Dandelion




/0/introduction

 したい。
 したい……けっこん。
 祐一と、けっこんしたい。

 そうしたらずっと、いっしょにいられる。




/1/Hale no sola sita

 真琴は「ゆーいちなんか大っっっ嫌いっ」と言った。
 そしたら祐一には「あーもう、勝手にしろよっ」と言われた。
 だから、「ゆーいちなんか大大大大大っっっっっっっ嫌いなんだからっ」と言ってやった。

 玄関を開け放つと、そこには世界が広がっていた。
 ヤケクソに青い空、やばいくらいに地面を突き刺す陽の光。まごうことなき晴れの空下、勢いで一歩目を踏み出すともう止まらなかった。ずんずん、ずんずん。アスファルトを踏み砕くように歩は進む。前しか見ない、前しか見えない。行き交う人々、祐一が横目で見そうなミニスカート、鮮やかなニュービートル・レモンイエロー。真琴はいつだって前しか見ていない。
 一歩ごとに鈍く鳴る鈴の音が気に障る。左手に持った財布につけてる小さな鈴。財布の中身はウン百円。真琴の全財産。
『家出』した真琴の全財産。
 ──やってやろうじゃないの。
 頭の中が真っ赤になった、祐一との口論の延長線上で決意を固める。何も無い金も無いあるのは勢いだけだ。そもそも祐一が悪いのだ。祐一が悪いせいでなんかムカついてきた。世の中全部にムカついてきた。ずんずん歩きながら目に映るものすべてに心の中で中指をおっ立てる。
 ずんずん。車。
 ずんずん。電信柱。
 ずんずん。英会話教室の広告。
 ずんずん。小学生5人組。男男女女男。
 ずんずん。ほとんど溶けた雪に待ってましたと顔を出す雑草。
 ずんずん。やる気のない顔をした犬を連れたやる気のない顔をした大学生。
 ずんずん。一瞬吹いた強い風にずれた麦わら帽子を直しながらワンピースの裾をはためかせる少女。
「あら。おはようございます、真琴」
 あーもう、あーもう!
「……真琴? 真琴ってば」
 みんなみーんな、ムカつく、ふぁっく!
「まーこーとー、聞いてます? おーい」
「なにようるさいわねぇっ!!」
 首がもげる勢いで振り向いて、そこには、
「おはようございます」
 一瞬吹いた強い風にずれた麦わら帽子を直しながらワンピースの裾をはためかせる少女が微笑んでいた。
 天野美汐だった。
 まったくいつも通りの、まさしく天野美汐その人だった。
 彼女は優しく微笑みながら突っ立てるだけだった。
 なのに、何故か、揺らぐ。真琴の中が揺らぐ。
 ……だが、それがどうした?
 今の真琴は、世界のすべてに腹を立てているのだ。
 ひとりぼっちの七日間戦争なのだ。
 今の真琴は美汐に対して無理やりにでもむかっ腹を立てなければいけない。
 たとえ美汐だろうと真琴を止めることはできない。
「随分急いでいるようですけど、何か」「なんでもないっ」
「……ついでに言うと、随分怒っているようにも見え」「なんでもないったらなんでもないっ」
「…………ところで真琴、何で財布を手に持」「なんでもないったらなんでもないったらもう行くから! 美汐はついてこないでよね!」
 一方的に捨て台詞を残して再び歩き出す。
「真琴」
 呼び止められる。思わず振り向く。なんでそこで振り向くかな無視して行けよと自分で自分に突っ込みを入れて、
「よいお天気ですね」
「……だから、なんなのよ」
「思ったことを言っただけです。真琴は感じませんか? 空、綺麗ですよ」
 わけがわからない。なんか本当にムカついてきた。
 歩き出す。美汐はついてくる。知らない。
 真琴はずんずんと歩を進める。

