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儀式


 ここに来て、まだ、迷ってる自分がいた。
 わたしは一つため息をついて、鏡を見つめる。
 そこには、元気なく佇み憂鬱そうな顔をした、かわいくない女の子がいた。
 その女の子は、ため息をつくと髪に手をやり、ストレートの髪を三つ編みへと変えていく。
 わたしは一つため息をついて鏡の中の女の子に声をかける。
「ふぁいとっ、だよ」
 鏡のなかの女の子は、その言葉に小さく微笑みこくりと頷いた。
「じゃあ、けろぴー行ってくるね」
 わたしは、ベッドの上に座っているけろぴーに声をかけ駅前と向かった。



「やっとみつけた」
 駅前のベンチに座っている祐一に、わたしはそう声をかけた。





 夢。

 夢を見ていた。

 街灯にぼんやりと照らされたベンチ。

 そのベンチに座り、泣きじゃくる男の子。

 そんな男の子に近寄り、雪うさぎを掲げる女の子。

 やがて、女の子の手から雪うさぎが離れ、

 雪うさぎは悲しく崩れた。

 そして、遠くで鳴り響くチャイムの音。


 ………チャイム?
 わたしは慌てて顔を上げた。
「それじゃあ、今日はここまで」
「気をつけ。礼」
 日直の号令と共に四時間目の授業が終わった。
 また寝ちゃったんだ……。一つため息をついて、黒板とノートを見比べる。
 黒板にはびっしり文字が書いてあって、ノートの方は真っ白だった。
 後で、香里に見せてもらおう。板書をあきらめてノートと教科書を机の中にしまう。
 そして、わたしは席を立ち、いつものように祐一に時を告げる。
「祐一。お昼休みだよ」
「なんだって! 昼休みだと!」
 いつものように、オーバーアクションで返事をする祐一。
「今日も作ってきてくれたのか?」
 そんな祐一を横目に見ながら、北川君が香里に聞いた。
「ええ、みんなの分あるから」
 香里は苦笑しながらそう言った。



 学食に行くと、栞ちゃんが席を確保して待っていた。
 机の上にはいつものとおり、五段重ねのお弁当。
「今日は早いんだな」
 祐一がそう言いながら、栞ちゃんの横に腰を下ろした。
「はい。授業がちょっと早く終わったんです。今日もがんばったんですよ」
 そう言いながら、栞ちゃんはお弁当箱を広げ始める。

 みんなで食べる楽しい昼食。
 栞ちゃんが持ってきた大きなお弁当箱と格闘している祐一。
 その様子をうれしそうに見つめる栞ちゃん。
 その栞ちゃんを優しい瞳で見つめる香里。
 祐一と掛け合いをしながら、場をなごませる北川君。
 それは、一学期の始めから続いているいつもの風景。
 楽しい時間なはずなのに、なんとなく疎外感を感じてしてしまうそんな時間。
 それは、わたしにとって祐一と栞ちゃんの仲が眩しすぎるからかもしれない。
 二人の様子を見ていると、いつものように、ちりちりと心がざわめいた。
 わたしは、そのざわめきを振り払うように小さくため息をついて、ぼんやりと栞ちゃんを見つめた。


 あの冬、香里が栞ちゃんを見ないようにしていた冬から一年が経っていた。
 香里が言うにはそれは、奇跡。何でも栞ちゃんは去年の二月まで生きられないと言われていたそうだ。
 でも、栞ちゃんはここにいる。治るはずのなかった病気は、奇跡的に回復した。
 特別に受けたという進級テストにも合格して、栞ちゃんは二年生になった。
 香里と栞ちゃんが見ていた小さな夢は、次々とかなえられていった。
 栞ちゃんの横で微笑んでる香里を見ていると、すごく栞ちゃんが好きなんだなと思う。
 失うことの恐怖で拒絶してしまうくらいなのだから、当然かもしれない。
 今の香里の栞ちゃんに対する態度は、重度のシスコンといった感じだ。それは、あの冬の反動なのかもしれない。

 鶏の唐揚げを口に運びながら、今度は祐一をぼんやりと眺める。
 結局、祐一は八年前のあの冬のことをほとんど思い出さなかった。
 思い出してほしいと思う反面、思い出さない方がお互いにいいだろうという気持ちもある。
 そんな事を考えていたら、ふと視線を感じた。
 視線の主は北川君だった。
 その視線に何も言わずに、どうかしたの? という表情で小さく首を傾げる。
 北川君は何でもないという風に小さく首を横に振ると、持っていた卵焼きを口の中に入れた。



