+7年後の名雪エンド
+7年後の名雪エンド
-----------------------1.再会 ---------------------------------
また俺はこの街に帰ってきた。
暗く立ち込める黒雲からは、絶えず白い粒が落ちてきている。
7年ぶりに見るこの街は、俺には何も変わっていないように感じた。
だが、よく見回すとビルのテナントは変わっているし、知らない建物やオブジェが増えている。
時計もデジタル表示になり、駅も大きくなって人の数や、車も増えているようだ。
7年の空白では、街の変貌が無いほうがおかしい。
でも、あの時待ち合わせに使ったベンチは昔のままのようだ。
「ここの空気は、変わらないな。」
匂いというか人々の気概というか、街が持つ独特の雰囲気は街が発展しても変わることは無い。
俺には、街がそう囁いている様に感じた。
俺は適当に空いているベンチに腰を下ろした。
冷たく澄んだ空気に、湿った木のベンチ。白いため息をつきながら、街頭の時計を見る。
「まだ、時間はあるな。」
俺は思わず7年前を思い出していた。
俺は高校卒業後、大学に進学してこの街を離れた。
名雪が涙を浮かべて見送ってくれた事をよく覚えている。
そして、俺は教職を専攻し、卒業後は数学の教師になった。
最初の3年間は、赴任した学校で無我夢中で生徒を教えた。
休みがちな生徒は、家庭訪問で心を開かせて登校するようにさせた。
突っ張っている、いわゆる不良という生徒にも懸命に指導した。
何事にも一生懸命にやったおかげで、俺は全校生徒から信頼されるようになった。
それなりに忙しかったが、とても充実していた。
そんな働き振りが目に留まったのだろうか。
なんと、卒業した母校から赴任の斡旋が来て、俺は転任することになったのだ。
「そうだ、あの時もこうして名雪を待ってたっけ。あの時は、散々待たされたな。」
体を突き刺すような冷たい風、絶え間なく降る雪が、もう一度あの頃の思い出を蘇らせていた。
空を見上げると、深深とした雪が彼方より降ってくるのが見えた。
「.....やっぱり寒いな」
その視界を、ゆっくりと何かが遮る。
「お待たせ。」
赤いコート姿に傘を差した女性が覗き込む。
すらりとした均整の取れた身体つき、ウェーブのかかった長い髪。
化粧は濃くなく、口元には赤いルージュが引かれていた。
「.....ああ。いや、ちょっと早く着きすぎた。香里。」
「.....どうしたの?」
「.....いや、昔を思い出していたんだ。」
「そう。」
この街は、もう知っている街には違いないのだが、俺は香里と待ち合わせをしていた。
俺は立ち上がると香里の傘を持った。
「じゃあ、行きましょうか。」
俺は香里と一緒に歩き出した。
「フフフッ。やっぱり名雪の言っていた通りね。」
「何が?」
「相沢君はちゃらんぽらんに見えるけど、約束は守る男だって。」
「.....あいつめ。他にはなんか言ってたか?」
「.....ううん。特には。ただ、残念がっていたわよ。また居候してくれると思っていたんじゃない?」
「....ああ、その事か。」
俺は苦笑した。
「....まあ秋子叔母さんは、ぜひにと誘ってくれたんだけど、お互い大人だしな。」
「..........。」
「学生でもないし、あの頃のようにって訳にもいかないさ。」
「....そうね。」
俺は、この街の赴任に伴い、部屋の手配を香里にお願いしていた。
水瀬家に転がり込めば経済的にも有利だが、お互い大人だ。
お互いは従兄妹と割り切っていても世間はそうは思うまい。
だから、香里に部屋を手配してくれるようにお願いしてたのだ。
それに、香里は同僚。同じ学校の国語教師だ。
知らない仲じゃないし、同僚だから頼みやすいと思ったのだ。
俺は、香里が教師を選んだのが不思議だった。
香里は首席で卒業したから、バリバリの大手商社のキャリアウーマンか、航空会社のエアアテンダント
になるものと思っていただけに、教師に、しかも母校の教師を選ぶ事は意外だった。
実際、香里は大学生の頃にはミスコンで選ばれたり、モデルやらタレントやらのスカウトが来ていて
凄かったらしい。そんな話を名雪から聞いていた。
「.....でも、名雪が迎えに来たほうが良かったんじゃない?」
「ああ、いいんだ。あいつも忙しいだろうからな。」
名雪は、高校卒業後、隣町の看護学校を卒業して、この街の病院で看護士をやっている。
本当は、今回も迎えに来たがっていたのは知っていたが、名雪の仕事の都合もあるだろうと断ったのだ。
「それに.....」
「それに?」
「また、散々待たされたら敵わん。」
「なるほど。」
香里はくすくす笑っていた。あの時の話を思い出したのだろう。
「まあ、あの子の事だからありえるわ。」
「だろう?」
俺達は、商店街に差し掛かった。
名雪や香里たちとよく来て、あゆとも再会した懐かしい商店街。
やっぱり小さなビルやマンションなどが増えて、信号機や車の数が増えている。
ここを曲がれば名雪の家の方だが、俺達は反対方向に曲がる。
香里の行く方向に俺も続く。
やがて、小洒落たコーポに到着した。ここの2階が俺の新居だ。
降っていた雪もいつの間にか止んで、雲間から薄日が差していた。
「到着したわよ。」
「ありがとう。香里。お茶でも飲むか?」
「荷物はまだなんじゃない?」
「ああ、だから、そのへんで、さ。」
「今日はいいわ。相沢君も疲れてるでしょうし、遠慮する。」
香里は傘を畳みながら言った。
「明後日から出勤なんだし。疲れを取ったほうがいいわ。」
「ん。そうだな。ありがとう香里。」
俺は香里の申し出を受けることにした。
「じゃあ、明後日にまた職場でね。」
「ああ。」
香里はくるっと背中を向けて歩き出した。
久しぶりに見た香里の後姿は、心なしか喜んでいるように見えた。
俺は荷物を持ち直すと、コーポの階段を上がった。
鍵を開いてドアを開ける。
消毒したのだろう。うっすらと消毒液の匂いがした。そして、真新しい畳の匂いも。
隣の部屋はフローリングで、水瀬家で俺が当時使っていた机やベッドが既に運ばれていた。
「相変わらず、秋子さんは手際がいいな。」
俺はバッグを置くとベッドに座り、タバコに火をつけた。
プルプルプル.......携帯が鳴った。
「はい。相沢です。」
相手は秋子さんだった。
「祐一さん? よろしかったら夕食をご一緒にと思いまして。名雪も早く帰ると言ってましたし。」
「あっ、はい。でも今日はちょっと立て込んでまして。.....はい。はい。.....失礼します。」
電話を切る。
嘘だった。
荷物は明日だ。することはないし、特に人と会う予定も無い。
だが、この街に帰ってきて早々に名雪や秋子さんには会いたくなかった。
時々電話では話していたが、実際顔を合わすのは7年ぶりだ。
