ただ、あの笑顔が掴まえたかった。





 それが、ガラス細工のように儚く壊れるとしても――





虚夢







1月17日 AM8:30

 朝眼が覚めると、隣の部屋に祐一がいる。だからもう寂しくなんか無いと名雪は思った。
 小さい頃は冬休みの間にだけ見た夢が、今はずっと続いている。
「祐一、今日はわたしの方が早起きしたよ」
 隣の部屋に向かって小さく囁く。気恥ずかしさの中、胸から滴のように垂れ落ちた幸福感が彼女を優しくくすぐり、頬を紅く染めた。
 少女はベッドから降り立ち、朝影に照らされ、ベランダのシルエットを映し出すクリーム色のカーテン。それをしゅっと開け放つ。
 窓を開けると、きらきらと輝かんばかりに冷たい風が吹き込んでくる。その風に唆されて、お向かいさんに植えられた杉の木がさらさらと粉雪を舞わせた。
 その姿が彼女に、おはよう、と挨拶しているようだった。
 おはよう、と手を振り挨拶を返す。すると、また甘いけだるさがじんわりと彼女の頭にこみ上げて来る。
「ふぁ〜」
 伸びと一緒に大きなあくびを一つ。眠気を絞り出してからっぽになった体に、朝の空気は、岩に染みいる清水のように彼女の躯のすみずみにまで広がった。
 靴下を取ろうとピアノの鍵盤蓋に手を伸ばす。すると、ひやりという空気の動きが太腿に伝わった。振り返ると、僅かにドアが開いている。
 ぱっと、そこから身を捻るようにして猫が部屋に躍り込んできた。雪よりも柔らかい、真っ白な仔猫。
「猫さん!?」
 突然のことだったので反応が一瞬遅れた。その隙に、猫は再び部屋から飛び出てしまった。
 素足のまま部屋の扉を開け、廊下を見回す。
 廊下はいつもの朝と同じく、白い光に満ちて閑散としていた。ただ、昨日は帰って来なかった筈の真琴の部屋が開け放たれていた。
「真琴、帰ってきたの?」
 彼女の部屋に入るのにはちょっと勇気が要った。得体が知れないということもあったが、彼女に関することではなんだか自分は蚊帳の外という感じがしていたからだった。
 昔、やっぱり自分が蚊帳の外だったことがあって、その後祐一は――そこまで考えて、名雪はううんと首を振った。
 真琴が悪い子じゃないっていうのは分かってる。
 本当は、彼女が祐一にだけ見せる太陽のような明るさが、少し眩しかったのかも知れなかった。
 だから、心から笑えるように努めて、彼女は真琴の部屋を覗き込む。

 猫が、窓から飛び出す瞬間だった。

「――ふわ」
 陽の光に向かって、小さな影が飛び出す。その光景に、思わず口が半開きになっていた。
「ここ、二階だよね」
 ごしごしと目を擦って、改めて窓を見渡す。
 階下からの「名雪、起きたの?」という母の声が、廊下の空洞に響き渡っていた。




1月17日 AM10:00

 主体性の無いお姉ちゃんが嫌い。
 窓の外に広がる海岸線を眺めながら、栞はそう考えた。
 いつも陰気な顔で「栞、大丈夫?」と繰り返していた。ある時を境に悲しそうな表情しか浮かべなくなった。
 あんまり陰鬱な雰囲気で、他の患者さんにも迷惑だと思ったから「もう私のことなんて忘れて、ここには二度と来ないで下さい」と言ったら本当に来なくなった。
 きっと、私に余命を教えたのだって「あの子が訊いてきたから」とか言い出すんだろうあの姉は。
 いつまで生きられるかなんて関係ない。私は普通の女の子らしく人生を謳歌したかったのだ。お姉ちゃんの弱さも受け入れて、それでも愛せるような強い女の子でありたかったのだ。
 だから私は、それが分からなかったお姉ちゃんが嫌いだ。
「――ちゃん」
 海鳥が、冬の静かな海岸を飛び回る。
 潮騒の音が、この小さな白い部屋の中に響き渡る。
 陽光を映してきらきらと輝く水面が遥か遠くまで広がっているのを見ると、魂が吸い込まれそうな感覚さえ覚えた。
「栞ちゃん」
 二度目に呼ばれて、栞はようやく振り返った。病室のベッドの上で、パリッと糊の利いたYシャツに黒いベストという出で立ちの女性が、目を細めて口の端を持ち上げた。
「やっぱりメランコリックな表情してる」




