全身に痙攣が走った。
 次に感じたんは腹から止まることなく注ぎ込まれるおびただしい熱。
 それが腹を貫いた刃によるものやと理解するのに数秒かかった。
 理解と同時に熱は激しい痛みへと変わる。
 命なんかいらへんと思うとったワイやのに。
 死にたない、その時ワイはただ恐怖に怯えるだけのちっぽけな畜生やった。









ARIA 〜いつか見上げた空に〜










 とん、とん……

「んー、なんだ?」
 何かを打ちつける小さな音に祐一は目を覚ました。
 目をこすりながら、時計を見ると9時過ぎ。
 日曜日の起床時間としては早くもなく遅くもなく、そんな時間である。

 とん、とん……

「ぴろ……か?」
 扉の下の部分がノックされているらしい。
 音の小ささと位置からして、名雪や秋子ということはないだろう。
 猫は気まぐれというが、一体何の用だろうか?
 そう思いながら祐一は扉を開けてやった。
「何だ? ぴろ」
 扉を開けると、眼下には小さな家族の姿。
 彼は祐一が先ほどしたように、前足で顔を洗う仕草をしながらお座りしていた。
「うにゃあ」
 そして祐一の姿を確認すると、一声マヌケな声を残してくるりと背を向け……。
 去っていった。
「待てや、クソネコ」
 部屋に入りたいから扉を叩いたのだろうと思って開けてやったのに、その態度は何だ?
 冷やかしを受けた店主のような気分になる祐一。
 頭に一発デコピンでもくれてやろうと思い、祐一はすぐさまぴろの後を追う。
 そして階段を降り、玄関に張り付いたぴろを捕獲した。
「このやろう、人間様をナメやがって」
 悪態をついてぴろを睨みつける祐一だったが、いざ眼前に抱き上げてみるとおしおきをする気も失せる。
 生まれつきなのか、どこか憎めない顔つき、そして何よりぴろは真琴の大切な友達だったから。
「しっかし、お前は全然でかくならないな」
 ぴろを抱き上げながら呟く祐一。
 そのサイズから子猫と思っていた祐一だったが、拾われた時のまま大きくならないぴろを見て既に大人なのだろうかと首をかしげる。
「にゃあ、にゃあ」
「うわ、止めろって。爪立てるなよ」
 突然ぴろは祐一の腕の中で暴れだし、飛び降りると、玄関にぺたりと体全体で張り付いた。
 そのままカリカリと玄関を爪で引っ掻きだす。
「何だ? 外に出たいのか?」
 祐一がそう尋ねると、ぴろは引掻くのをやめて『にゃあ』と鳴いた。
 梅雨入り前の休日の朝。
 外は猫が喜びそうなぽかぽかとした陽光が降り注いでいる。
 大方、外でひなたぼっこでもしたいのだろう。
「わがままな奴だな。ほれ」
 呆れ顔で祐一が玄関を少し開けてやると、ぴろはするっとその隙間を抜けて外に出る。
 それを見届けて、やれやれと溜息をつきながら祐一は施錠を済ませた。
「しかし、妙に静かだな」
 極端なほど朝に弱い名雪はともかく、早寝早起きの習慣を持つ秋子がこの時間まで寝ているということはまずない。
 だが、水瀬家の中は時が止まったかのようにひっそりとしていた。
 こんな日もあるか、そう思って部屋に戻ることにする祐一。
 無論、昼まで惰眠をむさぼるためだ。

 とん、とん……

「何だよ」
 今度は『入れろ』だろうか?
 人間様をおちょくるのもいい加減にしろ、と思いつつ祐一は玄関を開け放つ。
 が、眼下にぴろはいなかった。
 ぴろがいたのは門の前、そこに腰を降ろしている。
「ぴろ?」
 いつもと様子の違う小さな家族に思わず呼びかける祐一。
 すると、ぴろはそれに応えるかのように門の外へ視線を投げかけ……

 とん、とん……

 と、地面を前足で叩いた。
「まさか、俺について来いって言ってるのか?」
 祐一の問いへの肯定か、ぴろは再度地を叩いてみせる。

 とん、とん……

「ちょっと待ってろ。着替えてくる」
 なんだかよく分からないが、特にやることもないのだ。
 ならば猫に付き合ってみても損はあるまい。
 何より、あんな思わせぶりな態度を見せられては気になって仕方ないではないか。
 そう思った祐一は顔をさっと洗い、適当な服に着替える。


 ひょっとすれば、望みのかなう場所へ誘ってくれるのかもしれない。
 猫という生き物は人にそう思わせるどこか神秘的なところがある。
 彼らにとっては気まぐれの行動に過ぎないのだろうが。




 傍から見れば奇妙な光景だっただろう。
 道の真ん中を悠然と歩く猫と、それを追う少年。
 だが、奇妙なことに道ゆく人々は彼らに見向きもしなかった。
 まるで、彼らの存在に全く気付いていないかのように。
 猫は道中何度も振り返りながら、祐一がついてきているのを確認していた。




