人生。
人が、それぞれ独自に歩んでる道。
それは日々様々な選択と偶然によって決まってゆく。
小さな奇跡の下に少年と少女は出会い、大きな選択と再度の小さな奇跡のお陰で、今…二人はともに歩む。
そして……二度目の冬を迎えようとしていた。
10月31日 日曜日
「…暇だな」
少女はつぶやいた。
「…祐一さんの、意地悪」
もう一声。
何しろ、何日もデートしてくれていないのだ。
相手が受験生だという事は解っているのだけど…それでも、お預けを食らっている身としては「たまには」などと思ってしまう。
…ようやく、人並みには動けるようになったのに。
色々な場所に、行けるはずなのに。
「はぁ…」
ため息が出る。
…ふぅ、こんなこと考えてても始まらないよね。
「アイス、食べよ」
少女はベッドから腰を上げて、ぷらぷらしてた脚で床に降り立った。
くらっ
ふっと、景色がずれる。
膝がくだけてしまったみたいだ。
「あれぇ…?」
…もう、なんともない。
風邪だろうか?
…アイスを食べる気が失せて、少女はベッドにもぐりこんだ。
白い世界を見つめて
11月1日 月曜日
十一月に入った。
冬の色も濃くなり、この街では雪すら珍しくなくなってくる。単刀直入に言うと、非常に寒い。最低気温は氷点の近くを前後し、寒がりには辛い季節となってきていた。
そして、典型的な寒がりが…ここに一人。
「…どうしてこの街はこんなに寒いんだ」
「北国ですから」
美坂栞は、恋人が吐いた弱音とも取れる言葉をいともあっさりと返す。
当の相沢祐一は栞の言葉が耳に入っているのかいないのか、ただ大仰に震えていた。
「だらしがないですよ。去年も寒い中アイスを食べたじゃないですか」
「…俺は食う前も食った後もぶるぶる震えてたぞ」
「そうでしたか?」
「ああ、そうだ」
「そうだったんですか……」
何故か栞がしゅんとなる。
…というか、目の前で思いっきり彼は寒がっていた筈だ。…胃腸薬も請求してたし。
「……」
「……」
「…いや待て、なぜそんな事でこんな雰囲気が暗くならなきゃいけないんだ?」
状況の急変についていけず、困惑する祐一。
だが、暫くすると平然として顔を上げ、祐一を見てにこっと笑った。
「なんとなく、です」
…多分、確信犯だ。そうに違いない。
祐一はそう断定した。
「…こっちは困る」
「まあまあ」
「はぁ……たまには放課後どこかに行こうと思ったら、その矢先にこの仕打ちか…」
「えっ?」
成績のせいで推薦が取れなかった祐一は、当然受験勉強をせざるを得ない。従って二人にとっては、この朝の登校時間も結構貴重な時間だったりする。デートなんて、一月も前の話だ。
だから当然、栞は鬱屈していた訳で…祐一のこの言葉はかなり重大なものだった。
「…勉強は大丈夫なんですか?」
「たまには遊ばないと腐る」
「腐りませんよー、生き物ですから」
「生物(なまもの)だけどな」
「そしたら世界中がナマモノで埋まってるってことじゃないですか」
「そういう事になる。これから生ごみの日は気をつけよう」
「生でも祐一さんはごみじゃないので安心してください。…それよりも、本当にデートしてくれるんですか?」
祐一が繰り出すいつもの冗談を早々と受け流すと、自分にとって重要な話題に替えた。
「…デートって言うな」
「何でですか? 私たち恋人同士じゃないですか」
当然のこと、と事も無げに言う栞。
…だが、祐一にとってそれは…。
「…いや、その…そう言われると恥ずかしい」
栞と恋人同士なのは別に隠すことじゃない。
だが、祐一にはそれをはっきり口にする事に対して「照れ」があった。
…もう半年も経つし、普通なら慣れるものだが。
祐一がそっぽを向いて、それを見て栞が笑って…そんな事をしている内に、二人は昇降口に着く。
「じゃあ放課後、校門で」
「あ、祐一さん」
「ん?」
祐一としては、さっさとほとぼりを冷ましたかったのだが、栞がそれを引き止めた。
「今日は折角ですから、私服に着替えて行きましょうよ」
「何でだ?」
「暫く制服姿しか見てませんから」
久々に出来る事となったデートを、いつもと同じように過ごしたくはない。
栞は、そう思っていた。
「ん…そうだな。じゃあ、一時間後に駅前で」
「はい」
そう言って、二人は各々の教室へ向かった。
「ここに来るのも久々ですねー」
「ん、そうだな…九ヶ月振りか?」
「一月振りです」
「…いや、この雪景色は九ヶ月振りだろ」
「えー、なんですかそれ」
「ちょっと独自な発想をしてみた」
昨夜の雪が少し積もり、真っ白な公園。
とても印象が強く、その後姿を消してしまっていた、雪の公園。
だからこそ、祐一は「九ヶ月振り」と言ったのだが…。
「それにしても、改めてみると…変わらないな」
「祐一さん、去年と今年の景色は違いますよ」
「…そうか? 俺には『懐かしい』という感情しか湧かないんだが…」
「…それでも、去年の雪景色とは違いますよ」
祐一は、栞がやんわりと何かの意思を示していることに気付いた。
顔は微笑んでいるが、なんとなく違和感を覚える。
「どこが?」
「一年経って今私たちが見ているこの風景は、何もかも違うんですよ」
「……?」
「噴水の水も、積もってる雪も、私も、祐一さんも。みんな、一年前とは変わってます」
何かに真剣な栞。
平然と見せながらも、どこか焦っているような雰囲気。
