「ごめんよ…。お前は家じゃ飼えないんだ。俺だってお前と別れるのはつらいよ…。ほんとはずっと面倒見てやりたい。でも、お前は元々自然の中で生きてきたんだ。だから自然に帰った方がいいんだ…」
 祐一はそう言うと、あたしをダンボール箱に押し込めようとする。なぜ? どうして? あたしはここにいたいのに…。ぬくぬくのお布団で眠って、あったかいおうちにいたいだけなのに…。

復讐



 あたしはここがいいの! そう思ってあたしは暴れる。あたしは子狐。今、あたしはどこかに連れて行かれようとしてる。そして、あたしをどこかに連れて行こうとする男の子。彼の名前は相沢祐一といった。


 もともと、野生に育っていたあたし。お母さんと暮らしていた。お父さんはもともといない。あたしが生まれる前にどこかへ行ってしまったんだそうだ…。野生に生きるためには食べ物を確保しなくちゃいけない。その日もお母さんは、あたしのために食べ物を探しに行った。
 あたしは一匹でお留守番だ。丘から首を出してみると、遥か向こうの方にへんてこなものがいっぱい見える。お母さんが言うに、あれは「人間」と言う動物が住む、「町」と言うものなんだそうだ。
 あたしはその「人間」と言う動物に興味を持った。だって、おかしな格好をしておかしな歩き方をして…、とにかくおかしなものばかりだってお母さんから聞かされていたから…。
 あたしは独りで遊ぶ。ほんとは弟とか妹たちがいたらしい。でも、赤ちゃんの頃にみんな病気で死んじゃって、あたし一匹だけが生き残ったんだってお母さんが教えてくれた。
 独りだけで遊ぶ事はもう慣れっこだ。白い雪の降り積もった野原を抜けると、やがて大きな木のところに出る。そこがあたしの今一番、お気に入りの遊び場。今日も独りで遊んでいると、どこからか声が聞こえてきた。
「どこいくんだよー」
「ついて来れば分かるよ…」
 近づいてくるみたいだ。あたしは咄嗟に大きな木に陰に隠れた。だんだんとその声は大きくなってくる。
「はぁ。はぁ。こ、ここか?」
「うん、そうだよ…」
 そっと物陰から様子を伺うと、そこにはおかしな格好をしておかしい歩き方をした動物が2匹いた。1匹が木に登っている。もう1匹は目を前足で覆っている。あれが人間なんだろうか…。
 確かに歩き方も前足の格好も、お母さんの言っていた特徴とよく似ている。恐らくあれが人間なんだ。あたしはそう思った。でも何をやってるんだろう…。興味が湧いてきた。そ〜っと近づこうとする。
 けど…、そこでお母さんの言っていたことを思い出す。
「人間というのは恐ろしい動物なの。だから決して近づいてはいけないのよ…」
 と、そんなことを言っていたことを…。だからあたしは物音を立てないようにそっとその場を立ち去る。森を走り抜け、いつもの巣穴に戻ってきたのはちょうど日が暮れた頃だった。
 お母さんの帰りを待つ。いつもならもう帰ってるはずなのに今日に限って帰ってこない。どうしたんだろうか? そう思ったけど空腹と寒さと疲労とが重なって、あたしはついうとうとと眠ってしまった。
 月がちょうど真上にくるような時刻。ちょうど真夜中だった。よろよろとお母さんが帰ってくる。あたしはお母さんに聞いた。
「ねえ、お母さん…。!! お母さん! その傷、どうしたの?!」
 お母さんは目をあたしのほうに向けて言う。
「ああ、この傷ね…。お母さん、ちょっとドジをやっちゃったの。ごめんね…」
 腹部からおびただしい血が出ていた。あたしは必死で傷口をなめる。でも、傷口からは血が溢れてくる。ねぐらを見るとそこら辺り一面、お母さんの血で真っ赤に染まっていた。
「うっ! つっ…。もう、いいわ。ありがとう。大丈夫だからあなたも早く寝なさいな…」
 お母さんが痛そうに、でも優しくあたしを抱いてくれる。あたしは疲れていたんだろう。そのまま眠ってしまった。


