私はむしろそれらが、過去の幻影、私の幼年時代の親しい仲間、共通の話題を呼びだす消え去った友人達なのだ、と思った。亡霊のように、それらは、私といっしょに自分達を連れて行ってくれ、生き返らせてくれ、と私に頼んでいるように思われたのであった。   『花咲く乙女たちの影に』


……やがて野薔薇に後をゆずろうとして生垣沿いに密集するさんざしの匂い、小道の砂を踏んでいく反響のない足音、水草にあたる川水に結ぶかとみえてはかなく消え去る泡、――私の感情はそれらのものをもちこたえ、継起する幾年月を超えさせることに成功した。……そのようにして現在にまで引き寄せられたそんな風景の小片は、時々あらゆるものからぽっつりと切り離されて、私の想念の中を、まるで花咲くデーロスの島のようにあてもなく漂い、どんな国から、どんな時代から――おそらくは単に、どんな夢から――それがやってきたのか私には言えないことがある。だが私は、とりわけメゼグリースのほうやゲルマンのほうのことを、私の精神の土壌の深い地層、今もなお私がよりどころとする堅固な地盤と考えないではいられない。この二つの道で知った事物や人々だけが今でも私にとって真面目な存在のように思われ、よろこびの種であるわけは、その二つの道を歩き回っていた頃に、私がそうした事物や人々を信じていたからに他ならない。創造する力としての信仰が今は私の中で涸れているためか、それとも現実は記憶の中でしか形成されないためか、今日はじめて目にする花は、私にとっては真実の花ではないように思われる。   『スワン家のほうへ』


回想は、忘却があるために、それ自身と現在の瞬間との間にどんな鎖をつなぐことも、どんな関係を結ぶこともできないで、その場所、その日づけにとどまって、谷の窪みや山頂の尖端に、その距離と孤立を守ってきたとしても、突然新しい空気を我々に呼吸せしめることができる。……真の楽園は一度失われた楽園なのだ。   『見出された時』


失われた時を求めて――マルセス・プルースト






トリプル・コンチェルト

トリプル・コンチェルト





 雪は何時の間にか止んでいた。東の空が微かに赤かったが、一睡もせずに方向感覚を失った今の天野美汐にとって、それが朝焼けなのか、夕暮れなのかを見分けるのは至難の業であった。
 この街にとって、いや、彼女にとっては、あたかも鈍い燻し銀の光にくるまれた冬こそ季節のすべてであったように思われる時がある。目に映るものすべてが、純白の光彩に彩られた残雪の余韻であり、春があっても、夏があっても、冬の胞子が息吐いているように美汐には思われた。
 気だるげに時計に目を移す。時計の針は、午前六時半を少し過ぎたところだった。
 顔を洗うために、洗面台に向かう。日曜日の今日、なんらの部活にも所属していない彼女にとって、あえて急ぐ必要もなかったが、逆に何もしないでいる必然性もない。
 鏡を覗き込む。心なしか辛そうな顔をして笑っているように見えた。
 どうして、と美汐は思った。そしてすぐに、そのこと自体にさしたる理由などないと、自分の考えを打ち消す。
 自分にはそういった能力はないので比較の仕様はないけれど、これは絶対音感のようなものだと彼女は思った。
 人でないものを見分ける力なんてきっと、その程度のものだ。
 天賦、と思って美汐は苦笑する。どうしてこんな余計な『才能』を、と。

 電線にまとわりつく雪がそこかしこで零れ落ち、身を屈めた野良犬を追い立てている。
 まだ日が昇りきっていない街中を歩きながら、美汐はあの子に語りかける。はじめ、あの子が消えた時は、ただ呆然と日を送った。よくも気が狂わなかったものだ、と思う。それすら今から考えれば、笑い話だ。『その程度』のことで、そうそう気の狂う道理はない。もし本当に気の狂ったものがあるとすれば、それは最初からそういった素質のようなものを持っていたということに過ぎないだろう。ただそれが引き金になったに過ぎないのだ。
 いつから私はあの子に語りかけるようになたのだろう、と美汐は思う。もうこの世界のどこにもいないあの子に飽きもせずに語りかけている自分を、気色悪いと思ったこともある。それとて、習慣のようになってしまえば、痕跡すら残さずに消えたあの子にではなく、かといって自分の心でもない、なにか得たいの知れない近しい懐かしいものに話しているような気がして、うっとりしてしまうことがままあった。
 そのうち、そんな美汐のことを薄気味悪く思ったのかどうか、クラスの誰も話しかけてこなくなったが、美汐にとっては都合のいいことでしかなかった。後ろ向きだと批難されようが、ただ一人恍惚とした時を過ごしていたかった。
「おっと」
 自分と同じ位の年恰好の少年にぶつかり、今まで俯き加減に歩いていた美汐は顔をあげる。
「君、大丈夫?」
 抑揚のない声で、少年が声をかけた。
 大丈夫です、何ともありませんから、言おうとして彼女は息を呑んだ。そうしてすぐに自分に与えられた天賦を呪った。
「打ち所が悪かったかなぁ」
 何も答えずに、ただ呆然としている少女を見ながら少年は言った。
「どうして――、」
 無意識のうちに美汐は声に出していた。
 驚いたように自分を見つめている少女に対し、なにを勘違いしたのか少年は、
「どこかで会ったことあるっけ? もしかして、いとこのユキオ君?」
 と言った。
「違います……だいたい私は、女の子ですよ」
「そう。……まっ、いいや。やっと答えてくれたし。ぶつかっちゃったけど、本当に大丈夫?」
「は、はい」
「ならいいや。ごめんね、本当に」
 じゃあ、と言いながら踵を返して歩き始めた少年に、待って下さい、と美汐は声をかけていた。自分でも驚くほどの大きな声だった。振り向いた少年に、あなたは人間では――、そこまで言ってしまってから、激しい慙愧の念に襲われていた。美汐の知る『あの子』達は、自分達の運命について何一つ知らないのだ。ただ僅かな時間を人ととして共に生きることを望み、そして消えてゆくだけだ。そう、おそらく彼も何も知らないのだ。
 そんな美汐を少年は怪訝そうに見つめていたが、
「うん。オレ、もともとは人間ではなかったけれど。よく分かるね。そんなこと」
 と言った。
 美汐は黙って立ち尽くしていた。今、目の前に立っている少年はなんと言ったのだ? 少年はなおも続けた。
「でも、君が気づかないだけで、もっとたくさん物の怪がいるのかもしれないね。オレでも気づかないし」
「……あの子は、一ヶ月も持たずに消えてしまいましたよ」
「あの子って言われても、オレ、知らないし。それにオレは、五百年以上、生きているし」
 なら、どうしてあの子は――目に溜まっている涙に構うことなく、美汐は言った。
「真っ白い画用紙に落とされた、一滴の黒いインクだったからじゃないの?」
 と少年が答えた。美汐の瞳から、涙が一滴、雪に零れ落ちて消えた。
「どういう、意味ですか?」
「純粋な思いであればあるほど、人として生きられる時間は逆に短いってこと」
 そろそろオレ、行かなくっちゃ、と少年が言った。急いでいるから。
「今日は星獣戦隊ギンガマンの日だから。『悪魔の策略』だった、と思う。確かヒズネラの最後の日だし」
 もしもまだ何か用があるのなら、と言って少年はメモ帳のようなものを美汐に投げた。学生手帳だった。
 走っていった少年の後ろ姿が完全に見えなくなると、美汐は少年から渡された生徒手帳に目を通した。自分と同じ高校に通っているらしかった。氏名の確認をする。

