たまに酷く泣きたくなる時がある。

 そんな時、彼女が思い出すのは決まって一人の少女の姿。時が経って、まわりの風景がどれだけ色褪せても消えることのない幼い少女。その少女が真っ白な虚ろの中に降り立つ。振り返り、そして笑う。
 そこで彼女がどうするかというと、決まって呆けた表情を更に引き攣らせて笑うのだ。思い切り。震える口元を歪めて、必死に微笑みかけるのだ。
 そして、彼女はまた決まって手を差し伸べる。駆けてくる少女を抱きしめようと。受けとめようと。
 しかし、その手が少女に触れることはない。
 差し伸べた彼女の手も、身体も、心でさえも素通りして駆けていく。愕然として呆けた彼女に、少女はもう一度振り返る。
 そして、やっぱり笑うのだ。
 そこでいつも彼女は目覚める。布団を跳ね除けて、激しく上下する胸に手を置いて必死に自分を落ち着かせる。
 もう大丈夫だ。窓から差し込む儚げな月明かりの中でやっとそう思えるようになった時、彼女は気付くのだ。
 瞳が涙で濡れている事を。

 彼女が泣きたくなるのはえてしてそんな時。
 嗚咽を堪えながら、彼女は一人の少女の名を呼ぶ。
 届かない少女の名を。







[メモリーリセット]







 1.

 それはとてもよく晴れた日だったと思う。
 あたしは降り注ぐ太陽に少しだけ焼かれたコンクリートの上で寝転がって、全身を伸ばしていた。
 そこで、あたしは確かに訊いたような気がする。まわりに誰がいたなんて覚えてない。
 けど、確かに訊いたのだ。

 ――過去って、何だと思う?

 返ってきた言葉は今でもはっきりと覚えている。
 過去なんて大したものじゃない。そう返ってきた。

 その言葉が、たまに蘇ってはあたしの胸を抉る様に突き刺す。
 その通りだ。疑う必要すら感じない。
 過去が不必要だからこそ、過去は薄れていく。
 記憶から消えていくのだ。

   /

「え、何?」
 ――だから同窓会だよ。今度4人で集まらないかって。

 その電話がかかってきた時、あたしは自室で乱雑に積み上げられた学術書になんの気なしに目を通していた。携帯電話から無機質な機械音が流れたのは、それにもそろそろ飽きてきて、外で珈琲でも飲もうかという考えが頭の片隅で膨らみ始めた頃。止まっていた時間が静かに鳴動を始める。
 小さな液晶画面に表示された名前は水瀬名雪。その名前を見て、あたしは少しだけ戸惑った。久しぶりの友人の名前。かれこれ、会わなくなってからどれくらい経つのだろう。カレンダーを探して、けど、目に映るのは相も変わらない真っ白な壁。画鋲の後すら見つからない。かけた覚えもない。
 溜息を吐きながら、流れる『Disney's Electrical Parades』を親指でかき消した。再び色が褪せていく。机の上の花瓶に刺した名も知らぬ赤い花がやけに鮮やかに映った。
 受話器の向こうには高校時代に友人であった彼女がいる筈だったが、幾ら待っても彼女の存在を感じることはできなかった。声どころか、息遣いさえも感じない。
 久しぶりに話した友人は、どこか違った声であたしに話しかける。その返事を返しているあたしは、ずっと変わることのないあたし。
 それはそうだ。あたしは過去を引き摺っている。
 あたしだけが取り残されている。この世界から。







 2.

 大学へ進んでから初めて出会った友人は、どこかおかしな性癖を持っていた。今風の髪型と服装は、すべてその性癖を隠すために身につけたものらしい。
 曰く、せめてカッコぐらいつけないと、人なんか寄ってこないだろ? とかなんとか。
 明らかに軽薄な彼の口調や仕草からも、不快感しか覚えなかった。たまたま隣りに居合わせた彼に昼食を誘われた時も、あたしはまったく聞く耳もたずにノートを取る振りをしていた。彼も、何かを察したようで、その場はただの一言も言わずに少し離れた出入口の奥へと消えていった。
 だが、彼とはこれが最後ではなかった。その日の昼食時、学生食堂の片隅に座ったあたしの隣には、何故か彼が腰掛けていた。

