カノンが聴こえるその前に


1.


 男は地上にやって来た。
 何も無かった白い空間から解放されて。
 男は歩いていた。
 自分が逢いたい人がいると思われる場所へ。


 ──白い世界。
 これは『奇跡の力』なんだよ。何でも願いを叶えてくれるんだよ。
 自分の事の様に喜ぶ女の子。
 願い?
 うん、そう。キミの願い。


 男は地上にいる。
 男は見慣れた景色とそうでは無いそれに困惑しながら、記憶を辿ってそこに向かう。
 高鳴る鼓動。震える足。抑えようの無い興奮。


 ──逢いたいんでしょう?
 純粋な笑顔の女の子。
 うん。僕の──妻と娘に逢いたい。
 隠す事の出来無い男の想い。


 男は不安と期待の入り交じった気持ちで歩く。
 自分の気持ちの半分も前に進まない事にイライラしながら。


 ──この『奇跡の力』で逢わせてあげるよ。
 女の子は優しく微笑む。
 君は良いのかい? 僕にそれを使ったら君が困るんじゃないの?
 女の子は悪戯っぽい笑顔で言う。


 男は目的の場所に近い事をぼんやりした記憶から悟る。
「もうすぐの筈だ」
 たまらずに走り出した。


 ──えへへ。実は幾つか神様から貰っているんだよ。
 ……神様に内緒で取ったね?
 貰ったんだよぅ。


 見知った建物を通り過ぎる。
 あと少し、あと少しで──。
 息が上がる。それでも男は走り続けた。


 ──どうするの?
 男はとうに決まっていた。
 お願いします。僕にそれを使ってください。
 女の子の嬉しそうな顔。
 うんっ。きまりっ。


 そして男はついに辿り着いた。
 そこは男の記憶とは半分以上変わっていた。
 だが間違い無い。そこは男が望んで来た場所。


 ──君はどうするんだい?
 ボク?
 そう。
 ボクはねぇ、今は眠っているんだ。
 どうして?
 ……大きな木から落ちちゃったの。
 ……ぷ。
 あっ! 今キミ、笑ったね?
 う、ううんっ、そんな事ないよ。


 商店街。
 かつて男が妻と何度も通った所。
「今の時間なら、ここで見つかる筈だ」

 女の子は男に手を振る。
「いってらっしゃい」
「いってきます」


 男は捜し回る。
 男は焦り出した。ここにはいないのだろうか、と。
 だが男は否定する。──そんな筈はない。自分は生きているではないか。自分はこうやって歩いているではないか。

 そして──。
 ついにその人を見つけた。


2.


 体が動かなかった。

 目の前にいるのに、あれだけ逢いたかった人なのに動くことが出来無い。
 相手もそうだった。目を大きくしたままでいる。
 それは時間が止まったかの様な風景だった。──二人以外は日常の世界の中で活動しているが。
 相手もいる筈の無い男を見て呆然としている。あ、と小さな声が漏らしたが、体は動かなかった。

 雪解けは数分後だった。二人にしてみれば何時間後と感じたかもしれない。
「──やあ」
 男は漸く言葉を出せた。
「──ええ」
 相手も目の前にいる男が幻想の産物でない事を知ると、緊張気味ではあるが返事が出来るようになった。
 男は僅かな勇気を総動員して相手に話し掛ける。
「お茶でも──どう?」
 その言葉に相手はいつもの笑顔が戻る。
「──こんなおばさんを捕まえてナンパですか?」
「うん。一目惚れ──この場合は二目惚れかな」
 冗談を言うが、明らかに上滑りしている。
「ええ、いいですよ──泰治(たいじ)さん」
「お茶でも飲もうよ──秋子。」
 泰治は冷静を装いそう言う。
「行きましょうか」
「うん」
 二人は覚束ない足取りで喫茶店に向かった。

 ──外の喧噪とは別世界の喫茶店。
 二人は店の奥側の席に座るとコーヒーを頼んだ。
 向かい会う二人。話したい事など幾らでもあった。だがそれが口に出ない。出てしまえば始まりそうな会話も中々始められない。もどかしく苦しい時間。
 いつまでも見つめ合うばかりでは先に進まない。泰治はそう思い無理をして声を絞った。
「──元気?」
「はい」
「すまないね」
「いいえ」
 会話だけが先に進む。泰治は自分の不甲斐無さに苦笑した。そしてそれを見た秋子もつられるように笑った。
「初めて会った時みたいね」
「そうだね。緊張でガチガチだったよ」
 二人の笑顔。それは泣き出しそうな弱い笑顔だった。
「お待たせしました」
 ウエイトレスがコーヒーを運んで来た。カチャカチャと音を立てて置かれるコーヒーカップ。
 二人にはそれらをテーブルに置く音がとても大きく感じる。だがそのシーンを見続けたおかげで少しだけ冷静になる事が出来た。

「秋子」
「はい」
「久しぶり」
「本当にそうね」
 秋子は下を向いて答える。泰治には秋子の顔は見えないが想像は出来る。怒っているか、泣いているか。
 泰治はそれを確かめる。
「ねえ」
「はい」
「その……怒っている?」
「ええ。怒っています」
 当たり前ですとばかりに顔を上げる秋子。泰治の予想は外れその表情は──笑顔だった。
「そうかあ」
「そうです」
 秋子は取り乱さぬよう、慎重に言う。
「あなたがいなくなって──十七年よ」
「えっ! そうなの?」
 驚く泰治。
「そうよ。でもあなたはあの時のままのあなたなのね」
 泰治は喫茶店の窓に自分の顔を映す。
「……若くて良いんじゃないかな」
 困惑する泰治。
「でも、君だってあの時と変らないよ。──綺麗だ」
 泰治は話を逸らす様に言う。
「あら、ありがとう。でももうオバサンよ」
「……君がそんな事を言ったら全国のオバサン達が怒り出すよ」
「何よそれ」
 二人は笑った。それはまだ不自然でぎこちない笑いではるが、少しずつ夫婦の雰囲気を取り戻しているのを感じられる笑いだった。

 男はコーヒーを飲む。秋子もそれに習う。
「ああ、うまい」
「久々に飲むような言い方ね」
「ああ。まあ、久々だから」
 男の曖昧な返事に秋子は、そうなの、と短く返した。
「ねえ」
 秋子は意を決して話す。
「ああ」
「あの子──名雪に会いましたか?」
 秋子の瞳が少しだけ緩んだ。そして目を男から逸らした。
「なゆきに──」
「あなた」
「うん?」
 秋子はカバンからメモ帳を取り出し、ボールペンで『名雪』と書いた。
「──名雪か」
「はい。名雪と書きます」
「──まだ、逢っていないんだ」
「そうですか」
 秋子は頬に手を当てる。その仕草を泰治は目を細めて見ていた。
「君のその姿をまた見られるなんて思わなかった」
「あなた……」
「嬉しいよ」
 泰治の言葉に嗚咽が込み上げるのを我慢して秋子は、
「これからは何時でも見られますよ」
 とはぐらかした。
「そうだね」
 泰治はそう言ってまたコーヒーを飲んだ。

