「ふふっ」
 あどけない顔に妖艶な笑みを浮かべた栞が、仰向けになった俺の胸板を、まるでキャンパスに見たてているかのように指をなぞらせている。ことを終えたばかりの充実感と倦怠感に包まれている俺は、栞の行動にただ身を任せていた。そうして見上げるすぐ近くに、布団から覗く華奢な肩のラインが暗闇の中に白く浮きあがって、俺の目を強く引き付ける。
 雪はとうに消えうせ、遅い春を楽しむ声が、窓を通してよく聴き取れる夜だった。
「なあ、家に帰らなくてよかったのか?」
 休日を利用して泊まりに来た栞は、学校が終わるとすぐに俺の後を追いかけてきて、今夜もまた俺のベッドの上で翌日を迎えた。秋子さんにもさりげなく注意されたし、きっと向こうの両親は心配しているに違いない。さらに言えば世間体もよろしくない。そう言うと、栞は「両親は私に甘いですから」と笑う。いけないと思いながらも、俺はその笑顔につい流されてしまっていた。
「祐一さんは私が嫌いなんですか?」
 栞は手を止めると顔を胸に埋めて俺の問いに質問を返してきた。身体と身体が先程よりも密着して、覆い被さった髪の毛が俺の鎖骨をちくちくと刺激する。
「そんなつもりじゃないんだけどな、うん、栞がいいならいいんだ」
 暗闇に慣れた俺の目が表情を曇らせる栞の横顔を映した。このところ俺の言葉に過剰な反応を見せるようになった気がする。だからこそこんな時に気分を損ねるのはよくない、俺はあいまいに話をごまかした。
「よかったです」
 安堵のため息を漏らして、栞がそのまま唇を合わせてくる。濡れた唇が一瞬触れ、そして離れた。
「私のことずっと好きでいてくれますよね」
 栞の口からこぼれる熱い吐息が俺の耳朶をくすぐる。
「ああ、もちろんさ」 
 夜を共にする時、こうして必ず確認してくるのもあまり気にはならなくなってきた。けれど一途な栞の想いが重荷になってしまった時、どうなってしまうのか……俺はすぐに頭の外に追いやった。
「また、したくなってきちゃいました」
 栞が俺の胸に頬を擦り付けてくる。そんな栞に微妙な温度差を感じながらも俺は頷いていた。くだらない思考なんかより、男の本能が快楽に溺れることを欲していた。



「おはようございます」
 日が昇らぬうちにこっそりと家を出た栞は、俺の登校時間に合わせるかのように何食わぬ顔で通学路に立っていた。うららかな日差しはそれだけで眠気を催して、俺はあくび混じりの返事を投げ返す。
「よお」
「あ、おはよう……」
 一緒にいる香里がそう言いかけてびくっと肩を震わせた。
「ん? どうかしたのか?」
 その反応を不審に思った俺は思わず首を傾けた。するとまるで香里を遮るかのように栞が体を滑りこませてくる。
「今日も素敵な朝ですね」
「ああ、そうだな」
 その行動に違和感を覚えたものの、栞を無視するわけにもいかず、俺は言葉を返した。
 そういえば、このところ香里に元気がない。栞とようやく一緒に通えるようになった時の、うれしそうな表情を見ていない。それどころか、あの頃よりもさらに沈んでいるように見える。
 どうしてなんだ、俺を避けるように寝ぼけた名雪とぎこちなく会話を続ける香里を見ながら、仕方なしに俺は栞を相手にする。
 俺からは香里に避けられるようなことをした覚えはない。ひょっとすると自分の妹が俺ばっかり構うのが面白くないのかと思っていたが、そうではないようだ。
 まさか、昨日のことか?
「どこ見ているんですか?」 
 うわの空の返事に栞が唇を尖らせる。
「祐一さんは私だけを見ていればいいんですよ」
 栞越しに見える香里の作り笑顔のせいで、どうにも腑に落ちなかった。そのうちに遅刻しそうになってみんなで走ることになった。



「なあ、栞と何かあったのか?」
 機を覗っていた俺は、教室にひとりたたずんでいた香里を見つけると、さっそく声をかけた。窓から差しこむ太陽の光が教室に長い影を落として、香里の姿を赤く染めている。
「な、なんでもないわよっ」
 滑稽なほどうろたえて、怯えきった瞳を落ちつかなくさ迷わせる。俺の質問をごまかそうとする姿からは、学年一の秀才と謳われる姿は微塵も感じられなかった。
「喧嘩でもしたのか? せっかく仲直りしたのにな」
「仲直りなんて……」
 言いかけた香里が息を飲む。
「あ、あたし、ちょっと用を思い出したから」
 叫ぶようにまくし立てると、俺の返事を聞かずにその場を立ち去ってしまった。
「おいっ」
 さすがの俺でもこの反応は気になる。俺はすぐに香里の姿を求めて校舎を彷徨った。心当たりを順に辿っていく前に、まずは下駄箱を覗く。そこには香里の外履きが残されていて、まだ校舎内にいることを俺に教えてくれた。
 となるとまずは……俺は階段を駆け上がって一年生のクラスを目指す。
「いた」
 あっけないほど簡単にふたりが見つかって、正直俺は拍子抜けしていた。それまで感じていた不安はどこへやら、俺はふたりに声をかけようとして……そして立ち止まった。