 やがて、一匹と一人はある場所へと到着する。
 全ての始まりであり、終わりであったその地へと。
 隣町を眼下に見下ろすその場所の名前は、ものみの丘。
 ぴろはその中心まで歩いていくと、そこに座り込んだ。
 猫はそのまま祐一を見上げるだけで、ただ時間だけが過ぎていく。
「おい、一体何なんだ」
 祐一は少々苛立っていた。
 ひょっとして……そんな期待を込めてここまでついて来たものの、彼の望む光景はどこにもない。
 ただ何でもない草原が広がっているだけである。
「こんな所まで連れて来ておいて、ただの散歩でしたってオチはないだろ」
 祐一は薄々違和感を覚えていた。
 ぴろの不可解な行動、そして朝から続く周りの不自然な様子。
 元よりこの猫には不思議なところが多々あった。
 ひょっとしたらこれはただの猫ではないのではないだろうか?
「せやな。ダンマリもこれまでや」
 猫はそう呟いて大きく伸びをする。
 と、同時にその尾が二つに裂けた。
「……尻尾が二本」
「驚いたか? 猫又っていうんや。まあ早い話が猫の妖怪やな」
 ネコマタ、聞き覚えの無い名前ではなかった。
 有名な猫の妖怪の名前である。
 もちろん、実際に会ったことなどないが、真琴が存在した以上そのようなものがいても不思議ではない。
 だから、祐一は別段驚くことはなかった。
「座らへんか? ええ風が吹いとるで」
 色々訊きたいことのある祐一だったが、黙ってぴろの傍に腰を降ろす。
 確かに、彼の言うように丘には心地よい風がさわさわと吹いていた。
「真琴からの伝言や」
「会ったのか? 真琴は今どこに?」
 ぴろに向かって身を乗り出し、その小さな体を揺する祐一。
 だが、ぴろは目をつぶって首を横に振る。
「落ち着き。真琴が祐一に会いに行く前のことや」
「そ、そうか。それで何て?」
 祐一はがっくりと肩を落として、ぴろから手を放す。
 ぴろはそれを申し訳なさそうに見つめながら言葉を続けた。
「どんなことになっても、祐一と会えたならきっとあたしは幸せだったから……やて」
「そう……か」
 口をつぐんだ祐一を横目で見て溜息をつくぴろ。
 それは疲労感を吐き出すような溜息だった。
「堪忍な。ほんまはもっと早く言うつもりやったんや。けど、決心がつかん事情があってな。それでズルズルいってもた」
 ぴろの謝罪に祐一は何も答えない。
 ただ、黙って空を仰ぎ見るばかりだった。
 そして、しばしそうした後、独り言のように呟く。
「お前は……真琴の何だったんだ」
「ただの通りすがりの見届け役や。真琴が言うとったやろ、『お財布とか、置いていってくれたような気がするの』って」
「ああ、あれは本当だったのか」
 こく、と猫はその小さな頭を前に倒した。
「この土地に来てもう五年。ワイはこの丘に住む妖狐という連中のことをずっと見とった」
 この土地に来て、それは彼が元々この地にいたものではないことを表している。
 もっとも、彼の喋り方でそれは容易に想像がつくことであるが。
「悲しい連中やで。人間に憧れて街に降りてゆくのに、誰にも気づかれないまま力尽きるもんも多い。運良く思いを果たせても、一月の命や」
「どれだけ見てきたんだ? あいつ達のこと」
「数え切れへん。天野美汐、知っとるやろ? あの子のんも見とった」
 天野美汐、それは祐一のよく知った少女の名前だった。
 祐一と同じ悲しみを知る少女であり、真琴の友達でもあった少女。
 はじめて会ったときの彼女は悲しみに押し潰され孤独に生きていた。
 しかし、今は空元気だけが取り得のような祐一に感化されたのか少しずつ人の輪へと戻ろうとしている。
「ああ、知っている。だが、お前はここで何をしていたんだ? お前の目的がよく分からない」
 部外者であり、妖狐たちや天野美汐の悲しみをただ見ていただけ。
 そんなぴろが真琴に手を貸し、尚且つ今現在水瀬家に住み込んでいる理由が祐一にはさっぱり見えてこなかった。
 ともすればただの野次馬である。
「さあな、ワイにもよく分からん」
「おい」
「分からんってのは本当の気持ちや。ワイはそれを探して生きとるのかもしれん。ただ……」
「ただ……何だ?」
「残されるもんの辛さってのは分かってるつもりや」
 一呼吸溜めて吐き出された猫のその言葉には深い重みがあった。
 それは同じ気持ちを共有する者だけが感じ取れるものなのかもしれない。
 祐一はぴろにどこか他人とは思えない感情を抱きつつあった。
「何から話せばいいんやろな」
「どこからでもいいぜ。お前が生まれた時からでもさ。猫又の自伝を聞けるなんて一生に一度あるかも分からないからな」
「せやな、ほんなら全部聞かせた……って、何すんねん!」
 ふんぞり返って威張ろうとしたぴろの額に、祐一がデコピンを入れた。
「いや、何となく偉そうでムカついた」
「何となくでデコピンするんか? ほんならワイも何となくで祐一を呪い殺すで!」
「ま、待て。お前がそれを言うとかなり洒落になってない」
 二股に裂けた尻尾がぴんと空に向かって威嚇の態度を示している。
 妖気と呼ばれるものが放出されているのか、ぴろのまわりにゆらゆらと立ちのぼる陽炎。
 誰がどう見ても祐一の目の前にいる猫は恐怖すべき妖怪だった。
「冗談や。ほんまに、名雪が難儀するわけやで」
 臨戦態勢を解き、溜息をつくぴろ。
「何でそこで名雪が出てくるんだ?」
「ん、いや、何となくや」
「お前も何となくかよ」
 一人と一匹は、お互いに呆れて笑みを漏らす。
 共に空元気だけが取り得のようだ。
「長い話や。寝たらあかんで」
「ああ」








 生まれたのはいつやったかはよく覚えとらん。
 ただ少なくとも終戦よりさらに前やったんは確かや。
 あと初めて外に出た時、まわりにチョンマゲはおらんかった。
 多分それくらい、明治の頃やろう。
 ん? 初めて外に出たってどういう意味やて?
 簡単な話や。ワイは元々は家猫やったんや。
 放浪生活を始めるまでは、外言うたら屋敷の庭くらいしか知らへんかった。
 それもお嬢に抱かれてや。ワイはまだまだ子猫やったし、床を汚すと怒られたからな。
 お嬢言うんは、ワイのご主人様や。
 言葉で言うてもわからへんやろけど、そら別嬪さんやったで。
 おとなしくて清楚でな、口元を押さえてくすって微笑む姿にワイは何度胸が高鳴ったことか。
 あ? 猫の分際でやて? やかましいわい!
 ワイは他の猫なんか見たことなかったからその頃は自分も人間やと思っとったんや。
 ったく、下らん茶々入れて、聞く気あるんか?
 ある? ほんなら続きや。


 もちろん、お嬢にはちゃんと名前はあったんやけど、屋敷のもんからは『お嬢』『お嬢』って呼ばれとった。
 まあ、お嬢様やからお嬢ってのも間違ってへんねんけど、金持ちってわけやなくてな……。
 つまり、そのあれや。
 屋敷には人相の悪い連中やら、背中に紋々入れてる連中やら……ようは極道のお屋敷やったんやな。
 多分世間では後ろ指さされるような家やったやろう。
 せやけど、ワイは嫌いやなかったで。
 他所じゃ面を見た奴が失神するんやないやろかと思う兄貴が、お嬢の前ではワイの頭を撫でてくれるんや。
 そらもう極道もんやってことを忘れてまうくらいの優しい顔してな。
 若い衆のヘースケは『猫、猫』って呼ばれとったワイに名前をつけようとお嬢と悩んでくれたわ。
 まあ、こいつは記憶力の悪い奴でな。猫のワイも呆れたで。
 昨日は『たま』、今日は『みけ』、次の日は『ぺるしあ丸』って日ごとに呼び名がかわるんや。
 だいたいワイはシャム猫やっちゅうに。
 ヘースケのアホタレはワイのことペルシャ猫と思っとったらしい。
 とゆか、その日屋敷に届いたペルシャの絨毯でペルシャって言葉を知ったんやろう。
 どこがペルシャって国なんかは知らへんかったやろな、アホやったし。
 お嬢は毎日変わるワイの名前を聞いて愉快そうやったけど。
 結局ワイの名前は決まることはなかったわ。
 いや、『猫』がワイの名前やったんかもしれへんな。
 お嬢を含めて、屋敷のもんはみんなワイを『猫』とか『お嬢の猫』って呼んどった。
 ほんま、ええ人ばかりやったで。
 少なくともワイにとってはな。
 あの屋敷のもんはワイの家族やった。




 せやけど、『外』は決してそうやなかったんやろう。
 今考えれば、極道もんの家や。
 どこから怨み買うてるかなんてわかったもんやない。
 けど、ワイはその頃はちっぽけな家猫やった。
 屋敷の中のことしか知らへんかったし、屋敷の中がワイの見とる世界の全てやった。


 その日、ワイはいつものようにお嬢の部屋の縁側でウトウトしとった。
 ちょうど今日みたいな陽気の、ぽかぽかしたあったかい日やったな。
 お嬢は机に向かって女学校の勉強に精を出しとった。
 しかし、ワイにはようわからんのやけど、勉強って面白いんか?
 お嬢はえらい楽しそうやったけど、祐一はあんまり楽しそうに見えへん。
 ほっとけ? 何で機嫌悪くなっとるんや? まあ訊くな言うならかまわへんけど。


