ミコバイト


「なあ、相沢? 『とぶ』って何の略だろうな」

 放課後の図書室で北川は眉をひそめながら教科書を見つめ、隣に座る祐一に話しかけた。
 今日は美坂チーム四人で図書室に集まり勉強会を行う日だった。三年になった彼らは全員が同じクラスになれたわけではないが、全員文系のため共通する授業科目も多く、ときどきは協力しあって受験勉強をしようという話になっていたのだ。もちろんリーダーは学年トップの成績を誇る香里である。

「とぶ?」
「ああ、吉田兼好は『とぶ』らしいんだけど、その意味がわからん」
「んな、いきなり『とぶ』とか言われてもな。空を飛ぶのか?」
「……美坂は知っているか?」
「ん?」

 北川は椅子から立ち上がって、香里の座る席まで歩いて行くと教科書のその疑問の部分を指差して見せた。

『卜部兼好』

 香里は机の上に置いてあった名雪用のハリセンを手にとって北川を叩いた。

 スッパーン!!

「あうっ」

 図書室にいい音が響き、中にいた人間は皆一斉に顔を上げたが、ただ一人、本来このハリセンで叩かれるべき人物だけが机に伏したままでいた。わずかにくぐもった声が聞こえ頭がごそごそと動いてはいたようだがとりあえずそれは放っておく。

「北川君、古文の授業の時寝てたでしょ。これは『うらべ』って読むのよっ。このカタカナのトみたいに見えるのはうらないを意味する漢字。卜部兼好は吉田兼好の本名」
「え、それじゃ『吉田』の方は何なんだ?」
「卜部氏は代々吉田神社の宮司を勤めてきた家系なのよ。だから吉田とも呼ばれるのよね」
「うらべ、か。うちの母さんの旧姓と同じだな」

 二人の会話を聞いていた祐一が口を挟む。

「あ、そうなの?」
「字は北川が言ったような『とぶ』じゃなくて光浦靖子の浦に、辺見えみりの辺って書くけどな」
「普通の『うらべ』ね。どうでもいいけど相沢君、微妙にマニアックなところ突くわね」
「なにっ、そうなのか」
「うん、祐一はマニアックだよー」

 寝ぼけながら名雪が会話に参加する。祐一は無言で立ち上がり名雪に目覚めのハリセンを喰らわせた。


「それじゃ、今日はこれくらいにしましょうか」

 香里は腕時計を見ると、ふぅ、と息をついて教科書を閉じ、本日の勉強会の終了を告げた。

「じゃあ、帰りに百花屋寄って行こうよ」
「そうね」

 名雪の提案に香里も頷く。祐一や北川も異存はない。四人は勉強道具を片付けて図書室を出た。
 生徒玄関を出たところで祐一が、あ、と声をあげる。校門のところに一人の見知った女性が立っていた。
 薄桃色のシャツに黒いハーフパンツを穿いた彼女は祐一と目が合うと手のひらを見せ小さく振る。祐一は小走りに彼女のところへと近づいていった。

「どうしたんだ、舞? 学校まで来て」

 学校を卒業した舞は現在、地元の小さな会社で働いている。卒業後は佐祐理と二人で同居しようかという話もあったが、舞が「母親を心配させるから」と考え直し結局自宅通勤をすることになった。今日は土曜日なので彼女は仕事が休みだった。

「祐一、これから時間ある? ちょっと付き合って欲しいところがあるの」
「時間? ああ、まあ、時間はあると言えばあるような、ないと言えばないような」

 三人のほうをチラチラと振り返る。

「友達との約束があるんだったら別にいいけど」
「いや、行く。舞に付き合うよ。せっかく来てくれたんだしな」

 祐一は三人に向き直ると、顔の前に手を立てて片目をつむった。

「悪ィ、俺、百花屋行きキャンセルな」
「ええっ、また川澄さんの方に付き合うの?」

 名雪が露骨にイヤな顔をする。香里は手の甲で彼女を軽く叩きたしなめた。

「本当に悪い」
「いや、相沢、お前はカノジョを優先してかまわないと思うぞ」
「ええ。あたし達は三人で行くから、相沢君は川澄さんと行ってらっしゃいな」
「イチ…」

 イチゴサンデー、と言おうとして名雪は口をつぐむ。たかるフリをして甘えることはもう出来ないと彼女自身分かっていたからだ。

 そうして別れた彼らはそれぞれの目的地へと向かっていった。



「……ところで、それは何だ?」

 祐一は舞の持っていた長さ1メートルほどもある細長い布の袋を指差す。

「これは、魔物との戦いに使っていた剣。今日はこれを返しに行くの」
「あ、あの剣か。返す……って、それはどこかからの借り物だったのか」
「うん、ずっと前にこの町の神社の人から貸してもらったの」
「なるほど、魔物を相手にするくらいだからな。神社に祀られていた剣なら確かに有効そうだ」
「この間電話したら、吉日に返しに来て欲しいと言われたから今日ということになったの。……別にひとりで行ってもいいんだけど、あの件は祐一も深く関わっていたことだから、ふたりで締めくくりたい」