お互い顔つきや体つきも変わっただろうし、お互い男と女として結婚も意識できる年齢でもある。
「....ちょっと早いが、メシにするか。」
俺は部屋の外に出て鍵を閉めた。
また空は雲が立ち込めて、ちらりほらりと白い粒を吐き出していた。
「.....相変わらず、よく降るな。」
俺は商店街へ向かった。
アパレルショップ、ジュエリーショップ、本屋、スーパー。あちらこちら新しい店が出来ていたが、
昔、名雪と行った百花屋などの甘味所、あゆと食べたタイヤキの屋台。
判りづらいCD屋など古い店も残っていた。
「....ここであゆと再会したんだったな。」
俺は、昔ぶつかって来た少女の事を思い出していた。
今回は、あの時のようにぶつかって来る人はいなかった。
俺は適当な店を見つけ、食事をすることにした。
部屋に戻って鍵を開けると手紙が落ちていた。名雪からだった。
手紙には、迎えに行けなかった事を謝る事と、仕事ですぐにでも会いたいのに会えない事と、
手伝いが欲しい時はいつでも手伝う事が書かれていた。
「あいつらしいな...」
俺は名雪に電話しようと思ったが止めた。
電話をくれても良かったのに置手紙だったし、急に夜勤が入ったのかもしれない。
「....とりあえずは、落ち着いてからだな。」
俺はする事も無いので、新しい教科書を開いて予習することにした。
「生徒に教える教師が勉強不足では生徒に舐められるからな」
結局、俺は深夜まで頑張って眠りについた。
翌日、目を覚ましたのは昼近くだった。
空は昨日の天気とは打って変わって青空が出ている。
「......しまった。」
俺は目覚ましが無い事に気づいた。
午前中は買い物とかして、午後の荷物到着を待つつもりだったのだが、それができなくなった。
また、名雪に借りるかと、思ったが俺は思い直した。
とりあえず、荷物が片付いたら目覚ましを買おう。
ピンポーン。
チャムが鳴った。
荷物が来るにはまだ早いはずだが、と思ってドアを開けると香里がいた。
「こんにちわ。相沢君。」
「おう。どうしたんだ?香里。」
「今日荷物届くんでしょう?手伝おうかと思って。」
「おお。それは助かる。まあ、何も無いけど入ってくれ。」
思いがけない香里の申し出だった。
引越しの荷物は早く片付けたいが、一人だと気が滅入る。誰か応援をとも思ったが今日は平日だ。
まあ、香里は冬休み中だけど予定もあるだろうし、諦めて一人でやろうと思っていた所だったのだ。
「うん。実はね。応援も呼んであるんだ。」
「それは、ますます助かるな。誰だい?」
香里はそれに答えず、奥から呼び寄せて、ずいとドアの前に立たせた。
「ああ。秋子さん。わざわざすみません。」
俺は秋子さんが仕事を休んで来てくれたのだと思った。
だがドアの前の女性の奥から、さらに女性が現れて顔を出した。
「あら、呼びました?」
「え...??」
俺は戸惑った。明らかに知っている秋子さんの顔立ち、髪形。背丈。
秋子さんが2人居る!?俺は、一瞬、そう思った。
「.......名雪か?」
「うん。久しぶりだね。祐一。」
名雪だった。
化粧をして、秋子さんと似たような服装で現れた名雪は、昔の秋子さんを見ているようだった。
これなら、一瞬秋子さんが2人居るように錯覚したのも無理は無い。
二人そろうと親子というより一卵性の姉妹に見える。
しいて違いを上げるなら、縛って流している髪の方向が反対側で、声が違う事ぐらいだ。
これで、仕草まで似てたら、とてもじゃないが見分けはつかないだろう。
本当は秋子さんも相当な年のはずなのだが、これは突っ込まない事にした。
「病院では、髪を束ねないといけないから」
名雪は、はにかんでいる様な、照れている様な感じだった。
明らかに、俺の知っている名雪とは態度が違っていた。
「...まあ、立ち話もなんだから入ってくれ。」
俺はみんなを中に招き入れた。
香里、名雪、秋子さん。夕方には北川も来るという。秋子さん、名雪は仕事を休んで来ていた。
今更ながら、俺はみんなに感謝した。持つべき者は、やっぱり身内と親友だ。
昼食は、秋子さんが弁当を作ってきていた。
荷物が来るまで、俺達は昼食を採りながら昔の事や、たわいの無い話、今の生活や仕事について語り合った。
どうやら、名雪は優秀とまでは行かないが、それなりの信頼と実績があるようだった。
特に後輩の看護士の統率や指導では信頼があって慕われているようだ。
また、同僚や患者さんからの評判も良いらしい。
まあ、高校時代に陸上部の部長をしてたのだから、後輩や部下の指導は大丈夫だろう。
「....この子の事だから、話半分に聞いておいたほうがいいわよ。」
香里が名雪の話に横槍を入れた。
「え〜。ひどいよ香里。わたし嘘は言ってないもん。」
名雪はちょっと膨れた感じだった。
「あら、相変わらず寝坊で何回も遅刻してるし、大きなミスは無いけど、カルテを間違えたり、
患者さんの前でドジして笑われたりしてると聞くわよ。」
「う〜。....香里いじわるだよぅ。」
「廊下で立ちながら寝てたとも聞くわよ。」
「あれは、たまたま1日通しの勤務だったから.....」
香里の横槍に、名雪は赤くなって話題を変えようとした。
「あっ、あのね。祐一。わたし祐一の学校の顧問なんだよ。」
「顧問?」
「うん。陸上部の。今年はみんな実力をつけてきてるから、全国大会に行けるかもしれないんだ。」
「ほう。大したものだな。」
「うんっ。頑張ってるもん。」
俺は素直に感心した。
さすがは陸上を熱心にやってきたことはある。
「...でも、頑張ってるのは生徒であって、名雪ではないわよ。」
「それはそうだけど.....」
「しかも仕事の合間だから、いつも居るとは限らないし。だから、私がいつも見てあげてるのよ。」
「う〜。ひどいよ香里。わたしだって頑張ってるもん。」
「...まあ、名雪は優しいし、教え方が旨いと生徒からは評判だしね。頑張ってるのは認めるわよ。」
名雪はちょっと自慢したかったらしいが、香里に突っ込まれると反論できない。
香里の横槍に、また赤くなって膨れてるようだったが、最後の一言で気を取り直したらしい。
さすが香里は名雪の親友だ。見ている所は見ている。
こうして俺達が食後の談笑をしていた時、チャイムが鳴って荷物が到着した。
「....よし。やるか。」
俺達は荷物の梱包を解き始めた。
台所用品は秋子さんに任せることにした。
名雪は......やっぱり荷物を持ち上げられないで、うんうん唸っていた。
「名雪。ここはいいから、中身出して。」
「うん。そうする。」
香里は、名雪が持ち上げられなくて唸っていた荷物を、ひょいと持ち上げると名雪に続いて部屋に消えた。
俺は、改めて名雪の力無さに苦笑した。