 めちゃ静かやったのを覚えとる。
 あれが俗に言う『嵐の前の静けさ』ちゅうやつやったんやろうな。
 物音や。
 なんや知らんけど、突然えらくどでかい音がしよった。
 屋敷の入り口の方からやろう。
 多分、屋敷の門か扉を叩き破った音やったんやと思う。
 ほんで次は足音や。
 どかどかと何かが大挙して押し寄せてくる足音。
 数日前に初めて知った雷さんによう似とった。
 まだ子供やったワイは怖くて怖くて、部屋の隅に駆け込んでにゃあにゃあ鳴くしかなかった。
 その日も、そん時も、お嬢はそんなワイを優しく撫でてくれた。
 そうするとワイは不思議なくらいに心が落ちつくんや。
 あの雷の日は、それで雷さんもさっさと退散してくれたんやけどその日は違うた。
 屋敷の騒ぎはどんどんでかくなって、どんどんワイらのおる奥の部屋に近づいてくる。
 やけど、襖の向こうで一体何が起こってるのかワイらにはさっぱり分からへん。
 お嬢はきゅっと口を結んで立ち上がった。ワイに『じっとしてるように』言いつけてな。
 ほんで、お嬢は襖を開けた。


 赤……襖が開いた瞬間赤が宙に飛び散った。
 一瞬時が止まったと思た。
 次に目に入ったんは仰向けに倒れるお嬢と、その奥に浮かび上がる長ドス持った男が驚いとる顔や。
 なあ祐一。悲劇ゆうんはなんて理不尽なんやろうな。
 襖一枚開けるだけで悲劇が起こるんや。風が一吹きするだけでも悲劇は起きるんかもしれへん。
 あん時もし襖を開けたんがワイやったら……もしお嬢が襖を開けるのをもうちょっと遅らせとったら……。
 男はドス空振りさせとったやろうし、お嬢を斬りはせんかったやろう。
 何の罪もない女子供まで殺せるんは正真正銘の鬼畜だけや。
 屋敷に何かの合図らしき叫び声が響くやいなや、お嬢を斬った男は倒れたお嬢に目を背けて逃げるように走り去りよった。
 ワイなんかに目もくれずにな。


 どかどかと大量の足音が遠のいていって、それが聞こえんくなった時、屋敷の中から一切の物音が消えた。
 お嬢はピクリとも動かへん。
 フランス人形みたいに綺麗な目を開けたまま床に転がっとった。
 ほんま、顔だけは綺麗なままやったんやで。
 なあお嬢、動いてや。
 笑顔見せてや。
 なんでやねん、なんで動かへんねん。
 ワイはお嬢の頬を何度も舐めた。
 お嬢はいつもくすぐったがって笑ってくれたんや。
 けど、お嬢はもう笑ってくれへんかった。
 肩から腰へ、ばっくり袈裟に裂かれた胴体からじわーっと赤いんが流れ出て。
 お嬢の服と、床を赤に染めていきよった。
 まだ小さかったワイは死なんてわからへん。けど、けどな……。
 わからへんけど、なんやめっちゃ怖なって、いてもたってもいられんくなった。
 必死になって、鳴きながら屋敷を走り回った。
 誰かお嬢を助けてや、そう強く願いながら。
 けど、屋敷の中はもっと酷い有様やった。
 アホのヘースケがドタマ割られて床に転がっとった。
 怖い面の兄貴はあたり血の海にしてドス片手に倒れとった。
 抜く間もなかったんやろう、ドスは鞘に入ったままやったわ。
 ほんで、奥間……。
 寄り添うように重なって、お嬢の両親が倒れとった。
 その誰一人として動かへん。
 屋敷の中は完全に静まりかえって、動くものはワイだけやった。


 カチコミって知ってるか? 襲撃って意味や。
 あの日、お嬢の屋敷はそのカチコミを受けたんや。
 屋敷のもんがほとんど出払っとる隙をつかれてな。
 理由はわからへん。
 いや、ワイは知らんかっただけや。
 そういう家やったからな。
 どこかでそないなことになる抗争をおっぱじめとったんやろう。
 けどそん時のワイはただのちっぽけな家猫や。
 何が起こったなんてわからへん。
 ただ分かったんは……ワイの大切やったもんが一瞬にしてみんなのうなってしもたって事だけやった。
 それも突然の理不尽な暴力によってや。


 誰も物言わぬ屋敷の中を歩き回ったあと、ワイはお嬢の元に戻った。
 お嬢のまわりには大きな血だまりができとった。
 ざっくり斬られた傷口からじわじわ出てきたんやろう。
 ワイがお嬢の元を離れたときはほんの僅かに床を赤に染めとっただけやった。
 それが今度は足を踏み入れると、ぴちゃぴちゃって嫌な音を立てよる。
 水ちゃうで、乾いとらん血や。
 ぬめっとしてて、何やぬるくて……ほんま気持ち悪かった。
 ワイはお嬢の頬をまた舐めた。
 せやけど、お嬢はもう笑ってくれんくて……。
 舌に伝わる冷たく固い感触から、もうお嬢の手はワイを撫でてくれへんって嫌でもわかってしもた。

 絶望。

 せや、絶望や。
 世界の中にワイ一人残されてしもたような絶望。
 屋敷はワイの全てで、ワイの世界やった。
 もうその世界には何にもあらへん。
 そう思うと、ワイは頭の中が真っ白になった。
 血だまりの中に倒れこんで、二度と立ち上がる気はおきへんかった。
 自殺するんは人間だけの特権とちゃうで。
 猫やって生きる気力を無くせば自殺するんや。
 ワイはちっこい脳味噌で、そのままお嬢と横に並んで逝ければ幸せやと思とったのかもしれへん。
 けどな……そん時や。
 固まり始めた血だまりの中に横たわるワイの頭に声が響いてきた。
 それはアホのヘースケやった。
 怖い面の兄貴もおった。
 お嬢の両親、他の連中も。
 ワイの頭に響いてきたんは、家族の怨嗟や。
 痛み、恐怖、憎しみ、恨み……みんなの死の直前の感情が流れ込んでくる。
 それはワイに真実を、いや、為すべきことを教えた。
 そうや、許せへんやないか。
 ワイから全てを奪った憎い野郎にそれ以上の苦しみをくれてやらんと、死んでも死にきれん。
 本来ただの猫が持つはずもない強い憎悪。
 それに目覚めた時、ワイは既に猫ではのうなっていた。
 べりべりっと嫌な音を立てて、既に乾き固まった血だまりから体を起こす。
 怪しく輝く目と、二つに裂けた尾を持つバケモンの姿が鏡に映し出されとった。