1月17日 AM10:02

 女性は佐藤さんと言った。
 歳は20代後半か、30代前半だと栞は思うのだけれど、本人曰く「秘密」らしい。
 今月の初めに同室になったばかりだが、なんとなく話が合い、お互い病持ちだという連帯感も手伝って今ではすっかり栞のお姉さんのような存在の人だった。
「栞ちゃんて、時々ひどくメランコリックな表情を浮かべるときがあるよね」
「メランコリックって、憂鬱ですか?」
 辞書的な意味ならそういうことになる。
「んー。栞ちゃんのは憂鬱とはちょっと違うかな。……なんていうか、メランコリック?」
 答えになってないよね。と笑う彼女の方がよっぽどメランコリックだと栞は思った。
「栞ちゃんさ、さっきあたしの声が聞こえてて返事しなかったでしょ」
 ベッドを降りながら言うので、彼女の表情は伺えなかった。
「まぁ、分かるけどね。海を見ていると、なんだか無性に遠くへ行きたくなって、ここでの生活なんて忘れたくなっちゃうもん」
 栞の傍らにすっと立つ。こうしてみると、彼女は驚くほど背が高かった。
「ねえ、もし何処かに行けるとしたら、栞ちゃんは何処に行きたい?」
 すぐには答えが思いつかなかった。自分の家、は違うと思うし、考えてみると自分にはそういう場所が無いのだと思った。
 そういう場所ができるような人生を、自分は歩んでは来なかったのだと。
「佐藤さんなら、何処に行きたいと思うんですか?」
「ん、あたし? あたしはねぇ――」
 彼女はちょっとだけ顎を持ち上げて、それから白い顔を栞に向けた。
「足摺岬に行きたいかな」
「どうしてそんな所に行こうと思うんですか?」
「あんな所だったらもっと海の荒々しさというか、自然の驚異が感じられるかと思ったからよ」
 うんうん。一人彼女は大きく頷く。
「あ、でも富士の樹海ってのも棄てがたいかも。なんかいばらの森って感じがするしね。栞ちゃんと一緒に行きたいな」
 そこまで聞いて、ようやく彼女が冗談を言っていることに気が付いた。
 病人という人種は、意外なことに自分の病気に関する話題が大好きなものなのだ。栞は長い病院生活でそのことを知っていたが、「ここを切ったんでさぁ」とお腹の傷を見せるおじいちゃんや、乳癌で切った乳房を「触らせてあげようか」というおばさんの姿を見る度に、こうはなるまいと誓ったものだった。
 だけど、今栞が感じているのは、そんな嫌悪感とは別種の、もっと底暗い何かだった。
 佐藤さんがいつも病人らしくない格好をしている事を尋ねたとき「ああ、これは死に装束だから」と言う答えが笑顔と共に返って来たときに感じた何か。
 人は、本気であるからこそ冗談ぽく話すことがあることを栞は知っていた。
 彼女の「お姉ちゃん」もまた、そういう人だった。




1月17日 AM11:25

 ある日、香里が難しそうな統計データを持って来たことがあった。
 その一部を指さして、妙に嬉々とした声で言う。
「ほら、ここ」
 年齢別死亡率のグラフだった。
「人って、案外死なないものなのよね。女性の平均寿命は85歳とか言うけれど、100歳近くになってようやくその世代の人口の半分が死ぬ訳じゃない」
 香里は、いつもよりも濃い化粧の匂いを放っていた。
「よっぽど運が悪く無ければ来年死ぬなんてことはまず無いのよ。そうそう、ましてや明日死ぬ確率なんてその1/365で、もうパーセンテージで言ってもコンマ以下何桁の世界。だから、少なくとも『明日はあるさ』と思って生きていても罰は当たらないと姉さんは思うわけよ」
 なんか古くさい歌みたいだけどね。と、姉は続けた。

 だけど、お姉ちゃんの大好きな統計データで言うなら。と、栞は考える。
 今日も何十万人もの人々が、明日もまた自分のために登ってくるのだと信じて、人生最後の太陽を眺めているわけじゃないですか。
 いつか、確実にその人々の中に自分は入るのだ。勿論、その事に関しては誰も彼も例外は無いけれども。
 病院の廊下の窓を通して入ってくる光は、どこかぼんやりとしていた。
 それは空気も同じ。空調でいつも同じ温度に固定された病院の空気はどこか淀んでいて、歩くとぬるま湯の底に溜まった澱を掻き混ぜるような不快感を栞にもたらした。
 病院は、真っ白な汚濁だと思う――
「栞ちゃん、まーたメランコリックな表情してる」
 はっと顔を上げると、佐藤さんのにこにこ顔が栞を見下ろしていた。
「あんまり思い詰めない方がいいと思うよ」
「今更、思い詰める事なんて有るわけないじゃないですか」
 強い口調で反論してしまって、やっちゃったな。と栞は思った。
 自分がカンの強い性格だというのは知っていた。時としてそれが周りの人間に生意気だと思わせることも。
 だけど、佐藤さんは「おや」という顔をして立ち止まった。
「栞ちゃんて、ひょっとして好きな人がいるとか?」
「そんなことは、無いですよ」
 すこし語尾が弱くなる。
 そう思っていたのは、私だけの勘違いでした。栞は心の中だけでそう呟いた。
「そう? でも、栞ちゃんて強いよ」
 佐藤さんはカラカラに左手を載せたままで、右手だけで大きく伸びをした。
「強がりとかじゃなくて、なんていうか、信じられるものがあるからそれにすがれる。そんな感じの強さかな」
「それは、多分笑顔だと思います」
「笑顔?」
「一度私は、笑顔に救われたことがあったんですよ」
 それを聞くと、彼女の表情がどんどん透明感を増していって――
「それは、素敵な話だね」
 そう言って、話の続きを訊くと思ったのにまた先を歩き出した。