「祐一、放課後だよ」
 ホームルームが終わり、いつものように祐一に時を告げる。
 教室はざわついた雰囲気が広がっているが、その中にも張りつめたものを感じるのは、受験シーズンまっただ中だからかもしれない。
「何か言ったかね? ばーさんや」
 そんな中でも、祐一の悪ふざけは変わらない。
「女の子に対して、おばあさんは失礼だよ、祐一。イチゴサンデー一つで許してあげるよ」
「何か言ったかね? ばーさんや」
「女の子に対して、おばあさんは失礼だよ、祐一。イチゴサンデー二つで許してあげるよ」
「何か言ったかね? ばーさんや」
「女の子に対して、おばあさんは失礼だよ、祐一。イチゴサンデー四つで許してあげるよ」
「何で、イチゴサンデーの数が倍々に増えていくんだよ」
「だって、わたしイチゴサンデー好きだもん。それに、女の子に対しておばあさんなんて言う祐一が悪いんだよ」
「北川も止めろよ」
「いや、いつものことだし、イチゴサンデー何個まで増えるか気になっちゃったからなあ」
 北川君の言葉に、香里は微笑みながらこちらを見つめている。
「祐一、今日はどうするの?」
「香里の家で最後の追い込みだな。試験も、もう来週だし」
「そうなんだ」
 そう言って、香里を見るとこくりと頷いた。
「相沢君もずいぶん頑張ってるからね。この調子で行けば、受かるんじゃない? 志望校。センターも良いところまで行ってたし。二月七日だっけ? 二次試験?」
「ああ、早いよな。あと一週間だ」
 誰が名付けたか知らないけれど、いわゆる美坂チームと呼ばれる中で、進路が決まっていないのは祐一だけだった。
 香里は学力で、わたしは陸上でそれぞれ推薦をもらっていたし、北川君は専門学校に行くと言っていた。
「じゃあ、後でな」
「じゃあね。名雪」
 香里と祐一を見送って、小さくため息をつく。
 鞄に目を落とし、ぼんやりとこれからのことを考える。わたしはどうしようか……。部活に出てもいいのだけど、何となく今日はそんな気分になれなかった。
「なあ、水瀬。今日暇か?」
 声をかけてきたのは、北川君だった。
「えっと、そうだね、特に用事はないよ」
「じゃあ、お茶して帰らないか? 付き合ってくれるならコーヒーの一杯くらいなら、おごるよ」
「うん、いいよ」
 そのまま帰りたくもなかったし、わたしは二つ返事でその提案に乗った。