北川は来てくれたが、ほとんど何もしないうちに終わったので、ちょっと不満そうだった。
程よく暗くなった夕方。みんなの協力のおかげで、無事荷物の開梱と整理は終了した。
「ふぅ。お疲れさま。みんなありがとうな。腹が空いたろう。今、出前でも取るから。」
「あらあら、いいんですよ。もう私が作っておきましたから。」
台所から秋子さんが顔を出すと、部屋中に良い匂いが充満した。
「すみません。秋子さん。」
こうして、夕食は秋子さんが作ってくれたのをみんなで頂いた。
「わたし、お茶入れるね」
名雪が立ち上がって台所に向かう。
気心の知れたみんなと一緒にわいわいやる。
こういった団欒に俺は飢えていたのかもしれない。
「......相沢君。」
やがて、ふと香里が俺に声を掛けた。
「なんだ?」
「名雪......遅くない?」
そういえば、名雪がお茶を入れに行ったきり戻ってこない。
俺は台所に様子を見に行った。
「.....名雪?」
名雪は明かりも付けずに、シンクの前に立っていた。
よく見ると、ふらふらと頭が少し動いている。
俺は台所の明かりを点けた。
「くー。」
名雪は立ったまま寝ていた。
俺は苦笑した。
「おい。名雪。起きろ。」
俺は名雪を揺すってみた。
本来ならこのくらいで起きない名雪は、何故かすぐに気が付いた。
「うにゅ?......あ、わたし寝てた?」
「まったく、相変わらず何処でも寝れるな。お前は。」
「う〜ん....疲れてるのかな。わたし。」
「名雪は疲れて無くても寝れるだろ。」
「それは、酷いよ。祐一。」
名雪はあわてて、ヤカンに水を入れてガス台に乗せて火をつけた。
俺はタバコに火をつけて壁にもたれかかる。
「タバコ.....吸うんだ。」
「...ああ。大学のときからな。」
「やめなよ......体に良くないよ。」
「わかっている。だけど一人暮らしだからな。心配するヤツはいないよ。」
「わたしが、心配するよ......」
名雪は心配そうな顔をした。
俺はゆっくりと紫煙をくゆらせてながら、天井を見上げた。
「.....仕事、忙しいのか?」
「うん。患者さん多いし。やることも多いし。わたし要領悪いし...」
「そうか...泊まり勤務とかもあるんだろう?」
「うん。週に1回くらいだけど.....」
ヤカンがぐらぐらと蒸気を吐き出した所で、名雪は火を止める。
「今、お茶を淹れるから、先に戻ってて。」
「.....ああ」
俺は部屋に戻ろうとして足を止める。
「なあ、名雪。」
「ん?」
「.......あまり無理をするな。」
「うん。」
名雪はにこにこと答えた。
俺はシンクの縁でタバコを消すと、部屋に戻った。
「名雪どうだった?」
戻った早々に香里に様子を聞かれる。
「ああ、寝てたから起こした。今、ようやくお茶を淹れてる。」
「それは、お約束なオチね。」
香里はあきれたような顔で言った所に、名雪がお茶を淹れて戻ってくる。
「おまちどうさま。」
名雪はお茶をみんなに配ると、部屋の端に座った。
すると、香里がすっと立ち上がって名雪の傍に行き、ひそひそと何かを話し始めたが、
俺はたわいもない話だろうと思って気にしなかった。
やがて、お茶も終わり、解散する時間になった。
北川は、冷蔵庫にしまってあったビールを見つけ、2本も空にしやがった上、かなり上機嫌だった。
「どうだ、祐一、みんな。飲み直しに行かないか?」
「一人で行ったら?」
香里は冷たく言い放つ。
「そんな〜。たまにはいいじゃないかよ。あんまり会えないんだし、祐一も戻ってきたんだし。」
「祐一は戻ってきたばかりでしょう。これからいくらでも会えるんだから我慢しなさいな。」
「じゃあ、香里。これから二人でどうだ?」
「わたしも明日の準備で忙しいの。」
「まあ、そうだな。明日も仕事だし。じゃあ、飲み会は日を改めるか。」
北川は仕方がないといった風だったが、香里に諭されて諦めたようだった。
「じゃあ、また職場で。」
「ああ。」
香里は手を振ると、北川と連れ立って帰っていった。
「相変わらずだな。」
俺はドアを閉める。
残ったのは、秋子さんと名雪と俺だけになった。
「祐一さん。改めてお帰りなさい。」
部屋に戻ると、秋子さんが改めて歓迎してくれた。
「本当は、また家を使って欲しかったんですけど。一人暮らしは大変ですし。」
「ああ、その点はすまないと思ってます。何にも相談しないで。」
「いえ、いいんですよ。祐一さんも都合があるでしょうし。」
食器を片付けてた名雪も部屋に戻ると、会話に加わる。
「わたしは残念に思ったよ。」
「なんでだ?」
「女だけのわたしたちだけじゃ不安だしね。一応、祐一も男なんだし。」
「俺は用心棒か。」
「うん。それもあるけど。祐一居ると楽しいから。」
「まあ、秋子さんと二人っきりなら寂しいだろうな。」
わいわいと高校時代の思い出話に花を咲かせると、夜も更けて二人も帰ることになった。
「夜も更けたし。送るよ。」
「大丈夫ですよ。ご心配なく。」
秋子さんは、俺の申し出をやんわりと断った。
「あっ......あの、祐一....?」
「ん?何だ?」
思いつめた感じで名雪が切り出したが、すぐに口ごもってしまう。
「あの....その...ううん。何でもない。」
「何だよ。」
「う、うん。ちょっと......忘れちゃった。」
名雪はえへへと頭をかくと、おやすみなさいと言って帰っていった。
俺はその態度の意味することには、気が付かなかった。
明日は、新学期。いよいよ俺の母校デビューの日だ。
生徒の前で、どんな挨拶をするか考えているうちに、まどろみに落ちていった。
------------------------------2.出勤 ---------------------------------
出勤日。冬とはいえ、すっきりとした晴天だった。
俺の住んでいる所から学校までの道のりが判らないので、とりあえず判る所まで出てから
学校に向かうことにした。
「あの時は、毎日がマラソンだったなぁ。」
寝坊助のくせに、朝食もゆっくり堪能する名雪のおかげで、ほとんど毎日がマラソン
しながらの登校だったのを思い出した。
今日は、初出勤だし遠回りも考えて、早めに出勤することにした。
商店街の手前のバス停に見慣れた顔があった。名雪だ。
バスを待っているのだろう。
俺は名雪に声を掛けようとしたが、名雪は隣の男と、何か親しげに話していた。
にこにこと、しかも俺に見せたことの無い顔がそこにあった。
俺は胸の奥がちくりとする感じがした。
知っている人間が、知らない顔を知らないやつに向けている。
「ふん。.......まあ、同僚かなんかなんだろう。」
高校を卒業して7年にもなるんだ。お互いに知らないやつと知り合いになっていても不思議ではない。
知らないやつと恋に落ちることだって..........