 夜中、お母さんのうめく声とともに目が覚める。月夜だ。お母さんに教えてもらったんだけどあれは下弦の月と言うのだそうだ。緩やかな、でも仄かな光が巣穴を照らしている。
 その中で、お母さんが苦しそうにうめいている。あたしは泣きたくなった。こんなお母さんを見たのは初めてだった。お母さんがあたしを見つめてこんなことを言う。
「もう…、お母さんはお父さんやあなたの妹や弟たちのところへ行かなくては…、ならなくなっちゃったの…。ごめんね…」
 お母さんの弱弱しい声が巣穴に響く。嘘…、嘘だよね…。あたしはそう思った。そう思ったけど、お母さんのお腹の傷を見て…、
“お母さん、行っちゃうんだ…。お空へ行っちゃうんだ…。あたしを置いて行っちゃうんだ…”
 そう思った…。
「そ、そんな…。行っちゃ、行っちゃ嫌だよ…。ずっと、ずっとここにいてよ…。あたしのそばにいてよ。お母さん!」
 あたしは前足でお母さんの体をゆさゆさと揺すった。だけどお母さんは力無げにあたしの前足に自分の前足を置いて…、
「だめよ。もう…。お母さんはお空の遠い遠いところに行かなくちゃ…。あなたもそろそろ一人立ちしなくちゃだめ…。いつまでもお母さんに甘えてちゃだめなのよ…。分かった?」
「分からないよ…。お母さんと一緒にいたいよ…。あたしも、あたしも連れてってよ…」
 あたしはその時悟った。お母さんはもうすぐお空に行っちゃうんだって…。あたしを置いて行っちゃうんだって…。そう思うとあたしの目からぽろぽろと涙が零れ落ちる。お母さんは、優しくあたしを見つめて…。
「だめよ…。あなたはまだ来ちゃだめなの…。あなたは生きなくちゃだめ…。私たちのために…。ねっ?」
 お母さんは力なく笑うと、体を起こした。起き上がるのも無理な体。その体を起こしてお母さんは、あたしの顔をじっと見つめる。その時、あたしの目から涙が溢れてくる。
 何故かは分からない。でもあたしは…。もう、その時あたしは気付いていたんだ。お母さんはもうすぐお空に行っちゃうんだって…。お母さんを見るとにっこり微笑んでいた。その途端…、
 どさっ…。
 お母さんが倒れた。たった一匹のあたしの大切なお母さん……。あたしはお母さんの体を揺する。大きな声で言った。
「お…かあ…さん……。おっ、お母さん! お母さん! お母さん、あたしを置いていかないでっ! ずっと、ずっと一緒にいてよ…。またいろんなお話ししようよ…。ねえ、お母さん…。う、う、うえええ…」
 お母さんからの返事は、もうなかった…。あたしはその時悟った。もう、お母さんはお空の遠い遠いところへ行っちゃったんだって…。もう帰って来ることはないんだって…。