 ――二年×組 北川潤

 それが少年の名らしかった。





 譲ちゃんは今から起こる事を見ない方がいい、と目許を『心眼』と書かれた奇妙な布で覆った男が言った。水瀬秋子は小さく頭を振った。確かに自分には、彼女の生命について見届ける義理も義務もなかったが、それでもどういうわけか、これから行われようとしていることから、目を反らしてはならないと思った。
「何も無理してみている必要なんて、どこにもないと思うんだけれど」
 薄く黄金色がかった髪の毛をたなびかせた少年が、普段通り、無表情に言った。
「あまり、気持ちのいいものじゃないし。夜、眠れなくなるかも」
 秋子は黙って、臥せっている少女に目を向けた。少年の言葉は、彼女の耳には届いていないようだった。
 男は仕方がない、といった風情で肩を竦めながら少年の方に顔を向けた。
「いいんじゃないの? ……口で言っても聞かないし、力づくで追い出す必要も俺達にはどこにもないし」
 と少年が答えた。
「分かった。……でも、譲ちゃん、覚悟はしておくんだな」
 つい先日まで熱に浮かされあれだけ苦しんでいた少女は、今はもう、眠っているようにしか見えなかった。それでも彼女はまだ、生きているらしかった。死とは、優しいものなのかと秋子は考えた。息をするのも酷く苦しそうだった目の前の少女が、これだけ安らかな顔をして横たわっているのだから、彼女の考えはあるいは当然とも言えた。
「ゆんゆん」
 と少年が男に声をかけた。
「……ああ」
 低い声で、ゆんゆんと少年に呼ばれた男も応じた。
「生命の終わり、だ」
 秋子が両親から聞かされた御伽噺では、人に恋焦がれて人の元にやって来た物の怪の逝く姿は、どれも幻想的なものだった。そういった御伽噺にあっては、物の怪達は、生きて寄り添うために生まれ変わるのではなく、死ぬためにのみ生まれ変わるのが常だった。どうしてそんな、本来ならば希望もないような話を美しいと感じたのかは、秋子には分からない。ただただ、美しいものとして感じた。もしかしたらそれは、この国に生きている人間が素朴な感覚として持っている、『哀れ』とか、『悲しい』といった感情の表出だったのかもしれないが、まだ幼い秋子に、そういった事を言葉で以って人に語る術など、持ちようもなかった。
 眠ったままで少女は逝った。どこまでが眠りの領域で、どこからが死の領域なのか秋子には分からなかった。

 あれから幾星霜の年月が流れた。使い古された表現ではあるものの、早いようでもあり、また酷くゆっくりとした歩みのように感じられることもあった。雑踏を歩いている時、ふと信号で足を止めると自分が本当に自分自身なのか分からなくなるような感覚は、繰り返し彼女を襲った。頬を何かが優しく撫でた。何かと思うまもなく、それは秋子の頬から熱を奪っていった。信号が青に変わり、人々が歩き出す中、空を見上げた。いくつかの雪片がちらちらと舞っているのが見えた。小さな子供がはしゃいたが、誰も気には止めなかった。コートについた雪片をさっと払い落とし秋子はすでに点滅をしはじめた信号を駆け足で渡った。

 これが一度目ではなかった。二度目に、沢渡真琴と名乗る少女が高熱により床に臥せた時、秋子は彼女を病院に連れて行こうと甥である相沢祐一に言った。身元の分からない真琴には、もちろん病院に連れて行ったところで、公的な援助は受けられるべくもなかったが、彼女を家族の一員として考えている秋子にとって、それは些細なことに過ぎなかった。
 祐一は小さく首を横に振った。こんな事を口にするのは馬鹿げている、これから秋子に真琴の『真実』を話そうとしている祐一は、心の中で苦笑いを浮かべた。同じ高校の下級生である天野美汐から聞いた真実――それは子供が聞かされる昔話そのものだったのだから。それでも自分は秋子に語らなければならない。祐一は覚悟を決めた。

「そう、あの時の、あの子なのね……」
 言いながら秋子は、自分が成長する過程で、何を得、何を拾い、そしてなにを失い、何を捨てたのかを考えていた。
 生のための生ではなく、死のための生――しかもそういう〈死〉に選ばれた人間に限って、ことさら繊細に作られているようだと、秋子は年を経るごとに、思うようになっていった。
 彼女ももしかしたら、そういった類の存在だったのかもしれない。物の怪である必然性はどこにもない。おそらく人間にもこういった存在というものは在るのだろう。
 死に魅入られた存在は、仮借ない素早さで彼らを連れ去っていく。〈死〉はそのためだけに、そのしめやかな冷たい手で愛撫し、並外れて優雅に育て上げるのかもしれない。〈死〉やり口にはある種の敬虔ささえ感じられた――もしかしたら、〈死〉というものは、憂鬱な、多少悲しげな目つきで、彼らを見守っているからかもしれない、いつしか秋子はそう感じるようになっていた。
 秋子の口から発せられた言葉に、祐一はむしろ戸惑っていた。そんな祐一の心の中を知ってか知らずか、秋子は口を開いた。
「鈴、付けているのですね」
「……ええ、こんな安物より、もっといいものを買ってやろうっていったんですけれどね」
「あの子にとっては、大切な思い出でしょうからね」
 言って秋子は微笑んだ。
「大変でしたよ。昔、私も財布に鈴をつけていましたから。そのたびに私を祐一さんだと勘違いして部屋から出てくるのですから」
 私を見て、祐一さんではないと分かると、目に見えて落ち込みながら部屋に戻っていきましたから、懐かしむように言った。
「すみません」
「いいえ。……それより、みんなでどこか、出かけませんか?」
「いいんですか?」
「当たり前ですよ。……真琴は大切な家族なんですから」
「ありがとうございます、秋子さん」
 それでは出かける準備をしましょう、といって秋子は立ち上がった。酷く悲しそうな表情を秋子が見せたように祐一には思えたが、それも一瞬のことだった。

 部屋に戻った秋子は、化粧台の引き出しからハンカチに包まれた鈴を取り出していた。遠い日の記憶――時間とともに何か、深みの中に立ち消えて、姿を失いそうになる記憶。それでも、――。
 秋子は二回、三回と鈴を振ってみる。しかし錆付いてしまっているのか、音は鳴らない。
 しかし確かに秋子には、記憶の鈴を小さくちりんちりんと鳴らしているように感じられた。



