走る、走る。週末の人ごみでごった返す商店街を、人の群れを編みながら、東へ西へ。雪の上を、全力で。
 左の手にはたい焼きの入った紙袋。焼きたてのホカホカ。これはきっと、ううん、確実においしいはずだ!
 走りながら一瞬振り返る。中年のおじさんがすごい剣幕で追いかけてきていた。捕まったら最後、このたい焼きは食べられないだろう。そんなの、残酷すぎるよおっ!
 三度目の正直というか、二度あることは三度あるというか。今まさに月宮あゆは前科三犯になろうとしていた。
 だけど今回は違うはずだったのだ。過去二回分のたい焼きの代金も払うつもりだった。その証拠にほら、右手には財布がちゃんと握られている。お金だってちゃんと入っている。だけど、だけど……、ほんの50円だけ足りなかっただけなんだよお!うぐぅ!
 結局一銭も払うことなく、あゆはたい焼きを片手に駆け出した。当然の事ながら追いかけられる。だけど三度目ともなれば慣れたものだった。逃げるべきルートはちゃんと頭の中に入っている。次の曲がり角を右へ。そこにある自動販売機の陰に隠れれば、通りからはうまく死角になる。ふっふっふ。勝利は我にあり。
 足を緩めることなく曲がり角を右へ―――。
「うぐぅっ!」
 そこで誰かと正面からぶつかった。衝撃を抑えきれず、あゆは背中から派手に倒れた。だけどこのパターンは前にもあった。
「祐一君!」
 頭に雪をかぶり、眼を赤くしながら、ぶつかったひとの顔を見上げる。
「あ……」
 違った。そこに立っていたのは20代半ばか後半ぐらいの、大人の男の人だった。背が高く、やや怖そうな顔つきだ。目つきも悪い。
「ご、ごめんなさいっ」
 慌てて起き上がり、頭を下げる。
 ぶつかった男の方は突然のことで呆然としているのか、何も言ってこなかった。ただ口を開け、地球に迷いこんだ宇宙人でも見ているかのような顔をあゆの方へと向けている。
「あの、それじゃあボクはここで……」
 男のおかしな態度に少し疑問を感じたあゆだったが、こんなところで立ち往生している場合じゃない。すぐさま駆け出そうとした。
 が、遅かった。背後に人の気配を感じ、振り返るとそこにはたい焼き屋のおじさんが腕を組みながら立っていた。その顔には勝利者の笑みが浮かんでいる。
「ようやく捕まえたぞ、コソ泥め」
「う、うぐ……」
 逃げるタイミングは逸した。思わず後ずさる。
「とりあえず警察へいこうか。話はそこで聞こう」
 おじさんは勝ち誇った顔であゆの腕を掴んだ。
「うぐぅっ!」
「あのー」
「あ?」
「ソイツ泥棒でもやったんすか?」
 あゆにぶつかった男だった。興味津々といった様子であゆへと目を向ける。
「ああ、そうだ。俺が汗水流して精魂こめて焼いたたい焼きをまんまと盗みやがったんだ」
「へえ」と、男は今度はいたずらっぽい笑みを浮かべてあゆを眺めた。
「なんだ、若いの。もしかしてこいつの知り合いか」
「あー、まあ」
 え?
 男の思わぬ言葉にあゆは驚き、男の顔へと目をやった。しかしその男の顔に全くもって見覚えがない。誰かと勘違いしているのではないだろうか。
「あの、ボク……」
 口を開いたあゆを制して男は一歩前に出た。
「こいつの先生っていうか、まあ、言ってみれば保護者みたいなもんっす。すみません、こいつには俺の方からきつく言っておくんで今回は見逃してくれませんか。もちろんたい焼きの代金は俺が払います」