俺は嫉妬みたいな感情が湧き出したが、すぐにそれを打ち消そうとした。
「ばかばかしい。あいつだって女だ。恋のひとつやふたつくらい.....」
遠ざかりながら振り向いたが、その姿はやってきたバスにかき消されていた。
赴任の挨拶は、ごく簡単に済んだ。
高校のときの担任だった石橋先生はどこかに転任していたが、世話になった先生も何人か残っていて、
生徒時代の俺の情報が赤裸々となると、一気に馴染める環境へと変わった。
後は始業式の時の挨拶だけだ。
校長の新学期の挨拶が終わり、全校通達と新任の先生の挨拶となった。
「新しくこの学校に赴任した相沢祐一です。数学を担当します。よろしくお願いします。」
挨拶も無難に終えると、始業式は滞りなく終わった。
今日は、始業式のみなので、俺は明日からのカリキュラムの打ち合わせが終わると、
久しぶりに校内を歩いてみることにした。
音楽室はピアノが新調されていた。
化学教室は縮小されて、電算室が置かれていた。
視聴覚教室には、真新しいパソコンが全席においてある。
図書館と学食は、全面改装したのか、より華やかな感じになっていた。
「メニューは変わり映えしないな。」
名雪の好きだったAランチのいちごのムースも、サンプルの上に残っていた。
学食は始業式のみだったので利用している生徒は少なかったが、営業していた。
「やっぱり、ここにいたのね。」
振り向くと香里が立っていた。
「なんだ。香里か。」
「なんだはないでしょ。それに学校では先生をつけなさい。」
「はいはい。美坂先生。」
「まあ、いいわコーヒーでも飲む?」
「いいな。」
俺達はコーヒーを受け取ると、グラウンドが見える席に落ち着いた。
「どう。慣れた?」
「慣れるも何も。まだ初日だしな。」
「そうね。」
俺はコーヒーをすすりながら窓の外を見る。
冬の日暮れは早い。既に太陽が西に傾いていた。
名雪が顧問を勤める、陸上部の生徒らしいのがグラウンドの一角の除雪された所で、練習しているのが見えた。
「ところで.......あの後、名雪何か言っていた?」
「ん?.....いいや。特に何も。」
「そう。」
「何かあるのか?」
「いいえ。たいしたことじゃ無いわ。....今のところはね。」
「なんだそりゃ。」
俺は、何かはぐらかされたように感じたが、とくに突っ込まなかった。
俺たちは職員室に戻り、明日からの授業の確認やら、クラスと生徒の確認やらをして1日が終わった。
帰宅したのは深夜だった。
香里の計らいで、職場の先生たちが集まって、ささやかな歓迎会が開かれたのだ。
「.......さすがに飲みすぎたかな。まだ週始めだってのに。」
俺は手紙や新聞の確認もしないまま、深い眠りに落ちた。
-------------------------------3.顧問 -----------------------------
初授業も順調にこなし、数日がたった。
さすがに1週間も経つと生徒の顔も少しずつ覚えれるようになってきた。
今日は新学期になって、初めて名雪が学校に顧問として来る日だ。
引越しの手伝いの日以降、会うことも電話することも無かっただけに久しぶりに感じた。
職員室で他の先生と雑談中に、名雪がやってきた。
「水瀬です。今日もよろしくお願いします。」
名雪は陸上部の顧問だから、既に着替えてジャージ姿だった。
どうやら、名雪はいつも挨拶をしているらしく、入り口の近場の先生意外は注意を払わない。
ぺこっとお辞儀した名雪は、挨拶が済むときょろきょろと周りを見回した。
香里が自分の席からひらひらと手を振ると立ち上がって名雪の傍に行き、連れ立って俺の傍に来た。
「こんにちわ。相沢先生。よろしくお願いします。」
いつも祐一、祐一と呼び捨てだった名雪が、職員室という手前もあって苗字で呼びかける。
俺には、それが新鮮に感じた。
「ああ、よろしく。水瀬さん。新任の相沢です。よろしくお願いします。」
「うん..あっ、はい。お願いします。」
名雪はお辞儀をすると、香里と連れ立って職員室を後にした。
ちなみに、香里と俺の口から、先生たちは従兄妹同士である事を知っている。
だが、ここは学校で職場だ。馴れ馴れしい話し方は出来ないと俺は思った。
だが、周りから従兄妹なんだからもっと砕けた感じでもいいじゃないかと言われた。
「名雪ちゃん。何か色っぽくなったなぁ。そう思わないかい?相沢先生。」
話を向けてきたのは、雑談をしていた同僚の1年の数学の先生。
俺が色々と指導方法を教わっている、とても頼りにしている先生でもある。
この先生も俺より1年前に赴任してきた人で、俺達の担任だった石橋とは前の学校で同僚だったらしい。
「そうですかね。あまり変わらないように感じますけど。」
「いやいや。あれは恋している感じだね。」
「そうなんですか?」
「ひょっとして、相沢先生の事が好きなんじゃないかなぁ。」
「ははは.....まさか。従兄妹ですよ。」
「従兄妹は結婚できるからねぇ.....。まあ、合法的に恋愛OKって訳だし。」
「まさか。子供の時からの付き合いですよ。恋愛感情なんておきるわけ無いじゃないですか。」
「男ってのはそうだけど、女の子は違うからねぇ。」
俺は子供の時を思い出していた。
「.....これ、わたしが作ったんだよ.......」
名雪が手を赤くして一生懸命作った雪うさぎ。
俺は名雪の言葉も耳に入らず、一生懸命作ってくれた雪うさぎを壊してしまった。
あの時の名雪は、多分俺のことが好きだったのだろう。
高校の時は、言動のあちこちに想いが出ていたが、俺は無視していた。
名雪もこれ以上深い仲になろうとはしなかったし、俺もそうだった。
もっとも、心の奥の気持ちまでは判らなかったが。
そんな名雪が、今更俺に恋愛感情など、あるはずが無いじゃないか。
「ちょっと様子を見に行きます。」
「はいよ。行ってらっしゃい。」
俺は同僚の先生に別れを告げるとグラウンドに向かった。
名雪は、こんな寒空の中でもジャージ姿のみで、元気よく指導していた。
「はい、そこダッシュ。今辛いのを我慢すれば本番が楽になるんだから。頑張って。」
グラウンド脇のベンチには香里が座っていた。
「ご苦労さん。美坂先生。」
「うう....ご苦労さんじゃないわよ。寒いわよ。」
香里は灯油缶で作った臨時のストーブの前に座って震えていた。
「いくら、私が正式な顧問だといってもねぇ、こんな気温の下じゃやってられないわよ。」
「ここ数日天気がよかったからなぁ。なんだっけ.....なんとか現象。」