「小父さん、来月トラック買うから、秋ちゃん、あの馬の面倒見てくれないか? このまま捨てるのも可哀相だし」
「馬なんか貰っても私乗れないし、困るよ」
 店の入り口から差し込む夏の陽が、男の後ろで光の輪を作っていた。男は昼過ぎになると、馬に荷物を引かせて福永橋を渡ってくる。いつも水瀬食堂で弁当を広げ、その後かき氷を食べていくのであった。
 秋子は金鍔焼きを拵えている父の傍へ行き、
「あの馬、私に面倒を見て欲しいて言っているよ」
 と言った。母の春枝がかき氷に蜜をかけながら、ぎゅっと睨みつけた。
「本当に、冗談が通じない子ね」
 昭和三十年の半ばも過ぎたこの街では、自動車の数が急速に増えつづけていたが、まだこうやって馬車を引く男の姿も残っていた。
「まったく、仕事でもない余興で馬なんか飼えるのは、羽振のいい御大臣だけでしょう」
 男は大声で笑っている。
「冗談が通じないのは母さんの方だよ、なあ、秋ちゃん」
 彼女の父親である夏樹がそう言って秋子の手に金鍔焼きを握らせた。また金鍔焼きかと秋子は父を上目づかいで見た。
「もう飽きたよ。たまには他のも食べてみたい」
「無理して食べて貰わなくても、自分は一向に構わないけれどな」
 秋子は慌てて頬張った。よりによってこんな暑い日に、売れる訳がないよ――いつか母が言った言葉を心の中で叫んでみる。
「ここはあんたの便所じゃないよ」
 春枝が顔を顰めて表に出ていった。馬は習慣のように、店先の決まった場所に糞を落とした。
「すみません、いつもいつも……」
 申し訳なさそうに叫ぶと、男は秋子を招き寄せた。
「俺の氷半分あげるから、匙か何かを持っておいで」
 一杯のかき氷を、秋子と男は向かい合って食べた。
「終戦後もう十五年も経つのだし、いくらこんな片田舎とはいえ、馬を曳きずって歩いていたのでは稼ぎなんぞたかがしれたものだ」
「本当にトラックなんか買うのかい?」
 夏樹が男の横に腰掛けて聞いた。
 ずいぶん人聞きの悪い言い方をするなぁ、と言って男は笑った。
「東京や大阪、そういう大きな都市ならいざ知れず、こんな片田舎で車なんていったら、えらく金持ち見たいな気がするよ」
「中古だよ。新車なんか買ったら、子々孫々三代かけても払いきれないよ」
「中古でもトラックはトラックだろ。大丈夫なのかい、本当に」
「まあ、これから死ぬ気で働いていけば何とかなるだろ」
 言って男はにっと笑った。
「トラックで商売をするようになっても、水瀬食堂には時々顔、出してくれ。俺達が店を開いた時の最初の客さんが、あんただったからな」
「そういや、あんたは香港からの引き上げ組みだったけなぁ」
 と男が夏樹に言った。
「国のため、国のためと言っていた連中が、今度はお国のために働いていた兵隊どもを、戦犯だと抜かしながら、狩りはじめたからな」
 声を潜めて夏樹が言った。
「連中にだって、テメェらの生活があるからな。同じ国の人間なんてこと、思いもよらないのだろ」
「それにしたって、天皇が降伏の受け入れを宣言した時に、俺の所属していた所の上司が最初に命令しやがったのは、書類の焼き捨てだったからな。燃やしている俺らは、最初はどうしてこんな事しているのだか分からなかったよ。せいぜい上の連中も俺達と同じでどうしたらいいのか判らないから、こんな無意味なことをさせているのだと思っていた。それが――、」
「俺は満洲だったよ」
 男が夏樹の言葉を遮る様に言った。
「満洲は無傷だったよ。日本軍が敗けていたのは、今考えれば、南方、沖縄、東京やらの大都市だけ。手足はもがれ、顔面も傷だらけだったけれど、胴体は無傷だった。俺達も早晩、玉砕するものだとばかり考えていた」
 お互い、よく生きているものだよな、と言いながら二人はどちらからともなく笑いはじめた。
 苺色の冷たさがきりきりと脳味噌に突きあがってくる。秋子は匙を口にくわえたまま、思わず身を捩じらせた。慌てて食べるからだよと言いながら、夏樹は掌で秋子の口元を拭いた。
 南井橋まで行くのだと言って男は立ち上がった。なにやら楽しそうであった。
「今日は重たいもん積んでいるからなぁ。武豊橋の坂、きっかりと登れるといいけれど……」
 暑い日である。市電のレールが波打っている。
 秋子は店先の戸に背をもたせかけて、男と馬を見送った。
 馬は武豊橋の坂を登れなかった。何度も試みたが、後一歩のところで力尽きるのである。馬も男も少しずつ疲れて焦っていく様子が伝わってきた。車も市電も道行く人も、皆動きを停めて、男と馬を見つめていた。
「おうれ!」
 男の掛け声にあわせて、馬は渾身の力を振り絞った。栗毛色の体に奇怪な力瘤が盛りあがり、それが陽炎の中で激しく震えた。夥しい汗が腹を伝って路上に滴り落ちていく。
「二回に分けたらいいんじゃないか?」
 夏樹の声に振り返った男は、大きく手を振って荷車の後ろにまわった。そして荷車を押しながら、馬と一緒に坂を駈け登った。
 馬の蹄がどろどろに溶けているアスファルトで滑った。秋子の頭上で春枝が叫び声をあげた。
 突然後戻りしてきた馬と荷車に押し倒された男は、鉄屑を満載した荷車の下敷きになった。後輪が腹を、前輪がくねりながら胸と首を轢いた。さらに、もがきながら後退りしていく馬の足が、男の全身を踏み砕いていく。
「秋ちゃん、来たら駄目だ!」
 夏樹は倒れている男めがけて走っていき、とぼとぼ戻ってくると、電話で救急車を呼んだ。
「生きているのでしょう? 大丈夫なのでしょう?」
 春江は涙声でそう呟くと、店先に蹲った。調理場の隅に丸めて立てかけてあった茣蓙を持ち、夏樹はまた表に出ていった。
「秋子、中に入っていなさい」
 春枝が呼んでいたが、秋子は動けなかった。
 夏樹が男の上に茣蓙を置いた。それは夕涼み用の花茣蓙だった。秋子は日溜りの底にしゃがみ込んで、灼熱に焦がされたアスファルト道に咲いた目も鮮やかな菖蒲と、その下から流れ出た血が武豊橋の袂へくねくねと這っていくのを見つめていた。やがてそれも人垣に覆い隠されていく。
「喉が渇いているのだろう。秋ちゃん、この水、飲ましてあげな」
 夏樹がバケツに水を汲んだ。秋子はバケツを両手で持つと、道を横切り、馬の傍に近づいていった。馬の口元に溜まった葛湯のような涎が、荒い息遣いとともに秋子の顔に降り注いだ。
 馬は水を飲もうとはしなかった。血走った目で秋子とバケツの水を相互に見つめていたが、そのうち花茣蓙の下で死んでいる主人に視線を移し、じっと夏の炎天に耐えていた。
 馬はやがて荷車から放されてどこかへ連れ去られていったが、荷車だけは、それから何日も橋の袂に放置されていた。

