「いってきまーす……って言っても誰もいないんだけど」
そう愚痴りながら扉の鍵を閉める。
いつもはお母さんの「いってらっしゃい」声がわたしの背中を押してくれるんだけど、今日はそうもいかない。一年前には隣にもう一人いたんだけど、今はもういない。
幾分時間に余裕があるのか、いつもの通学路をゆっくりと歩く。
辺りはもうすっかり冬を通り過ぎてしまっていた。流石に桜の花は咲いていなかったけど、蕾がまるでこの先に訪れる春へと続いているようだった。
気にもかけていなかった風景を今日だけはじっくりと見て歩いていく。
もう、かれこれ三年近くも通っていたこの道。それでもいざその風景を見ていくと、初めて知ったようなものが多くて、思わず立ち止まってしまう。
吹付ける風も雪の季節より不快でもない。むしろ気持ちが良いくらい。
まるで今日という日を祝福するかのような。空も綺麗な青空が薄い雲と混じって綺麗な水彩模様を描いていた。
いつもは登校する学生たちで賑わうのだけど、今日は流石に特別な日のせいか、ほとんど見えない。
それに登校時間よりかなり早く出てしまっているのだ。見知った生徒も居ない。
すっかり白い絨毯から硬いアスファルトへ変わってしまった通学路を歩き三十分。いつも以上に装飾されている校門をくぐった。
教室にはまだ誰も着ていなかった。
まぁ時計を見ればまだ三十分も前ではないか。着ている人間など居ないだろう。
物好きなわたしを除けば。
カバンを置いて黒板を見る。
そこには大きな文字で
『ご卒業おめでとう御座います』
と。視線を横にずらすと、そこにはいつもと変わらない大きさでいつも様に日付がかれていた。
わたしの卒業式の日でもある―――
3月9日
―――お母さんが結婚する事になった。
それを知らされたのはわたしが早々に推薦で大学の進学を決めた秋も深まってきた頃だ。
元々、お母さんが誰かと付き合っていたというのは薄々知ってはいた。母娘だし、わたしも紛いなりにも恋をしていたから。―――自分の恋は叶うことが無かったけど。だからお母さんの変化には気づいていた。
とはいえ、まさか結婚まで飛躍するなんて思ってもみなかった。
いや、厳密に言えばいずれは来るだろうとは思っていたけど、まさかこんなに早く来るとは。
それにお母さんがかなり言い辛そうに「会って欲しい人が居るの」と言った時は付き合っている事を報告するものだと思っていたから。
紹介されたわたしのお父さんとなる人。名前は砂原真治(さわらしんじ)さん。
どうやらお母さんの会社の上司らしい。話を聞く限り、ごく普通の社内恋愛だ。
一つ、お互い子どもが居て、伴侶が居ないことを除いて。
ただ、真治さんは確かにいい人だった。
なんというか大人の名の風格を持っていて非常に落ち着いた性格をしていた。初めてあったわたしにもごく普通に接してくれた。それに高校生―――実際はもう大学生になるのだけど―――という難しいであろう歳であるわたしの事も理解してくれていた。
「いきなり家族というのは難しいかもしれない。だから無理に家族と意識しなくてもいい。気づけばいつの間にか家族と感じるはず。それが家族だからね」
わたしはお母さんがこの人を選んだ理由が良く判った。
自惚れるわけではないけど、お母さんはわたしの事を誰よりも大切に思ってくれている。
だからこそ、その台詞はわたしの事をちゃんと考えてくれているのだろう。
本当の意味でわたしを大切にしてくれる真治さんとお母さんは結婚する事にしたのだと思う。
そしてわたしが高校を卒業をする日、3月9日に挙げる事になった。
本当は休日のほうがいいらしいんだけど、どうやら予約でいっぱいらしく、更に平日なら料金が安くなるらしい。そこら辺はわたしがどうとかと言う問題ではないのだけど、やはり予算というものがあるらしい。
それからの半年弱。わたしは何かが抜け落ちたようだった。
別にお母さんの結婚が悲しいわけでもない。
確かに香里や近所の人達に“おめでとう”と言われれば素直に嬉しいし、別にいやな気分ではなかった。
