そっと目を開けたら、空から降る雪に混ざって、少女がゆらゆらとゆっくり降ってくるのが見えた。


 それでも起動したばかりの頭は努めて冷静に、ここに到達するにはまだ時間がかかりそうだね、と語りかける。
 確かに。
 首も疲れそうだ。
 一度、少女から視線を外し、自分の足場を支えるこの場所の形を確かめることにした。まず、最初に思ったことは、まるで殺風景な庭みたいだな、ということだった。雪が積もっているから、余計にそう思うのかもしれない。地面には人差し指が埋まってしまう程度の雪が積もっていた。恐らくこの下はコンクリートなのだと思う。その場で前屈して、指を埋め、感触を確かめてみる。指先に土が付くことはなかったが、正直、よくわからなかった。
 姿勢を戻し、試しに記憶の中からこの場所に該当しうる景色を思い描いてみた。候補の一番上に挙げられたのは学校の屋上からの景色で、二番目は病院の屋上のものだった。ただ、この場所を一般的に屋上と呼ばれるものから見える風景として受け入れるには少々、首を傾げてしまうような部分が多い。例えば、普通なら嫌でも視界に入ってくる、他の建造物や高い木などがまったく見受けられない、ここが何かの建物の屋上として、その建物の中へ戻る為の扉が見あたらない、つまり、出口がない、等々。
 ふぅ、と溜め息の後、回転。つまり、その場で左足を軸に、三百六十度、身体ごとくるんと回って、辺りを見渡してみたが、俺の他に人が居る気配もない。
 仕方なく、先程からちらちらと視界に入ってきていた、恐らく落下防止の為に設置されたと思われる鉄柵を目指した。距離は俺の足で十歩位か。歩数を意識しながらその場所まで向かい、八を数えた所で僅かに錆びの浮いたそれに手を掛けた。その勢いで怖々と覗き込むように下を眺める。足が竦んだ。そこには、自分の常識と照らし合わせるなら存在するはずの、校庭や中庭、アスファルトの道路や駐車場などに代表されるような、いわゆる地上というものが見えなかった。
 心を患ってしまった誰かの手で、低く高い所まで無邪気に持ち上げられた箱庭。
 或いは、小さな、小さな屋上の惑星。
 白い靄が漂う、地上ではないどこかの底を眺めながら、そんな思いが一層強いものになった。それなら空の向こう側で神様である誰かが、雪に似せたパウダー状の何かをふるいにかけているんじゃないかと再度、空を見上げた。
 ……居ない。
 真っ先に口から出た言葉がそれだった。いつの間にか、先程まで非常に遅い速度で落下を続けていた少女を完全に見失っていた。僅か覗いていた太陽も雲に隠れて居なくなっていた。
 その場で、焦る気持ちに少し間を置いてから、……まあ、いいか、と思う自分にも気付いた。たぶん、夢や、見間違いや幻なんだ。あの少女とか、この雪とか、この惑星や、ひょっとしたら、俺も。そこまで考えた時、背中の向こう側でどさっ、と重い音がした。びっくりして、反射的に後を振り返った。自分の目視出来ることを事実と考えるなら、そこに、見失ったはずの少女が居た。
 少女までの距離は四歩。年齢は……ぱっと見た雰囲気で言うなら俺と同い年位か、身体が小さいからそれよりも下か。四歩に掛かる時間の間にそんなことを考えた。その間も彼女は眠るように動かない。他に敢えて特徴を挙げるとしたら、彼女は裸足で、白い肌と薄い白のワンピースで、音もなく雪の白の中へ溶けこもうとしているみたいだった。淡い茶色の髪だけが、相応しくないと言わんばかりにゆらゆらと浮き上がって見える。覗き込むようにしゃがんで、その乱れた髪を梳いてみる。さらさらとした感触が伝わって、ようやく、幻なんかじゃなかった、と思うまでに至った。
 ポツリ、と。
 何の前触れもなく首筋に滴が落ちてきて、雪が雨に変わったのか、と思った。気になって首筋を手で拭う。視界に入った人差し指と中指が、べたっと赤く汚れていた。驚いて、仰天の字の如く、天を仰いだ。
 血の雨だ。何故か確信を持って、そう思った。他に形容する言葉を知らなかった。赤い血の雨。この世界の誰しもに平等に降り注ぐであろうその雫の感触は、正にそうだと形容しても可笑しくないものだった。ふっと気付いて向けた視線の先、少女の服の裾辺りが赤く滲んでいた。雨宿りの出来そうな場所もないことは知っていた。結果的に、俺はそのまま力無く、その場所に立ち尽くしていた。
 長い間、忘れていたのかもしれない。
 俺は傘になりたかったんだ。
 薄いビニールの傘だっていい。君に降り注ぐ雨とか、現実とか、思惑や言葉なんかを遮る、君だけの傘になりたかったんだ。
 雪の白で塗りたくられた世界が、血の赤に、染まってゆく。
 どこかで見たことのある光景だ、と頭の片隅で思う。
 候補は二つ、ある。一つは、子供の頃、蒸し暑い夏の夜にお祭りの喧騒の中で食べた、いちごのシロップがかかった、甘い欠氷。