「もう十七になるのですよ。あの子も」
「そうなんだ」
 泰治は複雑そうな顔で秋子を見る。秋子はその泰治に優しい視線を送る。
「名雪はね」
 秋子は少しだけの沈黙の後、口を開いた。
「今度、陸上部の部長さんになるそうですよ」
「高校生だよね?」
「そうよ」
「陸上部かあ」
 泰治は悪戯っぽい視線を秋子に投げかける。
「僕の娘だね?」
「失礼な言い方ね」
「ごめん。だけどさ、君は運動ダメだっただろ?」
「……否定はしませんよ」
 困ったような秋子の顔。泰治は秋子の頬に手を当てる姿を見てやはりあの頃と変わらないな、と思った。
「ですから、あなたの娘は元気ですよ」
「ありがとう。君のおかげだよ」
 まだまだ二人の想いの一片にもならない会話。どんなに喜ばしい事も現実を受け容れるには時間が掛かるらしい。
「あなた」
「……なんだい?」
 秋子の真剣な眼差し。泰治はその想いに真摯に向かい合う。
「家に帰りませんか?」
「家?」
「ええ。わたし達の家です」
 泰治の頭に二人で買った家の姿が浮かぶ。
「名雪もいるの?」
「勿論です」
「それは魅力的だね」
「ええ。それに広いですから、あなた一人増えても問題ありません」
 秋子は飲みたくもないコーヒーに目をやる。──そういう言い方しか出来なかった自分への後悔を篭めた視線。
 泰治は、秋子の想いを庇うように陽気を装う。
「それにしても、あれは奮発しすぎたよねえ」
「ええ。そうね」
「──その、返済とか……大変?」
「……企業秘密です」
 秋子の少し困った顔。泰治は済まなそうに秋子を見る。
「ごめんね」
「なんて返事すれば良いか分からないわ」
 秋子は苦笑する。そして、その話題を断ち切るように続けた。
「今は車だってあるのよ」
「……名雪のだよね?」
 泰治も秋子の想いを受け、わざとおどけてみせる。
「わたしのですよ」
「君は車のコレクターなのかい?」
「いいえ」
「じゃ、整備士か何かの仕事をしているの?」
 秋子は笑う。
「いいえ。運転していますよ。そんなにボケなくても良いです」
 男も大げさに笑う。
「この国は平和になったんだねえ」
 核心を逸らしながらの会話。もどかしかった。泰治も秋子もそんな会話を望んではいない。
「ねえ秋子」
「はい」
「──帰っても良いかな?」
 遠慮がち言う。泰治は返事など分かっている筈なのについそう言ってしまった。それは泰治の秋子と名雪への、埋める事の出来無い長い年月への罪悪感だった。
「了承です」
 聞きたかった直裁的な科白が出ると、泰治は秋子の頬に当てている方の手を握る。
「ただいま。秋子」
「──お帰りなさい。あなた」
 それは長い時間を隔てた邂逅だった。だが二度と無い筈の不自然な再会でもあり、非可逆的な現象でもあった。それでも今の二人には何よりも望んでいた瞬間であった。
 笑顔で泰治は秋子を見つめる。
「ね、秋子」
「はい」
「僕はその──お金、持ってないんだ」
 真剣な泰治の顔に秋子は呆れた様で、それでいて懐かしそうな表情をする。
「あいかわらず、しまらない人ねえ」
 秋子が会計を済ませ二人は店を出た。



「どうしようか」
 喫茶店を出た二人は、買い物をしながら泰治が秋子の家に来る理由を相談をしていた。
「遠い親戚で、就職活動の為に来た。──というのは?」
「そうね。実際そうなるかもしれないですし」
「なんか無職ってのが嫌だなあ」
「事実でしょ?」
「……まあね」
 泰治はそう言いながらブランデーを買い物カゴにそっと入れる。
「名雪、驚くでしょうね」
「ああ。女2人の家に男が泊まり込むのだからね」
 泰治はそう言いながら、スルメイカを買い物カゴにそっと入れる。
「あなた」
「何?」
「家で宴会でもする気?」
「──ダメ?」
「名雪が驚きますよ」
「……大人しくします」
 秋子は笑う。
「ねえ、あなた」
「うん」
「さっきの話でいきましょうか。名前もそのままで。難しい嘘をつける程わたし達は器用ではありませんから」
「でも僕の名前を名雪は──」
 言い淀む。泰治には秋子の表情で分かった。──言っていないんですよ、という秋子の顔。
「……わかった、そうしよう」
「ええ。お願いします」
「こちらこそ」
 泰治はそう言いながら、サラミとスナック菓子を買い物カゴにそっと入れた。
「子供みたいな入れ方をしないでよ」
 泰治はそう言う秋子の困った様な笑顔が好きだった。
「その笑顔が見たかったんだ」
「では、これはいらないのね?」
 ブランデーをカゴから出そうとする。
「あ、すいません。欲しいです」
 泰治は秋子の手を取りカゴにブランデーを入れ直す。
「わたしもあなたのその困った様な笑顔が見たかったの」
「意地悪だねえ」
「あなたもよ」
 漸く二人は純粋な笑顔を見せ合った。それはこの夫婦に一番似合う笑顔だった。



「おかえり──わっ」
 名雪は扉の向こうにいる二人に驚いた。それは彼女の記憶では一人の例外を除けば初めての事だった。──男が秋子と一緒なのは。
「こんにちは」
 泰治も驚いている。当然ながら名雪にはその驚きの正体は分からない。
「名雪」
 秋子は少しだけ困った様な笑顔を名雪に向ける。
「こちらは遠縁にあたる人で、水瀬泰治さん」
 同姓であることは父親側の遠縁である。名雪にもそれ位の事は分かったがそれには触れなかった。まだ驚いている為でもあるが。
「泰治さん。これがわたしの娘の名雪です。名雪、ご挨拶しなさい」
 秋子が上手に名雪を促す。
「あ──うん。えっと、初めまして。水瀬名雪です」
 ペコリと頭を下げる。名雪のお辞儀と同時に秋子は泰治の足を軽く踏む。──そのしまらない顔をなんとかしなさい、と。
 泰治はわざとらしく咳払いをして自分の課せられた役になる。
「初めまして。水瀬泰治と言います。実はこっちの方で就職しようと思っていたら、親がその事を秋子さんに言ってしまって──」
 そうなの? と秋子を見る名雪。秋子は黙って頷く。泰治は露骨に訝しがる名雪の顔に怯むが続けた。
「秋子さんが僕に部屋を提供してくれたんです。それで暫く厄介になる事になりました」
「そうなんですか──」
 年頃の女の子なら誰でも感じる当たり前の不安。「親戚」とはいえ女二人の家に見知らぬ男が来たのだから。
「名雪。大丈夫よ」
 全くフォローになっていない秋子の言葉に苦笑する泰治。
「この人はとても良い人ですから」
 三流訪問販売員でも口にしない安直な言葉を平気で言う秋子。
「そうなの?」
 不安から戸惑いに緩和されたその表情に更に苦笑する泰治。──名雪、それは流石に信じすぎだよ、と言いたげに。
「ええ。お母さんも二回位しかお会いしたこと無いのですけど」
 矛盾めいた発言。──ねえ、秋子。僕達駄目すぎないか? 視線を送る泰治。だが秋子はこれで押し通すつもりだった。
「そうですか、あ、えっと泰治さん?」
「はい」
「お入り下さい。ね? お母さん」
 親の二人は顔を見合わせてる。最早、誰が親で誰が子なのか分からないその風景に笑ってしまった。
「わわっ。わたし、おかしな事言ったかな?」
 心配そうに秋子を見る。
「いいえ。さあ泰治さん。お入り下さい」
「……お邪魔します」
 泰治はそう言って中に入った。そして秋子にも聞こえない小さな声で呟いた。──ただいま、と。


3.