 俺がいる場所からは微笑んでいる栞の表情しか目に入らない。しかし、香里の背中から感じる緊張は、どうしても姉妹の微笑ましい語らいには見えなかった。
「お姉ちゃん……なに勝手に私の祐一さんに声をかけてるのかな?」
 俺は耳を疑った。口を開いた栞の言葉が一瞬理解できなかった。おどおどする香里を下から覗きこむようにする栞は、それでもいつもの笑顔だった。
「ち、違うのよ、あたしは栞から相沢君を取ろうだなんて考えていない」
「へえ、そうなんだ」
「ほ、ほんとよっ!」
 透明な笑みを浮かべながら、ゆっくりと香里に近づいていく。早口で弁解する香里のただならぬ雰囲気に、俺は間に入るべきか迷ったままドアに手をかけていた。
「信じられないなあ」
 香里があとずさる。
「信じ」
 栞は鞄を振り上げると、躊躇いもなく香里の顔面に叩きつけた。
「きゃあっ!」
 香里が顔を押さえてその場にうずくまる。
「し、栞っ? お前なにやってるんだっ?!」
 ここに及んで、ようやく俺の足が動いた。混乱する思考の中で、俺の意思はとりあえず香里を助け起こす行動を優先した。しゃがんで後ろから顔を覗きこむと、口の中を切ってしまったのか、口の端から血を滴らせている。
「わ、祐一さんに見られてしまいました」
 上から降ってきた栞の口調に罪悪感は欠片も感じられなかった。
「なんでだよっ!! なにがあったんだよっ!!」
 思わず香里から離れて栞の両肩を掴む、力の加減はできなかった、それなのに栞は眉ひとつ動かさない。
「見て分かりませんか? 躾ですよ。物覚えの悪いお姉ちゃんにはこうやって痛みとともに分からせないと、いつか過ちを犯してしまいますから」
 俺の言葉に淡々と答えながら、栞は足元に這いつくばる香里を容赦なく蹴りつける。そのたびに弱々しくうめきながら、すすり泣きを交えて謝罪の言葉を口にする香里と仁王立ちの栞を、俺は信じられない目で見ているしかなかった。
「謝るなら、きちんと私の目を見ていてくれないと」
 力を失った俺の両手が離れる。栞はしゃがみこむと香里の前髪を掴んで自分の許に引き寄せた。栞の静かな口調が、立ち尽くす俺の背筋を震わせる。俺でさえこうなのだから、至近距離で聞かされる香里はたまったものじゃないだろう。
「ごめんなさいっ、あたしは悪い姉でしたっ! 反省してますから許してくださいっ!」
「本当に反省しているの?」
 顔を血と涙と唾液でべたべたにしながら、香里が妹に哀願を繰り返す。
「もうやめろよっ!」
 直視できないくらい凄惨な光景に、俺は栞の腕を掴むと、強引に自分の方を向かせた。
「だって、お姉ちゃんてば、祐一さんに色目を使うんだもん」
 甘えの混じったすねた眼差し、こんな場面でなければ俺だって軽口を返せただろうに。
「香里がそんなことするわけ……」
「それですよっ、だいたいおかしいじゃないですか」
「おかしいってなにがだよ?」
 俺の言葉に栞が不機嫌そうに眉をひそめる。
「分からないのですか? では聞きますよ、祐一さんの他にお姉ちゃんを名前で呼ぶ男の人っているんですか?」
 栞の指摘に少し考えて、沈黙せざるを得なかった。すぐに頭に浮かんでくる級友は全て名字だ。あの北川でさえ、香里を名前で呼ぶことはない。
「だ、だからと言って……」
 反論しようとした言葉は栞の視線に封じられた。
「祐一さんは恋人である私よりも、お姉ちゃんの肩を持つつもりですか? そうですよね、頭のいいお姉ちゃんの言うことは全て正しいですよね。それに比べれば私なんて、もう一回一年生をやり直さないといけないくらいですしね」
「しおりぃ……」
 香里が弱々しげに手を伸ばす。
「私はお姉ちゃんみたいに美人でもありませんし、取り柄もありません。その気になったら勝ち目なんかありません……だからこうやって確認していないと不安でたまらないんですよ。祐一さんはそんな私の気持ちを分かってくれますよね?」
 すがる香里の手を栞が乱暴に振りほどく。
「ま、謝っているようですから許してあげます。祐一さん、一緒に帰りましょう」
 完璧に香里に興味を失うと、俺に澄みきった笑顔を向けてきた。その笑顔を、俺は初めて恐ろしく感じていた。



 無言のまま帰り路を歩く。さまざまな感情が渦を巻いて俺は何も話すことができないでいた。口を開けば聞きたいことはいくらでもある。でも、ちゃんとした言葉にならない。もどかしさで目の前の風景が歪んで見えた。
 そんなだというのに、隣の栞といえばいつもと変わらない表情で、今日の授業はどうだったとか、くだらないおしゃべりを繰り返していた。やがてそれにも飽きたのか、返事のない俺の顔を覗き込んでくる。
「私の話、そんなにつまらないですか?」
 答える気にもならない。人差し指を口元に当てて考え込むしぐさを見せると、栞はかすかに微笑んだ。
「この間病院で小耳に挟んだんですけど、七年も寝たきりだった女の子が息を引き取ったそうですよ」