 もう、一つは――。
















保冷車の奥の冷蔵庫の中の製氷室の氷菓子と、
貯水槽の底の金魚鉢の中の硝子瓶の炭酸水に、
君の声が聞こえない。














 
 二人だけしか居ない資料室。
 祐一は長机に片肘を付いて、窓から誰も居ないグラウンドを眺めていた。そうしていたら、何故か前に居た学校での、光化学スモッグ警報が発令された日の出来事がぷかりと浮かんできた。出来事というと少し語弊があるかもしれない。何故なら、祐一にとって、そのことに纏わる印象深い事件や特別な思い出があった訳ではないからだ。精々、五限の体育がサッカーの予定だったが、それがスモッグ警報の所為で中止になり、体育館でのバスケットに変更になった、という事実位だろう。だから、それは出来事というより感覚という言葉に言い換えた方がいいのかもしれない。その日、祐一に中に芽生えたもの、それは目に映るものの曖昧さと、目に映らないものの確かさへの恐怖だった。それでも。瞳に映し出された光景が、自らの認識で形作られた捏造だったとしても。
 目に見えるものは、悲しいくらい、確かだ。
 そういえば、光化学スモッグってなんなのだろう。不意に祐一は思う。目が痛くなるから、外へ出ない方がいいとか、そういう知識はあったが、それがどういうもので、どうして起こるのか、肝心なピースが抜け落ちている。気が付いたら自分の理性との相談も忘れて、祐一はその疑問を口に出してしまっていた。
「……なあ、光化学スモッグってなんなんだ?」
「知らねぇよ! っていうか、なんでお前が呑気に座ってぼーっとしてるのに、オレが一人で片付けてるんだ! 相沢、お前も……いや、本来なら、お・ま・え・が! 率先して片付けるべきだろ!」
 どうやら、祐一は触れてはいけない逆鱗というものに触れてしまったらしい。
「ひどいわ、北川君っ! あたし一人に罪を擦り付けるのねっ!」
「って声低っ! せめて裏声使えって! でもそれ以前にそのボケ止めてくれ!」
「テンション高いなあ……お前……」
「無理にでも上げていかないとやってられないだろ……」
 資料室の床に拡がった藁半紙の海を横目で見やって、祐一とその場に居たもう一人の生徒、北川潤は揃って溜め息を吐いた。
「大体、相沢。お前がなあ……」
「いい……皆まで言わなくてもいい……思い出したくない……」
 そう言いつつ、先程まで光化学スモッグってなんなんだと現実逃避していた祐一も、流石にそろそろ数分前の悲劇と真剣に向き合わなければと考え直していた。


 //

 
 そもそもの原因は四限目は世界史の講義だったからかもしれないし、もしかしたら、祐一がこの世に生まれてきたからかもしれないが、そこまで原因を遡っても仕方がない。始めに、結論として、ここでは自業自得という言葉を祐一達には惜しみなく進呈したいと思うが、前に挙げた四限目が世界史の講義だった、という事実は彼らにとって、資料室の悲劇(後にそう呼ばれたかどうかは知らないが)を起こした要因の一つだっただろう。その講義中、教室内は薄暗かった。縁の無い眼鏡を掛けた教師がプロジェクターを使って、どこか遠くの国の一部分を抉り取った黒茶色の写真を映し出していたからだ。薄暗い部屋は眠気と安心感を生徒達に与える。しかし、教師は理解し易い授業を目指していたと思うが、悲観的に考えなかったとしてもとも、教室の後方、前後に並んた席に突っ伏して寝息を立てていた二人の生徒にその教師の熱意は通じていなかったに違いない。チャイムが鳴り響く八分前、教師はキリがいいからと授業終了の旨を生徒達に告げた後、分かり合えないままの二人の生徒に、講義中使用したプロジェクターとダンボールに入った資料とプリントを資料室に返しておくように、と命じた。
 廊下は静かだった。他の教室はまだ授業中かと、無限に奥へ続いていくような廊下を濁った目に映しながら、霧の晴れない祐一の頭が勝手にそう思っていた。
「いいか、相沢……これからはもし授業中にオレが本格的に睡眠状態に入っているようだと思ったら、決して寝ないでくれ……」
 欠伸を噛み殺しながら、モチベーションの上がらない生徒Bが、隣を歩くモチベーションの上がらない生徒Aが居る空間にそう投げやる。
「なんでだよ……」
「後の席のオレが目立つじゃないか……」
「なにおう……北川が率先して鼾を立てて、教師の目を引く手筈だったじゃないか!」
「オレがいつそんな素敵で熱い約束を交わしたんだ! つか、もう、ふざけんな!」
「俺の台詞だ! いいか、もう一度言う! 断じて俺の台詞だ!」
 悪態の限りを尽くしながら、資料室の扉を開けて入っていく駄目人間が二人。一人は廊下をそうして乗り越えてきたように、教室の奥にタイヤの付いた台を転がして首尾良くプロジェクターを置き、もう一人は部屋の扉から見て左側に設置されていた棚の一番上に丁度良く空いていた隙間にダンボールの箱を乱雑に押し込んだ。
「よーし、飯だ、飯だ、っと」
 どさどさどさどさ。
 祐一が棚に背中を向けた瞬間、破滅、と形容しても決して遜色無い音がしたかと思うと局地的な雪崩が発生した。それによる被害者の報告は今の所ありません、と祐一の脳内に常駐している局アナが早口で捲し立てていた。と、ここで二人の駄目人間達は違った個性を見せる。一人は無言でしゃがみ込み、白い海となってしまった床の、海の部分を拾い始め、一人は無言で近くにあった椅子に座り、長机に片肘を付くと遠い目をして外を眺め始めた。ここで、一端の締めくくりとして、先に出していた結論を再度、記しておく。自業自得だったのだ。


