朝起きる。子供の頃から朝は苦手だった。こんな年になっても、それは変わらない。
目覚めすっきり、気分爽快――一時はそんな朝に憧れもしたが、今ではもうすっかり諦めている。
だから、許される限り布団の中で惰眠を貪る。覚醒してからも、温まった布団の中でゆっくりと、まだ半分以上寝ている身体を目覚めさせていく。
心地よい微睡み。至福の時間だ。
そんな時間を30分ほど過ごしてから、やっと私は床を離れる。時計を見ればいつもの時間。
いつもと同じ、朝の時間だ。
朝一番のコーヒーを淹れる。カーテンを開け、爽やかな日差しを取り込む。洗顔をし、完全に目が覚めたのを確認してから朝食の準備をする。そして朝のニュースを見ながら朝食を摂る。あまり誉められたものではないか、とも思うが、これもいつの間にか習慣になってしまった。
穏やかな空間。ただゆっくりと流れていく時間。見るとは無しにニュースを眺める。
そう。それはいつもと同じ時間。異なっていたのは、たった一つのニュースだけ。
それは、一つの衝撃となってやってきた。
"そこに猫のいる季節"
猫だ。そう香里が気付くのには、僅かに時間がかかった。
何しろ距離が近かった。腰掛けていたソファーから、カーテンと二重窓を挟んだ目と鼻の先。距離にして、二メートルも無いくらい。そんな近距離に、一匹の猫が現れたのだ。
いったい何時の間にやってきたのか。香里は全く気付いていなかった。
読んでいた本から目を上げて、何気なく窓の方に視線を移して、また本に視線を戻そうとして。そこでやっと違和感に気付いた。
ベランダに出来た日陰の中。白、黒、茶の三色が綺麗に入り混じった三毛猫が気持ち良さそうな寝顔で、ごろん、と横になっていた。こちらに見せた腹側は純白。背中側を黒と茶色が入り混じり覆っている。
その猫は首から袋のようなものを提げていて、それが少し鬱陶しそうに見えた。きっと、首輪のようなものなのだろう。もしかすると、万が一迷子になってしまったときのために、中には飼い主の住所などが書かれた紙などが入っているのかもしれない。
「……かわいい」
思わず携帯に手を伸ばしかけて、そして唐突に手を下ろす。香里は苦笑した。
いったい自分は何をしようとしていたのだろう。この猫を写真に撮って、どうしようというのだろう。
確かに、写真に撮ればその可愛い――香里は自分がそれほど猫好きだとは思っていなかったが、この猫の事は素直に可愛いと思った――姿を携帯のメモリの中に留めて置けるだろう。その写真を親友で猫好きの名雪に送ってやれば、彼女はとても喜んだだろう。
だが、そんな行為にはそれほど意味があるようには思えなかった。少なくとも、今の香里はそう思った。
そして、その寝顔が、あまりにも気持ち良さそうだったので。
香里は読みかけの本に栞を挟んで置いて、窓際の日の当る場所に横になった。もう猫との距離は、間に二重窓を挟んではいたが、手を伸ばせば届きそうなほど近かった。
閉じられた目。緩やかに上下する胸。
ああ。なんてのんびりと。なんて自由に生きているのだろう。猫達は。
もちろん、猫には猫の、人には人の生き方があって。人の目からは自由気ままに見えていても、その身を縛るものがあり、それほど自由というわけでもないのだろう。そして、人が生きてて辛い、と思うことがあるように、猫にも辛い事があるのだろう。悲しい事も、嬉しい事も、楽しい事も、気持ちいいことも、全部、全部。それはきっと猫自身にしか分からない事で、そして猫自身にも分からない事のだ。
でも、と香里は思う。
それでも人は、猫のその生き方に憧れるのだ。しなやかに、自由に、美しく、誇り高く生きる、その在り方に。
だから香里は手を伸ばした。その手は窓に遮られ、届く事は無い。
それこそが、人間と猫の距離のような気がした。どんなに近くに見えていても、触れられそうなほどの近さでも、決して手の届く事の無い距離。それは哀しい距離だ。
休日の日差しの中でそんなことを考えながら、香里はやってきた心地よい微睡みに身を任せた。
目が覚めたとき、猫の姿は消えていた。
二、三時間ほど眠っていたのだろうか。日は既に傾き、夕焼けが部屋に差し込んできている。
頭を軽く振って意識をはっきりさせると、香里は携帯電話を手に取りメールを打ち始めた。
送信相手は名雪。
件名は『今日、猫を見たの』
ゆっくりと思い出す。あの猫のことを。綺麗な猫だった。
一文字一文字、ゆっくりと打ちながら(実は携帯メールにまだ慣れていないのだ)、香里は思った。
今まで気付いていなかったが、この辺りはあの猫の縄張りで、このベランダはあの猫のお気に入りの場所なのかもしれない。
休日でもない限り、昼間は大学で講義を受けている。休日にあの猫が散歩に来るとは限らない。おそらく家猫だろうし、飼い主が外に出さしてくれるとは限らない。いつもは通りすぎてしまうばかりで、ああして昼寝をするのは本当に稀な事なのかもしれない。ましてや、何処も同じようなベランダの中で、香里の部屋のベランダを選ぶなんて。
いったい、どんな偶然なのだろう。
そう思いながら、打ち終わったメールを送信した。名雪から帰ってくるであろう、返事のメールを心待ちにしながら。
三日後。二度目は、大学の構内でだった。
「香里。お昼どうする?」
講義室から出ようとしたところでクラスメートの村瀬雅に声をかけられ、香里は足を止めた。時計を見れば、もう12時を回っている。
「うーん。どうしよっか」
「学食……は、無理っぽいし……」
二時間目の授業が終わっての昼休み。この時間帯の学食はどうしようもないほど混む。注文したものを受け取るカウンターにもレジにも長蛇の列が出来る。そして席はなかなか空かない。トレーを持ったまま空いている席を探して歩く人たちも珍しくない。三、四十分時間をずらせばだいぶ空いて来るが、昼休みは一時までなので急いで食べなければならない。