 その数メートル後方。暖かな日差しに困ったように前足で眉根を掻いて、ピロシキがご主人様の後を行く。




/2/Island

 ゴロンタは「やあ久しぶり。こんなよいお日柄、ピロシキさんは今から何処へ?」と言った。
 ピロシキは「なに気持ち悪い口調で喋ってんだよ。しかも昨日も会ったよ。ていうかちょっと親分にくっついて散歩してるだけだよ」と言った。
 ゴロンタは「暇だから俺もついてっていい?」と言った。ピロシキは「勝手にすれば」と言った。

 ひまわりの匂いのする街を探しに行くつもりだった。
 見えたのだ。彼女と彼女の行く先に力強く咲き誇る花の、ビジョンが。




/3/Gaga Life

 例えるなら、自分の父親が結婚記念日を忘れていたことに対して拗ねてみせる母親にしどろもどろしている姿を見ているようで、どうにもこうにも、なのだった。
 ううん、今のはちょっと空想入ってた。超妄想入ってた。ええと、そうじゃなくて。
 そう。
 例えるなら、自分の兄がふたりだけのヒミツの記念日を忘れていたことに対して拗ねてみせる恋人にしどろもどろしている姿を見ているようで、どうにもこうにも、なのだった。うん、まさしくそんな感じ。
 そんな感じ。
 そんな感じのはず。
 というか、そうでないと困る。
 一生懸命、そんな感じになるように、そう思えるように頑張ってきたんだから。だから、そんな感じに思えるようでないと困る。
 困る。


 名雪は「祐一が悪い。」と言った。
 そしたら祐一は「あーもう、お前までそう言うかっ」と言った。
 だから、「祐一が悪いんだからね。最悪。サイアク」と言ってやった。
「二回かよ!」と言われた。だって、二人分だ。

 真琴が家出した。
 ちょっとマンガを買いに出かけたとか、尋常ではないおならが出そうで外でしないとまずかったとか、今朝からは光合成をする真琴になったとか、そういうわけでは多分ない。「こうなったら真琴、家出してやるんだからっ」とか言って出て行ったのだから確実だ。他愛無い痴話喧嘩、いつも見せ付けられてうんざりしている。でも、今回はちょーっとだけ、重いらしい。
 要約するとこうなる。
 祐一が春から東京の大学に通う。それはずっと前から決まっていたことで、祐一は親とも話し合って進学後は一人暮らしを決めている。つまり、この家を出て行く。
 そしてそれを、真琴に話していなかった。今の今まで。
 なんの酌量の余地があろうか?
 というわけで、テーブル越しに祐一と戦争の真っ只中にいる名雪だった。
 珍しく和食で、名雪は茶碗のご飯を掻っ込みながら言う。
「あの子だって自分の食べる分くらい自分で稼げるよ」
「俺が言ってるのはそういうことじゃなくてだな、あいつまだ子供で」
「もう散々ヤりまくってるくせによく言うよ」
「は、はしたない……ッ!」
「結局祐一もなんか恥ずかしいって言うかさ、あとに引けなくなってる感じなんだよ。あまりゴタゴタする前にさっさと素直になれば」
 おかわりー! 名雪の声にあらあら今日はよく食べるわねえと秋子が茶碗を受け取りにやってくる。
「お前、実際さ、酔っぱらってねえ?」
「だからさー、そんな恋人においてかれて、ひとりぼっちになっちゃう気持ちが祐一にわかるの?」
「一人じゃないだろ。名雪も、秋子さんも、ぴろだっている……あれ、そういやぴろの奴どこ行った?」
「そういう問題じゃないでしょっ」
 ばこーんとテーブルを叩く。祐一は軽く腰を浮かす。秋子さんがご近所迷惑にならないようにしてくださいね、と穏やかな声で言って、おかわりを置いていく。
「……」
「……」
 沈黙が振ってくる。
「……悪い」
「わたしに謝っても意味ないよ……こっちこそ、ごめん」
 祐一もちゃんと色々考えてるのだ。そんなことは、わかってる。
 じゃあなんで、こんなに自分はムキになる?
「あー……なんか、また……深みに」
「だ、大丈夫?」
「うー……あたまいたい」
 祐一は名雪のおでこに手を当てて「あーこれ熱あるわ」と言った。
「ほら、測ってみ」
 祐一に手渡された体温計で熱を測る。38.2度。
「寝ろ」
「寝ます」
 ふらふらとおぼつかない足取りでリビングを去る。大丈夫か、と割合真剣な声を背中にかけてくれたけど、わたしの心配する暇あったら真琴の心配しなきゃダメだよ、と返してやった。
 それでも、ちょっとは嬉しくなってる自分がいるのだから情けない。こんなことで熱を出すなんて、まだまだだ。
 階段をゆっくり一段ずつのぼる。道のりは果てしなく長く、険しい。でも、やるしかないのだ。