 まるで今日の夕食は何が食べたいとでもいうような軽い物言い、真意をつかみかねて思わず横を向く。正直、俺達にはまったく関係のない話に思えた。
「それが……どうしたんだよ」
 言葉の重さとは対照的に栞は愉しげだ。
「名前は確か、月宮あゆさんというそうです」
 ツキミヤアユ。
 つきみやあゆ。
 月宮。
「え?」
 瞬間、時が止まった。目に入る世界が一瞬にしてモノクロに置き換わる。
「月宮……あゆ?」
 すっかり記憶から消えていた名前が栞の口から出され、俺は身体全部が石になってしまったかのように動けなくなってしまった。
「知らなかったんですか? 祐一さんと初めて会った時、一緒にいた女の子の名前が確かあゆさんと言ったような?」
 まるでその反応を予想していたかのように栞が深くうなずく。
「あゆが……そんな寝たきりって、それに……」
 じゃあ、あの時のあゆは一体なんだっていうんだ、探し物があるって言ったきり消えたあゆが、一体どうして病院で亡くなっているんだ……栞の衝撃の告白のせいで、あの香里の姿すら吹っ飛んでしまっていた。
「ふふっ、思いだしました。そういえばエアーホッケーで遊んだこともありました」
 ね、と小さく呟く栞に、俺は何も言うことができない。
「本当に不思議な話ですよね。寝たきりの女の子が祐一さんと一緒に歩いていたり、こうしてお医者さんからも見放された女の子が助かったり」
「栞……」
 乾いた唇がしわがれた声を紡ぐ。
「ねえ、あのまま祐一さんの隣にあの人がいたら、助かっていたのは私じゃなかったかもしれないんですよね」
 栞が俺の反対側の空間を見る。そこには誰もいない。しかし栞の瞳は誰かの姿を確かに捉えていた。
「そんなのただの偶然だろ……」
 迂闊だった。それは言ってはいけない言葉だった。俺の一言に、栞が物語にでてくる悪い魔女のように目を見開く。
「偶然、そんな一言で片付けられてしまうんですか。私はそんな一言で助かってしまったんですか。そうですね、確かに私は奇跡を願いました、それは偶然みたいなものです。でも仕方ないじゃないですか、全てから見放された私には奇跡にしかすがるものしかなかったんですから」
 まくし立てる栞に俺は黙って聞いているだけ。
「そんな時に現れてくれたんですよ、祐一さんが」
 一転して熱に浮かされた眼差し、夕焼けの赤とあいまって、その瞳に俺の心が取り込まれていくようだった。
「おかげで私はこうして元気になりました。祐一さんに恋人にしてもらって、なんて幸せで……でもね」
 また表情が目まぐるしく変わる。かつて学校の行事で観た演劇の登場人物のように栞は表情豊かだ。それは本来彼女の魅力を引き立たせているはずなのに。
「ふと我に返って、どうして助かってしまったんだろう、そう考えた瞬間、急に怖くなってしまったんです」
 怖くなった? 俺の疑問が視線となって栞にぶつかっていく。
「誕生日まで生きられない、幼いころからずっと病院と家を行ったり来たりの私が、なんの治療もせずにこうして元気になってしまったんです、祐一さんのおかげで」
「だから俺は何も……」
「奇跡ってすばらしいですよね……でもこれってどこまで続くんでしょうね? もしかすると明日になったら、私はまた病院のベッドに横になっていないといけなくなるのかもしれません」
 まるで雨に打たれた雛鳥のように身体を震わせる。それはかつて俺が守ってあげたいと思っていた姿なのに。
「もう嫌です……もう、あんな日々は嫌です……私は、祐一さんと別れる気はありませんからね。いつ死んでしまうか怯えた日を過ごすなんて絶対に嫌ですからっ!」
 叩きつけられる栞の言葉に、俺はどうすることもできないでいた。
「だからって、あんなことをしてもいいという理由にはならないだろう……」
「お姉ちゃん、祐一さんのことが好きだから」
 冷え切った眼差し。
「いや、そんなことは……」
「祐一さんは鈍感ですね、そんなことじゃ女の子に嫌われてしまいますよ」
「だからそんなことは」
 ないと言おうとした言葉を遮られる。
「へえ、祐一さんはひとつしか離れていない妹よりも、お姉ちゃんのことを分かっているんですか、嫉妬しちゃいますね」
 何を言っても逆効果にしかならない、早く嵐が通り過ぎて欲しい。弱気になっている自分がいる。笑い飛ばしてしまえばいいのに、そうすることを許さない空気。
「それに、あゆさんだって……」
「なにがだ」
 聞き返す俺に向けられる名状しがたい笑み。買い物帰りと思わしき女性が俺たちを見て眉をひそめながら通り過ぎていく。
「あゆさんはきっと祐一さんのことが好きだったんですよ」
「やめろ……」
 急に頭が割れるように痛みだした。顔をしかめながら手で押さえる俺に、容赦なく栞が追い討ちをかけてくる。
「だって、あんな姿になってまで会いにくるんですから。ふふっ、ドラマみたいなお話ですね。私たちにとっては紛れもない現実でしたけど」
 栞の言葉にあわせるようにずきずきと痛む頭。
「それ以上言うな」