 何故お母さんはあたしを置いて行っちゃったんだろう…。お母さんを見る。お母さんは静かに眠っているようだった。でもあたしはもう知っている。お母さんはもう目を開けないことを…。
 とりあえずあたしは表へ出る。下弦の月が空に輝いてきらきらと巣穴を照らしていた。何かが近づいてくる気配を感じた。あたしは慌てて草むらに隠れる。…と、
「確か、この辺だったぜ? あの狐が逃げ込んだ場所はよ…」
「ああ、間違いねえ。この辺りだ…」
 人間がいた。しかも、2匹…。それが、だんだんとお母さんのところに近づいてくる。あたしは恐怖で足がすくんだ。大きな体がゆっくりゆっくり近づいてくる。
「あった。この穴だ。おい! スコップをよこせ!」
 そのうちの一匹があたしとお母さんが暮らしてきた巣穴を…、あたしが生まれた巣穴を崩していく。思い出がいっぱい詰まったその地をいとも簡単に崩していく…。そして…。
「おっ、あったあった。こいつだぜ。結構いい毛並だな。これだったら高く売れそうだぜ…」
 お母さんを持ち上げて満足げに言う一匹の人間。もう一匹は少し慌てて、
「お、おい。早くずらかろうぜ。ここは禁猟区だしよ…。それにさっきの音でそこら辺の住民に聞こえてるかも知れねえんだぜ?」
「おいおい…。音ってな…。いいか? ここは“ものみの丘”なんだぜ? 人家なんてねえだろうが。しかもこんな町から離れた場所で、どうやって音に気が付くんだ? ったく…。おめえも心配性なやつだな」
 巣穴を壊した人間はお母さんを自分のお尻に敷くと、下卑に笑い出した。その時、あたしの中にある何かが弾けた。お母さんが遠い国に行っちゃったのもこいつのせいだ…。もしかしたらお父さんもこいつらの仲間に…。
 そうは思ったがあたしは何も出来なかった…。でもお母さんが人間たちに連れて行かれちゃう。そう思ったあたしは決死の覚悟で飛び掛る。でも…、
「子狐がいるぜ…。どうするよ」
「あぁっ? 子狐だぁ? 二束三文にもなりゃしねえ…。そこら辺にでも蹴飛ばしとけ。さあ、行くぞ…」
 一匹の人間がそう言うと、もう一匹の人間はそう言ってお母さんを肩に掛けてどこかへ行こうとする。あたしは必死で追いかけようとした。その刹那…、
“どごぉっ…”
 鈍い音がしてあたしは雪の上に叩き付けられる。遠いところまで蹴り飛ばされたあたし…。骨が折れているのだろうか…。痛くて立つことが出来なかった。お母さんは人間たちに連れて行かれてしまう。その光景を見ながら、あたしは気を失った…。


 …どれくらい経ったのだろう。気が付いた。あの人間たちは? と、辺りを見てもそこには誰もいなかった。ほとんどうごかない体。あたしは必死で追いかける。でもお母さんの匂いも残ってはいなかった。
 それでも痛い体を引き摺りながら必死で追いかける。森の大きな木のところまで来た時、それまで我慢してきた足の痛みが増して、あたしは倒れた…。
 お母さん…。思うと涙が込み上げてくる。もうあたしは一人ぼっちだ。おまけに体は傷だらけ…。あたしももうすぐお母さんやお父さんのところに行っちゃうんだろうな。そう思った…。
 東の空がゆっくりと白み始めていた。
 お日様が昇ってどれくらい経ったのかは分からない。あたしが眠っている大きな木の横で、ふと声がした。あたしはうっすらと目を開ける。多分あの人間たちがあたしを捕まえにきたのだろう。でももうあたしは動けない。
 覚悟を決める。と、その人間は以外にも、あたしの体を優しく撫でてくれた。そしてこんなことを言う。
「お前、怪我してるのか? 痛いだろうに…。……あっ、そうだ! なあ、お前…。ちょっと我慢しててくれよな…」
 そう言ってあたしを自分の体の袋のようなところに入れると、どこかへ走り出した。咄嗟のことで分からない。でもあたしは危険を感じた。やっぱり逃げたい。そう思った。必死で逃げ出そうとするが、あたしには抵抗する力は残っていない。
 それでもここを何とかして抜け出さなければと必死でもがく。もがけばもがくほどしっかりとあたしを抱きしめるようにする。そうしているうちにあたしの意識はだんだん遠のいていった。