「うーむ、しかし……」
 意外な展開に呆然とするあゆを置いてきぼりに、男とたい焼き屋のおじさんは話を進めた。最後は「金さえ払うのなら」ということでおじさんは納得してくれたようだ。
「いくらっすか」
「締めて3000円」
「さん……、コイツいくつ盗んだんだ」
「3回に分けて計6袋だ」
 これまでに2回も盗まれていて、再び売ろうとするあんたは一体何なんだ。そう男は思ったが、もちろん口には出さずに自分の財布から3000円を支払った。
「いいか、嬢ちゃん。今日はそっちの若いのに免じて見逃してやるが、今度やったらただじゃおかねーからな」
「……ごめんなさい」
 あゆはしゅんとしながら口を開いた。
「今度はちゃんとお金を持って買いに行きます。おじさんの焼くたい焼きはおいしいから」
「お、やっぱりそうか」
「今日は本当にごめんなさいでした」
 言いながらあゆはぺこりと頭を下げた。
「また来いよ。盗みさえしなければアンタは一度に2袋も買ってくれる上客だ」
 そう言って笑いながらたい焼き屋のおじさんは去っていった。
 少しいいひと過ぎるのではなかろうか、と男は思う。こんなんだから3度も盗まれるのだ。この調子では、こいつにやる気があればまたやられるのではないだろうか。でもまあ、男の前で律儀に頭を下げるこの少女を見る限り、どうやら4度目はなさそうだ。
 おじさんが見えなくなったところで、あゆは横にいる男へと向き直った。
「あの、ありがとうございました」
「あー、いいよ。これで手を打とう」
 そう言って、あゆの持つ二つのたい焼きの袋の片方を奪い取る。
「あっ」
「ん? だめなのか」
「うぐぅ……。いいけど……」
「そーだろ。だけど万引きなんて二度とやんなよ」
「うん。もう二度とやらないよ」
 男はあゆが大きく頷くのを確認してから、袋の中からたい焼きをひとつ取り出し、口へと運ぶ。
「ん、結構うまいな」
「でしょ。ボクも大好き」
 あゆも自分の袋からたい焼きを取り出し、口へと運んだ。もぐもぐと口を動かす。本当に幸せそうに笑った。
「でさ、」男はほんの少しだけ真剣な口調になって言った。「お前、月宮あゆだよな」
「うん」とあゆは頷いた。「でもボク、お兄さんが誰なのか知らないよ」
「俺を知らねーの?」
 男は少し意外そうな顔をしたが、「まあ、そりゃそうか」と何かに納得したように、うんうんと頷いた。
 あゆにはさっぱり分からない。
「さっき、ボクの先生みたいなこと言ってたよね」
「ああ、言った」
「もしかして昔の学校の先生?」
「まあ、そんなとこだろ」
 男は曖昧に答えた。
「じゃあ名前は?」
「仲村」
 仲村。やはり知らない名前だ。
「仲村先生はなんでボクのこと知ってるの?」
「あ? なんだよ、仲村先生って」
「そっちが先生って言ったんでしょ」
「ああ、そうだったっけか」
 何がおかしいのか、仲村はケラケラと笑った。
 あゆは少しムッとした。
「そうだったよっ。それで、質問の答えは?」
「仲村」
「それはもう聞いたよっ!」
「ああ、そうだったっけか」
 そう言って仲村はまたケラケラと笑った。
 あゆは脱力して、もはや言い返す気にもなれない。
 このひとは祐一君以上に意地悪で変な人かもしれない……。
 これがあゆにとって、仲村と初めて出会った日だった。もちろん第一印象は最悪の一言だ。





