのかもしれない。それを使ったら、何でもお願い事を叶えられるんだって。もちろん、真琴のお願い事も叶えることが出来るのよって、そのひとは言ってた」
 真琴は言葉を切った。そして、最後の言葉を口にした。
「……その亡骸はあと一つしか残ってなかった。でも、人間に成りたいひとはもう一人居た。そのひとを押しのけて、真琴は帰ってきたの。でも……そのひとが最後に、言い残した言葉が忘れられないの。真琴の願いが叶う瞬間、そのひとは間違いなく言ったの。みしお、って」
「――え」
 美汐の表情が、血の引けたように真っ白になった。真琴は悲壮な顔をして彼女に言った。
「ねえ。美汐が真琴の友達になってくれたのは、美汐がそのひとの友達だったからなんだよね? でも、真琴は、そのひとにひどいことをした。そのひとのお願いを駄目にした。美汐のことまで――真琴の大好きな、美汐のことまで傷つけた」
 真琴の身体が震えていた。固く爪の食い込んだ掌は、どれだけの後悔を握りつぶそうとしているのだろう? 頬を雫がつたった。その静かな一筋の流れが、足下のクローバーにぽたぽた落ちるのを、美汐はただ見ていた。
「……真琴。私は、何と言えばいいのか解りません。私は確かにあの子の友達でした。誰より大切だと思っていました。彼女にもう一度逢えるなら、私のすべてを犠牲にしてもいいと思っていました。でも」
 まるで色のない声だ、と美汐は思った。自分の中の誰かが喋っているようだった。
 そして、その幼い少女の名は”心”。
「そのせいで真琴に逢えなくなるなら、私はきっと悲しいです。時間の流れは不可逆で、その河で泳ぎ続ける私たちは、どんな行いもなかったことにできない。――私はもうあの子と話すことは出来ないし、その姿を見ることも、一緒に遊ぶことも出来ないのでしょう」
 真琴が奥歯を軋ませた。その手が血の色で紅くなった。
 だから美汐は笑った。真琴の気持ちが少しでも軽くなるよう願って。
 その頬もまた濡れていることを、自分自身気付いていながら。
「だからって、真琴はそんな顔をしないで下さい。あなたは優しい子だから、自分のしたことをたくさん責めて、いつまでもその事を忘れずに生きていくんでしょう? ……不安なんですよ、その枷の重さに絶え切れなくなったあなたが、もう一度私たちの前から消えてしまうのではないかと」
「真琴はそんなことしない!」
「だったら」
 美汐は真琴の手を取った。ふぇ、と息を呑む真琴が、少しおかしかった。
「過去だけじゃなくて、あなたの大切な人たちを見ていてください。あなたは笑って生きてください。私たちと幸せに生きてください。……私に、あんなにも深い悲しみを、二度も味あわせたりしないでください」
「みしお――」
 真琴は泣きはらした目で美汐を見返した。
 ――ね、まこと。
 あなたは私の、大切な友達です。
 彼女の声が、彼女を赦すための、やわらかな音を鳴らそうとして……