「ここ、どこ?」
 あたしは気付く。きょろきょろと辺りを見回した。どうやらあの人間の寝ぐらのようだ。体を見る。白いものが傷だらけの体を覆っていた。逃げようと思うけど、まだ体が痛くて動かせない。
 それでも必死に立ち上がろうとした。その時……、
「キツネさん、初めて見るよー。可愛いね…。でも祐一。何でものみの丘なんかに行ったの?」
「あっ? ああ…。どんなところか見ておきたくてさ。名雪も言ってたろ? “この町のこと、もっと見てって”って…。あっ! そんなことよりお前、大丈夫か?」
「それだったらわたしが案内してあげるのに…。今度、もっと他のところを案内してあげるよ…。って何が?」
「だってお前。ネコアレルギーだろ? キツネとかもだめなんじゃないのか?」
「えっ? ええーっ? キツネさんは大丈夫だよー。……くちゅん」
 人間たちが何か言ってるけど、あたしはそんなことは気にしない。こんなところから一刻も早く逃げ出そう。そう思い必死で外へ行こうとする。痛む体を引き摺って寝ぐらの出口を探す。
 だけど、どこに出口があるのか分からなかった。名雪という人間は…、
「うー」
 と言うと恨めしそうに祐一という人間とあたしの顔を睨んでいた。それどころじゃない。あたしは必死で出口を探そうとよろよろと歩いた。すると祐一は逃げようとするあたしを抱き上げて…。
「だめだろ? そんな体じゃ…。まずは体を治してからだぞ? 名雪もいつまでも拗ねるなって…」
 そんなことを言うと、あたしのほうを見てにっこりと微笑む。そして…、
「ほら…、おいしいぞ。ゆっくり飲みな…」
 白いものが入ったものを出してくる。匂いを嗅いでみるとお母さんのおっぱいのような匂いがした。昨日から何も食べてなかったからお腹が減っていた。恐る恐る舐めてみる。…おいしかった。夢中で舐める。名雪は微笑みながらあたしを見つめて…。
「かわいいねー。ネコさんもいいけどキツネさんもいいねー。なでなでしたいよ−」
 そう言って、あたしがおっぱいのようなものを飲むところを見つめていた。
 夜…。あたしはまだ白いものでぐるぐる巻きにされていた.。こんなところか早く逃げたい。そう思った。でも、あちこちが痛いから動けずにいる。祐一の寝ぐらでじっとしていると…、
「そう…。そうだったのね…。祐一さん」
「はい…。で、俺。あいつが元気になるまで面倒見てやりたいと思って…。ごめんなさい。秋子さん」
「いいんですよ…。祐一さん。わたしも応援しますから…。でもちょっと見せてもらえるかしら? その子…」
「ありがとうございます。秋子さん…。ええ、いいですよ? でもあいつ、人見知りが激しいみたいだから…」
 祐一が入ってくる。後を名雪を大きくしたような人間が入ってきた。多分この人間が秋子さんと言う人間なんだろう。
 あたしは頭をもたげると、祐一たちを見る。秋子さんはあたしの背中を撫でて……。
「大丈夫……。大丈夫よ…。ここは…」
 そう言って優しく微笑んでいた。その声はまるでお母さんのようで…。なぜか分からないけど安心したのかあたしの瞼が下がり始める。自分でもなぜ安心したのか分からなかった。ただ、寝ぐらの中は暖かかった。祐一たちは微笑みながらあたしを見ていた。