 祐一の鼻の頭が痒くなった。

「そうか。わかった。それじゃ行こう」

 舞の空いている手の方に自分の手を伸ばす。舞はうん、と言ってそれを握り返し二人は歩き出した。


「ここ。この道を入ってく」

 歩道の脇に木製の道案内の看板が見えたところで舞は立ち止まりそれを顎で差した。看板の矢印は草木に挟まれた舗装されていない土の道を指している。

「『ものみの丘散歩道』か。でも神社のことは書いてないぞ」
「でも、ここからもうちょっと歩くと神社への道がある」
「ふーん」

 舞が言ったとおり、ものみの丘の散歩道をしばらく歩いていると途中に分かれ道があったがそこは彼女に導かれなければ進む気になれない程の細い脇道だった。

「あ、そう言えば佐祐理さんは誘わなかったのか?」

 ふと祐一は疑問を抱いて舞に尋ねる。当然の事を訊いたつもりだったが、その言葉を聞くと舞はうつむいて黙ってしまった。

「舞?」
「……駄目なの。神社に佐祐理を連れて行く訳にはいかない」
「どうしてだ?」
「……」

 舞の表情を見てしまうとそれ以上はつっこんで訊けない。気まずくなりかけたとき、幸いにも視界に神社の鳥居が目に入り祐一は話題を変えた。

「お、あったあった。『天野稲荷神社』って書いてある」

 鳥居の額束(がくづか)を指差しながら俺は舞の顔を見て確認する。舞も小さくうなずいてから同じく額束を見つめた。

「私もここに来るのは凄く久しぶり」

 二人は鳥居をくぐって境内に入った。鳥居からは石畳が伸びて賽銭箱のある拝殿へと向かっている。その道の傍らには狐の石像と狛犬のような石像があった。その側には参拝前に手を洗う手水舎(てみずや)もある。
 そして石畳の道では白衣(びゃくえ)に朱い袴の巫女が掃き掃除をしていた。

「こんにちは」

 舞が最初に声をかける。巫女は二人に気がつくと一礼をして近づいてきた。見ると彼女の年齢は祐一たちと同じかわずかに年下といったところだ。癖毛が愛らしい印象を与える大人しそうな女の子だった。

「こんにちは。お電話いただいた川澄さんですね」

 川澄です、と言って舞がコクリと頷く。合せるように祐一も、連れの相沢です、と言う。

「お待ちしておりました。天野神社の宮司である祖父は本日、体調を崩してしまいましたので私が代理で参りました。未熟な身ではありますが、よろしくお願いします」
「あ、そうなんだ」

 祐一は肩の力を抜いた。礼儀作法が苦手な彼は神主のような職業の人に対して少なからず身構えてしまうのでタメ口を利けるぐらいの相手で内心ホッとしていた。

「宝剣を返しに来ていただいたそうですね」
「ここに」

 舞が剣をかざし、巫女は頷いた。

「その剣で目的は無事に果たされましたか?」
「うん。私の長い悪夢は終わった」
「それはよかったです。獏王(ばくおう)様のご加護ですね」
「バクオウ?」
「獏の王様と書いてバクオウと読みます。獏が悪夢を食べてくれるという伝承はご存知ですよね?」
「知ってる。いい夢を見たいときに枕の下に獏の絵を敷いて寝るといいって小さい頃お母さんから教えてもらった」
「獏王様はこの神社で祀られている神様のうちの一柱(ひとはしら)です。ほら、そこにあるのが獏王像ですよ」

 巫女の指差すそれを見て、祐一は、え、と声をあげる。

「その狛犬が……あ、いや、狛犬かと思ったら、ちょっと違うのか」

 狛犬だと思い込んで今まで気づかなかったが確かに狛犬とは異なっている。舞も石像を見つめなおし首を傾げた。 
 その石像の動物の身体は座った犬に似ていたが顔は禿頭(とくとう)の人間のものに近かった。とは言え三つの目がついており普通の人間の顔ではない。よく見ると胴体にも目のようなものがついている。