 殺せ。
 ああ、ぶち殺したる。
 奴らを皆殺しにしろ。
 命なんかいらへん、刺し違えてでも殺ったるわ。

 頭ん中に響く声に従ってワイは屋敷を後にした。
 不思議な気分やったで。
 怒りで我を忘れてしまいそうやのに、驚くほど頭ん中はスッキリしとった。
 何やろうな。多分、ただの猫やのうなったからやろう。
 どれだけ怒りや憎しみを溜め込んでも、それがかえって快感に感じられた。
 いや、ますます力が湧いてくるんを感じた。
 ほんでカチコミかけくさった連中の屋敷に辿り着いて、正面から乗り込んだ。
 夜、やったな。
 月の光は人の心を狂わせるっちゅうけど、ワイら妖怪はそれ以上や。
 溢れる力を使いとうなって体がひっきりなしに疼きよる。
 ざわざわと背中の毛が逆立って、目は夜やゆうのに千里先も見透かせそうなくらいに冴えとった。
 ただ歩いている合間にも知識が流れ込んできよる。
 物の怪と化したワイに出来ることの全てがな。
 その全てをもって復讐を成し遂げろ、そう頭の中に響く声はワイに告げた。


 痛快な光景やったで。
 ワイがひと睨みするだけで屈強な男も一瞬で木偶の坊や。
 僅か一刻足らずで連中の屋敷は深い眠りについた。
 もう誰もワイの復讐の邪魔は出来へん。
 ん? ああ、せや。今朝使うたんはその力や。
 安心しい、ただの催眠術や。ワイのこと、名雪や秋子はんには内緒にしときたくてな。
 適当な記憶を代わりに刷りこんどるから、少々違和感はあるやろけど大丈夫やろ。
 ん、もう分かった? ほな話戻すで。
 ひっそりと静まり返った連中の屋敷におもむろに上りこみ、ワイはその最奥を目指した。
 そこにワイからお嬢たちを奪いよった憎むべき相手が安穏とあぐらをかいとるかと思うと、何でもええから八つ裂きにしてやりたい気分や。
 ああ、せや。ワイが一番許せんかったんは、カチコミの指示出しおった連中の親玉や。
 ワイはそいつに、お嬢たちが味わった以上の地獄を見せたらなあかん。
 八つ裂きなんてもってもの他や。
 そんなあっさり済ませてワイの煮えたぎる怒りが収まるわけあらへん。
 最高のシナリオを用意したったわ。
 阿鼻叫喚の地獄をこの世に再現するようなシナリオをや。


 襖を破って奴の寝室に踊り出る。
 驚いた奴に一瞬で飛び掛り、頭に張り付いた。
 意識は奪わん。目は閉じさせへん。
 奴の頭ん中から記憶を探った。
 そうか、それが貴様の大事なもんか。
 嬉しいか? 今宵の地獄は想像以上に盛り上がりそうやで。
 奴はワイを必死に振り落とそうとするけど、もう遅い。
 ワイはすっと奴の体に潜り込んだ、いや、乗り移った。
 奴の体を操り、部屋の奥に立てかけられとった刀と脇差、そいつを持って部屋を出る。
 残酷ショーの幕開けや。
 奴には妻と幼い子供が三人おってな、ちょうど妻が三人を子供部屋で寝かしつけとるとこやった。
 そこにワイは乱入した。鈍く輝く抜き身の刃をふた振り持ってな。
 驚き唖然とした妻の動きを眼力で封じる。金縛りってやつや。
 お前は後回しや。観客は多いほうがええからな。
 まだ寝付いてへんかった長男が、動きを封じられる前に上げた母親の短い叫び声に体を起こす。
 ほんで、異様な殺気を撒き散らしとる自分の親父の姿に気付きよった。
 逃げようとした長男の腹を刀でかっさばき、こぼれ出たハラワタに脇差をぶっ刺し逃げられへんようにする。
 口から桃色の泡を吹きながら床を這いずりまわるそいつの背中を、息絶えるまで執拗に切り刻んだった。
 その騒ぎに今度は長女が目を覚ます。
 目の前に転がっとるボロキレと化した兄の姿を見て悲鳴をあげよったわ。
 けど助けは来いへん。
 子供部屋におるもん以外は全員夢の中や。

 や、止めてくれ!
 止める? 遠慮するなや、存分に見ていき。
 その閉じることもかなわへん二つの目で、しっかりな。

 奴がワイに懇願する。
 何をムシのええこと言っとるねん。
 ざまあ見さらせ、や。
 長女を張り倒し、腹に刀を突き立てる。
 その刀をぐりぐりと、ぐりぐりと捻じ込んだった。
 位置は、そうやな……子宮のあたりやったやろうか。
 凄い叫び声あげて泣き騒ぎよったわ。
 あんまりうるさかったんで、鬱陶しくなってな。
 腹に突き刺した刀引っこ抜いて、返す刀で胸に穴を空けてやった。
 肺に穴が空くと空気が漏れて徐々に呼吸ができんくなる。
 ヒュー、ヒューって耳障りな音立てながら苦悶の表情でそいつは動かなくなりよった。
 残る子供は一匹。
 金縛りで動けへん女を横目に、刀にこびり付いた血をつーっと舐めあげた。
 ええ光沢や。まだまだ終わらへんでと見せ付けるように。
 最後の子供はまだ生まれて間もない赤子やった。
 ワイはそいつの腹に脇差を押し当て、鋸挽きにした。
 けど、固い背骨まで到達したところでごりごりと嫌な音立てて……。

 なんや? もう止めろやて? 腰の力が抜けたか?
 ははは……ワイもやで。震えが止まらへん。
 でもな、ほんまのことなんや。
 何度忘れよう思ても、あの夜のことは鮮明に思い出す。
 夢に見てはうなされる夜もしょっちゅうや。

 子供を皆殺しにしたった後、ワイは奴の愛した女も奴の手で殺めてやった。
 聞きたいか? 聞きたないやろな。
 地獄の鬼でも、もう少しは慈愛がありそうに思える殺し方やったとだけは言うとくわ。
 満足やったかって? 皮肉たっぷりの目やな。
 ああ、満足やったわ。それも大満足や。
 奴はワイから大切なもんを奪ったんや。報いを受けて当然やないか。
 ワイは奴を絶望の底に叩き落したことには一片の同情もあらへん。
 それだけは今でも変わっとらん。
 けどな、けどや……。
 奴の大事にしとったもん全部奪ってやって、ワイはこみ上げる愉悦に浸っとった。
 そのほんの一瞬の気の緩み、時間にして数秒やったやろうか。
 その合間に奴がワイの支配を断ち切って動いたんや。


 全身に痙攣が走った。
 次に感じたんは腹から止まることなく注ぎ込まれるおびただしい熱。
 それが腹を貫いた刃によるものやと理解するのに数秒かかった。
 理解と同時に熱は激しい痛みへと変わる。
 命なんかいらへんと思うとったワイやのに。
 死にたない、その時ワイはただ恐怖に怯えるだけのちっぽけな畜生やった。


 意識を飲み込むような闇が迫ってくる。
 おそらく、それが死。
 ワイは必死でもがいた。
 嫌や! 怖い! あれに飲まれたない!
 その暗い奔流の中でもみくちゃにされながらワイは意識を失った。
 真っ赤に染まった畳や布団、襖。
 大小さまざまな骸がそこに転がっている。
 どいつもこいつも目も当てられない凄惨な有様や。
 そして、その中心で……ワイの憎むべき相手は自刃して果てとったわ。
 ワイはそんな部屋の片隅で気絶していた。
 奴に憑依しとったせいで、奴の死に飲み込まれかけたんやろうな。
 奴が死ぬ寸前に体ん中から放り出されて一命を取りとめたってわけや。
 ちゃう。そうやない。
 ワイは、逃げたんや。自分の命が惜しゅうなって。
 命なんかいらへん、刺し違えてでも、とか思てたのに。
 ワイは恐る恐る近寄って、奴の死に顔を見つめた。
 おかしいやろ祐一。奴な……泣いてたんやで。
 ワイの家族を奪ったド腐れ外道が、涙流して死んどったんや。
 誰の為に流された涙かなんて誰の目にも明らかや。
 そや、そいつにも大切な家族がおったんや。
 ワイはそれを理不尽な暴力で奪った。
 目も当てられない姿を晒しとる奴の家族だったモノ達を見つめる。
 こいつらが一体何した言うねん。
 何やってるんや、ワイ。
 ワイのやったことは奴のやったことと、どう違いがあるんや?
 奴がド腐れ外道やったら、ワイは血も涙もない鬼畜やないか。
 あの優しいお嬢がこんなことしるワイを見て喜ぶんか?