「購買だって大して変わらないし」
「じゃ、コンビニ」
「それが一番楽かしらね」
購買も学食と同様、酷く混む。少し離れてはいるが、大学の外のコンビニに行くのが一番楽といえば楽だった。
校舎を出て大学の敷地内を歩く。少し日差しが強かった。メインストリートに一定の間隔で植えられた木々が、はっきりと地面に影を落していた。今はまだそれほどではないが、直に暑くなってくるだろう。
ふ、と視線をめぐらせた香里は足を止め、「あ、」と声を上げた。
「どうしたの?」
「猫」
香里は短く答えた。雅も香里の視線を追って、同じように「あ、」と声を上げる。
首から袋を提げた三毛猫。ベランダにいた、あの猫だった。ベンチの下に出来た影の中、気持ち良さそうに目を閉じている。
香里がその猫に目を奪われていると、
「香里ってさ、猫好きだったっけ」
「いや、それほどでもないけど」
「ふーん」
雅はにやりと笑うと、
「ま、良いけどね。香里が猫好きだって、私は別に」
香里は憮然とした表情をした。何か揶揄されているようで、少し面白くなかった。
雅はそんな香里に何かを感じたのか、
「ほら、そんな顔してないで。早くコンビニ行こうよ。食べるものなくなっちゃうよ?」
と言って、香里の手を引いて歩き出した。
香里は軽くため息をつくと、仕方ないな、と言いたげな表情をして歩き出した。ちらり、と背後に未練ありげな視線を送ると、猫は我関せず、とばかりに一回あくびをした。
コンビニから戻って来た時、猫はまだ寝ていた。
「まだ寝てるよ、この猫」
「そういうもんよ、普通」
呆れたような声で言う雅に、香里は苦笑する。
「猫は一生のうち、2/3を寝て過ごすって言われるくらいでね。睡眠時間は一日平均14時間」
「ふーん」
雅は生返事を返すと、買ってきたばかりのミックスサンドの袋を開け、
「食べるかな?」
「その前に寝てるでしょ」
「うーん。置いとけば、起きた時に食べるんじゃないかなぁ」
そう言ってサンドイッチからハムを抜き出し、寝ている猫の目の前に置く。
「ほら、香里も何か置いといてあげたら?」
「あんたねぇ……」
香里は嘆息した。
何でこう、自分の周りにはマイペースな人が多いのか、と思う。
友人の水瀬名雪然り、その従兄弟の相沢祐一然り。大学に入ってからの友人である雅も、自分の妹である栞もやたらとマイペースだ。まさか自分がマイペースな人を集めるオーラでも出しているのか。それとも向こうから寄って来るのか。単なる巡り合わせか、そういう星の下に生まれたのか。万が一にも、『類が友を呼ぶ』という奴では無いだろうとは思うのだが。
「ほらほら。香里も香里も」
「仕方ないわね……でも、食べるかどうか分からないわよ」
「んー」
雅は一本だけ立てた人差し指を顎にあて、少し考えるような仕草を見せた後、
「大丈夫じゃない? きっと食べてくれるよ」
と言って、歯を見せるようにいしし、と笑う。そして、こちらも買ってきたばかりでまだ口のつけられていない香里のサンドイッチに手を伸ばすと、
「ほら、そんなちょっとだけじゃなくて。けちくさい事言わずにどわーっと」
「え? いやちょっとまっ、」
香里の抵抗も虚しく、雅は香里のレタスハムサンドからごっそりとハムを抜き出してしまう。ハムが無くなってレタスサンドになってしまった。
「……」
あまりの不条理に沈黙する香里。雅はその隣で満足げな笑みを浮かべ、一人頷いている。
「……ハムばっかりじゃないの」
と、何とか非難の声を上げてみるが、
「きっとハムが好きなんだよ。この猫」
と、どこ吹く風だ。そもそもそれ以前に会話になっていない。
「ほら香里、次の授業始まっちゃうよ? 早く食べないと」
「……わかってるわよ」
そう言って、ハム抜きのレタスハムサンドに口をつけた。菜食主義者の食事のようだった。
授業が終わり、二人が再びベンチの前にやってきたときには、猫は既に居なかった。
足元を見れば、置いておいたハムはすっかり無くなっている。
雅が『どう? 私の言った通りでしょー』とばかりに自慢げな顔をする。
香里はそれに肩を竦めてみせる事で返した。
当然の事だが、置いておいたハムが、あの袋を提げた三毛猫に食べられたという保証は無い。他の猫や辺りを飛び回るカラスにでも食べられたのかもしれないし、きれい好きな誰かに捨てられてしまったのかもしれない。
しかし。
ただの自己満足に過ぎないかもしれないが、香里はハムが無くなっていたという、その結果に満足した。
その隣、雅はそんな香里の姿を見て、あはは、と笑う。
それから一ヶ月ほどの間に、香里はその猫を何度か見た。
ベランダで見たのが3回、大学構内で見たのが5回。道端で歩いている時に見かけたのが2回。平均して3日に一回ほどのペースだ。寝ているときもあれば、起きている時もあった。会うのは昼時が多かったので、その時は持っていた食べ物をあげていた。
もっとも、香里にはそれほど食べ物をあげよう、という意思があったわけではなく、その理由は単に雅によるものだった。そしてその度に、香里の手から食べ物が消えていった。
それは例によってサンドイッチのハムであったり、弁当のハンバーグであったりしたが、概ね肉類という点で共通していた。
ずいぶんと人懐っこい猫だった。いや、人に慣れている、と言うべきか。
こちらの手から食べ物を貰う事に拒否反応を示す事も無く、かといってそれが当然だというように、偉そうにというわけでもなく。ただ自然に、こちらからの食べ物を受け取って食べた。撫でられ、触れられる事にも嫌悪感はないようであったが、嫌な時はきっぱりとその意思を示した。