 雨ざらしになった荷車の傍で、傘もささずに立ち尽くしている子供がいた。荷車には薦が被せられていたが、その薦の下にはまだ鉄屑が載せられたままであった。
 台風が近づいていた。
 民家は窓という窓に板を打ち付けてひっそりと身を屈めている。細かな雨と一緒に、藁の塊や潰れた木箱の残骸が路面を覆っていく。
 秋子は二階の雨戸を微かに開いて少年の後ろ姿を見つめていた。そんなふうに一人の人間の姿を盗み見たのは、秋子には初めてのことであった。振り乱れる大きな柳の緑が、人も車も途絶えた灰色の道端に佇んでいる少年を、今にも絡み込んでしまいそうに思えた。
 秋子は両親に気づかれないようにして階下に降り、そっと表に出た。そして少年に近づいていった。雨に濡れることも風にあおられることも意に介さず、なぜか吸い寄せられるように歩いていったのである。
 少年の二、三歩後ろで立ち停まり、自分でも驚くほど甲高い声を張りあげた。
「何してるの?」
 しばらくは秋子の問いかけに気づかぬ様子であったが、ふと振り返り、
「この鉄、売れるかもしれないな、と考えていた」
 と言った。少年が鉄屑を盗もうとしていると思った秋子は居丈高に叫んだ。
「ダメ、絶対! これは人のものだよ、盗ったらダメだよ」
 これは死んだ男の大切な商売物だという思いがあった。
「売れるかもしれないという、仮定の話をしているだけだけれど……それでもダメなものはダメなの?」
 そういった少年の表情からは、喜怒哀楽、いずれの感情を読み取ることも秋子には出来なかった。益々不信感を抱いた秋子は、いっそう厳しい表情で少年を睨みすえた。
 遠くから貨物船の汽笛が鳴り響き、それと同時に雨が急に太くなった。降り注ぐ雨の中で、秋子はそっと少年の顔を窺った。無表情ではあるが、愛嬌のある、妙に人を惹きつける目であった。雨が相変わらず強く少年の髪を叩きつけているのにもかかわらず、少し立った、昆虫の触覚を思わせる癖毛が、その存在を誇示していた。
「この鉄、馬車の小父さんの物、だったのでしょう?」
「……うん」
 頷きながら、秋子はなぜ少年がそのことを知っているのかと思った。
「あの小父さん、こないだここで死んだよ」
 秋子は上目づかいでそう呟いた。途方にくれた時、秋子はいつもそうやって、間を繋ぐのである。
「知っているよ。でも興味ないし」
 言って、少年は降りしきる雨の中に視線を放った。どこを見ているのか、秋子には見当もつかなかった。
「あそこが、俺の家」
 突然、少年は襟裳川の彼方を指差したが、雨に霞んだ風景の奥には、小さな橋の欄干がぼんやり屹立しているだけだった。
「どこ? よく見えないよ」
 少年は市電のレールを横切ると、福永橋の真ん中まで走っていった。秋子も後を追った。
「あの橋の下に見える、あのボロ舟」
 目を凝らすと、岡部橋の下に、確かに一艘の舟がつながれている。だが秋子の目には、それは橋桁に絡みついた汚物のようにも映った。
「あの舟」
「……ふうん、あの舟に住んでいるの?」
「もっと川上の方にいたような気がするけれど、朝起きたらこの近くまで流れ着いた、みたい」
「みたいって……川上に戻ろうとは思わないわけ?」
「だって、面倒くさいし」
 少年が欄干にもたれて頬杖をついたので、秋子もそれお真似て横に並んだ。背は秋子のほうが少し高かった。
「寒くないの?」
 と少年が訊いた。
「うん、寒くない……」
 二人ともずぶ濡れだった。雨は横殴りに強く降ったかと思うと段々小降りになり、そうかと思えばまた急に強くなる、そんな状態をいつまでも繰り返していた。
 秋子は自分の家を指差した。
「私の家、そこの食堂だよ」
「ふぅん、あっ、そっ」
 少年は先ほどの何に対しても興味を示さない、といった風情に戻り、ぱっと踵を返すと、後も見ず福永橋を走り渡り、欄干の中に消え去っていった。その少年と入れ替わるように、風に吹き流された一枚の大きな板切れが、自分めがけてからからと飛んでくるのが見えて、秋子は慌てて家に逃げ帰った。

 秋子はその夜、高い熱を出したが父と母が寝入ったのを確かめると、そっと起きあがり、川に面した階段のそこだけ板を打ち忘れた小さなガラス窓から、少年の家を捜した。
 対岸の家々に灯された蝋燭の光が、吹きすさぶ雨の中でちらちらと並んでいた。そして、岡部橋がある辺りの川面にすれすれのところで、人魂のように頼りなげに上下している黄色い光を見つけた。
 ああ、あれがあの子の家かと思うと、秋子はガラスに顔を押し当てて、魅入られたように眺め続けた。

