今日は昼間の太陽が照り付けており、昨日より暖かかった。
 白みがかった透明の光を浴び、視神経が体に温もりを伝えていた。
 昨日降った雨の水たまりが地面に散乱しており、光を乱反射している。
 六月の土曜日の午後、俺は商店街のゲーセンにいた。
 他の客がビデオゲームやプリクラをやっているときに、俺は昼間から制服姿でクレーンゲームを独占していた。
 今日はあゆはバイトで夕方まで帰ってこないので、俺は学校帰りに内緒で目当ての人形を狙ってきたわけだ。
 休憩時間などを入れれば一時間は入り浸りになっていた。
 周りの人間は、いい年した男がクレーンゲームに現を抜かす姿を怪訝な顔で見ているが、そんなのは知ったことじゃない。
 金を払っている以上、店員も文句は言えまい。
「取れた?」
 後ろから突然声をかけられて俺は驚き、思わずボタンを離すタイミングを逸した。
 あゆには内緒にしてたのにバレたかと思ったが、違ったようでホッとした。
「振り返ると、美坂香里が立っていた」
「同じネタは使わない」
 香里、ナイスツッコミ。
 いつも家では天然に囲まれてる俺は思わず心の中で喝采した。
「やってる最中に声をかけるな。おかげで一回分損したぞ」
「それはごめんなさい。でも相沢君も相当に下手だと思うけど」
「ほっとけ」
 久しぶりでカンが戻っていないだけだ、と思ってみた。
 昔やったときは四千いくらだった。
 今は一万円持ってきて残りは四千五百円。つくづくクレーンゲームって金がかかるゲームだと思う。
 これなら普通の店で人形を買った方がよっぽどいいだろう。
「お詫びに代わってあげようか? あたしなら多分一発で取れるわよ」
「いや結構だ。これは俺が取る」
 そう言ってコイン投入口に百円を入れた。
 俺は祈るような気持ちでクレーンを操作するが、当然のように取れない。
「もういい加減やめたら? クレーンゲームはね、下手な人からお金を搾り取るためにあるのよ。これじゃ相沢君カモよ」
「でも取れる可能性だってあるだろ。俺が狙ってる人形が奇跡を起こせば取れるかもしれないぞ」
 そう、可能性はある。
 俺が狙ってる天使の人形は、あゆを救ったあの人形と同じなのだから。
 まぁクレーンゲームくらいで大げさだとは思うが。というか間違いなく大げさだ。
「奇跡ね……」
 香里がわずかに表情を険しくして小声で呟いた。
 こんな場面、前にも確かにあった。奇跡にトラウマでもあるのだろうか。
「そうね、奇跡ってのは起こるものかもしれないわね」
「お、香里変わったな。無神論者だったのに」
「別に神は関係ないでしょ。相沢君やあゆちゃんを見て考えが変わったのよ。奇跡は起きないから奇跡。あたしはずっとそう思ってたけど」
 奇跡は起きないから奇跡……。
 香里の言った言葉には何となく現実感というか、重みのようなものが感じられた。
 奇跡を否定してたのも、どうしようもない絶望的な体験をしてるからだと思えてくる。
「そんなにあゆの目覚めは不思議だったか? まぁ俺も奇跡だったとは思ってるけど」
 奇跡だと騒いでるのは、一部の医者だけだと思っていた。
 名雪も秋子さんも当たり前のように受け入れていたから。
 あの二人を基準にするのがそもそも間違ってるのかもしれないが。
「植物状態の人間が意識を取り戻す例はないわけじゃないわ。でもあゆちゃんはあの後ろくにリハビリもしないで回復したのよ。常識じゃまず考えられないわよ。第一相沢君は病院で意識をなくして寝てるはずだったあゆちゃんの元気な姿を見たんでしょ? 名雪も秋子さんもそう言ってるし、嘘だとも幻覚だとも思えない」
 香里は興奮気味に捲し立てるように言った。
 その口調と表情からは、やはり奇跡に関する嫌悪感のようなものが感じられる。
 否定していたことが実際に起こると、嫌でも信じざるをえないということか。
 それにしても香里は医療関係者みたいな言い方をする。『例はないわけじゃない』とは自分なりに調べたように思える。でも何のために?
「今だから言うけど、あたし相沢君たちが羨ましかったの。あたしにも奇跡が起こせれば、相沢君ばっかりずるいって何度も思った」
「俺の力で起こしたわけじゃない。そんなことが出来るなら気は楽さ」
「それじゃあゆちゃんの力? どっちにしろ羨ましいわ」
「何かあったのか?」
「昔の話よ。そう、遠い昔の話……」
 そう言った香里は、険しい表情が緩んで寂しそうになっていた。
 どこか遠く、目で見えるものではなく、頭の中の場景を見ているようだった。
 何があったのかはわからない。でも確実に何かがあったのだろう。
 本当に俺に奇跡が起こせれば、そうすれば香里を救ってやれるのに、俺はそんなことを考えていた。