 言葉として抜けていく思考の隙間に入り込むように、ぼんやりとしたイメージが浮かんでくる。それはたぶん幼いころに見た景色。それがまた俺の精神を痛めつける。
 呼吸が苦しい、手足の先が痺れて感覚がなくなっていく。
「可哀想ですよね、祐一さんに忘れられてしまって」
「言うなって言ってるだろっ!」
 立っていられなくなり、俺はその場に座り込んでしまった。すぐ側をクラクションを鳴らして車が通り過ぎていく。
「ご、ごめんなさい」
 俺は助け起こそうとする栞の手を突っぱねてその場にうずくまった。だから、傷ついたような栞の眼差しに俺は気がつかないでいた。



「栞があんなことをしていたなんて」
 なによりも今まで気がつかなかった自分に腹が立ってくる。けれど、香里が栞を突き放していたのは事実。栞の気持ちも分からないではないのだ。
「分からないわけではないけどな……」
 栞がかつて俺に漏らした、夜中にふと目が覚めた時の恐怖感、それは俺には絶対に分からない。分かる、そう思うこと自体が傲慢なのかもしれない。
 しかし、美坂栞という少女は他人を責めるよりも先に、自分に何か非はないか考える心優しい女の子だったはず。だからこそ香里だってあんなに苦しんだというのに。
「変わらずにはいられないってことか」
 そして何よりもあゆのこと、二重のショックに打ちのめされた俺にはベッドの上にたどり着くのが精一杯だった。
「わ、暗い。電気もつけないでどうしたの?」
 目を焼くような明るさに急に現実に引き戻される。
「もうすぐご飯だからって、呼びに来たんだけど」
 ドアから顔だけ覗かせた名雪の姿が見えた。しかし、今の俺には食欲どころか、立ち上がる気力すら湧かない。
「悪いけど、今は食欲がないんだ」
 目を閉じると、左右から俺を見つめる香里と栞の表情が重なっていく。かつて見た香里の冷たい表情が栞に、栞の相手の顔を覗うような表情が香里に移っている。
「どうしたの? 元気がないよ?」
 説明することもできず、俺はただ疲れたんだとしか言えなかった。
「香里もここ最近元気がないみたいだし、どうしたのかなあ」
「名雪は気づいていたのか?」
 顔だけ上げる。聞き返してから当たり前だということに気づいた。
「それはもちろんだよ。香里とは長い付き合いだしね、どうしたんだろう、心配だよ」
 栞のことは気づいていなかったけどな、そう言いかけてやめる、名雪にまで嫌な気分にさせてどうする。
「祐一には心当たりがある?」
「いや、分からない……」
 言えるはずもない、そうかぶりを振ろうとしたその時、あの光景がフラッシュバックした。俺はこみ上げる吐き気を喉の奥でなんとかこらえる。
「だ、大丈夫?」
 近寄ってくる名雪をなんでもないと手で制する。少し怪訝そうな表情を浮かべた名雪はそれでも俺の言うとおりにしてくれた。
「ごめん、祐一は疲れているんだよね。お母さんには言っておくから、ゆっくり休んでいてね」
 さり気ない優しさが、思いがけないほど心に響く時がある。少しの間だけでも溺れていたかった。が、そのことが間違いだったことに気づくのにそう遠くもなかった。



 しかし、日常を繰り返すうちに記憶が少しずつ薄れていく。ささくれ立っていた心を時間が癒してくれている。人間とは便利にできているものだ。
「名雪さんって、祐一さんの幼馴染なんですよね」
 ずっとこの日常が続いてくれと願わずにはいられなかった。だからことさらに騒ぎ立てるつもりはなかった。栞だっていつか気づいてくれるだろう、そう思っていた。
「そうだな」
 とはいえ、いきなりの栞の言葉に少し警戒心が混じる。正直、真意が分からなかった。ここ数日何も起きなかったとはいえ、栞と一緒にいるとあの日の光景がどうしても目の前にちらついてしまう。
「名雪さんが羨ましいなあと思いまして」
 ちょこんと俺の隣に腰掛けた栞がそう言って小首を傾げた。
「そうか?」
 雪の消えた中庭には、俺たちの他にも昼食をとる生徒たちが増えてきて、なかなかの賑わいを見せていた。同じように弁当を広げておしゃべりに花を咲かせる女生徒や、端のほうでサッカーボールを追いかける生徒たちがのどかな風景を見せている。
「ええ、だって、祐一さんと一緒の家に暮らしているわけですよね? お願いしたら代わってもらえますかね」
「そんな簡単にいくわけがないだろ」
 そう、妙な緊張感が漂っているのは俺たちの周りだけ。
「そうですか、残念です」
 本当に、同一人物なのだろうか。しゅんとした姿をまじまじと見つめながらそう思う。こうして俺のためにお弁当を用意してくれて笑顔を向けてくる栞と、香里を眼の敵にするあの栞と。
「祐一さん、そんなに見つめられると恥ずかしいです」
「ごめん」
 そのせいか、なんとなくかじった唐揚げは不思議な味がした。



 なんだか授業に身が入らない。慣れない考えごとのせいかいつもよりも疲労感を覚え、俺はまっすぐ家に戻った。いつものように秋子さんの用意してくれる夕食を詰めこんで、だらだらとした時間を過ごす。