まるで、あの冬の時の様に…。
「…そうだな…色々変わった」
「でしょう?」
「ああ」
「…ところで、今のドラマ…」
「そうだな」
栞が言い終わらない内に、祐一がぐしぐしと乱暴に栞の頭を撫でる。
首をすくめる栞は、さながら小動物の様に見える。
「わっ、髪がぼさぼさになりますっ」
「結構頭撫でるのって気持ちいいんだよな」
「なんですかそれ……くしゅんっ」
抗議する途中で、栞がくしゃみをする。
「ん? 大丈夫か?」
「…ええ、大丈夫ですよ。全然平気です」
「本当に平気なのか?」
祐一が心配そうに声をかける。
この雰囲気――周りの寒さも手伝って、不安が一気に押し寄せる。
「はい。……多分、この寒さで身体が思い出してるだけなんじゃないでしょうか」
「……」
しかし、ストールを胸元に手繰り寄せる仕種はとても弱弱しかった。
栞の病気は結構長かったはず。確かに最後の季節は寒かったが、『思い出す』なんて事があるのか。
…不安は拭えない。
「本当に、大丈夫なのか?」
「しつこいですねー。大丈夫ですよ、ほら」
そう言って栞は一歩先に進むと、くるりと回ってみせる。ひらりと舞うストールが、とても印象的だった。
「…ね?」
「…栞がそう言うならいいんだが…」
その日は、早めに公園を出て百花屋にいた。
家に帰って夕食を摂った後も、俺はずっと考えていた。
栞の言葉を信じたいと思う。…だが、俺にはあの公園で栞が見せた仕種がどうにも頭から離れなかった。
「…あれから、もうすぐ一年か…」
そんな事、全然考えもしなかった。
ひたすら、勉強と栞のことだけ。その二つだけしか、三年に上がってから気にしたことは無いと思う。
コンコン
「祐一、入ってもいい?」
「…ん、名雪か。勝手に入ってくれ」
「うん」
そんなやりとりがあって、名雪が入ってきた。
別に従兄妹なんだから気にする必要は無いと思うんだが…名雪に取ってみれば全然そんな問題じゃないらしい。
「どうした?」
「あ、勉強で解らないところがあるんだけど…」
そう言われても、既にベッドでうつ伏せになっている俺にはそんな気は起こらない。…栞のことで頭が一杯だし。
…だけど、招き入れておいて放っておくのも何だか悪い。
「…どこだ」
俺は、のそりと起き出した。
その時、一瞬強く眩暈を感じた。
少し、ふらつく。
「祐一、どうしたの?」
「…いや、なんでもない」
…嫌な予感がした。
――その嫌な予感は当たっていたのだ。
…二週間後、栞は入院した。
11月13日 土曜日
「……つまり、あの病気が再発したという事です」
――何故だろう、一年前聞いた時より冷静に聞いていられるのは。
…既に予測済みだったからかも知れない。
人の身体というのは、治療したからといっても丈夫になる訳ではない。むしろ、病に罹る前より弱くなっている。
長い間栞を苦しめていた病が完治したとしても、栞が病弱だという事に変わりはない。
それだけ、栞はあの病に冒されていた。
栞の家族はみな涙を流している。しかし、祐一だけ涙は出ない。
何だかいたたまれなくなって、診察室を出た。
「…あなたは、泣かないのね」
「…何でだろうな」
香里だった。
「悲しくないの?」
「まあ、病気が再発したことについては悲しいさ」
「じゃあ、何で?」
「何でだろうな……」
祐一は窓の外を見た。
何故か、外がとてもまぶしく見える。
「…多分」
「……」
「また、奇跡が起こるんじゃないかと…どこかで思ってるからかな」
「…そう」
…沈黙。
「『起こらないから奇跡っていう』」
「…え?」
「…また、起こればいいな」
「……ええ」
「あ、祐一さん…来てくれたんですねっ」
「栞、元気…」
栞はにこやかに笑う。
しかし、祐一は言葉を失っていた。
栞は肌が白いと思っていたが、病院の淡い色合いに溶け込むように馴染んでいる。
…嫌な意味で、栞には病院が似合う……そう思った。
「どうしたんですか?」
「…ああ、いや、なんでもない」
「祐一さんこそ具合大丈夫ですか?」
「入院するほどじゃない」
「うー、耳が痛いです」
「痛かろう痛かろう」
「わ、そんな事言う人嫌いですー」
先入観からか、その声はどことなく弱弱しい。
「…栞」
「お医者様から何か言われたんですか?」
その言葉は、すべてを知った上で発せられている様だった。
あの時…多分、既に栞は知っていたんだろう。
「…病気が再発したらしいな」
「うーん、ちょっと違いますけどね」
「…どういう事だ?」
「病名は同じですけど、同じ病気ではないという事です」
表面だけでは意味が取れない言葉。
「…さいころの目が続けて『1』を指しても、二回目の『1』は同じ『1』とは限らないんですよ」
「…何かの哲学か?」
「そういう言い方も出来ますね」
「…俺は天才じゃないからよく意味が解らないんだが…」
「つまりですね…所詮は、人間が『同じものだ』と決め付けたものでしかないという事です」
「むぅ…つまり、栞は謎掛けをして遊びたいんだな?」
「違いますっ」
「だったらなんだよ」
売り言葉に、買い言葉。
「だからですね、この病気の結末は同じものとは限らないんですよ。…公園の雪が、一年前とは変わってしまった様に」
言ってしまった…言われてしまった、一言。
早く気付いてくれればいいのに。
そんな事言われなくても解ってるのに。