 栞に後ろ姿を見せたまま、佐藤さんは言った。
「でもさ――」
 さっきの笑顔とは裏腹に、沈んだ声だった。
「ひょっとしたら、そうやって大切だと思っている物が、栞ちゃんを深く傷つけることがあるかも知れないよ。もしかしたら、大事だったそれがある日、石ころだったと気がつくことだってあるかも知れない」
 それきり、佐藤さんの背中が黙った。
 栞は、発言の内容だけでなく、言い終わり方に反発を覚えた。
 お姉ちゃんだったら、最後に「もうこの話はお終い」と付け加える筈だった。それが、これ以上話してもお互い不愉快になるという時の栞と香里の不文律だったのだ。
 言葉以外に気持ちを伝える手段は沢山あるのに、佐藤さんはそれが分からない。と、栞は思った。
 お姉ちゃんが私に「明日はある」と言ったその日に、お姉ちゃんに――というよりは自分に――何が起こったのかは分かっていた。その日から、私はこうやって明日を信じて今日を歩み続けている。




1月17日 AM11:31

「別に栞ちゃんはカラカラを持って来なくてもいいのにね」
 7階のテラス兼食堂の椅子に腰掛けると、開口一番、佐藤さんはそう言った。
「一緒が良いですから」
 無駄だと思いつつも一応自分の心境を説明はしておく。シンパシーとか、そういう感情を分かって貰うのは期待していないけれど。
「でもこのカラカラって言うの、面白い呼び方だよね」
「そうですよね」
 カラカラというのは、縦置き式のハンガー掛けのような形状をした医療器具で、診断書を掛けたり点滴や検尿の袋をぶら下げて使う。勿論正式名称ではないのだが、患者さんの誰も正しい呼び方を知らないのでこの病院ではいつの間にか「カラカラ」と呼ばれるようになっていた。
 もちろん、この器具を動かすときの音が由来だ。
 佐藤さんは点滴を恒常的に打っていて、常にこの器具を運び歩いていた。
「さっき栞ちゃんの生きる糧を教えて貰ったよね。実はあたしにもそういうのがあるんだ」
 そう言うと、佐藤さんは懐から一冊の本を出した。
「栞ちゃんも作者の名前くらい知ってるかもしれないけど、この人の、この小説が気に入っているんだ」
 その本はいくつかの掌編から成っていて、彼女の指した小説はその中では割と長い方だった。
 未来世界に生きるこの小説の主人公は、日常に飽き飽きしていた。つまらない一日が集まってできた一週間それが集まって出来た一ヶ月、それが集まって出来た一年、そしてそれが集まって出来た一生……。だから、殺人を犯した。そして、刑罰として砂漠化した惑星に流刑となった。
 常に死と隣り合わせの耐えようの無い苦痛と絶望感に主人公は苛まれるが、最後に一つの悟りを得る。それが――
「死と隣り合わせの生活と言ったって、結局それは俺が今まで歩んで来た平凡な人生と何ら変わらないじゃないか。ですか?」
「そう言うこと。栞ちゃん読むの早いねぇ」
「でも、この最後の一行は……」
「あたしはこの一文が好きなんだけどなあ」
「まぁ、人それぞれですけど……」
 その話は、栞にとって全然遠い世界の物語だった。だけど、どこか身近な気がした。
 食事が出ないのでなんとなく、テラスの窓に向かってせり出した部分に腰掛ける。栞達の病室の窓からは海岸が見えたが、こちらの窓からは栞が生まれ育った町並みが見えた。
 ここから見渡すと、山並みは正面には霞むほど遠くに見えて、左手前の、病院にかなり近いところにまで続いていた。右奥の山裾から中央手前に向かって川が流れている。その川に沿って最も手前は雑木林になっていて、噴水のある公園が見える。次いでその少し先に住宅街が広がり、ここに栞の家があった。もう少し先に行くと、栞が通うことになっていた高校が見える。更に先は川の左右で様相が大きく変わっていて、学校や栞の家がある左側が団地、右側が商店街になっている。そして更に先に行くと再び住宅が並んでいて、それが途切れると未開発の地域が広がっている。ものみの丘と呼ばれる場所も、ここにあって――
 ふと、真下で白いモノが動いているのが見えた。よく目を凝らしてみると、猫だった。
(あっ。)
 一瞬眼が合った、気がした。
 暫く彼(何故かその猫が雄だということは確信できた)を見つめていたが、寝そべったり、顔を撫でたりするばかりで一向にその場を離れようとする様子がない。
「ご飯、遅いね」
「え、ええ。そうですね」
 振り返ると、佐藤さんが一張羅をだらしなく広げた格好で椅子にもたれ掛かっていた。
「あ、そういえば」
「ん?」
「ほら、看護師さんが最近変わったじゃないですか」
「あ、それで気づかずにあたし達のベッドの上に置いて来ちゃったとか」
「私、ちょっと見てきます」