「なんで、ひとりでいる時間がこんなに気が休まるんだろう」
 ため息をつくしかない。秋子さんの手料理のおかげで元気を取り戻した自分が、なんだか現金な奴に思えてくる。
「祐一、お風呂開いたよ」
「サンキュ」
 そう言ったきり名雪が俺の顔を眺めていた。見慣れない行動に戸惑いと少しの気恥ずかしさを感じる。こんなふうに見つめられるなんて、いくら従兄弟とはいえ新鮮で、いやでも名雪が同世代の女の子だということを実感してしまった。
「ん、どうしたんだよ」
 名雪が薄いパジャマ姿だということもあるかもしれない、栞とはまた違った魅力に、俺はなるべく意識しないように声をかける。
「え、ああ、しばらく元気がなかったじゃない。よかったなと思って。栞ちゃんとうまくいっているみたいだね」
「心配してくれていたのか、ありがとな」
 礼を言うと、名雪がほっと笑顔を浮かべて、そして表情を気遣わしげなものに変えた。
「あのね、よかったら香里のことも元気付けてくれないかな? わたしが聞いても答えてくれなさそうだし。北川君も心配はしているみたいなんだけど」
「そうか……」
 気が重くなる。
「っ?!」
 俺は反射的に身体を伸ばすと、勢いよくカーテンごと窓を開けた。
「え、どうしたの?」
 慌てて名雪が近づいてくるのを手で制すると、暗闇に向かってじっと目を凝らす。
「誰かに見られていたような気がしたんだが……」
「誰もいないと思うけど……」
 俺の背中に名雪ののんびりとした声がかかる。それでも緊張は解けず、俺は外を睨みつけながら言いしれようもない悪寒が駆け巡っているのを感じていた。



「きゃあああっ?!!」
 朝の喧騒を縫って名雪がけたたましい悲鳴をあげる。何事かと視線を向けた俺の動きが凍りついた。下駄箱にネズミの死骸が放りこまれている。
「誰だっ、こんないたずらを……」
 言葉が途切れる。考えるまでもなく予想できたはずだった。自分の迂闊さに思わず唇を噛む。栞の次に最も俺に近いのは誰だ、香里よりも近すぎて気がつかなかったのか。
 俺は自分を強く責めながら、近くで見ているだろう栞の姿を捜し求めた。
「いた!」
 すっと身を翻して、その場を立ち去ろうとする後ろ姿を猛然と追いかける。俺が強く肩を掴んで引き寄せると、落ち着き払った栞の顔が目に入った。
「私になにか用ですか?」
 栞の冷静な口調が俺をさらに激昂させる。
「用ですか、じゃないだろう! お前だろ、あんなことしたのはっ!」
 廊下に俺の怒鳴り声が響いた。
 しまったと思うまもなく、その声を聞きつけた生徒が何事かと集まってくる。すると平然としていた栞の瞳に突然涙が溢れてきた。床にへたり込んで泣く栞とその前できつい表情をしている自分。当然非難の目は俺に注がれる。
「なっ、ち、違う……」
 弁解しようにも状況は圧倒的に俺に不利だ。
「祐一さんに信じて、えぐっ……もらえないなんて、私……恋人失格です」
 栞の言葉に、さらに非難の目が俺に集中する。俺は強く唇を噛み締めた。
「も、もちろんじゃないか、栞がこんな馬鹿なことをするわけないだろう」
 事態を収拾させなければと、完全に追いこまれた俺は栞を追求するどころではなくなった。取り繕うとするように無理やり唇を曲げて笑みの形に変える。
「えへへ、祐一さんなら分かってくれると思いました」
 泣いたカラスがもう笑う、そして衆人監視の中でこれみよがしに俺に抱きつく。三文芝居を見た観客が野次を飛ばす。 
 俺の叫びは結局口から出ることはなかった。



 結局後始末は俺がするはめになった。名雪は気分が優れないまま早退し、ひとり少ないだけなのにやけに暗い教室で無意味に時間を浪費する。
「よお、塞ぎ込んじまってどうしたんだよ。水瀬がいないのがそんなに寂しいのか?」
「北川か」
 美坂チームと呼ばれているのにも関わらず、ひとりだけ蚊帳の外に置かれているという状況だというのにいい奴だ。だからこそ変な時期に転校してきた俺にも、こうして平気で声をかけてくる。
「辛気臭いやつだな、どうだ? これからゲーセンにでも繰り出してパーッとやらないか?」
「お、いいな」
 気は進まないが、せっかくの北川の誘いを受けてみるのもいいかなと思った。確かに鬱屈した心のよどみを発散するには、身体を思いっきり動かすことも必要だろう。
「ごめんなさい」
「わっ!」
 ガタッ、椅子が揺れる。いつのまに現れたのか、栞が小さな姿を俺たちのすぐ傍に滑り込ませていた。
「栞ちゃんか、驚かすなよ」
 北川も驚いたように目を丸くして栞を見る。その北川に向かって栞は邪気のない笑みを投げかけた。誰から見ても気を使う微笑ましい後輩の姿だ。
「祐一さんは私と帰る約束をしていたので、あのう、申し訳ないですけど」
「そうだったのか、悪かった」
 両手を広げておどけたように笑う北川。本当に気のいい奴だ。だけどこの時ばかりはそれが恨めしかった。