なのに、どこか地に足が着かないようなふわふわした状態でこの日を迎えてしまった。
3月9日―――。
赤く二重丸で囲まれたカレンダーを見た時。
不思議なくらいにわたしは、何も感じなかった。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
流石に高校の卒業式で泣くほどの感動なんて無かった。
泪を誘うような卒業式は、小中学校までだろう。少なくともわたしはそう思う。
この後の事で卒業式に集中できてないせいもあるかもしれないけど。
着慣れない袴の裾を弄りながら主賓の挨拶をBGMにこれからの事を考えていた。
なんだろう、この空虚感は。心にぽっかりと穴が開いてしまったかのような……そんな―――。
やがて、卒業式は何も問題なく、何の感慨もなく無事に終わった。
先生の簡単な挨拶の後、わたしはこの教室を去る。
ふと外を見ると、整備されていない校庭が静かにわたし達卒業生を見送っている。
わたしは二年半、このグランドで高校生活の半分以上を過ごしてきた。
走ることに一生懸命で、それだけに全てをかける様に。
それなのにいざ卒業となりこのグランドを見ても何も感慨が浮かばないのは、引退の時にそう感じてしまったのだろう。
確かな確証が無いのに、わたしはそう結論付けた。
そして卒業式を終えたわたしはお母さんの結婚式場へと向かう。
普通の学生ならここでクラスで打ち上げなどあるのだろうが、わたしはもちろん欠席だ。
残念な気もするが、まさかそのために自分の母親の結婚式を欠席するわけにもいくまい。
ちなみに本当なら一度袴から着替えるために家に戻るのだが、それがまた大層遠回りになるため、香里の家を借りる事になった。
そこからだとバスで十分くらいで着くらしい。
途中まで香里と高校生活を振り返りながら楽しくお喋りをしていた―――あくまで表面上は。
別に香里が悪いというわけではないけど、どうも心が宙ぶらりんで一つの事に集中できない。
香里の部屋で制服に着替えて簡単な挨拶だけして別れる。
まぁ香里とは今生の別れでもないし、また数日したら会うだろうし。いつもどおりの別れ方で別れた。
しかしまぁこの格好は制服とはいえ冠婚際には不向きな服装だろうと思う。
結婚式ならドレスも着てくる人がいるから大丈夫なんだけど、喪服にするには不向きだろう。
そんな事を考えながらバスに乗り込む。
ゆらゆらと……。
あまりに見覚えの無い風景を眺めながら定期的な揺れに身を任せる。
このまま眠りにつきたいなぁ……って思っていると目的地に到着していた。
あわてて運賃を支払い、バスを降りる。
ふと吹き荒れた風が、なにか春を予感するかのように暖かかった。
スカートと髪を押さえ、目の前に立つ建物へと入る。
今回、お母さん達は和式らしいのですぐ隣にある神社で挙式を挙げるらしい。
親族控え室の“水瀬様”と書かれた札を見つけドアを開ける。
「お母さん」
「あら……名雪」
髪の毛を全てアップにしていたので一瞬、誰かと思った。
どうやらまだ準備は終わっていないみたい。
「随分、早かったのね。てっきりお昼食べてから来るものだと思ってたわ」
「あーうん。てっきり忘れてた。卒業式終わってから直で来たし」
「どうする? 披露宴まで待つの? 夕方よ、披露宴は」
現在、十二時をちょっと過ぎた頃。これからお昼抜きで夕方まで待つのは正直つらい。
「ううん、コンビニで何か適当なもの買って食べるよ。外食までしてる時間はなさそうだし」
「そう? それじゃあ、挙式には遅れないようにね」
「うん、判ってる。じゃあ、お昼買ってくるね」
「はい、いってらしゃい」
わたしはドアノブに手をかけた所で一度動きを止めた。
「……名雪?」
お母さんの不思議そうな声が耳には入ってきているが、正直あんまり覚えていなかったし。
「今日は結婚おめでとう。―――お母さん」
その時のわたしの表情はちゃんと笑顔であったのかどうかさえ、おぼろげだった。
