わたしには、生まれてからずっと抱いていた疑問がある、と言ったら、わたしの周囲の人間はどんな反応をするだろうか。
 あまり周囲を気にしないこの性格の為か、どうもわたしは周りに『能天気』というイメージを与えているらしい。
 それはすなわち、わたしには重大な悩みなどあるようには見えないとのことだと思うのだけれど、まったく失礼な話だと思う。
 まあ、そんな周囲の目もあり、わたしは滅多に他人に相談なんかした事はないし――ここまで言っておいて恥ずかしい話のだけれど――相談が必要な悩みなどほとんど持ったことが無かったりする。
 数少ないそれとしては、わたしの従姉弟である相沢祐一のことが挙げられるが、現在彼が自分の恋人となったことにより解決したものだし、それだって人生の悩みトップテンに入れるとすれば、二、三位までにしか入らない(なお、他に入れるとすれば、生来の猫アレルギーがあるが、それは大体六位くらいだと認識している)。
 これらは重要であっても第一位とはなりえない。何故ならば、不動の一位が存在するからだ。
 そう、それは――わたしの父親のことである。





 わたしが『お父さん』なる存在のことを知ったのは幼稚園に入園してようやく慣れてきたという時だった。
 それまでにも父親という人間の存在は知っていたのだが、わたしはそれが自分には無縁のものだと思っていた。
 しかし、それは当時の友達の父親を見た瞬間に微塵に破壊された。
 母親、父親、子供。
 夕焼けの中、家に帰っていく友人一家を自分に当てはめたとき、絶対に発生する空白。
 それに気づいたとき、同時に悟ってしまった。

 お父さんとは、わたしにとって縁が“無い”のではなく、縁が“無くなって”しまった存在だということを。

 そのとき、わたしは生まれて初めて日常に恐怖した。
 わたしにはない。わたしにはない。わたしにはない。
 数十分後、わたしは迎えにやってきたお母さんのその胸の中に飛び込んだ。
 そこはとても暖かく、わたしは困るお母さんにかまわずに抱きしめ続けた。
 数秒とも数時間とも思えたその暖かい感触の後には、既に先程の恐怖は霧散していた。





 その日以来、わたしは両親という概念を封じた。
 両親ではなく、親。親とは、お母さん。
 それは、幼かったわたしにとっては極めて容易なことであり、日常生活を送るのにまったく何の支障も生まれなかった。

 ――おとうさん? いないけど、わたしにはおかあさんがいるから。

 それは、他人からのわたしの父親に対する質問の全ての回答であり、また自分自身の疑問への回答でもあった。
 故に、お母さんに質問はしない。分かっている回答をわざわざ見る必要は無い。
 また他人の家庭には特に関心が無いという周囲の友人関係もあってか、わたしはその回答を変えることも無く月日を重ねていった。
 だけれど、ときどき思い出してしまう。悟ったあの日の夕暮れの中、その男の人は笑っていたということを。
 欠如している日常は無視することはできても、忘れることは到底不可能だった。
 故に、それはわたしの最も重要な悩み――なのだけれど。
 周囲からのわたしに対する評価は正鵠を射ており、恥ずかしながらそれを含めた全ての悩みはわたしの生活に何の影響も与えなかった。
 そう、わたしは現状に満足していたのだった。





 しかし、それはある日突然崩れ去ることとなった。お母さんが、交通事故によって意識不明となったのだ。
 その知らせを聞いたときのことは今でも忘れられない。本当に足元から全てが崩れ落ちるような気分だった。
 結果わたしは自室に引き込もりかけたのだが、当時既にわたしの恋人となっていた従姉弟によって気を持ち直し、その後お母さんも意識を取り戻し、全ては大団円で終わったのだった。
 ――しかし、それでもときどき考えてしまう。わたしは、本当にお母さんに依存している。今回は祐一が助けてくれたものの、二人が同時に今回のような目にあったとき、そのときわたしはどうしているだろう。
 家族の、死。
 それを考えるときにどうしても考えてしまうのが、幼少時に封じた父親という存在だった。
 生きているのか、死んでいるのか。
 お母さんが死んだら、わたしは絶対に泣くだろう。
 祐一が死んでも、わたしはきっと泣いてしまう。
 では、生死不明の人間に関しては?