「これがバクって言われても、似てないよな」
「うん、バクさんなら、鼻が、こう丸っこく長いはず」

 舞が手振りでバクの鼻を模す。この間祐一と動物園に行ったときにバクを見たばかりだった。

「それは実在のバクですよね。こちらは悪夢を食べてくれるほうの、中国の妖怪である獏です」
「それじゃ、舞は、この像みたいな姿の絵を枕の下に敷いたのか?」
「……よく覚えていないけど、こんな顔はしていなかったと思う」

 顔をしかめる舞に、巫女がすかさずフォローを入れる。

「ああ、獏は白澤(はくたく)と同一視されているのでむしろこの姿は白澤の記述寄りです」
「ハクタク? またよくわからない言葉が出てきたな。それも妖怪か?」
「そうです。白澤というのも中国の妖怪です。獏ほど馴染みのある妖怪ではないですが。――ああ、ひとくくりに妖怪とまとめてしまうのはまずいですね。白澤は人語を解し人間以上の知性を持つ神獣ですから。白澤は漢方薬の神様としてもあがめられているのですけど」
「薬の神様か。それじゃ、ご利益は健康とか長寿ってとこか」
「ええ。実際、昔は医者というのは一握りの高い身分の人たちの為にしか働けませんでした。医療制度が整っていなかったことや、漢方薬が非常に高価なものだったせいですね。そのため多くの地域では神主が医者を兼任していることは少なくありませんでした。本物の医者とまではいかなくても、民間療法や信仰心をうまく利用していたようです」
「ああ、神に仕える人が医者代わりっていうのは納得できる」

 祐一はRPGの「僧侶」のことを頭に思い浮かべた。

「ここ天野神社も元々は稲荷大神のみを祀っていたのですけれども、民衆の救いの場となるために獏や薬師如来(やくしにょらい)もお祀りするようになったのです。神仏習合というやつですね。昔の宗教というのはおおらかで名(めい)よりも実(じつ)をとっていたんですよ。もっとも今では薬師如来は祀っていませんが」
「ん? 待てよ。それで薬の神様のハクタク……だっけ? ハクタクを祀るのはいいとして、悪夢を喰う獏とは何の関係があるんだ?」

 それを聞いた巫女は嬉しそうに微笑して人差し指を立てる。

「それこそ、この神社の特色なのです。獏は悪夢を食べるということから、この神社は古くから主に悪夢に悩まされている方たちの相談を受けていました。相沢さん、人が悪夢を見る原因と言えば?」
「原因? そりゃー、トラウマとか日常のストレスとかか?」
「そうですね。神主は通常の怪我や病気を治すのと同時に精神面でのケアも引き受けていたのです。『いた』というのは正しくありませんね。現在でも大抵の宗教はそのような活動をしています」

 そうだな、と納得して頷いた。

「単に悩み事を聞いてやることだけでも随分と人は救われます。が、それだけではうまくいかない場合、おふだを渡したり、祈祷をしたりという行為で解決することもあります。心理学が誕生するはるか以前のことですから、精神状態の分析結果を教えるよりも超自然の存在をほのめかす方が『効く』んですね。先ほど川澄さんがおっしゃっていた獏の絵のおまじないもその一つと言ってよいでしょう」
「うん。『病は気から』という言葉もあるしな。まあ言い方は悪いが気の持ちようなんだろ?」
「祐一。人の気持ちをあなどっちゃだめ」

 舞が口を挟む。

「人の気持ちは口で言うほど簡単には変えられない。だから重い病気の人に向かって『病は気から』という言葉は使えない。でもだからこそ気持ちが動くときに発せられる力は大きいの」
「おぉ。舞が言うと説得力がありすぎるな」

 思ったことを実現してしまう特別な力を持った恋人の言葉に、祐一は苦笑いする。
 その祐一の態度が意味するところは巫女はよくわからなかったが、舞の言葉には感心した。祖父がこの少女に大切な宝剣を貸し与えた理由が解るような気がする。

「川澄さんのおっしゃるとおり、今言ったようなことをしてもなお悪夢から逃れられなかった、心に深い傷を負った方たちもいました。しかし、この神社には究極の悪夢祓いの方法が伝えられてきたのです。それは人から悪夢の原因となる記憶をまるごと消してしまう『夢喰い』と呼ばれる技でした」
「記憶を消す……だって?」
「はい。その人の心の奥に入り込んで暗示をかけ、その部分の記憶を思い出させないようにするのです。現在でいうところの催眠術ですね。もちろん祖父も出来ますよ」

