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1:『相沢祐一』





 眠さがないといえば嘘になるが、それでもハッキリとした意識で目覚まし時計のスイッチを切った。鳴るはずの時刻のきっちり五分前。近頃はこの時計もあまり動作することがなくなってきた。
 ようやく暖かくなってきた四月の気候が手伝ったのか、寝起きはいい。もっとも朝特有の気だるさだけは、人間全てに課せられた絶対の業であるかのようだ。この脱力感に抗える何らかの発明があれば、それは風邪の特効薬よろしくノーベル賞ものだろう。
 四月とはいってもそこは北国、乱れたフトンに未練が残るぐらいに肌寒いのは確かだ。だがそうも言っていられないのもまた確かである。ベッドの上で目覚ましを止めた状態でまどろむこと数十秒、跳ねるように床に着地する。

「ふぁ〜〜」

 大きなアクビを一つ。
 そして窓際へ歩き、右手でカーテンを薙ぐように開ける。
 燦々と光る朝日が心地良い。その光線を浴びながら、凝り固まった首やら腰やらをポキポキとほぐす。
 窓を開けて外気をも味わいたいのが本音だが、どうせ寒いのでやめておく。寒さに不平をこぼすのは外に出てからでも遅くないのだから。
 手早く制服に着替え、顔を洗いに部屋を出る。
 眠気を吹っ飛ばす意味も込めて、わざと大きく音を鳴らしながら階段を降りた。
 相沢祐一は今日も、学校へ行く。





 名雪と一緒に通学路を走る。本当は歩きたいのに。

「名雪が朝に弱いのはホント一年中だな」
「うにゅ〜〜」

 地面に雪がなくなったのはいつの頃だったか。冬の間は『永遠に残るんじゃないか』なんて思わされる積もりっぷりに閉口していたものだ。いざなくなってみると寂しい――なんてことは別に思わないけど。

「あれだけたくさんの目覚ましがあるってのに、起きれないものかねぇ」
「うるさいよ、祐一」

 そんな眠そうな顔で凄まれてもな。線みたいな目しやがって、鼻にピーナツ詰めてやろうか。

「わかってるって。あれだけ早く寝てもそれなら、間違ってるのは世界の方だ。仕方ない仕方ない」
「世界?」
「不条理だってことだよ」

 なまじ暖かいから、走りながら喋るスキルを使うとひどく汗ばむ。三年だからもうすぐ引退とはいえ現役バリバリである長距離ランナーにとっては、なんでもない朝の一コマなんだろうけど。こちとら生涯現役の帰宅部だぞ。
 これこそ不条理だよな。

「よくわかんないよ。祐一、ひょっとしてバカにしてる?」
「なんでそうなるんだ」
「ふぅ〜ん」
「いやいや、恨むなら神様か自分にしてくれ」
「どこかで聞いた台詞……」

 コントをしているうちに学校が見えてきた。
 早いね。これがカイロスの時間ってやつだな。

「着いたな……」
「なんとか間に合ったね」
「名雪さ……もっと早く起きないか? これじゃあ身がもたねぇって」

 多くの生徒が通る狭き校門で肩を落としてうつむき、息を整えながら嘆願する。
 すると名雪は少し進んでから、クルリとこちらを振り返り、

「それなら、間違ってる世界にお願いしないとね?」

 そう言って名雪はにこやかに、そして飄々と通用口へ歩いていく。
 俺、呆然。

 キーンコーンカーンコーン

 予鈴の鳴る音でようやく顔を上げた。遠くでは一人、名雪が俺に向かって手を振っている。
 俺にできることは、笑いながら舌打ちして駆け出すことだけだった。





 日常と呼べる変化のない一日を経験できるのはとても幸せかもしれない。それを日常と呼ぶ根拠になる平和な過去があるからだ。
 宿題のプリントの複写権を争うのも、食堂でパンを争うのも。生ぬるい戦争にまみれた日常。ちょっと嫌。
 そんなことを考えながら帰り支度をしていると、名雪がこちらにやってきた。

「今日も部活か?」
「うん」

 放課後といえば解放の象徴であると思っている俺にとって、部活という労働を自主的に、しかも楽しそうに臨んでいる目の前の名雪は不思議生物だ。夕刻、水瀬名雪は怪物へと変わる。