 生きていたと聞いて、喜ぶのか?
 死んでいたと聞いて、悲しむのか?

 それらのほうがごく普通の反応であるということは理解はしていたのだけれど、しかしどうもそれは半分しか乾いていない服のようにしっくりこなかった。
 つまるところ、父親の生死に関して、その答えに対する反応を決めかねていたのだった。
 日々の生活が穏やかに流れている中で、わたしだけが宙ぶらりんだったのだ。





 まあ、それでも日常は流れていくわけで。宙ぶらりんでもイチゴはやはりおいしくて。
 部活も無い冬休みの金曜日。買い物帰りに買ったお気に入りのクレープ屋さんのイチゴクレープを堪能しつつ、わたしは家路についていたのだった。
 そのときのわたしは幸せいっぱいで、注意力に欠いていたとしか言いようが無い(いつも注意力が無いという意見は却下する)。
 従って、角を曲がろうとしたとき、反対側から人がくるなどとは思いもしなかった。
 どん。
 わっ、と声を出したような気がした。気が付くとわたしは尻餅をついていて、目の前の人を見上げていた。
 スーツを着た、若そうな男の人。びっくりした目でわたしを見ている。多分、わたしもきっと同じ目をしていたはずだ。 

「――――――」

「え?」
「あ、いや、大丈夫かい、君」
 聞き返したわたしに、その男の人は慌てて駆け寄ってきた。
「手、貸そうか?」
「あ――いえ、大丈夫です」
 左手を差し出す男の人の言葉を辞退して、立ち上がる。
「そうか。――でも、君には悪いことをしてしまったな」
「いえ、なんともないですから」
「そうじゃなくて、それ」
「あ――」
 男の人の指差した先には、ぶちゃりとつぶれたクレープ。もう食べられそうに無かった。
「ごめん、少しぼっとしてて……」
「いえ、いいですよ、一番おいしいところは食べた後でしたし」
「でも……」
「いえ、いいんですって」
「……うん、わかった。でも、本当にすまなかった」
 不承不承、といった表情で、苦笑しつつ男の人は頭を下げる。
「そうですね、次からは気をつけてください。それじゃあ、わたしは――」
「あ、ちょっと待って」
 歩き出そうとしたわたしを引き止めて、男の人はポケットを探って、何かを差し出してきた。
「よかったら、これ食べて」
 それは、ビニールに包まれたイチゴの飴だった。照れくさそうに、男の人は言う。
「こんなもので悪いけど、その、お詫び」
「――――――」
 一瞬思案して、
「そ、それじゃあ、遠慮無く」
 そう言って、飴を受け取る。
「すみません、少し急いでいるので」
「あ、そうだったんだ。ごめんね、引き止めて」
「いいんですよ。では」
 言って、駆け出す。次にあった交差点の角を曲がって、男の人から死角になったところで足を止めた。
 心臓がどきどきしていた。あんなところで引き止められるとは思わなかったし、飴をもらうとも思っていなかった。
 大して走ったわけでもないのに、どきどきしている。考えてみれば、“急ぐような用事など無い”のに走る必要などあったのかとさえ思う。
 ふと、顔を曲がり角から出して、先程の交差点を覗き見る。既に、先程の男の人はいない。
 そろそろと道に出て、もと来た道を戻る。
 ぶつかった地点に戻る。地面には、先程わたしの落としたクレープが潰れている。
 先程のことを思い出す。ぶつかったとき、彼は何かを言っていた。

「――――――」

 知らない人から思わず出のであろうその一言は、それだけでわたしを困惑させた。
 溜息をつくが、そこで視界の端に何かを捕らえた。
 見ると、先程男の人が立っていたところに、黒い財布が落ちていた。
 まさか、と思って近づき、拾う。悪いと思いつつ、中身を改める。
 中には、数千円と図書館やCD屋のカード。そして偶然にも免許証まで入っており――それはたしかに、先程の男の人のものだった。
 ――本当に、困った。
 わたしは、先程の男の人の言葉をまた思い出していた。