「香里、どんな事情があるのか俺にはわからないけど、でもな、奇跡ってのは不可思議な出来事だけじゃないと思うぞ。そういう意味じゃ香里にも奇跡が起きるかもな」
「あたしに?」
「香里の心を救ってくれるような奇跡がさ。明日なのか一年後なのかはわからないけど」
 香里は黙って耳を傾けていた。
「あゆが目覚めたのだって神秘とか超能力とかそういったものじゃないかもしれない。でも原因はどうあれ、あゆは目覚めた。奇跡は起きた。香里にだって起きないなんて誰が言えるんだよ」
 高校生がクレーンゲームの前で話す内容ではないかもしれないが、誰も訊いてないだろうし、この際無視だ。
 俺はコインを投入してクレーンゲームを再開した。ゲーム機を独占しておきながらあまり長く話に没頭するわけにもいかない。
「その言葉、もう少し早く聞きたかったわね」
 香里はため息混じりに言った。
 俺がクレーンを操作すると、今度はいい位置についた。
 クレーンが目当ての天使の人形をようやくつかんできて、やっと人形が取れた。
 俺は香里に、たった今取れた人形を目の前に突き出して見せ付けた。
「ほら見ろ、五十七回目にして奇跡が起きた」
 香里はクスっと笑った。
 五千円以上もつぎ込んだ俺はちっとも笑えない。
 考えてみると、こんな風に香里が笑うのは見たことがなかった。
 学校ではいつも冷めているような印象がある。
 時々は笑顔を覗かせることもあるのだが、あまり明るいイメージはなかった。
「相沢君、愚痴っぽくなるかもしれないけど、ちょっと訊いてくれる?」
「俺でよければ何でも言ってくれ。冬のときの借りを返せればいいな」
 借りとはあゆの人形探しを手伝ってくれたことである。
 いつか埋め合わせをすると約束したが、まだ何もしてなかった。
「妹が死んだのよ」
 …………。
 香里は他愛もない世間話の一部のように淡々と言った。
 一瞬意味がわからなかった。
 あまりにも内容が突然で衝撃的すぎて。
 香里に妹がいたなんて知らなかったし。
「そんな過去があったのか」
「ほんの数ヶ月前だけどね。病気で今年の誕生日まで生きられないって言われてたの」
「え?」
 数ヶ月前というと俺が転校した後だろうか。
 そんな話、訊いたことがない。
 仮に転校前の話だとしても、それなりに話題にはなってるだろうし、名雪も俺に話してくれてるはずだ。
 そういえば名雪も香里の家族については知らないと言っていた。
 隠してたということだろうか。
 妹の死について話したがらないという気持ちはわからないでもない。
 でもいくらなんでも葬儀くらいはあっただろうし、親友の名雪まで知らないとはどういうことだろうか。
「学校じゃそんな素振り見えなかったぞ」
「……自分に言い聞かせてきたのよ。あたしに妹はいないって。だから名雪や北川君にも話してない。そうしなければ耐えられなかったの」
 何という名演技だろうか。
 皮肉でも何でもなく、俺はそう思った。
 現実に妹が死んで、それでも悲しみを見せずに普段通りの日常を送り続けた。俺も名雪も北川も気づくことなく。
 いや、友達なら気づくべきだろう。
 悲しくないはずがない。いくら仮面をかぶっていても隠しきれるはずがない。
「香里、悪い。全然気づかなかったよ」
「謝らないでよ。まるで相沢君が悪いみたいじゃない」
 香里は自嘲気味にそう言った。
 似てると思った。
 香里がやったことは、七年前に俺があゆにしたことと同じだ。
 あのときも俺はあゆの事故を、悲しい現実を受け入れたくなくて、都合のいい幻を作っていた。
「妹が死ぬ前、どうだったんだ? 最期まで妹の存在を否定してたのか?」
 訊いていいものか迷ったが、香里も話したからにはこれぐらい訊かれるのは覚悟の上だろう。
 香里はしばらく黙った後、ゆっくりと首を横に振った。
「最期は一緒にいたわ。妹が死ぬときは目をそらさなかった。頭では否定してたけど、体が勝手にそうしたのよ」
 俺は内心ホッとした。
 香里も最後まで過ちを犯さずに済んだか。
 俺もあゆのことがあったから香里の気持ちも少しはわかってるつもりだ。
「相沢君、訊いてくれてありがと。少しは気が晴れたわ」
 そうは言うものの、顔は全然晴れやかではなかった。
 まぁ誰かに話したところで妹が生き返るわけではないし、気持ちはわかる。
「それで一つお願いがあるんだけど、明日あゆちゃんと二人でお墓参りに来て欲しいの」
「俺は構わないけど、名雪とかは誘わなくていいのか?」
「二人だけで来て」
 何かあるのだろうか。
 名雪や北川も誘った方がいいと思うが。
「わかった。あゆと二人でな」
 しかし香里がそう言うのなら特に反対する理由もない。
 俺たちは約束を交わしてそのまま別れていった。