 僥倖が川筋から湿気をあぶりだしている。きれぎれの雲が飛んでいく。鋸や金槌を使う音が河畔のあちこちで響き、それに混じって子供達の歓声も聞こえてきた。
 台風が去った後の川には、畳や窓枠などと一緒に、額に収まったままの油絵や木製の置物と言った思いもかけない漂流物が流れてくる。付近の子供達は、手に手に長い竿や、網を持って河畔に集まり、めぼしい品を引き上げて晴れた空に乾かすのである。それが台風の後の楽しみでもあった。そしてこんな日は、鮒や鯉の群れが、日がな一日川面に浮き上がって、疲れた体をのんびり癒していた。
「もう起きてもいい?」
 秋子は何度も母に聞いた。
「何を言っているの。今日一日は寝てなさい。すぐ熱出す弱虫のくせに」
 子供達の声が騒がしくなった。口々に何かを喚いている。見ると、嘉納という家の双子の姉妹が小舟に乗って川を荒らしていた。姉妹は中学生で、一艘の小舟を持っていた。舟があれば、橋の下や流れの分岐点で群れをなす川魚を自由自在に生け捕ることが出来る。羨ましそうにしている子供達を嘲るように、姉妹は学校が退けるといつも舟を繰り出していった。同じクラスの男の子達は、陰ではこの姉妹の悪口を言いながら、彼女達に愛想笑いを投げかけることを忘れなかった。いうまでもなく、この姉妹の船に乗ってみたいという、願望からに他ならず、そんなクラスメイトを女子生徒は、そして一部の男子生徒も、冷ややかな目で見つめていた。勿論秋子もその中の一人であった。
 秋子はぼんやりと、少年が住んでいるという舟を眺めていた。
 春枝が秋子の視線を目ざとく察した。
「ずいぶん汚い舟が、引っ越してきましたね……」
 夏樹も窓際に腰掛けて、打ち付けてある板を外しながら言った。
「けれども、風流な屋形船じゃないか。まっ、住んでみたいとは思わないけどな」
「電気や水道なんかは、どうしているのでしょうね」
「さあ、どうしているのだろうね……」
 昼近く、店が忙しくなってきたころ、秋子は両親に内緒で起き出すと、こっそり裏口から抜け出て、舟の家まで歩いていった。
 散乱する立て看板や、首筋にねっとり絡みつく眩しい陽射が、台風の名残を伝えていた。切れた電線が保田橋の中ほどの欄干に垂れ下がっていた。架線修理をする数人の作業員がその周りで汗を流している。
 岡部橋の袂から細い道が落ちていた。それはかつてそこにはなかったもので、舟に住む少年の一家が作ったものに違いなかった。市電や自動車の騒音や、なにやら人声らしい音の塊や、遠くからのポンポン舟の響きなどが、舟の家のはるか彼方でうねっていた。その場所に溜まったまま、干満の度に濡れたり乾いたりする汚物の群れが、岸辺の泥の上で腐っている。
 秋子はしげしげと船の家を見た。廃船を改造して屋根をつけたものらしい。入り口には、長い板が渡されている。人の気配はなかった。というより、人を寄せ付けない寂しさが漂っているのを、秋子は子供心にも感じ取っていた。入っていくことも躊躇われて、彼女は橋の袂にじっと佇んでいた。
 やがて屋根の一隅に陽射が零れ落ち、朽ちた木肌をあぶり始めた。秋子は川に視線を移した。生まれてこのかた、ずっと自分の傍を流れ続けている黄土色の川が、なぜか今日に限って、酷く汚れたものに見えた。すると、馬糞の転がるアスファルトの道も、歪んだ灰色の橋の群れも、川筋の家々の煤けた光沢も、皆ことごとく汚いもののように思えるのだった。秋子は無性に帰りたくなった。対岸に見える自分の家の屋根を見つめた。二階の簾が小さく揺れているのが見えた。その時、誰かに後ろから肩を叩かれた。振り向くと、少年が大きなバケツをさげて立っていた。
「何か用?」
 少年は無表情に秋子の顔を覗き込んだ。
「もしかして、遊びに来たとか?」
 秋子はあらぬほうを見やりながら頷いた。招かれてもいないのに、こうして訪ねてきたことが恥ずかしかったのである。
 少年の片頬が陽を浴びて火照っていた。そのどこか大人びた顔を眺めて、秋子は余計に恥ずかしくなった。その時初めて、秋子は少年が下駄を履いているのに気づいた。
「うち、よってく? 何もないけれど」
 秋子の顔をじっと見つめながら、少年が言った。やはり表情から感情を伺うことは出来なかった。
 細い道を降り、渡しに足をかけようとして、秋子は岸辺の泥濘にはまり込んだ。
「うわあ、ドロンドロンだよぅ」
 膝のところまで埋まった秋子は、少年に引き上げられると、そう叫んだ。
「ねえ」
 少年は舟の家に声をかけた。すると、秋子よりも二つ三つ年上の、色の白い少女が舟の家から顔を出し、前髪を両手で左右に分けながら秋子を見た。身に纏った雰囲気は、どことなく少年に似ている。
「いとこのヨシオ君」
「違うよ!」
 秋子は思わず叫んでいた。
 少女は舟から出てくると、黙って秋子を舳先のところまで連れて行き、座らせて足を川に突き出させた。そして舟の中から柄杓で水を汲んできた。
「お名前は?」
「……水瀬秋子」
 秋子もはにかみつつ、彼らに名前を尋ねた。そんなことは大人だけがするものだと思っていたので、秋子は尋ねながら顔を紅潮させた。
「俺の名前、何だったっけ」
「螢惑でしょう」
「……今、思い出した。俺の名はほたる」
 少女は雪絵と名乗った。
「どこの学校?」
 秋子が少年に訊ねた
「学校って何?」
 少年は少女の方に向いた。少女も頭を振った。
 青竹売りのリヤカーが岡部橋を渡ってくる。
 少女は丹念に秋子の足を洗った。水がなくなると舟の中に入っていき、また水を汲んでくるのである。少年が川の水を汲み上げてズック靴を洗ってくれた。秋子は流れてきた西瓜の皮をぼんやり眺めながら、されるままになって足を投げ出していた。日溜りに座っていると急に汗が滲んできたが、体の底には寒気があった。夜、また熱が出るかもしれないと秋子は思った。
「さあ、きれいになったよ」
 少女は粗末な服の裾で秋子の足を拭いて言った。
「髪、綺麗だね」
 靴を洗い終えた少年が、横から言った。
 秋子は少し顔を赤らめた。恥ずかしい、こそばゆい感情に襲われたからだった。どうしてなのかは自分にも分からなかった。
「中に入れば? 外は熱いし。中なら少しは涼しいと思うし」
 少年が濡れたズック靴を舟の屋根に置いて秋子を誘った。
 舟の中には十畳程度の座敷があり、黒ずんだ箪笥や膳が置かれていた。水に浮いている家の、いかにも頼りない感触が足元に漂っていた。天井から古びたランプが吊り下がっていた。秋子は昨夜の黄色い灯を思い描いた。
「水汲めたか」
 寝転んでいた男が言った。父親か、と秋子は思った。
「公園の水、断水だって」
「ふぅん。いつまでだ?」
「知らない」
「夕方までだって」
 知らないと言った少年の代わりに、少女が答えた。大きな水瓶が部屋の入り口に置かれてあった。
「喉が渇いて仕方がねぇや。少しぐらい残っているんだろ?」
「ははは」
 少年が笑った。
「全然残っていないよ」
「それじゃあ、外の水瓶、飾りみたいなものじゃないか」
「飾りだって……その通りだね」
「納得するんじゃねぇよ」
 そんな会話をよそに、少女は水瓶を傾けて柄杓で掬ったが、水はコップに半分ほど残っているだけだった。家では大切な水で足を洗ってくれたことを知り、秋子は身を小さくさせて項垂れていた。
「ところで、誰が来てるんだ?」
「誰だっけ?」
「俺が知ってるわけねぇだろう……あんまり外界の人間、連れて来るな」
「だって友達だし」
「ほぉ、孤独じゃなきゃ生きられそうにないテメェが友達? 変わったこともあるものだな。B52かなにかが、また日本を爆撃しなけりゃあ良いが」
 起き上がりながら男が言った。このとき秋子ははじめて男の顔を見たのである。目を布で覆い隠していた。
「B52じゃなくて、B29じゃないの?」
「うるせェ、俺でもたまには間違える」
「ねぇ、ゆんゆん、それより友達ってなんだっけ?」
「つーか、お前、ゆんゆんは止めろっての」
「だって呼びにくいし」
「『遊庵』のどこが呼びにきぃんだ、ったく。『ユアン』だぞ『ユアン』、これのどこが呼びにくいんだ」
 所在無さ気に佇んでいた秋子に男は話しかけた。
「譲ちゃん、川向こうの食堂つったら、剣桃太郎蕎麦屋か?」
「違うよ。……水瀬食堂」
「こいつ、いやこいつだけじゃなく俺らに関わらねぇほうがいいぞ。人に不幸をもたらすだけの存在だからな」
 なんと答えたらいいのか判らず、秋子は黙ってもじもじしていた。
「螢惑、確か壜の中に水飴があっただろ?あれでも出してやれ」
 と男が言った。
「俺、ケーコクじゃなくてほたるだし。……大丈夫かな。橙色のアレを出して」
「がたがた抜かしてねェで、さっさと出せっての」
 仕方なく、といった風情で少年は駄菓子屋に置いてあるようなガラス壜を棚からおろし、膳に置いた。それから匙を三本取り出し、秋子と少女に手渡した。
 それきり声は途絶えた。匙を使って橙色の水飴を口に運ぶ秋子を少年は興味津々、と言うよりは、出会ってからまだ一時しか顔をあわせていないとはいえ、ほとんど表情らしい表情を浮かべないこの少年には珍しく心配そうに眺めていた。ポンポン舟が通り過ぎていき、やがて押し寄せてきた波が、舟の家を大きく揺すった。
「ねぇ、本当に大丈夫?」
 少年が秋子に尋ねた。
「……? 大丈夫だけれど、ちょっと体が揺れるかな」
「ねぇ、ゆんゆん、やっぱり……」
「師匠って呼べと言っているだろうが、このバカ弟子。大体ここは舟の中なのだから、揺れるのは当たり前だろうが。なぁ、譲ちゃん?」
 曖昧に返事をしてその場を取り繕ったものの、家に帰ってからも、秋子の体はずっと揺れ続けていた。簾をたぐりあげ、窓辺に頬杖をついて舟の家を見つめた。男がいた部屋の辺りに陽があたっていた。熱気を帯びた川風が、秋子の風鈴を鳴らしている。髪、綺麗だね……という少年の言葉と、水瓶の底をさらう柄杓の乾いた音が耳に残っていた。
 秋子は階段の途中から店内の様子を窺った。出前に行ったのか、母の姿は見えなかった。父も店内の長椅子に腰を下ろし、競馬新聞を読んでいる。秋子は冷蔵庫に忍び寄り、こっそりラムネの壜を引き出した。そしてまた船の家に向かった。
 冷たいラムネの壜を胸に抱えたまま、橋の袂の細道を降りようとしたとき、ふと少年が心配そうに秋子を見つめる顔が切なく、そしてこそばゆい感情として蘇ってきた。
 秋子はもと来た道を駈け戻っていった。橋の真ん中に来ると、小脇に抱えたラムネ壜を投げ捨て、立ち停まり立ち停まりしながら、秋子は長い時間をかけて橋を渡った。