 ――アキコ――

 わたしの耳がおかしくなければ、男の人はたしかにそう言っていたはずなのだから――





 交差点を渡る決意と道を歩く決意





「と、そういうことがあったんだよ」
「なるほど」
 そう言って、祐一はうんうん、と頷いて、
「で、それがどうしたんだ?」
「って、なんで何を聞いていたの!?」
 わたしは、テーブルを思い切り叩いた。
 あのあと、家に帰ったわたしは夕食後、祐一の部屋で相談を持ちかけたのだった。
「と、とにかくだよ。祐一は気にならないの、その人」
「いやまあ、興味がないといえば嘘になるけど」
「だったら――」
「とりあえず、落ち着け」
 どうどう、と言う。……わたしは馬じゃないんだから。
「まあ、名雪が自分の悩みを話してくれたのは、素直にうれしい。それが父親に関する悩みで、しかも俺と出会う前からのものであるというのならば、なおさらだ」
 だけどな、とおいて。
「だからといって、それがいきなりその出来事に結びつけるのはどうかと思うぞ。そりゃあまあ、二つ続けて言われれば、関連があるように聞こえないことも無いんだけどさ」
「そう言っちゃえば、そうなんだけど」
「つまりはさ、アレだろ。あれは、お前の父親なんじゃないのか。そういうことだろ」
「……そうは、言ってないけど」
「そう言っているようにしか聞こえない、っての。いくらなんでも唐突で強引で飛躍しすぎだ」

 あれは、わたしのお父さんなんじゃないのか。

 確かに、祐一の言うとおりだ。わたしだって、突飛なことを言っているって、そのくらいわかっている。だけど……
「それでも、気になるものは気になるんだよ」
「……まあ、それについては俺だって同感なんだけどさ」
 気まずそうな顔で祐一も同意する。しかし、すぐにまた面倒くさそうな顔に戻る。
「だけどさ、聞き間違いとかいうことは無いのか?」
「――まったくないとは言い切れないけど、でもたしかにそう言ったと、わたしは思う」
「だけど、秋子さんのただの知り合い、って可能性だってあるんじゃないか?」
「そうだけど、でも女の人を名前で呼ぶのって、それはただの知り合いとは違うと思うよ。お母さんの歳なら、なおさら」
「そんなもんか?」
「うん、祐一くらいだよ。女の子に平気で名前を呼んでいるのって」
「………………」
 思うところがあるのか、不服そうな顔をしながらも祐一は反論しなかった。





「でさ、それで俺にどうしろって言うんだ?」
 居た堪れなくなったのか、それともわたしの考えに納得したのか、祐一はそんなことを訊いてきた。
「別に、何をして欲しい、ってわけじゃないんだけど……」
 わたしは、ただ祐一に話を聞いて欲しかっただけだし、実を言うとそれ以上は何も考えていなかったりする。
 祐一はわたしの心情を悟ったのか、
「お前、実はアホな子だろ」
 と心底人を馬鹿にした目をしながら言う。
「でも、拾っちゃったし、財布。それに免許証まで入っていたし」
 どうするかねぇ、と二人で溜息をつく。 
「なにも知らない振りして警察に届けるのが無難だよな」
「それはまあ、そうなんだけど……」
「それとも、秋子さんに訊くか? 『この免許証の人に見覚えありませんか』って」
「それもまた突飛だと思うし……」
 祐一は渋るわたしを半眼に見る。そして、再び溜息をついた後、口を開いた。
「つまり、アレだろ。もしその男が名雪の父親なんだったら、また会えるとは限らない。でも、常識的に考えて偶然であった男が父親だったなんて状況はほとんどありえないし、そもそも生きていると聞いたことが無いのだから、なおさらそんな可能性が低いという事だって分かっている。しかし、死んでいるとも断定できない上、『生きていて欲しい』『生きていて欲しくない』の二律相反の希望的観測まで入って踏ん切りがつかなくてぐだぐだ、と」
「――――――」
 それこそ、まさに正鵠を射ていた。
 そもそも、わたしが既にお母さんにお父さんの事を聞いていれば こんなもやもやとした気分にはならなかっただろう。
 まさに、自業自得。わたしが臆病者であったツケが、今ここに現れただけだ。
「名雪。俺が思うに、さ。結局はお前が決めなくちゃいけないことだと思うぞ」
 祐一はわたしの目をじっと見ている。
「お前が今をどう思っているかにもよるんだよ。訊かなければ後悔するかもしれないけど、だけど少なくとも現状維持はできる。変に秋子さんの過去をほじくって、気まずい思いをするのも回避できる。それだって立派な決断だ」
 黙っているわたしを見て一呼吸おいて祐一は、だけど、と続けた。
「これは、多分いい機会だと思うぞ。お前が秋子さんだったとして、いつ父親の話をする? そんなの、ある程度機会がないと踏ん切りがつかないに決まっている。だけど、お前が訊けばそれは十分告白する機会になりうる。今までは親子二人で話し合う機会が作れなかったのかもしれないが、この免許証の人物が他人だったとしても、これはちょうどいい機会じゃないのか?」
 なおも黙るわたしを見て、とにかく、と祐一は言った。
「どちらにしても、決めるのは名雪だ」
 話は終わりだ、と言外に言っていた。無言で出て行くわたしに、最後にと声がかけられる。
「話をするなら、早いほうがいいぞ。決断は時間を経るごとに鈍っていくからな」
「――うん、わかった」
 わたしはそう言って、ドアを閉めた。