 それから幾日か経った。あたしの体の傷は徐々にではあるが治ってきてる。祐一たちは秋子さんのおつかいでどこかに出かけていった。どこに行ったんだろう。首を捻りながら祐一の寝ぐらの出口へ行こうとする。と…、
「まあ、外に出たかったの? でもまだだめですよ? あなたはまだ完全に治っていないんですから…」
 そう言って、秋子さんが祐一の寝ぐらに入ってくる。何か訳の分からないものを持って…。それは、何でも吸い込んでしまうというもの。あたしはそれが嫌いだ。だから逃げる。
 …ふと、ちりーんと音がするのが聞こえた。あたしは耳をそばだてる。なんだろうと首を捻った。秋子さんは音が鳴る物を取り出す…。また、ちりーんと音がした。
 あたしは不思議そうに音が鳴る物と、秋子さんを交互に見つめる。秋子さんはふふっと微笑んで…。、
「これが気に入ったの? じゃあ、一緒に遊びましょうか…」
 そう言った。音が鳴る不思議な物。鈴という物なんだそうだ。秋子さんは鈴を鳴らして一緒に遊んでくれた。あたしは何だか楽しくなって飛び跳ねる。まだ少し傷は痛かったけど…。
 秋子さんは優しそうに微笑んで、飛び跳ねるあたしを見つめていた。
 その日の夜…。祐一が寝ぐらに入ってくる。おいしそうな匂いがした。あたしはくんくんと匂いを嗅ぐ。多分秋子さんがおいしいものでも作ったんだろう。祐一は微笑みながらあたしを見ていた。そして…、
「お前、これが欲しいのか? しょうがないなー。ほら、ちょっとだけだぞ? って、大丈夫かなー? 結構熱いぞ? これ…」
 湯気を出して、白いものを袋から取り出して、半分に割る。ふーふーと白いものを吹いてあたしのお皿に乗せてくれた。少し熱かったけどそれを一口齧る。おいしかった。あたしはそれが好きになった。その白いものは『肉まん』という物なんだそうだ。
 祐一は嬉しそうにあたしの方を見つめると、その『肉まん』を食べていた。あたしはその顔が好きになった…。『肉まん』も好きになった…。
 またある日…。その日は雨。雨の日は祐一が一緒にいてくれるから嬉しい。
 祐一と暮らしているうちに、あたしは知らず知らずのうちに祐一のことが好きになっていた。人間が好きになっていた。人間は怖いものだと言うことを子供の頃からずっと教えられてきたけど、それは嘘だと思った。
 今日も祐一が話し出す。あたしの前でいろんなことを話してくれる。そう、名雪の前でだって話せないようなことも…。それがあたしは嬉しい。今日は好きな人のことを聞いた。
「…その人、“沢渡真琴”って言う名前なんだけどさ…。優しくって美人で…。まあ、俺の憧れの人なんだけどさ…。でもその人、今度どこかへ引っ越しちゃうんだよ…。詳しくは知らないけどさ…。遠い所なんだって…。一度も話が出来ないなんて情けないよ…。なあ、お前だったらどうする? って聞いても仕方ないか…。ははは…」
 そう言っている祐一の目には、涙が一滴流れていた。あたしはペロッとその涙の後を舐める。塩辛かった…。
「はははっ。くすぐったいよ…。って…、慰めてくれるのか? …優しいな。お前…」
 そう言って祐一はあたしの頭を撫でてくれる。このときが一番あたしは好きだった。そんな楽しい日々がいつまでも続くと、そのときのあたしは思っていた。