 わたしはそれをスプーンにすくい、口に入れた。
 アイスクリームの冷たく甘い味と、イチゴの甘酸っぱさが口の中で混じり合い、幸せな気分が身体中に広がり、自然と顔がゆるんでしまうのが自分でもわかる。
「いつも思うけど、本当においしそうに食べるよな」
 わたしたちはいつものように百花屋に来ていた。
「うん。だって、本当においしいんだよ。ここのイチゴサンデーは、イチゴもいっぱい入ってるし、バニラアイスと生クリームの配分は申し分ないし、底の方に入っているコーンフレークは、ストロベリーチョコがけで味わいに統一感があるんだよ」
「そ、そうなんだ。それだけ褒めてもらえれば、イチゴサンデーも冥利に尽きるだろうな」
「うん。そうかもね」
 そう言うとわたしたちは顔を見合わせてくすくすと笑った。
「少しは、元気出た?」
「え?」
「最近、元気なかったみたいだからさ」
「うーんと、そうかな? そんなことないと思うけど」
 そういいながら小首を傾げる。
「最近というか、去年の冬頃からずっとかな。相沢が栞ちゃんとつきあい始めてから。気にはなってたんだけどね」
「うー、わたし、そんなに元気ないように見えたかな? 前と変わらないと思うんだけど。確かに去年の冬は祐一や香里に引きづられて、少し、元気なかったかもしれないけど。春になって祐一も香里も元気になったし、わたしも元気だったと思うけどな」
 北川君の言葉に、内心少しびっくりする。祐一と栞ちゃんがつきあうようになって、わたしはいつも少し寂しかったから。でもそれは、誰にも気がつかれないように、隠していたつもりだったから。
「確かに去年の冬はつらかったな。相沢も美坂も痛々しかったしな。水瀬がそれを一生懸命何とかしようと、がんばってるのも。オレの冗談も空回りばかりで……」
 訪れる沈黙。
 ふぅ、とため息をつく。
 それとほぼ同じタイミングで、北川君もため息をついた。
「あの時、オレは何もできなかったからな」
 どこか遠くを見つめながら、彼はそう言った。
「そんなことないよ。香里の様子がおかしいって、最初に言い出したの北川君だったよ。何もできなかったのはわたしの方だよ」
 あの冬、どうして香里が落ち込んでいっているのか、わからなかった。
 何度声をかけても、何でもないを繰り返す香里。
 日に日に憔悴していく香里を見ていることしかできなくて、彼女が何かを言い出してくれるのを祈るように待っていた日々。
 香里を何とか助けたい。でも、言い出さない限りは待っててあげた方がいいのではないか? 悩んでいるわたしの背中を押してくれたのは、北川君だった。
「美坂はもしかしたら、助けを呼べないくらいまで、まいっちゃっているのかもしれないな。だとしたら、今、美坂を助けられるのは親友の水瀬しかいないって」
 北川君が背中を押してくれなかったら、わたしはあの時、香里を百花屋に連れて行かなかったと思う。
 その言葉に対してわたしの返した言葉は、すごく弱々しいものだったから。
「わたしにとって香里は親友だけど、香里にとってわたしは親友じゃないかもしれないよ」
 そんな弱気な言葉を、北川君は笑い飛ばしてくれた。
「何言ってるんだ。二人はどこから見ても親友同士だって。一番近くから見ているオレが言うんだから、信用しろよ」って。
 その時の北川君は、根拠があってそう言ったかどうかわからない。
 けれど、その言葉に勇気づけられて、わたしは香里を無理に百花屋に連れて行ったのだから。
 そこで祐一と栞ちゃんに出会い、そして、その日から香里の表情は少しずつ明るくなっていた。
「あの時、オレは待ってたことを後悔してるんだよ。少し強引でも良いから、美坂と話をすればよかったんじゃないかってね。手をさしのべるのは悪い事じゃないけど、さしのべている相手は、その手をつかむことも出来ない状態かもしれない。こっちから手をつかみに行かなきゃいけなかったんじゃないかって」
ふぅ、とまたわたしたちはほとんど同時にため息をついた。
「だからさ、どうしたのかなって。まあ、想像はつくけどな」
 わたしはその言葉に彼から目をそらした。何となく、次に来る言葉を予想できてしまったから。
「相沢、だろう?」
 一瞬表情が硬くなるのが自分でもわかった。
「水瀬は相変わらず、相沢一筋なんだな」
 北川君がなぜか寂しそうに言った。
「そんなことないよ。多分」
 目をそらしたままぽつりと呟く。
「そんなことあるさ。一年の時から水瀬のこと見てるんだぜ。水瀬が今、誰を見ているかくらいはわかるさ」
「そう……かな」
 自分では隠していたつもりだったけど、北川君にはわかってしまったらしい。
「もうすぐ、卒業だろ? 水瀬はこのままでいいのか?」
「よくないよ。でも祐一には栞ちゃんがいるから」
 窓の外を見ながらぽつりと言った。でも、今の祐一に告白するってことは、わざわざ振られに行くようなものだから。臆病なわたしには出来そうになかった。
「やっぱり、水瀬は相沢一筋なんだな」
 さっき出てきたのと同じ言葉なのに、今度は何も言えなかった。
 北川君は小さくため息をつくと、わたしと同じように窓の外を眺めた。
「なあ水瀬。オレ、水瀬と同じようなやつ知ってるんだよ」
 窓の外を見ながら北川君は言った。
「そいつが言うには、そいつが彼女を好きになったのは、高校一年の時らしい。どうして彼女と話をするようになったか、そいつは覚えていなかったけど、いつの間にか彼女とはよく話す間柄になっていた」
 北川君は遠くを見つめていて、その横顔はとても寂しそうに見えた。
「で、気がつくと彼女のことを好きになってたそうだ。告白して彼女とつきあうとかそういう関係になれたらよかったんだけど、その彼女にはもうずーと前から好きな人がいて、今までずーと告白できなかったんだってよ」
 その北川君の知り合いに少し親近感を持った。同じような悩みを持っている人がいるというのが何となく嬉しかった。
 その人の行動は、わたしの参考になるかもしれない。そう思って、わたしは聞いた。
「その人、結局どうしたの?」
「ああ。で、そいつは機会を待って告白をするんだってさ」
「告白するの? だって相手の人、別な人が好きなんでしょ? それって……」
「しようと思ってるみたいだな。彼女には好きな人がいるのに。多分、そいつは振られるだろうな。でも、このまま卒業したら絶対に後悔するって、そいつはそう思ったらしい。自分の気持ちをあきらめるためにも、振られるために告白する。そんな風に言ってたよ」
 遠くを見つめたまま、北川君はそう言った。
「そうなんだ」
 振られるために告白するって、すごいなと思った。
「振られるために告白するって、どんな気持ちなのかな……」
「つらいだろうな、やっぱり。かなりの覚悟がいるだろうな」
「うまくいくといいね」
「無理じゃないか? フリーならともかく、相手に好きな人がいるんだぜ?」
「それでもだよ。その人のことを強く想っていれば、気持ちが相手に届くって、思いたいよ」
 その言葉に北川君の返事は帰ってこなかった。
 気がつくと、北川君はわたしの方をじっと見つめていた。
「なあ水瀬。改めて話があるんだが、聞いてくれるか?」
 いつもの雰囲気とは明らかに違う、真剣な目つきを北川君はしていた。



