足音を殺して階段をおりる。廊下からリビングを覗くと、居候先の母娘がくつろいだ様子で会話を楽しんでいた。軽い調子で口を挟もうとして、どういうわけか気が引ける。
 軽く気合をいれなおし、他行する旨を遠慮がちに告げ、返事もまたずに外にむかう。いとことまともに会話したのは、いつが最後だったかなとちらりと思う。
 靴の踵をとんと鳴らして、玄関をでる。門扉の向こうには、午後の世界が広がっている。空気はまだ冷たいが、日差しにはもう春がまざっている。
 目を閉じて息を吸いこむ。冷えた空気が、肺の底からよどみを洗いながす。そのまま顔を太陽にむける。じんわりと熱をもった頬を風が冷ます。
 待ち合わせにはまだ暇がある。たまにはのんびり待つのもいい。
 自販機に冷たい缶コーヒーをみつけて、思わず手が伸びた。上着にしまって歩みを続ける。腰のあたりで重みが揺れる。小さな幸せか、と胸がじんわり苦くなった。二度とはあえないはずの思い出の少女と同じ時間を過ごしている。自分はいま順風満帆で、ここにあるのは緩やかな幸せの日々だ。これ以上のものはいらないし、足りないものはどこにもない。

 駅前の広場に足を踏みいれると、ちんまりとした女の娘がベンチに腰掛けていた。退屈したのか、そわそわとからだを揺らして落ちつかない。やがて、向けられた視線に気づいたらしく、弾けるようにたちあがって、こちらの名前を呼んでくる。人目を気にする様子もなく、ちいさなからだをけんめいに伸ばして、ぱたぱたと両腕を振っている。
 元気いっぱいの姿を見て、家から持ちこした満ちたりない気分はいっとき脇におしやられた。しらず自分も手を振って、「あゆっ」と彼女の名を呼んだ。
 あの冬の物語が終わり、あれやこれやと忙しく、あえない日々が続いたけれど、最近はまたゆっくりとした時間を持てるようになってきた。
 目覚めたあゆも同じ居候先に引き取られるものだと思っていたが、当然ながら入院中の彼女を支えていた家族もいるわけで、いずれはそちらで暮らすことになるらしい。目が覚めたら覚めたで、リハビリだ検査だと大変なようだが、たまにはこうして外出も出来るし、気がむけば一緒に映画などを観ることもある。
 街頭の時計を見て時間を確認する。ゆっくり待つつもりで出てきたのだから当たり前だが、約束の時間にはまだ間がある。よくよく見れば、ベンチの前で「んっ」と小首を傾げている様子にうっすらと気だるさがあるような気もしないではない。

「なぁ、あゆ」
「どうしたの、祐一君?」
「どのくらい待ってたんだ?」
「えっと、あはは」
 ごまかし笑いが返ってくる。
「うちまで寄るか、電話かけるかすればいいだろ」
「でも、祐一君のこと待ってたかったんだもん」
「………」
「体の調子はどうだ?」
「ううん、ちょっと動けば平気だよっ」
 具合が悪ければ予定も変更だが、顔色も悪くはないし、熱もないようだった。
「じゃ、これやろう。遅れたお詫びにもなる不思議アイテムだ」
 ポケットから缶コーヒーをとりだして、プルタブを起こしてやる。
「……にがいよぉ」
 ちょっと口をつけて、なさけなさそうな顔をしている。
 持て余している缶を奪って中身を飲んでやる。
「どうした?」
「ど、どうもしないよ」
「………」
「………」
「いくぞ」
「あ、うんっ」