「……香里さん、そんなことがあったんだ」
 その日の夜、俺は部屋にあゆを呼んで話した。
 あゆは今、水瀬家の養女で、俺たちと一緒に暮している。
 あゆは香里や北川とは面識もあり、それなりに仲が良かった。
 退院した後、一緒に人形を探してくれた二人を俺が紹介して、それ以来の知り合いだ。
 明日はあゆはバイトが休みだ。香里も昼間の様子を見ると、多分そのことを知ってただろう。
 墓参りのことをあゆに話すと、二つ返事で承諾した。
「そうだ、あゆにプレゼントがあるんだ」
 そう言って俺は紙袋に入れてあった天使の人形を渡した。考えてみれば今日はこっちがメインだったんだな。
 あゆは人形を受け取ると、驚いて顔が凍りついた。状況が飲み込めないようで、人形と俺の顔を交互に見ていた。
「今日クレーンゲームで取ってきたんだ。前のはなくなっただろ」
 あゆはじっとしていたが、やがて笑顔で喜びを表した。
「ありがとう、今度はずっと大切にするよっ!」
「そうしてくれ。多分もう取れないからな」
 あゆが人形を持ってる姿を見ると、数ヶ月前のあの冬を思い出す。
 あの時は寂しそうに人形を抱いてたっけ。
 これから自分が消えてなくなるのを思うのはどんな気分だっただろうか。
 香里の妹も、あゆと同じような気持ちだっただろうか。そう思うとやりきれなくなる。
 あゆは奇跡が起きて助かった。でも本来は助からないケースが圧倒的に多いんだ。
 香里たちは奇跡の恩恵を受けることができなかった。
 あゆとは何が違うのだろうか。
 香里にはああ言ったけど、やはりあゆには特別な力があったから助かったのだろうか。
「なぁあゆ」
「うん?」
「もう一度奇跡を起こせないのか?」
 別に俺は奇跡を起こしたくて人形を取ったわけじゃない。単純にあゆへのプレゼントにしようと思っただけだ。
 でも今は何かにすがっていたかった。
「……ダメだよ、もうお願いごと残ってないよ」
「だよな」
 仮に起こせたとしても死者を生き返らせるなんて無理だろう。
 俺はそれ以上は言わなかった。