 //


「……俺が悪かった……しかも、多分……全面的に……」
 悲劇と真っ向に対峙し、見届けた祐一の顔に成長の跡が見えたかもしれない。やつれたようにも、見えなくはないけれども。
「分かれば宜しい。分かったら早い所、片付けようぜ……」
 祐一は片手を挙げて、その言葉に応じ、北川が作業している側とは逆の方向からプリントをダンボールに戻していく空しい作業に入った。
「……うし、おしまい、っと。さ、食堂でも行こうぜー」
 声だけが、祐一の頭の斜め上、左耳から侵入してくる。北川は自分の分担を言葉通りさっさと終わらせて、長机に腰を掛けていた。
「ああ……悪い、俺、先約があるから」
 とんとんと床の上で最後のプリントを揃えながら、祐一は生返事で答える。くそう、今、何時何分何秒だ? 佐祐理さんのお弁当が待っているっていうのに……。今、祐一の思考はその方向に全力で傾いていた。手の空いた北川は左手を開いたり、閉じたりしながら、昨日、偶然見た、ゲームセンターから出てくる祐一と、リボンをした髪の長い、顔の整った少女の姿を思い浮かべていた。
「そういえばさぁ……相沢の彼女って、あの先輩二人のどっちなんだー?」
 北川の口から漏れたその言葉は、バナナの皮の二倍以上の滑らかさを持って、再びダンボールを棚に収納しようとしていた祐一の足下を掬った。
 どさどさどさどさ。
「……」
 きんこんかんこん……と。沈黙の中、チャイムが盛大に鳴り響いた。もうすぐ校舎内に喧騒が戻ってくることだろう。
「お前……」
 じっとりとした視線を容疑者に向ける被害(妄想の方かもしれない)者。
「オレが悪いのか……オレが悪いのか!?」
 無言のまま、仕方なく、再び無駄な時間を無駄な作業に使うお笑い芸人コンビ見習い。廊下から聞こえだした奇声や笑い声が苛立ちよりも脱力感を助長していた。だらだらと作業を続けながら、祐一は自分の背中から北川の背中へ問いかける。
「……やっぱりさあ、俺らって周りの奴にはそういう風に見られてる……の、か……?」
「いや、それはそうだろ……つか、天然で聞いてるのか、それ……」
 この時、二人の会話は練習としてのキャッチボールではなくて、試合としてのテニスだったかもしれない。思いの外、素早いリターンが返って来て、いや、その、まあー……と、祐一はラケットに当ててボールを返しただけの言葉を駆使して返事を濁した。一際深くなった溜め息を北川の横顔が吐いた。壁の掛け時計の横に設置されたスピーカーが聞いたこともない名前の生徒を呼びだしている。
「……まあ、仕方ないって。下世話な詮索は羨望の裏返しだから」
 北川が最後のプリントの束をダンボールに詰め、そう言った。祐一はその箱を、今度は何があっても落とさない、という気概を溢れさせながら、慎重に抱え上げて、慎重に棚に戻した。北川の何か言いたそうな視線に、祐一は気付いていた。気付いていて、気付いていない振りをしていた。
 いくか。おう。どちらからともなく合図を出して、資料室を出た二人の目を、光が射した。北川だって、本当は気付いていた。気付かない振りをしていた祐一に。ぼーっと窓の外を眺めていた祐一の、その表情に。
「ま、話くらいなら、いつでも聞くよ。特にオレは色恋沙汰に関しては今の所、無敵を誇っているからな!」
「まだ、肝心の敵が現れてないってことか」
「……そうとも言うな。つーかもう五月蠅いよマジで……」
 どうしてだか妙に可笑しくなって、二人してへらへらと笑ってしまった。もう廊下に出ていたから、すれ違う生徒から奇異の目で見られたかもしれない。けれど、今はそれでも一向に構わなかった。どうでもいい訳じゃない。二人とも、ただ、構わないだけだ。
「お前さー……ひょっとして実はいい奴だったのか?」
「いや、普通だろ」
 じゃあなーと、力無く、ひらひらと手を振り合いながら、二人はそのまま左右の方角へ別れた。


 //


 急いでいる時に限って食堂は嫌に混んでいる。
 祐一には必死にパンを掴むと、それを精算して、人混みの中を命辛々逃げ出した。実はこの少し前に祐一と北川は食堂の入り口でバッタリ会ってしまっていて、
『相沢、食堂行くなら一緒に行けばよかったじゃん……』
『いや……実は、俺さあ、食堂に行くことすっかり忘れてた……』
『格好付けてあんな別れ方するからだ……』
『ホント、だっさ……俺ら、格好付けちゃ駄目だな……』
 などというやりとりがあったのだが、ともかく、パンをゲットした祐一は一段抜かしで階段を駆け上がって、屋上手前の踊り場を目指した。


 //


「ゴ、ゴール………」
 着いた時には祐一はすっかりヘロヘロになっていた。
「……祐一、遅い」
 死者に鞭を打つように、舞の容赦ない言葉が浴びせられる。
「いや、これでも記録的に早かったんだぞ……」
「祐一さん、あったかい紅茶でよかったら……」
 いや、流石にそれは良くないだろう、佐祐理さん……。声に出さずに祐一は思った。
「でも、確かに今日は遅かったですよねぇ。何かあったんですか?」
「いや、まあ、雪崩が二回ほど、ね」
「ふぇ……?」
 佐祐理はよく分かりませんとクエスチョンマーク付きの表情を浮かべ、舞はそんなことは気にせず、もぐもぐと卵焼きを咀嚼していた。とにかく、五限まで時間があまりない。祐一はそそくさとパンの袋を開けて、食べ始めた。勢いで掴んだ、新発売と銘打たれているウイダーインゼリーパン(キャッチフレーズは、驚異のジャスト二時間半キープ!)は正直言ってガッカリを上回って、後悔するくらいに美味しくなかった。
「佐祐理のお弁当も食べて下さいね」
 佐祐理がそう言って、弁当箱を祐一の方へ引き寄せた。ありがとう、と祐一は言ったつもりだったが、佐祐理には、もふもふもふふ! としか聞こえなかったに違いない。見かねた佐祐理がコップに紅茶を注いで、祐一に手渡した。祐一は、今度はボディーランゲージで感謝の意を表した。
「どういたしましてー」
 どうやら通じているらしい。紅茶を飲みながら、祐一は舞の方を見た。舞はコロッケの横に敷いてあったレタスをしゃくしゃくと食べていた。
「なんか食べ方がウサギみたいだな……」
 祐一は思ったことをそのまま口に出した。
「……ウサギさん」
「ああ、ウサギさんだ」
「……うさうさ」
「いや、ウサギの鳴き声はそうじゃないだろう……」
 いつもと変わらないそんなやりとりをしながら、祐一はさくさくと食事を済ませて、佐祐理に向かって手を合わせた。
「ごちそうさん」
「お粗末様でした」
「いやいや、全然お粗末なんてもんじゃないって」
 佐祐理がそんなことないですよー、と笑いながら答える。そんな中でも手はしっかりと弁当箱や箸などを片付けていた。その手際の良さに祐一はいつもながら関心していた。
「……なあ、舞、今日も行くのか?」
 佐祐理の方を伺いながら(別に悪いことをしている訳ではないと思うのだが……一応)小さな声で舞に問いかけた。質問の仕方が曖昧に感じるかもしれないが、勿論、夜の校舎に行くのか? ということだ。こくんと舞は縦に頷いた。
「了解」
 祐一はそれだけ確認すると、悪いけど、先に行くな、と二人に声を掛けた。五限の数学の教師は時間に厳しいからだ。手を挙げてから、祐一は階段を降りていった。