ただ、お母さんの「ありがとう、名雪」だけはちゃんと覚えていたのが不思議だった。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
コンビニをわたしはよく使う。
それはまぁお母さんや自分の作ったものと比べると味は当然落ちる。
だけど部活などやっているとどうしてもお昼を取る時にコンビニを使うのだ。
特に遠征先で夏場となるとお弁当ははっきり言って危険だ。この暑さの中、長時間放置されるとおなかを壊してしまいかねない。そういう時にコンビニは非常に役に立つのだ。
そんなわけで、近くにあったコンビニで今日の昼食を物色する。
時間も時間だし、そんなに量も多くない。もう少し早く行けば、いろいろあるのだけど、まぁしょうがない。それに披露宴までのしのぎ程度だから、大したものを買わなくても良いだろう。
わたしはそう結論つけて、残り少ないおにぎりから二つ取り出した。
なんだかよくわからない味もあるけど、問題ないだろう。
ふと―――。
「名雪ちゃん」
聞きなれない声と、聞きなれない呼びかたでわたしの肩をたたく。
誰だろう? そう思いながら振り向くとそれは何度かしか顔を合わせていない男性だった。
「久しぶり。三ヶ月ぐらいだっけ?」
「……あ、はいそうですね。年明けに会いましたからそれくらいだったと思います。お久しぶりです正利さん」
祐一や北川君よりも身長が高く、決してわたしも低いほうではないのだけど、見上げるくらい身長の高いこの人は砂原正利(さわらまさとし)さん。
今日、お母さんと結婚する真治さんの息子さんだ。ようするに今日からわたしの義理の兄となる人。
年齢は22歳。就職活動やさらには卒論などが忙しかったらしく、二度しか会っていない。
ただ、それでもいやな人ではないという印象を受けた。
一言で言えば落ち着いた人。
祐一や北川君みたいな人を“動”と例えるなら、この人は間違いなく“静”の人だ。ものすごく落ち着いていて、やっぱりわたし達とは違い、大人という印象を受けた。
「名雪ちゃんも、昼ごはんでも買いに来たの?」
「あ、はい。お昼食べていませんでしたし、それに披露宴まで何も食べられないのはつらいので……」
正利さんは「なんだ、俺と同じだね」と静かに笑った後、なんの躊躇いも無く、わたしのおにぎり二つを取り上げた。
あまりにも自然な動きにわたしは一秒近く我を失ってしまった。
「あ―――」
気づいたら正利さんがレジに向かっていた。
―――わたしのおにぎりを持って。
「あ、あの! その、おにぎり……」
「俺もお昼買うところだし、ちょうどいいから奢るよ。大した額じゃないけどね」
「で、でも―――っ!」
正直、あまり気の許していない男性に奢られるというのはいい気分ではない。わたしはすばやく財布を取り出して、お金を出す。
幸い、まだ正利さんは支払っていない。
しかし、正利さんはわたしが出そうとしたお金を手で制してしまった。
「まぁこういう時ぐらい、兄らしいことさせてくれよ」
―――兄。この言葉でわたしは完全に固まってしまった。
そうなのだ。お母さんと真治さんが結婚するという事は、お母さんの娘であるわたし。そして真治さんの息子である正利さん。この二人は必然的に兄妹の関係になってしまうのだ。それはつまり家族となる事。
理解はしていたけど、どこか実感が無くて……、改めて言われるとどこか違和感を感じで。
そして結局成すがままに正利さんに奢られてしまった。
だからといって捨てるのは非常に失礼なのでその、おにぎりをわたしは食べてしまったのだけど。
味は正直微妙だった。
それが余りもののおにぎりをつかんだせいなのか、それとも別の理由なのかは……
良く判らなかった。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
お母さんと真治さんの結婚式は言葉のとおり厳粛なムードの中執り行われた。
神社ということもあり、特別なBGMが流れるはずも無く、静かな雰囲気の元、儀式とおりの何の変哲もない結婚式だった。
披露宴などは別会場でやるとの事なので、ここでの式はものの三十分で終わってしまった。