「え〜辛いよ〜」
「え〜甘いよ〜」
 秋子はその声を聞きながら料理をしていた。聞く者にはその会話は親子のそれと感じるが、勿論その正体を明かす事は出来ない。今の二人は暗黙で作り上げられた常識と親としての想いに従うしか無かった。
「麻婆豆腐に山椒なんて入れないよ〜」
 すっかり打ち解けた名雪の声。泰治の気さくな人柄と冗談に名雪は心を許していた。何よりも名雪自身には不思議であったが、泰治の雰囲気に安らぎを感じていたのだ。当然、彼女には理解できる筈のない雰囲気である。
「山椒と豆板醤をバリバリ入れるのが麻婆豆腐だよ」
「そんなの辛くて食べられないよ」
 名雪は困ったような嬉しいような表情で泰治と話す。秋子はその風景に胸を苦しめられながらも喜んだ。
「名雪ちゃんの家では麻婆豆腐は辛くないの?」
 泰治の質問に名雪は確信を持った笑顔で言う。
「辛くないよ。ね? お母さん」
 名雪は自身の絶対基軸である秋子を見る。秋子はそれが分かっているので正直に言う。
「ええ。そうなんですよ」
「え〜」
 泰治は手で顔を覆い、大げさに残念そうな声を上げる。
「ね? それに麻婆豆腐に山椒は入れないんだよ」
 勝ち誇った名雪の顔。泰治はそれを指の隙間から眺めていた。──そうしないと見る事の出来ない娘を顔を。
 そんな二人のじゃれ合いを見ながら、秋子は2つの器を手にしてテーブルに置く。
「──さあ出来ましたよ。名雪、それに泰治さん。仲良くしましょうね」
「え〜」
 ──名雪には真っ赤な山椒がたっぷりの麻婆豆腐。泰治には子供向けのそれが目の前に置かれる。
「さあ、食べましょう」
 悪戯っぽい秋子の笑顔を、二人は苦そうな顔で見合わせていた。
 秋子は目を閉じ、いただきます、と言おうとする。だが気配に気づいて目を開ける。
「あ、ダメですよ」
 秋子はそれらをそっと取り替えようとしている二人を軽く叱る。
「え〜」
 三人での夕食は至福の時だった。そしてこの瞬間が名雪にとって初めての家族の夕食だった。同時に存在する筈の無い幻の幸せでもあった。

「宿題があるから部屋に戻るね」
 皿洗いを手伝い終わった名雪は、そう言って自室に向かう。
「──ふう」
 泰治はそれを眺めた後、食器棚からブランデーを取り出す。──秋子がそれを複雑な顔で見る。
「あいかわらずねえ」
 その所作に秋子は呆れた様な声を出す。
「酒を飲む楽しみの半分はこっそり飲む事なんだよ」
「だからって、そんな所に隠して飲む必要も無いでしょうに」
 泰治はそれには答えず、出されていたコーヒーに遠慮無くブランデーを入れる。
「君の前で飲んでよく怒られたよね」
「ええ。未成年の前で堂々と飲酒するのですから」
「僕はもう成人だったよ」
「酔った人には襲われたくありませんでしたからね」
 秋子はすました顔でそう言いながらブランデーを入れる。
「僕も酔った君には襲われたくないよ」
 泰治はそう言いながら秋子を見る。
「ねえ──」
 泰治は秋子を見る。
「後で部屋に……」
「──名雪が寝たらね」
「……何時位かな?」
「十時」
「早いねえ」
「あなたと同じでどれだけ寝ても寝起きが悪くて困るわ」
 内容とは裏腹な表情で泰治を見る。
「待っているわ」
「ちょっと夫婦の会話っぽく無いね」
 ええ、と頷きながら、秋子はコーヒーを持って席を立つ。泰治も立ち上がろうとする。
「あなたはここで飲んで行ってね」
 そう言って秋子は自室に戻った。
「……こっそりは良いけど、ひっそりはねえ」
 ボヤきながら、コーヒー入りブランデーと化したそれを飲んだ。

 ──コンコン。
 初めての逢瀬のように緊張した二人が部屋の扉を挟んで立っている。
「……どうぞ」
 泰治はドアを開ける。そして、その瞬間が二人が長い間待ち望んでいたもの──夫婦の絆の時間だった。

 ──日付が変わって二時間後。
 ベットに腰掛ける秋子とその膝にうずくまる様に潜り込む泰治。
「──秋子」
 泰治は秋子のお腹に鼻を当てた姿勢のまま声を出す。
「なあに」
 艶やかな声が返る。
「名雪、綺麗だったねえ。嬉しかったよ」
「わたしに嫉妬させるつもり?」
 優しく泰治の頭を撫でる。
「名雪は君にそっくりで、素直で、綺麗で。もう本当に嬉しかったよ」
 泰治は顔の向きを変え秋子の顔を下から覗く。その顔は母親ではなく妻でもない只の女の顔。
「君のそんな顔を見られるとはね。男冥利に尽きるよ」
 自分でも歯の浮く科白を吐く。だが秋子は平然とそれを受け止める。
「わたしはあなたの妻でもあり、女のなのよ」
 泰治は視線を逸らす。その誘惑に負けないように。
「君達に逢えて嬉しいよ」
「そう言ってくれるのは嬉しいわ」
 秋子は両手で泰治の頭を抱き自分に引き寄せる。二人は普通の夫婦であれば何度でも行う事を、二度と無い貴重な瞬間に対峙する様に大事に触れ合った。


4.