 それからあゆは仲村と偶然に商店街で会っては話をするようになった。
 それはどれもこれも取り留めのない世間話のようなものだったが、そのどれもを仲村は真剣に聞いていた。といっても、見た感じは大して真剣そうではなかったわけだが。
 ある日は、
「月宮は学校行ってんのか?」
「もちろん行ってるよ」
「どこの」
「商店街のちょうど北の方に森があるでしょ。その近くだよ」
「ふーん」
「仲村先生は? どこ行ってるの?」
「俺はこれでも社会人だぞ」
「違うよ。仕事」
「先生」
「学校の?」
「そういうことでいいや」
「うぐぅ。いじわる」
「お前さ、そのうぐぅってヤツ口癖か? 直したほうがいいぞ、それ」


 またある日は、
「お兄ちゃん!?」
「はあ?」
「そうだよね。やっぱり違うよね」
 あゆは安心した様子で息を吐いた。
「当たり前だろーが。なんだそれ」
「祐一君がね、仲村先生のことを、そいつはボクの生き別れの兄妹に違いないって」
「なかなか変な友人がいるんだな。なあ、妹よ」
「先生といい勝負だと思うよ」
「それは話が合いそうだ」


 またある日は、
「もっとおとなしいヤツだと思ってた」
「ボクのこと?」
 あゆはきょとんとした表情をして聞いた。
「他に誰がいる」
「じゃあ、やっぱり昔に会ったことがあるのかな?」
「そりゃどうかなあ」
「いじわる」
「もう少し大人になったら教えてやるよ。じっくりと」
「うぐぅ。それ、言い方あやしいよお……」


 そしてまたある日に、
「昨日はね、名雪さんと秋子さんの家に泊まったんだよ」
「あー、確かお前の変な友達の下宿先の」
「うん。ふたりともとってもいいひと達なんだよ。なんかね、ボクも本当の家族になれたみたいだったんだ」
 あゆは満面の笑みを浮かべながら話した。その笑顔に仲村はほんの少しだけ、心の奥にチクリとしたものを感じた。仲村はそれを表には出さず、いつも通りの声と表情で言った。
「そりゃよかったな」
 言いながら仲村はあゆの頭に手を置いた。あゆはくすぐったそうに笑った。コツンと赤いカチューシャがその手に当たる。
「そういえば、これ」
「え?」
「随分と大切にしてるみたいだな」
「うん。これね、7年前に祐一君に貰ったんだよ」
「あー、なに? これも例の変な友達に貰ったのかよ。7年前に?」
「そうだよ。しばらくこの街を離れてたんだけど、最近になってまた帰ってきたんだ。外見はなんていうか、すごく、か、かっこよくなってたけど……、中身はなんにも変わってなかったから……」
 照れくさそうに顔を赤めて話すあゆを見て、仲村は思わず苦笑した。
「そりゃいいことだな」
「うんっ」
 あゆは嬉しそうに頷いた。


「それじゃあボクはここで」
 商店街の終わりまでふたりで歩いてきたところであゆは立ち止まった。
「また探し物かよ」
「うん。よく分かったね」
「お前とは結構何度も会ってるからな」
 そこで仲村はいったん口を閉ざした。何かを考えるように、ほんの数秒瞳を閉じる。そして、
「なあ、その探し物って……」
「ん?」
 あゆは笑顔で聞き返す。
 迷うことなんて何もない、ただ真っ直ぐだけを見た、そんな笑顔で―――。
「……いや、なんでもない」仲村は少しだけ首を横に振った。
「早く見つかるといいな」
「うん。じゃあね仲村先生」
 手を振り、再び商店街の奥へと駆けていくあゆを仲村は黙って見つめていた。やがて人混みに紛れ、その姿が見えなくなったところで小さく口を開いた。
「なあ」
 と独り言のように呟く。
 その探し物って……、
 もしかしてお前の記憶か?
 それが見つかって、それでもまだこの街にいる理由はあるのか?





