闇というものは深まれば重くなる。
 もちろんそれは錯覚でしかないのだが、彼――相沢祐一はそうと笑う事は出来なかった。空気が粘性を持ったかのように肌に纏わり憑いてきて気持ちが悪い。嫌味ったらしい程に徹底された静寂は、まるで耳が聞こえなくなってしまったかのような違和感を感じさせる。一寸先も見えない深い闇は、やはりどうしようもなく重かった。
「閉じ込められた……か」
 暗く狭く、そして静かなその密室の中で、相沢祐一はため息混じりに呟いた。








in the BOX










 どうしてこんな事になったのか、と考える。
 そもそもの事の発端は何て事ない、ただの世間話だった。
 とある休日、祐一、美坂姉妹、真琴と美汐の五人はファーストフード店で少し早い昼食を摂っていた。
 この五人が休日に集まる事は、別段珍しい事ではなかった。同じ大学へと進学した祐一と香里、そして美汐。一年遅れで高校三年生の真琴と栞。五人はそれぞれ同じような体験をした仲間であり、同志だった。だから休日にこうやって揃って食事し、とり止めのない会話に花を咲かせる事は、一種の習慣となっていた。
 この日は、隣町にある高層ビルの最上階で絵本の展覧会が開催される、という話で盛り上がっていた。祐一は別に絵本にはそれほど興味はなかったが、栞や真琴――漫画以外にも興味があったのか、と祐一が要らないツッコミを入れたが、それは別のお話だ――そして美汐も詳しいらしく、前々からチェックしていたようだった。
 だから、栞が、
「どうせなら、今から行きませんか?」
 と提案したときも、満場一致で可決された。
 別にこういった事も珍しい事ではなかった。特に具体的な目的があって集まっているわけではなかった五人は、そのまま電車に飛び乗り会場のあるビルへとやってきた。
「大きいなぁ……」
「無駄にね」
「お姉ちゃん、そんな浪漫の無い事言っちゃダメです」
 全面ガラス張りのビルは地上から見上げるとまさに天にも届かんばかりだった。香里の言う通り、それは本当に無駄な程に高い。
 休日ということもあって人の出入りも多く賑やかなエントランスホールを抜け、運よく一階に到着していたエレベーターに乗り込み、最上階へと向かう途中――――突然それは起こった。
 ガグンッと地面の揺れる衝撃と共に天井部分に設置された電灯の光が消えたかと思うと、そのまま周囲から音が消え去ったのだ。
「あぅ〜! なんなのよ、いったい。もぉぉぉ〜!!」
「真琴、落ち着いて。こういう時はまず落ち着く事が肝要なんです」
 全く対照的な二人の声が狭い密室の中に響く。狭い、といっても二十人近く乗れるサイズで、普通の、人を乗せるタイプのエレベーターとしては広い方に分類されるだろう。だが、四方を完全に閉じられた環境が、精神的に五人を圧迫していた。
 辺りからは何の音も聞こえてこない。エレベーターという物は普段あまり心地良いとは言えない作動音を発しているのだが、今はそれが無い事が逆に不安だった。
「ダメね。まったく応答しないわ」
 先ほどから非常通話用のボタンを親の敵のように連打していた香里が、諦めたように肩を竦めた。
「電源が落ちちまったからか? しかし、それにしたって非常回線ってのはそういった場合でも通信できるようになってるんじゃないのか?」
「そうだと思ってたんだけどね……栞、そっちはどう?」
「ダメです。ケータイも通じません」
 アンテナを一杯に伸ばした携帯電話を片手に、栞は困ったように眉を顰めた。暗闇の中で淡く光るディスプレイには、電波のマークが一本も立っていなかった。最新機種、というわけでもなかったが、それでも日本一の受信範囲を誇る某社の携帯だ。当然、エレベーターの中では使えません、なんていう注意書きはどこにもされていない。
 こんな事は在り得るのだろうか、と問われれば、可能性としては在り得る、としか答えようが無い。
 まさか現実に、我が身に起こるとは誰も思っていなかったが、だからといって否定する事はできない。
 だが、例え可能性としては在り得るのだとしても、不可思議である事に変わりは無い。
 いったい何が起こったのか。
 その答えは誰にも分からなかった。