人に媚びもせず、さりとて威張りもせず。そんなところが、香里には好印象だった。
飼われている猫のようだから名前があるのだろう、とは思ったが、分からないので結局"猫"と呼ぶことにした。
香里がそう言うと、雅は苦笑して、
「まぁ、香里らしくて良いかも」
と言った。
それからさらに一ヶ月。期末の試験まであと二週間程、といった頃。
もう、猫のいる生活も日常となりつつあった。
出会えば足を止め触れてやったり、手元に食べれそうなものがあればそれをやったり。
家に居る時に時間が合えば、ミルクを皿に入れて出してやったりもした。
そして、ある日の事。
香里は窓際に座り込んで、ベランダでミルクを舐める猫をぼうっと見ていた。ぴちゃぴちゃとささやかな音を立てて香里の用意したミルクを飲み、ふと何かを探すようにきょろきょろと辺りを見回し、香里と視線を合わせてはまたミルクを飲む。
右手に持ったシャーペンをくるりと回す。左手には授業で指定された教科書、足元にはノートと授業中に配布されたプリント。
テスト勉強は遅々として進んでいなかった。それほど熱心にやらなければならないどテストが近いわけでもなく、かといって何もしないで待つには無為に過ぎる、そんな時間。何をする予定も無く、ぽっかりと空いてしまった休日。スケジュールを書き込む手帳に出来た、真っ白い日。
くるり、くるりとシャーペンを回す。これが出来るようになったのは何時の事だったろう。小学生の頃か中学生の頃か。当時はなかなか出来なくて、ムキになって挑戦したこともあったような気がするのだが。今では無造作に、何の感慨も無くできてしまう。くるり、くるりと。動かない手が寂しいとでも言うように。働かない手が物足りないとでも言うように。
出されたミルクをきれいに全部飲みきると、猫は満足そうに何度も顔を拭った。
「……ふぅ」
溜息をつく。だめだだめだ。今日はだめだ。駄目な時はいくらやっても意味が無い。目を通すのではなく、理解し、自らの血肉にしなければ役にも立たない。無駄に時間ばかりかかるだけだ。
決めてしまえば後は早い。教科書もシャーペンも、全部投げ出して自由になる。
「おかわり、要る?」
そう聞くと、猫は待っていましたとばかりにこちらを向き、「なぁ」と答える。
そのタイミングが、あまりにもあまりなタイミングだったので、香里は思わず笑い出してしまった。
「あんた、もしかして分かってる?」
今度は答えずこちらを見ているだけ。
早く早く。そう言っているように見えるのは気のせいだろうか。
「はいはい。わかってるわよ」
立ち上がって冷蔵庫から牛乳パックを取り出し、目の前の皿に注いでやる。
猫はそれに口をつけようとして、
「あ」
首から提げた袋に皿の縁を引っ掛け、前足で皿の縁を思いっきり叩き、盛大にぶちまけてしまう。
「あっちゃー。やっちゃった……」
猫は身体を震わせ、頭からかぶってしまった牛乳を振り払おうとしているが、さすがにどうにもなりそうに無い。
場所がベランダだったのがまだしもの救いか。これが部屋の中だったら、目も当てられない。
香里は立ち上がると、手ごろなタオルを取ってきた。嫌がる猫を捕まえると、乾いたタオルでわしゃわしゃと拭いてやる。
「ほら、じっとしなさいって。あんたびしょ濡れなんだから……」
拭くのに邪魔なので、首から提げていた袋も取ってしまう。頭、背中、腹、前足、後ろ足。一箇所一箇所、丁寧に、かつ素早く拭いていく。
そうして何枚かのタオルを使って、やっと拭き終わった。
猫は身体が気になるのか、匂いをかいだり舐めたりとせわしなく身体を動かしている。そんな様子を横目で見ながら、
「さて、こっちはどうしようかしら」
猫が首から提げていた袋も当然、牛乳でびしょ濡れになってしまっている。手に持ってみるとその袋は思っていたよりも小さく、また、穴が開いていたりはしなかったが、それなりに年季の入ったものだった。
「まぁ、見られて困るようなものじゃないだろうし、」
そう呟いて、香里は袋の中のものを取り出す。
「手紙と、……押し花、かな?」
中に入っていたのは、手紙ともいえないような一枚の紙を折りたたんだだけのものと、濡れて形の崩れてしまった、元・押し花のようなものだった。
濡れて広げ難い手紙を四苦八苦しながら何とか広げてみる。文字の滲んだ文面は読み難かったが、何とか読むことが出来た。文面は短く、
『私の大切な人へ
この手紙があなたに届く事は無いでしょう。ですがもし、奇跡のような偶然が起こって、この手紙をあなたが見るようなことがあったとしたら、私はあなたに会いたいと思います』
その下には住所らしき物が書かれていたが、こちらは文字が小さかったため、滲んで全く読むことが出来ず、かろうじて住所らしきものだと判別できただけだった。
一緒に入っていた花は、紫の花と白い花で、
「こっちは、ラベンダー?」
紫の花はラベンダーのようだった。白い花の方は、形が崩れていた事もあり、植物に詳しくない香里には何の花だか分からなかった。
香里は少しの間悩んでいたが、今考えても仕方の無い事だと割り切る。中身を全部取り出した袋をさっと洗い、窓際の日の当る場所に干す。
猫の方を見てみれば、つい先程に比べればだいぶ落ち着いたようだが、まだ少し気になるのか、時折、身体をむずむずとさせている。
香里は再び手紙に視線を落した。牛乳に濡れ、今にも破れそうな手紙。
一体誰がこんなものを用意しておいたのだろう、と香里は思う。
そう、香里は思うのだ。
これは一体誰が用意したものだろうか。この猫の飼い主だとは思われるが、今の時点では不明、保留。