一つ言える事は、お母さんがいつに無く緊張した面持ちであるという事だった。
あんな、カチカチのお母さんは見た事もない。
まぁそれくらいだろう。
その後、親族で集まり写真を撮る。
わたしは娘ではあるけれど、まずは新郎婦、そしてその親と続いていくため、わたしは端っこに座る事になった。
お母さんなんかは「もっと近くに座りなさい」と、言ってくれたけど、逆にそのほうが有難かったから、断った。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
披露宴会場までの移動は送迎用のバスも出るのだが、わたしは敢えて歩くことにした。
ここから披露宴会場まで向かう道は、結構わたしの家から近くて、よく小さい頃お母さんと一緒に散歩をしていた場所でもある。
あの道も、あの横断報道も、あの小さな店の看板も……、
お母さんと二人で手をつないで見てきた光景だ。
わたしはお父さんの記憶がない。
亡くなったのか、それとも離婚をしたのかはよく判らなかった。
小さい頃に聞いた時は適当にはぐらかされた記憶があるし、自分がある程度年齢を重ねてからはこちらから聴こうとはしなかったからだ。
別に興味もなかったし、お母さんがそばに居てくれるだけで満足していたから。
お母さんだけという環境に不満がなかったから。
だから自然と今のまま暮らせていた。
それが当たり前だから。
歩いた先に辿り着いたのは小さな公園だった。
「懐かしいなぁ……」
誰も居ないのに思わずつぶやいてしまう。
そう、ここは昔よくお母さんと遊びに来ていた公園だ。
よく、この公園を駆け回って遊んでた記憶がある。
そしてしまいには転んで、おお泣きしてそのたんびにお母さんに慰められたっけ……。
あの時はあんなに広く感じたのに、今見るとやっぱり狭い。
まぁ当たり前なんだけど、それでも何か感慨深い。
この鉄棒だって、手すら届いていなかったのに。
このすべり台だってなんて高いのだろうと思っていたのに。
このブランコも―――
「足……、つかなかったんだよね」
ゆっくりとブランコを揺らす。
ゆ〜ら
ゆ〜ら
ゆ〜ら
「ここにいたんだ」
声に思わずブランコを止める。
「あれ? 正利さん」
正利さんだった。お母さんや真治さん達と一緒に車(送迎用)に乗ったのだとばかり思ってた。
「名雪ちゃんも歩き?」
「はい、なんか散歩したい気分だったんで……」
「なるほどね……」
遠くを見ながら正利さんは笑みを浮かべる。
その表情はどこか大人っぽくて……、でもどこかそれが、わたしの心に釈然としないものを残す。
「正利さんは……どうしてここに?」
「俺? 多分、名雪ちゃんと同じ理由じゃないかな?」
「わたしと? どういう事ですか?」
「ここはさ、亡くなったお袋がよく遊びに連れて行ってくれた場所なのさ」
「えっ……」
おもわず素っ頓狂な声を上げてしまうわたし。
という事はわたしがここにいた理由も判ってたという事になるから。
多分、さっき私が感じた釈然としないのはこう、正利さんにわたしの考えている事を見透かされてしまっているからなのかもしれない。
―――それがなんとなく怖かった。
「なぁ、名雪ちゃん。俺もさ確かに怖かったんだよ」
突然の正利さんの言葉にわたしはぐるぐる回っていた思考をピタっと停止させた。
それぐらい、正利さんの言葉が耳に入ったのだろう。
「と言うかね、これは俺の憶測でしかないんだけど、ウチの親父だって、そして秋子さんだって、この結婚が嬉しい半分怖いんだと思うよ」
「…………」
「だって、長年続いてきた環境を変えるんだから、だれだって不安があるのは当たり前なんだけど、それでもこの歳でそれをやるのは相当の勇気がいるんだと思う」
話を続けていくたびに正利さんが揺らすブランコが徐々に大きく揺れる。
キィキィ、と独特のさび付いた音を響かせながら勢いが付いていく。そして、一つ気合の入った声が入った後、正利さんはブランコから飛び降りた。