・ ・ ・







 閉じ込められてから30分が経過し、5人はそれぞれ床に座り込んでいた。時が経てば救出されるのでは、という希望は、もう誰の胸の裡にも薄くなっていたが、それでも待つより他に出来る事が無かった。
「いったい何をやっているのよ、外の連中は……」
「もしかしたら、このエレベーターの外の世界全てが滅んでたりして」
 イラついた香里の言葉に、栞が明るい声で答える。もちろんそれは、その口調から推し量るまでも無く、ただの冗談だったのだが、誰もそれに対して笑い返す事が出来なかった。
 重たい沈黙が密室の中に落ちる。
 慌てたのは栞だった。
「え? え? あの、その……これはその、そういう小説があったっていうお話で……」
「分かってるわよ、そんな事は」
 香里が呆れたように肩をすくめて妹を安心させる。だが、香里にしろ他の誰にしろ、この状況が明らかに異常である事を意識しないではいられなかった。
 ビルの中には沢山の人が居た。これだけの高層ビルなのだからその移動にはほとんどの人がエレベーターを使っているはずだ。なのに、その中の誰も、このエレベーターが動いていない事に気づかないなんていう事はありえるのだろうか。ボタンを押しても全く反応しない事を、誰かが不審に思っても可笑しくないはずなのだ。
 突然、完全に停止したエレベーター。
 何故誰も気づかないのか。どうして非常回線や携帯が通じないのか。
 可能性だけならいくらでも考えられるのに、そのどれもが現実感に乏しい。まるで他人の夢の中にいるかのような、そんな思い通りにならない理不尽さだけが、漠然と満ちているようだった。
「しかし、退屈だな」
 そんな思考を振り払うように、祐一は呟いた。エレベーターの内は特に危険は無いものの、ただ何もせずに待っているだけというのは苦しい。
 その上、電池節約のために携帯の液晶は消されている。おかげエレベーターの内は相変わらず真っ暗で、隣に座っている誰かの顔すらもまともには見えず、否応無く孤独な気分にさせられる。
 時間が経てば経つほど、思考がマイナス方向に向かってしまうのは仕方の無い事だった。
「ですねぇ。こういう時はやっぱり、しりとりで時間を潰しませんか?」
 だからだろう。栞のお気楽な提案に、誰もが同意した。
 何かをしていないと――お互いに声を掛け合っていないと、息が詰まりそうだった。
「それじゃあ、しりとりの『り』から。リトマス試験紙」
「屍」
 と、祐一。
「ネズミ講」
 と、香里。
「鵜飼い」
 と、美汐。
「…………」
 その次は返ってこなかった。このエレベーターの中には五人いるのだから、あと一人、真琴が参加しているはずなのだ。なのに、その真琴が何も喋らない。全員の脳裏に考えたくない可能性が過ぎった。
 慌てて栞が携帯の電源を点け、その弱い光を真琴の方へ翳す。携帯の光は深い闇の中にすぐに溶け込んでしまったが、それでもその僅かな輝きは、隅で蹲っている真琴の姿を浮かび上がらせていた。
 真琴は、祐一達が自分に注目している事に気づいているのかいないのか、身体を小さく震わせ顔を伏せていた。
「真琴、どうしたの?」
 美汐が心配そうに声をかける。
「……怖いの?」
 真琴は小さく首を振ってそれを否定した。そして蚊の鳴くような声で「大丈夫」と答えた。しかしその姿はどう見ても「大丈夫」ではありえなかった。何かに耐えるように縮められた身体は徐々にその震えを大きくしている。
 だが、祐一はそんな震えの中に妙な動きを見つけた。膝を抱えるようにして、足を貧乏揺すりのように落ち着き無く動かしているのだ。その動きには、祐一にも記憶があった。
「なぁ、真琴。もしかして………………尿か?」
「尿とか言うなぁっ!!」
 ボガンッと、飛んできたポーチが祐一の顔面に命中した。携帯の明かりは真琴の方にしか向いておらず、祐一の居る反対側は真っ暗闇と大して変わらない状態であったはずなのに……野生の勘、というやつだろうか。
 それはともかく、そんな真琴の元気な反応に全員が――ただし痛む鼻を押さえている祐一を除く――安堵の息を吐いた。こんな状況でもし、何らかの病気が発病したらどうしようもない、という不安は杞憂だったようだ。
 だがもちろん、何の問題も無くなったわけではなく、それは新たな問題の発生を意味していた。
「トイレ……どうしましょう?」
 当然の事ながら、エレベーターの中にトイレがあるわけない。
「ペットボトルがありますから。それにする? 真琴」
「死んでもイヤァ」
「だけどなぁ。まさか漏らす気か? その歳で?」
「死んでもイヤァ!」
 最早、真琴の声は完全に泣きそうになっていた。身体の震えも、今はガタガタと病的なほどに大きくなってきている。限界が近いのは誰の目にも明らかだった。
「仕方ありません。相沢さん、向こうを向いててください」
「どうせ暗くて何も見えんぞ?」
「気持ちの問題です」
 美汐にそうハッキリと言われてしまえば、祐一としては「そういうもんかな」と納得するしかない。
「祐一ぃ、耳も塞いでなさいよぉっ」
「ハイハイ、分かりましたよ。ったく」
 面倒くさげにしながらも、言われたとおり反対を向いて耳を塞ぐ祐一。一瞬、ここで思いっきり振り返ってやろうかと、度の過ぎた悪戯心が湧き上がってきてしまうのが彼の悪い癖だったが、さすがに今回は自重したらしい。
 しばらくして、誰かが肩を叩いた。振り返ると、どうやら全て終わったらしく、真琴が先ほどと同じ場所に蹲ったまま、「うっ、うっ……絶対、許さないからぁ」と泣いていた。密室の中に先ほどまでとは違う意味で重い空気が漂う。
 そんな空気を振り払って、栞が可能な限り明るい声で――少し引きつってはいたが――提案した。
「そ、それじゃあ……しりとり、やり直しましょうか。『り』から、リトマス試験紙。はい、祐一さん」
「あぁ……『し』か。し、し、し……」 
 もう一度『屍』と答えようとして、しかし祐一は何か思いついたようにポンッと手を打った。
「し……小便小娘」
 バゴンッ、と。先ほど以上の勢いでポーチが祐一の顔面に直撃した。