『みしお』

 ビクン、と美汐の身体が揺れた。
「美汐?」真琴が不安げに呟いた。彼女は親友の顔が、驚きなのか、悲しみなのか、それらとも違う感情なのか……それすら判然としない表情をして、自分の肩越しの景色を見ているのだと気が付いた。
 何だろう、と真琴は振り返った。
 その刹那、バン、と音がするほどの力で、彼女は両肩を痛撃された。
「……ぁ、」
 一瞬視界が眩んだ。それはわずかな時間で元に戻った。
 一人の少女が、真琴の肩を、両の掌で包んでいた。
 その髪は真琴と似た、明るい大地の色だった。その頭に添えられたものがあった。長い間どこかに置き去りにされて、本当の自分の色を忘れたような、乾いたシロツメクサの冠だった。
『あえた、ね。また』
 虚ろな彼女の視線は、けして移ろうことなく、ずっと美汐に向いたままだった。
 その唇が動いて、いとおしい想いを織り上げるように、彼女の名前を口にした。
「……ええ、そうですね、また会えました」美汐は真琴が見たままの、判然としない顔でそう答えた。
 ホログラフのような彼女は、ぼやけたり消えたりを繰り返し、はっきりとした姿が定まらなかった。消え入りそうな声も、荒いノイズが混じったような不自然なリバーブを繰り返していた。
 それでもいい、と美汐は思った。会えるはずのないひとにもう一度会えた。それにどんな不満を言えるだろう?
『おおきく、なったんだね』
「……ええ、あなたも。見違えるかと思いました」
『おとなに、なったんだね』
「……私は子供です。変わっていません。私みたいな未熟者には、全然、大人なんて遠いです」
『みしお――』
 にっこりと少女は笑う。
『これからはずっと、いっしょでいよう?』
「……ええ。ずっと一緒です。それが許されるのなら、いつまでも一緒にいたいです。でも」
 胸に置いた両腕を、美汐は噛み締めるようにきつく抱いた。
「でも――あなたはどうして――真琴を傷つけているのです」
 強い風が吹いた。ものみの丘に生きる全ての緑が、ゴスペルを歌うようにざわめいていた。呼吸を荒げる真琴がいる。その両肩に置かれた――傷痕を残すほど強い力で置かれた指が、彼女の血の流れを断絶させていたからだった。
「あ……みしお……っっ!」
 真琴が声を出した途端、指が圧迫を増した。指は少しずつ、這うようにその位置を変えようとしていた。肩から鎖骨の上、そこを越えてさらに、呼吸を司る部分まで。美汐が耐え切れずに懇願した。
「――止めてください。そんなことは止めてください。あなたは暴力を振るう人じゃない。誰かを傷つけることで、自分の気持ちを晴らすような、愚かな人ではなかった筈でしょう」
『どうしてとめるの』
 彼女は不思議そうに言った。
『だって、みしおは』怪訝そうな表情で、
 ごく当たり前に囁かれた言葉に、美汐の心は凍りつく。

『ほかのだれでもない、わたしといっしょにいたかったんでしょ?』

「ッ……………!」
 一陣の風が、黒髪の尾を引いて駆け抜けた。流れるような跳躍、宙で握りこんだ平拳で、舞は少女の腕を叩いた。それは完全な不意打ちになり、動揺する彼女を押しのけて、真琴の身体を無理やり奪い返していた。
「大丈夫ですか!?」
 駆け寄ってくる佐祐理に、舞は朦朧となった真琴を預ける。「……下がっていて」囁いて、真琴たちを庇うように両手を広げ、いつでも駆け出せる体勢をつくって相手を見据えた。
『………』
 霞み続ける少女はまばたきをして、ぼんやりと舞に焦点を合わせた。舞は静かに呟いていた。
「私とよく似た力を持つもの……でも、私の目が間違ってないなら、あなたは消えかけている。あなたの力でなく、あなたの存在そのものが。そんな、もうすぐ壊れそうな身体で、あなたは何をしようというの」
『わたしは、――わたしはただ、』
 少女は低くうめいて、同じ言葉を繰り返して、ひどく病的ないやいやをした。そして、意味を持たない音節の連なりで慟哭しながら、丘の向こうへ消えていった。
「ま……!」
 待って、と美汐が飛び出すころには、すでに彼女の姿はない。