「落ち着かない子ね。お行儀が悪いから、食事の時は集中しなさい」
 しきりに対岸を見つめている秋子の手を、春枝がいきなり叩いた。
 夕日の赤錆のような欠片が、少しずつ黒ずみながら川面を昇っていた。夕餉の香りが川面のあちこちから漂ってくる頃、ほたるは竹とんぼで遊んでいた。
 その姿は対岸の秋子の家からも垣間見ることができた。
「ねぇ、母さん」
 秋子が言った。
「物を口に入れている時は、話さないこと」
 春枝がぴしゃりと言った。秋子は殆ど噛まずに飲み込んだ。
「今度、ほたるを家に連れてきてもいい?」
「ほたるって、誰?」
「あの舟の家の子」
「もう、友達になったんだ」
「うん。この間行ったとき、水飴をくれたよ」
 秋子の箸は完全に止まっていた。
「だから、こないだから川の方ばかり気にしてたんだ」
 外はすでに帳が落ちていた。夏樹と交代するため、春枝は慌しく階下に降りていった。九時まで店を開いているのが習慣であったが、夜になると殆ど客の入りはなかった。それで、早く晩酌を傾けたい夏樹が下から春枝を急かすのであった。

「秋ちゃん、いい知らせがあるんだけれど」
 上ってくるなり夏樹は言った。
「何、いい知らせって」
「学校の夏休みの宿題、やらなくていいことになるかもしれないよ」
「本当? 父さんが手伝ってくれるの?」
 父である夏樹は、これまで自分の宿題くらい自分でやれという態度であったし、母の春枝も自分で考えなくては身に付かないと言って、手伝ってはくれなかった。
「……実はな、秋ちゃん、俺、引っ越そうと思っているんだ」
 急に真面目な顔つきになり、夏樹は言った。
「……どこに行こうと思っているの?」
「金沢……冬は雪の降るところだ」
 金沢という所がどこにあるのか、秋子には見当もつかなかった。
「一緒に商売をしないかって、誘われてるんだ」
 徳利を傾けながら夏樹は言った。
「香港で憲兵狩りがはじめる前に、もう一人と示し合わせて逃げ出したんだ。……俺はどさくさに紛れて日本人の収容所に潜り込めたけれど、もう一人は列車で逃亡している最中、どこだかは忘れちまったけれど、駅で現地の人間につかまって、吊るし上げられて殺されたって……。日本に帰ってきてやっと安心できると思った矢先、今度は俺自身が追われる立場だ。戦争犯罪人として収容された時、ずっと考えていたよ。俺はどうして香港で死ねなかったのかって。毎日毎日あんな思いをするくらいなら、いっそ私刑にあって、殺されていた方が楽なのではないかって。結局よく分からないうちに釈放されていたけれど、どうして自分は生きているのだろうって……」
 夏樹の顔は上気していたが、それが酔いから来るものではないことは、幼い秋子にも薄々感じられた。父は、生きているうちは、力いっぱいの事をしていきたいのだと語った。
「金沢へ、いつ行くの?」
「本決まりじゃないけれど、母さんが反対するだろ」
「私は、金沢に行ってもいいよ」

