〜Someone will surely be melancholy.〜
 誰的憂鬱/誰かさんの憂鬱


Side-A  

 ……さっきまで月が出ていた。

 朱味のかった濃い黄色の月に薄い笠がかかって冬の夜空にぽっかり浮かんでいた。
 会社を出るときにはまだまだ保ちそうだった空模様も、まるで年頃の娘のような心変わりで、瞬く間に雲に隠れた月に促されたようにやがて本降りになっていく。
 不意の雨に自前の折り畳み傘を開く間もなく、降られるに任せてといった趣だったので已む終えずその場の店の軒下を借りる事にした。

 軒下でふと溜息をついた。
 入社して数年が立つ今の会社の意向で故郷に妻子を残しての単身赴任で上京。その時、長女は最初の誕生日を未だ迎えていなかったし、しかも、妻はもうすぐ臨月だった。昨日、義父から電話で昨日知り合いの産婦人科に入院したという連絡が入る。
 ……困ったものだ。長女の時には立ち会えたのに、今度ばかりはそうも行きそうにない。それを先日久しぶりに帰郷したおり妻に話すと、『お互い大変なんだから無理はしなくてもいいですよ』と言われてしまった。身重で大変であろう妻に気を使わせてばかりで、男として全く立つ瀬が無い。

 もう一度溜息をついて、脇を見るとその店の看板があった。
 どうやら喫茶店らしい。
 折角だからと、落ち着くためにコーヒーを飲ませてもらうついでに、電話を借りようと思い立つ。

 年季の入った木製のドアを開けるとそこには趣味の良い調度品を揃えた店だった。
 店内は暑すぎず、それでいて寒すぎもせず、快適な温度で保たれ、趣味の良いクラシックが控えめな音量で流れている。三つ置かれたテーブル席と年季の入ったニス塗りのカウンター席が数席有って、一人の青年が店を任されているようだった。

 カウンターを拭きながら青年が「いらっしゃいませ」とお決まりの台詞。
 カウンターラミネートされたメニューを持ってきたその青年に、取りあえず紅茶を頼んでみると、
「一言で紅茶っていっても、定番のダージリン以外にもアッサムやウバだってあるんだ。取りあえずどれにするのか決めて欲しいな」
 そう言って、開いたメニューを見せられた。
「そうだな、やっぱりダージリンにするか。こういう時はあんまり癖がない方がいい」
 
 青年は、カウンターの中にはいると注文に対応し始めた。無粋な物言いをするものだから、手抜きでもするのかと思いきやなかなかの手際の良さだった。
「それと……電話を貸してもらえないかな」
「公衆電話がそこにあるから別に勝手に使えばいいけど、今時珍しいな。携帯とか持ち歩かない主義なのか?」
「携帯?」
 携帯といわれても、何を携帯することを意味するのか全く分からない。
「携帯電話だよ。今時知らない訳じゃないだろ」
 面倒臭そうに言った青年に
「……ポケットベルみたいなもんか」
 そう聞き返すと
「ポケベル……何年前の話だよ。今じゃPHS(ピッチ)だって古いって言うのに」
「ピッチっていったい何だ?」
 そう言うと
「……もういい。あゆといい、あんたといい俺の周りには世間に疎いヤツが多すぎる。まあ、あゆの場合は数年のブランクがあるから仕方ないんだけどな」
 そう言って彼は肩を竦める。
「取りあえず、あの電話使ってくれ。その間にこっちは用意して置くから」

 右手で刺された電話を見ると、最近設置され始めた緑の電話。今日日の喫茶店は客のニーズに応じて結構進んでいるらしい。
 電話の前に立つと手帳を取り出し、件の産婦人科の電話番号のページを開く。それでは、電話を掛けようかと、財布の中身を見ると数枚の札。小銭入れには、生憎と五円玉が三枚だけ。充分ご縁がありますようにというまじないだが、この際それは役に立たない。仕方なくカウンターに引き返して両替を頼もうと財布の中から五百円札を取り出そうとしていると、