 //


 最近、少女の夢を、繰り返し見る。
 確か昨日は深い森の奥で、一昨日は十六階で停止したエレベーターの中だ。場所は毎回違うのだが、白い服を着た少女だけは必ず出てくる。その夢から覚めた朝は何故かいつも悲しい気持ちになった。
 そして、その少女の顔がいつも、思い出せない。

 
 //


 放課後。
 昨日と比べるなら三分程長いホームルームが終わった。
 祐一は筆記用具と数学の教科書とノートだけを鞄に詰め込んで、席を立った。隣の席では名雪がじゃあねと手を振っている。
「今日も部活か」
「うん。今日はどこかに寄っていくの?」
「いや、今日は真っ直ぐ帰るわ」
 もう既にお決まりと言ってしまっても差し支えないような会話。その最中、何か用事でもあるのか、北川がじゃあなーと小走りで教室を出ていく。祐一がおうと手を挙げて送り出した。香里も足早にまた明日と祐一と名雪に挨拶をした後、教室を出た。
「じゃ、俺も帰るわ」
「うん、また今日ね〜」
「はは、俺ら挨拶しても意味ないな」
 そう言いながら、祐一も教室を出た。それから玄関に向かう間、二人のクラスメートに出逢って、別れの挨拶をした。さよならだけが人生、か。誰の言葉だったか、頭の中、そんな言葉が浮かんで消えた。いつもと同じように、また物悲しく日が暮れだして、一日が何事もなく終わっていくのだと、そう思っていた。しかし、出口の近く、安心感の隙間を縫うように、落とし穴が用意周到に準備されていることもある。
 玄関に辿り着いた祐一が下駄箱の蓋を開けると、靴の上、ちょこんと正座しているみたいに、手紙が乗っていた。


 //


 封筒の裏側を見たが、差出人の名前が無い。
 幸いにも、周りに人が居る気配も無い。ウサギのシールを剥がして、二つ折りにされていたメモ用紙のような便箋を取り出してみる。左下には、口がバツ印にデフォルメされたウサギが『ブッコロス』と言っている。可愛い割に、なかなかどうして物騒でパンクだ。『ディア、相沢先輩』から始まるその手紙は常套句で無難に構成されたラブレターで、明日の放課後、中庭で待っているということ、そこで、手紙の返事を聞かせて欲しいということが記してあった。最後まで名前が書かれていなかった。おっちょこちょいなのかなんなのか。手紙をしまって、そこまで考える頃には、祐一の足は自動しているかのように校門を目指して真っ直ぐ歩いていた。寒さで身を縮めることでさえ、どこかに忘れてしまったようだった。ふと、思考の雫で滲んでぼやけていた視界に見知った後姿が映りこんだ。あれ、と思わず声に出てしまったかもしれない。祐一はその背中へ走り寄って、脳内データベースからその後姿に該当した名前を呼ぶ。
「佐祐理さん」
「あれ……祐一さん、今お帰りですか?」
「ああ。佐祐理さん、今日は一人?」
「はい。舞が先に帰ってていい、と言ったので」
「ふうん」
 祐一が佐祐理さんの横に並ぶ。二人の速度が少し緩んだ。
「昨日は付き合って貰って、ありがとな」
「いえ、佐祐理の方こそ……デートのお誘いなんて始めてのことでしたから」
 黒いランドセルを背負った二人の少年がゆっくりを歩いていた二人を駆け足で追い抜いていった。
「佐祐理さん、ラブレターって書いたことある?」
 気持ちの良い沈黙が訪れる前に、祐一はそう切り出した。
「はい? 突然、どうしたんですか?」
「いや、なんとなく。聞きたくなった」
「残念ながら、ないですねー」
「じゃあさ、貰ったことは? ラブレター」
「あはは。実は……あったりします」
「いや、実は……って言うほど意外じゃないから」
「そんなことありませんよー」
 口には出さないが、それは謙遜だろうと祐一は思う。
「それって……」
 断ったんだよね、と続けようと思った祐一の声が出てこない。
「ごめんなさい、って断りました」
 だが、佐祐理には祐一の心の声が聞こえていたのか、少し困ったような顔で、そう答えた。
「そっか」
 雪を踏み締める音が聞こえる。右側にある家の壁に上って、猫がにゃあと鳴いた。居場所をなくしたように、祐一が赤くなった手を擦りあわせていた。
「あ、ひょっとして」
 先程まで、上の方を向いて少し考えるような仕草をしていた佐祐理の表情が花が咲いたように明るくなった。
「祐一さん、ラブレター、貰ったんじゃないですか?」
「はは、正解」
『佐祐理さんが自分のことをなんて言おうが、俺は佐祐理さん、大好きだからな』
『あはは…佐祐理も祐一さんのこと、大好きですよ』
 昨日、商店街で交わした言葉達が祐一の中でリフレインした。祐一は多分、佐祐理さんからの言葉を待っていた。けれど、佐祐理はなにも言おうとしていなかったように見えた。別れ道は当たり前みたいに訪れて、二人はじゃあまた明日と挨拶を交わして別れた。


 //


 暖房の動く音だけが、聞こえる。
 祐一は自室の机に座って、手紙を読み返していた。いや、正確に言うなら、手紙を読み返したのは一回で、それ以降の時間は考え事に消費された。昨日、俺が言った好きという言葉も、俺が舞に抱く好きという感情も、佐祐理さんの言う好きも、手紙に書いてある好きも、多分、皆、違うものなんだろう。伸びをして確認した時計の示した時間に驚いた。
『……今日も、行く』
 やばい、完っ全に遅刻だ。祐一はコートを掴むと、慌てて一階に降りる。
「わっ」
 階段を降りた所で名雪と衝突事故を起こしそうになる。
「名雪、悪い! 出かけてくるから!」
 祐一はそう言うと名雪の返事も聞かずに外へ飛び出した。