何のために用意したのか。手紙の文面を信用するなら、『大切な人に会いたいから』。それ以上は不明、保留。
一体『大切な人』とは誰か。特定の個人か不特定多数の誰かか。今の時点では不明、やはり保留。
何時、この手紙を用意したのか。これも不明だが、それ程昔の事ではないと思われる。今日のようなハプニングはそれ程多くは無いかもしれないが、決して珍しい事ではないと思う。それに、当然ながら雨が降る事だってあるのだ。袋と手紙が濡れてしまう事だってきっと珍しい事ではない。
つまり、
「たぶん誰かが、きっとこの手紙を書いてる人が、定期的に入れ替えているのだと思うんだけど」
香里は一人呟く。
中に入っていた花だって形が崩れていたわけではなかった。それほど長い期間、袋の中に入りっぱなしになっていたとは思えない。
「ねぇ、」
香里は猫に問いかけた。
「あなたのご主人様は、どんな人なの?」
当然、答えは無い。香里は苦笑する。
窓際に置かれた袋を見て、手に持った手紙を見て、そしてまた猫を見る。
「このまま返しちゃっても良いんだけど、ね」
何かを思いついたように微笑むと、香里は机の引き出しを開け、中から小さな便箋を取り出した。あいにくと、手元に適当な花は無かったが。
『偶然に手紙を見る事になった者です。あの白い花は何の花ですか』
三日後。返事はやはり、猫によって届けられた。
猫の背中を撫でてやりながら、香里は袋を開けた。袋の中には手紙の他に、やはり乾燥したラベンダーと押し花にされた白い花が入っていた。
返事はやはり短い文面でこう書かれていた。
『ささやかな偶然に感謝します。入れておいた花はラベンダーとフリージアです』
前回は滲んでいて良く分からなかったが、筆跡は男性のもののように見えた。使われている紙も上等な物のようだ。
香里は机から便箋を取り出すと(前回使ったものとは別のものにした)、自分の手元に一本だけある万年筆を持って、くるりと一回転させた。
一体なんて返事を書けば良いのだろうか。香里は頭を悩ませた。
もちろん、返事を書く必要はどこにも無い。少々礼儀には欠けるかもしれないが、こんな変則的な手紙のやり取りに礼儀を気にする必要は無いだろう。重要なのは、書くか、書かないか。書きたければ書けば良いし、書きたくなければ書かなくて良いのだ。手紙を畳んで、猫の首に袋を提げてやって。それで、終わりだ。
そう、だから。書くのならば自分の意思で手紙を書かなければいけない。
くるり、くるりと手の中の万年筆が回る。
この思いは単なる好奇心だろうか。あなたの事を、あなたの事情を知りたいと思うことはいけないことだろうか。迷惑な事だろうか。一介の大学生に出来る事などたかが知れている。自分が好奇心だけで首を突っ込むのは野暮な事ではないだろうか。役に立てる事なんて無いに違いないのに。
惑う。悩む。
手の中の万年筆が紙の上にインクを落す事は無く。ただただ、くるりくるりと回り続けるだけ。
と、香里の傍らでにゃぁ、と猫が鳴いた。
視線を落せば、猫が香里の方を見上げていた。
視線が合う。猫は何も言わない。ただ、にゃぁ、ともう一度鳴いた。
そして用事は済んだ、とばかりに背を向けると、窓際のカーテンの陰で丸くなる。
香里は一瞬、あっけにとられていたが、すぐに笑顔になって、
「そうね……あんたのご主人様だもんね」
そう言って、万年筆をもう一度くるリ、と回した。
心の中で、猫に一言お礼を言う。偶然かもしれないが、結果、自分の背中を押してくれたのだ。
そして、短い手紙を書き上げる。別に何を書く必要も無い。こんな短い手紙で何かを伝えられるはずも無いではないか。だったら、もっと気楽にやろう。肩肘張っていたって、良い結果はついてこないのだ。
そうして、奇妙な文通が始まった。文面はいつも短く、二言三言。手紙を運ぶのは気まぐれな猫。たいてい、三日から四日ほどで手紙が往復した。
内容はいつも他愛の無い事だった。良い季節ですね、今日は暖かい日です、綺麗な花を見ました、今日は猫がそわそわしています。そんな、時候の挨拶にも満たない様な小さなやり取りをしていた。
それでも何故か、香里はそんなやり取りが楽しかった。
授業中に回す手紙のようなものなのかも知れない、と香里は思った。香里がこれまでにそれをしたことは無いので想像するだけなのだが、話せばすぐに終わるような事でも、こうして手紙にするだけで何故か楽しく感じられるのだろう。まして、今は猫を使って手紙を届ける、という不思議な事をしているのだから。
試験が近くなると忙しくなったが、時間を見つけては香里は手紙を書いた。
そして、期末のテストも終わり、ようやく余裕ができてきた頃。大学はテストが終わると同時に夏休みに入り、いくつか出されていたレポートも何とか終わらせて、
『やっとテストが終わりました。これでまた、しばらくはのんびりと出来そうです』
と、送った手紙の返事に、香里は驚いた。
『では、お暇なようでしたら我が家にぜひおいでください。いつでもお待ちしています』
その下には住所と簡単な地図が書かれていた。
猫の脚で行き来できる範囲だから、それ程遠くは無いだろうと思っていたが、想像通り、香里の家から500mほどの距離だった。
近い。今すぐにでも行ける距離だ。
香里は時計を見た。まだ一時過ぎ。今から出かけても問題の無い時間だった。
香里は迷う。さすがに、手紙を受け取ったその日というのは、あまりにもいきなり過ぎはしないだろうか。
しかし、思い立ったが吉日とも言う。
丸くなって動く様子の無い猫を見て、香里の心は決まった。部屋着から着替え、出かける準備を整える。