「……何か失礼なこと考えてない?」
「いやまさか」

 この勘のよさはどうだ。まさしく物の怪、100メートルを7秒で走るひょうすべに違いない。

「一週間耐久もずくフルコース」
「ごめんなさい……」

 俺って顔に出るのかなぁ。

「俺はもう帰るとする」
「じゃあ一緒にそこまで行く?」
「そうだな」

 俺は立ち上がり、名雪は自分の席へカバンを取りに行く。
 小さくアクビを吐き出しながら、名雪と合流して後ろから教室を出る。
 ――――と、ドアを開こうとした名雪が手を出すよりも早く、それは開いた。

「あっ」

 その向こうでは知らない顔の小さな女の子が、俺たちを見てあたふたとしていた。胸元のリボンが、彼女が一年生であることを示している。
 この階には三年生の教室がズラリと並んでいる。気の弱い下級生にとって、そこへの訪問はある意味で試練ともいえる。
 目の前の女の子は、そんな予想をさせるに難くない慌てようであった。

「どうしたの?」

 オロオロしているその子に、名雪がニコニコと笑いかける。
 こういう所は秋子さんそっくりだ。

「えっと……」

 おずおずと、何かを差し出すような緊張と共に彼女が口を開く。

「美坂先輩は、いらっしゃいますか?」

 ポツリと、彼女は言った。
 その言葉が放たれたことを機に、俺と名雪はわずかに硬直した。

「あ、その、委員のことでわからないことがありまして、その、二年の先輩から美坂先輩に相談したらいいと聞いて……」

 美坂香里。転校した二年の時から同じクラスで、そのまま共に進級した。
 名雪ととても親しく、落ち着いた考え方をしている。少し孤高なイメージがあるが、意外と話せるやつだ。
 成績もよく、それを買われたのかどうかわからないが去年は何かの委員になっていた。
 面倒見がいいので、こうやって相談を受けることは珍しくないのだろうか――――

「いないよ」

 ピシャリ、と名雪。ビクリ、と女の子。
 さっきとは一転した、鋭利な言葉だった。

「今日は、お休み」

 そこに愛想はない。いや、顔だけは笑っていたが、言葉は明らかにそうではない。
 なまじ笑顔で安心していただけに、やや当事者を離れている俺にもわかるほどの名雪の豹変ぶりにはさぞや肝を冷やしただろう。
 彼女が助けを求めるように、名雪の脇にいる俺の方を見た。
 『どうして?』とその瞳は訊く。
 俺はその瞳を見つめながら、何も返さない。返さないことを、返答とする。

「そ、そうですか。ありがとうございました!」

 下げかけた頭もそこそこに、怯えた哀れな女の子は飛ぶように逃げていった。

「…………」

 開いたドアから覗く廊下、彼女のいたその空間を凝視したままの姿勢で俺は佇む。
 俺はこの時、第三者的視点を持って居合わせただけの傍観者であり、その状況をただ見ているだけだった。
 名雪が彼女に言葉を向けた瞬間、いや、彼女が『美坂』と言った瞬間からの、スイッチが切り替わるような役への徹底ぶり。
 無知な彼女が犯してしまった、知りようのない、罪のない禁忌。
 世界が悪いのだ。仕方ない仕方ない。

「どうしたの、祐一?」

 何事もなかったかのように、名雪が俺に向き直る。

「いや? どうすんだ、帰るのか?」

 何事もなかったかのように、俺は名雪に声をかける。

「うん、いこ」

 何故なら、何事もなかったからだ。





 俺が名雪と付き合い始めてもう二ヶ月になる。
 今、俺にとって名雪とはとても大きな存在である。
 学校ではいつも一緒に行動しているし、休みの日でも暇さえあれば遊びに出る。

「それでね、うちの部に新しく入ってきた子で、とっても面白い子が――」

 三ヶ月前、俺はこの雪の街で、一人のかけがえのない少女と出会った。
 美坂栞。
 ふとした気まぐれで起こらなかったかもしれない出会い。
 そんなか弱い邂逅でも、栞は『運命』と称してくれた。
 そして栞は、その素敵な運命を抱いたまま、雪と共に消えてしまった。
 永遠に。