 //


 避けられないと思った。

 舞はとっさに飛んで来た何かを剣の腹で受け止めた。が、その衝撃は凄まじく、舞は廊下の端っこまで飛ばされ、奥の壁にぶつかって、止まった。息が出来ない。そのまま、横になるよう床に崩れた。薄く開けた目にハッキリと姿が見える。それは、魔物なんかじゃなくて、ウサギの耳を付けた少女だった。わかってたんだ、そんなこと。何年も前から。
舞は残った力を振り絞って、上半身だけを何とか起こして、もういいよ、と心の中で呟く。
『……よくなんてないよ。本当にいいの? 私達を受け入れてくれる人がいなくても』
『居る』
『居ない』
『居るの』
『居ないじゃないっ。……あの子は、ここに居ないじゃない』
『……もしそれが私の勘違いだったとしても、私があなたを愛してあげる。だって、あなたは私だから。私の、勘違いだったとしても、一人でも、大丈夫。私、強くなりたい。強く、なりたいから。……帰って来て。ね?』
 遠くから呼ぶ声が聞こえた。あたしの名前を、私の名前を、舞という、名前を。
 『もう、帰って来たの。あの子は、帰ってきたの。それが、ただの偶然だったとしても、またこの町に帰って来て、私を、見つけてくれたから。だから、もう、いいの』
『本当に、もういいの?』
『……うん。もう一人じゃないから。一人だってことも知っているから。一人でも、一人じゃないから。一人でも、生きていくから』
 少女が舞に駆け寄る。舞が少女を抱くと、次の瞬間、少女は消えた。いや、舞に、還った。中空に光が瞬いて、綺麗だった。
 ただいま。
 おかえり。

「舞っ……!」
 大丈夫か、祐一が駆け寄って、舞の両肩を掴んで、刺激を与えるように揺らした。だが、そんな祐一の心配を余所に、舞は微笑んでいた。

 祐一くん、おかえりなさい。



 //


 人には体重計では測れない重さがある。そこに個人差あって、順位が付けられているとしても、祐一の背中は今、確かに、重い。

「……降ろして」
「断る。おまえ、まだふらふらしてるじゃん」
 祐一はまだ歩けそうにない舞を背中に負ぶって学校を出た。舞の様子を見れば、大体どんなことが起こったのかは容易に推測出来たし、このまま学校に留まるのは危険だと思ったからだ。
 外の相変わらずの寒さで、触れている部分だけが火傷しているみたいに熱くて、痛いくらいに感じた。祐一は凍った雪で滑って転けないように慎重に歩いた。
「舞、暫く夜の学校出入り禁止」
 咎めるような口調になってしまったが、祐一は祐一なりに舞を心配してのことだ。これ以上、傷付けたり、傷付けられたりして、一体何になるというのだろう。一体、何の為だというのだろう。全ては魔物に勝利する為だと言うなら、今の祐一には、それは何だか、悲しい気がした。それが、遠い昔に忘れた自然の摂理とかいうものだとしても。
「……星が、綺麗」
「いや、俺、見えない。つか、悪い、見る余裕が今ちょっと、ない。そんなことより、舞……今、俺の話聞いてたか?」
 慣れない雪の道の所為か、祐一は予想以上に体力を奪われていた。息も切れ切れに言葉を発した。
「……もう行かない」
 舞の予想外の返答に祐一は驚きの声を挙げようとしたが、呼吸が詰まって咳き込んだだけだった。大丈夫、と舞が祐一の耳元でそう言う。
「それって、終わったってことなのか。魔物に勝った、のか?」
「……話し合いで、痛み分け……かな」
 なんだそれ。思わず祐一は心の中で派手に転けた。つか、話合えるのか、魔物と。
「……祐一、昨日、佐祐理と話、したの」
「あ、ああ……したよ」
 祐一は混乱した頭のまま、そんな返事だけを返した。会話を司っている脳の部位の処理速度が、コロコロ変わる転調のリズムに上手く乗れない。酸素を意識して、大きく吸ってから、祐一は話し出す。
「……佐祐理さん、お前のお陰で幸せだって、そう言ってたよ」
「……そう」
 舞の感情が祐一には上手く読みとれない。原因は、夜の暗さの所為でも、実際に舞の表情が見えない所為でもない。
「あれさ……俺、正直、お前が羨ましいよ」
「……私に嫉妬してどうするの」
「いや、男とか、女とか、じゃなくて、佐祐理さんにそう言わせるお前が羨ましい」
 祐一は思う。多分、男だからとか、女だからとか、そんなことを考えるから、こんなにも、面倒なんじゃないか、と。だけど、周りや、常識は俺達をそう見てはくれないだろう。それが悲しいよりも、ただ、悔しい。周りの目なんか関係ないじゃないか、と脳の冷静な部分がいくら俺を優しく諭したとしても。
 舞は何も言わなかった。風が吹いていた。冷たい音がしていた。深い闇だけが、ただ、そこにあった。
「人を助けようと思ったら、決して、一人で助けようとしないこと」
 舞がしっかりした口調でそう言った。祐一は舞の言葉に思わず目を丸くしてしまった所為か、その言葉の真意を、ちゃんと咀嚼から分解、吸収まで辿り着くのに偉く時間が掛かっている。と言うよりも、正直に言うなら、答えが、わからない。舞は、もうここまででいいから、と半ば強引に祐一の背中を降りた。思っていたよりしっかりした舞の足取りは、祐一を少し安心させる。だが、祐一はその場所に立ち止まったまま、舞にかける言葉を必死に探し出そうとしていた。
「……大丈夫。今度は私が、祐一の希望になるから」
 そんな祐一の難しい表情に気付いたのか、舞は祐一の制服の袖をそっと掴んで、そう言った。祐一はどこに向けていいものかと迷走していた視線を夜空へ向けた。
 確かに、星が、綺麗だった。