そして、すっかりくつろいでいる猫を抱き上げると、香里は部屋を出た。猫は少し鬱陶しそうにしたが、結局は香里の腕の中に落ち着いた。
天気は晴れ。見上げた空が眩しくて、香里は僅かに目を細めた。その腕の中で猫が、なぁ、と一声鳴く。
その家の表札には『村瀬』と書いてあった。
村瀬。どこかで聞いた名字だ。が、それ程珍しい名字でもない。とりあえず、そう思ってみる。きっと単なる偶然に違いない。そう自分に言い聞かせてみる。
ぴんぽーん、と、チャイムを押す。
少しの間があって、
「はーい、今行きまーす」
と、答えながら顔を出したのは、
「どなたですかー、って、香里?」
「あー、やっぱりというか何と言うか。世間って狭いわねー」
「とりあえず、明後日の方向を向きながら棒読みで言うのやめようよ香里」
と、苦笑しながら行ったのは、大学に入ってからのクラスメートにして現在のところ大学で香里が一番親しい相手、村瀬雅だった。
雅は不思議そうに、
「でもなんで香里がここに?」
「いや、この手紙に……」
そう言って、つい先程読んだばかりの手紙を出す。
「あー、じゃあ、香里が文通の相手だったんだ」
「そうみたいね」
雅の言葉には『誰の』文通相手なのかという言葉が抜けてはいたが、香里は流す事にした。つまりきっと、相手は雅本人、もしくは身内の誰かなのだろうし、それならばトラブルに巻き込まれる事も無いだろうと思ったからだ。
手の中の猫が身を震わせた。雅がその猫に目をやり、
「あ、その猫」
「うん。この家の猫なんでしょ?」
「うーん。多分」
「多分、ってあんた……」
香里が呆れた、というジェスチャーをすると、雅は、
「いやだって、猫の見分けなんてつかないもの、私」
「胸張って言う事じゃないと思うけど」
「良いの、別に」
それにしても、よく知った猫の見分けがつかないだなんて、そんな。
香里はそれ程の猫好きではない(と、自分では思っている)が、さすがに良く見る猫の見分けくらいはつく。
「って、じゃ、もしかしていつもご飯あげてた猫だっていうのも?」
「そうなの?」
気付いてなかったの、と聞こうとした所であっさりと返され、香里は肩を落した。
「あんたねぇ……」
もはや呆れも通り越してしまっている。
「てゆーかさ、ずっと同じ猫だったの? もしかして」
「…………そうよ」
香里の肩はこれ以上ないほどに落ちている。気分的には、立ったままで地面に手が届きそうだった。流石にそんな事が起こるはずも無いけど。
雅はそんな香里の様子を見て、
「いやー、本当に猫の見分けってつかないのよ私。あはははは」
そう言って、誤魔化すように笑う。
多少ならともかく。流石に限度って物があるだろうと、香里は思った。
「ま、まぁ、立ち話もなんだし入ってよ」
「……そうするわ」
そう言って、香里は雅の後ろに続いて玄関をくぐった。
「おじゃまします」
「いらっしゃい」
香里の声に、すぐ前で背中を見せ、靴を脱いでいる雅が笑って答えた。香里は苦笑して、
「ここ、雅の家なの?」
「ううん。おじいちゃんの家」
ならば、その雅の祖父が自分の文通相手なのだろうか。
少し考えてはみたが、それはあまり意味の無い事だと思う。ここまで来たのだから、もうすぐ分かるはずだ。色々な事が。
廊下を通り、居間に入ったが、誰もいなかった。雅はソファーを指し示し、
「香里はここでちょっと待ってて。多分、二階にいると思うから。呼んで来る」
そう言って雅は今来た廊下を戻っていく。廊下の途中に階段があったから、きっとそこだろう。
立っていても仕方が無いので、ソファーに腰掛ける。
さて、雅の祖父とはどんな人だろう。
香里は今まで腕に抱いていた猫を膝の上に下ろした。思えば、この猫もだいぶ香里に慣れてくれたと思う。初めて会ったときは、こんなふうに膝に抱けるなんて思ってもいなかった。
眠っている猫の背中を撫でるように手を動かす。それが心地良いのか、猫は時々気持ち良さそうに、にゃあ、と鳴く。
しばらくそうしていると、雅と一緒に初老の男性が入ってきた。
見た目、六、七十歳程か。痩せた小柄な老人で、腰も少し曲がっているが、顔には温和な笑みを浮かべていた。
「えーっと、紹介するね。私の大学の同級生の美坂香里さん」
雅が老人に向かってそう言う。香里も猫を床に下ろし立ち上がると、
「美坂です。はじめまして」
「こちらこそ、はじめまして」
老人は微笑みとともにそう答えた。
次に、雅は香里の方に向き直って、
「で、これが私のおじいちゃん。名前は村瀬康弘」
「よろしく。美坂さん」
「はい、こちらこそ。よろしくお願いします」
優しそうな人だ、と香里は思った。ペットを見れば主人が分かる、とは言うが、実際その通りだと思う。
「とりあえず、座って、楽にして。紅茶はお好きかな?」
「私は好きだよ?」
雅が笑って答える。老人、康弘さんは苦笑して、
「それは知っておる。美坂さんは、どうかな」
「あ、私も好きです」
「それは良かった。良い葉を頂いたので、それを淹れてみようかと思うのじゃが」
「あ、そうしてよ。この前貰った奴でしょ? おじいちゃん、来客用とか言って飲ませてくれないしー」
来客用じゃからな、と言って、康弘さんは奥に消えた。
「おじいちゃん、紅茶が趣味でね。淹れるの上手いんだよ」
「そうなの」
それは楽しみだ、と思う。自分で飲む分となるとどうしても手を抜いてしまうし、なにより、良い紅茶の葉はけっこうどころかかなり良い値段がするのだ。
出された紅茶は確かに美味しかった。
話を聞くと、別に特別な事をしたわけではなく、紅茶の入れ方の基本であるゴールデンルールをしっかりと守っただけなのだそうだ。
ゴールデンルールは一般に、
・ティーポットを使う。
・道具をそろえて温める。