   /

 久しぶりに降りた故郷の駅は、記憶にあるよりもずっと小さく映った。
 閑散としたプラットホーム。まるで来る人をどこか違う世界へと飛ばしてしまったみたい。こんなにも寂しいところだっただろうか。肌を指すような寒さだけが、昔の記憶と一致していた。
 縮むように羽織ったコートを抱きしめる。吐く息はどこまでも白く染まっていたが、雪は降っていなかった。それだけが残念といえば残念。
 ――ううん。ここから去った時も雪は降ってなんかなかった。
 もう、春がそこまでやってきていた頃の出来事だった。あたしは今と同じようにここに立ち、そして彼らと、その頃のあたしの中のすべてにさよならを告げた。不思議と涙は毀れなかった。けれど、ずっと軽くなったような気がしていた。
 皮肉なものだ。すべてを捨てたこの場所で、またあたしは何かを抱えてこの場にいる。
 きっともう、この場所はあたしを助けてはくれないだろう。遥か遠くまで続く線路の、そのまた向こうへと視線を向けて、あたしは静かに息を吐く。
 ここはもう、あたしのことなんか忘れてしまっているのだから――。
 吐いた霞は天へと上がり、純白の空へと消えていく。いつからだろう。まったく気付いていなかった。
 あの頃降らなかった雪が、今更のように舞い降りてきて、あたしの掌で静かに消えた。
 あたしはゆっくりと瞳を閉じた。







 3.

 扉を開くと、まるで一変した世界に目を細めた。吹き付ける風も、燦燦と降り注ぐ眩い陽光も、真っ青に染まった果てのない空も、この扉の向こうでは感じられないもの。高く聳え立つフェンス越しに見えるのはずっと前から知っていた、けれど見れなかった景色。
 ようこそ。なんて、フェンスに凭れ掛かった彼が言った。別にあなただけの場所じゃないでしょ。そう告げる。すると、彼はバツの悪そうに頭を掻くと、あたしから顔を背けた。
 彼の隣りに立つと、ここがどういう場所なのかよくわかる。土色の運動場、大小様々な建物、色とりどりの人。それらがすべてちっぽけに映る。この辺りにはあまり大きな建物なんてないから、多分ここが一番近い場所なんじゃないかって思う。
 彼女に。学校の、その屋上。それが今のあたしたちが立っている場所だった。

   /

 見慣れていたはずの廊下も、どうやらあたしのことはもう忘れてしまっていたみたいだった。ところどころに貼り出されていた勧誘のポスターも、あたしが知っているものとは違っている。記憶が確かなら、サッカー部のはもっと下手糞に描かれていて、レタリングで書かれた『告知!』という文字ももっともっと捻くれていたはずだったと思う。逆に書道部はどうやらレベルが下がったらしい。
 ポスター自体がなくなっているクラブも幾つかあった。あの頃から、既に危なかったところは軒並み消え去ってしまったようだ。当時は何故かあった軍人将棋部。厳しいと評判だった杖道部。あったこと自体が、あまりしられていないようなクラブも多かった。当時はそれこそ気にも留めなかったけど、それでもなくなると違和感を感じる。
 しばし、そうやって掲示板を眺めていた。電気もついていない。外は厚い雲に覆われている。薄暗い校舎の中には普段の温もりは一切感じられなかった。リノリウムを弾く音が、ただ長い長い廊下に反響する。
 すべてが違っていた。いや、変わるべきなのかもしれない。でも、変わることを認めることなんかできない。
 さっきとは別の掲示板に通りすがった。一瞥だけして通り過ぎる。
 彼女が昔在籍していた部活動のポスターは、その掲示板でも見つけることができなかった。
 置き忘れた記憶は、やはり天国へと行ってしまったのだろうか。

   /

 右へ。左へ。繰り返す軌道。
 世界がぼんやりと遠のいていく。
 そして、あたしが見るのは白。見渡す限り、純白の世界。







 4.