「で、何があったの?」
 わたしは香里と二人で、百花屋にいた。
 わたしたちの前には、ミルクティー二つとイチゴサンデーが一つ並べられている。
 目の前に大好きなイチゴサンデーが置かれても、今は全然食べたいと思わなかった。
「やっぱり、わかる?」
「今の名雪をみて、わからない方がどうかしてるわ」
「そんなに、かな?」
「授業中、寝ないでため息ばかりついているでしょ。昨日なにがあったの?」
 わたしはため息をついて、香里から目をそらした。隠していたつもりだったけれど、全然隠れていないみたいだった。
 何かではなく、何がと聞くあたり、香里はわたしのことをよくわかっているなと思った。
 わたしは窓の外を見ながら言った。
「実はね、北川君に告白されたんだよ」
「そう」
「びっくりしないんだね」
「北川君の名雪を見る瞳が、名雪の相沢君を見る瞳にそっくりだったから、もしかしたらそうなんじゃないかもしれないって思ってたのよ。なんとなくだけどね」
「で、断ったんだよ。わたしは、祐一のことが好きだからって」
 言葉に出すと胸の奥がずきずきと痛んだ。
「名雪……」
「祐一と栞ちゃんがつきあうのはいいんだよ。祐一と栞ちゃんを見ていると、とてもお似合いの二人だなって思うよ。でも正直ちょっと嫉妬しているよ。わたしは八年前から祐一のことが好きで、きっと、今も祐一のことが好きだから」
 一息つくように、ミルクティーを一口飲んだ。いつもならまろやかで香り豊かなミルクティーは、今日に限ってすごく苦く感じて、わたしは顔をしかめた。
「でも、祐一と栞ちゃんとの仲を壊したいとかって、思ったりはしないよ。そんな事出来ないなって思えるくらい仲の良い二人だから」
 どんなに想っていても届かない物は届かないし、努力したからといってすべて良い結果をもたらすわけではない。それは陸上の選手として今までやってきた中でわかったことだった。
「わたしの気持ちは、あの時から凍ったままなんだよ。だから、北川君を振ったんだよ。わたしは、祐一が好きだから」
 その事実を口に出すと、なぜかすごく悲しかった。胸が締め付けられるように痛かった。
「なのに、なぜか胸が痛いんだよ。どうしてか、すごく苦しいんだよ」
 知らず知らずのうちに、胸に手を当てていた手をぎゅっと握りしめた。
 目の前ではイチゴサンデーーがとけていた。器の中でイチゴとバニラが混じり合い、まだらなピンクになったイチゴサンデーをわたしはじっと見つめていた。
 そんなわたしを見て、香里はミルクティーを一口飲むと、勉強を教えてくれる時のように、ゆっくりとわたしに言った。
「なるほどね。名雪。今の話を聞いてわかったことがあるわ。あたしが気がついて、でも名雪が気がついていないこと。それを教えてあげるわ」
「うん」
「あなた、北川君のこと好きよ」
 その言葉に、わたしはびっくりして香里を見つめた。
 香里はすごく優しい瞳をしていて、冗談を言っているようには見えなかった。
「わたしは、祐一のことが好きなんだよ」
 確認するようにわたしは言った。
「そうね。名雪は今まで相沢君一筋だったから。でも、相沢君と同じくらい、北川君のことも好きになってる」
「でも、わたしは、祐一のことが好きなんだよ」
 呪文のように言葉を繰り返す。それが、わたしの本当の気持ちのはずだから。
「名雪。少し落ちついて考えてみたらどう? 名雪が相沢君のこと好きだって言うのは、あたしもよく知ってるわ。でも、北川君のこと、涙を流すほどつらいんでしょ?」
 そう言いながら、香里はスカートのポケットからハンカチを取り出し、わたしに差し出した。
「わたし泣いてなんかないよ」
 そう言おうとして、頬を伝う涙に気がついた。
「わたし、泣いてるんだ……」
 泣いている自分にびっくりしながら、わたしは香里からハンカチを受け取ると涙をぬぐった。
「名雪、少しゆっくり考えて。ね」
「うん。もう少し考えてみるよ」
 香里の言葉にわたしはそう答えるのが精一杯だった。