「放射冷却現象。」
「そうそう。それ。それのせいで地上の気温が奪われているらしいぞ。」
「寒いはずよね。まあ、そのせいでグラウンドや玄関の除雪をしなくていいんだけどね。」
俺も香里の横に座ると、練習している生徒と指導している名雪を見た。
陸上部は男女混合だから、もちろん男子部員もいる。
出来る部員もいれば、できない部員もいる。中には、明らかに運動向きじゃない部員もいた。
「この間よりタイム上がっているよ。頑張ればできるよ。」
グラウンドを回っていた、明らかに運動が苦手そうな男子部員に名雪が励ましを送る。
名雪は一人一人を観察するように、歩いて近づいて声をかけている。
ストップウォッチ片手に、一人一人のデータを手元の紙に記入していく。
俺はこんな生き生きとした名雪を見るのは初めてな気がした。
「はい、集合〜。」
名雪が部員を集めた。
「長距離組は、みんな前よりタイムが上がっているよ。このまま頑張れば、春の大会はいい順位に
入れそうだね。短距離組はスタートダッシュがちょっと遅いかな。」
名雪が一人一人のデータから練習方法についてアドバイスしていく。
「と、言うことで、今日はおしまい。みんな最後にちゃんとクールダウンするんだよ。」
「ありがとうございましたっ!」
部員全員で挨拶があって、練習が終わった様だ。
生徒たちはクールダウンや片付けに作業に入った。
そんな生徒たちに声を掛けながら、名雪がタオルを片手にこっちにやってくる。
「お疲れ様。」
俺は名雪に声を掛ける。
「あれ?二人とも焚き火の前で何してるの?」
「見て判らないか。寒いからあたっているんだ。」
「今日は、暖かい方だよ。」
名雪はまだ西日が残る空を見上げながら言う。
俺は、そんな名雪を寒さをこらえながら見上げる。
名雪は、かばんからペットボトルを取り出して口に含み、香里の横に座る。
「それにしても、ずいぶん早く切り上げるんだな。」
「まだ、冬だしね。無理させちゃいけないし。」
「他の学校はもっとやっているんじゃないのか?」
「まあ、やっている学校もあるけど。わたしのいた頃から冬の練習は、こんな感じだよ。」
「そうなんだ。これでタイムが良いとなると、相当効率が良いんだな。」
「えへへ。これもわたしの教え方が良いからだよ。」
「まあ、そうかもしれないな。」
「うんっ。」
俺は素直に感心した。
名雪はちょっと自慢げだった。
「名雪。.......寒いから戻らないか?」
「あっ、そうだね。」
グラウンドに残っている部員も、どうやら着替えに戻ったみたいで、グラウンドは閑散としていた。
俺達はベンチを立ち上がると焚き火を消して校舎に向かった。
俺は寒さから逃れようと、早歩きで校舎に向かう。
俺の後ろから、名雪と香里が連れ立って付いて来ていた。
また二人でなにかひそひそ話しながらだったが、俺は女同士のたわいのない話だろうと思って、
気にしなかった。
------------------------4.名雪の告白-----------------------------
それから数週間。名雪は仕事の都合で来ることが無かった。
俺は名雪とはその日以来会っていなかった。電話ではたまに香里と会っていることは知っていたが、
俺は気にも留めていなかった。
だが、今日は久しぶりに名雪が顧問としてやってくる日だったので、俺は少しうきうきしていた。
俺は、せっかく久しぶりに揃ったので、練習後みんなで揃って帰ることにしようと思って、
職員室で名雪の帰り支度が終わるのを待っていた。
「香里。久しぶりだし、3人で夕食でもどうだ?」
俺は香里に声を掛けたが、用事があると断られた。
香里は、名雪が戻ってくるのと丁度入れ違いで出て行くところだった。
「香里。先に帰るんだ。」
「うん。ちょっとね。」
「そうなんだ。」
「名雪.......頑張ってね。」
「う、うん....」
何を頑張るのかは知らんが、香里は小声でぼそぼそと名雪に話すと、名雪を励まして帰っていった。
「じゃあ、帰るか。」
「うん。」
俺と名雪は揃って帰ることにした。
「こうして一緒に帰るのは久しぶりだね。」
「....そうだな。」
俺達はたわいもない話をしながら歩いた。
やがて、名雪の家と俺の家との分かれ道に差し掛かると、名雪は急に歩みを止めた。
「.......じゃあ、またな。」
俺は、そのまま別れるつもりで、名雪に声を掛けた。
その時、意を決したように名雪が声を掛けた。
「まって......祐一。」
「....ん?何だ?」
俺は足を止めて名雪を見た。
「.....話が.....あるんだ。祐一の家にお邪魔してもいいかな。」
「.....今度じゃだめなのか?」
「お願い.......」
「.....ああ。いいぞ。......散らかっているけど。」
「.....ありがとう。祐一。」
すっかり暗くなった夜道を俺達は家に向かった。
「まあ、上がれよ。」
「お邪魔します.....。」
俺は名雪を部屋に上げる。
「まあ、座っていろよ。」
俺は名雪を座らせると、冷蔵庫からビールを取り出して1本を名雪に渡す。
「飲めるんだろ?ほら。」
「あっ、少しなら.....」
俺達は蓋を開けながら、名雪と簡単に乾杯する。
「....で、話ってなんだ?」
改めて俺は椅子に座ると、ビールを一口飲んで名雪に向きながら聞いた。
「う、うん......」
名雪は口をつけていた缶ビールを机に置いた。
名雪は何か話しずらそうに、やたらと目元が落ち着かない風だった。
「あっ、あのね........」
「うん。」
俺は名雪の言葉を待った。
「.....やっぱり。いい。」
「.....話しにくい内容なのか?」
「.....うん...。」
名雪は顔を伏せていた。
何て切り出せばいいか迷っている風だった。
「わたしね........。実は........プロポーズされているんだ......。」
ようやく、意を決したように名雪が話し始めた。
俺は一瞬どきっとしたが、それはおくびにも出さなかった。
「そうか.........良かったじゃないか。」
「............。」
「で、相手は同僚か?」
こくんと名雪が無言のままうなずいた。
「結婚も視野に入れて付き合ってくださいって.......」
「.........名雪は、そいつが嫌いなのか?」
名雪はふるふると首を振る。
「いい人だよ......先生じゃないけど.....レントゲンの技師なんだ...」
「いつも気に掛けてくれるし.....優しいし.....いい人だよ。」