「どうせならお姉ちゃんを誘ってみたらどうですか?」
「えっ、でも美坂はさっさと帰っちまったはずだよ」
 当惑する北川をけしかける。栞にとって北川はもう邪魔者でしかない。そんな邪な考えしか俺には浮かばない。どこか冷めた目でふたりのやり取りを見ていた。
「大丈夫ですよ、急げばきっと追いつくはずです」
「そ、そうか? でも俺なんかが話しかけてしょうがないだろうしなあ。まあいいや、俺はこれで帰るとするぜ。栞ちゃん、相沢のことよろしくな」
「はい、まかせてください」
 おどけたように胸を叩く栞に北川は手を振った。そして去っていく北川の後ろ姿を見送りながら俺は息を吐いた。
「どういうつもりだよ」
 俺の言葉にぷくっと頬をふくらませる。その子供っぽいしぐささえも今の俺の目にはなんだかわざとらしく思えてくる。
「恋人なんだから一緒に帰るのは当然ですよね」
「俺にはあんな嫌がらせをする恋人はいないはずなんだがな」
「まだ私を疑っているんですか。証拠はあるんですか?」
「証拠ってなあ」
 確かにそこを突かれると何も言えなくなる。誰も犯人を見ていないし、俺以外に栞を疑う人間がいるとも思えない。
「名雪さんって確か猫が好きなんじゃありませんでしたっけ? なついた猫が獲物を持ってくるなんてことはわりとあることですよ」
「名雪は猫アレルギーだよ」
「ああ、そういえばお姉ちゃんから聞いたことがありました。可哀想ですね、好きなものに触れられないなんて同情します」
「いいかげんにしろっ!」
 首の付け根辺りがじりじりするような感覚を覚える。冷静にならないといけない、そう思っていても自分を抑えることができない。
「ひぐっ」
 強く拳を握り締める俺の見ている前で、栞がしゃくりあげた。
「また泣きまねかっ、そんなものが何度も」
 叫びかけた言葉が喉に詰まる。ぎょっとして見開いた瞳に、リボンをはずされてふわりと床に落ちるケープが見えた。
「こんなところで、なにを」
 栞の指が制服のボタンにかかる。そして俺の顔を見つめたまま、ためらいもなくそれを外してみせた。プチプチと続けざまにボタンの外れる音とともに露になっていく下着と白い肌。
「祐一さん」
 いくつか外してみせたところで栞がにっこりと笑う。縦に長いおへその辺りまでが俺の目に晒された。
「祐一さん」
 背筋がぞくりとする。得体の知れない恐怖とはこういうものか。
「わ、分かったからやめろ」
 それどころか栞は、俺に意識させるように、もったいをつけるようなゆっくりとした動きで、右手を自らの制服の隙間から滑りこませた。手のひらの形に盛り上がる制服がこんな状況だというのに蠱惑的で、栞の思惑通りに視線をはずせなくなる。
「私は祐一さんのことを考えるだけで、胸がドキドキとなるんです」
 ここは俺の部屋でも、誰も入れないように鍵のかけられた部屋でもない。まだ誰かが戻ってくるかもしれない教室。
 眩暈がする。
「祐一さんは私の全てです。嘘なんかじゃありません。祐一さんが望むなら私は喜んで裸にもなれます」
 心臓を掴み取られるような感覚。
「何度も、何度も祐一さんは私を愛してくれました」
 ふっと熱い息を漏らす栞。その背後から情念の炎が揺らめいているかのようだった。
「うれしかったです。誰からも見捨てられた私を、祐一さんだけは受け入れてくれました」
 がちがちと歯が鳴る音が頭の中で響く。慈愛に溢れる栞の表情に、俺は赤ん坊のように泣きだすしかないのかと思った。
「ほら、祐一さん。触ってみてください。ドキドキしているでしょう?」
 栞が近づいてくる。
 やめろ。
 言葉にならない声が聞こえるわけもなく、俺の身体にほっそりとした腕が伸びてきて、だらんとぶらさがった俺の手を取った。
 振りほどくことができず、こわばった俺の手をゆっくりと自分の許に引き寄せる。すべすべとした下着の感触が俺の手のひらに触れた。
「ね? 祐一さんも感じるでしょう?」
 なんでそこまでできるのか、理解できない。もはや栞との間に大きな隔たりができてしまっている。
 栞は俺の手を離すと、今度は俺の胸に顔を埋めてきた。 
「こうやってお姉ちゃんは泣いたんですね、祐一さんの胸で。私が苦しんでいる時に」
「お、おまえ……」
「相沢君のおかげで栞と元の姉妹に戻れそう。本当に相沢君には感謝しないと」
 香里の口調を真似たのか低い声音。
「お姉ちゃん、私が欲しいものを全部持っているのに、そのうえ私から祐一さんを取り上げようとするなんて酷い」
 捻じ曲がった思考は、言葉を捻じ曲げて受け取ってしまうのか。
「私は祐一さんのもの」
 歌うように呟く栞の瞳はどこまでも澄み切っていた。



「なあ、病院に」
 連れていった方がいいんじゃないか、俺の言葉は香里が力なく首を振ったことで途切れた。
「それこそ取り返しのつかないことになるわよ。あの子にとって病院というのは、病気を治す場所ではなくて、ただ死を待つだけの場所だったんだから」