 百花屋で香里と別れた後、わたしは駅前に来ていた。
 積もっていた雪を払いのけ、あの日、祐一を待っていたベンチに腰を掛けた。
 遠くから電車の発車ベルが鳴るのが聞こえる。
 あの日、わたしは何度もこの音を聞きながら祐一を待っていた。
 けれど、どんなに待っても祐一は来なかった。
 そして、七年という月日が経ち、再び祐一がこの街にやって来た。
 でも、祐一は七年前のあの時のことを忘れていて、一年経った今でも思い出していない。
 祐一はあの冬のことをしまい込んでいて、もう思い出すことは無いのだろうなと思う。
 祐一はあの時の思い出を封印したまま、わたしはあの時の想いを凍らせたまま。
 ふぅ、とまたため息をつく。はいた息が白く広がりそして消えた。
 さっきの香里の言葉を思い出す。
 わたしは北川君のことどう思っているのだろう。
 その日、ずっとそのことを考えていたけれど、どんなに考えても結論は出なかった。



 あれからずっと考えていた。
 香里に言われた言葉。それが本当なのか、寝る時間を惜しんで、ずっと、ずっと考えていた。


 祐一のことを考える。
 いつも意地悪で、でも、本当は優しい祐一。
 わたしには見せたことがないような優しい瞳で栞ちゃんのことを見守る祐一
 ちりちりと心がざわめく。寂しさとうらやましさが一緒になったような感情がぐるぐると回る。

 あの冬、お母さんが言っていた言葉を思い出す。
「名雪、祐一さんを許してあげてね。祐一さんはすごくつらいことがあったの。
だから、今はそっとしておいてあげて。祐一さんがそのつらいことを乗り越えたら、きっと名雪の約束聞いてくれるはずだから、ね」
 あの冬のあの出来事を思い出さないまま、この街に来て一年が過ぎている。未だに思い出せないと言うことは、祐一はきっとそのつらいことが乗り越えられなかったんだと思う。

 わたしは祐一が好き。だって、あの時の想いを凍らせたままだから。
 何度考えても、この事実は変わらなかった。


 北川君のことを考える。
「オレ、水瀬のこと好きだ。水瀬が相沢のことを好きだってことも、よくわかっている。でも、卒業も近いしどうしても自分の気持ちを伝えておきたかったんだ」
 北川君の告白の言葉が頭の中で繰り返される。
 彼のことは嫌いじゃなかった。むしろ好きと言える。祐一が来る前は、陸上部の男の子たちよりも頼りにしていたところがあったのだから。
 もし、祐一のことがなければ、多分、つきあうことになっていたと思う。
 北川君の言葉は、すごく嬉しかったから。
 でも、わたしは祐一が好きで、彼のことを振った。
 それでも、彼の態度は今までと全然変わらなくて。
 そのことに、ひどくほっとして、そのことがすごく嬉しくて。
 その気持ちがどうしても、自分を混乱させて。
 胸が締め付けられるように痛くて。