俺は、いつかはこういう話が出ることもあると思っていた。
しかし、卒業後7年も経っていたが、その間名雪に浮いた話はひとつも無かった。
名雪にもようやく春が来たのかと思うと、俺は嬉しくなった。
だが、その反面大事な物を失うような喪失感も味わっていた。
「.........ふうん。良かったじゃないか。」
「............。」
「おまえも好きなら結婚すれよ。.......おまえも結婚してもいい年だしな。」
「............。」
「秋子さんも、これで安心するんじゃないのか?良かった良かった。」
俺は喜びの表情を作った。
「.........いいの?......。」
名雪が顔を伏せて小さい声でつぶやいた。
「祐一は........それで......いいの?」
「いいに決まっているじゃないか。悪い話じゃない。むしろ大賛成だ。」
「.....本当に.....それで.....いいの?」
名雪は俯いたまま、俺に問いかける。
「いいに決まっているだろう。そんな良い話はそうそう無いぞ。」
「.....そうなんだ.....判った.....。祐一は応援してくれるんだ.....」
「おう。心から応援するぞ。」
本当は応援するのはちょっと躊躇いがある。
だけど、結婚するも何も名雪が決めることだ。俺が口を出すことじゃない。
「......わたし。帰る........。」
名雪は突然立ち上がると、何も言わずに荷物を持って立ち上がった。
「お邪魔しました.....。」
言葉少なに、名雪は帰っていった。
顔を上げたその目に怒りとも悲しみとも言えない表情が浮かび、目には涙が浮かんでいた。
「.......名雪。俺が祝福したのがショックだったのか?」
俺は名雪の出ていったドアを見つめながらつぶやいた。
俺と名雪は子供のときからの長い付き合いだ。
だから、知っている人を盗られる様な喪失感は確かにある。
仲の良い異性の兄妹とかいるやつも、こんな気持ちを味わうんだろうなと俺は思った。
でも......身内の幸せを願わないやつはいないじゃないか。
だから、俺は名雪を祝福する事にしたんだが、名雪はそれがショックだった様だ。
俺は以前話していた同僚の先生の言葉を思い出していた。
−「ひょっとして、相沢先生の事が好きなんじゃないかなぁ。」−
−「ははは.....まさか。従兄妹ですよ。」−
「あいつ......ひょっとして、今でも俺の事を....」
確かに子供のときから、あいつが俺の事を好きな兆候はあった。
高校のときの言動にも、その端端を感じてはいた。
−「従兄妹は結婚できるからねぇ.....。まあ、合法的に恋愛OKって訳だし。」−
−「まさか。子供の時からの付き合いですよ。恋愛感情なんておきるわけ無いじゃないですか。」−
−「男ってのはそうだけど、女の子は違うからねぇ。」−
しかし、高校を出てもう7年も会っていない。
既に諦めていても当然だと、俺は思っていたし、名雪も電話ではそんな話は振らなかった。
「..........くそっ、仕方ないじゃないか.....」
俺は壁を殴った。
名雪をこんなにも待たしたのは俺のせいだと思った。
俺が一番、名雪を不幸にしてきたように感じた。
「俺は.....名雪のことを.....」
俺は........名雪のことが好きなのか自信が無かった。
ただ、名雪の幸せのためにも決着をつけなければいけないと思った。
----------------------------5.決断 ----------------------------------
俺は結局、名雪のことが気になって一睡も出来なかった。
幸い、明日は土曜で休みだ。今日さえ乗り越えられれば大丈夫だろう。
俺は勤務先である学校に向かった。
「おはよう。」
香里が笑顔で挨拶をしてくれる。
「......ああ。香里....美坂先生か.....。おはようございます。」
俺は、だるそうに答えた。
「......名雪と何かあったんでしょう?」
「......判るか?」
「あの子......泣いていたわよ。電話かかってきたの。」
俺は、その話はしたくないと思った。
だが、香里は名雪の親友だ。強い調子で訳を聞いて来る。
「.....何があったの?」
「.....ミーティングが始まるから、後でな。」
今日の授業は散々だった。
遅々として進まないばかりか、自分でも間違って教えていた事に後で気づいたし、宿題も多めに
出してしまった。
自分でも相当苛立っていることが判った。
放課後。
俺は、とりあえず気分転換で学食でコーヒーを飲んでいた。
「やっぱり、ここにいたんだ。探したわよ。」
香里が俺を見つけて前の席に座った。
「......香里か。」
俺は香里とは話をしたくなかった。
だが、名雪から電話を受けている以上説明しなくちゃならないとは思った。
俺は香里に一部始終を話してみることにした。
香里は黙って最後まで聞いていた。
「それで......相沢君はどうするつもりなの?」
「どうって.......どうにもできないだろう。」
「あんたね!」
ばんと机を叩いて香里が大声を上げる。
空いているとはいえ、まだ何人か生徒や職員がいる。
回りの視線がいっせいに集まるのを感じた。
香里は大声を出したのが恥ずかしくなったのか、周りを見回した後小声になる。
「名雪があんたのことを好きだったのは、私は知っていたわよ。」
「そうか。さすがは親友だけあるな。」
「バカ。親友じゃなくたって。誰にも判るわよ。あんたが転向するのが決まった日から、
あの子の喜びようは尋常じゃなかったわ。」
「.............。」
「一緒に住むことや、どんな性格してるだの、何が好きなのだの、もう耳にタコが出来るくらい。」
「..............。」
「あんな嬉しそうな名雪は、初めて見たくらいよ。」
「..............。」
俺は高校のときを思い出していた。
確かに一緒に住むことはバレていたし、名雪のおかげで最初からスムーズにクラスに
溶け込めることが出来た。周りの連中も名雪が浮かれていたのは知っていただろう。
「それなのに、誰かさんは散々待たせたり。他の子と遊んだり、おしゃべりしたり.....。
まあ、名雪は部活に熱心だったから仕方が無いけど、」
「.....まあ、仕方ないだろう。それは。」
「まあ、もう過去のことだからいいけど。あの子、ずっとこの街で、あんたと暮らせると
本気で思っていたのよ。」
そういえば.......