 うつむきながらぼそぼそと呟く香里が驚くほど小さく見える。昔のことを思い出したのか、表情がつらそうに歪む。
「それに……両親の前では完璧にいい子を演じているのよ。そんなことを言ったら逆にあたしの方が病院に連れていかれるわ」
 香里の言葉の通り、表面上は仲のよい姉妹を装うふたり。しかし、俺に見られた日から俺に対して栞は隠すのを止めた。
 さすがに授業の間の短い時間には栞も現れることはない。それでも、どこかで覗いていないか警戒して辺りを探ってしまう。
「あたしが全て悪いのよ。あたしがあの子にした仕打ちはこんなことで許されるはずもないの」
 そう思ってしまうのは仕方がないかもしれないが、そこまで卑屈になることはないのではないか。却って栞のためによくないのではないか。自分のことを棚上げにして、俺は思った。
「だからって、このままでいいと思っているのか」
 大声を出しそうになり慌てて口を押さえる。表面上は元気のない香里を慰めるという名目で話しかけているのだ。さすがに変に思われたくはない。
「だからあたしひとりが我慢すればいいのよっ……あたしさえ我慢すればみんなが幸せになれるんだから。お願い、相沢君も協力してあげて」
 過去を責める香里は、過去にばかり眼が向いている。漠然とだけど望む方には事態は向かわないだろうと思えた。こんなことではいけないはずなのに、俺と違って頭のいい香里になら解決する方法を示すことができるはずなのに。
 いや違う、お互いが栞に対して感じている負い目のおかげで臆病になっているだけだ。そして醜い罪のなすりつけを俺がしているだけなんだろう。
「だから、あんまりあたしに声をかけないで、あの子を不安にさせないで欲しい」
 俺が何とかしないといけない。栞は俺の恋人なんだから。
 だけど。
 どうすればいいのか。
 分からない。
 俺はなんて無力なんだ。
 あの時だってそうだった。
 あの時?
「くっ……」
 また頭がずきずきと痛む。急に顔をしかめた俺を香里が心配そうに眺める。
「相沢君、どうしたの」
「え、いや、なんでもない」
「お願いだから、あたしが言えた義理じゃないけど……栞のことよろしくね」
 話を打ち切ると香里は振り向きもせずに去っていってしまう、俺は重苦しい息を吐いた。結局のところ、香里が俺の味方にはなってくれないことを確認しただけだった。



 そして、誰も味方がいなくなった俺は全てを諦めた。
 それでも栞は満足のようで、うれしそうに俺の世話を焼こうとする。さすがに家の中までべったりと言うことはなかったが、その代わり俺の部屋には堂々とビデオが置かれるようになった。
「お父さんに、これからの幸せは全部残しておきたいって言ったら買ってくれたんですよ」
 セットしながら嬉々として語る栞に、俺はなんの言葉も浮かばなかった。
「えへへ、ぎゅっと抱きしめてください」
「ああ……」
 この手を動かしているのは誰なんだろう、
 栞が俺に触れていくたびに、なにかが削れていく。積み重なっていく雪に埋もれてしまう地面のように、薄れていく感情の中で栞をこんなふうにしてしまったのは自分のせいなのか、ぼんやりと考える。
 これがもし、誰かの見ている夢だとしたら。
 そしてため息。
 砂時計をただ引っくり返すだけの無気力な日々を過ごすうちに、みんな少しずつ俺から離れていった。俺は呼びかけることも、追いかけることもしなかった。
「祐一さん、あーん」
 気がつけば誰も訪れることのない屋上で、なにがうれしいのか、にこにことしながら栞が俺に弁当を押し付けている。
「ふたりっきりでご飯を食べる。こういう何気ないことを何気なくできる、本当の幸せっていうんですね」
 遮るもののない屋上に降り注ぐ日差しに目を細めている栞。いつしか制服は夏のものになっていたが、栞はストールを手放そうとはしないでいた。
「……そうかもな」
「この時間がいつまでも続けばいいって思わないですか?」
 気のない返事をしても栞のおしゃべりが途切れることはない。
「ふたりだけ……世界という風景の中に、私たちだけが切り取られている……素敵です」
 よく分からない、俺には栞の言葉が届かない。
 しかし、
「あ、でも、赤ちゃんがいるのも悪くないですよね」
 夢に浮かされたような横顔に、俺の背筋におぞましいものが這い上がってくる。
「祐一さんとの愛の結晶を真ん中にして……」
 どこまで俺を縛るつもりなんだろう。一体どうすれば栞の気が済むんだろう。
 そうか、俺が死ぬまでか、すとんと心のどこかに納まった。
「死ぬ……か」
 言葉がまるで力を持ったかのように、俺の心に甘美な誘惑を与える。美酒に酔いしれたように俺の思考が麻痺する。
「今なんて?」
 意識を向けると栞が目を見開いていた。床に零れ落ちた丁寧に下ごしらえされたコロッケにも目もくれずに立ちあがる。
「駄目ですっ! そんなこと許しませんっ。祐一さんに死なれたら、私はどうなるんですかっ?」
 取り乱す姿が小気味よい。どこか他人事のように俺はその様子を見ていた。
