『学園祭なんだってな』電話の向こうで、相沢さんが言った。『行けないのが残念だ』
「ええ」私は答える。「相沢さんがいらっしゃらなくてよかったです」
『なんてひどい言葉だ。美汐は俺に会いたくないっていうのか。お兄さんは寂しい……』
「誰がお兄さんなんですか」私は言って、携帯電話を持っていない方の手を伸ばして、カーテンを引いた。「それに、去年の相沢さんの武勇伝はいくつか聞いています」
『何したっけ、俺』
「実際にみたものでは、屋上からの無許可未成年の主張はすごかったですね。偶然聞いてしまったんですけど、私、相沢さんと縁を切りたいと本気で思いました」
電話の向こうからオウシット! なんて遊び心のないヤツだ! あんなメロウな告白をしたのに! とかわけわからない言葉が聞こえてくる。私は携帯電話を耳から離して、さっき煎れたコーヒーの入ったマグカップを持ち上げる。いつも同じお店で買ってくる、お気に入りの豆を挽いたコーヒー。うん、いい香り。嫌な記憶を思い出して刺々しくなった私の心をほぐしてくれるみたいだ。
相沢祐一はー、2年D組ー、天野美汐をー、愛していますー。なんて、某野球漫画の物まねをして言われた方の身にもなって欲しい。そういうノリを楽しめるキャラならよかったのだけど、あいにく私はそういうキャラではないし。あの後の一週間くらい、学校に通うのが苦痛だった日々はない。
『――だから、って、おい天野、聞いてるか?』
「え、ああ、はいはい、聞いてますよ」私は携帯電話を耳元に戻して、言った。
『……天野もすっかり大人になっちゃって、お兄さんは寂しい……』
「またそれですか」私はわざとらしくため息を吐いた。「そろそろ飽きましたよ?」
苦笑の気配。私も笑う。
『まあ、その日はムリだけど、試験終わった次の連休あたりには一回帰るから』
「がんばってください。お土産楽しみにしてますね」
『楽しみにしてろ』
「俺がお土産だ、っていうのは前に聞きましたからね」
『……前向きに善処する』
くすくす笑って、通話を切る。なんて子供みたいな会話をしてるんだろう、と思う。しばらくしてからふと我に返って、私は自分の頬をぺちぺちと叩いた。いくら自分の部屋だからって、いくら自分しかいないからって、一人でへらへらしてたらまるで変な人だ。
どんどん子供になっている。
そんな気がした。
『Childhood's End』
携帯電話が欲しい、と思い切って親に言い出してみたのが二ヶ月前。私が拍子抜けするほどすんなりと所持することを許可してくれた両親は、なぜ私がこれを欲しがったのか、理解しているのかもしれない。
そんなことを考えながら、私はつらつらと朝の通学路を歩いている。
相沢さんの持っているのと同じ、濃いブルーの携帯電話。これで相沢さんと連絡を取るのが簡単になる、と喜んだ私。
そんな自分に、少し後ろめたさを感じた。
校門を通りすぎて、顔を合わせたクラスメートと挨拶を交わしながら、靴を履き替える。廊下を歩き始めたところで、壁にもたれるようにして立っていた男の人と目があった。短い髪に静かな雰囲気を身にまとっている彼は、たしか隣のクラス。名前は確か、波多野達彦。今まで会話を交わしたこともない相手だ。廊下ですれ違ったことはあるけれど、たいてい私には縁のなさそうな体育会系の男子といっしょにいるし、彼自身も私のような暗い女になんて興味はないだろう。
なのに、どうして、まだ目があったままなんだろう?