「お母さん。おはよう」
 名雪は眠そうな顔を隠す事無くテーブルにつく。
 それはいつもの光景。──だがその後に今まで無かった声が聞こえる。
「おはようございます」
 秋子はそんな声に返事をする。
「おはようございます。──泰治さん」
 笑顔を抑える秋子。昨日までの秋子は、抑えるという事は悲しい事だけだと思っていた。だが今はそれだけでは無いのだと実感する。
「名雪ちゃんおはよう」
「おはよう。泰治さん」
 眠そうな笑顔の二人。秋子は幸せすぎてその光景から目を逸らす。──こんな日が来ることなんて考えた事すら無かったから。
「さあさあ。朝ご飯ですよ」
 秋子は、二人に目玉焼きを出す。
「いいね〜目玉焼き最高!」
 ご機嫌の泰治。それを不思議そうに眺める名雪。
「泰治さん?」
 名雪の顔を見て泰治は笑う。
「……喜びすぎ?」
 名雪は恥ずかしそうな泰治を見て笑う。
「ううん。面白いから良いよ」
 面白いか、と照れながら泰治は笑う。そんな二人の会話を遮るように秋子は言った。
「食べましょうね」
「いただきまーす」
 家族の朝食が始まった。昨日の夕食同様に偽りの風景かもしれないが、三人の笑顔は真実であった。

「いってきます」
 休日だが、名雪は部活の打合わせの為に登校する日だった。
 秋子は玄関まで名雪を見送る。泰治はその二人の後ろ姿を眺めていた。
「気をつけてね」
 秋子はそう言うと名雪は、うん、いってきます、と繰り返し言った。
 名雪が外に出ると、秋子はドアを閉めて振り向く。
「あなたも一緒に見送ってあげれば良いのに」
 少しだけ非難めいた視線を向けて言う。泰治は苦笑しながら秋子に答える。
「君たちの後ろ姿を──今までの姿を見ていたんだ」
 秋子はその言い方に違和感を感じたが、敢えてそれから自分の気持ちを逸らした。
「こんな事、これから沢山見られるのに。変な人ねえ」
「そうかもね」
 泰治はそう言いながら秋子の手を取る。
「さて、これからは大人の時間だ」
 秋子は少しだけ哀しそうな表情を見せる。こういう時の泰治の冗談を装うその言葉は──本当に冗談なのだ。
「そんな顔しないでよ」
「だって」
 泰治は拗ねる秋子を見て笑う。秋子は面白く無さそうな顔をしてしがみつく。
「今日はどうするの?」
 秋子は貴重な時を失いたくなかった。それは泰治とて同じ想いであった。だから泰治は秋子に頼んだ。
「──行きたい所がある。買い物も兼ねてドライブしないか?」
 秋子に異存は無い。泰治と一緒に居られるならどこでも良い。
「良い覚悟ね。そのまま二人で天国に行くかもしれないわよ?」
 秋子らしからぬ言い様に泰治は、
「名雪を残してはダメだよ」
 とやんわりと窘める。そして、そうね、と寂しげに言う秋子の頬を撫でた。
「いいかな?」
「了承です」
 二人は出掛ける用意を始めた。



「古くはなったけど、変わらないね」
 ビルを見上げる。二人は家から車で一時間の所に来ていた。
「ええ。あの時のままね。──会社自体はもう引っ越したのですけど」
 ──泰治の勤めていた会社。そこが彼が望んで来た場所だった。
「懐かしいよ」
 そのままの表情で泰治は秋子に言った。
「でもさあ、あの時は本当に驚いたよ」
 泰治はそう言いながら今でも驚いている様な顔をした。その言葉に秋子は赤面する。
「意地悪ねえ。昔の話でしょう」
「そうだけどねえ。あれは本当にビックリしたよ」
「わたしだって一生懸命だったのよ」
 言い訳をする秋子に泰治は笑う。
「君が一生懸命だったから尚更さ。──会社に制服姿でお弁当を持って来たんだから」
 ビルを見上げながら、二人はその日の事を思い出していた。


 すいませーん。水瀬泰治さんはいますか?
 ええ。お嬢さんは?
 はい。あの、えーと、恋人?

 どよめく社内。
 男子社員は群がるように秋子に寄る。
 水瀬に何か脅迫されているの?
 いいえ。どうしてですか?
 だって──なあ。
 男は周りに同意を求める。妙な団結力を発揮して同時に頷く社員達。そんな光景を秋子は頬に手を当て首をかしげて見ている。

 ──誰が脅迫したって?
 おお! この犯罪者め!
 上司らしき人が苦笑して言う。

 本当にお前の彼女なのか?
 ──ええ。違いますって言ったら、彼女泣きますよ。
 それはそうです。はい、お弁当を持って来ました。
 ありがとう。今度から事前に来るのを教えてくれると助かるよ。
 はい。でも今度から忘れて行かないで貰えると助かります。


「恥ずかしい」
 悶絶する泰治。秋子も顔が真っ赤だった。
「でもあの時は、皆が色々と良くしてくれたよなあ」
「はい。皆さんわたし達を応援してくれました」
「気を利かせてくれて仕事が減ったのは助かったよ」
「それだけ?」
「──女子社員にすっかりモテなくなった」
「初めて聞きましたよ」
「あ、ごめん。多分記憶違い」
「目が泳いでいるわよ」
「……制服姿の君は可愛かったよ」
「その言葉は言い訳でも嬉しいわ」
 二人はもう一度ビルを見上げる。
「……本当にこの会社と会社の人達にお世話になったよ」
「ええ。一人で名雪を産む時には、皆さん大勢で助けてくれました」
「そうなんだ。本当に良い人に囲まれていたんだなあ」
「そうね」
「……ねえ、秋子」
「はい」
 泰治は秋子を見る。
「ここに来て良かったよ」
「そうですね。わたしもです」
「今は死んだ事への後悔より、生きていた事への感謝で一杯だよ」
「そうですか」
 二人は暫くビルを見つめる。
 やがて泰治はコートを脱いだ。秋子も泰治の想いに沿う様に同じ事をする。
「皆さん。ありがとうございました」
 泰治はビルに向かって深々と頭を下げた。それは彼の感謝とお詫びを篭めた最上の礼であった。
「わたし達は幸せでした」
 秋子も深々と頭を下げる。そして嗚咽が込み上げている夫にそっとコートを掛けてあげた。
「ううっ……」
 涙が地面に落ちる。二人は行き交う人々の視線を感じながらもこの神聖な儀式を続けていた。
「わたし達は幸せでした」
 秋子はその言葉をもう一度繰り返した。そして自ら発したその言葉に、この後の真実を見てしまった。



 二人は会社のあったビルを離れ、大きなスーパーで買い物をしていた。
 泰治は困ったような顔で秋子の勧める服を買い、秋子は嬉々として泰治の勧めるままに服を買った。
 泰治は泣きそうな顔で下着売り場に連れて行かた。秋子はそれを面白がり名雪の話までして更に泰治を困らせた。
 久方の夫婦の買い物に二人は困惑と満足の表情を浮かべていた。──表情の基底に罪悪感を潜んでいる事を隠しながら。
「いや、もうダメです。秋子さん、勘弁してください」
 両手を上げて降参の意志を示す。秋子は笑顔でお茶にしましょう、と言った。