 翌日の午後、昨日に続いてよく晴れた青空の下、俺とあゆは香里の家に向かった。
 あゆは羽つきリュックに天使の人形を入れている。この格好はずいぶん久しぶりだ。
 言っとくが、俺があゆにコスプレさせているわけではない。
 香里の家に着いて、俺はインターホンを鳴らした。
 玄関から香里が出てきて、俺とあゆは挨拶をしたが、香里は力なく返事をするだけだった。
 それからすぐに三人でこの街の墓地へ向かったが、その間も香里はあまりしゃべりたがらなかった。話題を振られても適当に返事をするだけだ。
 俺とあゆも香里につられてだんだん静かになっていった。

 墓地には一面の墓があった。
 あゆが怖がりそうなスポットだ。今は昼間なので平静だが、暗くなる前に帰るべきだな。
 入り口に来ると、香里は立ち止まって一枚の写真をポケットから出した。
「これが妹の写真よ。名前は栞っていうの」
「栞か……うん? 栞?」
 俺はその名前が頭に引っかかった。どこかで訊いたような気がする。
 俺とあゆは、香里の出した写真を借りて見た。
 ショートカットで屈託のない笑顔……やはりどこかで見たような気がする。
「祐一君、これ……」
 あゆの表情には驚きが見られる。あゆもどうやら見覚えがあるようだ。
 俺は記憶の糸を辿っていった。
 転校したばかりの頃、初めて会ったとき、俺とあゆが道に迷って、そこで出会った。
 学校でも一度会ったことがある。
 そのとき自己紹介もした。少女の名前は確か美坂栞……。
 間違いない。あのときの少女だ。
「あゆ、会ったことあるよな、俺たち」
「うん。ほんのちょっとだけどね」
「二人とも覚えててくれたんだ」
 俺たちは驚いて香里の方を見た。
「香里、知ってたのか? 俺たちが栞と会ったこと」
「現場を見たわけじゃないけどね。栞の方はあなたたちのことを忘れられなかったみたいよ」
 忘れられなかったって……。
 ほんの少し会っただけなのに、何かあっただろうか。
 俺は特に心当たりはない。二回会ってるけど何も特別な会話はしていない。
 香里はポケットから一枚の紙を出して手渡した。
「栞の遺書よ。相沢君の名前が書いてあるわ」
「俺の?」
 俺はその紙を広げてあゆと一緒に読んだ。
 字はボールペンで、女の子らしい綺麗な字で書かれていた。


 1月8日

 お父さんとお母さん
 今私は色々あって、心が乱れています。ですから正常な文章は書けないかもしれませんが、私の心境を察してください。
 私が死の宣告を受けたのはちょうど2週間前、クリスマスの日でしたね。あのときのことは昨日のように覚えています。いつかはこういう日がくると思っていても、いざ目の前にやってくると頭の中が真っ白になります。雪の降る幻想的な街で私は残酷なクリスマスプレゼントをもらいました。
 次の誕生日まで生きられない。つまりあと1ヶ月と少ししか生きられないということです。もうすでに2週間が過ぎてるので、私の命はあと1ヶ月ももたないでしょう。ひょっとしたらそのうち遺書を書くこともできなくなるかもしれない。そう思って私は今のうちに書いておくことにしました。
 あのクリスマスの日以来、私は生きている感じがしませんでした。
 一瞬で死ぬならきっと苦しむ間もなく楽になれるでしょう。あるいは自分の命日を知らなければ時間と共に怯えることもなかったかもしれません。でも私は約1ヶ月間、そのときが来るまで何もできずに過ごすしかありません。こんな人生にいったい何の意味があるのか、疑問を持つのにそれほど時間はかかりませんでした。
 死は誰にでもやってくるもの。私は人よりも少し早すぎただけのこと。そう割り切ればいいのかもしれませんが、私にはそんな風に考えることはできませんでした。
 私は耐えられませんでした。
 日に日に弱っていく自分の体が。恐怖で押しつぶされそうな心が。私のせいで周りに迷惑をかけていることが。
 だから私は手首を切って存在そのものを消し、この生き地獄を終わらせようと思いました。
 今日私は買い物に出かけました。目的のものはカッターナイフです。サビていたら切れ味も悪いだろうと思い、新品のものを買いにいきました。
 その帰り道です。私は遊歩道を歩いていると、突然雪のかたまりが落ちてきて、その場に転びました。
 しばらくその場で呆然としていると、変な男の子と女の子が言い合いをしていました。年は私より一つ上だそうです。
 どうやら女の子が木にぶつかって雪が落ちてきたようです。
 その2人のやり取りは、テレビでよく見る漫才のようでした。これから死のうとしていた私は観客になって笑うことはできませんでしたが。
 二人は楽しそうに話していました。兄妹のように、恋人のように、ドラマに出てくる幼なじみのように。私はそんな二人が羨ましかったです。私にもあんな人がいればって思いました。
 家に帰った後、私は夜になるのを待ってました。その間に色々なことを思い出しました。こういうのを走馬灯って言うんでしょうか。
 走馬灯って昔のことばかり思い出すのかと思ってましたが、つい最近のことが浮かんでくることもあるんですね。初めて知りました。
 思い出すのは、今日出会った男の子と女の子です。
 頭の中には昼間の出来事が鮮明に浮かんできます。テレビの再放送のように。生放送のときは気づかなかったけど面白い映像です。私は笑いました。おかしくて涙が出るほど笑って、そのうち私は悲しくて泣いてることに気づきました。
 このまま死ぬのは嫌です。終わるならせめて幸せに、ハッピーエンドで終わりたいです。そう考えると、さっきまで私は手首を切って死のうと思いましたが、切れませんでした。死にたくないという気持ちがとめどなくあふれてきて……。
 ドラマのヒロインだったらこんなとき、自殺を思いとどまるんだろうな、って思いました。だから私は残された時間を精一杯生きようと思います。わかってます。現実とドラマは違うんだってことぐらい。でも私は最期まで夢を見ながら生きようと思います。それが私らしいということだと思いますから。もしその間に生きててよかったと思えたら、それはあの二人のおかげです。そのときは私はお礼を言いたくても言えないでしょうから、お父さんとお母さんにお願いです。この手紙を、あのときの二人に渡してください。そして栞が感謝してたと言ってください。二人のうち、女の子は羽つきリュックと赤いカチューシャをしてました。どこかで会ったら手紙を渡してください。願わくば私自身の手で、この手紙を笑って渡せる日が来てほしいと思います。
 それから、今この場でお礼を言える人には言っておきます。
 お父さん、お母さん、こんな私を今まで育ててくれてありがとうございました。