 あくる日、雪絵とほたるの二人が秋子の家に遊びに来た。
 母が約束通り、二人をもてなしてくれたことが、秋子には嬉しかった。新しい友達を連れてくると、普段は自然、親の職業の話に行くのだが、なぜか母はその事について切り出そうとはしなかった。
 どういうわけか、先日に逢った時に比べて雪絵には元気、というよりは生気がないように感じられた。ただ、それすらも母である春江には好ましいことなのかもしれないと秋子は思った。いつもお転婆な秋子を見て、もっと大人しい女の子が欲しかったと冗談半分に言っていたからだった。
「はい。これ、お土産。ゆんゆんが持って行けって」
 少年が口を開いた。
「どうも、ありがとう。今、食べてもいいかしら?」
 春枝が少年に訊ねた。うん、と少年は些か歯切れの悪い調子で答えた。
「美味しいよ、その水飴」
 秋子が春枝に言った。
「それは楽しみね」
 言いながら春枝は、匙を取り出してきた。少年はずっと、難しい顔をしている。
「……何、これ。味がしないけれど」
 最初に口に運んだ春枝が言った。不味い、という雰囲気ではなかったが、妙なものを見聞きしたときにみせる表情であった。
「そんなことないよ。美味しいよ」
 秋子は少し、怒ったように言った。
「……君が変なんじゃないの」
 と少年が秋子に言った。
「ほたるまで!」
 益々拗ねたように、秋子は叫んだ。
「ねえ、大丈夫?」
 店に入ったきり黙っている雪絵を見て、心配そうに春枝は訊ねた。
「……はい、平気ですから」
 少し、吃っているように秋子には聞こえた。かき氷でも食べて、元気出して頂戴、と言いながら春枝は立ち上がった。
「坊主、幾つだ?」
 二階から降りてきた夏樹が少年に訊いた。
「忘れた」
 とほたるは答えた。父は学年のことを聞くものだとばかり秋子は思っていたが、ついぞ、口には出さなかった。
 まだ昼間であるとはいえ、季節が季節だからであろうか、春枝も加わる形で、幽霊やお化けの話になった。
 秋子は最初、嫌がっていたが、ほたるに怖いのかと訊ねられて、むきになって否定してしまったのであった。
 口ではまったく怖くないという秋子をよそに、と言うよりは面白そうに父である夏樹は眺めながら、自分は小さい頃、人魂を見たことがあるのだと言った。
 ところが突然ほたるが、自分は人魂など年中見ていたし、それどころかこの手で取って捕まえたことがあるのだ、と言いはじめたのであった。
 夏樹と春枝は顔を見合わせ笑い出し、秋子と少女は黙っていた。
「人魂を手で取って捕まえたなんて話、はじめて聞いたよ」
 言って夏樹は笑った。
「人魂を捕まえるなんて、いったいどうやって捕まえたんだい?」
「魚を捕まえる、あのタモ」
「魚を取る、あのタモ?」
 秋子も感に耐えぬように言った。
「トンボくらいなら捕まえたこともあるけれど、人魂はないわねぇ」
 春枝も笑いながら言った。
「うん。トンボを取りに行った帰りに、人魂もよく取ったよ」
「魚を取るタモじゃなくて、人魂をとるタモだね」
 茶化すように秋子は言った。
「トンボが取れなかった日は、夕方帰りによく人魂を取りに行ったよ」
 あまりに当然な顔つきでほたるが話したため、夏樹も春枝も逆に困惑し、秋子の顔を見返した。その視線に答えるように、秋子はほたるに訊ねた。
「いつ頃の話?」
「忘れた。……でも、人魂の多いあたりだったよ」
「どこだい、それは」
 夏樹が言った。
「覚えてないや。……ここら辺と違って、川の水も綺麗だったなぁ」
「でも、虫の中には自分で光るものもいるでしょう? 見間違えということはないの?」
 春枝が言った。まだ短い時間しか話してはいなかったが、この少年がどこかしらずれていることを、夫婦も感じ取っていた。それで、蛍とは言わずに虫と言い換えたのであった。
 蛍でしょうと少年は言った。この少年には悪いと思いながら、一家は意外の感に打たれていた。
「蛍の出るのは、もっと遅くなってから」
 空中を飛んでいるところを取るのか、と夏樹が訊いた。
「うん。あまり高くは飛ばないからね。ちょうど俺でも取れるくらい」
「お墓はたくさんあったの?」
「うんう、全然」
 取った人魂はどうしたの、と春枝が訊いた。
「タモで捕まえた奴を手で取ってみた」
 当然というようにほたるは言ったが、少しの間沈黙があった。
 どんな感触だったの、と今度は秋子が訊いた。
「嫌な手触りだったよ。手で触れる前に、池に突っ込むんだけれどね」
「池」
「燃えているからね。冷やすため」
「その後、手でつかんだのか」
 夏樹が咳き込むように言った。
「うん」
「それで、あなたに掬われた人魂は浮かばれたのかな」
 今の今まで黙っていた少女が口を開いた。かき氷は一口も手をつけられていなかった。秋子達一家は、幽霊でも見るように少女に顔を向けた。
 どうだろう、分からないな――少年は少女の問いに無表情に答えた。
 秋子達はただ、それ以上返す言葉もなく、なぜか圧倒されたような気分でただしげしげと二人の顔を見つめていた。


 それから十日も経たずに、雪絵という名の少女に異変が起きる。
 遊庵は無表情に――とは言っても、目許を隠しているので、表情を窺いきることは平素、難しかったが――雪絵はもうすぐ消え去るのだと言った。
 人の温もりに恋焦がれて、人となったものの、その思いは報われはしなかったこと、そして思いの報われなかった物の怪は、死して魂となった後、未来永劫、苦しまなければならないこと――そして報われなかった魂をその苦しみから解放してやるには、遊庵が魂を『喰う』以外に術はないこと。
「他に方法はないんですか?」
 秋子は遊庵に訊いた。
「ねえよ」
 考える仕草は一瞬もなかった。その言葉は秋子にとって、酷く無慈悲なものに感じられた。
「『喰わ』れた魂は、どうなるんですか?」
「心配しねぇでも、大丈夫だ。俺が死んだ後、浄化された形で開放される」
「でも、それだとゆんゆんの魂が、完全に消滅しちゃうけれどね」
 ほたるが言った。
「くだらねぇこと言ってんじゃねぇよ。……他に方法なんざ、ねぇんだからよ」

 魂の色は、白い、と言うよりは、半分透明な、奇妙なものだった。
 一寸の間秋子は全く訳がわからぬまま夢を見ているような気分で見つめていた。雪絵が消えると聞いたとき、秋子は単に彼らの経済的な事情からそう言っているものとばかり考えていたが、事態は彼女の想像の枠内を越えて進行していた。不意に、自分は本当に夢でも見ているのではないかという考えが頭をもたげてきた。ほたるという少年と出会ったこと自体、夢なのではないか、と。
 雪絵から取り出された魂は、最初燃え盛っていたが、次第次第に消え去っていった。
 触ってもいいですか、と秋子は遊庵に訊いた。少しの間考え込んでいる様子であったが、構わねぇぜ、と短く答えた。
 あまりいい手触りではない、と言うよりはむしろ不快な手触りであった。ぬるぬる、と言うよりは、妙に手応えがなく、風邪を引いたときの鼻汁のようであった。
 これが報われなかった、魂の手触りか――そう思った瞬間、脇目も振らず、秋子は走り出していた。
 目に見えぬ巨きなものに、体を鷲づかみにされたような気配に、酷く怯えていた。