「……あれは、何なの」
 舞にそう尋ねられても、美汐は口を閉ざしていた。本当のことを言えば、彼女が化け物扱いされると思った。力を持たない美汐にも、もう彼女が長くないだろうということはわかっていた。真っ直ぐに自分だけを見つめていた、虚ろな瞳を思い出す。彼女は恐らく、縋るような想いで姿を見せたのだ――一度目、使い切ってしまった力のかわりに、今度こそ命を代償にして。
 それでなくとも、自分は彼女を傷つけてしまった……美汐はそうして自分を責める。この奇跡のような、間違いなく最後であろう再会の時を、そんな形で終わらせるなんて、絶対に許してはいけないと思った。
「あれが、この地の天使さまなのね」
「……!」
 しかし、その努力は簡単に無駄になる。美汐が必死の形相で叫んでいた。
「違いますっ! あの子は普通の子供です。さっきの姿も、真琴を傷つけたことも、何か理由があってのことです。あの子は悪いことはしません。するはずありません。だから……っ」
「わかってる」
 応じた言葉は、ひどく優しい響きを持っていた。美汐がはっとして舞を見た。
 舞も佐祐理を見た。彼女は真琴を抱いたまま、穏やかな笑顔で頷くと、美汐に静かに語りかけた。
「さっきの女の子、天野さんの友達なんですね」
「……そうです。私の大切な友達です。だから」
「なら、悪い子じゃありませんよね」
 あっさりと佐祐理は言い切った。それはあまりに簡単すぎて、逆に美汐が拍子抜けするほどだった。
「何で、って顔してますね」クスクスと佐祐理は笑った。「最初に言ったでしょう? あの子は天野さんのお友達。佐祐理たちも天野さんのお友達。ですからあの子は、佐祐理たちのお友達です。でもって、佐祐理たちのお友達が、悪い子なわけないじゃないですかーっ」
 ねー? と佐祐理が振ると、舞はこくこく頷いていた。
「……きっといい子」
 美汐はしばらく呆気に取られていた。
 だがそれから、急に身体が震えだして、心の底から笑いがこみ上げてきた。
「……まったく、もう! あなたたちはっ……」
 お腹をひくひくさせて、品のない声を上げそうになるのをこらえながら、美汐は思っていた。
 ああ、今日というこの日に、この人たちと出会えてよかった……と。本当に、あっさりと、まったくもって簡単に、自分の努力は無駄になった。
「……だったら、さ」
 意識が戻ったのか、真琴が、佐祐理の支えをはずして立とうとした。全員が彼女の顔を見た。まだ少し息が荒く、疲労した様子は残っていたが、その目は間違いなく真剣だった。
「今すぐ、行こうよ。あの子のところへ」
 佐祐理が「ええ」と笑った。舞は黙ったまま頷いた。美汐は、そのひとことに万感の想いを込めて、「……はい」と力強く頷いた。
「あ、でも、その前に」
 歩き出していた真琴が、美汐の言葉でちょっとこけた。
「なによぅっ! せっかくカッコ良く決まりそうだったのにーっっ」
「あ……ごめんなさい。でも、ちょっと気になることがありますから」
 そう言ってから、美汐は、舞と佐祐理の方を見た。
「……あの、どうしてあなたたちは、そこまで私たちに親身になってくださるんです? 確かにあの時友達とは言いましたけど、それまで、お互いの面識はほぼ皆無だったでしょう。正直なところ、あなたがたが私たちに対して、興味を惹かれるようなところがあるとは、とても思えないのですけど」
 尋ねられた後、佐祐理と舞は顔を見合わせた。そしてお互いに苦笑いのような顔をした。
「それもやっぱり、簡単なことなんですけど、ね」
 佐祐理の言葉は、どことなくそれまでより歯切れが悪い気がした。そして、最初は舞が、次は佐祐理が、その『理由』を話してくれた。
「……去年の冬、放課後の学校に、学生じゃない女の子が毎日来ていた。彼女はいつも、ひとりの男子生徒が、校舎から出てくるのを待っていた。その人は私が、生まれて初めて好きになった男の子で……私は、あの人に想われた彼女のことを羨ましく思いながら……いつからなのか、彼女はどんな人なのかということが、ひどく気になりはじめていた」
「今年の春、学校の校庭で、男の子と女の子が話をしてました。二人ともどこか表情に陰を負って、今にもこの世から消えてしまいそうでした。……でも、二人が一緒にいるうちに、その陰は少しずつ消えていきました。佐祐理は、佐祐理がちょっぴり好きだったその男の子を救ってあげた、彼女と友達になりたかったのに、声を掛ける勇気がなくて、結局ロクに会話もできずに卒業しちゃいました」
「――――」
 美汐も真琴も、掛けられる言葉が見つからなくて、黙って話を聞くだけだった。
「……とまあ、それだけのこと。同じ男の子を好きになった、私たち二人の、他愛もない失恋話です」
 ちゃんちゃん、と佐祐理は笑った。そして一際元気な声で言った。
「さて、昔話はおしまいです。大切な友達のために、私たちは出来ることをやりましょう?」