1月17日 AM11:49

 案の定、食事はベッド脇のサイドテーブルに載せてあった。二人分のお膳を運ぶのは事なので、結局佐藤さんを呼びに言って、今日は部屋で食事を採ることにした。
「今日は山菜入りおかゆか。偶に食べると自分が病人って感じがしていいよね」
「そんなものですか……」
 適当に相づちを打ちながら枕元を探ると、紙製の箱の感触があった。
 睡眠薬。
 病人は健康な人に比べると絶対的な運動量が少ないので、どうしても生活が不規則になる。そうでなくても、栞や佐藤さんのような末期患者はある種の不安から眠りに就けなくなることが懸念される。だから、この病院では患者にこういった薬が定期的に支給されていた。
「栞ちゃん、いくらおかゆが温かいからって後でバニラアイス食べたら結局お腹が冷えるんだからね。食べちゃ駄目だよ」
「チョコミントだったら良いですか?」
「駄目に決まってるでしょうが」
 掌の上のそれをギュッと握りしめる。箱は簡単にぐしゃりと潰れて栞の手の中で二つに折れ曲がった。
「栞ちゃんさ」
「何でしょうか」
「あたしに一服盛ったね?」
 佐藤さんはいつも通りの笑顔で、栞のことを静かに見つめていた。
 薬がそんなに早く効くはずがなかった。
「そうでしょ?」
「……あ……あ……はい」
 栞は口の中が急速に乾いていくのを感じた。自分がやったことに対する自覚はあったが、やはり、どこかで気が付かないまま眠ってくれれば良いという幻想を抱いていたのかも知れなかった。
「別に怒ってる訳じゃないの。ただ、やっぱりなぁって。栞ちゃんここ数日、病院を抜け出そうとしなかったもんね。そろそろだと思った」
「あれは、本当に……」
「行く意味が分からなくなったって言うの? 嘘よ。栞ちゃんは多分、その人が好きだったと言うより、またその人の笑顔が見たかったのよ」
「……」
 佐藤さんに、あの人の話をしたことは無かった。第一、さっきだって「好きな人がいるの?」と疑問系で尋ねて来たではないか。
 栞が黙っていると、佐藤さんは「分かりやすいね」と苦笑いに似た微笑を浮かべた。
「あーあ、まさかここまでされるとは思わなかったな。まぁ、栞ちゃんが病院を抜け出すときはいつも止める側に立ってたから自業自得かもしれないけれど。……以前、栞ちゃんが『姉妹だから、お姉ちゃんの隠し事なんて私にはみんな分かっちゃうんですよ』って言ったでしょ? あたし一人っ子だから、割とそういうの憧れたんだよ? だから今も、鎌かけてみた」
 ドンピシャだったね。と、彼女は舌を出した。
「ごめん、愚痴が長くなった。年寄りの戯言だと思って聞き流して頂戴。本当はあたし、栞ちゃんがそうやって一生懸命に何かを探すのとっても好きだったから。だから栞ちゃんは、貴方は精一杯頑張るのよ。……あれ、腰が持ち上がらない」
 彼女にとっても意外なくらい薬は早く回ったみたいだった。少しだけ真剣な表情で驚いたあと、佐藤さんはまた柔和な笑みに変わって――
「せめて眠る前にトイレに行っときたかったんだけどな。でもこの階のは検尿用で男女兼用だから嫌だし、諦めるか。もし私が漏らしちゃったりしたら、栞ちゃんが後始末するのよ」
 そう悪態をついて、行ってらっしゃい。と胸の前で小さく手を振った。
「行って……来ます」
 そう言って、栞は佐藤さんから背を向けた。
「さようなら、栞ちゃん」
 背後から、もう一声。
 行ってらっしゃい。でなくてさようなら。
 その言葉に心の中を見透かされたような気がして、栞は危うく返した踵をもう一度廊下に向けそうになった。




1月17日 AM12:00

 病院の裏手に回ると、すぐにその仔猫を見つけることができた。
「やっぱり待っていてくれたんだね」
 話しかけると、まるで猫は栞の言葉が分かるかのように「にゃー」と鳴いた。そして、のそりと起きあがると静かにゆっくりと歩き出した。
 彼について行けば、私が見たかったものが見られるかも知れない。いつかビデオで観た映画じゃないけれど。

 病院の門をくぐるとき、自分が今まで住んでいた場所を見上げた。
 地上31mの最新式、と看護師さんに何度も教えられた真っ白な建物は、しかし栞には中世の城を思わせた。綺麗に揃えられた植え込みの向こうには、堅牢なアスファルト作りが横に広がっていて、右手側は在来病棟と呼ばれる、集合住宅のようなやや色褪せた建物に繋がっている。左手側には半円形をした全面ガラス張りの物見櫓がある。そしてそのやや右手側、ほぼ中央に新病棟と呼ばれる、栞が囚われていた高い高い塔が立っていた。
 屋上では風が強すぎて洗濯物を干すことが出来ない為、在来病棟の2階から5階部分のベランダにずらりと並べて干されているシーツが、まるでこの城の旗めいて忙しなく波打っていた。
 いつの間にか太陽は雲に囲まれるようになり、光は幾束もの筋となって病棟に細かい明暗を作りだしていた。
 風が建物の間を通り抜け、電線を震わし、びゅうびゅうという音をたてていた。
 もう少し厚着してくれば良かったかな。と、栞は軽く後悔した。
 そんな彼女を「何しているんだ、もうお前の居場所はここには無いんだぞ」と叱責ように、猫が今ひとたび鳴く。
 その通りかもしれない。と、栞は思う。佐藤さんとあんな別れ方をしてしまったのもあったが、それとは別に、この病院にはもう戻れないような予感がしていた。
 佐藤さんが最後にさようなら。と言ったことを思い出した。
「待たせちゃったね。さあ行こう」
 その言葉を待ってましたと言うように、猫が再び歩き出す。