 あの時、香里が言っていた言葉を思い出す。
「名雪が相沢君のこと好きだって言うのは、あたしもよく知ってるわ。でも、北川君のこと、涙を流すほどつらいんでしょ?」
 気がつくと泣いていた自分。祐一のことが好きなはずなのに、香里の言葉を否定することができなくて。
 彼のことを否定しようとすればするほど、なぜか涙が流れて。


 ずっとずっと考えていた。
 そして、出た結論。
 わたしは、北川君のことが好き。彼の気持ちに答えたい。
 でも、祐一に対する気持ちを、凍ったままの気持ちをこのままにはしてはおけない。
 気がつくとわたしはそればかりを考えていた。
 ずっと考えていて、一週間たってやっと出した結論。
 それがこの『儀式』だった。





「やっとみつけた」
 駅前のベンチに座っている祐一に、わたしはそう声をかけた。
「何言ってるんだ? 俺はずっとここにいただろう?」
 訝しげな顔をして、わたしのことを見る祐一。
 それはそうだろう。祐一にここで待ってるように頼んだのはわたしだし、待ち合わせの時間から、ほとんど時間は過ぎていないのだから。
「それに、どうしたんだその髪型? 名雪のおさげって、なんか懐かしい気がするな」
 わたしはその言葉を無視して、かみ合わない会話を続ける。
「家にも帰ってなかったから、心配したんだよ」
「心配って、そんなに遅くなってないだろう? それにこの時間を指定したの名雪だろ?」
 夕日が沈みきって、駅前に立つ街灯がぼんやりとあたりを照らしている。小学生なら遅い時間だとしても、高校生にしてみればそれほど遅い時間ではない。そんな時間だった。
「見せたいものがあったから……」
 あくまで祐一ことを無視して、わたしは後ろに隠し持っていた雪うさぎを頭上に掲げた。
 どうすればいいかわからない。そんな表情で祐一がわたしを見つめていた。
「ほら、これ、雪うさぎって言うんだよ」
「名雪……」
 そう言った祐一は、少し苦しそうに頭を押さえた。
 祐一は八年前のあの冬のことを思い出さなかった。
 だから、そのことはきっと祐一の心の奥にしまい込んでいるんだと思う。
「わたしが作ったの。わたし下手だから時間がかかっちゃったけど、……一生懸命作ったんだよ」
 わたしは祐一が心の奥にしまい込んでいるものを、無理矢理引っ張り出そうとしているのかもしれない。
 こんなことはしない方がいい。するべきではない。そんなことはわかっていた。

 でも、これはわたしのための『儀式』だから。
 わたしの心をとかす『儀式』だから。
 こうしないと、わたしが前に進めないから。

 心の中でごめんねを繰り返しつつ、わたしは『儀式』を続ける。
「これ。受け取ってもらえるかな。祐一。こんなものしか用意できなかったけど、わたしから、祐一へのプレゼントだよ」


 ここまではあの時の再現。


 ここからは、先に進むための『儀式』。

 本当の『儀式』はここから。そう、ここから。

 くじけそうになる心に、『儀式』だから、と呪文をかける。

「これは、わたしの気持ち。だから、受け取ってほしいんだよ」
 そう言いながら、わたしは一歩後ろに下がり、祐一から離れた。
「でも、祐一には好きな人がいるから、わたしの気持ちは受け取れないよね……」
 わたしは雪うさぎから手を離した。
 とさっ、と言う音と共に雪うさぎはあの日と同じように悲しく崩れた。
「崩れたままは雪うさぎが、可哀想だよね。空に返してあげてもいいよね」
 そう言いながら、あらかじめ買っておいたミネラルウォーターを取り出し、雪うさぎに振りかけた。
 ペットボトルから水が流れ、ばちゃばちゃという音ともに、崩れた雪うさぎは徐々に小さくなっていき、そして消えた。
「名雪。ごめん」
 ただじっと事の顛末を見守っていた祐一は、それだけぽつりと呟いた。
 わたしはその言葉に何も言わずに、祐一に背を向けた。