・ ・ ・







 閉じ込められてから二時間が過ぎた。栞の提案したしりとりは思いの外白熱し、最後には一度言った言わないであわや乱闘騒ぎという所まで行ってしまい、結局そこで打ち切られる事となった。
 だが、それが終わってしまえば、また何もする事の無い時間が五人に圧し掛かってきた。
 普段なら――どこぞの喫茶店でお茶でもしていれば――瞬く間に過ぎてしまう二時間が、今日はやけに長く感じられる。それもこれも全ては沈黙の仕業だった。栞か真琴が会話の中心となり、それに祐一がテキトーな『ちゃち』を入れて膨らませ、香里と美汐が最後に的確な意見で収集する、というのが彼らの普段の形だった。だが、その栞と真琴がこんな時に限ってあまり喋らない。
 もちろん、その気持ちは祐一も分かっている。クールな印象を見せるくせにここぞという所で弱い香里。芯に強さを持ちながらも未だ幼さの抜けきっていない栞。過去の経験からポジティブになり難い美汐。そして能天気と言っても過言ではない真琴ですら、この状況に追い詰められてきている。
 要するに、怖いのだ。
 語る言葉、全てが何か良くない事の引き金になりそうで。暗闇の中で語られる言葉一つ一つが呪文となって、現状ではとりあえず安定しているバランス――それはトランプのタワーよりもずっと儚いバランスだ――を崩してしまう、そんな気がする。
 だから沈黙する。沈黙して、少しでも現状を保とうとする。
 だが、それは救いの無い戦いだった。水中でどれほど長く息を止めていられるかに挑戦したところで、いずれは上がってこなければならないように、勝ち目の無い、いずれ破綻する戦いだった。
「そういえば――――」
 そんな限りの見えない沈黙に耐え切れず、祐一は口を開いた。
「こういうのって昔を思い出すよな。ほら、隠れんぼしてて、押入れの中に隠れてさ。真っ暗で何かよく分からないものが一杯置いてあって、なんだか非日常的な雰囲気で怖かったのに、でもちょっとドキドキしたり……さ」
「……そうですね。私も記憶が在ります」
 美汐が小さく笑いながら同意する。
「といっても、私の場合は隠れんぼではなく、親に怒られて押入れに閉じ込められたんですけど」
「……お前はサザエさん一家か……?」
 いったい何時の生まれなんだろう……と、前々から考えていた事だったが、祐一はこの天野美汐という少女が本当に自分より年下なのか怪しく思えてきた。しかし、そんな祐一の失礼な疑問に、美汐は真面目な口調で答える。
「いえ、本当に。私は今、その時の事を考えていました」
「え……?」
「あの時、結局私は二時間ほどたって、戻ってきた父に謝罪するまで出してはもらえませんでした。泣いても叫んでも、決して襖は開かなかったんです。その時と何だか似ているような気がして。でも、だとしたら……今度は、いったい何を謝れば出してもらえるんだろうって、そう考えていたんです」
 はっ、と美汐の言葉に全員が、彼女が何を言わんとしているのかに気づいて反応した。
「ちょっと待ってよ。これはただの事故でしょう? それとも、貴女はあたし達が誰かに閉じ込められたんだって思ってるわけ?」
「いえ、そういうわけではないんです。そんな具体的な事を言っているのではなくて……何となくそう思ってしまっただけの事なんです」
 美汐は否定したが、心の中にそういう考えがあった事は間違いなかった。
 閉じ込められてから既に二時間が経過している。まさかこの状況で、本当にただの事故であると確信するのは無理があった。
 となれば、考えられる原因は一つだけ。
 再び沈黙が訪れる中、栞がポツリと呟いた。
「……でも、私もちょっと、美汐ちゃんの言いたい事、分かる気がします。あっ、もちろん、私は押入れに閉じ込められた事なんて無いんですけど。でも、病室に一人で居る時、そんな気分になった事があります」
 栞にとって真っ白な病室は、自身の人生の半分近い時間を過ごしたもう一つの我が家だった。それだけに辛い思い出も多く詰まっている。窓という額縁越しに小さく切り取られた風景。聞こえてくる外界の声は遠く、決して辿り着けないのだという絶望だけが募る。病院はあんなにも広く、栞の足では全てを周る事さえ重労働であるはずなのに、病室はどうしようもなく狭く、閉じ込められているかのような錯覚を誘った。