/4/Runnin'

 とりあえず、商店街に来てみた。
 休日のざわめき。

 ところで、真琴は言わずと知れた『家出少女』なわけだった。もちろんショッピングなどして楽しんでいる場合じゃないのだが、というか楽しめるほどショッピンできる金もないのだが、これから先の予定を決めかねているうちはとりあえずここで暇を潰そうと思った。自称フリーターのティーンエイジの行動範囲などかわいいもので、なんだかんだで行く場所などここしか思い浮かばなかったということは、考えるとムカついてくるので考えないでおく。
 さて。
 マンガでも立ち読もうか、とその前に、ひとつ気になることがある。
 奴だ。
 さっきから真琴の後ろをなんか悔しいくらい堂々と尾行してくる少女。
(まだついてきてたのーっ)
 美汐もしつこい。だいたい美汐は過保護なのだ。普段だって肉まんの肉をこぼしてるだの口の端についてるだのいろいろとうるさいし、本屋で立ち読みしててふと視線を感じて振り向いたら美汐が超こっち見てた、なんてこと一度や二度じゃない。そのたび真琴は問い詰め、そのたび美汐は悪びれることもなく「真琴がその本をこっそりと懐に隠してそのまま店を出やしないかと心配でしたので」などとのたまう。真琴はそんなことしないっ。きゅーりょーび前はそんな悪しき衝動が体中を駆け巡って挙動不審になったりすることもあるけどっ。でも基本的にそんなことしないっ。だから美汐も心配しないで、ていうかすんなっ。ていうかもうそれほとんどすとおかーじゃないっ。
 真琴の講義もむなしく美汐の過保護ぶりは止まらないのだが。
 今も、美汐ちゃん絶好調なわけだが。
 ふと、早足になってみる。
 後ろに、動きが早まる気配がする。
 さらに早く。
 気配も、さらに早く。
 半ば走るようにしてしばらく進む。唐突に停止、振り向くと角に人が隠れるのが見えた。
 やっと隠れさせてやった。やっとちょびっとだけ、焦らせてやった。
 次は、もっと焦らせてやる。
 おもむろに歩き出す。気配も後ろを確かに辿ってくる。目の前に曲がり角。そこを曲がって、途端に全速力で走り出す。あははっ美汐焦ってる焦ってるっ。真琴の顔に無邪気な笑みがこぼれる。真昼の路地を駆け抜ける。
 次の曲がり角に急いで身を隠す。近くの店に入って物陰から窓の向こうを窺う。
 にしし。うまく撒いたか。にんまり笑いが広がる。
「ま、こ、とっ」
 後ろからの声。
 心臓が破裂する音が聞こえた気がした。首がもげんばかりに振り向く。
 そこには、誰の姿もなかった。
 ただ、微かに慣れた香りがする。視線の先に自動ドアがあるのが見えた。
 ──別の入り口から! あたしの行動を呼んでいたとでもいうのっ!?
 なんとなく闘志がめらめらと沸いてくる。侮れない、天野美汐。
 よーし、次こそはっ!!