その大きく揺れたブランコから降りた大きな身体は宙を舞い、小さな柵を乗り越えた。
そう言えば小学生の頃、祐一が同じような事をして遊んだっけ。
で―――、わたしも真似して柵に足を引っ掛けて転んで、痛くておお泣きした覚えがある。確か、お母さんが傷の治療をしながらやんわりと「危ない事はしないのよ」と、怒られたような気がする。それ以上に慌ててた祐一とものすごい勢いで怒られていたほうが印象深い。
その後、泣きながらわたしに謝ってたのは今ではものすごい笑い話だ
なんか、こう小さい頃のわたしとお母さんを思い出すと、わたしは何故かよく泣いてるような……。
そして飛び降りた正利さんはそのまま後ろを振り向く。
「まぁさ。一つ言わせてもらえば、変わんないんだよ。結局は」
「―――え?」
突拍子の無い事を言われて、思わず間抜けな声を出してしまう。
「言いたい事はそれだけ。難しく考える事は無いと思うし、いずれ判るさ」
結局何も判らないまま、正利さんは話を終えてしまった。
「あ、そうだ。今日、名雪ちゃんに渡そうと思ったのがあるんだ」
そう言うと、懐のを探り始める。
何か動作がきごち無いのを見ると、懐にある物を取るのに苦労しているみたいだ。
妙なうめき声とちょっと間抜けな格好で必死に探っている。
そんな格好がちょっと可笑しくて吹き出してしまった。
ちょうど、取り終えた正利さんの照れ隠しの笑みが、今までとはちょっと印象が違っていて面白かったし。中々、見なかった正利さんの一面を見れたような気がした。
そして取り出された正利さんの手にはカードほどの大きさがある皮製の何か。
無言で手渡されたソレを見ると、定期入れだった。しかも相当古い。だからと言ってボロボロかと言うとそうでもなく、ちゃんと手入れのされているしっかりとした定期入れだった。
「……これは?」
「見るまでも無いさ、定期入れだよ」
「定期……? どうしてわたしに?」
「だって、名雪ちゃん大学は電車使うんだろ? 俺は職場にいくのは車だからもう使わないんだよ。でもそれはおふくろから高校進学祝にもらったものだから」
「……え?」
わたしの思考が止まる。
……高校生の祝いに貰った? と言う事は……。
「あの、正利さん。その正利さんのお母さんって……」
「あぁ、お袋は俺が17の時に亡くなったよ」
17と言えばまだ五年しかたってない。なのにどうして……どうしてこんなにもひょうひょうとしているのだろう。
たった五年でそんなにも割り切れてしまえるものなのか。わたしはどうやっても考えられない。
「だから、難しく考える事は無いさ。本当に簡単で大切な事だからね」
そう言ってちょっと乱暴にわたしの頭をクシャっと撫でる。髪型が乱れない程度に加減されている辺り、流石だなとは思う。
ただ、ちょっと恥ずかしい。
「じゃあ俺は行くけど、名雪ちゃんは遅れないように」
それだけを残しまさに颯爽と公園を去っていってしまった。
結局、正利さんは何が言いたかったのだろう。最後まで良く判らない。
平日の昼過ぎ。流石にまだ、誰もいない公園にわたしは一人考える。
と、言っても半年たっても、判らなかった事だから今更考えたって判る事ではないのだけど。
でも―――
―――正利さんは多分知っている。
わたしのこの宙ぶらりんな心のわけを、そしてそれを解決するすべを。
知っているのだ、あの人は。それでも敢えて語ろうとはしなかった。
と言う事は自分で見つけなければいけないのだろう。確かにこれから家族となり一緒に住む事になる人だ。それに対してのこの宙ぶらりんな気持ちは自分で解決しなければきっと新しい家族との関係も宙ぶらりんのままだろう。
―――それはいやだ。
だからと言ってどうしたら良いのだろう。
手の平に置かれた定期券を見つめながらわたしは空を見上げる。
昼前に浮かんでいた白い月が、なんだか綺麗で、思わず見とれてしまった。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
「それでは、皆様お待たせいたしました。新郎新婦のご入場で御座います」