「……おはよう」彼は言った。
それが私に向けられたものだと気付くまでに、数秒かかった。まるで、周囲の時間が止まったみたいに、あたりには沈黙が落ちていた。
白状してしまおう。私は予想外の状況にとても弱い。不意をつかれるとパニックになって、ロクでもないことを口走ってしまう。今までそれでなんど失敗して、なんど恥ずかしい想いをしてきたか数え上げるとキリがない。
「あ……お…」
普通にしろ。私はなんども自分に言い聞かせた。つっかえた言葉が口から出てくるまでの僅かな瞬間に、何度も何度も自分に言い聞かせた。
「おはよう……ございます」
思わず敬語。なんとか挨拶を返すことはできたけれど、沈黙は続いたまま。なんというか、とてもとてもいたたまれない。
タツ、と呼ばれて、彼は私から視線を外した。思わずその視線を追ってしまうと、そこには(おそらく)彼の友人。そのまま彼はその友人と教室の方に向かって歩いていった。周囲の喧噪が戻って、何故か私が質問攻めにされる。一日で使うべき緊張感を、その短い時間だけで使い切ってしまった私には、当然そんな周りの声に応える気力なんて残っていなかった。
いったい何が起こったんだろう。私は思った。私には何も起こっていない、はずだ。何か私は失敗でもしたのだろうか。
波多野達彦。3年C組。親しい友人からは『タツ』もしくは名前で『達彦』と呼ばれている。物静かで無口。成績はおしなべて優秀。部活動はバスケットボール部。キャプテンナンバーを背負って、3点シュートを連発するエース・プレイヤー。
特定の彼女はなし。
私は何もしていないし、何かこちらからアクションを起こしたわけでもないのに、その日の授業が終了するころにはそんな記号化された彼の情報が手に入ってしまっていた。やっと少し冷静になることができた私は、何度も繰り返した言葉を、また自問した。いったい何が起きているんだろう。当事者のはずなのに、その当事者の自分が置いてけぼりにされたまま、周囲で物事がどんどん進んでいってしまっている感じ。
夜。携帯電話を手に持って、私はメールを打つ。今日のこと。会話もしたことのない男子にいきなり挨拶されたこと。その彼は、とても人気があるらしいこと。周囲が加熱しすぎて正直困っていること。会話なんてこれまで一度もしたことなかったのに、何故か気になる――
そこまで打って、こんな長いメール、きっと迷惑だろう、と思った。相沢さんはテストの時期だし、今週は落とせない必修のテストがある、と言っていた記憶がある。私はそのメールを消去して、別の、短い言葉を打った。
『会いたいです』
返事は帰ってこなかった。
図書委員の仕事が割り当てられていて、いつもよりも早く登校してしまった日。仕事自体はたいした内容ではなくて、気合いを入れてずいぶんと早く登校してしまった私は、時間をもてあましてしまった。図書室を出る。朝の学校は、静まりかえっていた。いつぞやの重い沈黙とは違って、自然のささやかなノイズのある静けさは、とても気持ちがいい。時計を見ると、まだ七時三十五分。にぎやかな喧噪がやってくるまであと二十分はあるだろう。私は教室に戻って今日の予習でもしておこうと思った。朝の二十分は、夜の一時間分くらいは勉強が進む。
そう思って歩き出したとき、静かな校舎の中に、小さな物音が聞こえた。あたりに少しでも音が多かったら、聞き逃してしまいそうな音だった。だん、だん、とボールが弾んでいるような音。早くなったり、遅くなったり、一定のリズムを刻んでいる。なんとなく私は気になって、その音の方向に歩いていった。校舎を通り抜けて、音はどんどん大きくなる。リズミカルなそのテンポが、何故か楽しかった。
体育館の扉の前。音はこの中から聞こえてくる。
ここまで来ておきながら、私はこの扉を開けていいものかどうか、迷っていた。ボールの音、ということは、朝早くからきっと誰かが練習しているのだろう。そんなところに顔を出したところで邪魔になるだけ。教室に戻ろう。そう思って踵を返そうとした時、まったくの前触れもなく、不意打ちでその扉が開いた。
「……ん」
扉が開いて現れたのは、バスケットボールを脇に抱えた男子生徒。
波多野達彦。
いきなりのことに何も言えず、私は固まる。ひょい、という感じで気軽に出したのだろう、彼の顔は、これまでの彼との距離を簡単に超えていて、あまりに近すぎた。体温。圧力。鼓動。一瞬で巻き起こる乱気流。限界レイノルズ数に達するまでが一瞬。むしろ思考壊死。
彼の方も驚いていたのか。いつもより少し丸くしていた目を元に戻した彼は、そのまま体育館の中へ戻っていった。だん、だん、と先ほどまでのように、ボールの弾む音。ただ、違っているところが一つ。体育館のドアが、開けられたままになっていた。
これっていったいどういう意味だろう?