 殺せ。
 奴らを皆殺しにしろ。

 頭の中に尚も響いてくる呪詛、それを聞いてワイは愕然とした。
 何てことや。
 いったい、ワイはいつから……。
 ワイはいつからお嬢の声が聞こえなくなっていたんや?
 呼びかけてくる声の中に、お嬢の声は一つとしてなかった。

 殺せ。
 奴らを皆殺しにしろ。

 黙りいや!
 もうワイの中に入ってくるな!
 こんなことしてもお嬢は悲しむだけや!
 ワイが叫ぶと、声はすっと消え去りよった。
 そういうことやったんや。
 ワイは、家族が死の直前に残した怨みの声に踊らされとっただけやった。
 連中の屋敷には、まだお嬢を直接手にかけた奴もおる。
 目の前で死んどる奴の一族やってまだまだたくさんおるやろう。
 けどな……ワイはもう二度とそんなことをする気にはなれへんかった。
 そんなことをしたら、もうお嬢が微笑んでくれん気がして……。
 お嬢の姿がどんどん遠ざかっていく気がして……。
 ワイは逃げるように連中の屋敷から立ち去った。
 そして、お嬢と過ごしたその土地からも。


 そっからは根無し草の野良猫生活、いや、野良化け猫生活や。
 使命を放棄し、存在の目的を無くした猫又。
 『野良』ゆう言葉がこれほど似合う奴もそうそうおらんやろうな。
 何をしたかったんかはわからへん。
 ただ、あの地から離れたかったんやろうな……あん時は。








「……少し、気になったんだが」
「何や?」
 話が一段落を迎え、ぴろが深呼吸をしているところに祐一が声をかける。
「お前の生まれたところってやっぱり大阪なのか?」
「いや、ちゃうで」
「じゃあ、なんで関西弁……」
 方言も薄れがちの昨今、この北国においてもベタベタな方言を使う者は珍しい。
 都会育ちの母親一人に育てられたためか、名雪は標準語。
 訛の混じる者は少なからずいるが、ぴろほどではない。
 それほどまでにぴろの関西弁は、ステレオタイプに大阪を想起させるものだった。
「三、四十年前やったかな。道で変なもん拾い食いしてもうて、んで苦しんどるところをたこ焼き屋のばーちゃんに拾われたんや」
「まさかお前、たこ焼きって言ったら大阪だからってネタで……」
「ドアホ! んなワケないやろ。ほんま祐一は口の減らんやっちゃな」
「いや、これ性分なり」
「威張るとこちゃうで。まあ、嫌いやないけどな、祐一のそういうとこ」
 溜息をつきながら、前足で顔を洗い始めるぴろ。
 何を思ったかついでに毛繕いまで始めて、結局祐一にしばかれた。

「大阪でちょっとした流行りのたこ焼き屋やってんけど、ばーちゃんはじーちゃんに先立たれた一人もんでな。寂しそうやったんや」
「そこでお前が心の隙間を埋めてやったってわけか」
「なんや、引っかかる言い方やな。まあ、そうやねんけど」
 ぴろが額に皺を寄せて複雑な表情を浮かべる。
 もっとも、外見は愛くるしい子猫である。
 渋柿を口に入れた老人のように顔を歪めるその姿はむしろ滑稽であった。
「ほんまは人間相手に喋るんは控えとるんやけど、看病しながらワイに話しかけるばーちゃんに悪うてな、つい口開いてもうた」
 そこで一旦照れ隠しのように頭を掻いてみせるぴろ。
 やっぱりその姿はどこか笑いを誘うものだった。
「いや、そん時ワイ、ばーちゃんがひどい関西弁やったから、こらワイも真似せんと話通じんかもしれへんなーって関西弁を真似て話してみたんや」
「お前……馬鹿か?」
「今考えるとえらい笑い話や。けどな、ばーちゃんワイの滅茶苦茶な関西弁に喜んでくれたんや。亡くなったじーさんと話してるみたいやって」
「それで、関西弁なのか」
 人に歴史あり、猫に歴史あり。関西弁に歴史あり。
 祐一は妙に感心した面持ちでぴろを見つめていた。
「せや。ばーちゃんが喜んでくれるんで、ばーちゃんと別れるまでの十年、ワイはずっと関西弁を使うた。ほんで気付いたら元の喋り方をきれいさっぱりってわけや」
「確かに。その喋り方、癖になりそうやな」
 ぴろの真似をして関西弁で祐一が茶々を入れる。
 あんまりにもそれが似合ってないので、祐一は後ろ頭を掻き、ぴろは腹を押さえてくくくっと笑った。
「その婆さんと別れたってのは、やっぱりあれか?」
 暗に死別を意図する祐一の問いかけに、ぴろは首を横に振る。
「いや、孫が嫁に行きよって部屋の空いた息子夫婦が迎えにきたんや。そこでお別れしたわ。ワイにはまだやることがあったし、ばーちゃんも家族がおればもう寂しかないやろしな」
「そうか。良かったな、その婆さん」
「ああ、捨てたもんやないで。この世の中も」
 目を閉じて深々と頷き、空を仰ぎ見るぴろ。
「それに、独りはワイだけで十分や」
 その寂しげな呟きを、流れる雲が運んでいった。