 だけど、そんなときは長くは続かなかった。あたしの傷も癒え、自由に動けるようになったある日。祐一が秋子さんと名雪に言う。あたしはみんながいるところでミルクを飲んでいた。
「秋子さん、名雪…。そいつの傷も治ったことだから、そろそろ山に帰そうと思うんだ…。もともと野生だったわけだし…。そいつだって山に帰りたいって思ってると思う…。どうかな?」
 あたしは目の前が真っ暗になった。どうして? どうしてそんなことを言うの? 今まで可愛がってくれたじゃない…。そう思った。あたしはミルクを飲むのをやめる。途端に名雪が涙目になって言った。
「そ、そんな! 祐一、この子にはお母さんがいないんだよ。まだ小さいんだよ。酷いよ…、祐一…」
 祐一にでも聞いたのだろうか…。でも祐一はお母さんのことは知らないし…。一体誰が? あたしは思った。そんなあたしをよそに話は続いた…。
「名雪…。でもね…、なまじ人間に飼われていると、野生に帰ると生きては行けないものよ。ここは祐一さんの意見の方が正しいわ…。…その子には可愛そうだけど…」
 秋子さんはそう言うと優しく名雪に言う。祐一は二人の顔を見つめて…、
「じゃあ、今日の夕方にでも山へ帰そうかと思います…」
 そう言った。あたしはここにいたい。でも…。…と、ふと考える。この2週間、祐一はあたしのご飯をわざと見えないところに置いてあたしに探させていた。あれはあたしが山に帰ったときに食べ物を探させる訓練だったんだ。そう思った…。
 でも、あたしはもう山になんか帰りたくない。あんな寒くて暗くて怖いところなんかへは…。そう思うとあたしは逃げる。祐一たちに気付かれないようにリビングを抜け出し、階段を上がり、祐一の部屋の隅でじっとして丸くなる。
“あたしはここがいいの! 今さらあんな寒くて暗くて怖いところになんか行きたくない!”
 そう思って丸まった体をさらに丸める…。体を小さくして祐一に見つからないようにした。何で? 何で祐一はあんなことを言うのだろう…。可愛がってくれたのに…。そう思いながら、あたしは部屋の暖かさからうとうとと眠ってしまった。
 どれくらい寝ていたのだろう。目が覚めるとお日様が西に傾いていた。と、祐一が入ってくる。じっと隠れていたあたしを簡単に見つけると、祐一はあたしを抱きしめて優しく背中を撫でながらこう言った。
「ごめんな…。お前は家じゃ飼えないんだ。いや…、飼っちゃいけないことになってるんだ…。俺だってお前と別れるのはつらいよ…。ほんとはずっと面倒見てやりたいと思った。だけど、お前は元々自然の中で生きてきたんだ。自然に帰った方がいいんだよ…」
 そうして、あたしを持ってきた小さなダンボール箱に押し込めようとする祐一。なぜ? どうして? あたしはここにいたいのに…。あったかいおうちにいたいのに…。そう思った。
 あたしは必死に抵抗した。両足をばたばた動かしたり、首を捻ったりして祐一の手から逃げようとする。でも祐一はあたしの体をしっかり抱いてあたしをダンボール箱に押し込めようとする。もっとも、子狐の力じゃ人間には敵わないことは分かっていた。
 何分間経ったのだろう。祐一はあたしをダンボール箱に何とか押し込めると、何かをダンボール箱の上から貼りつけた。頭とか背中とか足とか体のありとあらゆる所を使って開けようとするけどダンボール箱はびくともしなかった。
「さあ、山に帰ろう…」
 祐一はそう言うとあたしが入ったダンボール箱を持って家を出る。何とかしてダンボール箱を開けて家の中に入ろうとするけど、ダンボール箱はびくともしない。
“行きたくないよぅ〜。ずっと祐一のそばにいたいよぅ…”
 そう叫んでみるけど、祐一には“くぅ〜ん、くぅ〜ん”としか聞こえていないみたいだった。やがて箱の隙間も閉められる。真っ暗になった。ただ、祐一の靴の新雪を踏む足音だけが聞こえていた…。


 どこをどう歩いているのか分からない。今どの辺なのかさえ分からない。ただ坂道を登ってるような気がした。祐一の靴の新雪を踏む足音がきゅっ、きゅっと鳴っている。と同時に懐かしい匂いがしてくる。そうしてるうちに祐一の足が止まった。祐一は言う。
「着いたぞ…。ほら、ここがお前の住んでいた場所だ…」
 そう言って止めていたものを外すとダンボール箱を開けた。視界が広がる。真っ白な世界があった。寒かった…。
 祐一はあたしを片手で持つと真っ白な雪の上に立たせる。雪の上に足を下ろす。今までのふかふかの感触とは違う冷たい感触があった。また祐一は言った。
「元気で暮らせよ…。って、大丈夫か…。もともとお前は野生なんだからな…」
 大丈夫なんかじゃない! 大丈夫なんかじゃ…。一度、家の暖かさを知ってしまったら…、人の温もりを知ってしまったら…。それがなくなると、寂しくて…、不安で…、恋しく…。恋しくなっちゃうんだから…。そう思った。
「じゃあ、俺は帰るよ…。もう、この町には戻ってこない…。この町には…」
 鉛色の空からしんしんと雪が降ってきた。祐一はあたしを一撫でしてそんなことを言うと、きびすを返す。祐一の顔を見る。言葉には言えない悲しい顔だった。
 元来た道だろう。祐一が帰っていく…。
“祐一が帰っちゃう”
 そう思ったあたしは後を追う。あたしが着いて来てることが分かったのだろう。祐一はあたしのほうに振り向いて…。
「ダメだろう? 着いて来ちゃ…」
 そう言って微笑むと優しくあたしの体を抱いて、元いた場所へと戻る。またあたしを雪の上に置くと、来た道を帰ろうとする。あたしは祐一を追いかける。何回くらいそれを繰り返していたんだろう…。祐一が少し怒ったような、震えた声で…。
「着いて来るなって…、言ってるだろう!! ここがお前の…、お前の住むところなんだっ!!」
 そう言う。あたしは祐一の顔を見る。あたしが顔を見ていることが分かると、祐一は顔を下に下げた。下げた顔から雫が二、三滴、ぽたぽたと降り積もった雪の上に落ちる。心配になったあたしは祐一のそばに駆け寄ろうとした。だけど…、
 ダッ……。
 わき目も振らず祐一は丘を降りていく。あたしは咄嗟のことで追うことが出来なかった…。あたしは、祐一に捨てられた。悲しくて、悔しくて…。あたしはこれ以上とない大声を張り上げて丘を降りていった祐一に言う…。
“祐一の…、祐一のバカぁ〜〜〜っ!!”
 って…。言葉が届かないことは分かっていた。本来狐であるあたしがそんなことを言ったって、祐一には、“くぅ〜ん…”という言葉にしか聞こえないことくらい…。でも、そう叫ばずにはいられなかった…。