やけに活舌のよい口調であたりが暗くなる。そして、ひときわ大きな歓声。皆の視線の先には純白のウエディングドレスを着たお母さんがいる。
先ほどの白無垢とは違い、華やかだ。それにどうやら挙式で緊張が解けたせいか、ものすごく表情が明るい。
恐らく神社でやった挙式とは違い、友人の歓声がお母さんをリラックスさせたのだろう。恐らく、わたしの事もあるだろうから、そんなに古い友人と会える事はなかったのだろうし。久々に会ったのだからそりゃ嬉しいだろう。
歓談の時もお母さんはよく友人と喋っていた。
お酒を注がれ、非常に上機嫌だった。喋り方とか、表情とかが全然違う。
多分、わたしが見てきたお母さんは間違いなく、母としての水瀬秋子なのだろう。時折、真治さんと付き合ってたからかもしれないけど女の水瀬秋子が垣間見えていたりはしたけど、ああいう素のお母さんは本当に中々見ない。
まさに学生時代に戻ったかのようだ。余興なんかで笑うその姿はもう、普通の女性の笑みだ。それこそわたしとの会話で笑う香里と大差ない。
いつもはもっと包み込むような表情で笑うお母さんがあんな表情で笑うのだ。いくら母娘とはいえまだまだわたしの知らないお母さんの一面がある事を知った。
流石に無礼講とはいえ、制服姿でお酒を飲むのは居たたまれないので、注がれるだけで飲みはしなかった。それでもお母さんの友達、真治さんの親戚など、沢山の人達にお酒を注がれたのは正直、戸惑ってしまった。
お互い再婚なのだから、もっとこう気まずいのかな、と思ったのだけど。想像以上にうちの親戚と向こうの親戚の仲のよい姿を見て驚いた。
そんな様子を見ていると、どうもわたし一人だけどこか置いてけぼりを食ってしまったみたいで、なんか寂しい。
結局、わたしだけなのだろうか……?
それ以外の皆はこの歳になって結婚(この場合、再婚だが)する二人をなんとも思っていない。
わただしだけ……。
公園の時はよく話してくれた正利さんも何故か披露宴中は一度もわたしの所に来なかった。
もう、語るべきことは語ったからなのか。そしてその答えをちゃんと見つけないといけないのか。
結局どうなのかは本人に聞いていないから判らないのだけど、多分そういうことなのだろう。
でも、それがやけに心細い―――。
謝辞の前でもある新婦の手紙の時、お母さんは先ほどの上機嫌とは正反対にボロボロ泣いていた。
不思議に思えたが、やはりお母さんにも不安があったのだろう。
その手紙の内容は、ほとんどその部分だった。
この歳で結婚すると言う不安。
その新しい家族にわたしが馴染んでくれるかという不安。
それでもお母さんはこの結婚を選んだ。
泪こそ出なかったものの、わたしの胸にもこみ上げてくるものがあった。
そうだ。
探せばいい。
今は見つからなくても、そうやってこの新しい家族の中で一日も早く溶け込めるように努力をすればいいんだ。
そうすれば、おのずと何か見えてくるはず。
わたしはまだ、高校を卒業したばかりのわたしがすぐに判るはずが無い。正利さんは「難しく考える事は無い」と言ってくれた。だから大丈夫、何時か必ず、それが判る時が来る。
そう結論を付けたら自然に胸が軽くなった。
大丈夫、わたしはきっとうまくやっていける。お母さんはそう信じて、真治さんと結婚したんだ。だったら信じてくれたお母さんを悲しませないためにもわたしはこの新しい家族で頑張っていこうと思う。
真治さんだって正利さんだって悪い人じゃない。
むしろいい人の類だと思う。そうじゃなければお母さんは結婚を決意なんかしないはずだから。
手に力が入ったせいか、ガラスのコップがミシッ……っと音を立てた。
だけどその音は花束をお祖母ちゃんに贈呈した時にあぶれた拍手にかき消されてしまっていた。
その後の謝辞でも、真治さんはお母さんがいかに大事が、そして名目上は新しい娘となるわたしに対する気遣いなど、しっかりと力強く語っていたのが凄く印象に残った。
その時に向けられた視線にわたしは力強く頷く事が出来たのだから。
―――きっと、わたしは大丈夫だ。