 チリリ……。

 不意に祐一の頭の奥に電気が走る。

 ――何だ。この感覚。前に幼い頃、一度だけ舞と遊んだときの記憶を取り戻したときのような感覚だ。

「祐一?」

 舞が祐一の肩に手を触れて声を掛ける。なんでもない、といって彼は微笑んで見せるが内心えもいわれぬ不安感に襲われていた。

「悲しみや苦しみの記憶は人を成長させるといいます。けれど、人にはバネにすることすら出来ないほど辛い出来事を経験することだってあります。もしもその後の人生をゆがめてしまう負荷となるような記憶ならばそれを消してしまうのも一つの手段でしょう。人は忘れることによって精神の安定をはかる生き物ですから。だから獏が必要になるのです」

 ――美汐、どうしてもつらいことならば忘れてもよいのだよ。
 ――いいえ、おじいさま。私はあの子のことを忘れません。たとえ刹那(せつな)の幸せであろうとも。たとえ幸せ以上の悲しみと抱き合わせでも私にとってはかけがえのない時間(とき)だったのですから。

 彼女の解説を聞きながら祐一は心の中で自分に問いかける。記憶を消す、ということに……。

 ――俺は、記憶に空白の部分がある。小さい頃、毎年学校が休みになる度にこの町に来ていたことは覚えているのにそこで経験したことは断片的にしか覚えていない。ただ、ある時期をきっかけに、この町に来るのが嫌になっていた。
 ――舞と再会して、魔物と接触して俺は記憶を取り戻したかに思った。でも、まだ俺には思い出せていないことがある。名雪との思い出や、あゆとの思い出はひどく不完全だ。
 ――それに、あゆも自分の探し物をしばらくの間忘れていた。そして、あの真琴は自分を記憶喪失だと言っていた。これらは……偶然なのか?



 ――それはとある冬の日の出来事。
 駅前のベンチに腰掛けて小さな男の子――幼き日の祐一が泣いていた。
 涙も枯れ果てた頃、ベンチの前に雪うさぎを抱えた女の子――名雪が現れた。
 名雪は懸命に笑顔を作って祐一に話しかけた。幼いながらも、自分が恋する相手の慰めになれればと懸命に言葉を掛けた。
 しかし、名雪が祐一に雪うさぎを差し出した途端、祐一は乱暴に手を振り下ろし、そのうさぎを――。

 名雪は母の身体にしがみついて泣いた。

 ――わたし、祐一を傷つけた。祐一に嫌われちゃったよぅ。
 ――名雪、そうじゃないの。そうじゃないのよ。

 秋子は娘の髪を撫でて慰める。

 ――祐一くんにはね、とっても悲しいことが起こったのよ。だから今はそばに誰も近づけたくないの。名雪が嫌われた訳じゃないのよ。
 ――でも、だから、わたし、祐一を元気にしてあげたくて。でも、でも。
 ――名雪のしたことは決して悪いことじゃないわ。ただ、もうしばらくは、祐一くんをそっとしておいてあげてね、名雪。

 名雪はうるんだ目をこすり、母を見上げた。

「お母さん」
「お母さんとは何よ、名雪」

 母とは違う声で名前を呼ばれ、名雪はハッと我に返った。親友の香里が彼女の肩に触れながらあきれた顔で見つめていた。

「喫茶店の中で寝ないでよ」

 北川は口元を押さえ、笑いをこらえられずにいた。

「美坂がお母さん、か。ククク……」
「北川くん。その笑い方に悪意を感じるわね」
「いや、そんなことはないぞ」
「そのアンテナみたいに跳ねた髪の毛、いつかちょん切るわよ」
「やめろ。これは俺のチャームポイントだ」

 名雪の脳がようやく覚醒し、状況を思い出す。勉強会を終えた帰り、三人で百花屋に寄ったものの、今日は店が混んでいて注文の品がくるまでに随分時間がかかり、いつの間にかウトウトしていたのだ。

「香里、わたし、どれくらい寝てた?」
「そんなに寝てないわよ。実質1分くらいかしら」
「そうなの? でも、結構長い夢見てた気がする」
「どんな夢だったのよ?」
「うん、小さい頃、ちょっと悲しいことがあったときにお母さんに慰められてた時の夢」
「ああ、それで『お母さん』だったのね」
「香里、起こすときわたしの名前を呼んだ?」
「呼んだわよ」
「だから夢の中と現実とがつながっちゃったんだ。うー、恥ずかしいよぉ」