「冬なのに、そんな赤々とした苺があるんだねえ」
 秋子のショートケーキを見て驚く泰治。
 その言葉に最初は目を丸くしていた秋子だったが、泰治の驚きを理解すると少しだけ寂しそうに教えた。
「今は温度調節されたビニールハウスで栽培しているから、一年中食べられるのよ」
「そうなんだ。すごいねえ」
 驚いて見せる泰治だが、正直な感想を述べた。
「確かに凄いけど、何て言うか、こう、不自然な感じだね」
 秋子は持っていたフォークを皿に置き、
「でもあなたにそう言われるまで、わたしは今ではもう当たり前の事だと思っていたわ」
 と言った。泰治はその言葉に潜むものを察知して苦笑する。
「当たり前、か」
「ええ。そうですよ」
 その言葉を最後に二人は喫茶店を出た。



「帰りましょうか」
 二人は車に乗り込む。秋子は車のキーを取り出しエンジンを掛ける。
 発車する前にガラスに水滴が落ちてくる。
「雨が降って来たね」
「ええ。そのようね」
 泰治は何か言いたそうだが、秋子は見ぬ振りをしてアクセルを踏んだ。
 どれほど走ったのだろう。道が分からない泰治はそんな事を考えながら、窓の向こうに流れる景色をぼんやりと見ていた。
 秋子は無言で運転をしていた。運転に集中している訳では無いが、泰治に話し掛けようとはしない。
 泰治は景色が止まっても気にせずに外を眺めている。信号で止まっているのだろうと思っていたが、一向に変わらない景色に違和感を覚え秋子の方を見る。
 車は止まっていたので無く、秋子が道路の端に車を止めたのだ。
 秋子はハザードのボタンを押す。カチカチという規則的なリレーの音が車内に響く。ワイパーを止めるとそれに雨も加わった音になって車内を支配する。
 泰治は自分の座っている助手席側の窓を見る。窓は雨に濡れて徐々に不透明になる。
「あなた」
 秋子はシートベルトのロックを外す。そして泰治のロックも外す。スルスルとシートベルトの擦れる音がする。
「あなた」
 秋子は泰治に抱きつく。泰治はそれを受け止めながらも、
「……外から見えるよ」
 と逸らそうとする。だが秋子もすっかり雨に濡れた窓を見て、
「大丈夫ですよ」
 と夫を逃がさない。
「秋子──」
 秋子は泰治の言葉を遮る。
「分かってしまったの。あなた──還るつもりでしょ?」
 秋子の真剣な表情を見ても泰治は話を逸らす。
「そんなに眉を顰めてると折角の美人が台無しだよ」
「あなた」
 秋子は泰治の首筋に唇を当てそのまま耳元まで這うように動かす。耳元まで来ると唇を離し言葉で泰治の心を突き刺した。
「──わたしと名雪をまた置いていく気なのね」
 秋子は分かっていた。ここまで言ってもこの人は──
「ごめんね。そうだよ」
 と言う事を。
「秋子」
 今度は泰治の方から秋子を抱きしめる。
「ごねんね。やっぱり不自然だったよ」
「あなた……」
「ねえ、秋子」
「はい……」
 秋子は顔を上げ泰治を見る。
「不自然な事はどこまでも不自然なんだ。決して良い事では無いんだよ。それを自然に見せかけても何時か何処かでボロが出るんだ」
「それでも良いじゃない。自然を装って何がいけないの?」
「それでは幸せにはなれないからだよ」
「あなた」
 秋子は泰治に詰め寄る。そして今まで見せた事の無い怒気を泰治にぶつけた。
「それならどうしてあなたはわたし達の所に来たのよ! どうしてこんな幸せを与えたのよ!」
「秋子……」
「だったら最初から現れなければ良かったのよ! 不自然なのはあなたの方よ!」
 秋子は悔しそうに泰治に言う。
「ねえ、あなた! 何とかおっしゃい!」
 泣きながら縋る秋子。それを悲しそうに見る泰治。
 ──不自然なのはあなたの方よ! それは誰よりも泰治が分かっていた。
「秋子」
「なによ」
 昂ぶりを抑える秋子。
「確かに不自然なのは僕の方だよ」
「そんな事、言いたくて言った訳じゃ無いわよ」
「うん。分かっているよ」
「分かってないわよ」
 秋子は夫の両袖を握りしめる。
「嬉しいに決まっているじゃない! どこの世界に夫が生き返って喜ばない妻がいるものですかっ」
「秋子──」
「だけど、こうでも言わないと、わたしの言う事聞いてくれないでしょ」
 泰治は秋子の想いを痛い程理解している。だから妻にではなく母親に語りかけた。
「──名雪がいる」
「あなた……」
「名雪がいる。名雪は僕達の宝だ」
「勿論ですよ」
「だったら分かって欲しい」
「──イヤ」
「秋子」
 さすがに困った顔を秋子に向ける。だが秋子も諦めない。
「三人で暮らしましょう。例えあなたが父親と名乗ろうと名乗るまいと、三人で暮らせる筈です」
「出来無い」
「どうして? そのまま幸せに暮らせるわよ」
 泰治もその誘惑と戦っている。だが彼は決意を分からせる為に夫である自分を捨て父親だけになりきった。
「秋子。どんなに幸せに見えようが、虚構の世界で名雪を育てたくない」
「あなた!」
「ダメだよ。君だって分かっている筈だ。親として子に願う事は一つしか無い事を」
「あなた!」
「いいね。今までの様に名雪を育てて欲しい」
「本当に酷い人ね」
「ごめんね。君と名雪で暮らして欲しい」
「あなた……」
「何度でも言うよ。不自然な事では絶対に幸せになれない。それに──」
 泰治は秋子を真っ直ぐ見る。
「君が頑張った十七年間を否定する事になるんだよ」
 秋子は観念した。そう言う泰治の瞳がどんなに悲しくどんなに辛いかを物語っていたから。
「……そんな事、幾らでも否定してよ」
「ダメだよ。ねえ秋子。君は本当に頑張ったよ。あんなに素直で素敵な名雪を育ててくれて」
「あなた」
「ありがとう……本当にありがとう。そして本当に、本当にごめんね。──名雪を頼むよ」
「……分かりました。安心してください」
 そして、二人は夫婦に戻る。
「君や名雪に逢えた事は何よりも嬉しかった」
「わたしもです。そしてあなたを愛しています。この想いは永遠です」
 そして二人は大声で泣いた。窓の外の雨の様に。

 泰治は思った。自分達夫婦には長い苦労と短い幸せしか無かった。
 だから神様は女の子を通して『奇跡の力』を与えてくれたのだろうと。
 だが今は、自分の愚かさを悔やんでいた。
 ──妻と娘に逢いたい。
 その願い以上に大事な想いに気がついたから。

「名雪を頼むよ」

 震える様に縋り合い泣く二人。車内にはその間断無い嗚咽と──メトロノームの様に規則的なハザードの音。
 その音は二人の心を落ち着かせる為に響いている様であった。


5.