 というわけで、真琴にとって暇を持て余すなどということは、それから一時間ほどは無縁の世界だった。
 でも、あんまりにバカらしいことをやっていたということで、ふと我に返ったときの空しさは割とキた。
 あと、腹へった。

 少し太陽が傾いた表通りを歩く。そこらじゅうの飲食店から漂う魅惑の香り。空腹だと気力も沸かない。
 決意まで萎えかけている自分に渇を入れて、何はともあれ腹ごしらえだと決める。しかし、それも財布の中身を見たとたんに絶望の溜息に変わる。漱石一枚にも満たない小銭の群れ。
 これくらいの空腹は我慢しなくてはならないのだ。
 これから先は長いのだ。
 きっと。
 なんだか、よくわからなくなる。頭の中がごちゃっとして、体の中に空虚さが増していく。
 真琴は俯きながらとぼとぼと道を歩いた。いつの間にか駅前に来ている。ベンチにでも座って少し休もう、そう思って前を見て、
 そこに肉まんを頬張る美汐がいた。
 ベンチに座って、わざとらしいくらい至福の表情で肉まんにかぶりついていた。やばいくらい慈愛に満ちた笑みで鳩に欠片をやっていた。一心不乱に口を動かす鳩。
 ぽっぽー。
 あぅーーーーーっっっっっ!!!
 もうガマンできない。真琴は一目散にコンビニへと駆けていった。その後姿を見て美汐がニヤリと笑う。




/5/Dandelion of da Valley

 ゴロンタは「俺、もう疲れたんだけど」と言った。
 ピロシキは「じゃーおうち帰れば?」と言ってやった。
 ゴロンタは「……やっぱ、もう少しだけ」と言った。

 なんだかよくわからない鬼ごっことしょぼくれた昼ごはんに付き合って、気がつけば両側に木々が立ち並ぶ緑道だった。
 そこもまた、彼の見慣れた、歩き慣れた道だった。最近ようやく乾いたアスファルト、道端のほうに未だ残る泥で黒くなった雪。徒然と散歩に出る際、ここの道を通ることは彼の中の優先順位としては上位にランクしていた。ちょっとした『見渡す』感覚が楽しめるほどの長い距離、近くに車道がない静けさと空気の心地よさ。よく通る道だ。もちろん彼女とも、よく通った。
 もう、通ることはないかもしれない。先程から胸に漂うこの感覚に、戸惑う。
 それは或いは予感といってもいいものかもしれなかった。考えたことがないわけではない。でも本気で、本当の本気で考えたことなんて今までなかった。
 親分との別れの時、離れ離れになって暮らす日々。どれほどそれが寂しくて時にはつらいものなのか、ちょっと今の自分には想像がつかない。
 だけど、それも次第に慣れていくだろう。そう思えている自分に気が付いて、ピロシキは前足で器用に眉根を掻いた。なんだか恥ずかしい気持ちになったときにするクセ、彼女は気付いていただろうか。自分でわかっていて、でもいつまでたっても直らない。
 だけど、心はこの一年で成長していたのだ。
 彼女と出会ってからの一年で、彼女と別れる強さを身に着けていたのだ。
 それなら、離れてみるのも悪くない。なにより彼女が間接的にとはいえそれを望んでいるのなら。今生の別れではないのだから。
 きっと、それでいいのだ。
「ピロ」
「ん?」
「……や、なんでもね」
 ゴロが少し訝しげな表情でピロシキのほうを見ていた。どうやら随分物思いに耽ってしまっていたようだ。
 前を行く二人を見る。初めは離れて歩いていた彼女達も、今では並んで背中を揺らしている。駅前のベンチで空腹に耐えかねひょっこり姿を現したピロシキを見た彼女は、なんだか観念したような表情になって肉まんを分け与えてくれたのだった。向かいのベンチには美汐が座っていて、真琴は俯きながら黙々と肉まんを頬張っていた。それからしばらく経ち、腰を上げ、再び歩き出したときには二人の間の距離は随分縮まっていた。いつも通り、と言ってよかった。少し真琴のほうが意地になってわざわざ離れようとするのも、その背中を穏やかな顔で見ている美汐も、いつものちょっと喧嘩したあとの二人だった。
 ピロシキは歩みを緩めず空を仰ぐ。暮れ始めた太陽がたぶん今頃は地平線で赤く染まっているだろう。日によって趣の違うそれも、今日は木々や家々の間から漏れる紅から、相当美しい自分好みのものになっているように感じた。
 今は、見えない。でももっと見開きのいい場所に行けば、きっと最高の夕焼けが見れる。
 時折思い出したように端に寄る二人の後姿を見る。それは緑道を抜け、車道に面した細い道に出る。
 目の前に立つのは、所々にまだ残る雪が紅く染まった小高い丘だった。
 やっぱり、ここに向かっていたんだ。