 名雪はおしぼりで顔をぬぐい、気分をサッパリさせた。

「それにしても水瀬、おまえ寝すぎだろ。どこか身体悪いんじゃないか?」
「わっ、酷いよ。北川くん」
「いやいや、マジな話。この間テレビで生活情報番組見ていたらさ、睡眠障害の特集やってて、水瀬に結構当てはまるんじゃないかと思ったぞ」
「どういう話だったの?」
「夜はちゃんと寝ているのに、昼間眠くてしょうがないという人のことだ。過眠症ってやつだな」
「……」
「確かに名雪そのものね」
「原因は肉体的なものと精神的なものとが紹介されていたけど、肉体的要因は水瀬には当てはまらないと思う。鼻が悪くて寝ているときの呼吸で充分に酸素をとっていないのが原因なんだが、その時は睡眠中にいびきが伴う。授業中水瀬がいびきをかいているところは聞かないからな」
「あ、いびきかいてなかったんだ。よかった」
「そこだけ喜んでもダメでしょ」

 と名雪にチョップする香里。

「それじゃ、名雪の過眠症は精神的なものが原因ってこと? まあ……心当たりはあるわね。っていうか相沢君のこと以外には考えられないけど」
「香里……」

 下唇を噛んでうつむく名雪。

「水瀬、おせっかいかもしれないが、そろそろ相沢のことはふっきったほうがいいぜ。あいつは普段おちゃらけている分、本気のときはとことん本気だからな。残念だけど」
「わかってる。でもわたしって、結構つらいことがあると引き摺っちゃうタイプなんだね。自分でもびっくりだよ。なんとかしようとは思っているんだけど」
「さっきの校門でのやりとりでもストレスためちゃったんでしょ。そんなストレスがピークになると、夢の世界からの誘惑に負けてしまうというわけね。北川君?」
「まあ俺もつまらない授業の時は眠くなってしまうから、水瀬を笑えないけどな」
「うん、そういうところはあるかな。嫌なコトがあると夢の世界に逃げたくなるっていうのは香里の言う通りだと思う。夢の中っていうのは自分の願望を実現できる世界だもんね」
「あー、そういうこと、あたしの妹も言ってたな」
「えっ……ごめん香里」

 親友は数ヶ月前に妹を失ったばかりだと思い出し、慌てて謝った。

「名雪は悪くないんだから謝ることはないわ。気、つかわれるとかえって辛いから普通にしててよ。でね、妹が夢の話をしていたことがあったの。『自分たちがもし誰かの夢の中の登場人物だったら、その誰かが願うだけでどんな奇跡も起こるんじゃないか』って。ただの空想だけど、あたしはそれを妹の生きたいという想いのあらわれだと受け止めたの」

 香里はかつて妹の栞の余命がわずかであると知った時、いつか来る別れの時が辛くて妹のことを忘れたいと願った。そして忘れたフリをして栞のことを無視し続け、栞と話ができるようになったのは、彼女が亡くなるまでのほんのわずかの間でしかなかった。

「人間っていうのはね、この腕時計の革のバンドみたいなものだと考えてみて」

 香里は腕時計を外してテーブルの上に置くと、バンドを輪にした状態に戻して金具を留めた。

「このバンドには表と裏があるけれど、人間にもこういう両面があるの。こっちの裏側の部分では人間は願ったことはどんなことでもできる力を持っている」

 綺麗な指で皮のバンドの裏側をつう、となぞる。

「でもその力が有効なのはこの裏側が面している、輪の内側の世界だけ。内側っていうのは人の心の中のことね」

 自分の胸を指差して二人を見つめ理解を求める。

「なるほど。想像や夢の世界ではどんなこともできるってことだな」
「そう。反対にこの輪の外側が、現実の世界。こちらに対しては人間はなかなか思ったとおりのことができない」
「うん、そうだね。思ったことを実現できる場合もあればできない場合もある。だからわたしは眠って……この穴を通って裏側に行っちゃうんだね」

 名雪が金具を留めるための穴を指差して香里の喩えにのる。

「でも、もし、この輪がこうなっちゃったらどうかしら?」

 金具は留めたまま香里は腕時計の輪を裏返す。

「えっ、それは、どういうことだ?」
「こうなると心の中の世界と現実の世界が逆転するでしょ。だから、現実世界では本来起こるはずのないことでも当人にとっては夢の中の出来事でしかないのだから奇跡を起こすことができる。そのかわり自分自身の精神世界には不自由が生じる」
「……すごい考え方だな。そんなことが起こりうるのか?」
「空想の話って最初に言ったでしょ」
「でも、ひょっとしたらこの世に起こる奇跡ってのは、そういう仕組みなのかもしれないな」
「さあ、どうかしら」
「でも……」