少しだけ考えて、私は体育館に足を踏み入れた。見たいなら見れば、という意味なのだと、勝手に解釈した。
最初の一歩を体育館に踏み入れた瞬間、ひんやりとした風が私のそばを通り過ぎていった。ドリブルをしているのに、まるで羽が生えているかのように軽やかに走る彼が、綺麗なランニングシュートをゴールのリングに放り込んだ。リングを落ちてきたボールを拾って、またシュート。ボールは綺麗な半円のアーチを描いて、リングの真ん中を通り抜ける。
シューズと床が擦れる、甲高い音。バウンドするボールの音。ボールがリングを通るときにネットを跳ね上げる、軽やかな音。とても静かだ、と私は思った。初めて言葉を交わした時の、彼の持っていた静けさだと思った。
八時を過ぎる。彼はボールを片づけて、コートの外に置いてあったタオルで汗を拭った。
「もう、あがるから」彼の言葉に、私は頷いた。
シューズを履き替えると、彼は荷物を持って体育館を出ていく。私もそれに続いた。なんとなく、そのまま校舎まで歩いた。
「今度の日曜日」教室の前まで来て分かれるときに、彼が言った。「ゲーム、あるんだ。選抜の。ここの体育館で」
それだけ言って、私の返事を聞かずに教室に入っていく。しばらくその場所に立ちつくしていた私は、なんだか楽しい気分になって、隣の自分の教室に入っていった。
それから、何故か彼は私の視界にときどき現れるようになった。
私がとっていた選択芸術の書道の授業では、彼が一緒にいたことを、今更ながら知った。特別教室への移動や、体育で移動するとき、ときどき、私の視界の端っこに彼がいる。それに気付いてしまうと、私の視線はいつのまにか彼の方に吸い寄せられてしまう。私の視線に気付いたのか、彼も私の方を見る。静かで、大きな、瞳。背中を向けていても、友達と楽しそうに話していても、彼は必ず私の視線に気付く。いつも、彼は物静かに私を見ていた。だから、私も視線を外すことができなかった。何故か、彼の視線にするりと引き込まれてしまう。彼が、照れたように少し笑う。黙っていると不機嫌そうにも見える顔が、子供っぽい笑顔になる。
廊下ですれ違った時にときどき交わす挨拶と、そんなささやかなアイ・コンタクト。私と彼を結ぶものは、それだけだった。
この時は、まだ。
何度かメールをチェックしてみても、忙しいのか、相沢さんからのメールは来ていなかった。
日曜日。私は何故か、栞さん――美坂栞さんと一緒に、体育館の上のギャラリーにいた。美坂さんはすでにいろいろチェック済みなのか、あの選手が上手い、あの選手が可愛い、あの選手がかっこいい、と親切丁寧に私に教えてくれた。なんとなく頷きながら聞いているうちに、コートの袖に彼の参加している選抜のチームが現れた。彼の視線が、誰かを捜すようにギャラリーをなぞる。通り過ぎると思っていた視線は、私で止まった。馴染んだ距離。ささやかなアイ・コンタクト。
コートの中、ボールが投げ上げられ、ゲームが始まる。
いつも物静かな彼は、コートの中では王様のような存在感を放っていた。相手側のコートを切り裂くみたいに駆け抜け、何本もシュートを決める。いつのまにか、私は目を離せなくなっていた。
「相手は」栞さんが言った。「優勝候補のチームですね。強いです」
彼女の言葉通り、ずるずると点差を広げられ、前半が終わったところで十点差。第三ピリオドでは相手の三点シュートが何本も決まり、差は26点まで広がっていた。最後の十分。チームは攻撃の時のボールをすべて彼に集める。彼は無茶でも、三点シュートをがむしゃらに狙う。爆発的、とはこういうときに使う言葉なのだろう。点差がどんどん縮まっていく。今にも泣き出しそうに見える悲壮な顔で、彼はシュートを次々と沈めていった。だけど、残り時間を考えると、追いつける可能性は限りなく低い。それでも、遮二無二シュートをうち続ける。
決まる。
外れる。
決まる。
外れる。
外れる。