 ──前の日。

 『なゆき』はどうだい?
 ……了承。
 うわっ、二秒で了承ですか? 考えて返事した?
 勿論ですよ。あなたが悩んで授けた名前ですもの。
 ──そう。
 そうですよ。良い名前です。
 ああ。君に似て綺麗な子になるさ。
 そうですね。
 うわっ、自信過剰だねえ。
 ええ。自信過剰です。
 あはははは……。
 うふふふふ……。

 ─────。
 ────。
 ───。

 ──その日。

 あなた。
 なんだい?
 お買い物を頼めますか?
 いいよ。お安いご用だよ。
 化粧品を切らしていて。
 心配しないで。君の化粧品の銘柄は五感で習得済みだから。
 ヘンな人ねえ。
 うんヘンな人。だからお腹の子もヘンな子だね。
 そんな事無いです。
 ──残念。
 馬鹿ねえ。
 そうだね。
 ……では、お願いしますね。
 うん。じゃあ行ってくるよ。すぐ帰って来るからね。

 ─────。
 ────。
 ───。
 ──。


「名雪ちゃん。鍋にキャベツは入れないよ!」
 泰治と名雪で夕飯の買い物。商店街のスーパーで泰治は目を丸くして驚嘆の声を上げる。
 先程食料品を買わなかったのは名雪に悟られない二人の配慮だった。しかし最早、誰の為の何の為のそれなのか当人達も確信が無い。
「え? そんな事無いと思うけど」
 周りの視線に恥ずかしそうに答える名雪。泰治も無駄な咳払いをする。
「ああ。ごめん。家には無かった事だから」
 泰治は驚く。時間がこんなにも食生活を変化させているとは思わなかった。そしてそんな事で時代を痛感した自分に苦笑した。
「でも泰治さんって面白いよね」
「……そうかい?」
「うん。だって、お母さんがあんなに楽しそうにしているだもん」
 名雪は手に取っていた鶏肉のパックを無意識にのうちに親指で押しつけていた。そして、羨ましさと悔しさと寂しさを同居させた表情を浮かべていた。
「そうなの?」
 とぼける泰治。
「うん。お母さんはいつも笑顔だけど──自分の嬉しい事で笑顔を見せる事ってあまり無いんだよ」
 名雪の目線がパックに向く。だがそれを見ている訳では無い事は泰治にも分かった。
 泰治は名雪のその手を優しく握る。
「ほら、そんなに押しつけてもお肉は美味しくはならないよ」
「わ、いけない」
 名雪は恥ずかしさを隠すようにそれを買い物カゴに放り込む。泰治も手を離す。離したくない暖かい手を離さねばならないのは辛かった。だからこれから起こる事は尚更なのだろうと泰治は悲しい確信を抱いた。



 買い物を済ませた帰り道。雨上がりの夕焼けの中を二人で歩く。
「でも、どうしてなんだろう」
「どうして?」
「うん。お母さんって、どうして何時も笑顔なんだろう」
 不思議そうに言う名雪。泰治は胸が痛くなるのを我慢する。
「お母さんって何時もどんな時も笑顔なんだよ。困った顔をする時もあるけど大抵は笑顔なの」
「そうか」
「うん。でも分からないよ」
「何をだい?」
 名雪は泰治を見る。夕焼けに映る名雪の顔は切なくそして美しかった。
「お母さんは何時も笑顔で何を考えているんだろう」
 無垢の顔。純粋に答えを求め、期待する顔。泰治はその顔に答える権利があるのだろうかと迷う。
「泰治さんはどう思います?」
 だが娘のその言葉と表情に目を背けられる父親など存在しない。だからその想いに応える。
「名雪ちゃん」
「はい……」
「その答えは一つしかないんだよ」
「一つ?」
「そう一つなんだよ」
 名雪は不思議そうに泰治を見る。そして、そんな事をまだ良くは知らない泰治に何故問い掛けたのか今更ながら疑問になる。
「……でもわたし、なんでこんな事を泰治さんに訊いたんだろう?」
 夕日のせいに出来ないほど赤くなった顔で俯く。泰治はその言葉に優しく言う。
「僕が良い男だからじゃないかな」
 名雪は驚いて言う。
「そうなんですか?」
「……それは流石に傷つくよ」
 苦笑する泰治に名雪はごめんなさいと謝り、話を変える。
「泰治さんはいつまで家にいる予定なの?」
 泰治は名雪の罪の無いその質問に、暫く夕日を眺めてから答えた。
「──もう少し──そうもう少しかな」
「……泰治さん」
「なんだい?」
「わたしは──泰治さんが家にずっと居ても良いと思っているよ」

 ──そろそろ終わりだ。泰治は悟った。

「ありがとう。何時までもとはいかないけど、でもあと少しだけお世話になるよ」
「うん。あとね──」
 娘の笑顔。それは秋子と泰治の絆の形。
「泰治さんはお母さんをどう思っているの?」
 泰治は引っ掛からない様に用意していた回答を口にする。
「名雪ちゃんの優しいお母さんだよ。僕にも、ね」
「……うん。そうだね」
 彼女なりの確信を得たようで、名雪は少しだけ歩きを早める。遅れていく泰治はその後ろ姿に小さく呟く。
「ねえ名雪。さっきの質問だけど、僕達が考えている事なんて本当に一つだけなんだよ」


6.


 夕食後から二時間程経過した頃、秋子の自室にノックの音がする。
 秋子は泰治へ向ける笑顔のまま扉を開けてしまった。だがその顔は一瞬で、驚きと怯んだ顔に変わった。
「──名雪?」
 秋子の動揺した顔と声に名雪は小さく呟く。
「いい……かな?」
 その言葉に秋子は、いつもの笑顔を取り戻して名雪を見る。──この子はもう何かを知っている。そう感じると秋子は冷静になってしまった。
「どうぞ、お入りなさい」
 秋子の言葉に名雪は小さく頷いて部屋に入った。