――幕間――





 次の日の土曜日。名雪は、件の男と待ち合わせをしたとかで、夕方近くになって外出していった。
「急なお仕事で、夕方までお仕事なんだって。勤め人も大変だよね」
 昨日、その足で連絡を取っていた名雪は、そう評した。連絡には、免許証の電話番号を使ったらしい。
 かくいう俺たちも、土曜日は半ドンとはいえ授業があったので、昼までは一緒に行動していた。
 その後は、期末テスト前だということでその対策に取り組んだ。
 適当に休憩しつつ、それぞれを大まかに全教科を洗い流すと、いつの間にか夕方になっていることに気付いた。
 喉が乾いたので一階に下りると、リビングで秋子さんがコーヒーを飲んでいた。
「飲みますか?」
「いただきます」
 ありがたく頂戴することにして、自分のカップを取り出してテーブルに置き、ソファーに座る。
 こぽこぽこぽ。
 カップからコーヒーが湯気を立てている。
 それを一口。ブラックの喉を焼くような感触。
 向かいに座っている秋子さんは、角砂糖とミルクをおかわりに入れて、それをかき混ぜている。
 ずず、とコーヒーをすする音と、ときおりスプーンがカップに当たる音。
 そんな静かな時間がほんの少しだけ過ぎて、やおら秋子さんが口を開いた。
「昨日、名雪に父親のことを聞かれました。――あれは祐一さんの差し金ですか?」
「そうですね。見方によってはそうなるのかもしれませんが、俺はなるべきときにそうなるように、ほんの少し後押しをしただけです」
「そうですか。それはありがとうございます。あの子は何も無かったらそんなこと絶対に訊く様な子ではありませんでしたし、わたしも話すことは無かったでしょうから」
「内容はあえて訊きませんけど、名雪は父親の事を聞いて、なんて言ってました?」
「いえ、名雪もわたしに詳しい事情は訊ねませんでした」
「はい?」
 そんなの、おかしい。それは、名雪にとって十年以上も気にしてきた疑問であったはずなのだから。
「それじゃあ――名雪は何を訊いたのですか?」
「あの子が訊いたことは、一つだけです――父親の名前だけを」
「たった――それだけ?」
「はい。そして――残りは一生訊かない、と。そう言いました」
 そんな、馬鹿な。たったそれだけで、納得したというのか。
 俺は、名雪の考えが理解できなかった。この事態が納得できなかった。
 名雪は――諦めた、というのか。現状維持に逃げたというのか。
 俺は、確かにそれも選択肢の内の一つだと言った。だが、それでも現実に実行されるとは思っても見なかった。
「祐一さん」
 呆然とする俺に、秋子さんは穏やかに笑って言う。
「名雪の考えは多分、祐一さんの考えていることとは違うと思いますよ」
「何故ですか」
「名雪はあれで聡明な子ですし、私はあの子の様子はずっと見ていました。その上で、断言します。あの子は、あの子なりの決断をしたはずです。そしてそれは、彼女の最も望んだ選択です」
「わかりません。わかりませんよ。何故秋子さんは、そんなことがいえるのです」