あしたがくれば




 映画の余韻を感じながら、休息と軽い腹ごしらえをかねて商店街の甘味屋にたち寄った。焼きそば屋を主張した祐一に対し、晩御飯が食べられなくなるから甘い物がいいという謎理論であゆが勝利した結果だった。姉妹らしい老婆のやっている店で、たまの放課後に時間があえばいとこと寄ることもあった。いつ来ても他にあんまり客はいない。
 祐一が頼んだのは雑炊で、あゆが頼んだのは白玉クリーム餡蜜だった。アイスに黒蜜がかかる様子を見て、甘い物が苦手な祐一は心のなかで悶絶した。味を想像するだけで、頭のなかがもやもやしてくる。
 雑炊を木匙ですくいながら、あゆの具合を窺う。ずいぶん回復したようで安心する。
 映画館という密閉された環境も手伝って、体力のないあゆは映画が終わる頃にはすっかりふらふらだった。いつもなら休憩をいれて最後までもたせる(その代わり、よくいい所を見のがす)のだが、何度うながしても生返事ばかりで、とうとう場内に明かりが戻るまでがんばった。
 話の出来はよかったと思わないでもない。アクションとスペクタルの娯楽超大作、愛と涙と夢と冒険の感動ストーリー。邪魔になるからとパンフレットを買わなかったのが、いまになって悔やまれるくらいだ。
 若者と父親が吹雪の中で魔性の女と出会う。父親は殺されるが、彼女に気に入られた若者は決して口外しないとの約束で見逃される。生還した若者は美しい女性と恋に落ちる。幸せに暮らして、子どもも何人もできるが、ふとしたことで明かされた彼女の正体は――とかそんな感じの話だった。
 筒井筒の少女に告白されたり、無口な剣士とともに戦ったり、一週間だけの恋人は病を患っていたり、唐突に狐になつかれたり、何かとせわしないストーリーでもあったが。
「で、何がそんなに気にいったんだ?」と問いかける。
 うん、とうなづいたあゆの話を要約すればざっと以下のごとく。

「あの女のひと、なんで男のひとを殺さなきゃならないのかな」
「なんで男の人は約束をまもらなかったんだろ」
「なんでさよならなんだろう」
「あの女のひとはどこに消えちゃったんだろう」
「お話の終わりは、ハッピーエンドがいいと思うんだ」

 祐一の記憶では、姿を消そうとしたヒロインを愛の祈りで呼びもどしてなんとなくハッピーエンドだった。エンディングの終わったあとにも、幸せな生活が続くようなそんな話だった。確かにあゆほど真剣に見ていたわけではないが、誰かが消滅するような悲しい話じゃなかったはずだ。
 とはいえ、何を感じたものなのか、すっかり消沈してしまっている。
「あはは、なに言ってるんだろね」とちいさくなって、しきりに器をつつきまわす。
 目の前で、左利きのスプーンが寂しげに揺れていた。向かい合って座っているので、ちょっと右手を伸ばせば届きそうだった。
 スプーンをひっぱってみると、本体もいっしょについてくる。ひっくり返さないよう盆をよせながら、ぐいっと力をこめてスプーンをくわえる。黒蜜の味がひろがって、舌の付け根が重ったるくなった。
 そのまま右手を持ちあげると、テーブルに釣りあげられたあゆが「わっ!」と声をもらす。
 そしらぬ顔をして、ぬるくなった緑茶で悠然と舌をあらう。
「すこしは気にしてよぅ〜」とふくれている。
 笑いをかみ殺して、スプーンから手を放す。
 やっと解放されたあゆは、ぱふっと勢いよくいすに腰掛け、そのまま反動で背もたれに伸びあがった。精一杯に胸を張ってみたつもりらしかった。
「祐一君はいつもひどいよっ!」
 ぶんぶんとスプーンを振りまわしてお怒りの様子だが、やがてぴたっと動きがとまり、何が気に入ったのかしげしげと手に持ったスプーンを眺め、
「………」
「………」
 訳の分からない沈黙は大変に心地が悪いと祐一は思った。

 午後もおそい商店街の街並みが、この時間に特有の透明な色につつまれている。解散するのも味気ないが、本格的に何かをするには遅すぎる微妙な時間だった。
 どこにゆくあてもなく、さっきまで中にいた甘味屋の店下でふたり並んで手持ちぶさたになっていた。横目をつかって、あゆの様子をうかがう。元気も戻ったようだし、気分も戻っているようだった。