 追伸
 男の子は私と同じ学校に通っていて、アイザワユウイチという名前だそうです。


 俺は読みながらあのとき、栞に会ったときのことを思い出していた。
 数ヶ月前、日常のほんの一コマだったが、思い出すと鮮明に浮かんでくる。
 あのときの栞の怯えたような表情、あれはこれから死のうとしてたからか。
 それにしてもこの手紙には……。
「相沢君、あゆちゃん、どう思う?」
「どう思うって……」
「あたしの名前はどこにも書いてないわ。それどころか存在すら。遺書にすら書いてないなんてあまりにも寂しいわよ。あたしの方から栞の存在を否定したんだから自業自得だけど」
 香里は自嘲気味に吐き捨てるように言った。
 そこにはさっきまでの無表情さはなかった。
 香里のセリフ、口調、顔には、自分への嫌悪感が満ちていた。
 泣いてはいない。ただ自分に対して薄笑いを浮かべていた。
「この遺書を読んだとき、あたしは自分のやってきたことを思い出して泣けてきたわよ。人から拒絶されるとこんな気持ちになるのね。初めて知ったわ」
 俺も遺書の中に香里の名前がないのには違和感を感じていた。
 それに両親のことは書いてあるのに、姉のことは書いていない。
 確かにぐっとくる内容だとは思う。俺も読んでて涙が出そうになった。
 でも感動できる内容であればあるほど、香里にとっては残酷な手紙になるだろう。自分は栞にとって蚊帳の外の存在なのだから。
 遺書を持っている俺の右手の親指に水滴が落ちてきた。
 雨でも降ってきたか? と思いきや、隣りにいるあゆの涙だった。
「栞ちゃん、こんなことがあったなんて」
「あゆ……」
「ボク、何もできなかったよ。栞ちゃんがこんなに苦しんでたなんて……知らなくて……もし、知ってたら……」
 あゆはしゃくりあげて泣いていた。
 知ってたらどうだというのだろう。
 残り一つの奇跡を栞のために使ったというのだろうか。もしそうしたとしたら果たしてあゆは助かっただろうか。
 俺はたとえ知っていたとしても何もできなかったと思う。
 あのときはあゆのことで精一杯だったし。
 そう思うと、俺はあゆのように後悔することはできなかった。そしてそんな自分が嫌になった。
「あゆちゃん、栞はあなたのおかげで自殺を思いとどまったって言ってるわ。あたしも感謝してる。だから泣かないで」
「う……ぐっ……」
 あゆは俺と初めて会ったときのように泣いていた。
 あのときは母親を亡くして泣いてたんだな。
 あゆにも肉親を亡くした香里の気持ちはわかるのだろう。
「相沢君、昨日あたしが言ったこと覚えてる?」
 泣いているあゆの隣りで香里は慰めながら訊いてきた。
「色々あってわからないな。どれのことだよ」
「奇跡を起こした相沢君たちを羨ましいって言ったでしょ」
 言ってたなそういえば。
 その後俺は、奇跡は誰にでも起こるって言った。
 今となっては軽薄で安っぽい言葉に思えてくる。
 あゆは奇跡が起きて助かったけど、俺が香里の立場なら同じことを言えただろうか。
「あたしにそんなことを言う資格はないのよ。あたしは結局目の前の現実から、栞から逃げたの。もしあたしにあなたたちみたいな強さが欠片でもあれば……って今でも思う」
 違う。俺だってそんなに強くはない。俺だって七年前に、現実から逃げ出したんだ。
 俺と香里の違いはただ大切な人を失わずに済んだかどうか、それだけだ。
 でも俺はそれを言葉にはしなかった。そんなことをしても意味はないから。
 香里が今後栞から逃げ出さないと言うなら、俺が余計なことを言うべきではない。
「香里、栞は何て言ってた? 生きててよかったって言ってたか?」
「……言ってたわよ。栞が死ぬ前にこの耳ではっきり訊いたわ」
「そうか、それは何よりだ」
 それを聞いて俺は胸のつかえが取れた気がした。
 俺とあゆに出会ったことで、栞がそう思えたのなら満足だ。
「あたしも栞に感謝されたかったわ。全部あたしが悪いんだけどね」
 香里は栞を無視したことをいまだに後悔している。当然か。
 でも香里、それは違うと思うぞ。
 栞が生きててよかったと思えたのはきっと香里のおかげだ。
 俺たちは直接的には何もしてない。栞が死ぬとき、香里がそこにいたから栞も幸せになれたんだろう。
 香里は栞を大切に思っていたに違いない。そうでなければここまで引きずるはずはない。
 香里の思いも少しは報われてほしい。俺はそう思っていた。
「香里さん」
 いつの間にか泣き止んでいたあゆはリュックの中から天使の人形を出した。
「これボクの大切なものなんだけど、お供えしてもいいかな」
「え、でもそれは相沢君が……いいの?」
「それはあゆにあげたんだ。あゆの好きにしてくれ」
「うん、ありがとう」
 ずっと入り口で立ち話をしていた俺たちは、墓地の中へ入っていった。