 雪の下からようやく顔を出したばかりの地面は、歩き辛いどころのものではなかった。
 真琴は何度も足元が不安定になり、それを美汐が支えてやっている。真琴は朝から歩き詰めのためもうかなり疲れている様子で、歩みはひどくゆっくりとしたものだった。ピロシキは時折、道なき道をショートカットし二人の前に躍り出る。それを見て真琴が微笑む。少しだけ足取りが力強くなる。ゴロンタもピロシキの真似をする。真琴はまた微笑む。二人と二匹が、薄暗い坂道を登っていく。
 やがて、上空が見開けてきた。木々の先端はいつの間にか途切れていて、藍色の空とグレーの雲が覗く。自然と駆け足になる。道の先がだんだん明るくなっていく。それが途切れ、その向こうに広がる空間に、ピロシキは体ごと飛び込んだ。


 そこには、世界が広がっていた。
 まず初めに目に入ったのは広々とした緑と茶のコントラストだった。何ヶ月もの間白い雪に覆われていた草や土がいっぱいに地面を埋め尽くし、広場はどこまでも大きかった。
 次に見たのは、空だった。濃い青をした空が広く続き、左目に眩しい光を感じて、振り向いた。
 体が波を打った。
 夕焼けだった。あの、道を歩きながらきっと自分好みのやつが見れると勝手に思っていた、何度だって見た、昨日だって見た、でも今まで見たのとはぜんぜん違った、紅く染まる空と地平線。その下に広がる、街並み。皆が住む、自分が大好きな街。
 体中の毛が逆立ってるのは、吹いてる風のせいなんかじゃなかった。
 これだ。これが今朝、あの時彼女達の向こうに見えた景色だ。間違いない。空想するだけで自分を魅了してやまなかった景色。
 ひまわりの匂いのする、咲き誇る花のような街。
「わー……──」
 声。振り向くと、真琴が立っていた。後ろから美汐とゴロンタも追いついてきていた。
 次々やってきた彼女達は揃って立ち尽くし、目の前の景色を呆然とした表情で眺めている。美汐だけは、自然にそこにあるものを受け入れているような穏やかな顔をしていた。だけど真琴やゴロンタの表情といったら、この世のものならざる風景を見ているかのようだった。口をあけたまま、惚けたように目を見開いている。
 なんだかピロシキは誇らしい気持ちになった。別に自分が作り出したわけでも自分が見つけ出したわけでもないのに、ピロシキはまるでその景色が自分のもののように感じていた。どうだ。凄いだろ。見たことないだろう。こんなに素晴らしい、この世に二つとない絶景。
 すっくと四つの足を伸ばす。胸を反らすようにして伸びをする。気持ちがいい。そうやってもう一度振り向き、その景色を眺めて、
 夕焼けだった。自分の大好きな、街だった。あの時見た、ひまわりのような街だった。
 もう一度、体が波を打った。
 違うんだ、と思った。
 大きすぎた。
 自分のものなんかじゃない。そんなの、あまりに傲慢だった。
 僕には、とてもじゃないけど似合わない。
 そう、たまにここからこんな景色を眺めては、またいつもの日常に舞い戻っていく。朝目覚め、秋子が入れてくれたミルクをゆっくり啜って、窓際で日差しに目を細めながら風の音を聴く。そんな生活が身の丈に合っている。時折ふらりと散歩に出る。見知った顔に会えば立ち話をする。そうして、この景色をいろんな猫に伝えていく。