いつも物静かだった彼が、声を張り上げて檄を飛ばしていた。もういい。出かかったその言葉を、私は飲み込んだ。見続けることが、辛かった。相手のディフェンスが目の前にいても関係ない。ラインよりさらに離れていても関係ない。シュートが決まるたびに、歓声が上がる。シュートが外れるたびに、ため息が体育館の中に木霊する。
一分。点差はもう一桁になっていた。
三十秒。相手のシュートが決まり、また点差を二桁に戻される。
十秒。
カウントダウン。ラスト三秒。彼の手を放れたボールが緩やかな弧を描いて、リングのネットを跳ね上げた。まるで一瞬時間が止まったような、鮮やかなスリーポイント・シュート。
カウントゼロ。ブザーが鳴り、ゲームが終わる。彼は一度天を仰いで、ベンチに戻り、タオルで顔を覆った。降り注ぐ拍手の中で、彼はただ肩を震わせていた。
その姿が滲んで見えて、私は目を擦った。
今すぐ駆け寄って、何か言葉をかけたい、と思った。何が言えるか分からないし、何を言えばいいのか分からないけれど、何か言葉をかけたい、と私は思った。自分がそう思っていると理解したとき、また私は泣きそうになった。
それは、してはいけないことなのだ。
この距離を縮めることはしてはいけないのだ。
体育館のギャラリーの手すりに両腕を乗せて、私は顔を伏せた。
相沢さんからメールが来た。一番落とせないテストも終わって、あとはそれ以外の二つだけだということだった。
「天野さぁ」電話の向こうで、相沢さんが言う。
「はい」
「学校で、なんか変わったこととか、ないか?」
「……特には、ない、ですけど。どうしたんですか、急に」
「いや、天野ってさ、学校の話、あんまりしないから」
「そう、でしょうか」
「そうそう」
「そろそろ受験の話もいろいろ聞かされてますし、勉強しています」
「ウチの大学、受けるんだろ?」
「そのつもりです」
「難しいぞー」
「相沢さんが合格できたのですから、落ちるわけにはいきません」
「……どういう意味かね、天野君?」
「言葉通りの意味ですが、何か?」
実際、これまでの模試ではAないしはB判定を貰っている。担任の先生にも、このままの調子で勉強していれば大丈夫だろう、と太鼓判を貰っている。相沢さんが卒業してからは、黙々と勉強するのが得意になった。違うか。もともとは得意だったけれど、相沢さんがいる間はなかなかそんな気分でいられなかっただけかもしれない。
「俺の天野はいつからこんな子になってしまったのだろうか……」
「誰が相沢さんのものなんですか?」
「天野に会いたい」
「私も、会いたいです」
「テストなんかこの世界から消えてしまえばいいのに。そうしたらすぐ天野に会いに行ける」
「子供みたいなこと言わないでください」
「大人みたいなこと言うな、天野」
「そうですね」
「そうそう」
「私だって、子供です」
「天野が子供なら」相沢さんは言った。「俺はもっと子供だ」
学園祭を目前に控えた日。校内掲示の係に割り当てられていた私は、仕事を終えて、昇降口で靴を履き替えた。準備の係は別にどうということはないのだけれど、割り当てられた当日の係が私には憂鬱だった。クラスで喫茶店をやるのはいい。特定の部活動での企画や出し物に参加していない私がそこに入るのもまあ、自分のクラスだから当然と言えば当然だろう。問題があるとしたら、どうして、その、女子はあんな、ひらひらしたエプロンを着てウェイトレスをしないといけないんだろうか、ということだ。ご丁寧に揃えたヘッドレスまで準備してあるあたり、情熱を注ぐ方向を間違っているとしか思えない。そして嫌がっているのが概ね私一人だというのが納得いかない。みんなあんな恥ずかしい格好をしたいのだろうか。
そんな生産性のないことをぐちぐちと考えながら生徒玄関を出て、校門の方に歩いていく。校門に近づいたとき、そこに背中を預けるようにして立っている人影があるのに気がついた。その人影は、鞄を抱えて、過ぎていく生徒を眺めている。あれ先輩じゃん? 誰か待ってるのかなぁ? 立ち止まった私のそばを、そんな声が通りすぎていく。
待っている。
誰を?