 栞の墓はよく手入れがされていた。
 花立には色とりどりの花が供えられている。
 あゆが供物台に天使の人形を供えると、俺たちは手を合わせて祈りをささげた。
 ふとそばにある物置台を見ると、木でできた小箱が置いてある。
 ここは手荷物を置くための場所だが、誰が置いたのだろうか。
 こんな箱を荷物として持ってきてるとは考えにくい。
 誰かが供えたのだろうか。でもなぜこんなところに?
 香里はしばらく箱を見ると、手に持ってふたを開けた。
 中には一枚の手紙が入っている。
 香里は手紙を広げ、俺とあゆも横から覗いた。


 お姉ちゃんへ

 もしお姉ちゃんが私のお墓からこの手紙を見つけたなら、私の存在を認めてくれたと思うことにします。
 少し勝手かもしれませんけど、そういうことにしておいてください。
 お姉ちゃんはきっと今自分を責めてるでしょう。
 刻々と死が近づいている私を見るのが耐えられなくて、それで私の存在を否定した。
 気持ちはわかります。少しだけ嬉しいです。私はお姉ちゃんにそんなにも思われてるんだって、自惚れのような気持ちにもなります。でもやっぱり寂しかったです。
 お姉ちゃんは優しい人だって、同じ屋根の下に住んでる私にはよくわかっています。
 子供の頃からお姉ちゃんは私のためにずっと我慢してきましたね。遊び盛りなのに私のせいで遠くには行けない。自分が病気なわけでもないのに病院に付き合わされる。いつも私は心配ばかりかけて、お父さんたちにはいつも「お姉ちゃんだから我慢しなさい」と言われる。それでも決して私を責めたりはしませんでした。
 だから私も、最後くらいはお姉ちゃんのために我慢しようと思います。
 私にお姉ちゃんはいません。私もそう思うことにします。だからさっきの遺書にはお姉ちゃんのことは書かないことにしました。その方がお姉ちゃんにとっても都合がいいでしょうから。
 でももしお姉ちゃんが私のお墓から目をそらさずにこの手紙を見つけてくれたら、私はきっと天国で喜びます。
 信じてます。いつかあの頃の、アイスクリームを買ってくれたり、雪だるまや雪合戦に付き合ってくれたり、絵のモデルになってくれたりしたお姉ちゃんに戻ってくれるって。時間はかかるかもしれないけど、いつまででも待ってます。
 もしお姉ちゃん以外の人がこの手紙を読んだら、どうか何も見なかったことにして手紙を元の場所へ戻してください。