 野良化け猫になったワイを待っていたのは過酷な放浪生活やった。
 なにせワイは元家猫。いきなり野良生活なんてできるわけあらへん。
 せやけどするしかなかった。
 ワイのこの姿は恨みの権化。
 復讐に身を委ねとった時には全く感じへんかったのに、それを止めると唐突に腹が空きはじめよった。
 いや、それだけやない。
 あれだけ満ち満ちとった力がどんどん抜けていくんや。
 今は神通力もあの頃の半分以下やろう。しょぼい催眠術が限界や。
 夜通し歩けば疲れてへたってまうし、変なもん拾い食いしたら食当たりを起こしよる。
 屋根まで飛び上がれた脚力もそこらの猫並に落ちてもた。今は塀がせいぜいや。
 つまり、ワイの力の源は恨み、怒り、そういった感情やったってことやな。
 はじめ、それがめっちゃ辛うてな。もう死んでまおうって思ったんや。
 ところがやで、路地裏に寝っ転がって餓死を待てども死ねず、空腹の苦痛が増すばかり。
 蒸気機関車に轢かれてみても、めっちゃ痛いだけで次の日には体が元通りや。
 霊体言うんかな。
 ワイの体は実体があってないようなもんでな、死んだら肉体は一時的に消えるんやけど、魂はしっかり生きとるねん。
 苦痛もきっちり残ったままや。むしろ魂だけの状態の時の方が生の感覚なんかもっと酷い。
 ほんでその苦痛から逃れようとしたらこの肉体が再生するっちゅう寸法や。
 魂の苦痛から逃れても、生きるっちゅう苦痛が待っとる。その逆も然り。地獄やで、ほんま。
 つまりな……平たく言うと、ワイは死ぬことが出来へんのや。
 神さんは嘲笑っとるんやろうな。
 使命を果たさず彷徨い歩いとる、この猫でもない、いびつな生きもんのことを。
 あるいはワイは復讐を果たせば死ねたんかもしれへん。
 奴の一族を根絶やしにするまで、ワイの身を支える怨念は消えんのやろう。
 けどな、それを果たしたところでどうなる。
 ワイの行き先は地獄や。地獄以外にあらへん。
 いや、こんな鬼畜は地獄に落ちて当然や。けどな……。
 これ以上、ワイが血に染まるんをお嬢が喜ぶわけないやないか。


 そしてワイは決心したんや。
 どうせ死ねへん命なんやったら、ワイにしか出来へんことに使ったろうって。
 ワイのような妖怪が人に無用の悲しみをもたらすんやったら、それを止めたろうってな。
 それだけやない。
 こんなワイでも、誰かの笑顔を守れるんやったら惜しまずこの身を捧げたろうって。
 偉い? 照れること言わんといてや。
 そんなん……ただのおせっかい、ただの自己満足や。
 誰かを悲しみから守れた時、お嬢に撫でてもらえた気がするねん。
 誰かが笑うてくれるたび、お嬢の微笑む姿が見えた気がするんや。
 やから、ワイはこの国を東へ西へ、この百年近く旅をしてきた。
 この旅を続けていれば、いつか許される時が来るんやないかと祈りながら。



 この土地に来たんは五年前。雪の降り始めたころやった。
 この丘に妖気のにおいと、人の悲しみを感じてな。
 ああ、ワイにはそうゆうのを漠然と感じる力があるねん。
 頭に乗っかったら人の頭ん中も覗けるけどな。
 ん? 真琴の頭によく乗ってたことか?
 あれは……まあ後で話すわ。
 祐一の頭ん中は以前覗かせてもろた。
 ほれ、真琴のおった頃、寝てる祐一の部屋にお邪魔したことがあったやろ……って、待ちいや!
 悪かったって。勝手に覗かれて気分悪いのは分かるけど、デコピンはやめい。
 真琴の想い人やさかい、どんな奴か知りたかっただけや。
 ん? あのディープキスか?
 あれは、そのなんや、ほんの茶目っ気っちゅうか……。
 ……すまん、デコピンなり拳骨なり気の済むようにしてや。


 この地に来たワイは、ここで『ものみの丘の妖狐』って連中のことを知った。
 ワイ、驚いたんやで。初めてものみの丘の妖狐っちゅうのを知ったとき。
 同じ物の怪やゆうのに、ワイみたいな恨み怒りの権化やない。
 ただ、想い人に会いたいがためだけにその力に目覚める。
 涙出てくるやろ? ワイのような妖怪と正反対や。
 ワイ、百年近く放浪してて、こないな純粋な連中に会うたんは初めてやったんやで。
 けどな、それやから悲しいんや。
 物の怪になったワイは死ねへんのに、連中は逆に化けてからあっという間に消えてまう。
 心を通わせた人間に、大きな心の傷を残してな。
 丸っきり逆やないか。ワイとお嬢の関係と。
 残されたんはワイ、けれどこっちで残されるんは人間の方や。
 あ? どうやってものみの丘の妖狐のことを知ったかやって?
 そりゃ、ワイは何でも知っとるからな。神さんよりワイは物知りや。
 すまん……大嘘や。
 昔話に詳しそうなじーさん、ばーさん達選んで頭ん中覗かせてもろたんや。
 情報が必要な時はいつも知っとりそうな人の頭にお邪魔しとる。
 まあ、悪いとは思うんやけど、しゃあないやろ。そうせんと何もできへんし。
 ワイかて情報収集以外にも飯探したりせなアカンからな。


 それでな、ワイは何とかしたかったんや。
 残されるもんの辛さ、悲しみは身に染みて分かっとる。
 人間やからとか、猫やからなんてそんなん関係ないやろう。
 悲しいんはみんな同じや。
 けどな、声をかける勇気が出るまで五年もかかってもうたわ。
 まずワイは連中について何も知らんかった。
 はじめに見たんは、人に化けて娘に会いに行きおって、ほんでなんや幸せそうな二人の姿や。
 それのどこに悲しみが生まれるのか、悲しみを感じてこの地にやってきたワイにもさっぱりやった。
 けど、そのあとすぐに狐の化けたもんは消えてもうた。
 激しい悲しみに包まれた娘を残してな。
 気付いたか? せや、その娘は祐一もよく知っとる天野美汐や。
 それから幾度となく人に化ける連中の姿を見た。
 けど、結末は同じや。会うた想い人に悲しみを残して消えていきよる。
 もっと悲しいんは、会えずに途中で力尽きるもんも多いって事や。
 記憶を失い、会いに行く目的まで忘れてもうて……会えたからいうて何もするわけでもあらへん。
 どっちにしても見てられへんかった。
 連中が人には会えへん方が人にとって幸せなんかもしれへん。
 やからゆうて、連中が想い人に会えんで倒れる姿はもっと悲しいんや。
 それを見てるだけなんてワイには無理や。辛すぎるで。
 強いてワイに出来るこというたら、連中が人になるのを止めることや。
 けど、ワイにそんな資格があるんやろか?
 ワイのような黒い気持ちやあらへん。連中はほんまに純粋や。
 そんな連中が想い人に会いに行きたいって気持ちを、どうやって押し留めればええねん。


 そう思てるうちに……五年が経ってしもた。
 妖狐達についての情報はしっかりと集まった。
 見てるだけしか出来へん立場でもあらへん。
 それでも、ワイは見ていることしか出来なかったんや。
 けどな、ワイは決心した。
 一度だけや、一度だけ介入してみようて。
 ワイなんかに運命を変えられるかなんて分からへん。
 せやけど、この地で五年も過ごして何もしないで立ち去るなんて未練やないか。
 やから、ワイは一歩を踏み出した。
 人に化けようと力を使おうとしとる、一匹の妖狐に近づいたんや。
 それが……真琴やった。


――やめえ、お前さんはその力を使うたらどうなるかわかっとるんか?
――知ってるわよ。
――記憶も命も失うんやで。何でそこまでするねん。
――だって、会いたいから!
――会うても、お前さんは分からへんし、すぐに消えるんやで?
――それでも会いたいの!
――お前さんはそれでもええかもしれへん。せやけど、相手のこと考えたか?
――何が言いたいのよ?
――残されるもんの悲しみは、ごっつ辛いんやで。
――そうかもしれない。だけどそれでもあたしは会いたい。
――何でや?
――だって、独りはもう嫌。寂しいよ。
――独りは嫌、か。分かったわ。もう止めへん。せやけど……。
――何?
――会えへんで倒れたら悲しいやろ。ワイが手伝ってもええか?
――別にいいけど、何で?
――ただのおせっかい好きの化け猫なだけや。
――変なの。
――ほっといてくれ。変なんは承知の上や。
――あはは、ごめんね。あ、でもあなた人と話せる?
――ああ、話そう思たら話せるで。
――じゃあ、お願いがあるの。
――何や?
――あの人に、祐一に伝えて。あたしの憎くて、それでも会いたい人。
――祐一ゆうんやな。そいつに何を伝えるんや?
――どんなことになっても、祐一と会えたならきっとあたしは幸せだったから……って。