 名雪は腕時計の輪の中に自分の指を差し入れてくるくると回す。

「でも、夢の中で奇跡を起こせたのだとしても、現実での自分の心が不自由だなんてとても哀しいことだよね。……わたしのことみたい。きっと夢の世界の住人になったらそういう人になるんだよ」
「名雪……」

 香里はため息をついただけだった。ただ、その目は優しかった。

「ところでさ。ああ、美坂、ちょっとお前の腕時計乱暴に扱うけど、ごめんな」

 北川は腕時計のバンドの金具を一旦はずすと、一度ねじってから強引に留めた。

「小学校のとき作ったことなかったか? メビウスの輪だ」
「裏も表もない輪なんだよね」
「おう。だからこんな人にとっては現実の世界と心の中の世界とは一続きになっているんだ」
「あら、北川君も意外と面白い発想するのね。そうすると、夢と現実分け隔てなく心で思ったことを現実と化してしまうわね」
「そうそう。こういう人間のことを超能力者と呼ぶんじゃないだろうか」
「あるいは、神とか悪魔とか天使とかかもしれないわね」



「それでは失礼して剣を検(あらた)めさせてもらいます」

 巫女は舞から渡された剣の布製の鞘を外し、剣身を露にした。
 その剣には何かこの神社のものである証が刻まれているのだろう。彼女はそれを確認するように頷いていた。

「確かにお返しいただきました。打ち明けますと、かつて川澄さんに剣を貸した際、祖父は家族から随分と責められたものです。騙されただけだ、もう剣は戻ってこないんだ、と。でも祖父の目は確かだったようです。川澄さんはちゃんと返しに戻ってきてくれました。ありがとうございます。そして疑って申し訳ありません」
「わたしは目的を果たすときまで借りていていい、という神主さんとの約束を守っただけ」
「言い訳をするようですが、この神社はかつて盗難の憂き目にあっていたために、そういったことに敏感になっていたのです」
「盗難か。賽銭泥棒とか出ていたのか?」
「それぐらいならばまだマシなほうです。この神社に伝わる宝物を盗まれたことがあるのですよ。……あ、お二人とも社務所までいらしてください。お茶でも出しますよ。この剣を宝物庫へと収めるついでで失礼しますが」

 巫女は剣を持ち、先に立って社務所まで歩き出した。

「しかし神社の宝物を盗むなんてバチ当たりもいいところだな。骨董マニアか何かの仕業だろうか」
「そうですね。それに――『白澤図(はくたくず)』を盗まれたのは民俗学的にも大変な損失でした」
「ハクタクズ? それは、さっき言ってたハクタクに関係するものか?」
「はい。一言で言うと古代の妖怪図鑑ですね。古代中国――三皇五帝の時代です――の黄帝(こうてい)が白澤と出会った際、白澤から一万種以上の妖怪についての知識を授けてもらったそうです。それらの妖怪の性質や対処法それに利用方法などを細かく『白澤図』に記し、黄帝は世の中の災いを防ぐために役立てたといいます。実は、この剣も妖怪を討つものとして『白澤図』の記述をもとに精製されたものなのだそうなのですよ」
「そんなすごいものだったのか」

 ひゅう、と祐一は息をつく。
 社務所につくと巫女は二人は畳の一室に通し、お茶を淹れると剣を宝物庫に納めに行った。

「舞、お前の目利きもたいしたもんだな」
「目利きしようと思った訳じゃない。ただ、私に近い性質のものをあの剣から感じとっただけ」
「そういうのってやっぱりなんとなく感じるのか」
「うん。どう言えばいいかな。そういうものからは『ねじれている』空気を感じるの。本当にその物がねじれているわけじゃないんだけど。……口で説明するのは難しい」

 やがて巫女が小さな箱を持って戻ってきた。

「こちらも『白澤図』の記述をもとに作られたものです」

 そう言って箱のふたを開けた。

「鈴、か」
「ええ。触ってもいいですよ」

 祐一は手を伸ばしかけたが、ハッとして引っ込め代わりに舞に触れさせる。
 ちりん……と涼やかな音がした。

「舞、その鈴から何か感じるか」
「うん。これもやっぱり剣と似たような空気を感じる。でも、剣よりずっと優しさを感じる。魔物の心も鎮めてしまうかもしれない」
「ご名答です。さすがですね。これは妖怪が好む音を奏でる鈴だと言われています」