「このあと夕飯も食べるんだろ?」
「うん、もちろんだよ」
「おなか一杯で食べられませんとかならないか?」
「大丈夫だよっ」
 自信満々だった。
「甘い物ははいるところが違うんだよ」
 思わず、おなかのあたりに視線をやった。ずいぶんと便利な胃袋である。
「俺は一緒だがな」
「わっ、そうなんだ」
 そもそも、甘い物を食べる順番は後じゃなければ意味がない。つまり、ただ単に甘い物が好きなだけってことなのだろう。
「食べるの手伝ってやろうとしたら、スプーン握り締めて放さなかったもんな」
 うんうん、とうなづきながらあゆを見れば、
「ぜんぜん手伝いじゃないよぉ。あれは祐一君がひどいよ」と抗議してくる。
「……だって祐一君、いじわるだもん」

 そんなあゆの様子にぼんやりしながら、「もしかしたら、食い意地が張ってるだけってオチかもなあ」。病院食では不足なのかとも疑うが、丈夫でとんと入院には縁のない身ではなんとも判断がつかない。おなかの部分に視線をうつして、「やせてるくらいだけどなぁ」と思い、「甘い物がはいる方ってどのくらいなのかなあ」と疑問が浮かぶ。隣からじとっとした圧力がやってくる。さりげなく目をそらすと、路の反対側にクレープ屋があるのに気がついた。
 そのタイミングのよさに、きっと別腹の神様からの贈り物だなとおかしくなる。
 年季のはいったこぢんまりした構えである。ガラスの風除けに囲われた店先には、長年の生地の焼ける香りが染みついているかのようだった。看板のメニューはあまり多くないが、基本的なところは一通り押さえてある。
 メニューからふたつ適当に選んで頼む。
 鉄板にとんぼが踊る姿を店頭で見ているうちに、数分もすると注文が出来あがった。受け取ったクレープをそのままどちらもあゆに手わたす。
「ほら」
「うん」
「……あれ、祐一君のぶんは?」
「あゆの別腹に素敵なプレゼントだ」
 両手にクレープをもたされて、困ったような表情で目を細める。
「ひとりで食べててもおいしくないよ」というので、「じゃあ、手伝ってやる」と横から一口かじる。果実と生クリームのねっとりとした混合物を感じて、舌が乳脂肪でコーティングされた気分になった。
「………」

「よしよし、次だ、次」
 気まずさを紛らわそうと弾みをつけて歩きだす。
 路なりに少し歩いて、和菓子屋をみつけた。歩道に面した表側の一角が店舗になっている。手作りの餡こが売りらしい。
 調子に乗ってどら焼きなどを山ほど買い込んで、白い紙袋で渡してもらう。ほらっとあゆに袋を押し付ける。両手はクレープでふさがっていて、交差した腕で「わっ」とあぶなっかしく胸に抱きとめた。
「さ、遠慮せずにつまんでくれ」とすずしい顔で勧めてみる。
「食べられるだけ食べていいぞ」
 何がどうなってるのか分からず、喜んでいいやら、怒っていいやら、どうしたらいいのかと惑っている様子だった。そんなあゆの姿を見て、われ知らず祐一は愉しくなる。
 ただ、同じ時間を過ごすだけのことが嬉しかった。いつまでもこんな時間が続けばいいのに、と純粋にそう思えた。
 彼女の胸元の紙袋からは、焦げ色の芳ばしい香りがした。