 最後に、もう一度だけ病院を振り返って見たとき「覚悟」の二文字が栞の脳裏に浮かんだ。
 不思議と心は穏やかだった。
 あのうす甘い消毒アルコールの匂い。しがらみ。そんなものに埋もれて生を終えるよりは、こうやって外で何かを求めて生きられる方が幸せだとずっと思っていた。




1月17日 PM0:25

 風が、今までよりも一段と強くなって来ていた。
 このままだと雪が降るかも知れないな。そう思って栞は両腕を胸の前で交差させ、羽織ったストールを固く握りしめた。
 道角のガソリンスタンドから時代遅れのポップスが流れている。
 この角を曲がって並木道を抜ければ、あの噴水の綺麗な公園にたどり着く筈だった。

「屋台、開いて無かったね」
 栞はベンチに腰掛けたまま、小さな旅の道連れに話しかけた。
 彼は話を聞いているのかいないのか、後ろ足を折り畳んで毛繕いを繰り返している。
「今日は、ちょっと悪いことをしているからだね。きっと」
 おかゆを食べたばかりだったので空腹という程では無かったが、寒さは耐え難かった。
 手を擦ろうかと思ったが、惨めったらしいのでやめた。そういうのは、自分には似合わないと思った。
 先ほど聴いた、ガソリンスタンドの曲を思い出す。
「ね、猫さん」
 ベンチからポンっと立ち上がると言った。
「私、今から歌いますので、聴いて下さいませんか?」
 恭しく礼をする。
 それでも猫は、栞の方を一瞥もしなかった。だからこそ、彼女の心に奮い立つものがあった。
「大好きな曲があるんです。――あまり有名ではないけれど、この街に、そして恋する二人にぴったりの曲が」
 家族の前以外で歌うのは初めてだけれど、お姉ちゃんも上手だと言ってくれたし、きっと大丈夫。
 こういう恥ずかしいことをする時は、勢いと思い切りが大切だと知っていた。だから、深呼吸をするなりすぐに歌い出した。
 歌い出しはゆっくりと、
 サビに入る前は十分に溜を入れて、
 そしてサビは、切ない想いを溢れんばかりに込めて。

 頭が空っぽになるくらい精一杯歌って、歌い終えた時には汗びっしょりになる。そんな、確かな充実感があった。
「どうでした? 猫さん」
 彼は、やはり栞を一顧だにせず毛繕いを続けていた。
「んもぅ」
 少女は少しばかりプライドを傷つけられて憤慨した。と、近くから、ぱちぱちぱちと手を叩く音が聞こえてきた。




1月17日 PM1:05

「牛丼並3つとミニ1つ、つゆだくでお願いします」
「あいよ」
 やけに威勢の良い年配の男性が店の奥に引っ込むと、その女性は真面目な顔をして言った。
「佐祐理の見立てですと、これは降ってきますね」
 こくこく、と、隣の長髪の女性が頷く。
「この街は海に近いので、気候が安定しないんですよ」
 そちらは初耳だったのか、隣の女性はお茶を啜りながら黙って聞いていた。
「栞ちゃんも、お茶飲んで下さい。暖まりますよ」
「え、あ、ええ」
 湯飲みに注がれた緑茶は、栞が思っていたよりも少しだけ熱かった。舌がひりひりする程ではないけれど、さっきまで凍り付くようだった喉が今度は焼け付くようになる。
「それにしても、先ほどはびっくりしました」
 栞の歌に拍手を贈ったのは長髪の、舞さんという女性の方だった。佐祐理さんが言うには、舞さんは見た目通り寡黙な人で、他人を褒めるのはとても珍しいことらしい。
 そんなことはなさそうなんだけどな。と栞は思った。本当はこの人は色んなことを感じていて、でも、それを上手く表現出来ないだけなんじゃないだろうか?
 もしかしたら、栞のそういう印象も織り込み済みで、佐祐理さんは簡単な自己紹介だけに留めたのかも知れない。
 言葉以外で伝わることだって沢山ある。そういう事が分かっているという意味では、彼女はどうやら栞の仲間らしかった。
 そういうの、あの人は全然分からなかったからな。と、栞は苦笑した。あれだけ服装に気を遣っておいて、お漏らししたら後始末してねなんて、どういう神経して言ってたんだろう。
「お待ちどおさまっ」
 店員さんに丼を並べられてようやく、自分が佐祐理の言葉を聞き流していたことに気が付いた。
「すみません。考え事をしていました」
「いえ、気になさらないで下さい。栞ちゃんのメランコリックな表情、とっても可愛かったですよ」
「私、そんな表情していました?」
「ええ、それはもう」
 栞の困ったような顔と佐祐理の微笑みの間で、舞はぱきんと箸を割った。
「いただきます」