 ――君はもう、死んでるんじゃないかな。少なくとも、俺にはそう見える。

 大学で最初に出会った友人は、楽しそうに定食の味噌汁を啜りながらそんなことを言った。彼と出会ってから何度目かの昼食。話していたのは殆ど彼だったが、その会話の中で大体彼の人と成りというものが掴めてきた。
 性格。趣味。だが、裏の彼に気付いたのは彼が再三あたしにアプローチを仕掛けてきた結果だ。誰も気付かない。表向きの彼はどこまでも軟派で軽薄で――だからこそ、裏側がより際立って見えた。
「まいっか。そんなんより海いこーよ、海。俺、美坂さんの際どい水着が見たいなー」
 ケラケラと笑っている彼。相も変わらず掴みどころがない。だが、だからこそ彼が最初の友人になったのかもしれない。
「海、ね――。いいかもね、たまには」
 いや、違うかもしれない。ただ克服したかったのかもしれない。
 どこか似ているのだ。
 自分を縛る、楔に。
「一番大きなワゴン車に、一番大きな浮き輪を詰め込んで、一番ステキなSUMMERソングをよろしく」
「ご随意に。そして、私めが知る一番キレイな海へと参りましょう」
 そして、あたしたちは初めて一緒になって笑い合った。

   /

 夏休みに入った初めの頃、
 大きなワゴン車に大きな浮き輪、そしてその夏で一番ステキなBGM。
 窓を全開にして、身を乗り出す。けれど、あたしは慌ててそれを止め、車中に笑い声。
 海岸線。最高にキレイな海。再び始まった夏。
 ぼやけた彼の素顔。だけど、笑顔。私も。

   /

 雪はゆっくりとあたしを満たす。左手はもうすっかり雪に溶けてしまった。薄いベージュのコートもそう。
 降り注ぐ雪は、辺りをも真っ白に染め上げていた。あたしはあの頃のようにそこに寝そべって、けれどそこは知っているけど知らない世界。剥き出しのコンクリートも、高い高いフェンスも、あたしが吐く吐息さえも、どこまでも白く、遠のく。
 この光景を、あたしはどこかで見たことがあった。
「――ううん」
 一人ごちる。だって、それは本質だから。この世界はどこも白く、そして遠い。 
「憶えてるわよ、あたしは」
 ここであたしは彼に問いた。そして絶望した。そして、誓った。
「あたしはすべて憶えてる。あなたが言ったことも、そして――」
 思い出すのは純白の幻想。微笑む少女とあたし。
 ふと、なにもかもがおかしくなって、あたしは声を上げて笑っていた。
 真っ白な世界では、笑い声さえも白く聞こえるのだろうか。そんなどうでもいいことが、頭の中を軽く過った。







 5.

 ――過去って、何だと思う?
 ――そうだな。

 空が流れていく。ゆったりと風が流れ、あたしはそのまま風に流される。
 彼もまた、あたしと同じだった。気持ちよさそうに喉を鳴らす。
 まだ、あの頃は止まっていなかったのだろうか。
 すべてが、動いていたのだろうか。

 ――もしかすると、どうでもいいものなのかもしれないな。

 あたしもまた、世界と共にいたのだろうか。

   /

 あれはいつだっただろうか。
 確か、夏休みがそれなりに過ぎた暑い夏の日だったと思う。
 その日、あたしは確か家にいて、図書館で借りてきた学術書にゆっくりと目を通していた。
 そんな中で彼から電話がかかってきた時、あたしは最初、取ろうか取るまいか悩んだ。
 それは、本当に暑い、夏の日の出来事だった。

   /

 集まった場所は、よく学生で集まるような雰囲気の居酒屋だった。お決まりの流行歌に合わせるように、グラスの重なる音。そして、たくさんの笑い声。
 そんな中で再会したものだから、久しぶりに会ったはずなのに、久しぶりなんて懐古的な気持ちは起こりえなかった。まるで、昨日も会ったように手を上げる。それにあたしも合わせると、そのまま席に座った。
 ――じゃ、はじめようか。
 あの頃とまったく変わらない彼。悪戯っぽく微笑んで、ジョッキを掲げる。
 ――再会に。
 グラスが重なった。

   /

 思い出すのは、彼らの記憶。勿論、彼が言った絶望だけではない。楽しかったことも、笑い合ったことも、泣いたことも。
 そして、何気ない日常さえも――。
 例えば、これは夏休み前。あたしと名雪と相沢君と北川君。