 最後に、今までありがとう。大好きなお姉ちゃん。

 美坂栞


 俺たちは三人隣り合ったまま手紙を何度も読み返していた。その間、声を出す者はいなかった。
 香里を見ると、驚きと戸惑いがありありと顔に出ている。
 香里もこの手紙の存在を初めて知ったのだろう。
 栞の両親は気づいていただろう。栞が姉にこの手紙を残していたことは。
 こんな目立つ場所に置いてあったら誰でも気づく。
 香里が知らなかったということは、香里は今日まで墓参りには行かなかった。でも両親は知っていたはずだ。
 それでも香里がいつか自分から栞の墓参りに行くまで黙っていたのだ。
「栞……」
 香里は誰に言うでもなく呟いた。
 栞は決して香里を拒絶したわけではなかった。
 内容を見ると、さっきの遺書を書いた直後に香里への手紙を書いたようだ。
 どれくらい考えただろうか。自分の存在をなかったことにしようとしてる姉のために、どんなことを書けばいいか。
 栞の出した答えは、自分も香里に合わせて一人っ子を演じることだった。
 いつか自分の存在を認めて墓参りに来てくれたときに、そのときにはじめて自分の姉への思いを伝えればいい。
 結果的には香里を苦しめることになったが、栞なりに考えた思いやりだったのだろう。
 香里はただ黙っている。何をどうすればいいのか迷ってるように。
 俺はさっきの栞の写真を見せた。
「香里、この写真誰が撮ったんだ?」
「……あたしだけど」
「幸せそうに笑ってるぞ栞は」
「写真の中は顔が変わったりしないからでしょ」
「でもこの写真を撮ったときは間違いなく幸せだったんだろうな」
 香里は再び黙った。
 この写真を撮ったときのことを思い出してるのだろう。
 あれはいつだったか、栞は何と言ってたか、自分は栞にどう接していたか。
 栞は本当に幸せだったのか。
 香里は俺の手から写真を取ると、あゆが供えた天使の人形に、そっと立てかけた。
「相沢君、あゆちゃん、呼び出しておいて悪いけど、二人だけにしておいてくれる?」
「二人だけ?」
 俺が意味を測りかねていると、あゆは俺の腕をそっと引っ張った。
 ……そういうことか。
「普段はクールだから泣き顔は見せたくないわけだな」
「そんなんじゃないわよ」
 香里はじっと写真を見ながら抑揚を抑えて言った。
 言葉とは裏腹に顔は決して見せないようにしていた。
 俺とあゆはそっと墓地から出て行き、香里の言葉通り、栞と二人きりにした。




 俺たちは歩いて商店街に着いた。
 昨日行ったゲーセンが見える。
 もう一度クレーンゲームをやろうかとも思ったが、そんなに取ったらありがたみがなくなるだろう。
 天使は一体だけで充分だ。
「祐一君、ごめんね」
「どうした?」
「あの人形、大事にするって言ったのに……」
「何だ、後悔してるのか? 栞に供えたこと」
 あゆは首を横に振った。
「だったらいいだろ。俺もプレゼントした甲斐があったもんだ」
 うつむいていたあゆはパッと表情を綻ばせた。
 本当にコロコロと表情が変わるものだ。
 栞に供えた天使はこれからどうなるかわからないが、きっと香里を救ってくれるだろうと俺は信じていた。
 何たってあれはただの人形じゃない。俺たちの願いをかなえた天使だからな。
「たい焼き買っていくか」
「もう売ってないよ。家に帰ったらボクが作るから」
「それが嫌だから買っていきたいんだが」
「うぐぅ、今度は失敗しないもん」
 太陽の光が降り注ぐ中、俺はいつものようにあゆをからかいながら並んで歩いていた。
 栞はもう生き返らない。それはもう変わらない。でも生きている香里はきっといつか心の傷が癒されるだろう。
 栞だってあのとき自殺を思いとどまったから最期は姉のそばで死ぬことができたのだ。
 あの冬の日、あゆが最後の願いを告げたとき、俺にはあゆの笑顔がはっきり見えた。
 香里にも栞の笑顔が見えてるよな。
 写真に収められた変わることのない栞の笑顔が。
 そんなことを思いながら俺はさっきの墓地の方角を一瞥し、家路についた。
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