・茶葉を正確に量る。
・汲みたて、沸かしたての新鮮な沸騰湯を使う。
・時間を計り、しっかり蒸らす。
これだけだ。
それぞれの項目には細かな但し書きがいくつかつくが、基本的に守らなければいけないことはこれだけである。
これを守るだけでも十分に美味しい紅茶が飲めるし、良い水、良い葉をつかえばさらに美味しい紅茶が飲めるというわけだ。
ただ、簡単なルールでも、しっかりと守るのはなかなかに大変だ。忙しかったり面倒だったりで、つい手を抜いてしまいがちだ。実際、香里だってゴールデンルールを知ってはいたが、手間をかけて紅茶を淹れることは殆ど無かった。
飲みきったカップをことり、と机に戻す。
なめらかでストレスを与えない口当たり。涼やかでふわっと香る、その香。
至福の時間だった。
「お代わりは、いかがかね」
「はい。頂けますか」
「気にいってくれたなら、良かったが」
そう言って康弘さんはにこりと笑う。
「今日のは一段と美味しいね。こんなのを今まで出さなかったなんて、ずるい」
「来客用じゃからな。だいたい、雅に出していたら一日で葉が無くなってしまう」
「いくらなんでも、そんなに飲まないよ」
そういう雅は既に二回のお代わりをしていたりする。
「説得力が無いわよ」
「別に良いの。私もお代わり」
そんな雅を見て、二人は苦笑する。雅は憮然とした表情で、開き直ったように、
「お代わり」
と、もう一度言った。
三人で談笑していると、猫が起き出して、にゃあと声を上げた。
「そういえば、この猫、この家の飼い猫なんですよね?」
香里がそう尋ねると、康弘さんは頷いて、
「そろそろ七年、八年くらいになるかの」
「もう結構年だよね」
そう言いながら、雅は猫を撫でてやる。少し鬱陶しいのか、若干不機嫌そうな声を上げるが、逃れようとするでもなく、なすがままになっている。
「手紙は、何時から?」
「さて……」
少し考え込むようにして、
「一年半、くらいかの」
一年半。ちょうど香里が高二から高三に進級した頃だろうか。
「それまでは家猫だったんだけどね」
と、猫を撫でながら雅が誰にともなく呟く。
「一体、何のために?」
問うが、答えは無く、ただ寂しそうな微笑を返されただけだった。
あまり関わって欲しくない事なのかもしれない。聞かれたくない事なのだろう。たまたま関わっただけの自分が、これ以上首を突っ込んでも迷惑になるだけに違いない。
そう思って、香里はそれ以上追及することをやめた。
「別に、教えちゃっても良いと思うけど?」
不意に、雅がそんな声を上げた。康弘さんが雅の方を見る。その視線に答えて、
「大丈夫だよ、香里なら。おじいちゃんだって、分かってると思うよ?」
「……そうかもしれんの」
康弘さんは、そう言って嘆息した。
「いえ別に、あたしは、」
無理して聞かなくても、と言おうとして、康弘さんのあまりにも真剣な目に言葉を止めた。
「探してる人が、居るんだよ」
と、康弘さんの代わりに雅が言う。
「探してる、人」
「そう。おじいちゃんの、大切な人。私は会ったこと無いけど、私にとってもきっと大切な人」
「それは、」
誰、と言おうとして、言えなかった。
そんなことまで聞いてしまって良いのか、と香里は思う。
迷うように康弘さんのほうを見ると、康弘さんが雅に向かって頷くのが見えた。
そして雅が語ったのは、少し前に話題になった一人の少女の名前だった。
香里も良く知っている名前だった。
当たり前だ。一時期はニュースでも新聞でも目にした名前だったからだ。
そして、香里が個人的に知っている人物の名前でもあった。
◇
香里は水瀬家の前に立っていた。
もう何度訪れたか分からない、親友の家。こんなに緊張してこの家の前に立つのは、初めてのことかもしれない。
意を決し、チャイムを鳴らす。今日訪れる事は既に伝えてある。ここで立ち止まっていても仕方が無い。
ぴんぽーん、と聞きなれた音が響き、それに続いてトントンという足音。
がちゃり、とドアを開けて顔を出したのは、
「はーい、どなたですか」
「久しぶり、あゆちゃん」
「あ、香里さん。お久しぶりです」
そう言って彼女、月宮あゆは笑顔を見せる。
その笑顔には一片の翳りも無い。どうやら、相沢君ともうまくやっているようだ。
「どう、元気だった? 相沢君とはうまくやってる?」
「あはは……祐一君、意地悪なんでたまに喧嘩したりしますけど。元気でやってます」
「そう。良かった」
そう言って香里は微笑んだ。
「それで、今日はどうしたんですか? 名雪さんなら、今祐一くんと買い物に行ってますけど」
「今日は秋子さんに用事があって」
そうなんですか、とあゆは頷く。そして、
「どうぞ、上がってください」
と、香里を招いた。
おじゃまします、と言って水瀬家に入る。大学に入ってからこの家に来るのは初めてだ。まだ半年も経ってない筈だが、ずいぶんと久しぶりのような気がする。
廊下を抜けて居間に行くと、そこには秋子さんが座って待っていた。
「いらっしゃい、香里ちゃん。お久しぶりですね」
「おじゃまします。ご無沙汰してます」
勧められるままに秋子さんの向かいの椅子に座る。
「何か飲み物をを淹れましょうか。香里ちゃんは何がいいですか?」
「あ、紅茶をお願いします」
「分かりました。あゆちゃんはどうします?」
「じゃあ、ボクも紅茶に」
分かりました、と言って秋子さんは台所に入っていく。
あゆは
「ボクもお手伝いします」
と言って、その後に続いた。
秋子さんの淹れてくれた紅茶を口に含む。
この前飲んだ紅茶ほどではないが、こちらもかなり美味しい紅茶だった。これは秋子さんと康弘さんの腕の差と言うわけではなく、単に使っている葉の差だろう。秋子さんの事だから、決して安い葉を使っているわけではないだろうから、あの時の葉がよっぽど良いものだったのだろう。