 ――くっはーっ。ようやくテスト終わったよ。あまりに頭使ったもんだから、途中から日本語読めなくなって参ったぜ。
 ――まだまだ甘いな相沢。俺なんか途中で急に霊界通信が開いて、世界を救ってきたぜ。
 ――二人とも受験なんだからもう少しマジメに勉強しようよ。
 ――大丈夫だ。勿論してるぞ名雪。おかげでスワヒリ語を含む23ヶ国語をマスターしたがどうだろう?
 ――俺もフェルマーの定理を証明できるようになったぜ。
 ――……もう少しそのエネルギーを有意義な方に傾けなさいよね。
 ――まあ、そんなことはおいおい話すとして……夏休みだよ。何しよう?
 ――海に決まってるだろ。山もいいな。もしくはジャングルもいい。この際ジャングルジムでも。
 ――却下だ。まあ、ラスト以外はいいな。どうする? 名雪も香里も予定空いてるならみんなで軽く旅行しようぜ。
 ――受験があるよ。
 ――それは却下だ。まあ、日帰りで海とかどうだ?
 ――いいな。すげえでかい車いっぱいにビーチボールや浮き輪を詰め込んで、最高にCOOLなSUMMERソング流してさ。
 ――勿論、海も綺麗だよな?
 ――当たり前だろ。最高にキレイな海に行こうぜ。

 そんなささやかな、けれど確かに楽しかった日常。けれど、この後すぐにそれは崩れ去った。
 どうして?
 彼が、――言ったから?
 あたしが、許さなかったから?
 何かが崩れてしまったから?

 結局のところ、壊れてしまったものが何なのかはわからない。
 けれど、それのおかげで何かが狂ってしまった。
 噛み合わない歯車は、未だにどこかで静かに眠っている。





 6.

 どろりとした空気が纏わりつく。薄暗い暗闇の中で、ツンと鼻腔を掠る刺激と共に。
 腕が見える。顔が見える。足が見える。すべてが沈んでいる。
 それは、彼にとっての海。あたしが連れていかれた海。

   /

 初めてできた友達は、やはりどこかおかしかった。
 ――天国ってどこにあるんだと思う?
 初めて彼の家に遊びに行った時の出来事。彼の部屋は柱時計の印象が強い。それなりに広いスペースが保たれていたが、それでもその時計の大きさはありえないくらいに浮いていた。
 右に、左に。柱時計の振り子は規則的に揺れる。それをずっと目で追いながら、あたしは彼の問いに答えた。
 ――美坂さんの答えは確かに一般的だよね。けど、僕の考えは違うんだ。
 そして、彼は机の引出しを開けた。中から何か紙袋のようなものを取り出す。

 ――天国は、こんな近くにあるんだ。

 紙袋を指で弾いて、彼は前と同じように笑った。
 柱時計が午後三時を指して、大きく鐘を鳴らした。景色がゆっくりと遠のいていくのを感じた。

   /

 あたしにはたった一人の妹がいた。世界で一番大切な、たった一人の妹だった。
 けど、今はいない。ずっと昔、相沢君とまだ出会ってなかった頃、北川君のこともそんなに知らなかった頃、あたしはその子を失った。
 別に彼女が何かしたというわけではない。仕方なかった。失うことにあたしは堪えられそうになかった。
 だから、あたしは彼女のことを忘れようと思った。初めからいなかったように思おうと思った。自分の死を受け入れて、それでも強く生きようとしていた彼女を支えようとしなかった。
 あたしは言った。「あたしに妹なんていないわ」
 けれど、彼女はそんなあたしを受け入れて、最期まで笑っていた。
 そして、結局彼女を忘れることなんかできず、支えることもできないまま、あたしは彼女を失った。
 その時の記憶はあたしの中に強く残っている。彼女が死んだのはあたしの罪だと思った。
 その罪を、一生背負おうと思った。あたしはもうずっと美坂栞を背負って生きている。
 そう、美坂栞のために、あたしは生きている。
 あたしは、もう死んでいる。

   /

 彼は言った。「君はもう、死んでるんじゃないかな。少なくとも、俺にはそう見える」
 あたしは、そんな彼をどこかで必要としていた。
 そして、彼もまた、あたしを必要としていた。

 ――俺は知りたいんだ。死ぬってことを。

   /

 ――ねえ。また海に行きましょうよ。一番大きなワゴン車に、一番大きな浮き輪を詰め込んで、一番ステキなSUMMERソングをかけて。
 あたしの言葉に、みんな笑った。そうだね。そう言えば、前は大変だったよな。そうそう、水瀬が行く前にさ。そんなことしてないよ。いやいや、香里が慌てて止めなきゃえらいことになってたんじゃないか?
 あたしもつられて笑う。彼もあたしに昔と同じ笑顔を見せてくれた。
 ガチリと何かが噛み合うような音が響いた。
 ぼやけていた筈の顔が、何故かはっきりと見えた。

   /

 柱時計が鳴った。けれど、この世界にもう――それを刻むものはいない。
 見渡す限りが白い。純白の世界。






 7.