「わたしは、あの子の母親ですから。名雪が何故そういう選択をしたのかは分かりませんが、それをあの子がどういう覚悟でしたのかは、十分分かっているつもりですから。これは、祐一さん。貴方にはまだ絶対に理解し得ないことだと思います」
 秋子さんは、そう断言した。
 その顔は、どこまでも自信に満ち溢れている。そしてそれは、我が子に対する絶対的な信頼だった。
 悔しかった。
 名雪の彼氏となってもなお、その母親には追いつけないこと。
 そして、その言葉を聞いてもなお、その真意が理解できなかったことに対する自責。
「悔しいです。とても、悔しいです」
「しかし――こんなことを言っていいものかどうかは分かりませんけど、男女の関係とはそういうものですよ」
「それでも、俺はなお名雪が理解できません」
「理解する必要など無いのですよ」
「何故ですか」
「そういうものだからです」
「なら、俺はどうしたら良いのですか? このまま、納得しろ、と? 見て見ぬ振りをしろ、と?」
「それは違います。信頼と放任は似て非なるものです」
「では、どうしろというのですか?」
「それは、祐一さんが考えてください。そして、名雪ともっと話してください。――そうすれば、きっと名雪をもっと信頼できる時が来るはずです」
 俺は、ただ下唇を噛み締めていた。
 秋子さんの言っていることは、おそらく正しい。
 だが、それでもなお、俺にはそれを受け入れることはできなかった。
 それは、自分の価値観――家族への感情から、真っ向から反対するものだったから。
 秋子さんは、そんな俺に穏やかな笑顔を向ける。
「祐一さん。貴方は名雪の父親に興味があるのですね」
「はい。名雪も、きっとそうだとばかり思ってました」
「――よければ、貴方にはお話しましょうか?」
「え――?」
「名雪は必要無いと言っていましたが、それは十年以上も考え、この家の事をあの子なりに納得しているからです。ですが、祐一さんは違うでしょう? 貴方には、これはいつかは話さなくてはいけないことです」
「俺に、そんな権利があるんですか?」
「それは、貴方が決めることです。ですが、名雪がこの話を今後封印すると決めた以上、今日以降私がこの話をすることは無いと思ってください」
 一瞬考え、そして答えは一瞬で出た。
「申し訳ありません――教えてください」
「何故謝る必要があるんですか」
「だって、俺はもっと名雪が知りたい。名雪が知らないですら知りたいんです。でも、俺は秋子さんの好意に甘えて、今そこに土足で踏み込もうとしている」
「何を言っていますか、祐一さん。私が許したのですから。それに、私がもし死んでしまったら、それをいつか名雪に伝えてくれる人がいなくなってしまいます」
 その一言で、一瞬体が硬直した。
 言いたかった。そんなことを、言わないでください、と。
 言えなかった。それは、ほんの一月前には現実として襲ってきたのだから。
 そして、ほかならぬ秋子さんは、数日前までは入院していたのだから。
「ちなみに、姉さんたちや私の両親にもこれは伝えていません」
 聞いてくれますね?
 秋子さんは言った。
 俺は、首を縦に振るしかなかった。





