要するに、真琴が賑やかな楽しさを好むのは、一緒に住んでいる家族の影響に因るところが大きいのだろうと思う。それほどに、水瀬家の団欒は賑やかで、華やかで、微笑ましい。

 静寂を尊ぶ私としては、最初はこの家族の団欒にはどうしても馴染めなかった。けれど、真琴や相沢さんや水瀬先輩に誘われて、水瀬家の団欒に幾度か参加しているうち、そんな私の感覚は次第に払拭されていって。今や私は、この家族の雰囲気にしっくりと馴染めるようになっていた。
 私がこんな風に思えるようになった要因としては、私のことを積極的に誘ってくれる真琴のおかげである所が勿論大きかったのだけれど、訪れるたびに暖かく迎え入れてくれた水瀬家の面々のおかげでもあったと思う。

 はしゃぎ疲れて、ソファに座る私の膝枕で眠る真琴。
 隣には、腕組みをしたままソファの背にもたれて、静かな寝息を立てている相沢さん。

 水瀬家の夕食に招かれて、温かいもてなしを受けた後。リビングでお喋りやゲームに夢中になっていた真琴や相沢さんは、まだ7時だというのに、すっかりと夢の世界へと旅立ってしまったようだった。つい先刻まで賑やかだったリビングは、奇妙なほどの静寂に包まれている。家主である秋子さんは、キッチンで後片付けをしているようだった。私は訪れるたびに手伝いを申し出るのだけれど、いつもやんわりと断られてしまう。

「天野さんはお客様ですから、ゆっくりしていていいんですよ」

 そう言って、柔らかく微笑む秋子さん。何故かいつも、それ以上強く申し出るのは躊躇われた。

 私はしばらく、外を眺めてぼうっとしていた。そろそろ帰宅すべき時間なのだけれど、そのために真琴を起こしてしまうのも悪いような気がして。
 真琴が小さく呻き声を上げて、私の膝の上で少しだけ身動ぎする。顔にかかった髪の毛を、手のひらでそっと除けてあげた。真琴のくすぐったそうな表情が可愛くて、私は小さく笑った。

 と。

「2人とも寝ちゃったんだ?」

 くすくすと笑う気配がして、私は顔を上げた。水瀬先輩が、いつの間にか私の正面に立っていた。両手に持っていたマグカップの片方を私に差し出して、訊いてくる。

「コーヒーだけど、美汐ちゃんも飲む?」
「……はい、いただきます」

 私はそう答えると、温かそうな湯気が立ち上るマグカップを受け取った。中の琥珀色のコーヒーを見つめて、それから一口。

「どう?」

 楽しそうに、水瀬先輩が訊いてくる。砂糖とミルクの量が、私好みの味だった。

「美味しいです」

 そう答えて、私は笑った。

 水瀬先輩は不思議な雰囲気を持った人だった。最初に話した時から、今もその印象は変わっていない。他人を癒す柔らかな物腰、温かい微笑み。一緒にいると、こちらまで微笑んでしまうような、その雰囲気。とても素晴らしい女性だと思う。
 そんな雰囲気も特徴的だけれど、何より私が驚かされたのは、普段はぼうっとしているように見えて、その実きちんと見るべきところは見ていることだ。例えばこんな風に、数度訪れただけの私の好みを把握しているのだから、侮れない。

「ありがとうございます、水瀬先輩」
「いいよ、お礼なんて」

 そう言って、水瀬先輩は照れたように笑った。

「それよりも、『名雪』って呼んでよ。私だって『美汐ちゃん』って呼んでるんだし」
「……はい、その、……名雪さん」
「うん。美汐ちゃん」

 そう言って、また笑う。つられるように、私もまた、笑った。
 それから、名雪さんは私の目の前のソファに腰を下ろした。自分の分のコーヒーを一口飲んで、ほうっと一息吐く。

 しばらく2人で黙ったまま、コーヒーを啜る。けれどその場には重苦しさや余所余所しさは無くて、不思議と心地良く感じられた。それもまた、彼女の魅力なのだろうと思う。喋っていても、何も話さなくても、良い雰囲気を作ることができる人なのだ。