私を、待っていた。
その傲慢な考えに、私は頬を赤らめた。とても恥ずかしい。そんなことを考えてしまった自分が恥ずかしい。ほんの少しでも、それを期待してしまった自分が恥ずかしい。私は平静を装って、止まっていた足を前に進めた。距離が縮まる。彼が気付く。背中を離してまっすぐ立つと、私を見た。目が合う。心臓が一度、大きく跳ねた。それを自覚しながら、私はそのまま進んだ。私のことをじっと見つめる目。静かな音が聞こえてくる。それは、いつかの、朝の体育館の音だった。シューズと床が擦れる、甲高い音。バウンドするボールの音。ボールがリングを通るときにネットを跳ね上げる、軽やかな音。とても静かだ、と私は思った。
近づいていく距離。でも、彼はそれ以上動こうとしない。私も足を止めることはできない。交差したまま離れない視線の中で、私たちはきっとたくさんの言葉をお互いに送った。けれど、相手に届いたのかもわからないまま、私たちは一つとして言葉を発することはできなかった。
私の方へ体の向きを変える彼の前を通り過ぎる。彼の前を何事もなかったかのように通り過ぎながら、私は願っていた。私を呼ぶ声が聞こえてくることを。歩いていく私を追いかけてくる足音が聞こえることを。そして、この肩を引いて、私を振り向かせる手が伸びてくることを。
私は、願っていたんだ。
だけど、そのどれもが現実には起こらなかった。私はただ、彼から離れていくだけ。ぐちゃぐちゃにこんがらがって、何も考えられなくなる思考。わからない。わからない。私は何をしようとしているのか。わからないまま、私は足を止めた。
止めてしまった。
そのまま私は立ち止まる。俯いたままの私を、下校する生徒が訝しげにちらりと見て、追い越していく。崩れそうになる足でアスファルトを踏みしめて、震える手で鞄をしっかりと握りしめて、ゆっくりと、私は振り返った。振り返ると、私を見ている瞳と視線が合う。
こちらを見ていたその瞳が、少しだけ細められた。
歩いていく彼に、私はついていく。こちらの歩幅に合わせようとしているのか、彼の歩みはひどくゆっくりだった。私はいつも早足で歩くから、彼の気遣いは少し空回り。そんな空回りが少し微笑ましくて、少し悲しかった。少し 長い距離を彼の後について歩いていくと、彼は道を曲がって、公園に入っていった。夕暮れに染まる公園の中を突っ切っていく彼の後ろを歩く。私たちが通った公園の入り口の向こう側に、バスケットボールのコートがあった。そこに入ると、彼が鞄の中からバスケットボールを取り出して、言った。
「部活終わったあと、いつもみんなでここでやってたんだ」
そう言って、無造作にシュートを打つ。リングに当たって跳ね返ってきたボールは、私のところに転がってきた。それを拾って、渡す。少しだけ笑って、彼はもう一度シュートを打った。膝を沈め、伸び上がりジャンプする。ジャンプの最高到達点から放たれたボールがアーチを描き、リングの真ん中を通り抜け、ネットを跳ね上げる。綺麗なバックスピンのかかったボールは、リングを通り抜けた後、まるで吸い寄せられているように彼の手元へと戻っていた。
彼はそのボールを、ひょい、という感じで私の方にトスした。私はそのボールをキャッチする。その意図が分からなくて、私は彼を見た。
「打ってみたら」