それは、二人の男の子と女の子の話。二人は、幼馴染だった。

男の子は、とても優しい子。いつも困っている人を助けていた。

女の子は、とても優しい子。いつも困っている人を助けていた。

似たもの同士の二人は自然に出会い、自然に恋をした。

それは、本当にありふれた関係で。

普通に愛し合って、手を取り合って、たまに喧嘩もしたりして。

それでも、二人はおおむね幸せだったのだった。

でも。





二人は結局、結婚できなかった。





――幕間、了――





 待ち合わせは、駅のベンチを指定した。
 北国の三月はまだ寒く、コートを着ていても凍えそうだった。
 街の中心へ向かうにつれて、人が多くなる。
 人ごみの中を、わたしは一人駅へ向かって歩いていた。
 空は晴れているが、日はもう少しで沈もうとしている。
 わたしは、これからのことについて思いをはせていた。
 少し憂鬱になって、首を振る。
 わたしは、決めたはずだ。
 その決断は、決して間違いっていない。そう信じる、と。
 ほどなくして、駅前に出る。
 ベンチはすぐに見つかった。
 そこには待ち合わせまであと十分あるというのに、財布の持ち主の男の人がいた。
 向こうはまだわたしに気付いていない。
 少し遠くからその横顔を眺め見る。その顔は夕日に照らされて赤く染まっていた。
 わたしは、お母さんから聞いた、わたしのお父さんの名前を思い出す。
 そして、拾った財布の免許証を見る。
 昨日の夜、何十回も繰り返した動作。
 そこには、お母さんから聞いたその名前が印刷されていた。





 二十分ほどその顔に見とれていてしまい、結局十分遅れでわたしは男の人に声をかけた。
「すみません、遅れました」
「いや、大丈夫。実は僕も遅れていたんだ」
 それが嘘なことはずっと見ていたわたしは知っているし、そうでなくても寒そうな顔を見れば一目瞭然だ。
 改めて、その顔を見る。
 よく見ると、意外なほど童顔だった。柔和そうな顔つきだけれど、どこか頼りなさそうな顔つき。
 若々しさで言えばお母さんとそう大差はなさそうだった。
 そう、この人が――わたしのお父さんとなるべき人だった人。
 そう思うと、胸がぎゅっと締め付けられるような思いだった。
「それで、持って来てくれたかな?」
「はい、これですよね?」
 そう言って、ポケットから拾った財布を取り出す。わたしとこの人を繋いだ糸。
 それに一瞬だけ思いをはせ、すぐにわたしはそれを差し出していた。
「うん――これだ」
 男の人は財布を受け取る。そして、偶然という名でつむがれた糸は断ち切られた。
「一寸待ってね、中身を確認させてもらうから」
 男の人は、簡単に中身を覗き見ている。だけど、もともとそんなに沢山物が入っていたわけでもなかったので、それはすぐに終わった。
 本来ならばここで全ての用は終わったのだけれど、男の人は笑って言った。
「あ、ところで、寒い所呼んじゃったんだし、何か温かい物でも奢ろうか?」
「――はい、いただきます」
 一瞬考えて、わたしはその申し出を受けることにした。


 


「コーヒーでよかったかな?」
「はい、ありがとうございます」
 そう言って、温かい缶コーヒーを受け取る。
 指が痺れるようなその温かさが気持ちよかった。
 ベンチに座って、ちびちびとコーヒーをすする。
 その右隣では男の人が缶コーヒーを開けるでもなく、手でもてあそんでいる。
 日は既に暮れ、しかしそれほど暗くも無いので街灯の類は点いていない。
 自分の生みの父親を見るではなく、ただ目の前の人の流れを目で追っていた。
 会話も無い。ただ、ベンチで並んでいただけだった。
 そう、不要な会話は必要ない。むしろしてはいけない。
 わたし達はそうなるべきだし、そうするのだと決めたのだから。
 第一、この状況だってそもそも良くないのだ。わたしは一気に缶の残りを飲んだ。
 立ち上がって、空になった缶を近くのゴミ箱に放り込む。
「それじゃあ、日も暮れたことですし、もう帰ろうと思います」
「そうだね。君の両親も心配していることだろう」
「そう――ですね」
 返事をして、やおらわたしはポケットの中を探る。目的のものを見つけ、それを差し出す。
「お礼にお礼、というのも変ですけど。良かったら、食べてください」
 取り出したのは、レモン味の飴。昨日の飴のお返しのつもりだったのだけれど、コーヒーの分も兼任。
「いいのかな?」
「わたし、あまりすっぱいのは好きじゃないんです。いえ、イチゴのすっぱさはまた別ですけれど」
 くすり、と男の人は笑って、
「それじゃあ、いただこうかな」
 そう言って、左手を差し出した。その手に飴を落とす。
 昨日倒れたときにも出されたその手の薬指には、銀色の指輪がはめられていた。