 ものみの丘の端、高みから隣町が見渡せるところに、彼女はひとりで座っていた。
 振り返った彼女は、慌てた顔をして逃げ出そうとした。
「……お願い。話を聞いてください」
 しかし、美汐が静かに言うと、渋々そこにとどまってくれた。
『……みしおは、』
 最初に喋り始めたのは、彼女の方だった。
『みしおは、かわってしまったの? とてもたのしかったあのころを、ぜんぶわすれてしまったの? あのときからわたしは、ずうっとまっていた。このおかで、かなしいきもちをいっぱいせおって、たくさんのきせつをみおくってきた。それでもわたしは、まげなかったよ。みしおへのきもちをまげなかったよ。ほかのひとなんて、すきにはならない。いつだってわたしは、みしおだけみてる』
「……純粋なんですね」
 佐祐理が呟いた。彼女の瞳は、少女を通り越して、どこか遠い光景を見ているような気がした。空間的な意味ではなく、けして視覚では捕らえることの出来ない場所のようだった。
 例えば、それは過去。
「あなたは、天野さんの他に、好きなひとはいないんですか?」
『……いない』
「それを辛いと思ったことは?」
『……そんなきもち』
 ぎっ、と彼女は真琴を睨んだ。少しだけ怯んだ真琴を、その視線から庇うように、舞が少女の目の前に立った。
 今度は少女が怯える番だった。そんな彼女に、舞はつとめて優しく語りかけた。
「……さっきはごめんなさい。でも、あなたが嫌いでしたわけじゃないから」
『……』
「あなたは知らなくちゃいけない。例えどんな理由があっても、あなたの刃を他人に向けてはいけない。……そんなことをしても、ただ美汐が悲しむだけだと」
『でも、みしおはわたしと、』
「あなたが好きだから、悲しいと思うの」
 口調こそ静かだったけれど、少女の言い分を、けして舞は認めなかった。少女の身体が、わからない、とかたかた震えた。
『じゃあ……わたしはいったい、どうすればいいの』
「……素直に、なればいいと思うよ」
 舞の陰から、おずおずと真琴が進み出てきた。一瞬にして少女の雰囲気が逆立つ、けれど、真琴はもう怯まなかった。
「真琴のしたこと、取り返しがつかないよね。……怒ってるよね。あなたは、美汐のことが大好きだから、どうしても美汐と一緒にいたかったんだよね。――ごめんなさい。真琴には、謝ることしか出来ない。でも、どれだけ謝っても、あなたの気持ちは晴れないよね」
『――――――』
 威嚇の唸りが、少女の喉から漏れはじめた。咄嗟に庇おうとした舞を「いいの」と押しのけて、真琴はまっすぐに少女を見つめた。
「いいよ、傷つけても」
 真琴が言った。
「それが真琴のしたことだから。あなたの気持ちが安らぐなら、真琴はそのくらい我慢する。……でも、約束して。美汐のことだけは、絶対にうらまないでね。美汐はあなたが好きだから。悪いのは真琴だから。美汐と一緒にいられる時間を、あなたから奪ってしまったのは、美汐じゃなくて真琴なんだから」
 少女が真琴の首を掴んだ。真琴が目を閉じた。ぎり、と歯を噛み締めた力より強く、少女は手のひらを引き絞ろうとした。美汐を奪った彼女から、その報復に、彼女のすべてを奪ってやろうとして、
『――え』
 その筈なのに、力がまるで入らないことに、少女は愕然としていた。
「……やっぱり、そうなんですね」
 美汐が言った。それは、美汐の声だった。
 少女は吸い寄せられるように美汐を見た。初めて出会った日から、理不尽な別離が訪れた日まで、いつだってそばにいることのできた、その時と同じ、風よりも穏やかな音律だった。
「あなたは優しいから、他人を傷つけることが出来ないんです。本当に……私と一緒に、遊んだり、喋ったり、花摘みをしていたあの頃と、あなたは何にも変わっていません」
『……でも、わたしはさっき……このひとを』
 少女が悲しそうな顔をしていた。自分の両手を見つめながら、彼女はガタガタと震えていた。
「……私にはわかりますよ。あなたは優しいです。だって、あなたが優しいひとでなかったら、どうして今まで戻ってこなかったんです?」
 それは、最初に真琴の話を聞いたときから、何となく美汐が思っていたことだった。
「あなたがあちらに行ってしまった時にも、天使さまの亡骸は、そこに遺されていたのでしょう? 真琴のことがあるよりも先に、あなたがそれを使わなかったことが、はっきりした証拠ですよ。……あなたは気にしていたんですよね。いつかあなた以外の誰かが、本当に大切な願いを叶えようとしたとき、あなたのせいでそれが駄目になってしまうのが、嫌だって思ったんでしょう」
『………っ』
 少女の顔が歪んだ。明らかな泣き顔になった。我慢するような嗚咽は、すぐに耐え切れなくなり、彼女は美汐の胸に飛び込んだ。シロツメクサの冠がふわりと浮き上がって、静かに草の上に落ちていた。
『……あいたかった。ずうっとあいにいきたかった! それで、みしおとあそびたかった。みしおとはなつみしたかった。みしおにはなかんむり、つくってあげたかった……』
「それが、あなたの願い……なんですね」
 美汐の服を、涙でぐしゃぐしゃにしながら、少女は何度も頷いた。
 微笑んだ美汐は、まるで母親のように、彼女の頭を撫でてあげた。
「叶えてあげますよ。そんな簡単な願いなら、いくらだって」
 でもね、と美汐は、その言葉に付け加えた。
「今度は、二人だけじゃなくて、五人でね」
 そして、ね? と美汐は、真琴たちに笑いかけていた。