香里がゆっくりと紅茶を味わっている間、秋子さんとあゆが、仲良さそうに他愛も無い話をしている。
さて、どうやって切り出そうか。
迷っていると、
「それで、香里さん。どんな用件ですか?」
秋子さんが、穏やかな笑みを浮かべながらそう切り出してきた。
「話し難い事なら、ゆっくりと話してくれて構いませんよ」
この人に話す事にして良かった、と香里は思う。
きっと本人にだったら、どうやって伝えていいか分からなかったから。
秋子さんに話せば良い、と考えるだけでずっと心が楽になる。
「六月頃、猫を見たんです」
そう、香里は切り出した。
そして、雅とその祖父の康弘さんの事までを話すと、秋子さんはいつものように片手を頬に当てながら、驚いた顔をしていた。
「驚きました」
と、秋子さんは言った。
まだ最後の部分を話していないのに、この人は全て分かってしまったらしい。
秋子さんはちらり、とあゆちゃんのほうを見て、
「それは……本当、ですよね」
「ええ」
あゆちゃんはきょとん、とした顔をしている。
まったく分かっていないようだ。
無理も無い。香里だって、今説明しただけで全てが分かるとはとても思えない。
秋子さんは軽く息をつくと、ゆっくりと、確認するように言った。
「その人たち――雅さんと、康弘さんは、あゆちゃんの、家族なんですね」
あゆが驚いた顔を秋子さんに向ける。秋子さんは微笑みながら香里の方を見ていた。
「ええ。その通りです」
「そうなん……ですか?」
あゆは、訳が分からない、という顔をしている。
「どうして分かったんですか?」
香里がそう尋ねると、
「香里さんが訪ねてくる理由が、それ以外に思いつきませんでしたから」
と、微笑みながら答えた。
「それに、まずは花です」
「花?」
と、あゆが疑問の声を上げるのに答えて、
「ラベンダーとフリージアの花ですよ。ラベンダーもフリージアも、色々な花言葉を持っています。
ラベンダーの花言葉の一つは、『あなたを待っています』。これは最初の手紙の内容と一致しますね。フリージア、特に白のフリージアのの花言葉の一つは、『親愛の情』。これも最初の手紙の内容と一致しますが、ここまで強調するのは家族くらいかな、と思ったんです」
そこで秋子さんは、一端言葉を切る。
「でも、それだけでは弱いです。想像の域を出てませんからね。
確信を持てたのは、猫の話です。家猫だった猫を、外に出すようになったんですよね? 普通、家猫として育てられた猫を途中から外に放すようになることは、あまり無いと思います。家の中で大事に育てられてきたのだろうし、家の中で育てられた猫は、最初から外に放されて育った猫よりも危険に対処する能力が低いはずです。だから、よっぽどの事が無い限り途中から外に出す事は無いはずです。」
あゆちゃんは真剣に秋子さんの話を聞いている。
「だから、その、よっぽどの事があったんだと思います。
その時期はちょうど一年半くらい前。あゆちゃんが目を覚ましたのが、ニュースや新聞で話題になった時期と一緒です」
そう言って、秋子さんは微笑んだ。
「もちろん、証拠があるわけじゃありませんから、想像に過ぎません。でも、これくらい条件が重なれば、その想像も結構確かなものじゃないかな、と思います」
「香里さん。本当、なんですか?」
あゆが確認するように香里の方を見る。
「ええ」
と、香里がそれに頷いて答えると、
「ボクの……家族」
そう言って、あゆは呆然とした表情をした。
まだ実感など無いのだろう。ただ、あなたの家族が見つかった、と言ってすぐに実感が湧くわけも無い。
「香里さん。最後、詳しく話していただけますか?」
香里はまた頷いた。そのために、ここに来たのだ。
娘の一人が駆け落ちしたのだ、と康弘さんは言った。
その娘、あゆちゃんの母親が高校の頃らしい。結婚すると言った娘に、当然、康弘さんは反対した。
無理も無い。まだ高校すら卒業していないのだ。気持ちは分かるが、もう少し待てと康弘さんは言った。
が、彼女も引かなかった。詳しい事情は分からないが、今しかない、との事だったらしい。
結局、彼女は家を出て行ったそうだ。
その後、相手の男性(月宮さん、という名字だったようだ)は亡くなり、彼女は子供を生んだらしい、と人づてに聞いた。子供の名前は『あゆ』だとも。康弘さんは彼女達を探したが、居場所は分からなかったらしい。
そして、月日は流れ、彼女が亡くなった、というニュースと、あゆちゃんが木から落ちて意識不明の重傷だ、というニュースを聞いたそうだ。
この時に名乗り出ればよかったのだろう。だが、それが出来なかったと康弘さんは言った。自分の心が弱かったからだと。拒否されるのが怖かったと。今更、何も知らない孫の前に出て行けない、と。
目が覚めたらきっと名乗り出る、と誓って七年。
待ちに待ったはずのそのニュースにも、康弘さんは動けなかった。
責められるべき事かも知れないが、あたしには分からない。きっと、康弘さんは心の弱くて脆い人なのだろう、と思うだけだ。
そして、康弘さんは、言い訳のようにして猫の手紙を始め――あたしという偶然によって出来た縁によって、あゆちゃんに辿り着いたわけだ。
香里が話し終えると、あゆは何かを悩んでいるようだった。
「それで、あゆちゃんはどうするつもりですか」
「どうする、って、ボク……」
秋子さんの声にも、あゆは戸惑うだけだ。
「今すぐ決めることはありませんよ。ゆっくりと考えればいいんです。会いに行くのか、行かないのか。いえ、あゆちゃんが、お祖父さんと雅ちゃん――あゆちゃんのいとこに当る人ですね――に、会いたいのか、会いたくないのか。それだけを考えればいいんです」