二人のこころはすれ違っていた。
栞の家族は気を利かせて居なかったので、二人きり。
…雪の降る日は、静かだった。
11月21日 日曜日
一週間後。
今日は久々に雲が晴れ、少しだけ暖かな日差しが感じられた。
そんな外の様子を見ながら、俺はベッドの上で寝転んだまま、何もする事が出来ないでいた。
そのまま寝ていると、ノックと共に名雪が入ってきた。
「あれ、祐一、部屋にいたんだ」
「どうした?」
「栞ちゃんのお見舞いに行かないの?」
「…ああ…。…今日は、行かない」
「昨日もそんなこと言ってたよ…」
「…そうだったか?」
「そうだよ〜」
「そうか…」
「…栞ちゃんとなにかあったの?」
「別に、何もないさ」
正直、今は会えなかった。
また、あの雰囲気になったら…そう思うと、足が出向こうとしない。栞は寂しがり屋だから、絶対行くべきなんだが…。
栞の病気が前と同じ様に行かないのは、ちゃんと気がついていた。
医者が「快復したのが奇跡」と言っていた位だから、今回入院しても現状維持が精一杯だろう。それに、一度は克服した病気に再び罹るという事は、身体には僅かしか抵抗力が残っていないという事だ。
…ふと、もうすぐ会えなくなるかも知れない、と考えた。
「…祐一、どうしたの?」
名雪が、(多分)おたおたしながら様子を伺ってくる。
「…なんだ、俺も泣けるじゃないか」
「え?」
「…悪い、ちょっと一眠りする」
「あ、うん…ごめんね、なんか悪いことしたみたいで」
「いや…お前のせいじゃない」
「…ふぁいと、だよ」
「おう」
ぱたん
ドアが閉まる。
また、静寂がやってくる。
…頭が重い。
死んだように眠れるなら、この重さも楽になるんだろうか。
そんな事を思いながら、俺は意識を手放した。
今日の面会時間を過ぎても、祐一さんは来なかった。
四月から殆ど欠かさずに見てきた、愛しい人。
「…変なこと言っちゃったよなぁ…」
中々気付いてくれない風の祐一さんに対して、珍しく感情的になって言わなくていい事を口に出してしまった。…感情的になる様になったのは、春からだった気もするけど。
でも、あそこまで言って気付いてくれない祐一さんも祐一さんだ。…と、自己弁護してみる。
けれど、からかったりとぼけたりするのが好きな祐一さんの事だから…本当は解っていたのかも知れない。
「やれやれ、とうとう一週間来なかったわね」
病室に入るなり、お姉ちゃんが言った。
なんだか、私以上に不機嫌そうだ。
「仕方がないよ、お姉ちゃん」
「確かに、推薦取ったあたしとは違って相沢君は大変だと思うけど…ねえ?」
「祐一さんの人生は祐一さんのものだから、私がどうこう言うのも…」
「まったく、栞は甘いわね」
「私は甘いものの方が好きだよ?」
「…朱に交われば赤くなる、か…」
「付和雷同、って言ってよ」
「…あなた、意味解って使ってる?」
私とお姉ちゃんは、平均よりは仲が良いと思う。だけど、あの冬の時はまさに最低の状態だった。
あれから、今の状態になる為のきっかけを作ってくれた人。
私に生きたいと思う心を思い出させてくれた人。
…それが、祐一さんだった。
当然、私が今ここに生きているのは祐一さんのお陰だと思ってる。
…これで、もう会えないままだとしたら…結構悲しい終わり方だと思う。ゴールデンは無理でも昼ドラは確実に取れそうなくらい、悲劇的。
「…お姉ちゃん、ちょっと外出てきていいかな?」
「え? どうするの?」
「ちょっと、外の風に当たりたくて」
お姉ちゃんは暫く考えていたようだけど、少しくらいなら気分転換に、と許してくれた。
「でも、ちゃんと看護婦さん達に聞いてきてからね」
「はーい」
ストールを羽織りながら、お姉ちゃんの注意を受ける。
ナースステーションで看護婦さんたちと少しおしゃべりしてから、私は外に出た。
「…うん、いい気持ち」
外は静かで、少し雪が降っていた。暗い空に、白い雪はよく映える。
寒いけれど馴染みのあるこの空気は、私の肌を刺して中へ入ってくる。
「祐一さん、来ないかな…」
別に約束してた訳じゃない。
大体、考えるだけで来てくれるんなら、もうとっくに来てくれてるはず。
…まあ、恋人同士になる前に二度だけあったけど。
そんな、馬鹿な事を考えていた。
…だけど。
ざっ…
胸がとくんと鳴った。
背後から、足音の様な音が聞こえた。
まさか、本当に?
目が覚めると辺りは暗く、既に夜が来ている事を知らせていた。
…ここまで昼寝をするのは、随分と久しぶりだ。確か前回は……。
ふと、栞の事を思い出す。
栞は、今何をしているだろうか。
栞は、今何を考えてるだろうか。
居ても立ってもいられず、俺は壁際にかかっていたコートを引っつかむと、玄関へ向かった。
靴を履いている時間でさえ勿体無い気がして、もどかしい。
「…祐一さん、どこへ行くんですか?」
背中越しに、秋子さんの声。
「…ちょっと、病院まで行ってきます」
「そうですか…。雪がまだ少し降っていますから、視界と足元に気をつけて下さいね」
「解りました。ありがとうございます」
気遣ってくれる秋子さんに挨拶だけして、俺は早々と夜の闇に飛び込んだ。
水瀬家から病院まで、少しある。走って、15分程度の距離だ。
…俺は、どうかしてたんだろうか。
死んだらもう栞とは会えない。だとしたら、何故俺はその短い時間さえずっと会おうとしなかったんだ?