 前日の夜、また少し雪が降った。溶け残ったそれは、夕陽の光を浴びて紅く紅く商店街を染めた。空にはうろこ雲が広がっていた。無数の雲も夕陽に照らされ、それはまるで金色の麦畑のようだった。悲しくなるほど綺麗な光景だ、と仲村は思う。
 仲村が最後にあゆに会ってから一週間が経っていた。今まではたまの休日に商店街をぶらぶらしていれば、何もせずとも向こうから駆け寄ってきたが、今日はいくら探しても羽根の生えた少女の姿を見つけることはできなかった。
 もう会えないのだろうか。
 そんな思いが仲村の胸をかすめる。
 いや。これまで月宮あゆに会えたのだってとんでもない奇跡の連続なのだ。これ以上何かを望むのは、それは贅沢なのではないだろうか。それに会えなくなったイコール悪いことというわけではないだろう。何か良いことの前兆かもしれない。
 そう頭の中で半場ムリヤリに結論付け、仲村はあゆを探すのをあきらめて来た道を引き返そうとした。
「あ」
 いた。
 あゆは商店街の入り口の道路の片隅で、夕陽を背にひとりたたずんでいた。長い影が仲村のすぐ近くまで伸びている。あゆの顔は仲村の方へと向けられていたが、逆光のせいでその表情はよく見えない。
「よ。久しぶりだな、月宮」
 そう言って仲村はあゆへと駆け寄った。あと数歩のところでその足が止まる。
「……どうした」
 泣いていた。目を真っ赤に腫らして、大粒の涙を流しながら。この前会ったときとは全然違う、真っ暗な暗闇しか映っていないような、そんな瞳だった。
「せんせぇ……」
 あゆは消え入りそうな声で、一言、ようやく口からそう絞り出した。
「……ボク、思い出したよ」
「……」
 仲村は瞬間、ほとんど全てを理解した。
「7年前のこと……」
「そうか……」
 それは、辛かったよな。
「……先生は、知ってたの?」
 仲村は観念したような顔をして頷いた。
「知ってる。たぶん、全部な」
「そうだよね。最初からボクのこと知ってたもんね」
 あゆはうるんだ瞳で少しだけ微笑んだ。
「悪かったな」
「何が?」
「さあ……」
 何がだろうな。
 仲村にだってよく分からない。
「先生」
「ん」
「ボク、これからどうすればいいのかなあ」
 そう言ってまた顔をくしゃりと沈めた。
 仲村は少し考え、すぐに口を開いた。
「探し物は?」
「祐一君が見つけてくれた」
「まだ受け取ってないのかよ」
「うん」
「じゃあまずはそれを貰って来い」
「それで?」
「それで? じゃあ、いい雰囲気になったところで愛の告白とか」
「もうしたよ」
「なに。意外とやるんだな」
 だんだんとコントになりつつあるな、と仲村は思う。まあ、それは悪い流れではないはずだ。
「とにかく、まずはその彼氏に会って来い。全部はそれからだろ」
「会って……、なんて言えばいいのかな」
「月宮が思ってることを言えばいい」
「ボクのこと、忘れてください」
「バカじゃねーのか」
「だって!」
 あゆは口調を強めた。
「だって、それが一番いいんだもん! 祐一君には、それが一番いいんだもんっ!」
 そう叫ぶと、再び俯いて嗚咽を吐きながら泣き出した。
 仲村は小さくため息をついた。ああ、なんてこの子は優しいのだろう。そして、なんて強い子なのだろう。
 右手であゆの頭をそっと撫でた。
 コツ、と頭のカチューシャが仲村の手に触れた。
『7年前に祐一君にもらったんだよ』
 そうあゆは言った。笑いながら。
 なわけねえだろ。だって赤いカチューシャなんて俺は知らない。見たことも聞いたこともない。幻だ。全部、全て幻だ。目の前のこの少女も、その思いも、記憶も。ああ、それはなんて悲しいことなのだろう。
 こういうのを奇跡というのだとすれば、それはあまりのも残酷な奇跡だ。誰がこんなことを望んだのだろう。それはもちろん、この子だ。
 仲村はあゆの体をそのまま優しく抱き寄せた。
 涙で震えるあゆの体を肌で感じた。仲村の胸の中で泣く少女は触れたら簡単に壊れてしまいそうな、そんな小さな体だった。なんでこんな小さい女の子が、こんなにも苦しまなくてはならないのだろうか。
「お前はどうなんだ?」
「え?」
「お前はそれでいいのかよ」
「……」
「いいわけないよな」
 少しだけ間があって、あゆは無言のままコクリと頷いた。
「だったら本当の思いを伝えろよ、彼氏の気持ちなんざ無視してさ。わがままだろうが何だろうが、全部言っちまえ」
「……本当にいいのかな」
「許してくれるだろ、きっと」
「……」
「お前の彼氏だもんな」
「……うんっ」
 あゆは大きく首を縦に振った。
 その瞳にはまだ涙が溜まっていたけど、それでも彼女はもう笑っていた。もう迷うことなんて何もない、ただ真っ直ぐだけを見た、そんな笑顔で―――。