「テレホンカードでいいか?」
 と、やっぱり最近普及し始めたばかりの磁気記録式の電話用カードを手渡される。

「えっ良いのか? テレホンカードなんかいいのか高いんだろ」
 驚いて聞き返すと
「高いもんか。たかだか一枚五百円だ。それに使いかけだから別に良いよ」
 と言ってのける。最近の若者……って言っても自分自身もそんなに歳とっていないけれど……は金銭感覚がどうかしているのだろうか?
「だから高いって言ってるんだよ。文庫本なら下手すれば二冊買えるし缶ジュース中五本。カセットテープだって二、三本買える。ウォーターライン(WL)なら駆逐艦二隻買ってお釣りが来るぞ」
「どんな基準なんだよ」
「まあ、プラモデルは兎も角だな……」
 確かに、プラモデルの話は趣味がかっているから理解不能かもしれない。
「普通は缶ジュースが百円で買える分けないし、文庫本だって一冊買ったら多少お釣りが来るか、足が出る。それにカセットテープなんて今時買ってどうするんだよ。CDが家で焼けたり、MD7MP3があるからそんな必要もないだろ。それに、WLの駆逐艦が一つ二百円の時代ってそれこそいつなんだ。今、千円はするぞ」
 しっかりWLも理解されていた。でも駆逐艦が一隻千円て言うのはいかにもボッタクリだぞ。それとCDを焼くとか言ったな。写真じゃ有るまいし焼き増しなんか出来るものか。感覚がずれているらしい。
「まあいい。取りあえず電話を掛けてくる」
「……ああ、そうしてくれ」
 彼は溜息をついていった。

 カードを挿入して電話を掛けると、看護婦が院長に取り次いでくれた。院長とは幼なじみで高校時代まで馬鹿をやった仲だ。親御さんが引退して、家業の産婦人科を継ぐまでの、ヤツは無医村の診療所に赴任していたという話を聞いていた。この転勤前、妻の診療に着いていったらヤツが出てきてこっちが驚いてしまった。
 そんなわけだから、事情を話すまでもなく欲しい答えが返ってきた。
『女の子だよ。母子共に健康この上ない。敢えて不都合があるとすれば、お前さんがこの場にいないぐらいのことだよ』 
 悟りを開いた坊主のような口調で言う。
「そうか。それは良かった」
 そう言ってホッと一息つくと
『ちっとも良くはない。お前さんには大仕事が残されてる。葵さんからの伝言だ』
「何だよ」
『名前を付けにゃならんだろ。それくらいはお前さんでも出来るだろうからって』
「名前か……。二人目は男の名前しか考えてないぞ」
『そんなことは俺の知ったことじゃないさ。手続きもあることだし、まあ一週間程度で考えるんだな』
「おいっ! まてっ」
 俺の返事を待たずにヤツは電話を切ってしまった。相変わらず無責任なヤツだ。しかし、妻もとんだ大仕事を残してくれたものだ。案外、立ち会えないことを見越しての、一寸した報復みたいなものかもかもしれないな。
 
 カウンター席に戻ると白い湯気の立ったティーカップとそれの置かれたソーサー、お代わり分のサービスだろうティーポット。そして、小さなトレーに載った砂糖容器とクリーム入りの小ポット。その全てが、揃いの上品な白磁製。店の趣味は割合といいようだった。

「俺からのおごりだ。カップは選んでもらうのを忘れたからこっちで勝手に決めさせてもらったぞ」
 そう言ってニッと歯を見せて笑った。
「いいのか?」
「いくら俺でも、これくらいおごれる甲斐性ぐらいはあるさ」
 今度はニヤっと悪戯坊主のように微笑んだ。
「それじゃ有り難く頂こう」
「それで、名前はどうするんだ」
 どうやら聞こえていたらしい。
「聞こえてたのか」
「聞こえてたも何も……、あれだけ大きな声で話してりゃ嫌でも耳に入る」
 ……そんなに大声だったのか。相当浮き足立っていた証拠だな。
「そうだなあ……。上が香里だからなあ……」
「へえ……。奇遇だな、俺の彼女の姉貴も香里って言うんだ」
 使った道具を洗いながら彼はそう言った。
「へえ、そりゃ本当に奇遇だね。いっそのこと君の彼女の名前でも頂こうか」
「それは良い考えだな」
「それで、名前は?」
「栞」
「丁度、韻を踏んでいて響きも良いな。ありがたく頂戴するよ」
「はは、すると俺があんたの娘の名付け親って言うことなるけど、良いのか」
「嫌か、それなら考えるけど」
「そう言う意味じゃない。ただ少し、理屈っぽくて我が儘で、拗ねると厄介な性格になる事請け合いだ。一昨日だって、大学の春休みを利用して帰郷の計画を建てていたら、店長の奥さんが一寸した事故で入院だ。その間、俺ともう一人が交替で見せ開けることになったんだ。それで、事情を話さず、二週間ばかり遅れるって言ったら、『そんな事言う人嫌いですっ!』っていつもの口癖で拗ねられたぐらいだ。だから、安易に決めたら後悔することになるけど、いいのか」
「……そいつは少し厄介だけど、その彼女それだけじゃないんだろ? じゃなきゃ彼女の話なんか持ち出さない」
「まあな。心が強くて……心細くても、哀しくても絶望的に前向きを装って泣かなくて、難病を克服したら今度は泣き虫になって……、絵が致命的に下手くそで、冬でも学校の中庭で平気でアイスを食っているようなやつだぞ。どうだ面倒臭くて後悔しただろ」
「素直じゃないんだな。まあいいさ。多分、僕の娘もそんな風に強くなれるんだろうからな」
「それだけは保証する」
「案外ここで君と出会ったのも小さな奇跡なのかもな」
「奇跡なら信じるよ」
「へえー。今時の若者にしちゃ案外柔軟なんだな」
「そうじゃなければ今はあり得なったからな」
 