 どうして自分はこんな場所に居るのだろう。どうして自分は自由に、好きな所に行けないのだろう。ある時はその理不尽に泣き、誰かに当り散らしたりもした。しかし、それが過ぎれば今度は逆に、無性に何かに謝りたくなった。自分がこんなに苦しいのは、きっと何か悪い事をしたからなのだと、そんな根拠の無い妄想が広がっていった。
「謝れば、そして誰かに赦してもらえば、ここから出られるんじゃないかって、そんな風に思っちゃったんですよね」
 もちろんそれがただの妄想でしかない事は分かっているのに、それでも追い詰められていく心は止めようが無かった。また、止められたかもしれない誰かも、孤独な病室の中には居なかった。
「……でも、だとしたら、その『誰か』はとんでもなく悪意を持ってるわね」
「おい、香里――――!」
「分かってるわよ。あたしだって、まさか本気でそんな事を信じてるわけじゃない。だけど、もし『誰か』によってこの状況が演出されているのだと仮定すれば、その『誰か』の悪意は明白よ。だってこんなのはあんまりにも残酷でしょう?」
 確かに、と祐一は心の中で同意した。香里の言葉に何とか反論したい気持ちはあったが、この状況を見る限り、頷くより他に無い。
『誰か』は無理矢理にでも謝罪を引き出そうとしている。罪を告発するのではなく、自ら罪を告白させようとしている。しかもそれは普段は意識する事のない――あるいは意識して意識しないようにしている――それぞれの心の奥深くに眠った原罪だ。
 故に、それは何よりも厳しく、ここに居る五人にとってはこの上なく残酷な事だった。
「確かに……その可能性は在り得ると思います。なにより、ここに集められている私達にはその『心当たり』があるのですから」
 ここに集められた私達……。
 その言葉は、祐一も香里も誰もが考えていた最大の問題だった。
 この五人が集まっている、その状況でこんな事が起こった。それがただの偶然であるはずが無い。別にいつもいつも五人は一緒なわけではない。それぞれ学年が違うのだから、毎日顔をあわせているわけでもない。また、同じく全員の共通した知り合いである水瀬名雪などが、五人の中に加わる事も決して少なくは無かった。
 この五人が集まること自体は決して珍しい事ではないものの、だからと言ってただの偶然というにはあまりにも出来すぎだった。
「でも、真琴には……謝らなきゃいけない事なんてない!」
 重たく広がる沈黙を、真琴の高い声が引き裂いた。
「美汐も、栞も間違ってる。だってそんなのおかしいじゃない! 悪い事してないんなら謝る必要なんてないでしょ!」
「それはそうなんだけど……」
 真琴の言いたい事は分かる。だが、悪い事なんて一つもないと断言できる人間は少ないし、断言できたとしてもそれが正しい事であるとは限らない。まして、この中に居る誰も、それを断言する事など出来るはずも無かった。
 そして、恐らく真琴もその事を理解しているのだろう。だからこそ、真琴は今にも泣き出しそうな声で、しかしハッキリとした声で叫ぶ。
「真琴は悪くないっ! 美汐に会えた事も、栞や香里に会えた事も――――」
「……俺は?」
「祐一はどうでも良いのっ! 真琴はすごく幸せだもん! 全部、悪い事だなんて思ってないっ!」
 今にも張り裂けそうな叫び。
 真琴の想いは確かに彼女だけのものではなかった。ここにいる全員がそう思っているのだ。誰も、この状況を不幸だなんて思ってはいない。
 むしろ彼女達にとって、こんな風に五人で過ごすことの出来る時間は、かつては想像し得なかった、これ以上ないほどの幸福だった。
 本来なら、こんな未来が存在するわけが無い。泣いて、悲しんで、苦しんで、夢に見て、そして夢に見る事すら悲劇なのだと絶望して……それなのに、諦める事も出来ずに祈り続けていた未来。
 それが今、この瞬間なのだ。
「そう……ですね」
 言って、美汐は真琴の頭を優しく、母が子にするように抱きかかえた。
 だが、そう言った美汐自身が、それを悪なのだと分かっていた。
 彼女こそがその証人だったのだから。
 奇跡は決して平等ではない。誰の元にも起こるわけではない。
 事実、美汐の元には帰って来なかった。美汐の身を裂くような想いは届かなかった。
 確かに真琴が悪いわけでも美汐が悪いわけでも、誰かが特別悪いわけでもなかった。
 だが、法外な奇跡を得てしまった者は、その時点で得た分だけの責任を負わなければならない。
 だから、美汐はこう言いたかったのだ。
 この幸せこそが、何よりも罪悪なのかもしれない――と。