「すごく速いんだよ。わたしも頑張らないと――」

 必然、偶然、形而上学、原因、後悔、強引な前向き解釈、空虚さ、暗澹。
 栞の死を前に、俺の考えは様々に変遷していった。不安定も不安定、安定と呼ばれた頃のありようを忘れてしまうほどに俺は躁鬱を繰り返した。
 『人間とは』と一般化してしまうのは愚かしいと思うが、こういう状況に陥った末に行き着く先とは『代替』なのだ。
 総合的には絶望している態の俺だったが、名雪はそんな俺の傍にいつもいてくれた。
 宇宙に空気を吸い取られるかのように、俺の心に空いたスペースへ名雪の存在は急速に浸透していった。
 俺を満たすその強い奔流があり、しかし栞という存在はさながら海のように、後ろめたい充足感を受け止め続けるのだ。

「暖かくなって、やっと本格的に外で走るんだけど――」

 俺はこうして心の拠り所を得た。
 しかし栞の死によって、計り知れない葛藤を強いられたであろう人物がいる。
 それが、美坂香里。栞の姉だ。
 栞の死後、香里とは会っていない。
 肉親と恋人。その消失の意味は違ってくるのだろうが、俺にその違いを予想することはできない。
 ただわかることは、香里は現在、人との接触を絶って自分を保っているということだ。
 新学期になってもまだ一度も登校していない。
 かける言葉など思い浮かぶはずもなく、様子を見に行くという選択肢は俺たちになかった。
 だから俺たちにとって美坂の話は禁忌。他人にとっては迷惑千万な話だが、俺たちが俺たちを守るために仕方のない手段なのだ。

「ねえ、祐一。聞いてる?」

 名雪の足が止まる。そこで俺は思考の泥の底から抜け出した。

「ぼーっとしちゃってる」
「ああ、悪い。考え事してた」
「…………」

 名雪が物言いたげに俺を見つめる。その視線を真摯に正面から受け止める。
 俺にはお前が必要だ、名雪。

「あんまり考えちゃダメだよ、祐一」
「…………」
「言葉は悪いかもしれないけど、時間が必要だと思う。だから、ね?」
「わかってる」

 名雪の存在は大きい。大きくて、偉大だ。
 何しろ、俺の拠り所なのだから。
 支えてもらっている今、俺が自然治癒できているかどうかなんてわからない。もし名雪がいなくなってしまえば、俺は瓦解してしまうかもしれない。
 考えれば考えるほどにわからなくなってくる。
 名雪の言うように、時間が必要だ。

「じゃ、またね」
「ああ」

 別れの言葉。そしてそれぞれがそれぞれの道を歩いていく。
 俺たちは一体、これからどうなっていくんだろうな?
 この道の先には、何があるんだろうな?
 名雪の去りゆく後姿を見つめながら、舌の根も乾かないうちにまだウダウダと考えてしまうのだった。





2:『美坂香里』





 暗い部屋で一人。ベッドの上に寝転がって、小さな窓から覗く夜空を見るとはなしに眺める。
 美坂香里は疲れていた。近頃のあたしはずっとこうだ。
 妹が死んでからもう二ヶ月が経つ。葬儀は身内だけでひっそりとやったし、妹は学校に終始ほとんど行ってない状態だったから噂程度にしか栞の死は語られていない。
 あたしはもう高校三年生。取り乱して泣き喚きくような年齢ではないし、そのようにする気にもならなかった。だが心に沈殿するこの悲しみと空しさは肉親が抱くべきそれ相応のものであり、やり場のない絶望に心砕かれたといった按配だ。
 大っぴらに悼むこともできず、何をする気力も出てこない。この苦しみを捨てたいと願いながら、栞への気持ちを捨てようとするその行為を思いつく自分への嫌悪感が同時に生み出される。
 出口がない。悲しみはいつまでもあたしの中に横たわり、ただそれだけだ。
 逃げ出したい、どうにかしたい、と思うことさえ苦痛なら、何もできないのだ。
 一時は栞を忘れようとしたこと、それも大きくあたしへ圧しかかる。そのままその道を突き進めたなら、どんなによかっただろう。それに徹することができたなら、さぞや気楽でいれたに違いない。
 ズキン、と胸が痛む。ほら、こんな空想さえ自責になる。もう本当に、どうしたらいいのか教えて欲しかった。
 美坂香里は疲れている。その疲れを、全てを忘れられるのは、眠りだけである。
 だからあたしは眠ることにした。
 願わくば、苛みの夢を見ないように、できるだけ深く眠れるように。