 気がつくと、噴水のある公園にいた。
 噴水が吹きあげる水をぼんやりと眺めていた。
 『儀式』は終わった。すごく悲しかったけど涙は出なかった。それに、心はすごく穏やかだった。
 陸上の大会で二番目にゴールしたような、すごく残念だけど一生懸命がんばったっていう達成感みたいなそんな気持ちだった。

 改めて祐一のことを考えてみる。栞ちゃんの隣で笑っている祐一。少し胸が疼くのは、多分郷愁のせい。その横で、心から微笑みながら二人を眺めているわたしを想像できたから。

 次に北川君のことを考える。
 あの時の言葉が頭の中で繰り返される。
「オレ、水瀬のこと好きだ。水瀬が相沢のことを好きだってことも、よくわかっている。でも、卒業も近いし、どうしても自分の気持ちを伝えておきたかったんだ」
 前は締め付けるような胸の苦しさだけを覚えていたのに、今は暖かい気持ちで胸がいっぱいになった。

 あの時の言葉を取り消すことはできるかな? 自分でも虫のよすぎる話だと思う。
 他の人から見たら、祐一に振られたから北川君に乗り換える。そんな風に思われるかもしれない。北川君もそう思うかもしれない。
 他の人はどうでもいいけど、北川君にそう思われたら、悲しいな。
 街灯に照らされる噴水を見ながら、ぼんやりとそんなことを考えていた。



 『儀式』を行ってから数日が経っていた。
 その日、わたしはある決意をしていた。
「祐一、放課後だよ」
 ホームルームが終わって、いつものように時を告げる。
 祐一の返事を待たずにすぐに席に戻り、机の中の物を鞄の中にしまう。
 その時に、鞄の中に例の物があるか確認する。
 何度も何度も確認したけれど、改めて存在を確認する。
 ふぅ、と息をはき、気持ちを落ち着ける。これから、これを北川君に渡さないといけないから。


「そうだ、相沢君。今日はバレンタインでしょ? これもらってくれない」
 じっと鞄の中のチョコレートを見つめていたら、そんな声が聞こえた。
 声の主は香里。手に持っている包みは、直径三十センチは有ろうかという大きなものだった。
 さすがの祐一も、香里の持っているものを見て、唖然としていた。
「お姉ちゃん。それ、祐一さんに贈るんですか? お姉ちゃん本気なんですか?」
 いつの間にか教室にやってきていた栞ちゃんが、香里の持つ包みを見てダメージを受けていた。
 香里は愕然としている栞ちゃんをじっと見ながら言った。
「ええ、本気よ。今回だけは栞の気持ちに負けるわけにいかないから」
「本気かよ……」
 事の成り行きに呆然としながらも、香里と栞ちゃんに交互に見守る祐一。
「相沢、モテモテだな」
 三人の様子を見ながら少し心配そうな顔で、北川君が声をかけてきた。
「香里まで祐一のことが好きだなんて、びっくりだよ」
 わたしたちの呟いた声が聞こえたのか、香里はわたしの方を見るとにっこりと笑った。
 それ見て、わたしは理解する。あのチョコは特大の義理チョコなんだと。
 あの笑顔は栞ちゃんや祐一をからかうときに、よく見せる表情だから。
「祐一さんは渡しません!」と、教室の中で高らかに宣言する栞ちゃん。
 栞ちゃんの言葉に、ぐったりとする祐一。
 そんな様子をわたしは、ほほえましいと感じながら見ることができた。
「水瀬は渡さないのか?」
 それはきっと、わたしと祐一との仲を気遣ってかけてくれた言葉。
「そうだね。わたしも渡そうかな」
 でも、その言葉はチョコを渡す機会を待っていたわたしの背中を押してくれるのに、最適な言葉だった。
 なんか、いつも背中を押してもらうのは北川君の言葉だな。そんなことを考えつつ、鞄の中からピンク色の包みを取り出す。
「あのね。お願いがあるんだよ」
 北川君の顔をじっと見ながら、包みを差し出す。
「え? オレ? 相沢じゃないの?」
 わたしからチョコを渡されるというのは、予想していなかったのか、すごくびっくりした顔で、わたしとチョコを見比べる北川君。
「あのね、わたしあれから、ずーと考えたんだよ」
 胸がどきどきして、緊張しているのが自分でもわかった。
「そして、出した結論なんだよ」
 不安と恥ずかしさと緊張で、北川君から目をそらした。
 そこで、なぜか栞ちゃんと目があった。
「えっと……」
「私たちのことは気にしないで、続けてください」
 さっきの騒然とした雰囲気はどうしたのか、きらきらとした瞳でこちらを見つめていた。
 その横で、香里と祐一が興味津々といった感じで、わたしたちを見ていた。
「えっと……」
「あー、中庭でも行こうか」
 固まっているわたしを見て、北川君が助け船を出してくれた。