 巫女は尊敬の目で舞を見つめた。

「実は私も昔、この鈴によって異形のモノとの接触をしたことがあるのですよ」
「えっ」

 巫女はふふ、と笑ってそれ以上のことは言わない。

「それにしても、その『白澤図』って凄いんだなぁ」
「記録では徳川家康もその『白澤図』を読んでいたそうですが、現存はしていません。しかし、この神社では少なくとも明治初期まではその『白澤図』の写本が残されていたはずです」
「それじゃ、めちゃくちゃ歴史的価値のあるものじゃないか。もったいない……」
「時代も悪かったのです。明治維新によって新たな体制を築こうとした政府は祭政一致を目的に神仏分離政策を採ったため各地に廃仏毀釈の運動が広まったのです」
「あっ、その話、日本史の授業でやったな。確か神社にある仏教的なものを強制的に排除してしまう、結構過激な運動だったとか書いてあった」
「そうです。この神社もその例外ではなくこの地方の有力な貴族だった倉田公爵家が率先してその活動を行い、仏像を初めとした仏教関係のものはすべて破壊され、仏堂も焼かれたのです。今でも倉田家の人間に不幸な事がよく起こるのはたたりのせいなのかも知れません」
「くら……」

 言いかけた祐一の手を舞の手がきつく握り、キッと目で合図する。その眼光は、祐一を黙らせるのに充分厳しいものだった。

「そのドサクサにまぎれて『白澤図』が紛失してしまったのです。本来これは仏教とは関係のないものであるはずなのですが、心無い人がどこかに持ち去ってしまったのかもしれません。ひょっとしたら初めから『白澤図』を奪うのが目的だった人が紛れ込んでいたのかもしれませんが」
「ひでえな。そこまでするか」
「そこまでする価値のある宝物ではあります。『白澤図』には不老不死の法までも書かれていますから、それを解読して独り占めしたいと思う人は多いでしょう」
「は? ちょ、ちょっと待て。不老不死だって? いくらなんでもそれは、伝説的な書物だからって、眉唾(まゆつば)ものだろう」
「ここは稲荷神社ですけど、眉唾などではありませんよ」

 巫女はシャレを言ったつもりだったが、祐一には通じなかった。

「天野家には『白澤図』より解読した不老不死の薬のレシピは代々伝わっているのですから」
「待て待て待て。だって、もし不老不死の薬があるなら、この神社の人たちは皆死なないはずだろう? ――はっ」

 祐一は芝居がかった仕草で口元を押さえる。

「ひょっとして君、見た目は女子高生くらいだけど本当はすごいおばさん……」

 その瞬間、ぺしっ、と巫女の張り手が顔に炸裂する。あうっ、と祐一がうめく。
 直後、自分のはしたない行いに彼女は顔を真っ赤にして手を引っ込めた。

「す、すいません。でもあなたが失礼なことを言うからですよ。……でも、すいません」
「今のは祐一が悪い。初対面の人に失礼すぎ」

 舞も祐一にチョップして睨みつける。

「すまない。何故だか君には『おばさん臭い』という形容を云わなければいけない気がしたんだ」
「どういう義務感ですか。私はれっきとした高校生です。物腰が大人びているのは小さい頃から神社の家系の娘として躾られていたからですよ」
「高校って」

 祐一が尋ねてみると、彼女と祐一の通っている高校は同じで学年が一つ違うだけだとわかった。

「それじゃ、学校で顔を合わせていたかもしれないんだな。覚えてないけど」
「それは仕方がないです。私は学校では友達もいないかなり暗い子ですから。一時期私にはつらいことがあって、友達を遠ざけているうちに復帰の目処が立たなくなってしまったんです」
「そうなのか。でも本性はこっち?」

 先ほどの赤面から元に戻りかけていた彼女の頬の赤みがまたぶり返してしまう。

「今日、君と話していると、決して暗い女の子じゃないってことはわかる。話は面白いし、わりと可愛いし……痛てて、舞、何するんだ。つねるなよ」
「祐一のえっち」

 舞の指摘に彼は咳払いをして誤魔化す。

「で、不老不死の薬は飲んだことあるのか?」
「ええ。幼い頃一度だけその薬を口にしたことがあります。だいだい色のどろりとしたジェル状の薬でした。一口食べたのですが何とも言えぬ味でそれ以上は食べる気がしませんでした。しかし確かに私のご先祖さまたちは代々若々しい姿を維持し長命であったという記録は残っているのですよ」