「泰治さんは?」
 名雪の言葉に秋子は直ぐに返答した。
「お風呂に入っているんじゃないかしら」
 そう言って心で中で自らを失笑する。どうして即答したのだろうか、と。
 名雪は秋子を見ている。名雪の瞳は不安と怯えを複雑に表していた。
「ねえ、お母さん」
「何?」
 名雪にベットへ腰を掛けるよう促した秋子は、今度はゆっくりと返事をした。名雪はベットに座ると秋子を見る。
「泰治さんは──」 
 名雪は秋子を見て驚いた。驚くかドキドキした顔をすると思っていた母の顔はそこには無かった。あるのは諦めた様な、それでいて清々しく美しい女の顔だった。
「──お母さんの彼氏さんなの?」
「彼氏?」
「……うん、違うのかな?」
 名雪の真面目な表情に秋子は困った笑顔を返す。そして自問する。──どう答えてあげるのがこの子にとって一番良い事なのだろう、と。
「あのね名雪」
「うん」
 秋子はずるいとは思いながらも様子見をする。
「どうして、そんな風に思ったの?」
 名雪は秋子の意図には気づかず、正直に答える。
「目玉焼き」
 秋子は納得した。──この子もやはり女だ。既に女の勘を持っているのだ、と。
「泰治さんの目玉焼きだけとても生っぽかった。だけど泰治さんはそれを喜んで食べていたから……」
 名雪は普段、秋子と食べている固めに焼いたそれとはかなり違うことに違和感を覚えてたのだろう。
「──そうだったわね」
「あとお酒」
「お酒?」
「うん。どうして泰治さんは食器棚にお酒を隠していたのか不思議だった。だって、自分の部屋に隠しておけばば良いのに」
 秋子は笑った。──後片づけの際に不思議そうに食器棚を見ていた名雪を思い出して。
「隠さなくても良い年齢なのにね」
「あっ、それはそうだよね」
 その事には気づいていなかった名雪は笑った。その笑顔は洞察力など感じさせない純粋な女の子のそれだった。
 秋子はもう少しだけ核心を逸らす。
「泰治さんは、名雪に何って言ったの?」
 何時もと変わらない秋子の表情を見る。そして彼女も何時もの様に答えた。
「──うやむやにするように『名雪ちゃんの優しいお母さん』って言っただけ」
「そう」
「うん……」
 秋子は苦笑する。──あいかわらず、しまらない人ねえ、と。
「お母さん」
「何?」
「わたしね、別にお母さんと泰治さんが付き合うのが嫌とかそういう訳じゃないんだよ。だって泰治さんと話すお母さんの顔って本当に幸せそうだもん。最初は家族が増えたみたいで楽しいのかな、と思っていたんだけど、そうじゃないと思える事が色々あって……」
「名雪……」
「だけど、不思議なんだよ。だってお母さん、今までそんな雰囲気が全く無かったのに、あんなに自然に泰治さんと居るんだもん」
「……そうね」
「付き合っているのなら何時会いに行っていたのか不思議。そうでないならどうしてあんなに自然なのか不思議」
 名雪は微笑んだ。
「わたしもこんなにお母さんと泰治さんの事が気になるとは思わなかった。だけど、急に勘みたいなものが冴えちゃって」
 秋子は確信した。──やはり最初から泰治の言う通りだったのだ。
 秋子は名雪の顔に手をやる。
「名雪」
「……うん」
「明日──そうね、明日。その事についてちゃんと話します。だから今日はもう休みなさい」
「うん。わかった。ごめんなさい。──やっぱり言わない方が良かったのかな?」
 心配そうな名雪。その表情は彼女の経験した事の無いものへの不安で一杯だった。
「いいえ。そんな事はないのよ」
 秋子は名雪の頬にキスをする。
「おやすみなさい。──また明日」
「うん。おやすみだよ」
 名雪はそういって、部屋を出て行く。彼女の想いが満たされた訳ではないだろうが、今は秋子の言葉に従うしか彼女の出来る事は無かった。
「おやすみなさい」
 名雪を見送ると秋子はベットに滑り込むように倒れた。
「娘と女と妻と母──ね」
 秋子は溜め息をつく。
 ──四つの性(さが)が入り交じる悲しくて滑稽な芝居。それを自嘲ぎみに演じる自分。
 そんな憂鬱な想いに浸っていると、
 コンコン──。
 二回目のノックの音がした。
「はい──」
 泰治は、間違え無い様に努めて普段の顔をしている秋子の顔を見る事になった。

「そうか──」
 ベットに腰を掛け寄り添う二人。
「不倫がバレた時ってこんな感じなのかしら」
 いささか不穏当な事を秋子は口にする。泰治は苦笑しながら優しく秋子の手を握る。秋子も握り返す。
「ねえ」
「なんだい?」
「あなたの言った通りなのね」
「……そうだね」
「不自然な事って、続かないのね」
「ああ、そういうもんだね」
 当たって欲しくない事がいざ起きてしまうと、想定してたとはいえ泰治も気落ちした。
 更に買い物での名雪の態度を見ていたのにもかかわらず、無意識に現実から目を逸らしていたという事実はかなりのショックだった。
 秋子はそんな泰治を見て、自分も含めて励まそうと少しだけおどけて見せる。
「あの目玉焼きは失敗だったわねえ」
「ああ。あれは純粋に喜んじゃったよ。ごめん」
 意を汲んで秋子に笑顔を返す。
「ブランデーもよ。名雪にしてみれば、不自然極まり無いでしょうに──」
「……習慣って恐ろしいよね」
「あんな習慣がありますか」
 笑顔の秋子。泰治も笑顔で答える。

 長い沈黙の後、泰治は決意を伝える為に秋子を見た。
「──還るよ」
「あなた」
「ああ。何も言わないで。──還るよ」
 秋子は泰治にしがみつく。
「還らないで。不自然でもやり通せば自然になるでしょう。苺のショートーケーキを食べた時に私が言った言葉の意味を分かっているんでしょう?」
「ああ。苺ならそれでも良いんだけどね」
「だったら──」
 泰治は秋子の口を塞ぐ。そしてそのまま秋子の舌を奪うように自分の舌を絡める。それは滅茶苦茶で乱暴なキスだった。
「う──ううっ」
 秋子はそのやり方が不満になり、泰治の突き放す。
「あなた!」
 怒りの表情。だが泰治はそんな妻に自分の心を見せる。
「僕だって怖いんだ」
「……」
「理屈じゃ分かっていても怖いんだ。君達といつまでも暮らしたいんだ。還りたくなんて無いんだ」
「あなた……」
「でも僕達が大切にするべきは手段じゃない。想いだよ。そうだよね?」
「──ええ」
 秋子はキスが口封じに使った手段だと誤解した事に恥じ、今度は優しく愛おしく夫の唇を迎え入れた。
「んっ……んん」
 ──再び心が触れ合えた喜びと、また別れる悲しみ。
「ン…ンッ」
 ──再び身を重ねる事が出来た喜びと、また別れる悲しみ。
 やがて二人は唇を名残惜しそうに離す。
「愛している。秋子、愛している──君を愛しているよ」
「あなた──」
 泰治は秋子を押さえ込むようにベットに沈めた。それは、父親と母親でもない。夫と妻でもない。男と女が互いの全てを求め合う原始的な睦み合いだった。
 だが明日になれば、二人は父親と母親に戻ならければならない。
 一番大事にしている者の為に、母は生き続け、父は今度こそ死を受容しなければならないのだから。


7.