−「これから祐一はこの街で暮らしていくんだから....。すっと、ずっとね」−
−「ずっとかどうかは分からないけれど、少なくとも学校を卒業するまではここに暮らす事に
なるだろうな。」−
−「うん。そうだね。」−
あの時もちょっと寂しそうな顔をしてたな。
そして、俺が大学進学の関係で離れるときも、人目も憚らず泣いていたっけ。
「そこまで好かれているのを知らないなんて、あの子はとっても不幸よ。」
「.....だけど、あいつはどう思われても従兄妹だ。こんな小さいときから知ってるんだ。」
俺は、心の動揺を隠しながら言った。
「でも........あの子は、あんたに反対して欲しかったのよ。」
「..........。」
「心のどこかに小さい希望が残ってたのよ。それを.......あんたは、粉々に打ち砕いたのよ。」
「..........。」
香里の目は真剣だった。
「.......俺なんかより、いい男がいたら応援するのが普通だろ?.....身内なら。」
香里は頭を抱えた。
「はあ。あんたって女の子の気持ちが判ってないのね。なんで、こんなヤツの事で栞とケンカ
しちゃったのかしら.....。」
俺は耳を疑った。
「ほう。お前が栞と俺のことで!?」
「バッ、バカ。そんなんじゃないわよ。栞があんまり嬉しそうに話すから釘をさしただけよ。」
「へぇー。栞も俺のことをねぇ。俺って、実はモテてたんだ。」
俺はわざと香里をからかう。
「......もう。知らない!じゃあね!」
香里は真っ赤になって怒って出て行ってしまった。
「.......ちょっと、からかいすぎたかな。」
俺はコーヒーの残りを飲み干した。
帰り道。俺は水瀬家に行ってみることにした。
秋子さんなら良い助言が得られると思ったからだった。
名雪に会ったらまずいとは思ったが、名雪は多分夜勤でいないだろう。
もっとも、居たらいたで何とかなるとも思っていた。
ピンポーン。
「はい。どちら様ですか?」
インターホンから秋子さんの声がする。
「相沢......祐一です。」
ドアが開いて秋子さんが出迎えてくれる。
「あらあら、祐一さん。お久しぶり。寒かったでしょう。どうぞ、お入りになって。」
「お邪魔します。」
久しぶりに入る水瀬家は、どこも変わっていないように感じた。
居間のボードには、俺が出て行く前に撮った集合写真が飾ってあった。
どうやら、名雪は居ないようだった。
俺は安心した。
やがて、コーヒーを淹れて秋子さんが戻ってくる。
「ごめんなさいね。少し散らかっているでしょう?」
「いえいえ。俺の部屋と比べたら天地の開きがありますよ。」
「まあ、お世辞もうまくなったんですね。」
秋子さんは、いつもの頬に手を当てるポーズで答えた。
「ごめんなさいね。あの子は夜勤で今日は戻ってこないのよ。」
「いや、いいんです。居ないほうが都合がいいというか何と言うか。」
「まあ、こんなおばさんを捕まえて、何をするのかしら。」
相変わらず、ボケまくりの秋子さんだったが、俺は思い切って相談することにした。
話を聞いていた秋子さんは、俺の話が終わると切り出した。
「祐一さんは、従兄妹だから幸せになって欲しいと思っているのね?」
「......そりゃ。もちろん....。」
「でも、どうやら従兄妹は今でも自分の事が好きだった事を知ってしまった。」
「..........。」
「だから、素直に喜んだのが裏目に出て、逆に傷つけてしまった。」
「......その通りです。」
いくら身内とはいえ、相手は名雪の母親だ。
娘の幸せがかかっている事には、秋子さんも真剣だ。
俺に秋子さんの目が注がれているが、俺は秋子さんの顔を見ることは出来なかった。
居間には時計の音だけが響いている。
「......それで、祐一さんは名雪のことをどう思っているの?」
「どうって......。」
「従兄妹だから、何も思ってないの?」
「......判りません。」
秋子さんは、ちょっと間を置いてから続けた。
「あの子が祐一さんを好きな事は判ってましたか?」
「はい.....薄々とは感じてました。でも.......」
「でも?」
「あいつは、こうはっきりとは意識してなかったんだと思います。」
「..........。」
「寝坊する姿も寝巻き姿も平気で晒してたし。俺のことは異性の存在とは思ってなかったんじゃないか
と思います。」
秋子さんはコーヒーを飲みながら聞いていた。
「祐一さん。私は、あの子があなたの事をとても好きなんだと知ってましたよ。」
「...........。」
「祐一さんが居なかった時でも、電話があったら出たがりましたし....」
「祐一さんの話をする時は、とても嬉しそうでしたし、何かにつけては祐一さんの事を心配してましたよ。」
「............。」
「私は、祐一さんことが好きでないなら、逆に、いつもの自分を曝け出してはいないと思いますよ。」
「........普通は、好きな人の事を意識すると逆じゃないんですかね。」
俺は秋子さんを見つめた。
秋子さんはにこにことしながら続けた。
「確かに、普通女の子は好きな男の子には余所余所しくなったり、良い所だけ魅せようとするけど、
あの子の場合違うと思うんです。」
「そうなんですか?」
「逆に、好きな人がいる安心感があるから、普段の自分を出しても大丈夫。そう思ったんじゃないかしら。」
「........それは、恋愛とは違うと思いますけど。」
「そうね。恋愛というより兄妹がいる雰囲気かしら。」
俺は苦笑した。
「そうでしょう。あいつは俺に対しては恋愛感情は無いと思ってましたよ。」
「LikeであってLoveでは無いと思ったのね。」
「はい。」
「じゃあ、もし、兄妹と思えるくらい親しい間柄に恋愛があったらどうなります?」
「相手を意識して....良く見せようと変わると思いますけどね。」
「そう。じゃあ、名雪は変わらなかったのかしら。」
「変わってないんじゃないかと思いますけど。」
「私は変わったと思いますよ。」
「.....いや、まったく変わってませんよ。」
「そう。祐一さんにはそう感じるのね。」
コーヒーが冷めたので、秋子さんはサーバーまでコーヒーを注ぎ直しに行った。
俺はその間も名雪のことを考えていた。
兄妹みたいに仲が良くて、お互いに相手のことを知っていて、それでいて相手の気持ちがわかってない。
結局、どう考えても名雪が俺のことを好いている理由は、親族だからという以外は考えられなかった。
やがて、秋子さんが戻ってきた。
「おまたせ。」
「....はい。」
「では話を変えましょうか。名雪が急に余所余所しくなったら、祐一さんはどう感じるかしら。」
「......まあ、驚くでしょうね。熱でもあるんじゃないかと。」
「でしょうね。」
「普段と違った名雪なんて、想像もつきませんよ。」
「だからなのよ。名雪が普段どおりの姿を見せていた理由は。」
「......何故なんですか?」
「それは.......祐一さんの気持ちが判らなかったからよ。」
「..........。」
「祐一さんがあの子の気持ちが判らなかった様に、あの子も祐一さんの気持ちが判らなかったのよ。」
そりゃ、そうだろう。
従兄妹として、仲良かった存在であって、それ以上でもそれ以下でもない。