・ ・ ・







 閉じ込められてから三時間が経過した。
 先ほどまで「お腹空いたー!」と騒いでいた真琴は、今は美汐と寄り添いあって眠っている。僅かなりとも光の差し込まない密室の中ではその表情は窺えないが、それでも聞こえてくる二人の安らかな寝息が耳に心地良かった。
「ふわぁぁぁあ……」
 そんな穏やかな雰囲気をぶち壊すように、大きな欠伸が聞こえてくる。
「栞……貴女ねぇ。いくら暗くて見えないからって、もうちょっと恥じらいってものを持ちなさい」
「ごめんなさいぃ」
 謝る声も、眠そうだ。
「眠いんなら、寝て良いんだぞ?」
「それは分かってるんですけど……」
 こんな状況では下手に起きていても無駄に精神を磨り減らすだけだ。祐一と香里はそう、先ほどから何度か説明しているが、栞は欠伸を連発しながらも、一向に眠ろうとはしなかった。
「さっきの話じゃないんですけど……」
 ポツリと、栞にしては珍しいくらい沈んだ口調で語る。
「もしかしたら今、世界は一度滅んで、本来の形に創り直されている途中なのかもしれませんね」
「栞?」
「この世界は、実は間違っていて、だから滅んで……。そしてもう一度、今度は正しい形に創り直されているのかもしれません。だから外に出る事も、連絡をつけることもできない。誰も助けに来ない。だって仕方ないですよね。もう、外には誰も――――」
「栞っ!」
 香里がヒステリックに叫び、栞の言葉を遮った。
 栞は怖いのだ。ここで眠ってしまったとして、再び目覚めた時にはもう、自分の生きている世界は無いかもしれない。全てが夢であったかのように、病室のベッドの上で目覚めるかもしれない。いや、そもそも。もう二度と目覚める事はないかもしれない。
 そんな根拠の無い――だが、それ故に切実である――不安に押しつぶされそうになっている。
 祐一はゆっくりと、栞を落ち着かせるように言う。
「栞……大丈夫だから。お前はもう、寝ろ」
「……はい」 
 祐一の思いが通じたのか、今度は栞も素直に頷いた。
 暗闇の向こうから身体を横たえる衣擦れの音が聞こえてくる。
「あ、でも……私が寝ちゃった後、二人でエッチな事しないですよね?」
「栞っ、貴女ねぇっ!?」
「やだなぁ、冗談ですよ」
 クスクスと楽しそうに――暗闇の中で精一杯、楽しそうに笑う。
 まるでそれが、最後であるかのように。
 その笑い声はしばらく続き、そして不意に途切れた。
「あの、祐一さん……」
「何だ?」
「……いえ、何でもありません。お休みなさい」
「……お休み」
 やがて、静かな寝息が一つ追加された。