 ──朝日がこの世のものとは思えない程美しく見えた時、人は死ぬ。
 泰治は庭先で、昔読んだ本のその一節を思い出しながら朝日を見ていた。
「一回死んだのだけどねえ」
 だが目の前に見える輝きを確かに至高の美として捉えていた。だから何となく抗ってみたい気持ちになりそんな事を呟いたのだ。
 やがて、泰治の後ろの方でガチャリ、と玄関のドアが開く音がする。
「あなた──」
「……用意は出来た?」
「ええ。名雪も起きて来たわ」
「そう──」
 泰治は緊張の顔を解して秋子に向かう。
「あの大きな木の所に行こう。もう切り倒されたんだっけ?」
「ええ。昨日話した通りよ。でも行きましょうね」
「うん」
 泰治は家の中に入る。そして──。
「名雪」
 驚くパジャマ姿の名雪に泰治は告げる。
「昨日の答えを教えてあげる。散歩しよう。着替えておいで」
 名雪はその言葉に目を丸くしながらも頷く。泰治が放つ今までと正反対の雰囲気に、彼女は頷く事しか出来なかった。

 昨日までは家族の姿をしていたとは思えない三人の行進が続く。
 泰治の張り詰めた顔。秋子の無表情な顔。そして名雪の不安そうな顔。
「名雪」
 泰治のその言葉に、ビクッとする名雪。
「なに?」
「──驚いている?」
「うん」
 名雪とて泰治が指している事が自分を呼び捨てにしている事では無い事位、分かっていた。
「そうか」
 名雪には思わぬ笑顔。それは誰の笑顔なのだろうか。名雪には分からない。母親の恋人か。ただの遠縁の人か。まさか──。
「着いたね」
 三人は約束の土地に着いた。

「名雪」
 名雪は緊張しながらも少しだけ不満そうな顔をした。秋子が泰治の隣にいて自分と向かい合っていたのだ。
 泰治は苦笑しながら、ポケットから二人の絆を取り出す。
「僕達はね、ここで誓い合ったんだ」
 指輪を秋子の左手の薬指にそっと捧げる。
「そうなの?」
 震える名雪。それ以上の言葉が出なかった。秋子は黙って頷く。
「そしてその後、名雪──君を授かった」
「う、うそ……」
 名雪はここまで歩きながら覚悟を作って臨んだ筈だった。だが現実はそれ以上の虚構を交えて彼女を混乱させた。
「だが僕は君の顔を見る事無く──死んでしまった」
「え?」
 当然の反応。
「だけど、こうやってまた君に逢えた。──神様の力でね」
 泰治は、訳が分からないよね、と苦笑して名雪に言う。
「名雪」
「……」
 泰治は優しく声を掛ける。
「名雪」
「……うん」
 抱きしめる。
「この前の質問の答え。秋子が考えている事。それは僕も同じ。たった一つ」
「なに?」


『名雪が自分達よりも幸せなって欲しい』


「勿体ぶって言う事でも無い、本当にそれだけの事だよ」
「お、お父さん──」
 それは生まれて初めて口にした言葉。だが名雪には違和感は無かった。先の見えない切迫感が彼女を素直にした。
「秋子」
 秋子は無言で二人を抱きしめる。
「後は頼むね」
 言葉を出してはいけない。出してしまえば戻れない。だから頷くだけだった。
「ねえ名雪」
「う、うん」
「さよならだ。君は現実に戻る──いや僕が虚構から消える」
 名雪は混乱しながらも父が何を言っているのか分かっていた。
「いやだよう! お父さん、いやだよう!」
 秋子は下を向いて涙を流す。名雪は必死で目の前にいる幻に対峙していた。
「いやだよう! お父さん、いやだよう!」
 泰治は暴れる名雪を押さえ付け──頬にキスをした。
「いつか、その唇でキスしたい人に出会えるといいね」
 そして──秋子を見る。
「迷惑ばかり掛けるね」
「今更ですよ」
 長いキス。夫婦としての最後の時間。
 泰治は空を見上げ女の子に話し掛ける。女の子もそれに応える。


 ──もういいの?
 うん。ありがとう。楽しかったよ。
 ──本当にもういいの?
 うん。
 ──。
 ねえ。
 ──何?
 名雪の記憶を消して欲しい。
 ──うん。わかっているよ……。秋子さんは?
 いい。彼女は全てを背負って生きて行く。秋子自身がそう願っている筈だから。
 ──辛い事だよ?
 そうさ。でも大人は辛い事を背負って生きるのが仕事なんだよ。
 ──キザだねえ。
 そうだね。君も大人になれば分かるよ。──多分ね。


 じたばたと暴れる名雪。わめく様にイヤを繰り返す。
「秋子。名雪。幸せにね」
「いやあああああぁー」


 ──いいの?
 うん。お願い。


「おとうさああああぁーん!」

 そして──空気が爆ぜた。

 雲一つ無い空に羽ばたくように広がる無数の白い羽。
 透き通るように美しい羽は見る者達の胸を切なさで縛り付ける。
 やがて、羽は雪に変わりながら舞い降りる。

 ──名雪。ごめんね。

 雪は煌きを放つ。
 それは、最後の輝き。
 無限なまでの色彩と光を放つ、悲しいダイヤモンドダスト。
 この世にはなかった銀色の世界。

 ──秋子。ありがとう。

 風が吹き上げる。
 細氷はその風に消されるように空へ散っていく。
 最後に風音は幻想を映し出す銀幕を見つめる者達にお別れを告げた。

 ──さようなら、と。


8.


 ──白い世界。
「ありがとう」
 泰治は女の子にお礼を言う。
「うん。良かった──んだよね?」
「うん。そうだよ」
 女の子は躊躇っていたが泰治に問う。
「一つだけ教えて欲しいよ」
「なんだい?」
「──その人が辛い思いをしても、悲しませる事になっても逢いに行って良いのかな?」
 泰治は女の子の真剣で不安な表情を見て答える。
「僕は『奇跡の力』を秋子と名雪の幸せの為に使うべきだった。だけどやり直しが出来るとしても、僕はまた同じ過ちを犯すと思う」
 女の子は泰治の言葉に嬉しそうに頷く。
「うん。ボクも例えキミと結果が同じでも、キミと同じ事を願うしかなくなっても、それでもやっぱり──逢いたいよ」
 泰治は女の子に手を振る。
「いってらっしゃい」
「いってきます」



 ──雪が深々と降る日の事。
「ここに来るのは久しぶりね」
 秋子は小さなお墓の前に立っていた。
 雪に埋もれた墓。積もった雪を手で払う。墓石には「水瀬」の文字が見える。
 還った前日の事を思い出す。

『また山椒と豆板醤がバリバリ入った麻婆豆腐、また食べたいな』

「あいかわらず、しまらない人ねえ」
 墓前に器と飲みかけのブランデーを置く。
「……ねえ、あなた。今度、いとこの男の子が来るかもしれないの」
 秋子は、まだ子供の頃の男の子を思い出して笑う。
「あなたは知らないでしょうけど、名雪はその子が好きみたいなの」
 秋子は手を合わせ、ゆっくりと目を瞑る。


 あなた。
 嬉しかったわ。
 本当に、本当に、あなたに会えて嬉しかったわ。
 どんな形でもどんな別れでも、あなたに会えて嬉しかったわ。
 そして──
 わたしの記憶を消さないでくれてありがとう。


 目を開ける。そして秋子は墓前に呟いた。

「もう少しだけあなたの事は言いません。悔しかったら名雪が結婚する頃にでもいらっしゃい」



 終

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