 先に進むとケーキ屋があった。メルヘン過多な飾り付けが人目を驚かす。
 店の一部で喫茶もやっているようで、少女趣味な意匠のテーブルといすが並んでいる。奥はガラス張りになっていて、その向こうはケーキをつくる場所らしい。
 店の外から店内の陳列棚をのぞき込む祐一とその背中からあゆ。ずいぶんと種類が多い。
「何食べたい?」
「えーと、もう、おなかいっぱいかな?」
 返ってきたのは、困り顔と愛想笑いの微妙な混合物だった。
「まあ、遠慮するな。ばっちりと新鮮なとこをみつくろってやるからな」
 奥の壁にカスタードと生クリームがたっぷりつまったジャンボ・パフという手書きの貼り紙が見える。考えるだに怖ろしげな代物だった。
 陳列ケースに実物を探せば、圧倒的なまでの存在感である。
 よし、と祐一は思った。
「もったいないよ。やめようよ」と止めるのを振り切って、店の入り口にむかう。
「期待して待ってろよ」
 からん、とドアが音をたて。

*


 本屋だった。
 立ち寄りやすい立地にあって、学校帰りに何度も利用したことがあった。ふだん目を通す雑誌の半分ほどはここで買ったものである。
 店の突きあたりまで一息に踏み込んで、あたりを見まわす。
 本屋以外の何ものにも見えない。
 さっきまでの幸福な気分がだんだんと薄れていった。なんで幸せな気分だったのか、もう思い出せない。店にはいる前の自分が、もう分からなかった。
 代わりに得体のしれない息苦しさがあった。胃袋の上半分が球を呑んだようだった。目の玉が凝って、視界が狭くなっていた。かるく目蓋を指圧する。目尻に液が溜まって、ふわっとあくびがでた。
 物憂げな低声の有線、軽く振動する空調の音。やけを起こしたかのように明るく灯った店内。
 書棚の端にかるく身をもたせて、リズムをつけて指先で棚の金属を弾いた。
「何しにきたんだっけ?」と自問し、
「本屋にいるくらいだから、本を買いに来たんだろう」と自答する。
 まさか、豆腐を買いに来たわけもあるまいしと、とりあえずの方針を確立した。そのうち、目的を思い出すこともあるだろう。
 じゃあ、とりあえず何時ものようにとまずは雑誌を見るところから始める。
 雑誌のコーナーにお気に入りの月刊誌の最新号が出ていた。いったんは手にとってカウンターにむかいかけるが、なんとなく何も持って出てはいけないような気がして書棚に戻した。
 児童書の棚のまえにしばらく足をとめる。実用書籍の一角を足早に通り過ぎる。新刊本のタイトルに目だけざっと走らせる。話題の本を積極的に読むってタイプでもない。
 半周して入り口の近くまで戻ってしまった。
 上のフロアへの階段をのぼる。手をのばして踊り場に並んだ絵本塔をまわす。壁に並んだポスターをなんとなく眺め、カプセル玩具の販売機のまえを過ぎる。
 二階にあがった。こちらのフロアは、文庫と漫画がメインだった。階段の付近が吹き抜けになっていて、手すり越しに下のフロアが見おろせた。
 文庫本の売り場をまわって、適当に何冊かめくってみる。
 漫画本の書棚をこちらは熱心にみるが、どうもぴんとくるものがない。
 いつもなら手をだしそうにない少女漫画の棚まで目を流していく。平積みになっている本を一冊手にとってみるが、あんまり恋が唐突すぎる話は好みでなかった。
 もうすこし時間をかけて同じルートをまわってみる。フロアをめぐる足がだんだんと速まる。
 結局、何も買わずに一階に戻った。
 何をしにきたのか最後まで分からないままだったが、ある程度の時間をつぶせて、それなりに満足できた。それ以上やることも思いつかず、本屋をでることにする。
 出入り口は両開きのガラス扉だった。
 ぐっと力をいれ、ずいぶんと重たいガラス扉を押して。