俺は名雪の好きな気持ちというのは、俺と離れて独りぼっちになる恐怖ではないかと思っていた。
気に入っていた玩具が捨てられる恐怖みたいな。そんなものではないかと。
「あの子は、祐一さんの見てない所では、すごく変わったわ。」
「........それは知りませんでした。」
俺は、さすがは名雪の母親だと思った。見ているところはちゃんと見ている。
「ねえ、祐一さん。女の子の夢は何だと思う?」
「それは、やっぱり好きな人のお嫁さんになることでしょう。」
「そう。あの子の場合、その対象があなただったのよ。」
俺はコーヒーを飲みながら考えた。
「でも........何で俺なんですか?他にも男はいっぱい居たでしょうに。」
「さあ......。そこまでは判らないけど。多分、あの子には、祐一さんの存在が大きかったんでしょうね。」
「............。」
「ただ、子供のときはLikeだったけれど、再会してLoveの目が湧き出して、2度目のお別れの時で、
それは確実にLoveに変わっていた事に、あの子も気づいたんじゃないかしら。」
「............。」
秋子さんは優しい目で俺を見ていた。
「祐一さんは、あの子のことが嫌い?」
「いえ。嫌いなわけないじゃないですか。」
「じゃあ、好き?」
「.......好きですよ。恋愛感情があるかどうかは別として。」
「恋愛対象としては見てないという事ね。」
「はい。」
「そうかしら。祐一さんの心の奥底では、あの子のことをとても気にしてるんじゃないかしら。」
俺はぎくっとした。
「あの子が、他の男の人と仲良くしてた所を見て、祐一さんは気にならなかった?」
「..........。」
「祐一さんの知らない、あの子の姿を見て焦ったりしなかった?」
「.......何というか......確かに、ちょっとだけ心に風が吹いた感じはしました。」
「やっぱりね。祐一さん。あなたも本当は、あの子のことを気にしているのよ。」
「.......そうでしょうか。」
「じゃあ、なんで祐一さん。あなたに恋人が居ないの?」
「.......それは....仕事が忙しいし....出会いのある場所に行かなかったし....」
「.......それは言い訳ね。」
秋子さんは俺の顔を見つめながら言った。
まるで、心の中を見透かされているような、そんな感じがした。
「本当は、恋人が出来たことを知られて、あの子が傷つくことを恐れたんじゃない?」
「......そうかもしれません。」
「高校を出て7年にもなるものね。お互い知らない人を好きになったとしてもおかしくないし、邪魔は
できない。それは当然よね。」
「..........。」
「だから、祐一さんがあの子が他の人を好きになるのは邪魔できない。身を引いたほうがいいと考えた
のも無理は無いと思うわ。でも、それはあの子も同じだったんじゃないかしら。」
「..........。」
「なのに、祐一さんは恋人を作らなかった。きっと、あの子は嬉しいと思う反面、悩んでいたとも思うわ。」
「.......俺が、はっきりすれば良かったんですか?」
「ううん。そんなことはないわ。あの子も......お互いに、はっきりとさせておけば良かったのよ。」
「..........。」
「お互いの、相手への気持ちをね。」
俺は秋子さんの目を見つめた。
やっぱり、俺も名雪のことが好きなんだろう。
好きだからこそ名雪を傷つけたくない。他人に盗られたくない。そんな感情が眠っていたと気が付いた。
「祐一さんも、本当はあの子のことが好きなのに気づいたんでしょう?」
「........はい。まだ確信はもてませんが.......俺も好きなんだと思います。」
「なら、大丈夫。今からでも遅くは無いと思いますよ。」
「でも......俺は.....あいつの幸せのチャンスを踏みにじることは出来ません。」
「では、祐一さん。あなたは名雪を幸せにはできないのかしら?」
「......俺には......その資格がないと思います。」
「それは、何故かしら?」
「やっぱり.....今まで逃げてきたからでしょうね。」
「そんな事......これから、いくらでも埋め合わせるのではないかしら?」
「...........。」
「.......幸せになるかどうかは、祐一さんとあの子が二人で築くものじゃないかしら。」
「.......ですが.....。」
「私は、あなたならあの子を幸せに出来ると信じてますよ。」
秋子さんはにこにことした顔で言った。
「.......俺は.....どうすればいいんですか?」
「まずは、祐一さんが気持ちをはっきりとあの子に伝える事。」
「.......はい。でも、俺のことを許してくれるでしょうか.....」
「ええ。もちろん。許してくれますよ。」
「.......そうでしょうか。」
「そうですよ。大丈夫。あの子はまだ祐一さん事が好きだと思いますよ。」
「.........判りました。俺....名雪に気持ちを伝えてみます。」
「はい。頑張ってくださいね。」
俺は立ち上がると、秋子さんに礼を告げ、名雪の居る病院へと向かった。
夜も更けていたから、病院に入れないかもしれない。
だけど、俺はそれでもかまわないと思った。入れてくれないなら朝まで待つつもりだった。
名雪に思いを伝えるために.......。
ドアが閉まると二階から人が降りてきた。
香里だった。
「お疲れ様でした。秋子さん。」
「いえいえ。どういたしまして。」
秋子さんは香里にもコーヒーを勧めた。
「.......ったく。なんで、こうしてまで世話しなくちゃならないのよ。」
「まあまあ。こうでもしないと進展しないですからね。あの子達は。」
「でも名雪から告白してしまえばよかったんじゃない。」
「そうですけど......プロポーズは男の人からってのが理想ですよ。」
「まあ、そうだけど。」
香里はやれやれといった風でコーヒーを啜る。
「だけど、名雪も本当に実行するとは思わなかったなぁ。」
「そうね。......相当勇気を振り絞ったと思うわ。」
「結局、私達はアドバスしただけだけど。こううまく行くとは思って無かったわよ。」
「でも、プロポーズの話が嘘だと判ると激怒するわよ。あいつ。まだ告白されただけ
だってのに。プロポーズだなんて、名雪もオーバーなんだから。」
「その時は.......、祐一さんにみんなで謝りましょう。」
「いや、謝る必要は無いわよ。あの子、この日の為に長い間待っていたんだから、
待たせた祐一が悪い。」
「そうね。」
二人はフフフと笑いあった。
「後は、名雪次第....。うまくいくのを祈りますか。」
「大丈夫。絶対うまくいきますよ。」
「.......はぁ。これからも事あることにノロケ話を聞かされるのか。」
「それは私も同じですよ。でも、私はそれが楽しみなんです。」
「二人には幸せになって欲しいから。....我慢しますか。」
「そうですね。我慢ですよ。香里さん。」
二人は窓の外を見つめた。
外は雪がちらついていた。
でも、二人はそれが名雪と祐一を祝福しているように見えた。
感想
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