 休日の朝。あたしにはそんなこと、どうでもいいのだけれど。
 ぐっすりと眠れたような、眠れなかったような。靄のかかった気持ちと意識を振り払うように立ち上がる。
 この家には今、あたししかいないだろう。栞が死んでからこちら、あたしの家族は急速によそよそしくなった。父は仕事の量を増やすようになったようだし、母も栞への見舞いや世話が必要なくなったことから仕事を始めた。朝は早く、夜は遅く。会うことは極端に少なくなった。そしてあたしはこの体たらく。
 もはや明るい要素など見当たらず、思考が悪循環するのは目に見えているのだ。
 ため息をつくのにも資格を求めてしまう自己嫌悪ぶり。この閉塞した苦しみに、どれほど耐えられるだろうか。
 ふと、『名雪に電話してみようか』などと思いつく。そして『電話して、何を?』と、すぐにアンチテーゼが首をもたげる。
 自分のこの心境を洗いざらい話して、スッキリしてしまおうということか?
 いやいや、単にこのグルグルと回る負の思考から離れて談笑をしてみたいだけ。
 様々な理由が頭の中で議論を始めようとする。
 それをすんでの所で止めた。
 答えは出ているじゃないか。そんなことをしても自分が苦しくなるだけだと。
 ……自分で思っているより、あたしは危うい状況なのかもしれない。
 時間が解決してくれるだろうか? あたしには、拠り所がどうしてないのだろうか?
 その理由さえ、簡単なことだ。
 拠り所になっていた存在を、亡くしたのだから。





 目を覚ますと夜だった。いつの間に眠ってしまったのだろう。
 時計を見ると午後十時過ぎ。一日がとても長い気がするが、眠ってしまえばスキップできる。もっとも、いくらスキップしようとも、終わりはないのだけれども。
 さすがに自分を責めることが贖罪だとまでは思わない。自虐的な感傷に浸ることさえできないあたしは、もはや『考える時間自体を減らすこと』でしか自分を保てないのかもしれない。
 眠りが好きだ。深い、深い眠りが好きだ。
 自分の部屋で、何をするでもなくまた夜の空を見る。
 小さな窓から覗く黒い空。狂ったように白く肥大した月。
 まるで鉄格子のようだ――と考えていると、階下から物音が聞こえた。

「おかえりなさい」

 玄関で靴を脱ぐ母の背中を見ながら、努めて明るく声をかける。

「香里。ただいま」

 母もまた、笑顔で応じる。
 だがあたしが声をかけた瞬間、その背が微かに震えるのをあたしは見逃さなかった。
 もちろん、そんな気づきは顔に出さない。

「ご飯は食べたの?」

 問いかけながら母は暗い廊下を行く。

「うん。食べてきたよ」

 もちろん嘘。しかもバレない嘘だ。
 母に余計な心配はかけられない。努めて、健全な素振りを続けなければならない。

「そう」

 短く一つ。
 それきり、会話は終わる。
 家の中には、母が部屋で着替える衣擦れの音しかなくなった。
 短いやりとりを済ませると、あたしも自分の部屋へと引っ込んでいく。

 そう、これでいい。
 父は出張で滅多に家へ帰らず、母はあたしを気にかけながらも、あたしに深く関わるのは避けている。
 この、家族と言えるのかわからない今の距離こそ、実はお互いにとって最善のものなのかもしれない。
 『避けている』というよりも『距離を置く』と形容すべき関係だ。
 今はみんなジレンマの中にいる。心に傷持つ者同士が寄り集まった所で、何もできやしないのだ。下手に慰めあうよりも余程いいのだろう。
 最悪の中の最良を行く。
 そう決意をする。
 しかしこの決意も、どうして『最悪』になっているのかというやり場のない理不尽さと、それを受け入れることに絶望する自分への嫌悪が、またあたしを苛むのだ。
 矛盾した物言いだが、時間が解決してくれるというのなら、早めにお願いしたい。





3:『水瀬名雪』





 南東から射す太陽の暖かさについウトウトとしてしまう。こんな時は古典の授業なんてやめて、みんなで日光浴をしに外へ出かけるべきだ。

「太陽の光エネルギーを一身に受けるのだ」
「祐一、ちゃんと聞いてないとダメだよ」

 俺が頬杖をつきながら外を眺めているのを、前の席の名雪が小声でたしなめる。
 断っておくが、俺も小声だ。こんな電波発言、大声でするほど人生終わってない。

「だって、そう思わないか? この麗らかな気候。やがて来る夏の前哨とも言える、過ごしやすい時期。矢のように去っていく今を、俺たちは満喫しなければなるまいて」
「何言ってるの。ちゃんとノートとらないと、コピーさせてあげないよ」