 //


 もしかしたら、うわあ! と叫んでしまったかもしれない。
 勢い良く、腹筋の力だけで上半身を起こした。目覚めても、目の前が雪のように白かったので、祐一は夢と現実の境目がわからなくなっていた。だが、その白からは冷たさが伝わってこない。冷静になれば、なんてことはない。それに気付いて、ほっと胸を撫で下ろす。それは祐一の寝ていたベッドのシーツの色だった。放心して、下を向いていた祐一には雪に見えたのかもしれない。
 雨の音がしていた。自分の中で雨の音がしていると祐一は思った。この町では、まだ雨にお目にかかっていない。恐らく、この町は寒くて、雨が雪に変わってしまう。ぽた、と白いシーツに赤く、血が垂れた。それは滲んで、拡がっていく。祐一の鼻から血が滴っていた。慌てて手で押さえてから、近くにあったティッシュの箱から乱暴に何枚かティッシュを掴んで、鼻にあてた。血の雨。夢と同じだ。夢。少女の夢。少女の顔。血にまみれた少女の姿。
 嫌なことほど、いつまでも忘れられないんじゃないかと思っていた。ふざけて学校の硝子を割ってしまったり、一時の感情の高まりから、友達にひどい言葉を投げつけたり、そんなことばかり、いつまでも、ぐじぐじと残っていくんだ、と思っていた。
 でも。
 俺は本当に嫌なことを、嫌になるくらい辛い出来事を、本当は、忘れてしまっているんじゃないだろうか。
 だって、雨の音じゃない。
 雨の音なんかじゃない。

 この音は、涙の音じゃないか。


 //


「……あら、祐一さん、早いんですね」
 リビングでは秋子が朝ご飯を作っていた。今日は和食らしい、味噌汁の匂いがしていた。
「おはようございます……秋子さん、すいません。俺、朝飯は入りません……それで、もう、今から、出かけたいと思ってます」
「今からですか? 日直にしても、随分、早いと思いますけど」
 時計は今ようやく六時を回った所だ。秋子が手を洗ってから、祐一の方に向き合う。
「はい……あの、それと……今日は学校を休むかも、しれません」
「……祐一さん」
 秋子が祐一に近付く。祐一の頬に手を添えて、親指で目の下を拭った。冷たい手だ、と祐一は思った。手が冷たい人は心が暖かいという。本当かどうかは知らないけれど、今なら信じてもいいような、そんな気になった。
「とても、大事なことなんですか?」
「はい……俺、何か、大事なことを置き去りにしたままだと思うんです……すいません……本当は、自分でも、よくわからないんです。本当に……わからないんです」
 祐一は途切れ途切れの言葉で語った。こんな拙い言葉で伝わるのかどうかさえ、わからない。
「分かりました。学校には私から連絡しておきます。……大目に見るのは、今日だけですよ?」
「秋子さん……」
「それと、話せることなら、何でも私や名雪に相談して、ね? 私も名雪も、あなたのことを大事な家族だと思っているんですから」
「……ありがとう、ございます」
 祐一は心から頭を下げた。
「食事は本当にいいのね?」
 祐一が頷いてその言葉に応える。
「じゃあ、顔だけは洗っていきなさいね。そんな顔じゃ、上手くいくことも上手くいかないわ」
 秋子は祐一の腫れた目に気付いていた。
「……はい」
 祐一はもう一度頭を下げて、自分の部屋に急いで(それでも、走らないように)戻って、用意を済ませ、家を出る。
 行ってきます。
 玄関の扉の前で、そう呟く。
 行ってらっしゃい、と返事が返って来たような気がした。


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 確か、最後に会ったのは、一緒に映画館に行った日だ。

 祐一は白い息を吐きながら、走った。何度も、何度も雪で滑って倒れそうになりながら。こんな早い時間に探しても、無駄かもしれない。会えないかもしれない。それでも、祐一は自分を突き動かす衝動を止めることが出来なかった。とにかく、走り回った。確かめなくてはならない、あの少女に。
 あゆに。


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 祐一の手の中でたい焼きが湯気を立てていた。
 仕方なく、一つ手で掴んで、口に運んだ。味なんて、よく分からなかった。平日の昼間から、一人、駅前のベンチに座って、たい焼きを食べる俺はどんな風に映るだろう。スーツを着たサラリーマン風の男が、祐一の目の前を通過して、駅の方へ向かっていく。祐一の方には目も向けなかった。駅のロータリーに設置してある時計はもうすぐ午後二時三十分を指そうとしていた。あれから、家の周りから、商店街、駅前と様々な所を探したが、あゆは見つからなかった。商店街でたい焼き屋の親父に尋ねてみたりもした。幸いにも親父はあゆのことを何となくわかった風だったが、そう言えば最近見かけないね〜、とのんびりした返事が返ってくるだけだった。しかも、ついでにたい焼きも買わされた。たい焼きの匂いであゆが寄ってこないかと期待もしたのだが、どうやらそんなに甘くはないらしい。ベンチの背もたれに身体を預けて息を吐いた。疲れがどっと出てくるようだった。
 冷静に考えるなら、あゆは今、学校に行っていることだろう。そこまで考えて、俺はあゆのこと、何も知らなかったな、と思う。普段通っている学校の場所や、自宅の場所さえ、何一つ。
『じゃあ、また絶対に会おうねっ!』
『…って、何時にどこで会うんだっ!』
『大丈夫っ!』
『二度あることは三度あるんだよっ!』
 こんな調子だったから、会えなくなるなんて、思わなかった。
 会えなくなった……? 
 そこまで考えて、その考えを振り払うように頭を振る。何、悲観的に考えてるんだ。まだ、そうだと決まった訳じゃない。だけど。この嫌な予感は一体なんなんだ。原因は勿論、あの夢なのだが。
 そう、二度あることは三度あるのかもしれない。だが、その法則はいつまで有効なのだろうか。四度目は? 五度目は? もっと先は? 誰も保証してくれる奴なんて居ない。
『…指切ったっ』
 あの約束はいつまで、その効力を守っていられるのだろう。
 手の中のたい焼きはすっかり冷めてしまっていた。
 午後三時を指した時計を目に入ると、祐一は溜め息を吐いた。正直、あのラブレターのことが気に掛かっていた。確か、今日の放課後……中庭……。
 祐一は重い腰を上げた。足が痛かった。本当はこんなことしている場合じゃないのかもしれない。あゆを見つけて、話を聞くことが何よりも大切なことかもしれない。それでも、祐一の足は学校を目指して、よたよたと歩き出していた。
 自分の力次第で、守れるものなら。
 これ以上、誰かとの約束を破りたくなかったんだ。
 それだけだ。