 夏樹が金沢行きを決心したのは、あの日から一週間後のことだった。相場の二割も高い価格で譲り受けようという買い手が、突然現れたのだった。
 最後まで反対し続けていた春枝も、度重なる喘息の発作と、夏樹の気迫にとうとう根負けした格好となった。八月の下旬までに、家と土地を明け渡すことが、買い手の出した条件であった。
「相手にも色々と思惑があるんだろう。新学期に入ることだし、秋子の転校の手続にも、都合がいい」
 慌しい引越し準備の最中、夏樹は陽気に笑いながら、新しい仕事の計画や、金沢の町の風景や、降り積もる雪のありさまを語って聞かせた。次第次第に春枝も腹を括っていったのか、そのうち夏樹の言葉に相槌を打つようになった。
「空気もきれいになるでしょうし、喘息もちの私には、願ってもないことです」
「そうそう。こんな粉塵の街、人が住むところじゃないよ、まったく。向こうにいったら、俺も一生懸命働くからな」
 秋子はほたると逢っていなかった。彼のほうから出向いてくることもなかったし、秋子も訪ねて行かなかった。彼女は一人で神社の境内で遊んだり、二階の座敷から河畔をぼんやり眺めたりして過ごした。そして、ほたるが自分の家めがけて橋を渡ってくることを無意識のうちに期待していた。
 金沢行きを知らされた日、秋子は船の家まで近づいていった。ぬるぬるとした感覚がたちまち蘇ってきて、彼女は細道を降りることができなかった。秋子は幾つかの小石を船の家の屋根に向かって投げつけた。しかし彼女の非力ゆえか、あるいは迷いがあったためか、どの小石も舟の家の屋根に達することなく、道沿いに空しく落ちただけだった。もう一度だけ、と思い石を拾って再び投げたがやはり、届かなかった。そんなことを何度か繰り返し、結局秋子はまたとぼとぼと橋を渡って家に帰った。
 いよいよ明日店を閉めるという日であった。
 夏樹も春枝も馴染みの客が入ってくると、その前に神妙に並んで、丁寧ね別れの挨拶を述べた。ポンポン船の男たちはそんな挨拶に答えることが、とりわけ不得手であった。それで、
「あかん、あかん。金沢なんか行かせへんでェ」
「オレ達、明日からどこで昼飯食えばいいんだよ」
「おばちゃんの作る不味いきつねうどん、明日から食べなくてすむと思うとほっとするわ」
 などと冷やかしながら、口数少なくうどんをすすり終え、照れ臭そうに去っていった。
 中には妙にしょんぼりとしている秋子の傍に来て、
「なあ、譲ちゃん、べっぴんさんになれよ!」
 と頭を撫でていくものもあった。
 昼の忙しい時刻を過ぎると、店内には客は一人もいなくなった。
「もうこの川ともお別れですね」
 と春枝が言った。半分に切った煙草に火を点けながら、夏樹も頷いた。
 それきり黙ってテーブルの上を拭いていた春枝が、ふと手を止めて窓際まで歩いていった。そしてじっと対岸を見つめて、
「ちょっと、ほたる君の舟、どっか行っちゃうみたいだよ」
 と言った。
「ああ?」
 夏樹も調理場から出てくると、窓際に立った。秋子は両親の間に割って入り、川を見た。
 真夏の太陽が川面をぎらつかせていた。その中を一隻のポンポン船が舟の家を曳いてゆっくり岸から離れていった。
「どこに行くんだろう?」
 春枝が涙声で言った。黙って煙草を加えたまま、夏樹は舟の家に視線を注いでいた。
 ある日突然、秋子の前に姿をあらわした舟の家は、今再びどこへ行くとも告げず、この河畔から消えていこうとしていた。
「秋ちゃん、行かなくて良いの? このままお別れもせず、喧嘩したままでいいの?」
 そう言って秋子の背中を押した春枝の目は、真っ赤であった。
「もう二度と合えないかもしれないよ?」
「……私、喧嘩なんかしてないもん」
「早く行っておいで。早く行かなきゃ、間に合わなくなっちゃうよ」
 言った春枝の声は顔とは裏腹に、穏やかであった。
 気の乗らぬまま、秋子は小走りで店の外に出た。うちに、急に切ない、物悲しい気持ちが襲ってき、堪らず彼女は駆け出していた。
 橋をくぐって舟の家は、川上に上って行こうとしていた。秋子は橋の真ん中まで走り、目の下の舟に向かって呼びかけてみた。
「ほたる、ほたる」
 舟の小窓はぴったりと閉ざされていた。
「ほたる、ほたる」
 秋子は川筋の道を小走りで上って行きながら、大声で呼んだ。
 彼女の呼びかけに答える様子もなく、舟の家は艫の部分を頼りなげに左右に揺らしながら、咳き込むように川を上って行った。
「ほたる、ほたる」
 秋子は舟を追ってどこまでも走った。橋のあるところに来ると、先回りして待った。そして眼下を通り過ぎていく舟に向かって叫んだ。
 しかし、どんなに大声で呼びかけても、舟は沈黙を破ろうとはしなかった。
 走っているうちに、秋子は息を切らし始めていた。額にうっすら浮かんでいただけだった汗はやがて顔いっぱいに広がり、また体の方も中心に熱せられた鉄の棒でも据えられたかのように体温を急激に上昇させていた。
 ふと、川波の中に何か丸い、透き通ったものが揺らめいているのが見えた。言葉もなく秋子はただ立ち尽くし、そこで秋子は追うのを止めた。
 それは、舟の後を追いかけていくようにして、川を上っていった。
 熱い欄干の上に手を置いて、曳かれて行く舟の家と、その後にぴったりとくっついたまま、川を上っていく『それ』を、茫洋と眺めていた。



 秋子さん、秋子さんと祐一の呼ぶ声に、秋子は意識を現在に戻す。
「支度、できましたよ」
「そうですか。――なら、そろそろ出かけましょうか」
 秋子はもう一度、手の中の鈴を振ってみた。暑い夏の陽射しが肌に蘇ってくるような感触はあったが、やはり音は出なかった。
 秋子は少しだけ微笑んだ。





 ほたる――今は、北川潤と名乗っているが――は、手元のノートに書きつけたあるOとEという点に見入っていた。OとEを直線で結び、それを単位として、Eと同じ向きに点を振り、直線で結ぶ。九十度回転すれば虚数になるし、百八十度回転させさえすれば、それが負数だ。しかしそれは今ここで問題にすべきことではない、と潤は思った。問題なのは、このことによって定義された正の自然数と、OとEの間だけだ。OとEの長さを1とした時、その長さは1/nに分けられる。nを大きくすれば、この間隔はいくらでも小さくすることができる。このことにより、OとEの間にさらに別の二点P、Qを取れば、PとQが一致しない限り、PとQの間には、無数に有理数が存在する。
 奇妙なものだと潤は思う。有限な直線のうちに存在する、無限。
 点には大きさの概念がないから、そんなことをいうのは野暮だとも思う。
 しかしもっと奇異に感じることは、n等分にされた有理数が『数えられる無限』であるのに対し、それより多くの『数えられない無限』がこの点と点を結ぶ線分の間に息づいていることだ。
 潤はノートを閉じて立ち上がり、窓際に立った。日はすでに沈みきっていた。夜天に厳かな運行を敷く星座は、極めてゆっくりとではあったが、あやまたず移っている。どの星々もすべて自らの座を守り、静かに輝いて、瞬いて、震えていた。ときおり流星がその間を縫って飛ぶのが見えた。
 テーブルの上におかれた携帯電話を手に取る。幾つかあるメールアドレスのうちの一つは某プロレス団体の、無意味に長い団体名をメールアドレスにしているためかどうかは定かではないが、悪戯・迷惑メールが届くのは稀なことだった。未読のメールが一通あり、送信者は天野美汐となっていた。
「こっちに届くなんて珍しいな。……それにしても、誰だっけ」
 憶えはまるで無かった。曖昧に笑い、ベッドに横たわっている少女に目を向ける。君の魂はいったい今どこで何をしているの、と少しおどけた調子で口ずさむ。
「ゆんゆんの『心眼』なら、すぐにでも見つけられるだろうけど」
 少女は無言。
「君、知らない? 競馬場で逸れちゃったきり、会ってないんだけれど」
 やはり無言。
 以前、中山競馬場で『お馬で人生アウト』と書き残し、感電自殺を遂げた者があった。
 まさかとは思うけれど――少女に向かって問い掛ける。勿論本気ではない。
 無言。
 掌をひらひらと振り、夕飯買ってくるから――言って潤はドアノブを回し、部屋を後にした。

 とある病院の一室、プレートには月宮あゆと書かれていた。
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