 その瞬間は、一日たったいまでも克明に思い出せる。
 アキコ
 わたしに対する感想であるその三文字と、銀色の指輪。
 お母さんは旧姓のままであることは知っていたから、それでわたしは悟ってしまったのだった。
 枝葉末節はともかく、わたしにお父さんがいない理由と、そのお父さんの現在。
 そして、理解してしまったのだった。
 わたしは、絶対にお父さんのその腕に抱かれることはできないのだ、と。
 祐一と話し、お母さんに裏づけを取って、そしてわたしは決意したのだった。
 もう、お父さんのことは諦めるのだ、と。





――幕間2――






ある日、もう一人女の子が現れた。

その女の子は、とても可哀想な子。

彼女の家は、いつも苦しみにあふれていた。

愛することも愛されることも知らず。

ましてや助けてくれる人がいるなんて信じることもできず。

たった一人で、つらいつらい日々を送っていた。

だけど、その女の子は助けてもらった。

助けてくれたのは、幼馴染の二人の男の子の方。

女の子は、男の子に恋をした。

男の子は、困ってしまった。

男の子も、その女の子を好きになってしまったのだった。

男の子は、とても迷った。とても長い時間、迷った。

でも、彼は決められなかった。

なぜなら、迷っている間に、二人の女の子のお腹には両方とも赤ちゃんがいることが分かったのだから――





「こう言っては何ですけど。悪いのは、完全にその男ですよね」
「当然です」
 秋子さんには珍しく、憤慨した表情で言った。
「それで、それからどうなったんですか?」
「その女の人の家は、当時とても酷い状態だったそうです。彼はどちらを選ぶとか問題ではなく、その人を見捨てることはできませんでした。だから――生活力のあった私たちが捨てられることになりました。当時の私の家は裕福とはいえなかったとはいえ、両親も健在でしたし」
「そんなこと――秋子さんと名雪を捨てる理由にはなりませんよ」
「はい、ですから――わたしは、慰謝料と養育費をめぐって、訴訟を起こしました」
 その言葉に、俺は少なからず驚いた。いつも穏やかな笑顔を浮かべているこの女性と裁判が、どうしても結びつかなかったからだ。
「わたしは、弁護士とともに、徹底的にあの人をこき下ろしました。そして、あちらの経済事情は並み以下だというにもかかわらず、相場以上のお金を手に入れることができました。それは、さぞやその後のあの人の家の家計を苦しめたことと思います」
「何故、そんなことを?」
「何故? 生きるために決まっています」
 その顔は、いつのまにか、いつもの穏やかな表情ではなく仮面のように無表情で、まるで機械のような顔だった。
「子供一人育てるのに、どれだけ手間と時間とお金がかかるとも思いますか? お金だけでも数千万は覚悟しなくてもいけないのですよ? 当時、ただの学生だった私に、他にどうやって大金を用意できますか? 無理です。絶望的に、無理です。ですから、その分は私を捨てたあの人がある程度まで負担するべきだったのです」
「――――」
 俺は、何も言えなかった。
 秋子さんの、すさまじいまでのその決意に。
 俺は、誤解していたことを恥じた。
 秋子さんのその顔は、仮面でも機械でもない。愛する子供を守る、母親の顔だったのだ。
「そのあとは、私は一年休学した後、必死になって大学を出ました。そのあとは、当時一人暮らしをしていたアパートを出て、実家に戻りました。当時、専業主婦だった母に名雪を預けていましたから」
 秋子さんは、目をつぶった。その目蓋の裏には、きっと当時のことが映画のように映し出されているに違いない。
「そのあと、私は必死になって働きました。当時、父はあと一年で退職でしたから。友人の口利きで比較的自由な職場を紹介してもらい、働く一方で母の手も借りて名雪の世話をしました。そうして、父は退職。収入は減りましたけど、人手は増えました」
 ですが、とまた少し険しい顔になる。
「あの人は、いまだに家の近所にいました。顔を合わせることは滅多にありませんでしたが、それでも彼は既に例の女性と結婚していたので、いずれ名雪が顔を合わせるかもしれないと思うと、ぞっとしませんでした。そこで名雪を生んでから二年ほどして、ある程度手のかからなくなった所で、私は両親の反対を押し切って、この町にやってきたんです。私にとって、あの人はそれほどに忌まわしい存在でした」
「そうして、あとは――?」
「そのあとは、特に困ったことはありませんでした。雪国の暮らしは大変でしたが、職場に恵まれたこともあって、それなりに良くできたと思います」
 そうして、話は終わった。
 俺は――最後に一つ、訊きたいことがあった。
「秋子さん。その人を――今は、どう思っていますか?」
「そうですね。二年以上前――名雪が義務教育を受けて、そのための養育費をもらっていた頃ならば、『憎んでいる』と即答したと思います」
「では、今はなんとも思わないのですか?」
「だって、彼はもう全ての支払いを終えましたから。全ての縁が切れて二年。正直、もう彼についてはどうでもいいと思っています」
「そんな簡単なものなのですか?」
「そういうわけではないのですけれど。ですが、憎んでいるうちは縁が切れたことにはなりません。想うこと、それ自体も縁となりうるのですし、想っている内は他人ではありません。ですが祐一さん。全てを忘れて、ようやく私たちは他人となったのです。それは、私にとっては喜ばしいことであると想っています。そして、他人だからこそ、名雪があることを了承できたのです」
 そう言って、秋子さんは首を鳴らした。
「少々、話し疲れましたので、これで終わりたいと思います。これが最期なのですから、何か質問はありますか?」
「それじゃあ、一つだけ。秋子さんの職場って、いったい何処ですか?」
 その質問に、秋子さんはほんの少しだけ笑って。
「それは、企業秘密です」
 そう答えたのだった。