「でも、ボク……」
あゆはとても悩んでいるようだった。
会いたいのか、会いたくないのか。自分が会っても良いのか。迷惑になりはしないだろうか。
きっと、そんなことを考えているに違いない。心優しいこの子の事だから、相手の迷惑にならないかで一番悩んでいるのだろう。
そんなこと、気にする必要は無いのに。だって、康弘さんは猫に手紙を頼んだのだから。
本当に会いたくなければ、そんな事、する必要は無いのだから。
「あせらなくても良いんですよ」
と、秋子さんは言った。
「十分に時間はあります。ゆっくりと考えて、後悔の無い様にすればいいんですよ」
秋子さんの声は優しい。
その声に押されるように、あゆは顔を上げた。その顔は不安そうに、でも、強い意志に満ちていた。そしてあゆは、
「決めました。ボク、会いに行きます」
そう、宣言した。
◇
「どうするの? 今日はやめておく?」
香里が心配そうに尋ねると、
「ううん。ここで引き返しちゃったら、また次も逃げちゃうと思うから」
そう言ってあゆは、傍らに立つ祐一の手を握る。
祐一は何も言わず、ただ、その手を握り返す。
ぎゅっ、と握った手の信頼関係。素直に羨ましいな、と香里は思う。
もう、村瀬家はすぐそこだ。
あゆの緊張も、いやがおうにも高まる。
「香里」
後ろから、声。振り向くと、緊張感の欠片も無く雅が立っていた。
「どうしたの? また来たの?」
そこで雅は、あゆと祐一に気付いて、
「も、もしかして、あなたが、私の従姉妹の、あゆちゃん?」
「……違う」
雅が声をかけたのは祐一だった。
「何やってるのよ、あんた……」
「いやー、緊張をほぐすためにボケておこうかと」
どうやら、雅もだいぶ緊張しているらしい。初めて会う従姉妹なのだから、それも当然かとは思うが。
雅は気を取り直すようにコホン、と軽く咳払いをして、
「えーと、それでは改めまして。
村瀬雅です。はじめまして。あなたが、あゆちゃん、ですか?」
「は、はい。はじめまして。月宮、あゆ、です」
「はじめまして、相沢祐一です」
「……相沢君、感動の再会なのよ、今は?」
「いやー、空気が重かったから、つい」
いきなり割り込んだ祐一は、そう言ってわはは、と笑う。
「まったくもう……」
「もう、祐一君ったら」
それでも、祐一があゆの緊張を解いたのは事実らしい。どうやら、しっかりと彼氏をしてやっているみたいだ、と香里は思った。。
「面白い人だね、彼」
「そうね。変わった人だとは思うわ」
雅はじゃれている二人に向かって、
「ねぇ、二人は付き合ってるの?」
「う、うん……」
「ああ、そうだぞ」
照れるあゆに、平然と返す祐一。
「も、もう。祐一君っ、恥ずかしいよ……」
「俺は別に恥ずかしくないぞ?」
「祐一くん……」
目の前で見つめ合う二人。
「……お暑いことで」
雅と香里は顔を見合わせて苦笑する。
そして雅は、
「じゃ、あゆちゃん。よろしく」
そう言って、右手を前に差し出す。
「うん。よろしくおねがいします」
あゆも雅の手を取って、握手。
祐一はそんな二人を見て、優しく微笑んでいる。
「ねぇ、相沢君。これで良かったと思う?」
「ああ。当然だろ」
祐一は、あっさりとそう答えた。
香里も、握手する二人の様子を見て、そんなこと考えるまでも無いと思う。
だって二人は、嬉しそうだったから。
緊張しながら、あゆは震える手でチャイムを押す。
香里は心の中で、励ますように声をかけた。
大丈夫。あなたにはたくさんの人がついている。相沢君も、秋子さんも、名雪も、雅も、そしてあたしも。
チャイムが鳴る。
しばらくして、ドアが開く。康弘さんが姿を見せる。
康弘さんは目の前に立つあゆの姿を見て、身体を緊張させる。
あゆは深呼吸を一回して、笑顔で言った。
「はじめまして。月宮、あゆです」
◇
さて、その後の事を少し話しておこうかと思う。
あゆちゃんは水瀬家で暮らしている。村瀬家には、週二、三回行っているようだ。いくら血の繋がった家族とはいえ、いきなり一緒に住むという訳には行かない。時間をかけて慣らしていく必要があるだろう。
最終的にどうなるかは分からないが、あたしは心配していない。彼女には、相沢君も、秋子さんもついているからだ。決して間違った方向には行かないだろうと思っている。
雅はあゆちゃんのことをよく話すようになった。最初の方こそ戸惑っていたようだが、もともと人懐っこい二人なので、すぐに仲良くなったらしい。いつもあゆちゃんの話ばかりしているので、人事ながら、勉強は大丈夫なのかと心配になったりする。雅に言わせれば、『大きなお世話』だそうだが。まぁ、なんだかんだいって雅は優秀だし、要領も良いのであたしが心配する必要は無いだろう。
康弘さんについて言えば、雅程ではないにしろ、少しずつあゆちゃんと仲良くなっているようだ。二人ともどう接して良いのか分からないようだが、雅もいるのできっと大丈夫だろうと思っている。
あたしの事に関して言えば、特に変わった事は無い。もともとあたしは縁があって関わっただけで、当事者ではないからだ。いつも通り大学に行って、たまに雅の家に行ったりする。
最後に、猫の事について言おうと思う。
猫は相変わらずあたしの家に来ては、日向ぼっこをしたりミルクを飲んだりしている。目的が果たされたのだから、家猫に戻っても良いはずなのだが、未だにふらり、と姿を見せる。
そんなにこの家が気に入ったのかな、と思いながら、今日もあたしは眠る猫のその背中を撫でている。
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