 真琴と話したんはそんな内容や。
 それからは……もう分かるやろ。
 真琴に財布とかを渡して、祐一に会う手助けをしてやった。
 美汐に真琴のことを教えたんもワイや。夢の中にお邪魔してな。
 あの娘はワイの見た中でも一番酷く傷付いていた。
 迷惑かもしれへん、けど何か変わってくれればええ。
 もう一度連中の仲間に会えたら、何かをやり残したような後悔も少しは消えるかもしれん。
 そう思て、あの娘の心に働きかけたんや。
 妖狐達のことにも詳しい人間もあの娘が一番やったんでな。
 すまんな祐一。ワイはな……逃げたんや。
 祐一も、美汐も、秋子はんも名雪も苦しんでるのに。
 ワイ、よく真琴の頭に乗ってたやろ。
 あれな、真琴の心に働きかけて記憶を引っ張り上げようとしとったんや。
 うまくいけば真琴が消えんで済むかもしれへんって思て。
 けど、ただの時間稼ぎにしかならんかったわ。
 むしろ、かえって悲しみの時間を増やしてしもうたかもしれへん。
 どんどん記憶が失われていく真琴の頭を覗いとると辛くなってな。
 ワイは……耐えられずに逃げ出したんや。
 やけど、一度男がした約束や。完全には見捨てられなくてな。
 遠目に、真琴が消えるまでの一週間近くは見とった。見届け人としてな。








「お前は……真琴の言葉を俺に伝えるために戻ってきたんだな」
 一度は水瀬家から消えたぴろが戻ってきたのはこの春のことである。
 それまでの数ヶ月間ぴろはどこかに姿をくらましていた。
「それで後ろ髪は引かれとった。けど、ワイは一度はあの町を離れた」
「じゃあ何故?」
「名雪や」
「名雪?」
 唐突に出てきた従姉妹の名前に祐一が驚く。
 ここまでの流れで、彼女の名前が出てくるなどと誰が予想するだろう?
「せや。遠目から祐一達のこと見とった時に、初めて名雪の姿を見た。ほんま驚いたで。名雪な、お嬢にウリ二つやったんや」
 ぴろが水瀬家に帰ってきて以来、名雪もぴろとは顔を合わせるようになった。
 猫アレルギーゆえ、撫でることは許されなかったが、それでもぴろに餌を与える時の彼女の表情といったら、まさに幸せいっぱいといった様子である。
「嬉しかったで、あの笑顔をまた目の前で見れたんは」
 もう見ることもかなわなくなった、想い人の姿。
 例え別人であれ、それを再びこの世で目にすることが出来たのならどんなに嬉しい事だろう。
 その人が、自分に笑顔を向けてくれるのならば尚更である。
 しかし、彼女は猫に触れられない。また、彼女は猫の想い人その人ではない。
 近くにいるようで、その人は常に遠いのだ。
 猫は嬉しくもあったが、反面それがとても悲しかった。
「けど、名雪にお嬢を重ねて歩みを止めるんも今日までや。いつまでも夢を見とるわけにはいかん」
 眼下に見える隣町、その更に向こう。そこにぴろは厳しい視線を向けた。
「向こうで風が泣いとるのが聞こえる。ワイは行かんとアカン。それがワイの決めた生き方や。やから今日、祐一をここに呼んだんはケジメやな」
「そうか……」
 祐一もぴろも男である。ゆえに、それ以上の言葉はいらなかった。
 男同士には、何も言わずとも伝わる想いがある。
 今日が別れの日。そして旅立ちの日だった。


「けどな、ぴろ。俺は真琴に会えた事を後悔してないぜ。むしろ感謝してる」
 祐一は立ち上がってズボンについた土や草を落とす。
 ぴろはその顔を見上げて驚いた。祐一が全く迷いのない顔をしていたからだ。
 祐一を逞しいなどと直感的に感じたのはこの時が初めてだった。
「辛い別れは確かに人の歩みを止める。だけど、出会いがまたそれを克服させてくれるんだと思う。最近、天野は随分明るくなっただろう?」
「せやな。あの娘に真琴のことを教えたんは良かったんかもしれん」
 同じく立ち上がったぴろに対して一歩踏み出し、決意を表すかのように胸に拳を当てる祐一。
 そして丘の向こうにある、彼が住む街を仰ぎ見る。
「俺は、真琴達から『家族になる』ということを教わった」
 次に、足元の小さな猫に視線を向けた。
「そして、今日……ぴろからは『生きる』ってことを教わった。だから、俺は今日からまた歩いていける」
 猫はその視線に万感の思いを込めて頷く。
「せや、ワイも別れはたくさん見てきた。やけど、新しい出会いがワイにそれを乗り越える活力を与えてくれたな」
「だろ?」
「まあ、祐一からは何も教わることなんかなかったけどな」
「おちょくってんのかてめえ……」
「祐一はまだこれからやろ。十数年生きた程度の祐一に百近く生きとるワイが教わることなんかあるかい」
 しれっとした顔でふんぞり返ったぴろだったが、すぐに姿勢を改める。
「冗談や。言葉には言い表せんけど、ワイも祐一達から色々もろたで」
 大阪の芸風なのかこの猫は冗談が好きだな、と祐一はひそかに思った。
「祐一達に会うてからな、あの夢を見なくなったんや」
「あの夢?」
「お嬢を失った時のことと、その後のことや」
「……ああ」
 辛い夢を見なくなった。それは彼の中で何かが一歩進んだということだろう。
 差し込む日の光に目を細めた猫の顔は、とても穏やかなものだった。