それに、前回俺達が出会った事で余命宣告を跳ね除けたと考えれば、今回俺が会う事で何か変わる事もあるんじゃないか?
気まずいとか、そんな事を悠長に考えてるほど、時の流れは遅くない。
結末とか、そんなのはどうだっていい。…そう考えていた、あの冬の俺はどこにいった?
頭が、いやに冴える。
なんかもう、すごく開放された気分だ。
雪まみれの筈の足も軽い。
「栞…」
『出会う事がなければ、別れる事もない』
そんな考えを持ちながら、出会いと温もりを求めた栞。
あの時の言葉は…『もっと一緒にいたい』という意味だったんじゃないのか?
「栞……っ」
早く、栞に会いたい。
それしか考えられない。
病院の明かりが見える。
そして、入り口が――。
足音に聞こえたその音は、闇に包まれて正体を現さない。
私は何を思ったか、その音が聞こえた方向へ走り出す。
だけど、最近運動していない身体はうまく言う事を聞いてくれず、雪につまずく。
「あっ」
ぼふっ
荒らされていない雪のじゅうたんの上に、一人倒れこむ。
顔が埋まってる所為か、音が何も聞こえない。
怖くなって、雪まみれの顔を起こす。
一面の、闇。
…寂しい。
本当に寂しい、闇の中。
雪の上にへたりこんだまま、両手で自分の身体を抱きしめる。
「栞…大丈夫か?」
「…え…?」
意外な、そして望んでいた人の登場。
この一週間、ずっと会いたかった人の姿。
じゅうたんに一筋の足跡を付けて、音と光をくれた人。…これからもくれる人。
「こんな所で何やってるんだよ…」
「…ゆ、祐一さんが来ないかな、って…」
「あの時も偶然だ。毎回そう都合良く現れる訳ないだろ」
「…でも、来てくれました…」
色々気が抜けたのと、大好きな人に会えた事で、今の私の顔はすごく緩んだ顔になってるだろう。
そう自分でも思うくらい、顔がにやける。
…自分が思いっきり転んだ事も、雪の上に座っている事も忘れて。
「…栞、ごめんな」
祐一さんが、私に覆いかぶさる様にして抱きしめてくれる。
…あたたかい。
「今まで一週間も見舞いに行かないで、本当に悪かった」
「…本当です」
「反論の余地も無い」
「でも…今はこうして来てくれたから嬉しいです」
最初は些細なすれ違い。
だから、会ってしまえばもう、そんな事はどうでもいい。
「栞…」
「…なんですか…?」
ちょっと夢見心地で、祐一さんの言葉に反応する。
「…もう一度、『1』が出るように頑張らないか?」
…『1』…。
私が例えに出した、さいころの話。
「…出るかどうか、判らないんですよ?」
「ああ」
「…ずっと一緒にいると約束してくれるなら…頑張れるかもしれません」
ちょっとした、私のわがまま。
「一週間じゃないのか?」
「前の約束とは、違いますから」
前の約束……一週間の『約束』。
私達の中で、一番初めに思い出す『約束』はそれだった。
「また、ずいぶんと甘えんぼになったな」
「私に…『頼る』という弱い心を教えてくれたのは祐一さんです」
「そうか?」
「ええ、そうです」
祐一さんは、私が一度捨てたものをまた拾い直させてくれた。
だから…祐一さんが「頑張れ」と言うなら、私は頑張れます。
「さあ、早く中に入ろうか」
「あ、ちょっと待ってください」
「ん?」
「…答えをまだ聞いてません」
「…ああ」
祐一さんは、少し溜めてから…一言。
「約束する」
12月12日 日曜日
あれから、更に三週間が経った。
十二月も半ば、もうすぐ二学期も終わろうとしていた。
「時が過ぎるのは早いですねー」
「そうだな…もうすぐクリスマスか」
「多分、今年もホワイトクリスマスでしょうね」
「…だけど、この街にとっては珍しくも何ともないな」
「ええ、その前も後も、大体降ってますから」
「都会じゃ本当に珍しい事の様に扱われるのに…ここだとありがたみがないな」
「…北国の特権と言ってください」
「いくら特権でも、得した気分にならないのはなあ…」
「いいんです、特権なんです」
栞と迎える、初めてのクリスマス。
まさか、病院の中で迎える事になりそうだとは思いもしなかった。
「…栞、俺ちょっと飲み物買ってくる。何が飲みたい?」
「何が良いと思いますか?」
「牛乳」
「…どうしてですか?」
「アイスの原料だから」
「…私はアイスが好きなのであって、特に牛乳が好きな訳じゃないです」
「でも同じ乳製品だろ」
「はぁ…もういいです。それじゃあ、えーと……ミルクティーお願いします」
「やっぱり乳…」
…枕が飛んできた。
病院の廊下を歩く。最初は匂いやら雰囲気やら居心地の悪い場所だったが、今はそれもない。
自販機にたどり着いた時、向かいから足音が聞こえた。
香里だった。
「急に毎日来るようになったわね」
「まあ、個人的な事情だ」
香里が、ふっと静かに微笑む。
最初会ったときは結構くだけて明るい性格だと思った。だが、香里はこういう仕種もとても似合う。
こういうのを「大人っぽい」というのだろうか。
「…どうしたの?」
少し、黙っていたらしい。
「ちょっと付き合ってくれないか?」
「…あなたには栞がいるでしょう?」
「…いや、そんな思いっきり動揺した顔を見せられても」
「冗談よ」
香里も基本的に俺と同類らしく、からかうのが結構好きらしい。
「…さて、どんなお話かしら?」
「いや、何もない」
「…人を呼び止めておいて、それなの?」
「最近話してなかったからな、なんとなくだ」
「…感覚主義は相変わらずね」
話す事も思いつかないまま、廊下の傍にあるベンチに座ったまま。
そのまま、時が流れる。
ふと外を見る。
見えるのは、雪の白。……真っ白な世界。
「…そういえば、さ」
「なに?」
「最初、栞に会ったときの印象が…雪の様に白い、だったんだよ」
「まあ、あの子は病院暮らしが長かったし…この街はあまり日差しが強くないから」
「そこで、だ……「栞」と「白い」がアナグラムになってるのはそれを狙ってるのか?」
「…そんな事が言いたくて、この寒い中に座らせてた訳?」
ここは棟と棟の間にある渡り廊下の様なところで、結構寒い。
外から入ってくる冷気で、他の場所より断然冷える。
「…いや、単なる思い付きだ」
「じゃあ、本当に何の脈絡もない訳ね…」
「そうだ」
「はぁ…あなたの感覚を信じたあたしが馬鹿だったわ」
そう言って、香里が席を立つ。
「なあ、香里」
「…なに?」
「俺は、やっぱり寒がりだ」
「…それが何よ?」
「でも、今は…その世界が続いて欲しいと願ってる」
「……そうね」
香里はそれだけ言うと、栞の病室の方へ向かっていった。
「俺も、ミルクティー飲むか」
そう呟いて、俺は席を立った。
12月20日 月曜日
「あ、祐一さん」
「おう、祐一さんだぞ」
いつも通りの挨拶をする。
部屋には、栞の他に香里と栞の主治医が居た。
…主治医?