・ ・ ・
 






 最早、そこに時間の概念は無かった。
 初めから無かったのだとしても、せめてそれに縋り付いていなければ、この深い闇の中に溶け込んでしまう様な気がして、だから頻繁に時計を確かめていた。
 だが、もう祐一は時計を見ようとは思わなかった。
 もうそんな必要は無いのだと、分かっていた。
 栞が眠ってからどれほどの時間が経ったのか。十分か、一時間か、あるいは一日―― 一年。基督教の神様は六日間で世界を創ったというが、この『誰か』は果たしてどれ程掛かるのだろうか。
 きっとその『誰か』は何も無いところで転ぶくらいドジで、何度も失敗してやり直しているのかもしれない。あるいは辛抱が足りなくて、完成を待たずに大好物を片手に休息をとっているのかもしれない。
 祐一はその光景を想像して苦笑した。
 と、唐突に暗闇に光が灯った。それまでの携帯の淡い光ではなく、また、復旧を示す電灯の光でもなく、暗闇に慣れた目を焼いてしまいそうな強い輝き――ジッポの炎だった。
「あっ、ごめん。眩しかった?」
「……ちょっとな。そんなのがあるんなら、もっと早く出して欲しかったぞ」
「嫌よ。ガスが少ないんだから。いざという時には使おうと思ってたけど……どうやらそんな時は来ないみたいね」
 香里は笑いながら、いつの間にか取り出していた箱から一本、煙草を取り出した。セブンスターカスタムライト。香里が普段から吸っている銘柄だった。
 それを見て、祐一はウンザリと顔をしかめる。
「こんな場所で吸う気かよ……」
「あら、密室だけど密閉空間ってわけじゃないから大丈夫よ。それに、今は非常時だしね。一本だけ、見逃して頂戴」
 と、香里は笑って火をつけた。そして火をつけたままジッポを床に置き、その光を頼りに携帯灰皿を取り出す。マナーが良いのか悪いのか――祐一はそんな香里に、呆れたようにため息をついた。
 香里がいったい何時ごろから喫煙を続けているのか、それは祐一も知らなかった。少なくとも高校時代にはその気配は無かったように思う。香里本人は「ちゃんと二十歳になってからよ」と言ったが、もちろんそれが真実なのかどうかは分からなかった。
「ねぇ、覚えてる? あたしが煙草を吸っているとこ、初めて見た時に貴方が何て言ったか」
「自虐的だな」
 祐一は即答する。通り掛った喫茶店で慣れた仕草で煙草を燻らせる香里を見かけ、祐一は自然とそんな事を言ってしまったのだった。それを聞いた香里は何も言わず、ただ本当に自虐的に笑っていた。
「まったく……貴方の言う通り。こんなの、自虐以外の何物でも無かったのよ」
 栞はずっと重い病気を抱えていた。だが、病を患っていたのは彼女だけではなかった。栞の両親、そして香里もまた、それぞれ病を抱えていた。栞を支えなければならない。苦しんでいたら何時でも、自分の都合を後回しにしてでも助けなければならない。自分が苦しくても、もっと苦しんでいる人が傍にいるのだから弱音は吐けない。
 それは栞が死ぬまで続くはずだった。
 しかし、栞は死ななかった。まるでそれまでの事が夢であったかのように、綺麗さっぱりと病は消え去ってしまった。奇跡が起こったのだ。栞は助かった。だが、それは決してハッピーエンドではなかった。
「栞が言ってた、誰かに謝りたくなったっていう気持ちは、たぶんあたし達に対する物なんでしょうね。あの子はあれで、あたし達が思っているよりもずっと賢い子だから。だから、あたしがあの子の存在を無視した時だって、それを受け入れたんでしょ。あの子なりの謝罪だったのよ」
 高校時代、栞の余命を告げられた香里はその重みに耐えられなかった。そして栞を初めから居なかった事にして、その重みから逃げ出した。逃げ出した香里がどんな行動をとったのか、そしてその結末がどのようなものであったのか、それは香里と祐一しか知らない。
「でも、違う。そんなの間違ってる。謝らなきゃいけなかったのはあたしの方」
 言って、紫煙を吐き出す。
「あたしは、赦して欲しかったのよ。誰かに赦して――認めて欲しかったの。もう良いんだって。もう十分頑張ったんだから、これ以上頑張らなくても良いんだって、誰でもいいから言って欲しかったの。そしたらあたしは、逃げ出した自分を正当化できるから」
「香里……」
「だから、これは本当に、ただの自虐だったのよ。あたしはただ、自分の罪と向き合うのが怖かっただけ。栞の病気が完治してしまって――全てが綺麗さっぱり無くなってしまって、そしたら、あたしが何であんな事をしたのかっていう自分を弁護するための動機すら無くなってしまったから。相沢君の所為でもなく、栞の所為でもなく、誰の所為でもなく、あたしが逃げ出したのがあたし自身の責任になってしまったから」
 まるでそれまでの事が夢であったかのように、綺麗さっぱり消え去ってしまった栞の病。だが、同時に両親や香里の病まで消え去ったわけではなかった。むしろそれは、栞という対存在を失い、はっきりと浮き彫りにされてしまった。それまで「栞の為」「栞の所為」として正当化せれてきた行動が、抱えてきた思いが、その行き場を無くしてしまった。
「栞が熱を出したから。栞が苦しそうにしているから。栞が呼んでるから。栞が、栞が、栞が……結局、あたし達はそうやって栞に全部責任を押し付けてたのよ。栞が感じてた、謝らなきゃっていう圧迫感はそれなんでしょうね。それに気づいて、自分の醜さに嫌気が差しちゃった……」
 ジッポの炎にユラユラと揺れる影。闇よりも暗いその幻影は、もう一人の香里。明るく振舞うその裏側で彼女が抱えてきた痛みそのものだった。
「どうして、そんな話を?」
「さぁ? 何でかしらね。あたしも罪を告白してみたい気分にさせられちゃったから、かな? あぁ……でも、それをしてみて、分かった気がする」
「何を?」
「謝るのって、凄く、簡単なんだって」
 そう言って、香里は小さく笑った。
「あぁ……なんだか、眠くなってきたわ」
 香里は欠伸を噛み殺し、短くなった煙草を灰皿に押し付ける。
 最後の紫煙は名残惜しそうにしばらく滞空していたが、やがて拡散し、輪郭を失い、大気の中に消えていった。
「……寝るんなら、その前に煙草一本くれ」
「嫌よ。だいたい、相沢君は吸えないでしょ?」
「吸えないって事は無いと思うぞ。吸った事無いだけで」
「それを吸えないって言うのよ。……やっぱり駄目」
「寝た後に勝手に盗らせてもらうぞ」
 そう言った祐一に対して、香里は不敵に笑い、「盗れるもんなら、盗ってみなさい」とジッポの火を消して自分の服の内側――胸の辺りに仕舞いこんだ。
 それを見て、祐一は素直に負けを認めた。
「栞にエッチな事するなって釘刺されてるからな。それは盗れそうにない」 
 暗闇の中、香里の声が遠くから聞こえてくる。
「相沢君。貴方に、全部任せるわ。だから、自分で、何とか……しな、さ――――」
 声はやがて寝息へと変わり、そして――消えた。