 夜になる。あたしはお母さんと暮らしていた場所に戻る。あの人間たちに壊されて巣穴は跡形もなく消えていた。雪が降ったんだろう。巣穴の跡には新雪が降っている。空を見る。降っていた雪も止んで空には月が出ていた。満月だった。巣穴の跡の新雪に月の光が柔らかく差し込んできらきらと輝いている。
 あたしは巣穴の跡の窪みに腰を下ろす。雪の冷たい感触があたしのお腹に伝わった。相沢祐一…。あの顔は忘れない。あたしを捨てたあの顔だけは…。そう思いながら体を丸めて眠りにつく…。

 夢を見た…。夢の中、お母さんがいた。あたしは、お母さんに今までのことを話す。祐一に拾われたこと、水瀬家での楽しい暮らし、そして…、今日のことを。じっと聞いていたお母さんは、静かにあたしに言う…。
「そう…、あなたもお父さんと同じことを…。そう…」
 そう言うとお母さんは寂しそうに微笑む。一呼吸置いてまた話し出した。
「あなたのお父さんはね…。お母さんたちとは違って…、魔法が使えたの。だからではないけれど、お母さんたちとは一風違っててね…。ある日、人間に姿を変えると出て行ってしまった。ちょうどあなたが生まれる一ヶ月前よ…。それからどうなったのかはお母さんは分からない。でも、あのチカラで忘れてしまったのでしょうね…。姿を変えたお父さんは、お母さんを見ても分からなかった…」
 お母さんは、悲しそうに空を仰ぐ。空を仰ぐとお母さんはまた言った。
「お父さんもね、昔、人間の温もりを知ったのよ。でも、あなたと同じ…、捨てられたんだって…」
“それで? それでどうなったの?”
 あたしは聞く。お母さんは昔を思い出すように話してくれた…。
「お父さんは、悔しくて、悲しくて仕方なかったんだって…。でも、当時子供だったお父さんには何も出来なかった。でも、お父さんは諦めなかった。お父さんを捨てた人間に、会いたいっていう思いを…。会って、なぜ捨てたの? って聞きたかったんだと思うわ。それが、やっとあなたが生まれる前に叶えられたんだって…。お母さん、そう思うの…」
 あたしは何も言わずお母さんの話を聞いた。お母さんはあたしの顔をじっと見つめると、ゆっくりと話し出す。
「…そう、言うなれば思いのチカラね…。あなたも大人になればきっと使えるようになるわ…。だって、あなたは“チカラを受け継いだ者”なんだから…。わたしはただそのきっかけを与えただけ…。そう…、“妖狐のチカラ”のきっかけをね…。例えそれがあなたを…、あなたの運命を変えることになっても…」
 そう言うとお母さんはゆっくりとあたしの視界から消えていく…。あたしは言った。
“お母さん、待って! あたしも、あたしも連れてって! あたしを独りぼっちにしないでよぅ…”
 大きな声で、この夢全体に響くような声であたしは言った。でも、無情にも夢は覚めていく…。最後に…。夢から覚める前に、お母さんの声が聞こえたような気がした。
「大丈夫…。あなたはお母さんとお父さんの子供ですもの…。それにお母さんたちはお空の上からあなたのこと、見てるからね…」
 …目が覚めた。そこには一面真っ白な雪が降り積もっていた。あたしはブルブルと身を振って立ち上がる。遠くに祐一たちの住んでいる町が見える。あたしがずっといたかった町が…。悔しかった…。
 そして、恋しかった…。でも祐一はあの町にはいない。直感的にあたしはそう思った。