何しに?
定時検診の時間じゃあ…。
「そんなことより、聞いてください」
「…何を?」
「実はですね…クリスマスイブ、外出許可が出ました」
思わず、主治医の方を見た。
主治医は微笑んでいたが、何かひっかかるものを感じた。
「今の内はまだ体力もあるし、折角だから遊びに行った方がいいと思うんだ。ただ、激しい運動さえしなければね」
多分、香里は気付いているだろう。もしかしたら、栞自身も気づいているかもしれない。
そんな、小骨がのどに引っかかった様な気持ちを抱えて、俺は会話を続けていた。
「…そうか…じゃあ、どこに行くか決めておいてくれ」
「こういうのは、男の人が決めてくれるものですよ」
「そういったのは…苦手なんだ」
「うー、雰囲気台無しです…」
「相沢君にそういうものを求めるものじゃないわ」
「…最近、俺に対して厳しいな」
「相沢君が馬鹿な事をするからよ」
「…完敗だ」
「祐一さん、頑張ってください」
「いや、だから完敗だって」
「祐一さん、頑張ってください」
二人して、俺を貶めにかかる。
まったく、ひどく頭の回る姉妹だ…。
「さあて、帰るか」
「えっ、もう帰るんですか?」
「このまま居ても、二人に苛められるだけだしな」
「あ、その…」
少しからかってやっただけで、しゅんとなる栞。なんか小動物みたいで、思わず頭を撫でてしまう。
ひとしきり撫でた後、俺は「またな」と言って病室を出た。
…その時。
「相沢君」
呼ばれて、振り返る。
…香里ではなく、主治医だった。
12月24日 金曜日
クリスマスイブ。転じて、聖夜という事は解っているもののこの日の根本的な意味を理解していない日本人の馬鹿騒ぎ日。
…毎年毎年、騒ぐ方も売り上げに精を出す店の方も頑張るな。
大体、女性陣も何でこぞって騒ぐのか。元々クリスマスツリーが目当てだったんだろうか。まあ確かに綺麗だが、それは本場の人たちにとってはメインじゃないだろう。
「…祐一さん」
「おう、何だ?」
「また、下らない事考えてますね?」
「いや、真面目に考え事してるんだ」
「…デート中にしないで下さい」
「ああ…悪い」
いつもの商店街に、小さい広場がある。そこでもクリスマスツリーが飾られるというので、結局いつもと同じようなところを回る。
そんなものだから栞が怒ると思ったが、割と内容はどうでも良かったらしい。…というか、俺のことだから、と不問にしたのかもしれない。
「門限は何時なんだ?」
「えーと…十二時です」
随分と長いな。病人が出歩く時間じゃない。
…まあ、それは俺への猶予を図ってくれたんだろう。
「今の時間は?」
「八時です」
「そうか…そろそろ、行くか?」
「そうですね、行きましょう」
栞は俺の手を取ると、嬉しそうに歩き出した。
クリスマスツリーは、大きかった。
…本物の木を使ったクリスマスツリー、初めて見た。
「実は、ここの商店街はツリーに力を入れてるんですよ」
…というか、この商店街全部がイルミネーションに包まれている。かなりクリスマスという行事自体に力を入れているようだ。
特に、このツリー近くは黄色の光に包まれ、半セピア色になっている。
周りには、俺達と同じような組み合わせの人達が、大きな喧騒を生み出していた。
普段なら鬱陶しい音も、この光の中で…幸せそうに感じて。
「…ここで、唐突なんだが…」
「はい?」
「栞に、伝えたい事があるんだ…」
ツリーに付けられた飾りは各々きらきらと光って…それが十字の筋となって、視界一杯に輝く。
俺には…一つ一つでは弱弱しい光が、寄り添っているように見えて。
「…なんですか?」
「この間………栞の余命を聞かされた」
喧騒が、消えた。
手が、ぎゅっと強く握られた。
−−月−−日 −曜日
「君には知っておいてもらいたかったんだ」
私はそう言った。
昨日の内に、栞ちゃん以外の人には伝えてある。
相沢君は、うつむいたまま暫く動かない。
「…残念ながら、去年と同じ状況になってしまったけど…」
「違いますよ」
相沢君は、私の言葉をさえぎって、こう言った。
「去年とは、違います。…今この時点で、俺がいる。香里も、支えてくれる。去年とは、全然違いますよ」
一種の屁理屈なのだろうか。
そんな事言ったって、結局大差ない。『病は気から』とは言うが、それにも限界がある。成功する確率はないと思われたあの方法を試してみた時には、既に二人は栞ちゃんの傍にいたじゃないか。
あの時は雰囲気に呑まれて言えなかったが、今度聞いてみよう。