 やがて。ふと気付くと、名雪さんが、私の顔をじっと見つめていた。

「美汐ちゃんは」

 唐突に、口を開く。

「真琴と仲が良いよね?」
「……はい。仲良くさせて貰っていますけど……」

 不意に訊かれたことは余りにも唐突な内容だったので、私は少し訝しく思いながらも、そう答えた。
 すると名雪さんは、続けて、こんなことを訊いてきたのだった。

「美汐ちゃんは、今、幸せ?」
「……え?」

 思わず、訊き返す。すると名雪さんは、少し真面目な顔をして、

「真琴は、たぶん今、もの凄く幸せなんだと思うんだよ」

 そう、言った。
 私は、咄嗟には何と返して良いのか分からず、はい、と頷いた。それを同意と受け取ったのか、名雪さんはその続きを話し始めた。

「真琴は今、とても幸せなんだと思うよ。祐一や美汐ちゃんっていう大好きな人と、一緒に居られるんだから、きっと幸せに違いないよね? ……だから」

 そこで、言葉を止めて。
 それから名雪さんは、私の顔を見て、こう言ったのだ。

「幸せなんだから」

 微笑んで。

「手をつないで、歩けばいいんだよ」






幸せなら手をつなごう








     ▼



 真琴は、わたしにとって、初めてできた妹みたいな存在だった。それは、真琴が初めてこの家に来た時からずっと、変わらないわたしの気持ち。
 時々は、従兄弟の祐一を取られてしまったような気持ちになって、軽く嫉妬してしまったりもしたけど。それでも、始めからずっと紛れも無く、真琴は家族だったんだ。

 けれど、しばらくして真琴が消えた。わたしもお母さんも、もちろん祐一も、とても悲しかった。特にお母さんの落ち込み様は酷かった。一番悲しいはずの祐一が、表面上は普段の明るさを維持してくれていたことだけは、救いだったけれど。
 まるで灯りが消えたかのような、水瀬家。だけどわたしは、半ば確信的に、真琴にもう一度会えると思っていたんだ。
 だって、わたしたちは家族だから。
 一緒にいるべき家族が一緒にいる、ということ。それはある意味奇跡みたいなことだけど、ある意味では、それは必然でもあるのだから。

 そして真琴は、帰ってきた。ある日突然、何事も無かったかのように。
 その時にはもう春が訪れていた。真琴がいなくなっていた間にすっかり静かになっていた水瀬家は、俄かに賑やかさを取り戻していた。家族の帰還を歓迎するかのように、家全体が明るさを取り戻していた。
 結局わたしには、真琴がどうして消えたのかも、どうして帰って来れたのかも、その理由は殆ど分からなかった。そもそも、真琴自身が何も覚えていないというのだから、真相は分からず終い。祐一は何かを知っているんじゃないかな、とも思ったけれど、それを訊くのはたぶん野暮だろうから、止めておいたんだ。
 一番大事なのは、真琴が帰って来てくれたこと。事情でも理由でもなくて、その事実そのものが大事だと、わたしは思う。


     ▽


 真琴には友だちがいる。とても仲の良い、大切な友だちが。
 その真琴の友だちというのが、天野美汐ちゃん。わたしの一歳下とは思えないほど落ち着いた物腰の女の子。物静かで、いつもどこか寂しそうな表情をしている、あまり笑わない女の子。でも、たまに見せる笑顔がとてもステキな、女の子。
 彼女は、学校では一人でいることが多い。わたしや祐一とは、真琴を通じてお互いを知っているから、こちらから話しかけるときちんと相手をしてくれる。けれど、その他の人とはあまり話もしていないのだと、祐一から聞いた。

 そんな彼女が。真琴と一緒にいるときは、とても自然に笑うのだ。

「真琴と仲良くなってから、天野は明るくなったよ」

 以前、祐一がそんなことを言っていた。確かに、真琴と一緒にいる美汐ちゃんは、とても自然に笑うことができているように思う。真琴も、美汐ちゃんと一緒にいるときはいつも以上に楽しそう。
 もっと真琴と仲良くなりたいと思っている『お姉ちゃん』としては、ちょっぴり美汐ちゃんが羨ましくなってしまう。だって、真琴が美汐ちゃんに向けてくれるような輝くような笑顔を、わたしに見せてくれることは殆ど無かったから。
 たぶんきっと、真琴にとって美汐ちゃんは“特別”なんだろう。そして、美汐ちゃんにとっても真琴は“特別”なんだ。例えば、わたしにとっての香里のように、大好きで仕方がないくらいの親友なんだろうと思う。