「その、ご馳走になってしまって、どうもすみません」
「いえ、良いんですよ。綺麗な歌声を聴かせて貰ったから、そのお礼です。ねぇ、舞?」
「もし良かったら、路銀を足させて貰ってもいい」
「そんな、そこまでご迷惑はかけられないです」
 随分時代がかった表現をする人だな。と思いながら栞は丁重にお断りした。そういえば、この人はどことなく侍の趣があるような気がする。
「佐祐理と舞はこれから学校に遊びに行くんですけど、栞さんはどちらへ?」
「それは、この仔に訊いてみないと……って、あれ?」
「あなたの連れの猫なら、あっちに行った」
「えぅ。では、私はこれで失礼します。本当にありがとうございました」
 頭を下げるなり、急いで女性が指さした方向へと向かう。
「頑張ってくださいねーっ」
「……お元気で」
 心の中で、もう一度だけありがとうを繰り返す。
 何も事情を訊かなかった二人の声援を背に、栞は走り出した。




1月17日 PM1:45

 雪がちらちらと降り始めていた。
 それが栞の腕や肩に落ちて、体温で溶けて、服に染みて行く、あまりの冷たさに栞は一度大きくわなないた。
 寒い。
 踏むたびにシャリシャリと音色を奏でる白い世界。それは孤独で、どこか隠微に死を湛えている気がした。
 海が近いせいかも知れない。水の香りが、ここまで運ばれてくるからかも知れない。
 砂浜がないこの街の海には、夏になっても訪れる者は殆どいない。だから栞にとって、水はいつも孤独だった。
 海から運ばれてくる水香が、この街の遥か上空で雪となって降り積もる。その営みがあまりに静かなので、この街が死んでいるように感じたのかも知れなかった。
 喉に熱いモノが込み上げてきていた。今、口を開けばその熱もまた、この凍結した世界に奪われてしまうだろう。
 それでも、涙を流すのはもっと嫌だったから、栞はそれを唇にのせた。
「猫さん、どこ行ったんだろうなあ」
 私を置きざりにしてどこか遠くへ行っちゃったのかな。病院で私を待っていてくれたように感じたのは、私の勝手な思い込みだった?
 紡いだ言葉が雪の静寂にあっという間に溶けてしまったことが、栞の不安を更に高ぶらせた。
 押し潰されまいと懸命に「猫さーん」と繰り返しながら、彼女は真っ白に凍結した杉の木の角を曲がろうとした。
「猫さん!?」
 突然、誰も居ないと思っていた道角から、素っ頓狂な声が聞こえてきた。それと共にコート姿の女の子が姿を現す。
「あっ。いきなりごめんなさい。わたし、水瀬名雪と言います」
「えっと、私は、美坂栞と言います」
 会話の展開がかなりずれている気がしたが、目の前の女の子がにこっと笑ったのを見ると、なんだかどうでも良いことのような気がした。
「猫さんを探してるの?」
「あ、あの、えっと、ひょっとして白い仔猫をここら辺で見かけませんでしたか? 焦げ茶色の斑があって、どことなく愛嬌のある表情をした猫なんですけど」
「その猫なら、わたし、会ったよ」
「いつですかっ!?」
「今朝だよ」
 しれっとした顔で言う。
 それはきっと違う猫さんですっ。と初対面の女性に思わずツッコミを入れそうになってしまうのを、栞はぐっと堪えた。
 なんか、それでも普通に乗ってくれそうな気もしたけれど。
「可愛かったよねー」
「そうですよねー」
 目を合わせると、水瀬さんはにこっと笑う。とても透明感のある笑顔だった。
「……その、もし都合が良かったらなんですけれど。一緒に猫さんを探してくれませんか?」
 ぶしつけで、厚かましいお願いだとは思ったけれど、敢えて言ってみた。もしかしなくてもこの人は町内でも有名な猫好きさんで、志を同じくする猫好きさんたちのネットワークを持っていたりするのかも知れない。それはきっと心強い味方になるだろう。
「本当に心苦しいんだけれど、それは出来ないんだよ」
 名雪さんは、栞がさっき見上げた杉の木の、隣の家を指さした。
「わたしはこれから、洗濯物を急いで取り込まなければならないから」
 その割にはのんびりしている。と栞は思ったけれど、言っても何も変わらない気がしたので口には出さなかった。
「そうですか。ちょっと残念です」
 わたしも残念だよ。と、本当に残念そうな表情で目の前の水瀬さんという女性は重い息を吐いた。
「あ、でも」
 くるっと表情を笑顔に変えて、水瀬さんはその大きな瞳を栞に向けた。
 そのままじっと、女性が見せる相手を測るような目つきではなくて、本当に純粋に相手を知ろうとする子供のような眼を向けたまま水瀬さんは語り出した。
「実はね、この近くにあるものみの丘というところに、猫さんが沢山住んでいるって話をお母さんから聞いたことがあるんだよ」
「あの丘に、そんな話があったんですか?」
 寒さを忘れて栞が大きな声をあげると、しっ、声が大きいよ。と言わんばかりに水瀬さんは声を低くした。
「それで、あの丘には昔から不思議な獣が住んでいるんだって。なんでも多くの歳をえた猫さんが、化け猫さんになってこの街に災厄を起こすんだって」
「初めて聞きました」
「ひょっとしたら、栞ちゃんの言っている猫さんは、化け猫さんだったのかも」
 言われてみると、確かにそんな気がした。
「でも、あの猫さんが災厄を起こすなんて考えられませんっ」
「うん。わたしもそう思うよ。きっと、何か誤解があったのかも知れないよ」
 水瀬さんは我事のように痛そうな表情を浮かべる。
 それを見て、きっとこの人はいい人なんだろうな。と、栞は思った。
「その、情報を教えて下さってありがとうございました。私は今からものみの丘に行きますので」
「待って」
 水瀬さんは栞を制すと、来ていたコートを脱ぎ始めた。中から、夏物の体操着姿が現れる。
「これ、貸してあげる」
「あ、ありがとうございます」
 あまりに自然にぽんと渡されたので、栞も思わず受け取ってしまう。なんだかこの女性のペースにはまってしまっている気がした。
「どうして体操着なんですか?」
「わたし、さっきまで走っていたから」
「そうだったんですか」
 コートを身に纏う。相当な距離を走ったのか、コートの中は熱と湿気と、この女性の匂いが篭もっていた。
「栞ちゃん」
「はい」
「ふぁいとっ、だよ」
 そう言って可愛くガッツポーズする少女は、上半身と下半身の調和が少しちぐはぐに見えた。そしてそれが、この娘の健全さを一層際立てているのだった。