――幕間2、了――





「では、さようなら」
「うん。足元と人通りの無い道には気をつけなよ」
 そうして、呆れるほどに、呆気なく。
 わたしは男の人と別れたのだった。





 夜空を眺めつつ、家路につく。
 まだ宵っ張りということで人通りも少なくは無いが、しかし家に近づくにつれ、一人、また一人といなくなり、最後には道にはわたししかいなくなっていた。
 雪がまだ残る道を、ゆっくりと歩く。しゃりしゃりという音だけが周囲に響く。
 やがて辿り着く。我が家へと。
 そしてその言葉を。

「ただいまー」

 そうして、わたしは家に入ったのだった。





 夜になって、祐一に呼び出された。
 場所は、二人の部屋の共通のベランダ。
 二人で並んで手すりにもたれかかる。
 少しの沈黙の後、祐一は口を開いた。
「名雪。結局、これでいいのか?」
 それは、わたしの親の話だろう。
 わたしは、苦笑して言った。

「祐一。良いも何も、わたしにはお父さんなんて、いないんだよ」

 そう、あの人のことは、わたしは知らない。知らない人は、他人だ。
 他人ならば、良いも何も言いようが無い。
 それは、あの日に決め、そして今日再び誓った絶対の決意だった。
 祐一は少しだけ難しそうに眉をひそめて、
「そうか」
 と言った。
 わたしたちはどちらとも無く抱き合って、キスをした。






――終幕――





 そうして僕は、その女の子を見送った。
 女の子の背が人に飲まれて、数秒にはもう見失っていた。
 その姿を思い出す。
 僕が愛した少女。
 僕が捨てた少女。
 十六年間は、死ぬ気で働いた。
 彼女を恨んだこともあったけれど、それすらも力にしてがんばった。
 僕が愛している女性と、我が娘を守るために。
 そして、贖罪は終わった。
 今日までの二年間は、抜け殻のようだったような気がする。
 気が付いたらこんな北国まで単身赴任させられて。
 先程の少女を思い出す。
 彼女の母親そっくりで、しかも僕のことを一度も肉親だと気付いたそぶりを見せなかった所なんか、特にそっくりだった。
 しかも、それでいても要所要所で動揺してしまう所もそっくりだと思った。
 そんなことを考えているうちに、いつのまにか彼女を自分の娘ではなく他人の娘であると認識していることに気付き、苦笑する。
 ふと、もらった飴玉の袋を開ける。
 コーヒーと一緒にそれを口に入れる。
「――すっぱいな、まったく――」
 人ごみをぼうと眺めながら、僕は実家にいる妻と娘に思いをはせていた。





fin.
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