*


 からん、と軽やかにベルが鳴って、祐一の背後で扉がしまった。
 タイルの歩道、石畳の商店街。
 ずり落ちそうな紙袋を抱いて、道ばたに女の子が待っていた。
 顔をあげて、祐一の方をさぐるようにすると、
「買ってこなかったんだ」とほっと安心の表情をする。
 一瞬、誰だかわからずに混乱する。すぐに状況を把握しなおすが、こんどはいままで何をやっていたのかがあやふやになる。
 振り返って確かめる。そこにはケーキ屋のファンシー過剰な店構えがあり、クリームとスポンジの甘いデコレーションがあった。ぬいぐるみにはリボン、砂糖に香辛料に素敵な何か。ジャンボ・パフだってちゃんと売っている。
 中で何があったのか、もう思いだせなかった。だけど、何かがとてもさびしい場所だったような気がした。大切な何かをなくして、しかもそのことを忘れている。さびしいはずだということも忘れている。明日になれば、目の前の店も煙のように消えてしまって、何かもっと別の建物に替わっている。
 そして、世界は崩れていって――。
「……祐一君?」
 ケーキの店を見つめたままの祐一に、あゆが「ん?」と不思議そうに首を傾げる。
 彼女の声を聞いて、「あ?」っとからだから緊張が抜けた。
 かるく頭を振って意識をハッキリさせる。
 もう一度、店に視線をやった。
 あゆの隣まで後じさり、目をあわせず乱暴に手だけ伸ばしてクレープをひとつ奪う。クレープの甘さが頭のうごきを鈍らせて、いまの気分にちょうどいいと思った。
 空っぽにしたクレープ袋をぐしゃっと丸める。
 あゆの腕からどら焼きのつまった紙袋をひっぱりだして、片手にかかえる。
 ぽんぽんと頭をかるく叩き、髪の毛に指を通してくしゃっとする。
「えっ? わっ」とあゆが戸惑っている。
 からだを入れ換えて、背中越しに店を透かし見るようにする。あゆの姿と重なって、おもちゃ箱のようににぎやかなケーキ屋の飾り付けがある。
 そうして、やっと景色が落ち着いた気がした。
 彼女の向こうに世界があった。安心すると同時に、何かの引っ掛かりを感じる。だけど、思いだしてはいけないと思った。
 視界の中で、あゆが落ち着かなげに身じろぎしている。
 しばらくケーキ店の方を眺めると、そこにある何かを振りきるように背をむけた。

 深い呼吸をひとつして、青白い空を見あげる。綿ガムのような積雲がぽつりと浮かんでいる。雲の反射が目にまぶしかった。瞳孔が収縮して気分が落ち着いてくる。
 言葉もなく、並んで歩くふたり。あゆは隣でクレープを食べながら。
 タイミングを計って、口を開く。
「ねぇ、祐一君」
「なぁ、あゆ」
 遠慮がちなあゆの声を、押しかぶせる形になった祐一の声が打ち消した。
 発言をゆずりあって、また口が重くなる。
 ちらりと横目で相手を意識しながら、発言する機会をうかがう。
 探り合ううちに、歩く速度が落ちてゆく。
 ほとんどとまりかけたところで、あゆがようやくクレープを食べおえた。
 そこで、完全に立ち止まってしまう。
 服を確かめて、あたりを見まわしてと、急にあたふたしだす。
 クレープ袋の始末に困っているらしい。ぶっきら棒に手を伸ばして無言のまま受け取った。行き先はポケットの中。
 おずおずと礼をいわれる。うまく会話が続かない。
 沈黙するくらいなら、トイレの話題にでもすればよかったと後から気づく。
 クレープという便利な逃げ道がなくなって、ますます間が持たなくなっている。
 指先でポケットの膨らみを叩いて無意識に調子をとる。
 そのリズムにあわせて、
「ねぇ」
「なぁ」
 こんどは綺麗に声が重なる。
 ゆずりあいにはならなかった。純粋に話題がないゆえの沈黙である。話しかけることばかり考えていて、内容までは考えていなかった。