「──すっげぇな」
 微かに震えた声がする。振り向くと、いつの間にかゴロンタが隣に立っていた。風に毛をなびかせて、その茶色がかった両眼はただ前だけを見ていた。夕焼けに染まる空を見ていた。
「すっげぇな」
「二回目だよ、それ」
「はは……なんつーかさ。こんな言葉しか思いつかねえんだわ」
「……うん」
 どんな声も、どんな言葉もこの紅色のまえでは霞んでいき、形を成さない。だから、ただ佇んでいるだけでこの景色を全て受け入れているような、それでいてその景色の素晴らしさを見るものに理解させるような、そんな美汐の姿にただ驚くのだった。
「俺さ、旅に出る」
 その言葉にピロシキは目を見開いた。ゴロンタは照れたように前足でもう片方の足を摩りながら、
「いやさ、こんな景色見せられると……なんか俺ってちっちぇえなって。こんな街でちんまり暮らしてるだけじゃいけねーなって、なんか、焦ってるくらいで」
「……」
「この世界にはもっといろんな、ここみたいな、いやもっと凄い景色がいっぱい広がってるんだろうなって思ったら、黙ってられなくて」
「いいんじゃない?」
 ピロシキが口を開く。ゴロンタが振り上げてた前足を下ろす。
「ゴロ、野良だろ? なら誰も止めない。僕だって止めない」
「……ありがとよ」
 苦笑する。別に礼を言われる理由などない。
「ま、たまには顔見せなよ」
「ああ。そん時はどっさり土産話持ってく」
「できれば、物も」
 そんなジョークにゴロンタは苦笑で返す。ピロシキは空から地面に視線を下げる。そして、広がる土の上、緑の雑草に混じってタンポポが咲いていることに初めて気付く。よく見れば一つじゃない。ここにも、あそこにも咲いている、黄。なぜ今まで気付かなかったのだろう。
 荒れた地面にぽつりぽつりと、だけど力強く咲いている花をじっと見つめた。前足でそっと撫でてみる。揺れて、元に戻る。
「……じゃあ、僕は」
 呟く。
「ん?」
 いつの間にか、確固たる決意として、心の中にある。
「この街を護っていくよ」
 ゴロンタはただじっと佇むだけ。真琴と、美汐と、街を眺めて。
「この街とこの景色を……僕なんかに何ができるかなんてわからないけど、でも、護っていく。護る」
「……そっか」
 きっとできるよ、お前なら。そんな言葉を聞いて何気安く言ってんだいという顔でゴロンタを見ると、
「とりあえず手始めに、こんな景色がこの街にはあるんだってことをそこいらの猫に言って回ったらいい。この景色が俺らだけで途切れないように、伝えればいい」
「……同じことを考えるんだな」
「気持ち悪いこと言うなよ」
 二人同時に噴き出す。ゴロゴロと笑い声を立てる。こんなに笑うのは久し振りだった。
 さて、こうなったらもう、あとは。
「男の儀式で締めということで」
「はぁ?」
「拳で語ろう」
「……今まで何勝何敗だっけ」
「一勝一敗」
「二回も喧嘩したっけか?」
「まあまあ」
 そう言って、すす、と間合いを詰める。すぐさまゴロンタも臨戦態勢に入る。さすが野良、反応が早い。
 戦いの始まりの合図は、視線で送る。