「ボクいくね。学校に祐一君を待たせてるんだ」
「それは急いだほうがよさそうだな」
 西の空にあった夕陽はさらに地平線へとその位置を一歩近づけていた。東の空はもう暗い。
「じゃあね、仲村先生。ありがとう」
「おう」
 あゆは駆け出した。が、すぐに振り返った。
「先生っ」
「あ?」
「ボクね、7年前のこと全部思い出したけど、仲村先生が誰なのかは分からなかったんだ」
 声のトーンを落としてあゆは言った。
「まあ、そりゃそうだろうな」
 7年前の時点では仲村もあゆのことを知らないのだから。あゆの記憶の中に仲村がいるはずがない。
「また、会えるよね」
 遠慮がちにあゆは訊ねた。
「当たり前だろ」
 呆れたように仲村は答えた。
 あゆは安心したように頷き、今度こそ商店街の奥へと走り去った。
「当たり前だろ」
 仲村はあゆが駆けて行った方向を眺めながら、もう一度小さく呟いた。そして、
「がんばれ」
 とんでもない運命に立ち向かっていくだろうあゆの小さな背中に大きくエールを送った。





「仲村先生」
 背後から仲村を呼ぶ声が聞こえた。
 振り返ると、ひとりの女性が買い物袋をぶら下げて立っていた。
「よお、安藤」
「どうしたんですか、こんなところで」
「どうも?」
「夢見てたみたいな顔」
 言われて、仲村は自分の頬を思いっきりつねった。猛烈に痛い。
「……何してるんですか」
「夢、か」
 仲村は小さくそう呟いた。
 そうなのかもしれないな。もしくはあの子の夢の中だったのだろうか。まあ、そんなのはどっちだっていい。
「先生?」
 不思議そうな顔をして安藤が仲村の顔を覗き込んだ。
「お前な、病院の外で先生っていうの止めてくれないか」
「他のだとなんだか呼びづらくって」
「同期なんだからお互い呼び付けでいいだろ」
「歳は私のほうがひとつ上ですけどね」
「それは失礼しました、安藤看護婦」
「看護師です。セクハラですか、先生」
 なんでそうなるんだ。
 ほんの数秒、変な間が出来た。
「でも、本当にめずらしいですね。先生が商店街にいるなんて」
「……不思議なヤツに出会ってさ」
「不思議なヤツ?」
「なあ、308号室の患者、覚えてるか?」
「えっと、月宮あゆさん?」
「そう」
「月宮さんがどうしたんですか?」
「いや……。もうすぐ目、覚ますかもしれないな」
 そんな気がした。
 安藤はそこで少し怪訝そうな顔をした。
「でも、月宮さんはもう7年も昏睡状態のままですよ。そういう軽はずみな発言は失礼なんじゃないですか。それに……、それにもし目覚めたとしてもあの子にはご家族ももうみえないし、友達も……」
「そんなことねーよ」
「え?」
「家族はいるし、生意気にも彼氏だっているらしいぞ。友達は、俺とお前でなってやればいい」
「わたしと、先生が?」
「そう」
 安藤は何かを想像するように口を閉じた。そしてすぐに吹き出した。
「そうなれば面白いですね」
「おい、それはどういう意味だ」
 安藤はくすくす笑った。
「今晩、ご飯一緒にどうですか。わたしの手料理でよければごちそうしますよ」
 どこか楽しそうな声でそう言いながら、買い物袋を上げて見せる。
「なに、いいのか」
「先生がよければ、ですけど。それに不思議なヤツの話、もう少し聞かせてほしいし」
「話すのは構わないけど―――、普通はとてもじゃないけど信じられない話だぞ」
「信じる信じないはわたしが決めます」
「まあ、そりゃそうだな」
 言いながら仲村は商店街の北、大きな森のあるほうへと目をやった。その空には一番星らしき輝きが見えた。
 あの空の下、彼氏の待つ学校であの子は何を思い、何をしているのだろう。あの子が何をして、また何を言っても、それはお互いの悲しみを膨れ上がらせるだけのようにも思えた。
 しかし仲村にはなぜか確信しているひとつの思いもあった。
 それでもお前はきっと乗り越えられるはずだよな。
 だってあのとき、笑って手を振ってたもんな。
 お前ならきっと、大丈夫だよな。
「先生、聞いてます?」
「じゃあ、カレー」
「全然違います」
「じゃあ、楽に焼肉でいいや」
「とりあえず食べ物の話じゃないんですけど」
「またな、月宮」
「はい?」
 そう言って仲村は北の空に手を振った。

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