 //

 
 皆、誰かの代わりになれそうで、なれなそうで、なれそうで、よくわからない。


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 私服で学校に入るのはそれなりに勇気が必要だった。
 が、そこまで思って祐一は、いや、俺の前に前例があったじゃないかと、ふと栞のことを思い出して苦笑した。栞のやつ、もう病気、よくなったんだろうか。そんなことを考えながら、校門の前の道へ出ようとして、身を潜めた。校門は既にホームルームが終わって、家路に付く生徒で溢れていた。仕方なく、裏口の方に回って、裏門を飛び越えることにした。先生なんかに見つかった日には、どうなることやら。不審者と思われて警察に通報されるかもしれない。祐一は周りの気配を伺いながら、最善の注意を払って鉄の門をよじ登った。
 当然、一番に中庭に向かったのだが、既に少女はそこで待っていた(今の時間を考えたら当たり前のことかもしれない)足下に小さな雪ダルマがぽつんと立っていた。彼女が作ったものだろうか。
「あ……」
 少女が祐一に気付いて、振り向く。身長がとても低い子だと思った。肩の高さよりも数センチくらい下まで伸ばされた、長い黒髪がさらりと揺れた。正直、可愛い子だと、祐一は思った。
「……相沢先輩……来て、くれた……」
「ああ、来たぞ。こうしている間も並のスリルじゃないんだけどな……」
 少女は祐一の言動とその格好を見て、不思議そうな顔をした。
「あの……どうして、私服、なんですか?」
「転校生特権だ」
「そう、なんですか……初めて知りました」
「有効期限、一年間だけどな」
「なるほど……」
「いや、信じるな。つか、悪い。嘘だ。実は今日は学校サボったんだ」
「そ、そなんですか……ひょっとして、具合が悪いのに無理して……」
「いや、違う。断じて違う。実は俺は不良なんだ! がおーっ! 食べちゃうぞーっ!」
 不良違う。明らかに不良違う! つか、何をやってるんだ、俺は……。柄にもなく、緊張しているのか。だが、このくらいで引いてくれるならそれはそれでいいと祐一は思った。俺はこの子のことを知らない。この子が俺を好きになるとしたら、恐らく一目惚れだ。沸点が低く、冷めるのも早いかもしれない。
「あの……手紙にも書いたんですけど……わたし、相沢先輩のこと……好き、です」
 そっと、少女が祐一に近付いていく。
「……一生しあわせにしますっ!」
 少女はぺこっと効果音を付けてもいいくらいに勢い良く頭を下げ、右手を差し出した。その仕草はその昔、テレビでやっていたカップルを誕生させるバラエティー番組に似ていた。マズいと思った。思った時には祐一は既に笑ってしまっていた。どう贔屓目に見ても、爆笑だ。急に笑い出した祐一に、少女が慌てる。
「あ、あっ、あのっ! わ、わたし何か変なこと言いましたかっ……」
「ぶはは……! 悪い、本当はどうやって上手く断ろうか、とか、今までずっと考えてたんだけどさ……いや、正直、ちょっと一生幸せにして貰えるならそれもいいなあとか思っちまった。はは、いや、凄いよ、あんた。俺の負けだわ」
「ふぇぇ……別に勝負してた訳じゃないんですけど……」
 少女が泣きそうになる。
「こらこらっ、泣くな! 泣くな!」
 祐一がぐしぐしと少女の頭を撫でる。その勢いに押され、わわわ、と少女が妙な声を上げていた。まるで子供と、もっと小さい子供だ。
「……つかさ、ありがとな。ホントに、嬉しかった」
 最後にぽんぽんと二回頭を叩いて、祐一はそう切り出した。少女は目を潤ませていたが、健気にも堪えながら、祐一の言葉に耳を傾けた。
「だけど……」
 少し考えて、結局、最後にはゴメンと謝った。誰も悪くなんてないはずなのに、謝らなければならないのは、何故なんだろう。彼氏とか、彼女の関係って、人間関係でいうと、どのくらいのものなんだろうか。そんなにも、尊くて、素晴らしいものなんだろうか。多分、他人に言わせればそれは、責任を放棄した、甘い、考えなのだろう。
 少女はあの、あの……と言葉を詰まらせながら、はい、と短く答えた。泣き出しそうな少女の頭をもう一度撫でてやろうか、と考えたが、頭を撫でる手が、何の力も持たないことに、祐一は気付いていた。遠くで、銃声が響いて、聞こえやしないのに、両手で強く耳を塞ぐ。
 恐らく人は、一度出会った人とは、二度と別れることが出来ない。
 祐一は最後まで少女の名前を聞こうとしなかった。


 //


 涙を貯めておく貯蔵庫は枯れ果てること知らない。
 それでも泣けないのは、安心して泣ける場所や、体温を、知らない間に失っているからだろうか。広げた手に何もない。泣く為の感情が足らない。七年の間に遠く、遠く過ぎ去ってしまったのか。逃げても、逃げても、結局、辿り着く場所はいつも同じ場所かもしれない。長い歳月で変わったのは、それを見据えるくらいには強くなれたのか、それとも、悲しみや怒りが、薄れてしまっただけなのか。

 学校を出た後も暗くなって、星が瞬くまで、あゆの姿を探し続けた。
 二度、三度と続いていくはずだった、偶然。
 だけど、どうしても、見つからない。出逢うことが、出来ない。