「先生、そろそろお時間です」
「あ…はい」
…いや、これは果たして聞く必要のある事だろうか。
二人が二人なりに納得しているなら、私が無駄にしゃしゃり出ることではないんじゃないだろうか。それに…前回と同じではないと理解しているなら、この結末が喜びで終わるとは限らない事も解ってるという事だ。
…前回と同じだろうが、全く違おうが、私は全力で望むだけだ。
除夜の鐘が聞こえる。
すべてを吸い込んでしまう雪も、近所の寺が鳴らす鐘の音は消せないみたいだ。
「…次の…私の、誕生日…」
自分の身体の事は、よく知ってるつもりだ。
退院後の定期健診が終わってしばらくした頃、身体に感じた…嫌な意味で懐かしい感覚。その時、確証はなかったけれど…やっぱり、その通りだった。
退院してもあまり食べられなかった私は、最近になってようやく一通りの事を心配なく出来るようになった。長い間入院して、更に危ない橋も渡った身としては、体力回復はとても時間のかかるものだった。
…だから、怖かった。
祐一さんと約束した。
その約束で、私は頑張れると思った。
…けど。
だけど。
なんでまた、私なんだろう…。
「…こわいよ…」
1月11日 火曜日
新学期を迎え、受験生の中には追い込まれて近寄り難くなった者と、諦めて倦怠感が溢れている者、肩の荷が下りて清々している者とがいた。
…ただ、そのどれにも属さない者がいた。
相沢祐一である。
「相沢君」
「…なんだ?」
「…暇ね」
「ああ」
今は、受験生の事を考えてか自習だった。三学期の分まで先にやってしまって、三学期を丸々自習の為に空けておいてあるのだ。
その為、何もする事のない推薦合格者は、必死に勉強している受験生を冷やかす事に夢中だった。
祐一は受験生だけども、そんな事を考えている余裕はなかった。何より、一番身近な受験生である従妹すら隣でくーっと寝てしまっている。
「……俺の居場所は、ここじゃない」
「いってらっしゃい。担任にはあたしから何か言っておくわ」
「助かる」
祐一は香里に後始末を任せると、教室を出た。
今、祐一が在るべき場所――栞の所へ向かって。
30分後、俺は栞の病室の前に立っていた。
…あれから結局、行く機会を失って来れず仕舞いだった。だから、今入るのも気が引ける。だが、別に喧嘩して別れた訳じゃない。
意を決して扉を開けると、じっと窓の外を見ている栞がいた。
「…よう、元気か?」
「…祐一さん!? どうして今、こんなところに…?」
「学校がつまらないから抜けてきた」
「だ、駄目ですよ、ちゃんと勉強しないと」
「別にいいんだ」
「どうしてですか? あんなに勉強していたのに…」
「別に、栞から離れてまでやりたいとは思わない」
栞はうつむき、遠慮がちに口を開いた。
「…私の所為ですか?」
「いや、自分で決めたことだ」
「でも、私が入院してるから…もう永くないと知っているから、勉強する時間を捨ててるんですよね?」
「人間学歴じゃないと誰かが言ってたぞ」
「でも、学歴格差は大抵埋まりません」
「どうせ、もう受かる自信ないしなあ…」
「人間、諦めたら終わりですよ」
「…終わりじゃない」
「え?」
何処の大学に行くとか、そんなのは本当の目的じゃない。
俺が本当にしたい事は…。
「栞が笑顔でいられれば、俺はそれでいいんだ」
「……」
「病気の事については…どうあがいても、一介の高校生である俺には何もしてやる事は出来ない。だけど、栞を笑わせる事なら出来る。だから…この先何があったとしても、栞が笑っていられるように…俺は頑張りたいんだ」
何度考えても、俺なんかが出来る事はそれだけ。
…だからせめて、自分の出来る事だけは精一杯やろうと。
…そう、決めた。
「…俺と一緒に…笑ってくれないか?」
少し待つ。
栞が苦しんでいた事…残りの時間があまりないと知らされた事。
新しく生まれかけていた未来が再び踏みにじられて、それでも生きようと出来るか…それは、その苦しみは…栞にしか解らない。
…だから、俺は待つしかない。
「…約束、ですよ」
「ああ」
「嘘ついたら草葉の陰から呪ってあげます」
「…大して怖くないな」
「わ、どういう意味ですか」
「言葉通りだ」
「…お姉ちゃんが二人に増えました」
栞が、ふっと顔を綻ばせる。
俺が見たかった、栞の笑顔。
…俺が護りたいと思っている、栞の笑顔。
二月二日 水曜日
「祐一さん…」
「ん?」
「今日は何時に帰るんですか?」