 そんな風に、女の子であるわたしが羨むくらいに仲が良い2人。
 ―――だけど。わたしはある時、ちょっとした違和感を感じてしまったんだ。


     ▽


 それは、ある晴れた日の、夕暮れ時。
 部活を終えたわたしは、着替えを済ませて帰り支度を終え、学校から出ようとしていた。

 と。

 校門を出ようとすると、ふと視界の隅に、見慣れた明るい色合いの髪の毛を見つけた。2つに纏めた髪の毛が、初夏の風に吹かれて、ふわふわと揺れている。

「真琴?」

 校門のそばで所在無げに立っていた少女。それは、真琴だった。
 わたしが声を掛けると、真琴は顔を上げた。緊張に少し強張っていた表情が、少し弛む。

「あ、名雪っ」

 わたしの名前を呼ぶと、笑顔になって、小走りに駆けてくる。
 近くまで寄ってきた真琴を落ち着かせるように、わたしは笑った。

「どうしたの真琴。祐一を待ってたの?」

 そう訊くと、真琴はぶんぶんと頭を振って、

「美汐を待ってたの」

 そう、答えた。

「美汐ちゃん? もう遅いけど、まだ学校にいるのかな?」
「分からないけど、でも、ずっと待ってるの」
「ずっと……って、いつから?」
「えっとね……4時ごろから、かな」

 それを聞いたわたしは、思わず振り返って校舎を見上げた。校舎に据え付けられている時計は、既に6時半を指している。美汐ちゃんは確か、部活は何もやっていなかったはずだったけれど、それでこんなにも遅くなるものだろうか。

「わたし、思うんだけど」

 少し考えてから、わたしは続けた。

「もう遅いし、先に帰っちゃったんじゃないかな?」

 そう言うと、真琴は少し考えるような素振りを見せて、それから小さく、溜め息を吐いた。

「やっぱり、そうなのかなぁ」

 肩を落として、真琴はあぅ、と小さく声を漏らした。

 聞けば、真琴は毎日こうして、学校帰りの美汐ちゃんを待っているのだと言う。美汐ちゃんは図書館に寄ってくることが日課で、だいたい4時過ぎごろに校門に来るらしかった。それで、いつも4時ごろから待っているのだけれど、今日に限って美汐ちゃんが来ないらしい。

「きっと、何か用事があって早く帰らなきゃいけなかったんじゃないかな?」
「あぅ……」

 明らかに気落ちしている真琴。見ていて、少し可哀想になってしまう。

「また、明日会えるよ。だから今日は、わたしと帰ろう?」

 わたしがそう言うと、真琴は何かを考えるように、下を向いた。それからしばらくして、顔を上げて、

「やっぱり、もう少し待ってる」
「……そう」

 わたしは小さく溜め息を漏らした。それから、それじゃあ先に帰るねと言い掛けた、次の瞬間。

「あっ!」

 突然、真琴が叫んだ。同時に、駆け出す。
 わたしは、真琴が駆けていった方を見た。校舎から歩いてくる女の子は、紛れも無く。

「みしおっ!!」

 嬉しそうに、名前を呼ぶ真琴。

「……真琴?」

 呼ばれた当の本人―――美汐ちゃんは、少し戸惑ったように、真琴の名前を呼んだ。

「こんな遅い時間に、一体どうしたんですか?」
「美汐を待ってたのよぅ」

 そう言って、真琴ははにかんだように、笑った。

「それに、水瀬先輩も……」
「わたしは、たまたまそこで真琴に会ったんだけどね」

 そう言って、わたしは小さく笑った。

 どうやら美汐ちゃんは、何かの委員会が長引いてしまって遅くなってしまったらしかった。さっき真琴から聞いた話も併せて考えると、もしかしたら、美汐ちゃんは図書委員なのかも知れない。
 いつまでも校門の前で立ち話をしているのも憚られるので、わたしたちは取り敢えず、家までの道を歩くことにした。前を歩く真琴と美汐ちゃんは相変わらず仲が良さそうで、少し後ろで見ながら、わたしはそんな2人を微笑ましく眺めていた。