 と、ふたりの背後から呼び止める声がある。
 振りむけば、どことなく覚えのある男どもの一団だった。
 十人以上はいるだろうか。もみ合い中の騎馬戦というか、人口過密の組み体操というか。何が愉しいのか、おしくらのように固まりあっている。
 うわ、と祐一は反応に困った。見知った顔もある気はするが、とっさに誰の名前もでてこない。呼ばれたからには知り合いなんだろうが……。
 という内心の困惑などもちろん向こうは知るべくもない。
 微妙な距離をたもって一団は静止した。
 おされて、じわっと汗をかく。あゆが背中に寄ってくる。
 やがて、奥の方にざわざわと動きがある。騒ぎはそのうち表面にまで達し、
「よお、相沢」とその局所的な人だかりから、ひょっこり頭が覗いた。
 一行のリーダーらしい、そして確実に知った相手である。
 やっと顔と名前の一致する人物が現れて、祐一はほっと息をついた。
「よお」と手をあげて答える。
 率いるは、ある意味ではふたりの恩人の北川だった。人付き合いに淡白な祐一にとって、比較的仲がよいといえる貴重な存在である。暇してる知り合い連中を集めて、商店街で耐久カラオケ大会その他もろもろの予定なのだという。
「暇なら相沢もと思ったんだが」と笑いながら、代わり番こに祐一とあゆの姿を眺めて、「いそがしいようだからな」とわざとらしくうなづく。
 いつの間にやら、歩道の端まで追いつめられていた。
 相変わらずの表情の北川が、後ろ手に友人連中を抑えながら前にでる。押し合い圧し合いする男どもが、その後ろから興味深げに覗き込んでくる。
 芝居がかった調子で北川が手を振りおろすと、堰が切れたかのようにしゃべり始めた。

「なんだなんだ」
「可愛い子じゃないか」
「相沢の知り合いだって?」
「へー、ほー」
「なーるほどねぇ」
「ま、がんばれよ」
「だからといって、捕まるなよ」
「うんうん」
「ああ、犯罪はいかん」
「おーい」
「じゃ、オレらはいくぞ」
「今度どっか遊びにいこうな」
「じゃあな」

 北川が手を振って合図すればぱっと止まる。
 ぺこりと気取ったお辞儀をして、妙なポーズで別れの挨拶。
「大事にしろよー」と複数の声が飛んでくる。
 そして、嵐が通りを離れていった。
 いやもう、と見送る祐一も呆れるしかない。
 どつきあいをするやつ、おどりだすやつ、高歌するやつ、放吟するやつ、何かの瓶をラッパ飲みするやつ、リズムをつけてタンバリンを鳴らすやつ、道ばたで演説のまねごとを始めるやつもいる。まとまりのない集団が、全体としては同じ方向に進んでいく姿はいっそ見事なくらいだった。
 そんな男どもの中から、遠ざかる北川が後ろ歩きで器用に手を振っている。
 いつも愉しそうなやつだよなあと、手を振り返しながらぼんやり思い、友だちも多いしな、と付け足す。騒がしくて愉快な集団だった。いくら目立つのが嫌いな祐一でも、うらやましくないといえば嘘になるくらいだ。
 嵐の集団は、しばらく進むと角を曲がって視界から消えた。
 北川は見えなくなるまで律儀に手を振っていた。

「祐一君の学校の人?」
 背中から声がかかって驚いた。いつの間にやら時間がたっていたらしかった。
 そういえば、あゆは直接北川を知らないんだっけと思いあたり、今度、あらためて引き合わせるべきかと思案する。世話にもなったし、と。
 そんなことを考えて返事が遅れたのをどうとったのか、
「ごめんね、友達と一緒のほうがよかったかな」とちいさくなってしまう。
「気にするな」
 ずいぶん早口になってしまったと言いなおす。
「会う気になれば、いつでも会えるんだから気にするな」
 独り言のようになってしまった。
 しょげたままのあゆ。
 声をかけようとして、どら焼きの袋に気づいた。
「どら焼き食べるか?」
「いらない」
「そうか」
 紙袋をつかんだ手が、力なくおろされる。
 騒がしい集団と出会って、余計に静けさが強調されていた。
 かすかに衣擦れの音がした。
 うつむいた視線を強引にもちあげる。よっと声をだして、大きく一歩踏みだす。
 通りの真ん中まででて、男どもの消えていった方に視線をむける。
 ああいう無秩序な騒ぎをイメージしてみる。
 つられてからだが動きだす。つま先立ちしたり、踵をあげさげしてみたり。背伸びをしたり、石ころを蹴るまねをしてみたり。
 しかし、どうにもさまにならない。
 ふう、と息をついてあゆの方に目をやる。
 元気がないのは変わらず、でも、こっちを見ている。
「柄じゃないよな、やっぱり」と肩をすくめてみせる。
 もう一度、まがっていった角を見る。
 いまさら、向こうには行けないもんな。
 うん、とうなづいて。
 やつらに背をむけて、また歩きだす。