「…気が向いた時にな」
「だめですよー、また看護婦さんに怒られちゃいます」
「まあそれも面白い」
「面白くないです。その後怒られるのは私なんです」
「その位いいだろ」
「良くないです…」
栞の懸命の闘病生活も空しく、病状は更に悪化していくばかりだった。
それでも、俺達は諦めたくなかった。
俺は、栞を元気付けるために病院に通った。
元々、大した距離じゃない。大雪が降っていても、何ら問題は無い。
毎日、面会時間を過ぎながら色んな事を話す。…看護婦さんに、何度睨まれた事か。
…一月近く経った、ある日の帰り際だった。
「あっ…祐一さん」
「…ん? どうした?」
俺は、急に引き止められた。
栞がそんな事を言い出すのは、相当に珍しい。
「あの…」
「なんだよ」
「…私のこと…愛してますか?」
「な、何だよ急にっ」
「何となく、聞きたくなったんです」
「…はぁ……当たり前だろ」
…何で、いまさら…。
嫌な予感がした。
「…よかった…」
俺はその不安を告げる事が出来なかった。
…栞の頭をもう一度撫でて、俺は病室を出た。
二月三日 日曜日
あたしは、白い廊下を歩いていた。
勿論、自分が入院してるんじゃなくて、見舞いだけど。
外を見ると、一面の雪景色。太陽の光を反射して、病院内をまぶしく照らす。
…この景色も、毎年毎年変わらないわね。
白い世界…か。
そんな事を考えて。
思わず目当ての病室を通り過ぎようとしてしまい、内心慌てて足を止める。
「まったく…あたしも、よく来るわね」
ぼそっと、小さくつぶやく。
他の誰かには届かないほどの、声。
この病室に居るのは…色々と我が家を騒がせてくれた奴。
そして、もうすぐこの世から…。
こんこん
返事は無い。
まあ、大抵考え事に夢中で気になんかしてないんだろう。
相変わらずの事なので、もう気にしていない。
「…入るわよ……相沢君」
そこには、相変わらずの彼がいた。
ただ…二年前の高校時代に比べると、線は細くなり白さが目立つ。
「おお、相変わらず美人だな、香里」
「おだてても何も出ないわよ」
「むぅ…硬いなあ…」
「あなたが軟らかすぎるのよ」
…いつの間にか、相沢君は気さくに話しかけられる数少ない人物となってしまった。大学でも友達はいるけれど、少し息苦しく感じる。
「…そうか…今日は、栞の…」
「そうよ」
今日は、二年前に死んだ栞の命日。
節分の日という事は、鬼にでもさらわれたんだろうか。
「あれから、二年経つのか…」
「そうね…。…それにしても、あなたも栞と同じ病気にかかるなんて…運命とは怖いものね」
「身近に不治の病を三度も経験した人なんて、そうそういないだろうな…。おいしいな、香里」
「全然」
こんな近所でとても珍しい病気の患者が発生するという事は、栞と相沢君の間に何か重大な関連があるんじゃないだろうか。
栞と相沢君の共通点…。……変なところ。
変と言われて連想するといえば…。
「…馬鹿?」
「な、なんだ、藪から棒に」
確かに不治の病だけど…。
…って、何考えてるんだか、あたしは。
「…まあ、一度死になさい」
「うおっ、そういう意味かっ?」
「言葉通りよ」
「ひでえ」
軽くおどける姿も、どことなく弱弱しかった。
「…でも、本当に不思議だわ」
「ああ、栞が俺の事を呼んでるんだ」
「勝手に人の妹を怨霊にしないでくれる?」
「本人にそう言われたからなあ…」
「なに言ってるんだか」
最近は、あたしが相沢君をあしらう事が多くなった。
あの無尽蔵とも思えた屁理屈は……そう考えを巡らせて、止める。
あたしが考えているのは、いつも懐古だ。
日々変容する世界の中で、あたしだけ変われないでいる。
「…どうした?」
「えっ? いいえ、何でもないわ」
「……」
「…寒い季節はどう? 去年と変わらない、雪の季節は」
無言に堪えられず、話題を変える。
窓の外に目を向けながら、相沢君が口を開いた。
「…同じじゃない」
「…え?」
「同じように見えるこの景色でも、全然違うもので出来てるんだ。空から降ってくる雪も、道路の脇の木も、通りを歩いてる人も……そして、俺も、香里も」
「…あたしも?」
「一年、まるっきり何も無かったのか?」
「…何も無いような一年だったわ」
「でも、少しはあったんだろ?」
目も合わさず、淡々と言葉を述べる相沢君。
「…ええ」
「だったら、今ここに立っているのは去年とは違う香里だよ」
違うということ。
それは変わっているということ。
…あたしは変わっている?