 けれど。
 同時にわたしは、少しだけ違和感を感じていた。

 それは、ちょっとした違和感。あとから考えれば、その時どうしてわたしが気が付いたのかは、正直よく分からなかったけど。でもそれは、一度感じてしまえば、後から拭い去ることができない違和感だった。

 2人が、手を繋いでいない、ということは。

 仲良さそうに寄り添って歩く2人。けれど2人は、決して手をつなぐことはしていなかった。両手で鞄を持つ美汐ちゃん。所在無げに両手を弄ぶ真琴。それは、仲が良い2人の様子からは、何となく浮いていたのだった。


     ▽


 美汐ちゃんとは途中で別れて、わたしは真琴の隣をゆっくりと歩いていた。今日の出来事や、テレビドラマやマンガの話。そんな他愛も無いことを話しながら、2人で帰り道を歩く。

 ふと思い当たって、わたしは真琴の手を見た。相変わらず所在無げに弄ばれている、真琴の小さな手。わたしはその手を、きゅっと握った。真琴ははっとしたような表情で、わたしの顔を見た。わたしは微笑んで見せた。それを見た真琴が、恥ずかしそうに、でも嬉しそうに、笑った。
 そしてわたしたちは、手をつないで家まで帰った。その間、わたしはずっと考えていたんだ。



 真琴はきっと、美汐ちゃんとこんな風に手をつないで歩きたいんだろうな、って。



     ▼



 爽やかな風が吹く、この街で。

「美汐っ、早く早くっ」

 穏やかな日差しの中、2人で歩く。

「そんなに急かさないで下さい」

 私はそう言って、空を見上げた。初夏の少し眩しい日差しが、妙に心地良い。

「こんなに気持ちいい天気なんですから、ゆっくり歩きましょう。真琴」
「うんっ」

 元気よく頷いて、真琴は私の隣に並んだ。そのまま2人、寄り添って歩く。

 新緑が目に鮮やかな初夏の、快晴の日曜日。昨日の雨は今朝早くには上がって、水溜りが日差しに当たってきらきらと輝いている。そんな中、私と真琴は、ものみの丘へと向かっていた。レジャーシートとお弁当を持って、気分はちょっとしたピクニックだ。
 私は左手に、お弁当の入ったバスケットを持っていた。隣の真琴は、小さなリュックサックに水筒とレジャーシートを詰め込んで、意気揚々と歩いている。

 と。

 ふと、真琴の左手が私の右手に触れた。思わず、私は真琴の顔を見た。照れた風にはにかむ、真琴。

「どうしたんですか、真琴?」

 立ち止まって私が訊くと、真琴はしばらくもじもじと両手を動かして。
 それから。

「幸せなんだから、手をつなごうよ」

 そう言ってにっこりと笑うと、真琴は私の手を、きゅっと握ったのだった。
 その笑顔を見て、私は、一人の女性の顔を思い出していた。ちょうどこんな風に、やわらかく笑うひとを。

「……同じことを言うんですね」
「え?」

 ぽつりと、私が漏らした呟き。きょとんとする真琴。
 おそらく、これは嫉妬だ。真琴は自分で考えている以上に、水瀬家の人たちに影響を受けているのだろうと思う。それが何となく悔しくて、でも、そんな風に考える自分が少し可笑しくて。
 だから私は、思わず、声を上げて笑ってしまったのだ。

「え? え? 何か変なこと言った?」

 困惑の表情で、真琴があぅ、と呻く。

「……いえ、ごめんなさい、真琴。何でも無いんですよ」

 そう言いながら、私はどうしても、こみ上げてくる笑いを抑え切れなかった。

 私をこんなにも笑顔にさせてくれるのは、真琴だけ。でも、そんな真琴を育んでいるのは、確かにあの家族なのだ。改めて、私は感じずにはいられなかった。水瀬家で生活する真琴の幸せと、そんな真琴と一緒にいられる自分の幸せを。

「さぁ、行きましょう。真琴」

 そう言って、私は右手を差し出した。

「うんっ!」

 輝くような笑顔で、真琴が私の右手を握った。
 つないだ手から伝わる温かい気持ち、離さないように、ぎゅっと。

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