1月17日 PM3:05

 つるつる滑る凍土の上に、枯れた落ち葉が幾重にも積み重なっている。
 滑りやすいことこの上ないです。と、栞は苦笑した。
 目の前では、真っ白な仔猫が道の悪さも感じさせずにすいすいと歩いている。
 きっと、もうすぐゴールだ。
 道の端から時折、見慣れない街並みを臨む度に栞はそう期待し始めた。木々の間から再び陽光が差し込めるようになって、その期待は確信へと変わる。
 鬱蒼とした山道が突然ぱっと途切れて、視界が一気に開けた。
 雲が輝いている。
 手前の黒い雲は端を白く染め、向こうの薄雲は橙色に染まりながらゆっくりと天球を回っていた。
 その遥か彼方に浮かぶ西日は、ただ西日の光を満々と湛えて世界を照らしている。
 その光に照らされて、一人の女の子が立っていた。

 突然仔猫が、ぱっと走り出した。
 オレンジ一色の世界を滑るように駆け抜け、女の子の胸の中に飛び込む。
 それを驚いたように受け止めると、女の子はやがて、ぽろぽろと涙を零し始めた。
 そして、ようやく再開できたね。と仔猫を持ち上げて本当に安心しきった、家族に見せるような笑顔を浮かべた。




 そう、栞はそんな物語を夢想していた。そして、自分がその笑顔の影の立役者となれたことに、大切な宝物をそっと仕舞い込むようなささやかな喜びを見いだせると思っていたのだった。




 実際は、その女の子は笑わなかった。
 その眼に光は宿っておらず、両腕の中の猫さえ視界に入っていない風だった。
 そして、ただ「なにもないかのように」泣いていたのだった。
 こんな泣き姿を見たくは無かった。こんな泣き声を聞きたくなかった。
 女の子は、本当にただ泣いていた。悲しみとか、そういう感情から来る涙ではなく、まるで虚ろな自分を泣いているかのような泣き方だった。
 だから、栞には分かってしまった。
 きっと彼女は、自分よりも深い絶望の中にいるのだ。
 帰る家も今日の寝床も、今夜の食事さえままならない状況で、この寒空の下を生きているのだ。
 そう思うと、彼女が「肉まんを買ってくる」と猫さんに言い置いて丘を降りるまで、栞は身じろぎ1つできなかった。
 先ほどまで已んでいた雪がまた、ちらちらと降り始める。
 急に水瀬さんから貰ったコートの中にまで冷気が進入を始めた。

 寒い。

 そうだ歌おう。
 歌い出しはゆっくりと、
 サビに入る前は十分に溜を入れて、
 そしてサビは、切ない想いを溢れんばかりに込めて。




1月17日 PM3:30

「あの子」の姿を見つけたとき、何かが終わってしまったことに美坂香里はすぐに気が付いた。
 彼女に名雪から「ちょっと気になることがあるんだけど――」との電話がかかってきたのが二時過ぎ。
 要領を得ない彼女との会話の中で「一昨日の休みに学校で寂しそうに立っていた」「それ以前にも学校まで来たのを見たことがある」「色白で、何か病気を患っていそうな子」といったキーワードを拾い出して何か直感めいたものを感じ、急いでものみの丘に向かったのがその5分後。
 そして、今、香里は狂ったように歌い続けている妹の姿を見ていた。
 その歌い方はお世辞にも上手とは言い難く、でも声だけは透き通るように綺麗で、以前彼女が両親や姉の前で歌ったものとそっくりだった。
 しかし、家族の前で歌うのと全く同じように、雪が舞い落ちる中を、こんな山奥で歌うことが異常だった。
 だから、彼女は自分が妹との間で築き上げてきた色々なものや、そして嘘が崩れてしまったことを知って呆然となり、不謹慎にも微かな開放感さえ覚えたのだった。
 目の前を、雪の花にまみれたオフィーリアが崩れ落ちる。
 そうなるまで、彼女はただ恍惚と妹の姿を見ていたのだった。