「どうなるんだろうな」
 視線をやると、大人なら苦労もせずに飛び越えられそうな手すり。
「無責任なこと言わないでくださいっ! どうしてですか、こんなにも祐一さんのことを愛しているのに」
 胸に手を当てて、涙ながらに訴えかける。でもそれが本当の涙なのか俺には分からない。分からないからなんの感慨も覚えない。
 俺は立ち上がった。ふらふらと、酔っ払いのように左右に揺れながら手すりにもたれかかる。下は見ない、怖いから。
 怖い? 妙なおかしみを感じる。今から死のうとする人間が『怖い』だって。
「やめてっ!!」
「うるさいなあ」
 耳元でぶんぶんと羽虫が鳴き喚く。足を上げようとしたが、引っ掛かりを覚えて仕方なく振り向くと、腰に栞がしがみついていた。
「そんな言葉聞きたくありませんっ!」
 悲しいくらい非力で、またそれが激しい憤りを自分にもたらす。こんなにも弱々しい存在に俺はなにをしていたんだ。情けなくて、腹立たしくて。
「だめええっ!!」
「な?」
 半ば向こう側にいた俺の身体が急に引き戻される。 
「ど、どうしてお姉ちゃんがいるんですかっ?」
「どうしてこうなっちゃうのよっ! どうしてよっ!」
 血を吐くような香里の叫び。剥き出しの感情に打たれて、俺の五感が麻痺する。
「私の質問に答えてくださいっ! どうしてお姉ちゃんがいるのっ!」
「心配だからに決まってるじゃないっ!」
 その叫びには一点の曇りもないのに。
「心配なのは私じゃなくて祐一さんなんでしょう、正直に言ったらどうなのっ!」
 けれど、栞には伝わらなくて。
「違うわっ」
「違わないよっ! だったらどうして今必死になるのっ?!」
「えっ」
 虚をつかれたように、香里の身体が動きを止める。俺の体を引き戻そうと不安定な体勢のままで。そして栞の言葉がさらに香里の体を押し上げる。
「私の時は逃げたくせにっ!」
 香里の重みがふっと消えた。
「……え?」
 その時俺はどんな顔をしていたのだろう。コマ送りのように小さくなっていく香里の表情が錆びついた針のような鈍さで眼に突き刺さる。
「うあああっ……」
 情けない声をあげながら俺はその場に尻餅をついた。
 落ちた。
 落ちてしまった。
 そう、あの時も、俺はただ見ているしかなくて……。
 あの時?
 真っ赤な……。
 真っ赤な?
 落ちたのは誰だ?
 落ちたのは。
 落ちたのは。
「うあああああぁぁっ……」
 脆弱な俺の意識はあっけなく闇に飲まれていった。



 少女がうれしそうに話しかけてくる。
「もうすぐ退院ですね」
 病院で目を覚ました俺が初めて見たのも、ベッドに取りすがって泣くこの少女だった。なんでも、記憶を失う前に俺が付き合っていた恋人らしい。
 そんな大事なことを忘れてしまったと言うのに、彼女、美坂栞は俺を許してくれただけでなく、献身的に俺の世話を焼いてくれる。 
 記憶喪失といっても俺が失ったのは、少女に関する記憶。しかもその原因が彼女の姉の自殺とのこと。
 何らかの悩み事を抱えていた彼女の突発的な自殺、不幸にも目撃者となってしまった俺は心意的なショックで、と説明された。
 でも、どうして恋人の記憶まで失ってしまったのか。
 検査では記憶以外に問題はなかった。様子を見てみようと周りに勧められるまま、俺はしばらく入院することになった。
 おかげで考える時間だけはたくさんあった。けれどいくら考えても答えが出ない、人に聞いてもしかたない問題だし、目の前の彼女は黙って微笑んでいるだけだ。
「おなか空きませんか?」
 そう言っていつものようにアイスクリームを差し出してくる。時間的にはもうすぐ夕飯が出てくる頃、さらにベッドの上で動かない生活が続いて食欲も湧かない。しかし、ふたりでよく食べていた思い出の品物、俺は記憶を取り戻すきっかけになればとすがりつくように受け取る。
 舌の上で溶けていく甘みを転がしながら、俺は同じように口に含んだ彼女の幸せそうな顔を眺めていた。それでいいじゃないか、不意にもうひとりの自分が声をかけてくる。
「おいしいですね」 
 実の姉を失ったつらさはきっと俺以上のものがあるはずなのに、微笑んでいるその姿からは微塵もそれを感じさせない。気丈に振る舞う彼女の強さに、俺は確かに惹かれるものを感じていた。
「祐一さんのおかげで私は強くなれたんです」
 彼女はそう言ってくれるけど、今の頼りない自分ではきっと力になれない。ひたすら申し訳ない気持ちで一杯になる。
「そろそろ帰ります」
 いつしか空は藍色に覆い尽くされようとしていた。退屈な病院生活の中で、彼女といる時間だけは驚くほど早く流れている。
「また明日も来ますね」
 身を乗り出して目を閉じる恋人に、応える。
 俺は今、このうえもなく幸せだった。
「私も幸せですよ」
 彼女が耳元でくすくすと笑った。

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