いきなり何を言い出すんだろうこの人。そう私は思う。だけど、彼は真顔だった。運動は苦手だから、とか、そんな言い訳が一瞬でいくつもいくつも浮かび上がる。だけど、私はそれを口からは出さずに、黙ってボールを構えた。何故か、とても緊張する。体育の時間に習ったシュートのやり方を思い出す。ボールを構えて、しっかりとゴールを見て。
投げた。
私の手を放れたボールはリングにかすりもせずに、地面に落ちた。やっぱりダメだ。私は肩を落とす。と、地面でワンバウンドしたボールが私のところに帰ってきた。
「もう一回」彼が言う。
言われるままに、私はもう一度ボールを構えた。
「膝、使って」彼が言う。
私はいつのまにか記憶に焼き付いていた彼のフォームを頭の中で再生していた。膝を使って、伸び上がるようにジャンプして、ボールを放す。まるで全身がバネになっているみたいな、しなやかなその動き。その動きをイメージしながら膝を沈めて、伸び上がりながらシュートを打つ。
ボールはリングの右側に当たって、横に跳ねた。また失敗。彼が拾ったボールが、また私のところに戻ってくる。
「大丈夫」彼は言った。「次は、入る」
次は、入る。その言葉に背中を押されるように、私はもう一度ボールを構えた。入る。今度は入る。ゴールの下で見ている彼と視線が合った。大丈夫。その目がそう言っていた。信じていいんだ、と思った。そう思った私の手から放れたボールは、前の二回よりも高いアーチを描いて、ゴールの真ん中を通り抜けた。一瞬遅れて、しゅぱっ、という小気味いい音と同時に、リングに付いているネットが跳ね上がる。
「入った……」私は言った。
「入った」彼が言った。
心臓が、駆け足で鼓動を打っていた。自慢じゃないけれど、体育でバスケットボールはしたことがあっても、運動神経が絶望的に発達していない私は一度もシュートなんて決めたことがなかった。打ったことはあるけど、リングにかすったこともなかった。だから、私は体育の時間はシュートなんか打たずに、すぐパスする相手を捜していたのだ。できるだけパスがこっちに来ないように願っていたりもしたのだ。
「いいシュート」少し笑った、子供っぽい顔の彼が言った。「センス、あるよ」
「ありがとう」私は言った。「お世辞でも、嬉しい」
私がそう言うと、彼は驚いた顔をした。それから、嬉しそうに、本当に嬉しそうに、笑った。子供みたいな、いたずらっこみたいな、笑顔だった。
「3年A組、天野、美汐さん」不意に名前を呼ばれて、私は息を呑んだ。「ずっと、話してみたいって、思ってた」
「え……」
「初めて、ちゃんと話せた」
ずるい。そんなの、ずるい――
「なんか、すげえ、嬉しい」
ずるいよ。こんなの、ずるい。そんな嬉しそうな顔で。そんな弾んだ声で。名前を呼んで。呼ばないで。言わないで。笑わないで。
お願い。
お願い――
放課後の図書室。私は私しかいない図書室で、一人小説を読んでいた。小説を読むことと、勉強をすること。それ以外に、私は時間を潰す術を知らなかった。どっちも、没頭していれば、嫌なことを忘れられた。勉強は、知らないことを頭の中に収めていく作業に集中できた。読書は、現実の世界を離れて、その中に描かれている世界に入り込むことができた。ひとりぼっちなことも、嫌なことも、辛いことも、その間だけは忘れていられた。
だから。
現実に戻らないといけない瞬間が、たまらなく嫌いだった。
現実の中で、もうこれ以上傷つくのは嫌だった。
それ以上に、誰かが傷つくのが嫌だった。
誰かを傷つけてしまうのが怖かった。