1月31日 PM4:35

「確かに命に別状はないわ。でもいいかしら、今まで香里さんを含めてご家族の方さえ栞ちゃんには会えなかったのよ。その意味を考えて頂戴」
「栞を無理に起こすような真似は絶対にしませんから――」
「分かったわ。でも5時までよ」
「ありがとうございます」
 扉を開けると、部屋には夕焼けの光が満ちて白を橙に染め上げていた。その光は栞にも射して、元気だった頃のように頬を染めている。
 二人部屋だったが、栞が横たわっている向かいのベッドは空だった。その脇にあった丸椅子を栞のベッドの脇に寄せて香里は妹の顔を覗き込んだ。
「何から話せばいいかな……」
 小さく深呼吸する。目の前で横たわっている少女が自分の言葉に反応を示さないことで、かえって心を落ち着けることができた。
「貴方にコートを貸してくれた子、あの子が名雪って言うの。変な子だったでしょ」
 部屋を染める夕日の色は更に濃くなって行く。潮騒が、静かに光の海の中で響いていた。
「今日も、相沢君が。あ、相沢君ていうのは彼女のいとこで、同居している男の子なんだけど、彼に昼休み呼び出されてね。なんだか知らない女の子と雪だるまを作っていたの」
 相沢君は引っ越して来て早々学校をさぼりがちになっている、不良学生なんだけどね。と、微苦笑を浮かべながら香里は言葉を添えた。
「あたしが『あんた何やってたの』って訊いたら、あの子『妹の結婚祝い』って答えたの。『何それ』って言ったら『祐一の部屋にね、ウエディングヴェールがあったんだよ』だって。わけ分からないでしょう? だってあの子に妹なんて……ううん、あの子がそう言うならそうなのかも知れない。だって友達だもの。信じてあげたい……」
 香里は自分の顔が伏せがちになっていたことに気付き、顔を上げた。
「ごめんなさい。あたし、あの子のことをダシにして貴方と話しかけて。それで友達なんてよく言ったものよね」

「ほら、栞。夕日が沈むよ。貴方がこの間出かけたものみの丘の向こうに日が隠れて行く」

「ね。あたし、本当は貴方がこのまま目覚めないでいてくれたらって思っているかも知れない」

「ごめんね。馬鹿な姉で本当にごめんなさいっ」
 部屋に嗚咽が響く。
 やがてそっと入ってきた看護師に「もう時間ですから」と言われ、香里は部屋を出て行った。




 2月1日 AM*:**

 ああ、戻って来ちゃったんだな。
 眼が覚めて、栞が最初に考えたことがそれだった。
 時計の針の音が、まるで自分の体の中から聞こえてくるみたい。
 今、何時なんだろう。あと、私の誕生日までどれくらいあるんだろう。

 栞は枕元から潰れた白い箱を取り出した。ベッドの隙間に挟んでおいたから、回収されなかったようだった。
 よかった。と、栞は思う。
 これが無ければあの笑顔の夢を見られそうにないから。

 水を飲まずに、錠剤を噛み下す。少しトイレに行きたくなった。

 ……あれ、腰が持ち上がらない。

 どうしちゃったんだろうね?
 栞は笑顔を作ってみたが、それもすぐに消えてしまった。
 きっと今、私はとってもメランコリックな表情をしているんだろうな――








「……きゃっ」
 突然、頭上から雪の塊が降ってきた。痛くは無かったけれど、突然目の前が真っ白になったのと背中に入った雪の冷たさに思わず声を挙げてしまう。
「大丈夫か?」
 すぐに男の子の声が聞こえた。多分、自分と同じくらいか、少し年上の男の子の声。
 なんだか随分都合が良すぎて、まるでドラマみたいだなぁと、真っ白な世界の中で、真っ白な頭で考えていた。
「え……あ……」
 顔を覗き込んできた男性は、私が想像していた王子様よりちょっと幼い顔立ちで、でもずっと優しそうな眼をしていた。
「……あ……の」
 何か言わなくちゃ。と思うのだけれど、こういう時、いざとなったら声が出てこない。ドラマを見て何度も練習したのに。こういう時にすっと言葉が出てくる物語のヒロインはやっぱり凄いなとか、どこか見当違いなことを考えていた。
「どうしたの?」
 あ、彼女持ちだったんだ。
 でも、彼女さんにしてはちょっと顔立ちが幼すぎるかも。妹的存在って感じなのかな。
 感動の再会シーンがどうとか、言い争いしてるし。私を無視して。
「ところで……」
 あ、今この人、その妹さん――どうやらあゆさんと言うらしい――との会話を逸らすために私に話を振った。
「大丈夫か?」
 急に真面目な顔になる。今までの漫才のようなノリとのギャップが激しすぎてどう反応すれば良いのか分からなかった。
「とりあえず、立てるか?」
「……え……あ、はい」
 質問が具体的になったので、ゆっくりと頷く。ところで、この人はどうして私を引っ張り上げてくれないんだろう?
 私の王子様だったら。ううん、普通の良識ある男性だったらこういう時、優しく手を差し伸べてくれる筈なのに……。
 自己紹介が始まるのかと思ったら、またその男女は私をほったらかしにして漫才を始めた。
 本当、変な人たちだった。




 だけど、




 あの二人の本当に楽しそうな笑顔。




 あの笑顔が掴まえられれば、きっとまた明日はやって来る。そんなあの日の雪のように真っ白な願いを抱きながら、美坂栞の意識は無明の虚無の中へと飲み込まれていった。








       参考:星新一作「処刑」

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