「「──ヴニャャァァァァーーーーーーッッッッッッ!!」」

 夕暮れの丘に猫二匹の猛り鳴く声が響く。




/6/Soul Flower

 いつの間にか、ここへ来ていた。
 疲労で鈍くなった足は、それでも自然にこの場所へ向いた。

 街が見渡せる絶好の場所に、膝を抱えて座った。隣には美汐。猫たちは向こうでなんか黄昏てる。
 ここから見える景色は、綺麗だった。綺麗過ぎた。息が詰まって、しばらく呼吸を忘れるくらい。だからちょっと辛くなって、視線を下げる。隣では美汐が、この景色をずっと眺めている。
 こうして二人でここに座ってからどれだけの時間が経っただろうか。日は未だ沈まない。美汐は空の紅を見る。真琴は地面の緑を見る。
「この街を、出るのですか?」
 真琴の肩がびくり、と震える。やっぱり美汐には、隠し事なんてできっこなかった。
 真琴はやっぱりわかり易すぎます、と彼女は笑って。一転、厳しい視線を投げてくる。眼を逸らしてしまいそうになるのを懸命に堪える。彼女はまた、笑う。
「相沢さんと一緒に、暮らしたいんですね?」
 うん。
「相沢さんのことが、好きなんですね?」
 うん。
「大好き」
「そんなにストレートなのは、なんだか、照れてしまいますが」
「だって、大好きだもん」
 そうなのだった。
 たとえば、同じ布団で一緒に寝たい。たとえば、二人で肉まんを半分こしたい。たとえば、マンガを読んでもらったり、一緒に散歩をしたり、そしてどこかでこんな景色を見つけて、二人でずっとそれを眺めていたい。
 そう考えているうちに、真琴はなんだか力が沸いてきた。先程までのどっぷり溜まった疲れがウソのようだ。そこらじゅうを駆けまわりたい気持ち。いつの間にか向こうでは、ヴニャーと鳴いた猫たちがおもむろにネコパンチを繰り出し合っていて、辺りがにわかに活気づきはじめる。
 それなのに。
 真琴のテンションは一気にしぼむ。祐一は、真琴を連れて行ってくれない。祐一は一人でこの街を出て行ってしまう。真琴を残して。
 寂しかった。
 悲しかった。
 辛かった。
「それでは」
 美汐はゆっくりと言葉を口にする。
「相沢さんに、お願いしてみましょう」
「え?」
 真琴の頬に手を添えて。
「相沢さんがびっくりするくらい可愛くなって、思わず連れて行っちゃいたくなるようになってみましょう」
「あ、あぅ」
 どんなふうに? ちょっと心配になって訊いた。
 お姫様みたいに。美汐は嬉しそうに答えた。

 夕焼けをバックに、美汐は丁寧にそれを作ってくれた。
 真琴はその風景を、しっかり眼に焼き付けた。一生忘れるもんか。そう思った。
 最後に一本ずつ、タンポポを持って帰ることにした。タンポポさんにはごめんなさいを。必ず風に乗せて届けるから。どこか、別の街へ。




 帰り道はあまりよく覚えていない。丘を降りた頃にはもう日が暮れていて、なんだかうきうきしながら歩いていたような気がする。
 そして家に帰った。玄関ではみんなが出迎えてくれた。もう少し待って帰ってこなければ、捜索願を出すつもりだったらしい。秋子さんは心配そうな表情で、名雪はどてらに赤い顔で、祐一は真琴の顔を見るなりへなへなと脱力し、心配したんだぞと三回ほど言い、それからごめんな、と言ってくれた。でも、お詫びに一回だけ言うこと聞いてくれる? と言うと、ちょっと身構えた。
 だから、隣の美汐に目配せして、その美汐を含めてその場の誰もが予想もしてないような言葉を言ってやった。
「それでは、真琴のたったひとつのお願いですっ」
 用意したタンポポの花冠を被って。祐一に、一本のタンポポを差し出して。