だから、一人だった。
寂しいくせに、一人でいようとした。
それは、まだ、相沢さんと出会う前の私。
「図書室にいたの、見た」彼は言った。「窓側の席で、一人で本を読んでた。すごく、すごく、綺麗だと思った。すごく、すごく、悲しそうに見えた」
「あ……」
「一回、それも短い時間見ただけだったのに、ずっとそれが頭から離れなかった。何回か告白されたことあるけど、その度にその時のことが浮かんで、誰とも付き合う気になれなかった。ずっと話してみたいって思ってたけど、どうやって話しかけたらいいのかわからなかった」
お願い。私は思った。
それ以上言わないで。その先の言葉を聞かせないで。
早く。その先を続けて。聞きたい。もっとあなたの話を聞きたい。
「こないだのゲーム、勝ちたかった。見に来てくれてたの分かってたから、勝ちたかった……けど」
彼は俯いた。関係ない。私は言いたかった。そんなこと関係ない。勝つとか、負けるとか、そんなこと、私には関係ない。あの日。あの瞬間。私の目はあなただけを追いかけていて、あなただけが、あのコートの中を走っていた。それを伝えたくて、でも、伝えてはいけないと思って、私も俯いて黙り込んだ。
「ありがとう」彼が言った。私は顔をあげる。「オレ、あなたが、好きです」
私を見つめる目。静かな音。初めて目があった、あの瞬間と同じ音。ずっと、ずっとこの人は同じ目で私を見ていた。ずっとずっと、私を想ってくれていた。嬉しい。悲しい。嬉しい。苦しい。嬉しい。痛い。嬉しい。辛い。
「ありがとう」もう一度、彼は言った。「聞いてくれて、ありがとう」
彼は鞄にボールを戻すと、明日の学園祭を一緒に回らないか、と私を誘った。その言葉に、思わず私は頷いてしまっていた。送っていこうかという彼を、私は断った。今は一人になりたい。そう言うと、彼は頷いた。
「さようなら……波多野、君」
彼は嬉しそうに笑うと「また明日」と手を振る。小さく手を振り返す。少し歩いて、彼がまた振り返る。手を振る。彼の後ろ姿が見えなくなるまで私はそこに立っていた。彼の姿が見えなくなって、私は手を下ろした。
相沢さん。
波多野君。
私は、きっと、二人を傷つける。予感よりももっと強い、確信。私は二人を傷つけるだろう。傷つけずにいることは、できないのだろう。どうしてこうなってしまうんだろう。私は、何か間違ったことをしてしまったのだろうか。そうだとしたら、いったいどこで間違ってしまったのだろう。
ひょっとしたら、これが大人になるということなのだろうか。自分の手で、自分の言葉で、自分の意志で、誰かを傷つけること。それが大人になるということなのだとしたら。
地面に、滴が落ちた。
どこかで足を止めていれば。あの校門で足を止めなければ。今すぐに、消えてしまいたかった。何もかも投げ出して、誰もない場所へ消えてしまいたかった。馬鹿なことを言い合ってくすくす笑っていたのが、遠い昔のことのようだった。
のろのろとバスケットコートの外に置いていた鞄に手を伸ばす。鞄のサイドポケットから顔を出した携帯電話に、メールの着信を示す文字。発信者には、相沢祐一の名前。
夕日が落ちて、辺りは群青色のグラデーション。
私はそのメールを開くことができずに、しゃがみ込んだままで、ずっと携帯電話を握りしめていた。
感想
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