 ノートがちゃんととれたらコピーなんか頼まないだろうが。

「ふぁ……そう言うお前は、よくマトモに授業なんて聞けるな」
「わたしだって眠いよ。頑張って起きてるの」

 また線のような目じゃないか。説得力ゼロ。

「この季節、お前は特につらいんじゃないのか? 気持ちのいい風を受け、きらめく太陽の光の下、思いっきり大の字に手足を伸ばして、河原の斜面で寝てみたくはないか?」
「うー」

 ふはは、悩め悩め。かなり葛藤しているようだ。
 っていうか誘惑に乗るなよ。よえー。

「水瀬!」

 と、名雪をからかっていると、突然名雪を呼ぶ声が教室に響いた。

「は、はい」

 慌てて前を向く名雪。

「よそ見はいいが、私の話は聞いてたか?」
「え、あ、すみません……」

 ……まずい。これは相当まずい。
 うおお、どうせなら俺を叱ってくれ、ティーチャー!

「52ページ。3行目から読め」
「は、はい」

 ガタン、と急いで席を立ち、教科書を持つ。
 俺に抗議するかのように、勢いよく。こえー。
 その背中は『イチゴサンデー3つ』と告げていた。

「アイアイサー……」

 俺はそれに敬礼をもって答えた。

 こんな応酬さえも日常の一コマ。
 朗読される古文を聞き流しながら、チラリと窓を見る。
 ちょうど太陽に分厚い雲がかかる所だった。





「祐一、帰ろ」

 授業が終わって放課となるや否や、名雪が俺の席にやってきた。

「あれ? 部活は?」
「え? お休みだよ」
「あ、そうか。雨か」

 言われてみれば、昼から結構な雨が降り出していたんだった。

「違うよ。もう、雨が降ってたって屋内でトレーニングとかするでしょ。今日は前から休みになる日だったんだよ」
「む、そう言われればそうだな……」

 雨→中止、というロジックしか頭になかった。帰宅部はその辺に疎い。

「しっかし、雨なんていきなり降られても困るな。傘持ってきてないのに……」

 俺がぼやくと、ピクリと名雪が反応する。

「傘、持ってきてないの? 祐一」
「え? ああ。朝は晴れていたから……」

 言いかけて、ハッとする。
 しかし言ってしまったものはもう遅いのだ。

「朝はお母さんが、雨が降るから傘を持っていきなさいって言ってたんだよ?」

 後悔する。
 迂闊だった。
 迂闊だったが、仕方ないじゃないか。
 世界が、間違ってるんだ。

「お母さんが傘を持っていきなさいなんて、わたしにだけ言うわけないよね? どうして祐一は傘を持ってないの? おかしいよね? わたしは覚えてるよ。ちゃんと祐一の分の傘も、傘立てに入ってたよね? どうしてそれを持ってこなかったのかな? 祐一、朝は晴れてたからって、そんな自分の感覚でお母さんの言うことを無視したりするわけないもんね? もう一緒に住んで長いんだから、お母さんの言うことは聞いておくと間違いないってこと、知らないわけないよね? どうしてなの? それっておかしいことだよね?」

 名雪はまくし立てる。当然のように、俺の中ではもうスイッチが切り替わってしまっている。
 俺に言葉はない。言葉は必要じゃない。必要とされていない。

「どういうことなんだろうね。そういえば最近、祐一はわたしを起こしに来てくれないよね? いつもなら、ずっと前なら、祐一は、わたしの部屋に入ってきて起こしてくれたよね? どうしてなのかな。朝ごはんも、一緒に食べてくれないよね? 学校で、いつも一緒にいるのに、祐一は家ではわたしの前に出てこないよね? どうして? どうしてなの?」

 普段と何ら変わらない、人がはけた後の閑散とした放課後の教室。そしていつもの軽口を言い合うような表情で、俺もそんな表情で、ただ言葉の内容のみが非日常。

「祐一、最近冷たいよね。ちょっと、ちょっとだけだけどね。わかってるよ。祐一が栞ちゃんを好きだったのは。祐一は栞ちゃんがいなくなっちゃって、本当に悲しそうだったよね。わたしなんかが入り込めないくらい、祐一は栞ちゃんを好きだったよね。祐一は、栞ちゃんを、とっても、とっても愛してたよね」