 一年が過ぎ、二年が過ぎ…、七年が過ぎた。あたしは大きくなった。でもこの丘はあの頃のままだ。七年前、あたしを捨てたあいつのいた頃のまま。何も変わっていない。あたしの心も変わっていない。あいつのことが憎くて…、恋しくて…。
 そんなある日だった。その日も雪が降っていた。あたしは食べ物を探しに出かける。この丘にはあたしのほかに仲間はいない。この丘に生きている狐はあたしだけになっていた。お母さんが生きていた頃にはもっといっぱいいた。
 だけど人間たちの生活圏の範囲の拡大によって、丘を追われて出て行くものが多かったんだそうだ。お母さんはあたしが小さかったためにこの丘に残ることにしたんだと思う。それが災いして、お母さんは…。そう考えてあたしはふるふると首を横に振る。
 もう七年も前のことだ…。そう考えて今日も獲物を探しにいく。ふと、匂いがした。はっ、と思った。
 七年間、忘れもしなかったあいつの匂い…。ふと町の方角を見る。あいつが…、あたしを捨てたあいつが…。あの丘の向こうの町に帰ってきたんだ。そう思った。会いたい…。ただ会いたい。心の中からそう思った。

 と、どうだろう…。途端にあたしの体が光り出す…。と、同時に記憶が消えていくのが分かった。どんどんどんどん体が変わっていく。そして、どんどんどんどん記憶が消えていく。お母さんのことも…、ここで暮らしてきたことも…。最後に自分が誰であるのかさえ…。だけど、ある男の子のことだけは忘れなかった…。
 だけど名前は?…。どんな男の子だっただろう…。なぜその子を憎いと思うんだろう…。一体あたしは誰なんだろう…。何回も頭の中を整理してみたけど、どうしても思い出せない。首を振る。何だか訳がわからない。ただあの丘の向こうの町に、何かが待っているような気がした。あたしは丘を降りて行く。
 途中の溝で、財布を拾った。また歩く。いっぱいの女の子たちが楽しそうに騒いでいる。ちょっとだけ興味が湧いた。みんなが出て行った後、あたしは見様見真似で機械を動かした。しばらくして写真のようなものが出てくる。財布の中…、大切に閉まった。
 どこをどう歩いたのか分からない。あたしは商店街へと出てくる。あたりを見回したその時…。いた! 夕闇の中、一人歩いているあいつの姿を…。あいつはあたしのことなんて気付くはずもないけど、あたしはあいつのことを知っている。いっぱい忘れちゃってるけど、あいつのことが憎いって…。
 とりあえず、そこら辺にあったボロを身に纏い、あいつの後をつける。しばらく歩く。あいつがあたしに気付いたんだろう。くるっと振り向くとあたしの方を見て、こう言ってきた。
「お前…、さっきから俺のこと、つけてただろ…。何なんだ? 一体…」
 あたしは言う。今までの恨みを込めて…。ゆっくりと口を開いた。こいつの…、こいつの心に届くように…。
「あなただけは、許さないから……」
 と……。

                                     END

感想  home