 あの頃のアルバムをどこにしまったのか、あたしは忘れてしまった。
 それすらもまた、不必要なものなのだろうか。

   /

「そう言えば、この前の写真できたぜ。ほら、皆で海行った時の写真」
「うん。凄くよく撮れてたよ」
「そりゃ楽しみだな」
「あたしはいらないわ。それより、ねえ――」

 ――過去って、何だと思う?

「そうだな。もしかすると、どうでもいいものなのかもしれないな」
「どうでもいい、か。俺はそうは思わないけどな」
「わたしも思い出は大切だと思うよ」
「ん。言い方が悪かったかな。俺は別に全部忘れちまえとは言ってないよ」
「過去に縛られてたって意味はないだろって事。大事なのは今なんだよ。例え昔がどんなに凄くったって、幸せだって、今が不幸せなら意味なんてないだろ」

 ――今が幸せだって、胸を張って言えるようにならないといけないんだよ。過去を抱えたまま、な。

「……」
「ん、どうした?」
「なんだか――北川くんじゃないみたいだよ」
「お前――誰だ?」
「やかましいッ」

   /

 降り立った世界には、何もなかった。ただ、そこには頑としてあたしが存在していて、あたし以外の何者も存在を許さない。そんな世界。
 木の一本でもあれば違ったのだろうか? いや、そんなことはない。この白の世界はこれが自然なのだ。寧ろ、自分が邪魔な存在なのだ。
 その中で、ゆっくりと彼女は顕現した。
 何者も許さない世界に、彼女はゆっくりと降りてくる。
 振り返った彼女は、やはり笑っていた。
 あたしは少しだけ躊躇った。あたしはもう、彼女を背負ってなんかいない。自分から投げ出してしまった。だからこそ、ゆっくりと後ろを向く。彼女に胸を張って言えるようなことも、彼女を抱く資格も、何もかもがもう自分には残っていなかった。
 微笑む彼女を背に、あたしは歩く。
 白い世界はどこまでも限りを見せない。けれど、それでも歩く。
 だが、唐突に歩く足が止まった。
「――し、しおり?」
 ぎゅっと回された腕。温もりこそ伝わってこないものの、確かにそれは栞の腕だった。背中に栞の存在を感じる。確かに彼女はそこにいて、あたしを抱きしめてくれている。

 ――もう、だいじょうぶ?

 そう、伝わってきたような気がした。繋がった身体を伝って、彼女の想いが溢れてくる。
 あたしは振り返った。きょとんとした彼女をぎゅっと抱きしめる。声なんか出さない。出さなくてもいい。
 ちゃんと伝わってるはずだから。

 ――大丈夫よ。ずっと、ごめんね。

 世界が崩れた。







[ epilogue ]



 目が醒めると、真っ白な世界にあたしはいた。
 白いシーツ、白いベッド、白い壁。カーテンも、窓から毀れる光すら白い。
 窓から流れてくる風が心地よかった。こんな風、久しく浴びていなかったような気がした。
 そう、どこかで、確かあれは彼に――北川君に連れられて屋上に上ったあの日。
 あたしは確かにこんな風を浴びた。ずっと触れられていたいような、そんな風と出会った。

「おはよう」

 声がした。はっとして振り返る。ここはあたしだけの世界じゃなかった。
 よっ、といつかみたいに手を上げる相沢君。心配そうにあたしを見る名雪。そして――。
 赤、青、ピンク。色とりどりの花々を手にした、北川君。
 彼らは、前と同じように笑った。けど、決して前と同一ではない。
 あたしは微笑んだ。そして、言いたいことがあった。欲しいものがあった。やりたいことがあった。
 そう、それは前に海に行った時の写真が欲しかったり、それ以前にみんなに心配かけてごめんと一言言いたかったり、みんなとまた海に行きたかったり、今度こそ本当に同窓会をしたかったり――。

 つまりは――。
 胸を張れるように生きていきたい、なんて今更みたく思った。




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