・ ・ ・







「自分で何とかしなさい……か」
 独り残された闇の中で、祐一は苦笑した。言われなくても分かっていたが、言われてしまったら分かっていないフリは出来ない。香里は他人には厳しいよな、と独りごちる。
 だが、確かに今の自分にはそれくらいの厳しさの方が良いのだろう。これから立ち向かうのは祐一の裡にある原罪だ。これ以上の強敵は世界の何処を探したって見当たらないだろう。逃げ出したくなる心に喝を入れる。
 祐一はゆっくりと立ち上がり、顔を天井へと向けた。
 一呼吸――自分の思いを言葉にするために、エネルギーを溜める。
 そして、そこに居る筈の『誰か』に向かって、はっきりと、力強く宣言した。
「俺は……謝らない」
 ピシリ――何処かで何かがひび割れる音がした。
 それでも、祐一は続ける。
「だってもし謝ってしまったら、それはこいつらの存在が間違いだったって事になっちゃうだろ? こいつらの存在を否定するって事になっちゃうだろ?」
 なんとなく、分かっていた。ここがもし、美汐の言っていた『押入れ』の中なのだとしたら。閉じ込めている『誰か』が居るのだとしたら。ここで自分が謝ってしまったら、密室から出て行けるのは自分一人だけだろうという事に。これまでの事を全て『間違い』にして、何事も無かったように自分一人だけが生きていくのだろうという事に。
「だから、俺は絶対に謝らない」
 祐一は独り、闇へと語り掛ける。
 ピシリ、ピシリとひび割れていく音。
「確かに、俺はお前の願いを叶えてやれなかったのかもしれない。その想いを踏みにじってしまったのかもしれない。もし違う未来を選んでいれば、お前と一緒に居る世界を創れたのかもしれない。だけど、現実に俺が選んだのは、この未来なんだ。他のどんな未来でもなく、たった一つだけの、この未来なんだ」
 暗闇に閉ざされたエレベーター。
 だが、それは祐一たちの生きる世界。
 人は皆、『現在』というちっぽけな箱の中で、先の見える事のない真っ暗闇な『未来』に怯えながら生きていく。そこは先に進むことも、かと言って後ろに戻る事も出来ない、それだけで完結した、完成された密室だ。
 そして、その閉じ込められた闇の中で、『過去』は何時だって問い掛けてくる。
 
 ――――貴方は、本当に正しかったのか?
 ――――この現在は、本当に正しい未来だったのか?
 ――――あの時、こうしていれば良かったのではないか?