沸きあがる拍手に負けないくらい、わたしは手を叩いた。
真っ赤になるくらい、力強く叩いた。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
二次会はやはり友人同士で楽しむものらしい。
流石に二次会まで参加する気力は無かったし、言ってもあまり面白く無いだろうから、披露宴が終わったあと、一人でこの家まで帰ってきた。
そう言えば四月からは真治さんや正利さん達もここに住む事になっている。
向こうはマンションでこっちは一軒家。立地条件なども考えてここに住んだほうがいいと、お母さんが薦めたらしい。確かにウチは二人で住むには少々大きすぎる。以前に祐一が居候した時も特別狭いとは思わなかったくらいだ。
そう考えると、こうやって一人で家にいるというのは、もうなくなるのかもしれない。
やけに静かな家にわたしが鳴らす、木の軋む音だけが支配している。
香里の家から袴を持ち帰り、自室に入る。
制服を脱ぎ、ハンガーに掛ける。もう二度と着る事は無いであろう、この服。
そう言えば自分は卒業したんだっけ。この派手な制服とも、もうさよならだ。そう思うと、ちょっとだけ卒業が寂しく思えた。
壁掛けに制服を飾るように掛け、袴はビニールに包んでクローゼットへ。
そうやってクローゼットを開けると、見慣れない服が眼に入る。
なんだろうと思って、閉まっていたもう片方のクローゼットを開けた。そこには黒―――いや紺のスーツがあった。
わたしの部屋にはスーツなんて無い。それにビニールに包まれているという事は新品なのだろう。
いつの間に買ってくれたのだろう。多分、大学の入学式に着ていく用だ。まぁその先もつかえそう。
「……あれ?」
思わず声を上げてしまう。胸ポケットのところに紙切れが挟まっていたからだ。しかもやけに不自然に。何かのメッセージ? 袴をハンガーにかけ、もう片方の手でその紙切れを手に取る。
どうやら二つ折りになっているらしい、そこには……
「卒業おめでとう
わたしの大切な娘へ
母より」
「…………あ」
たった一言の言葉が嬉しくて思わず笑みがこぼれる。
でも―――
それからはもう我慢が出来なかった。
あふれ出る泪。
―――ばかだ、わたし。
馴染むとか、受け入れるとかそういう問題じゃない。お母さんは、お母さんなんだ。
何より私を大切にしてくれるお母さんである事に変わりは無い。そしてわたしのこの心が空虚だった理由は、お母さんが結婚する事で変わってしまうのではないか? という事。
でも違う―――。
確かに環境は変わっても、わたしのお母さんはお母さんだ。他の誰でもない。
正利さんの言うとおり、お母さんは何も変わっていない。そんな簡単な事だったんだ。
そんな事に気づかないで……
やっぱりわたしは、ばかだった。
わたし一人何を勘違いしていたんだろう。
披露宴では出る事のなかった泪が、溢れる様に頬を伝う。
でも、こんなに泪が溢れているのに、その夜は不思議と寂しくはない。
そして、いつまでも、いつまでも……新しいスーツを抱えながら、泣いた。
ふと外を見る。
四月を過ぎたこの陽気は、もうすっかり雪国にも春を告げていた。
まばらだった桜もすっかり満開になっている。
そしてわたしは着慣れないスーツを身に纏い、正利さんからもらった定期入れから定期を取り出し改札口を潜る。
実はあの定期入れ、あの中に正利さんと真治さんがわたし宛に書いたメッセージが入っていたのだ。
そこには、確かにお互い変わらないモノがあるというメッセージ。そしてこれから家族になると言う事、そしてわたしの大学進学を祝うメッセージ。
兎に角、わたしは正利さんや真治さんにも大切にして貰えているんだと言う事をこの定期入れで良く判った。
いつか近い日に、あの二人を“兄”と“父”と呼べる日が来るのだろう。
あの日に貰った定期入れ。そこには3月9日と記されている。正利さんが使っていたとままなのだろう。
わたしはその3月9日と記された古い定期の上から―――
新しい定期を入れた。
FIN
感想
home