 重い金属の扉を開けると、そこには白い世界が広がっていた。
「寒いね」
「ああ」
 はかれた息があたりを一瞬白くし、すぐに消えていく。
 春には賑わう中庭も、この寒い時期には訪れる人がいないのか、白い絨毯が荒らされることなく広がっていた。
 わたしたちはそんな風景をしばらくの間じっと見つめていた。


「あのね、北川君に、伝えなきゃいけないことがあるんだよ」
 先に口を開いたのは、わたしだった。
 さっきは邪魔が入ってしまったけど、わたしの本当の気持ちを伝えたかったから。
 わたしは、中庭の白い絨毯を眺めながら言った。
「あの日、北川君が告白してくれた後、わたし、とてもつらかったんだよ」
 北川君はその言葉に何も言わず、わたしと同じように白い絨毯を見つめていた。
「でも、どうしてつらいのかわたしにはわからなかったんだよ。どうしてつらいのか、香里が教えてくれたんだよ。わたしは、北川君のことが好きなんだって」
 北川君が、その言葉に驚いたようにこちらに顔を向けた。
 そんな北川君を無視するように、わたしは白い絨毯を見つめながら話を続けた。
 それは、北川君が今、わたしにどんな表情を見せているのか確認するのが怖かったからもしれない。
「でも、わたしは香里の言うこと、納得できなかったんだよ。わたしは祐一のことが好きで、そう北川君に言ったんだから。でも、あれからずっと、北川君のこと考える度に胸がすごく痛くなって……だから、ずっと、ずっと考えてたんだよ。祐一のこと、北川君のこと」
 坂道を転がっていくボールのように、想いが止まらなかった。意識をしなくても、言葉が次から次へと湧いてきた。
「あの時、わたしは祐一のことが好きって言ったよ。だから、すごく自分勝手だって言うのもわかってる。でも、これは、一生懸命考えて出した結論だから」
 先ほど渡し損ねたチョコレートを鞄の中から取り出した。
「わたしは北川君が好き。わたしの気持ち、もらってくれるかな? ううん、もらってください」
 そういった後、わたしはぎゅっと目をつぶった。
 一瞬、悲しく崩れた雪うさぎが頭の中を横切ったから。
 でも、それが頑張った結果ならしょうがないよね。そう思って深呼吸をし、目を開いて北川君の返事を待った。
 北川君は、じっとわたしを見つめていた。
「水瀬。あの時、百花屋で水瀬が言った言葉覚えてるか?」
「え?」
「『その人のことを強く想っていれば、気持ちが相手に届くって、思いたい』って」
 確かにそんなこと言ったと思う。でも、あの時の言葉は、わたしが祐一を想って言った言葉だった。それが、どうしてこんなところで出て来るのか、わからなかった。
 北川君は、わたしが今まで見たことない嬉しそうな微笑みを浮かべて言った。

「告白する前は、告白して振られたら、きっぱりあきらめる方が男らしい。そう思ってたんだ。実際そうするつもりだった。でも、あの時、水瀬の言葉を聞いて、せめて卒業まではあきらめないで強く想ってみよう。そう思うようになったんだ。だから……」





「ねえ、北川君。お願いがあるんだけどいいかな?」
「なんだ?」
「あのね、これから北川君のこと、潤くんって呼んでいいかな?」
「ああ、もちろんだよ」
「あとね、わたしのこと、なゆちゃんって呼んでくれない?」
「なゆちゃん? なゆちゃんか……」
「駄目?」
「えっと……わかったよ。なゆちゃん。改めてよろしくね」
「うん! こちらこそ、よろしくだよ。潤くん」
 そう言ってわたしは潤くんに微笑んだ。



fin

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