 何か事情があるのかも知れないけれど、初対面の自分が立ち入るべき問題ではないだろう。紅茶を全て飲み終えると、彼に向かっていった。

「あっそうだ、コレ返さなきくちゃな」
 そう言って、先ほどのテレホンカードを彼に差し出すと、
「いいって、そんな物うちに帰ればいっぱいあるから」
「いいのか」
「使いかけで良ければいくらでも進呈するよ」
 彼はそう言ってくれだが、貰ってばかりでも悪い気がした。
「それじゃこうしよう。何かあったら、此処か此処に連絡してくれ今度は僕が力になろう」
 妻の実家と、俺の今住んでいるの社宅の電話番号を名詞の裏に書いて渡した。
「気にするな。……といっても、貰ってばかりで返さないのは義理に反するな。何か書くものあるか」
「これに書いてくれ」
 彼に、ボールペンと手帳を渡す。彼は、何かを書き終えると俺にボールペンと手帳を返してよこした。
「俺の名前と番号を書いといた。アパートにはPC用だけで電話がないから、携帯と帰郷したときの従姉妹の家の電話番号だ。まあ、携帯にかけてくれれば大丈夫だけどな」

 
 その後、店から出ると、雨上がりの空に浮かんだ新鮮な卵の黄身の様な色に輝く月。社宅に帰る為に駅に向かう道を歩いていると、大きなバックを抱えたおかっぱの少女とすれ違った。なんだか他人のような気がしなかったので慌てて振り返ると、すでに彼女はそこにいなかった。

 不思議な日だな。二駅ばかりの電車に揺られながら手帳を開くと、産婦人科の番号の下に、先ほどの青年の者であろう、「相沢祐一」と名前と数字の列が二つ。一つは普通の電話番号。そしてもう一つは通常より一桁多い十一桁の番号が書き記さされていた。




Side-B

 栞が拗ねるのは恒例のことだ。
 それだけ拗ねるネタがよくあるものだと感心してしまうが、その原因の大半は、栞に言わせると俺にあるのだそうだ。その話を、この間たまたま二日ばかり上京してきていた香里に話すと、はあ……溜息をついて、『呆れた。あの子あの子だけど、相沢君も相沢君よね。よくそれだけネタが尽きないものね。まあ、それだけ仲がいいんだろうけど……』と呆れられてしまった。
 香里に言わせると、そうやって些細なことでよく拗ねられるのは、俺に少しは甲斐性があるからだそうだ。そう言った、当の本人は俺に観光案内をさせてとっとと引き上げていった。

 いつものことなら、それでもいいんだろうけれど、今度ばかりはそうも言っていられないかも知れない。一昨日の話しだ。
 アパートの家賃を出してくれている秋子さんに、そのほかの大学在学中の雑費まで頼るわけにはいけないので、夏休み前から始めた喫茶店のバイトだったが、ひょんな事で、店長に気に入られてしまい基本的なことをみっちり仕込まれる事になった。取りあえず、業務の方は俺と相方のバイトでこなせるようになった頃、店長の奥さんが事故で入院してしまった。
 俺は、二月から続くの試験明け休みを利用して秋子さんの家に帰郷する予定を建てて店長にも話していたが、見舞いに行かなければならないので、帰郷を二週間ほど待って貰えないかと頼まれてしまう。まあ、それなら仕方がないと、俺達バイト二人で賄うことにして、店長には午前中であがって貰うことにした。
 そこまでは良かった。
 俺は、事情を話すために電話をかけて二週間ばかり戻れないと栞に伝えると、
『そんな事言う人嫌いです』とこちらの事情を話す間もなく切られてしまった。
 売り言葉には買い言葉で、こちらもそれならと弁解の電話をしないで放置していたら、翌日の晩になって、香里から
『相沢君。あなた、栞に何言ったのよっ!』と普段の香里からは想像できないいきり立った声で電話が掛かってきたから堪らない。
 事情を話して彼女を納得させたが、その後栞が家出したと聞いて仕事中も悶々として過ごすことになる。幸い、空は夕方から翳りだして月が不機嫌に雲間を見え隠れし、用事があるという相棒を送り出す頃には本降りになっていたから、客などもはや来るまいとたかを括っていたら、そんなときほど厄介事は起こるようで、妙な客が入って来る。