 歩いて歩いてたどりついた、人気のない寂しい通り。樹々に両側を夾まれた、遊歩道のような場所。いつかのあの日に人形を掘りだしたところだ。
 晴れた休日にでも、のんびり散歩するのによさそうだった。
 そろそろ時刻は夕方で、空気も赤みをおびてくる。日が傾いて、地面にかげが勢力をましてゆく。今日という日の終わりがやってくる。
 路の真ん中にふたりならんでいる。
 言葉はなかった。さっきまでのあせった気持ちもなかった。話すことがないなら、何も話さなくてよかった。
 足をとめて、浮かぶ思いをもてあそぶ。
 あゆはあゆで、やっぱり何かを思っているようだった。
 西日をいっぱいに浴びる。
 目をつぶる。まぶたの裏側が赤くなる。
 思いがあふれだしてくる。
 順風満帆のはずなのに、みたされないものを感じる日々。選んだことで失った可能性に急かされる日々。幸せなはずだ、幸せでなくばならないと思う毎日。
 そんな日常が、毎日の背後に透けていた。
 探し物が見つかればすべてが満ちたりると思っていた。心の中には曖昧な何かがあって、もう、天使の人形はどこにもなかった。
 めがしらがつんと痛くなった。
 まぶたを開ければ、入り日がまばゆく。
 祈るようなあゆの横顔が夕日をうけて赤らんでいた。
 軽く息を吐いて、またいつもの彼女が戻ってくる。

「あゆ。今、幸せか?」と独り言じみて問う。
「あんまり今が幸せだとさ……」
 視線をあげて、空中に何かを探す。
 明日は今日の続きだろうか。大事なものを忘れてしまうんじゃないだろうか。そんな正体のない不安にかられることがある。
 ぼんやりとゆれる視界に、言葉を押しだしてゆく。
「例えば、俺とお前が誰かの夢にいるとして……」
 見えない何かに言葉をつむぐ。
「目の前のものがみんな夢なんじゃないかって……」
 世界はどんどん透明になって――。
「ダメだよ」
 意外なほどのつよい声で引きとめられる。
 すっと払われて、視界が明瞭になった。
「お化けはお化けの話をしたら寄ってくるんだよ」
 間があって、やわらかく。
「あの映画の人だって……」
 つきものがおちたようにさっぱりとしている。
「全部わすれて、幸せにくらせばよかったんだと思うよ」
 それはきっと、と続ける。
「幸せだったら必要ないものなんだよ」
 あの映画と聞いて、しばし惑ってああと思う。今日はふたりで映画を見たんだった。たくさん子もできて綺麗な奥さんと暮らしている。そんな幸せに騙されて、過去の約束を破ってしまう。触れてはならない崩壊のボタンを押してしまう。
 知らない方がいいものが見えてしまう。