 そう、相沢祐一は美坂栞をこの上なく愛していたのだ。栞の喜ぶ顔、拗ねる顔、怒った顔、でもやっぱり嬉しそうな顔、そして悲しそうな顔。その全てを幾度となく、どんな表情も見尽くせるような、そんな壮大な希望さえ抱いていたほどに、栞が好きだった。愛しかったのだ。
 失われたものは途轍もなく大きかったのだ。その大きな穴を埋めるには、もうどうしようもないくらいわけのわからないことをしなければならなかったのだ。いったいこの苦しみをどう、どこに、どうやってしまえばいいのか。どこに、持っていけば許してくれるのか。

「わたしができることはないのかな? わたしはどうだっていいのかな? わたしの方をちっとも見てくれない。あの時の祐一は、床ばっかり見てたよね。フローリングの木目を、ずっと見つめてたよね。わたしはずっとそれを見つめてたんだよ? 知ってた? 祐一は気づいてなかったかもしれないね。お母さんもとっても心配してたんだよ。わたしは祐一を見てた。わたしは祐一が好き。祐一は床を見てる。祐一は床が好きだったのかな? あは、それっておかしいよね?」

 祐一の絶望ときたら、それは胸を焦がすものだ。何とは言わず全部引っ掻き回して、楽しそうな実演販売の一角で試されているミキサーの中に全てを詰め込んで、グリグリグリと赤色がミキサーを染めて、蓋を開けて詰め替えるまでもなく中身が飛び出し、そのまま俺の臓腑として戻ってきたのだ。
 情熱は灼熱のように燃えていたのに、いざそれがなくなってしまえばそこはマイナス273.15度だったのだ。至高の素晴らしいものを得るというのは無償ではありえない。いくらノーリスクで得られるそれでも、なくなってしまうとその喪失感は途方もない。手によるように、わかる。相沢祐一の痛みは、途方もない。
 なんだそれは。いったいどこの大馬鹿野郎がそんなくだらないメカニズムを生みやがったのだ。世界が間違ってるよね。世界が、おかしいのよ。仕方ない仕方ない。
 それで納得できたら楽よねぇ。

「それで、祐一ったら、わたしが祐一の様子を見に、学校に行く時に、祐一の部屋に行ったら」

 そこまで言っちゃうの? そこ、まだ言っちゃダメなんじゃなかった?
 確か、時間が必要とか言ってなかったっけ?

「祐一、空中にいたよね。わたし、ビックリしたよ〜。首にかけて、天井からぶら下がってたよね。ロープなんて、どこから出したの? 奥の物置部屋からかな? 祐一、ずっと床ばっかり見てたくせに、急に天井が好きになっちゃったのかな? おしっこもポタポタ落ちてたよね。目もギョロっと開いて、舌もダラ〜ンって出して。あの時の顔ったら、ひどかったよ? お母さんも、キャーって悲鳴上げてたよ。びっくりさせちゃダメだよ、祐一。わたしはずっと祐一のこと思ってたのに、こっち見てくれなかったよね。そんなわたしを差し置いて、天井に乗り換えちゃったの? 寂しいなぁ。それとも、祐一の部屋の天井は、祐一のことをずっと想ってたのかな? わたしより、想ってたのかな? あはは、じゃあ仕方ないよね〜。天井って、ずっと祐一のこと見てたもんね。祐一が部屋にいる間ずっと、見てたもんね。一緒にいる時間が比較になんないよね」

 へえ、そんな感じだったんだ。
 じゃあそれも情報としてストックしておくね。ちょっと使いにくい材料だけど、あ、現実との整合性も難しいなぁ。
 あれ、でも今これを名雪が言っちゃうのって、なんか不自然じゃないかしら?
 あたし、それを知ってるはずよね? あ、でも『相沢祐一』が死んでる状態ってどうなんだろう。名雪の中でどう処理されてるのかな? この名雪の発言をもとに、あたしの解釈でいっちゃって問題なしかな?
 考えとこ。