「ほなな、祐一。あんまり話しとると名残が惜しゅうなる」
 一歩後ずさったぴろに対し、祐一は首を振った。
「名残惜しめよ。それで、寂しくなったらまた帰ってこいよ。俺達、家族だろ?」
 真琴と名乗った狐の少女が繋いだ家族の絆。
 それは彼らの胸にしっかりと刻み込まれていた。
 それはここにいない、あの母娘も同じだろう。
 一瞬考え込むように俯いたぴろだったが、ゆっくり顔を上げて口を開いた。
「ほんなら、その家族から一つだけお願いや」
「何だ?」
「祐一。お前、名雪の気持ちに気付いとるか?」
 ぴろの言葉に、一瞬祐一の表情が固まる。
 気付いていないと言えば嘘になる。
 真琴と過ごす傍らで、祐一は名雪が自分に向ける気持ちにも気付いていた。
 そして、彼女との間にあった昔の出来事にも。
 だが、祐一は目を背けない。ぴろの目をしっかりと見据えた。
「ああ、気付いている」
 ぴろはその言葉に頷き、物憂げに目を伏せる。
「応えてやれんのか? その気持ちに。ワイはせめてあの娘には幸せになってもらいたいんや」
「今はまだ無理だ。俺は夫としての貞操義務があるからな」
「貞操義務て、お前なあ……」
 妙に格式ばった言葉が出てきたのがおかしくて笑ってしまうぴろ。
 それを見つめる祐一の表情もどこか明るかった。
「名雪だって、新しい出会いを見つけるかもしれないだろ。お前に言わせりゃ俺達はまだまだこれからなんだし」
「まあ、せやな。けど、いつやったら応えてやれるんや?」
「そうだな……」
 腕組みをして流れる雲に目を祐一がやる。
 つられてぴろもその雲の流れ行く先を見つめた。
「七年。それだけ待ってもあいつが帰ってこなかったら……その時は」
「何で七年なんや? 何か深い意味でもあるんか?」
「何となくキリのいい数字に思えたんだよ」
「そか。ほんま何となくが好きなやっちゃな。さっき流れていきよった雲みたいや」
「ほっとけ。それに放浪してるお前の方が俺から見たら雲みたいだぞ」
 おかしな会話の応酬に、二人して噴き出す。
 別れの寂しさを紛らわすために、二人で大いに笑った。


「祐一、ワイも旅先で祈っとるで。真琴が帰ってくるんをな」
「ああ、ありがとよ。けどそれじゃお前の期待には沿えないぜ?」
「それでもええわい。どっちもワイの願いやからな」
 ぴろの二股に分かれていた尻尾がすっと一本に戻る。
 旅立ちの時だった。
「七年後、生きとったら帰ってくるわ。どないなことになっとるやろなあ」
「お前、悪趣味だぞ……」
 含み笑いを残しつつ、ぴろは祐一に背中を向けた。祐一も同じように背を向ける。
 ぴろが向かうのは眼下の隣町、祐一が向かうのは丘の向こうのあの町。
「ええ旅の土産が出来たわ」
「まったく。変なもん拾い食いして人に迷惑かけるなよ」
「祐一こそあんまり秋子はんと名雪に迷惑かけるんやないで。祐一はゴンタやからな」
「ぐっ……」
 何も言い返せずに言葉に詰まる祐一。
 相手は外見上、子猫なので、それがさらに哀愁を誘う。
「ああ、せや。すまんけど真琴の財布、持ち主が分かったら返しておいてくれへんか? 銭も元通りにして」
「俺が金を出すのかよ。まあ構わないが、持ち主の当てはあるのか?」
「いや、あらへん」
「おい……そんなんでどうやって返せっていうんだ」
「見つかったらでええわい。案外、祐一のよく知ってるやつのモンかもしれへんで」
「……え?」
「猫の勘や。深い意味はあらへん。まあ、見つかったら頼むで」
「分かった。貸しにしとくからな」
 かさり……。
 踏み出した、二人の足が草を鳴らす。
「祐一」
「何だよ、まだ何かあるのか?」
「おおきに、おおきにやで」
「ああ、またな。ぴろ」
 間に吹き込んだ風を合図に、二人は歩き始めた。
 お互いの新たなる旅路を。






 丘を半分下ったところでぴろは足を止めた。彼女の気配を感じて。
 傍にぼんやりと人影が浮かび、形を成す。
 それは特徴のある羽つきリュックを背負った少女だった。
 もうそんな季節でもないのに、ダッフルコートを羽織り、両手にはミトンをはめている。
「ほんまによかったんか? 祐一、思い出しかけとったで。七年ってそうゆうことやろ?」
 少女、月宮あゆは静かに首を振った。
「うん、もういいんだよ。お別れはずっと前に済ませていたから」
「そか……」
 一旦視線を外し、ぴろも少女と同じく物憂げな視線を空にやる。
 猫は祐一の記憶を覗いた際、その閉ざされた記憶をも知ることになった。
 その中にこの少女の存在があったことも。
「すまんかったな。非常事態とはいえ財布盗んでもうて」
「いいよ。猫さんの役に立ったのならボクも嬉しいし。それに、食い逃げしちゃったおかげで祐一君にも会えたしね」
「ええ子やな……あゆは」
 ぴろはその場で座り込み、熱くなった目頭を拭うフリをする。
 見るも涙、語るも涙のようなその仕草にあゆが顔を赤くした。
「うぐぅ、恥ずかしいよ猫さん」
「いや、すまんすまん。あの町で会うた人はみんなええ人ばっかりやったもんやから」
 そう言って、再び立ち上がりあゆの足元に歩み寄るぴろ。
 そして、その前足をあゆの足にちょんと当てた。
 すると、あゆの体がすうっと宙へと舞い上がり、体が光へと包まれていく。
「え、何!? ボク、浮いてる!?」
 空中で驚き、慌てふためくあゆにぴろがにっと笑みを送る。
「お別れやで、あゆ。お前さんは帰るんや」
「か、帰るってどこにっ!?」
「お前さん、自分が死んだ思てるみたいやけど、体はまだちゃんと生きとるで」
「え、ええっ?」
「意識不明、植物人間って言うんやろか。そういう状態でお前さんはまだ生きとる。ワイにはそれが感じられるんや」
「でも、どうして? 誰がボクを?」
「あの財布、男もんの財布やった。お前さんの財布やないやろう。その持ち主かもしれへんな」
「お父……さん? それとも……」
「誰かは分からへん。けどな、お前さんには待ってる人がおるっちゅうことや。嬉しいことやないか。なあ?」
 短い時間に色々知らされて半ばパニック状態のあゆだったが、ぴろの最後の言葉の意味はよく分かった。
 だから頷く。大粒の涙をその目にたたえて。
「……うん」
「帰りいや、あゆ。ワイの力を貸したる。一度死んだと思たお前さんや。目覚めがどんなに苦しくても頑張れるやろ?」
 ぴろの問いかけに、彼女は今度は力強く頷く。
 彼女の持ち前の前向きな心で。
「うんっ。ボク、頑張るよ」
「ええ返事や。ほんま、あゆはええ子やで」
 あゆを包む光が一段と強くなる。
 目覚めの時が近づいてきたのだろう。
「ありがとう、猫さん」
 満面の笑顔で子猫に感謝するあゆ。
 しかし、ぴろはそれに対して首を振る。


「ちゃう。ワイの名前は……ぴろや」


 そして、胸を張って名乗った。
 百年の時を経て得た、新たな家族の絆の証を。
 あゆは一旦きょとんとした表情を浮かべたが、すぐに笑顔に戻り、ぺこっと頭を下げる。
「またね、ぴろちゃん」
 顔を上げて手を振る彼女の全身を眩い光が覆い、弾けた。
 夕日を背景に舞い散る光の羽を見つめながらぴろは溜息をつく。
「アホウ、いきなしちゃん付けに変えるんやないわ。恥ずかしいやないか」
 これからたくさんの苦難が彼女を待っているだろう。
 それでも彼女はぴろに笑顔で礼を言ってくれた。
 その笑顔を胸に深く刻みつけ、猫は再び歩き出す。
 誰かが笑ってくれること、それが何よりの幸せだから。














 ユキはん……、ワイはいつか傍に行けるんやろうか?
 まだまだ遠いかもしれへん。
 それでもめげへんで、ワイ。
 やから、空から見守っててな。




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