 人見知りの彼女も、たくさんの笑顔に囲まれて、少しずつ表情をほぐしていった。
 最初にかくれんぼをした。彼女は長いことものみの丘に生きていたから、丘のことは何でも知っていた。ジャンケンに負けて鬼になっても、あっという間に皆を見つけてしまうから、鬼はすぐに交代した。鬼になったとき、すごい形相で「悪い子はいねがーっっ」と叫びまわっていた真琴は、きっと何かを勘違いしていた。
 木登りをした。舞が最初に昇って、幹のてっぺんから顔を出した。「……たかいたかーい」と、やっぱり何か勘違いな言葉を口にした舞は、下を見た瞬間に目がくらくらして、危うく落下しそうになっていた。
 分量のせいで、結構余ってしまっていたお弁当を食べた。基本的に彼女は何でも食べたが、油揚げにだけは決して手を出さなかった。それは昔美汐が「狐なら油揚げを食べるでしょう」という思い込みのせいで、嫌がる彼女に無理やり油揚げを食わせたことが、ひどいトラウマになっていたせいだった。
「……ごめんなさい」
 心底済まなさそうに謝る美汐に、そんな過去など忘れ去っていた彼女が、きょとんとした顔つきで小首をかしげた。
 太陽が少しずつ傾くたびに、少女のノイズは増えていった。トランプ、しりとり、にらめっこ……その事実から目を逸らすように、5人は色々な遊びに明け暮れている。


「……おはなつみ」
 ちょんちょん、と舞が、可憐なヤナギランをつついていた。
「あははーっ、見て見て舞、四葉のクローバーだよーっ」
『こっちにもあった』
 佐祐理と少女が、お互いのクローバーを見せ合った。少女の方が少し大きい。
「……負けました」
『かちましたー』
 その言葉で、全員がくすっと噴き出していた。
「ねーねー、ちょっとこっちきて」
 ちょいちょいと真琴が少女を呼んだ。少女は躊躇わずに彼女に近付いた。
 二人はしばらくゴソゴソした後、「かんせーいっ」と叫んで、手の中のものを美汐たちに見せた。
「わあっ、素敵ですねーっ」
「きれい……」
 佐祐理と舞が歓声を上げた。二人が作っていたのは、コスモスの花冠だった。白とピンク色が調和して、とても鮮やかな色をしたそれを、二人はそれぞれにかぶせてあげた。
「はい、舞にもあげるね」
「……ありがとう」
 舞は無表情だったが、嬉しそうだった。
『みしお、ぷれぜんと』
 少女も花冠を差し出した。美汐はにっこり笑って背中を屈めた。そして少女は、目を閉じる優しいお姫様の頭に、気高さの証明を載せてあげた。
『みんな、おそろい』
 少女が美汐たちを指差して、嬉しそうに笑っていた。彼女の頭には鮮やかな色彩はなかった。その冠はシロツメクサ。秋には咲くことができず、やがて来る春を待ち望みながら、土の近くでひっそりと、深い眠りに落ち行く花だった。
「あなたは、つけないの?」
『……わたしのは、これだから』
 それにね、と彼女は続けて。
『もう、きえてしまうわたしは、おそろいにはなれない』
 ……小さく呟いた、その言葉のあと、彼女はにっこり笑って。


 気が付けば、彼女の姿は、この丘のどこにもなかった。
 うすあかい黄昏の中で、風が吹いていた。この世の全ての悲しみを、まとめて全部なぎ払っていくような、強い風だった。
「……行って、しまいましたね」
 佐祐理が寂しそうに言った。舞が俯いて、少しだけ拳を握り締めていた。
「……幸せだったかな、あの子」
 真琴が、願うような瞳で美汐を見つめた。美汐は彼女を見返した。そして、「ええ、きっと」と微笑んだ。
「……彼女の最後の笑顔、私でも見たことがなかったんです。……本当に嬉しそうでした。だからきっと、彼女は……幸せだったはずです」
 呟いてから美汐は、空を見上げる。彼女がたった今昇っていった、とても高い、空。
 不意に思い出したことがあった。美汐が彼女に渡した、シロツメクサの花冠のこと。
 その花に添えられた、花言葉のことを。


「――いつの日か、皆で、また会いましょうねっ」
 その暮れかけた群青に、美汐は精一杯の笑顔と共に、大きな声で叫んでいた。
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