「──真琴と、結婚してください」




/7/Epilogue

 コンビニを出てすぐ、自転車に乗った名雪とばったり会った。
「乗る?」と訊かれたので「はい」と答えた。

 美汐は自転車の二人乗りは初めてだった。ましてや後ろに乗ることなんて考えもしなかったから、初めはちょっと、というか大分怖かった。名雪がスピードを出すので余計にあたふたする。しっかりと彼女の肩にしがみつく。けど、思ったよりすぐに慣れることができた。夜風が気持ちいい。周りの景色を見る余裕もでき、この自転車が隣町へと向かっていることに気付いた。夜更けのこの時間帯、行き交う人々はけれど多かった。極稀に浴衣を着ている女性も見かける。
「花火大会ですか?」
「うん」
 それだけの会話。また、街の音に耳を澄ます。
 自転車は快調に走る。商店街をあっという間に抜けて、駅を通り過ぎて隣町へ。確か名雪は高校時代は陸上部に所属していたと聞いた。かなりの速度で飛ばしているにもかかわらず、一向にペースは落ちない。
 道はやがて下り坂に差し掛かる。後ろに美汐を乗せているせいもあって、それまでとはうって変わってスピードを落とす。ゆっくりと、坂道を下っていく。
 美汐はぼんやりと名雪の後姿を眺めてみる。タンクトップの重ね着にジーンズ。大学に進学してから彼女は髪をショートにした。その髪が風でなびいて露になった首筋を、一筋の汗がつたっていく。
「私、なんだか水瀬さんに惚れてしまいそうです」
「ごめん、今、冗談、つーじない、よ」
 名雪は滅茶苦茶息が上がっていて、美汐は思わず噴き出した。
 くすくすと笑う美汐に、名雪は「うー」と不満そうな声を上げるのだった。


 なんとなく急に思いついたから。それが彼女が花火を見に来た理由だった。
 どうせなら最初から見たいから。それが彼女が己のブランクも忘れて自転車を飛ばしていた理由だった。

 すでに打ち上げられ始めた花火を横目で眺めながら出店を回った。売店で初めチューハイを買おうとした名雪は、美汐がウーロン茶を買っているのを見てやっぱりそっちにした。わたあめも買って、人気の多い川沿いは避け、ひっそりとした木陰に腰を下ろした。
 プルタブを開けて、ささやかな乾杯を。
 ぼんやりと花火を見上げる。時折会話ともいえない会話をする。夏休みは? ぼーっとしてる。バイトは? スーパーのレジ打ち。受験勉強はかどってる? と訊かれて、まあまあ、と答える。ひときわ大きな音を立てて打ち上げられた花火に、名雪が手をかざす。
「おっきいー」
 大きかった。夜空に咲き誇る大輪の花。まるで終わりなどないかのように、次から次へ。
 子供たちのはしゃぐ声が聞こえる。きっと大人だって、どっちか微妙な年頃の人だって、みんな浮き足立ってる。
「あんな大きな花が咲いてるのなんて、夜空だけでじゅうぶんだよね」
 名雪は花火の音に負けない大きさで。
「あんな大きな花、すぐ消えちゃうくらいがちょうどいいよ」
 ふと思い出す。今はいない、二人のことを。
 タンポポのように風に吹かれ、小さなライオンは旅に出た。
 元気だろうか。ただ、ただ、そう思うだけ。
「元気かな」
 呟かれた声は花火がはじける音にかき消されそうで、美汐は名雪を見た。その横顔は、どこか遠くを見ていた。でも、すぐに元の明るい笑顔に戻って。
 もっと話がしたくなって、夜空を見上げながら美汐は言う。
「ちょっとした、不思議なお話があるんです」
「……聞かせて」
 名雪の視線を感じながら、慈しむように、伝わっていくように。心を込めて。
 美汐は風に乗せるように、言葉を紡ぐ。

「これは、ある街に伝わる、丘と狐達のお話です。とても、とても不思議なお話なんです──」

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