 客は三十絡みのサラリーマン風の男で、どうやら単身赴任しているらしい。冴えない背広に身を固めた男は、俺達にしたら常識的なことが信じられないと言った風情で、テレホンカードが高いだの、携帯を知らないでポケベルと混同するだの変なことだらけだった。
 あゆと同じように、何らかの事情で数年間の社会との隔絶してブランクがあるのかとも思ったが、どうやらそうじゃないらしいのでその点ではホッとした。
 
 子供の名前がどうのと電話で話していたところを見ると、奥さんは最近出産したばかりなのだろう。しかも女の子らしい。
 幸い他の客も居らず、聞いてしまった以上なにかお祝いでもしてやろうと思い立ち、俺の裁量で紅茶の一人分ぐらいは何とかなるとばかりに、彼から頼まれた分を奢りということで差し出した。勿論、その分は、あとから自腹で埋め合わせておく。
 彼が言うには、長女が香里らしい。
 偶然とは恐ろしい。
 思わず俺が口を滑らすと、それじゃあ君の彼女の名前を付けようじゃないかということになった。
 自分の彼女の名前を人の子供の名前に付けるなどなんだかむずがゆい思いがする。
「素直じゃないんだな。まあいいさ。多分、僕の娘もそんな風に強くなれるんだろうからな」
その男の言葉に、栞のことを本当に掛け替えのない存在だと思っている自分が居ることに今更ながらに気付かされた。 


 その男が帰りがけに託された名刺の名前を見た。
『美坂伊織』
 もしかしてと、裏を返すと、社宅と書かれた電話番号の下に、自宅と書かれた電話番号は、間違いなく今の美坂家のものだった。

 ……カラカラカラン
 
 その時、来客を知らせるドアベルが鳴った。
「いらっしゃいま……」
 言い切るまえに、俺の言葉は止まった。そこに立っていたのは誰でもない。大きなバッグを持った栞だったのだから……。


 落ち着いて、栞の分の紅茶を出しながらホッと一息ついた俺がいた。
「お父さんが行ってこいっ言ってくれたんですよ」
 栞の話によると、一昨日の俺の電話を偶々聞いていて、俺の名前が出てきてふと例の携帯番号のことを思い出したんだという。
 栞が聞かされた話だと、父、伊織さん、あの後、この店を探そうと何度も足を運んだが、同じ場所に見つけることは出来なかったということだ。


「なるほどな、さっきの客が栞のお父さんだったとはな……」
「だとすると、祐一さんが私の名付け親ですね」
「嫌か」
「嫌なわけ無いじゃないですか。でも……」
「でも?」
「祐一さんは私の名前を思い出して付けたんですよね」
「そう言うことだな」
「それじゃあ、最初に私の名前を考えついたのは一体誰なんでしょうか」
「……」

 その後小一時間、二人で頭を悩ませることになったのは言うまでもない。
 気が付くと栞の為に入れたダージリンはすっかり冷めきっていた……。


〜了〜


























<おまけ>
 ……その夜。

「少し、理屈っぽくて我が儘で、拗ねると厄介な性格の彼女は嫌いですか?」
「……」
 詰め寄ってくる栞に何も答えられない俺。
「泣き虫ってなんですか、絵が致命的に下手くそってなんですか、冬でも学校の中庭で平気でアイスを食べるような彼女ってなんですか!」
 更に栞にジリジリ詰め寄られる、俺。
「伊織さんも結構人が悪いぞ。やっぱり親子だ」
 呟いて苦笑いするとやっぱりいつものように拗ねられてしまう。
「そんな事言う人嫌いですっ!」
「……まあ、取りあえず誕生日おめでとうってことだ」
 そう言って、誕生日プレゼントをとっさに押しつけた、俺。
「人の誕生日を取りあえずで済ます人なんて嫌いですっ!」 

 コレばっかりは一生かかっても治らないのかもしれないなぁ……。
 ……まあ、その辺も栞の可愛いところなんだけどな。

 この調子じゃまだまだ憂鬱の種は尽きそうにないな。

 ……ダメじゃん俺……

『誰かさんの憂鬱』〜了〜 
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