 神社での用件を済ませた二人は鳥居をくぐると再び手を繋ぎあって帰り道についた。

「舞、俺、今度またあの神社に行くかもしれない」
「どうしたの?」

 祐一は自分の記憶の欠落を語る。

「多分、忘れてしまったことは忘れたかったことなんだろうが、忘れてはいけないことだったような気もするんだ。今度は俺の悪夢を終わらせたい。それがどんなに辛いことだったとしても」
「うん。私もそうするのがいいと思う」
「でも、舞には楽しくない話かもしれない。他の女の子と遊んだ記憶なんだから」
「そんなことは気にしない。今の祐一も知りたいし、昔の祐一も知りたいから。そのかわり、その時は私もそばにいていい?」
「ああ、居てくれ」

 そう言って祐一は手に力を込めた。

「な、舞、せっかくだから久しぶりにウチに寄って晩飯食べていかないか? 秋子さんならすぐに了承してくれると思うぞ」
「ん……嬉しいけど今日はやめておく。お母さんはもう、晩御飯の用意していると思うから」
「そっか。残念だな」
「秋子さんの料理はおいしいからちょっと心が傾くけど」
「秋子さんの料理のスキルは天才的だからな。他の人が作ったものでも一度全部食べれば材料とか調理方法が頭に浮かんでくるらしいんだ。だから外食したらそれだけレパートリーが増えるんだぜ」
「祐一の意地悪。余計に食べたくなってきた」
「ははっ、すまん」
「今日ごちそうになるのは、祐一の唇だけにしておく」
「!」

 不意打ち。



 名雪はその晩、ベッドの上でよく行っているおまじないを始めた。辛いことがあったとき、こうするのがいつの間にか習慣づいていた。
 仰向けになった状態で手を組んで全身をリラックスさせ意図的に自分の意識をぼんやりとさせる。そして無意識の自分と向き合う。そのまどろみの世界の中で名雪は昔のことを思い出していく。実はその記憶はこれまで何度も思い出しているものだ。

 ――そう、祐一が家に帰る前の晩、夜中わたしがふと目覚めて階段を下りていくと居間からお母さんの声が聞こえてきたんだ。
 ――お母さんは祐一に話しかけているようだった。そっとしておこう、なんて言っておいてお母さんは祐一と話していることにちょっとムッとしてわたしは戸の隙間から中を覗ったんだっけ。
 ――だけどわたしはそこでの祐一の様子を見て変だな、と思った。祐一は眠そうにぼんやりとした顔で身体もだらりとしていて、お母さんからの問いかけにぶつぶつと答えている。らしくない態度だった。それなのにお母さんはそれを気にするでもなく、普通に言葉を掛けている。
 ――そして。
 ――そしてお母さんは祐一に「あゆちゃんと最後に遊んだ日の事は全て忘れなさい」って言ったんだ。憶えてる。
 ――わたしはいけないものを見てしまったような気がして忍び足で二階に戻っていったんだっけ。
 ――次の日の祐一はまるで憑き物が落ちたかのように「普通」の態度だった。
 ――怖かった。怖かったけどわたしは同時に、ああすれば悲しみを忘れられるんだ、という思いを密かに抱いた。
 ――だからわたしは、それからときどき寝る前に自分で自分に『おまじない』をするようになったんだ。

 だが、こうやって思い出した記憶も、自己暗示によって次の日に目覚めたときには再び忘却の世界に追いやられてしまうのだった。



「美汐、夕べはすまなかったな。私が不甲斐ないせいで急に仕事を押し付けてしまって」
「いいえ。おじいさま。そんなことはありませんよ」

 彼女は祖父の額のタオルを取って洗面器に浸し、冷やし直して再び置いた。

「本当はこういう時は浦辺さんに連絡を取ってお手伝いに来てもらえばよかったんだが、急なことでね」
「おじいさま、浦辺さんではないでしょう」
「ああ、そうだったそうだった。しかしどうも結婚してもあの人以前の苗字で呼ぶクセが抜けなくてな」
「でも、連絡がとれなかったおかげで私は楽しいひとときを過ごすことが出来たのですから、感謝しています」
「楽しかったか。そういえば、あの女の子は美汐と年齢が近かったな。話も弾んだことだろう」
「はい」

 美汐は笑顔でそう答えた。



Fin.
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