「…これ、栞の受け売りなんだ」
「あの子の?」
「ああ」
それから、相沢君は何も話さなかった。
あたしは、「またいずれ来るわ」と言って病室を去った。
変わっているとしたら、何が変わっているだろう。
一年前から今日までで、あたしが習ったことは…なんだろう。
香里が去って、暫くが経った。
相変わらず、しんしんと静寂が支配する病室。
「…栞…」
栞は、あの日――帰り際に急に引き止めた、あの夜に死んだ。
雪が積もっていて、なおかつ一日の終わりだった為のんびりと帰っていたら、家の近くで名雪と出会った。
時間も時間だし不審に思っていると、名雪の口から栞の急変が告げられた。
家と病院を結ぶ道は一本じゃないから名雪が探しに行けなくてうろうろしているのも解る。それに、この街ではこの季節は大抵、車を出すより歩いていった方が早い。
急いで道を戻った。…だが、事態の進行はあっという間だった。
俺は、間に合うことすら出来なかった。
『あっ…祐一さん』
『…私のこと…愛してますか?』
『…よかった…』
…もしかしたら、栞は気付いていたのかもしれない。
もう、話す事は出来ないと…。
俺は、そんな事を考えながら…ただ、泣いた。
まだ手には、頭をぐしぐしと撫でてやった時の感触が残っていた。
温もりを思い出せるのが、冷たさを引き立たせていた。
俺の病気が発覚したのは、ちょうど一年前の事だった。ようやく立ち直って、精神的にも楽になってきた頃の事だった。体調が悪くなり、大事をとって病院に行ったところ発覚した。
栞と同じ立場になって、少しはあの時の栞の気持ちが解った気がする。
もう先が無いと知った時の恐怖は、字面だけで知っている頃と桁違いだった。俺は、栞の気持ちを解っているつもりで…実は全然解っていなかったんだろう。
それでも…栞は笑っていた。
だから…俺も笑っている事にした。
名雪には、もう一月近く会っていない。
まあ、結構遠くの大学だし、頻繁に来るのは難しいだろう。
…あいつにも迷惑をかけた。
栞が死んだときも、名雪は慰めてくれていた。
…ただ、俺はそれを受け入れる事が出来なかった。思い返せば、ただの八つ当たりだった。
それでも、名雪は一年間もの間、慰め続けてくれた。
そして…去年、告白された。
…だけど俺は、付き合う事なんか出来なかった。
一つは、栞の事が忘れられない事。
もう一つは…そんな事をしていた俺なんかじゃ、名雪には相応しくないという事。
それでも…泣き笑いで『うん』と言われた時は、間違った選択をしたんじゃないか、とも思った。
ただ…そのすぐ後に病気が発覚したから、考え方によってはこれで良かったのかもしれない。
「これも、全部栞のせいだ」
当人が居ないことをいい事に、責任転嫁する。
「…怒られるな」
うー、とうなりながら、怒るというよりは困っているような口ぶりで反抗する姿を思い浮かべて、独り苦笑する。
少し洩れた声が、静かな部屋に染み入る。
…なんて静かなんだろうか。
まるで、ここには誰もいないかの様な静けさだ。
この街に再びやってきて…。
すぐに騒がしい面々に囲まれて…。
頭にかかったもやは晴れなかったけど、それなりに楽しくやってきた。
それなのに…。
この静けさはなんだろう?
ほう、とため息が洩れる。
「…まあ、悪い方向に変化していく事もあるよな」
ふと、窓の外を見た。
雪を降らせた雲は既になく、太陽の光が雪に反射して、きらきらと雪を装飾していた。
…真っ白な、世界。
光に満ち、眩しく輝いている世界。
「白い世界、か…」
一人の少女を思い出す。
今となっては、一緒にいた時間よりも別れてからの時間のほうが二倍も永くなってしまった。
…まあ、人間の関係なんてそんなものかも知れないが。
目をすっと閉じる。
それでも光は、一面に広がっている。
栞……。
『…祐一さん…』
「…っ…栞…っ!?」
耳が信じられない。
ほとんど反射的に、目を開けた。
周りはすべて真っ白。
白の絵の具で塗りつぶされているより、白い。
「これは…」
俺は、今まで病室に居たはずだ。
もう既に俺の身体は、そんなに自由には動かない。
無意識に出歩くことなんか出来ない。
『祐一さん…』
声のした方を向く。
だが、その姿は…影が見えただけで、一瞬で消えた。
ふと瞬きをした瞬間、俺は元の部屋に帰ってきていた。
「……今のは?」
宙をふわふわ浮いているように、現実感がない。
夢にしては、鮮明すぎる。
ただ…あの声は。
あの影は。
あの気配は。
あの雰囲気は。
二年前に、失くしたはずの……。
なんか、長い夢から醒めた気がする。
いつかのように、身体の中から凝り固まったものが洗い流されて、軽くなったようだ。
それは……この涙のせいだろうか……。
…あの出来事を境に、俺は少しずつ、体調を回復させていった。
俺の治療に関わった病院の関係者は、皆口をそろえて「奇跡だ」と言った。
だが、俺には疑問しか浮かばなかった。
何故、悪化の一途をたどっていた俺が、急に?
そして、あの出来事は、一体…?
「…奇跡、起きたわね」
「…香里か」
精密検査を終え診療室を出た俺を、香里が迎えていた。
二人で、病院の近くの公園に来た。
もう雪は溶け、新しい季節の匂いがする。
「もう春ねー」
「…そうだな」
「…そろそろ、あたしも変わらなきゃね」
「解決したのか?」
「…ええ、あたしなりにね」
「…そうか」
終わると思っていた俺の人生。
だが、途中で諦めていた道が新たに現れた。
また俺は、前に進まなきゃいけない。
…だけど、その前に。
「――栞、居るんだろ?」
これが、俺の結論。
七年間夢を見なきゃいけなかった女の子にご褒美があるなら、一生の殆どを病院で過ごした女の子にも…。
一瞬、目の前が真っ白になる。
…だが、それだけだった。
他には、何も起こらない。
『……さん…』
「……!」
どれだけの時間が経ったんだろうか。
それとも、殆ど一瞬に近かったんだろうか。
それでも、栞の声が聞こえた。
「…香里」
「なに?」
「止めるな。というか付いてくるな」
「…え?」
俺は、まだ足跡のついてない一面の雪に向かって走り出した。
ずぼっ
ずぼっ
真ん中辺りまで来たところで力尽きて、仰向けに倒れる。
上にはさんさんと輝く太陽。
周りには、きらきらと輝く雪。
白い世界に囲まれて、ただ…その世界を見つめていた。感じていた。
栞の言葉を、感じながら。
『祐一さん…一緒に歩く事は出来なくなっちゃいましたけど…ずっと一緒です。だから…祐一さんは祐一さんのためにさいころを振ってくださいね』
感想
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