「ボクのこと好き?」
 うつむきかげんのあゆの問い。
 口元が動くのを感じるが、何の音も発しない。
 だけど、あゆには答えが聞こえたようだった。
「それなら、大丈夫だよ」
 うん、とかるくうなづいて。
 迷う様子もなく、言葉をつなぐ。
「祐一君が、そのままでいてくれるから」
 透きとおった、明るい声がからだに深く染みてくる。
「……きっと明日も今日の続きだよ」
 引き寄せられるように、目をあわせる。
 そこにあったのは、なかば予想していた寂しげな笑顔ではなくて、みたこともないくらいの優しい表情だった。こんな顔ができるなんて意外だと思った。
 視線をはずせば、かがやく夕映えの街。
 もう、夕焼けも本番で、街はみな赤の色に変わってゆく。
 こんなにきれいな夕日があった。
 寂しさは赤の中に行き場をなくしてしまう。
 大丈夫、幸せなはずだ、あしたがくればそれは穏やかな幸せの日だ。約束を守っていれば、きっとすべてがいい方向へむかいはじめる。
 だけど、どんな約束をしたっていうんだろう。
 おさない彼女とゆびきりの約束を。

 ならんだ板石、敷瓦。
 いつの間にか、また商店街に戻っている。
 人通りのとぎれた静かな街路の真ん中。
 石畳にふたりの影が長く延びる。
 影は次第に近づいて。
 切なくなる。悲しくなる。足りないものなんて、ない。
 からだを硬くするあゆ。身をよじって祐一の腕から抜けだすと、とんと両手で胸をついて距離をとる。調子はずれのむりやりな声で、
「これっ、もらうね」とどら焼きの袋を奪う。
 ぎゅっとうつむいている。
 一瞬だけうわ目を遣って、思いきった様子で背中をむけた。
 路の向こうで立ちどまる。こちらを向く。胸に紙袋を抱いている。表情が陰になっている。かすかに肩がふるえている。
 傾いた太陽が街並みを浸食する。
 彼女のからだが街と同じ色に染められる。
 顔をあげると、いつも通りの笑顔のあゆがいた。
「それじゃ。ばいばい」
「じゃ、またね」と、別れの言葉をかわす。

 茜に染まった世界の中で、あゆがぶんぶんと手を振っている。
 逆光になって、どんな表情なのかわからない。
 夕焼け色の街角に、彼女の姿が溶けてゆく。
 ひときわ大きく手を振ると、夕陽の中に見えなくなった。

 しばらく離れて足をとめ、ひねった肩越しにその光景を見ていた。
 ほっと息をついて、肩をまわす。
 視線を戻すと、まっすぐ目に飛びこんでくる。街外れの丘に遠く一本の樹。街中から見てわかるくらいだから、近くに寄ればよほどの大木なのだろう。
 薄暗がりのものの見えにくい時分。
 一度、視線をはずれると、もうどこにあったかわからなくなる。
 やけに気になる。心惹かれる。
 たまっていた肺の空気を押しだした。
 そろそろと背中を確認する。
 もう、誰もいない。

 夕暮れの空気が深みをまして、路上から営みのしるしが奪われてゆく。民家からもれる蛍光灯の明かりが、足元にうっすらと影を抜く。藍色の時間がやってきて、赤の残りを追い払っていった。
 夕方はもう過去の話題になっている。今日の終わりがやってきた。
 いろんなものがつまっていた気もするし、眠くなるような退屈な日だった気もする。約束をまもっていれば、かわりばえのしない明日がやってくるだろう。
 路先にみえるあわい街灯の光が、薄明かりの中で存在感を誇示し始めている。自販機に横顔を照らされて、明かりを避けるように大まわりする。ひとつめ信号が赤を点滅させている。
 自分の足音が大きくきこえる時間になった。いつもの見なれた通り道。大げさな音をたてて、家路をたどる。
 居候先に帰る。脱いだ靴を律儀に揃える。通りがけにリビングに顔をだすと、叔母は台所で夕食の準備中だった。調理のにおいがあたりにただよい、かすかに鼻歌も聞こえてくる。口の中でただいまとつぶやいて、音をたてないよう、ゆっくりと階段をあがった。いとこの部屋の扉が開いて、二階の廊下にぴょこんと頭がのぞく。「おかえり、はやかったね」との声に「ああ」と返事をして扉ごと彼女の頭を押しもどした。背後からわっとあわてた声が聞こえる。ぱたんとドアが音をたて、祐一は自室にこもった。

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