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 天井も、蛍光灯も、潔癖なほど、白い。
 祐一は水瀬家に帰ってきてから、食事もせず、挨拶もそこそこにベッドに倒れ込んでしまっていた。
 こんこんとノックの音が響く。
「祐一……入るよ……?」
 ドアを少しだけ開け、その隙間から顔を覗かせて、名雪がそう聞いた。
祐一の返事を待たずに、名雪は祐一の部屋に入って、ベッドの脇、祐一の足下あたりに座った。
「祐一、何かあったの?」
 あった。あったんだと思う。でも、何も喋らなかった。話をする気がないというよりも、祐一自身、どんな言葉にしていいのか、それがわからなかった。
「何か話してくれるまで、動かないから」
 こいつ、変な所で強情な奴だと、心の中で祐一は悪態をついた。大体、名雪は眠気に弱いから、持久戦には向いてない。
「……今日さ、女の子になりたいって思った」
「なにそれ……」
 名雪は祐一の言ったことをどう判断していいものかと、困った顔を浮かべていた。
「えっと……祐一は女々しい所はあるけど、女子力が低いから無理かな……なんて」
「なんだ、女子力って……つか、俺、女々しいのか……」
 祐一に十二のダメージ。祐一はへこんだ。そういう所が女々しいのかもしれない。名雪は足をぶらぶらさせながら、むー、と考える仕草をしていた。
「祐一、今日、後輩の女の子に告白されたでしょ?」
 名雪の言葉が氷の魔法のよう、祐一にささった。祐一が過剰に反応して、勢い良くベッドから起きあがる。
「……なんで知ってるんだ」
 名雪はえへへと笑顔を浮かべていた。ぐあっ、そんな笑顔じゃ誤魔化されないぞ、ちくしょう! と祐一は心の中で叫んだ。
「わたしもね、男の子になりたいって思うこと、あるよ」
 名雪の口調が変わって、穏やかに優しくなった。そんな空気を感じた祐一は、名雪の話に黙って耳を傾けた。
「それでずーっと、一緒に居られるなら、男の子になりたいと思う。でも、きっと、そんな単純なことじゃないんだね。大事なことは、そんなことじゃないんだよ。」
 話を聞きながら、祐一はまた仰向けに寝転がった。名雪のその喋り方が歌うようで、子守歌に似ていると思った。
「誰にも等しく、優しくなんて、出来ないね」
「知ってる」
 多分、名雪が本当に話したかったのはそんな話じゃなかったんだと思う。祐一はそっと目を閉じた。手が触れ合わなくても、名雪の存在を暖かく感じた。それは眠りの為の麻酔や鎮痛剤みたいなものだ。過去には未来が無くて、後には先がない。思い出は薄れたり、歪んだり、忘れることがあっても、決して消えたりはしない。
 俺達は、ただ、変わっていくだけだ。前も後もわからないまま。
 それでも俺達は願うんだと思う。届かないこともわかっていて、それでも尚、祈って、思うんだろう。それが明日の朝の光で霞んでしまうような、儚く脆いものだとしても。


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 夢を見た。
 でも、祐一はこれが夢なのだともう何となく感じている。今日の場所は海だった。夕日が水平線の向こうに沈んでいくのを見ていた。少女はどこからか流されて来たんだと思う。目に光を感じた時には砂浜に横たわっていた。少し歩いて近付いてみると、それだけで、砂浜には色々なものが打ち上げられていることに気付く。名前も知らない海草、破れた浮き輪、削られて角が丸くなった硝子瓶の欠片、そして、海には不釣り合いな木で出来たボート。祐一は少女の所まで戻って、その小さな抱えると、そのボートに横たえて、海へ流した。これが、正しいのか、わからないけれど。
 カーテンの隙間から光が漏れていた。
 また、一つ、忘れていたものが浮かび上がってくる。
 そんな夢から覚める時にだけ、祐一は泣くことが出来る。

 この涙も長い河を渡って、あの海へ還っていくんだと思った。


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 いつまでも、皆で仲良く、楽しく暮らしていけたなら、それが一番いいよね。
 だけど、一人で生きていく強さの為の、その強がりの為の努力だけは、していくべきなんじゃないかと、今は、思う。


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 土曜日の放課後、祐一はまた佐祐理を誘い、二人で帰っていた。一緒に帰ろうと提案した時の舞の気の使い方は相変わらずで、でも、それが舞の、舞らしさだから、まあ、いいか、と考えていた。佐祐理は卒業した後の進路を祐一に話していた。父親の希望もあって、大学に進学すること。もしかしたら、この町を出ることになるかもしれないこと。
 そして、舞と一緒に居たい、ということ。
 祐一は思う。
 ここ数日の間で、色々なことが変質して、色々なことを考えた。恐らく、俺は、佐祐理さんに伝える言葉を探していた。数日前までの俺は、前に進むことが正しいんだと思っていた。目を背けることは、正しくないことだと思っていた。側にいれば分かりあえるなんて、思ってない。だけど、時間と、距離は、人を変えるだろう。
 邪魔だった。
 考える頭が邪魔だった。
 身体も邪魔だった。
 判断も邪魔だった。
 愛だの恋だのが邪魔だった。
 邪魔なものをそうやってどんどん削っていった。
 そうしたら、手元には笑顔と優しさだけが残った。
 偽善だと蔑んで欲しい。
 綺麗事だと罵って欲しい。
 嘘だと虐げて欲しい。
 嘘だって本当だ。
 そして、本当も嘘もない。
 そこに演技をしていることに気付く、そんなもう一人の自分は要らないんだ。
 誰でもいい。
 未来の俺でもいい。
 今の俺を否定して欲しい。
 正しくなんかないと、思うのなら。
 その溢れる知識と豊かな経験と、常識で。
 俺を、否定して欲しい。

 俺にはなにも、否定することが出来ない。

「佐祐理さん」
「はい?」
「俺、佐祐理さんと舞のおかげで、すごく、幸せだったと思う」

 だって、そうさ。 
 違う惑星かもしれない。
 違う世界かもしれない。
 誰にも触れられない場所で。
 誰も触れられない場所で。
 立ち止まって。
 居なくなってしまった人達の元へ。
 俺は何度も、会いに行くんだろう。

 空を見上げたら、佐祐理の頭の上の方で、佐祐理によく似た少女が、ふわふわと揺れていた。
 俺と、似ていると思った。


 //


 佐祐理と別れて、その姿が見えなくなってから、祐一は放心したように、その場にしゃがみ込んだ。
 力のない自分を、恥じた。
 強くありたいと、心から思った。
 祐一にあたっていた光が、遮られて、祐一は上を見上げた。
 そこには舞が立っていた。
 舞……俺、佐祐理さんに聞こえる言葉なんて、持っていなかった……持っていなかったんだ。
 舞は手を差し伸べていた。
 少し、迷ってから、祐一は舞の手を取った。
 その温もりは、確かに、何かの、希望だった。
 

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 歌を歌う。
 優しい歌を歌う。
 物語を語る。
 布団の上で丸くなっている猫に、優しい物語を聞かせてやる。
 優しい御伽噺を。
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