「祐一、栞ちゃんが死んじゃって、とってもつらかったんだろうね。だから、天井が好きになっちゃったんだね。でもその次の日から祐一、突然わたしを気にかけてくれるようになったよね。学校にも全然来てなかったのに、次の日からひょっこり来てたよね。その日から香里がいなくなっちゃったけど、祐一がいてくれたらわたし、安心したな。でも、香里のこともちゃんと考えなきゃね」

 あら、名雪。意外と冷たいこと言うのね。相沢くんのことはベラベラと嬉しそうに喋るのに、あたしがいなくなっても『ちゃんと考えなきゃね』だけなの? ひどいなぁ。結構付き合い長いのになぁ。
 まあ名雪の中ではその設定でいいよ。元よりあたしは名雪といる時は『相沢祐一』なんだし、あたしもそれでいいと思ってるし。『美坂香里』であんたの前に出ることは、今後まぁないだろうから、そういうことにしときましょ。
 どうせあたしも、『美坂香里』は嫌だしね。もう耐えれなくなっちゃいそうだったし。むしろ『相沢祐一』として過ごせる時間をくれて、名雪に感謝してるぐらいなのよ。その間はあたし、『相沢祐一』なんだしね。妹なんていないのよ。
 結構板についてるもいるのよ? 相沢くんと一緒にいた時間は少なかったけど、彼の行動パターンは予想しやすいっていうか、センスを除けば割とシンプルだしね。最近じゃあ、考え事するのも『相沢祐一』よ。フフ。

「祐一、栞ちゃんのこと、大事に思ってたよね。わたしがその大事な場所を横取りしちゃったみたいで、後ろめたいんだよ、本当は」

 当時は呪詛みたいにブツブツと相沢くんのこと心配してたくせに。
 後ろめたい、ねぇ。信憑性ってもの、考えて?

「でも祐一がそれでもいいって言ってくれるなら、嬉しいな」

 あーちょっと、なんだか殴りたくなってきちゃうな、そんなこと言われると。
 今は『美坂香里』なのよあたし。死人にくちなしでも、あたしその死人の姉よ? 常識なくない?
 あ、でも名雪にとったらあたしは『相沢祐一』なんだった。あはは、役から勝手に外れてるのはあたしだったね。ごめんごめん。でも相沢くんでも、その言葉は怒るんじゃない? さすがに。
 ……まぁあたしの演じる『相沢祐一』は、名雪にとってすごく都合のいい虚像だから怒らないだろうけどね。きっと『その通り。名雪最高ー』とかそんな感じのこと言ってくれるはずなんでしょ。
 反吐が出るわね。

「でも、どういうことなんだろうね。そういえば最近、祐一はわたしを起こしに来てくれないよね? いつもなら、ずっと前なら、祐一は、わたしの部屋に入ってきて起こしてくれたよね? どうしてなのかな」

 ははぁ、それがこんなに執拗にカタルシスってる原因なのか。要するに『相沢祐一』が学校だけじゃ飽き足らず、家にも来てくれってことね。
 秋子さんに朝起こしに行っていいように働きかけとこうかな。まぁ好きでやってるんだからいいんだけどね。朝は強い方だし、暖かくなってるし。

「祐一、最近冷たいよね。ちょっと、ちょっとだけだけどね。わかってるよ。祐一が栞ちゃんを好きだったのは。祐一は栞ちゃんがいなくなっちゃって、本当に悲しそうだったよね。わたしなんかが入り込めないくらい、祐一は栞ちゃんを好きだったよね。祐一は、栞ちゃんを、とっても、とっても愛してたよね」

 何だか聞いたことある台詞ね。ループし始めたのかしら。
 そろそろ止め時ね。

 心を『相沢祐一』へシフト。

「名雪」

 沈黙を破って、名雪の名を強く呼ぶ。
 それを合図に、名雪が言葉を止める。電源を抜かれたCDプレイヤーのように、機械的なほどスッパリと止める。
 そして極上の言葉を紡ぐ。

「傘に入れてくれないか? 持ってきたやつは誰かに盗られちまったみたいなんだ」

 ニコリとスマイル。名雪は呆然とした表情で固まったまま、そしてやおら、

「そうなんだ。わたしが部活なくてよかったね、祐一」

 と頷いた。
 そして何事もなかったかのように、自分の席へカバンを取りに行く。

「全くだ」

 何事もなかったかのように、俺もカバンを持って立ち上がる。
 何故なら、何事もなかったからだ。

「帰ろうぜ」
「うん、いこ」

 今日はドアを開ける下級生はいなかった。
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