 問い掛け、追い詰め、そして人はその誤りを認めたくなってしまう。
 あぁ――あの時こうしていれば、自分はもっと幸せになれたのではなかったか。あの時はこう言っておけば良かったのではないか。自分はもしかしたら、間違った選択をしてしまったのかもしれない。
 暗い密室は何処までも重く孤独で――そしてそれはその道を選んだ自分自身に対する責任の重さで、だから不意に謝りたくなってしまう。謝って、自分の選択を無かった事にしてしまいたくなる。
 だけど何時かは、そこから抜け出さなければならない。在り得なかった未来たちを求めるのではなく、目の前に広がる一本の道を歩き始めるのだ。それも恐らくは、香里の言った通り自分の力で。
「だから、見ていて欲しい。これから、俺達がどんな未来を歩んでいくのかを。俺達の力で、どんな未来を切り開いていくのかを。そして約束するよ。謝らなくて良いような、間違いでなかったと胸を張って言える、そんな未来を創ってみせる。こいつらを、そして俺自身を、幸せにしてみせる」
 ピシリ、ピシリ、ピシリ――音はやがて大きく、全てを飲み込んでいく。
「やり直す必要なんて無い。俺は――俺達は、間違ってなんかいない!」
 逃げ出す事は簡単で。
 謝る事も簡単で。
 だけど、だからこそ――それは決して許されない。
 それこそが祐一が一生背負わなければならない責任なのだから。
 だから最後に、お別れを。
「……さよなら」


 ピシリ――――パリンッ!






・ ・ ・







 パッパッと二度電灯が点滅し、世界に光が戻った。
 一瞬の事で、暗闇に慣れた瞳には痛みすら感じられた。
 それでも、祐一はほぅ、と息を吐いた。
 光は天井の電灯だけではなく、階数表示の方にも戻り、ゆっくりとその数字を増していく。壁越しに、鈍い作動音が聞こえてくる。やはり耳障りなそれは、しかし今だけは妙に安心できるものだった。
 無事、元の世界に戻ってこれたのだ。
「う……ぅん?」
 それを待っていたように、四人が目を覚ます。いったい何が起こっているのか、分かっていないような寝ぼけた顔が四つ。だが、それが奇跡のように素晴らしいものなのだと、祐一は知っている。 
 そんな四人に、祐一は明るく声をかけた。
「ほら、しっかり起きろ。もう着くぞ」
 やがて、到着した最上階は先ほどまでの出来事が嘘だったかのように人の姿も多く、騒がしかった。もちろんそれも、沈黙に慣れてしまった為の錯覚なのだろう。
 例えば当たり前の電灯の光が。
 例えばうざったいだけのエレベーターの音が。
 例えば普段は気にもならない人々のざわめきが。
 今は素晴らしく新鮮に感じられる。
 なるほど確かに――祐一は思う。本当に、世界は新しく生まれ変わったのかもしれない、と。
「もー! 何だったのよ、いったい!」
「五月蝿いぞ、真琴。お前はさっさと尿を捨てて来い」
「だから尿とか言うなーーーっ!」
 ガスンッと祐一の向こう脛に蹴りを入れ、真琴はトイレの方へと走っていった。その後ろを「あ、私もっ!」と栞が追いかけていく。
「ズルイわよ、栞! 一人だけ我慢してたの!?」
「実は。でも、だって、ペットボトルはちょっと……祐一さんも居ますし」
「その事は言うなぁぁぁっ!」
 なんて、恥じらいの欠片もない大声を上げながら消えていく二人。
 そんな二人を見送り、さらに脛から送られてくる地獄のような痛みが治まるのを待って、祐一はゆっくりと歩き出した。
 早速、キョロキョロと喫煙所を探している香里は無視して、祐一は美汐の方へと向かった。美汐は大きなガラスがはめ込まれた展望所で、その先に見える自分の街を見つめていた。
「うわっ、こりゃ高所恐怖症の人間には地獄のような場所だな……」
「そもそも高所恐怖症の人はここにはやってこないと思います」
「……それもそうだけど」
 美汐の的確すぎる返答に、そんな返答が欲しかったわけではなかったのだが……と祐一はポリポリと頭を掻いた。
「なぁ、天野。一つ質問があるんだが……」
「……なんですか?」
「お前が押入れに閉じ込められたのって、原因は何だったんだ?」
 意外な質問だったのか、美汐は僅かに驚いたような顔をして……そして苦笑した。
「それが……覚えていないんです。何が原因で怒られて、どんな風に謝ったのか……全く覚えていないのに、なのに怒られたという事だけははっきりと記憶しているんです。不思議――ですね」
 そう言って、美汐はその場から離れていった。祐一から逃げているかのような行動だったが、それも仕方の無い事なのかもしれない。あの閉じ込められたエレベーターの中で、一番追い詰められていたのは、或いは彼女だったのかもしれないのだから。
 独りポツンと残された祐一は、だからそれ以上美汐を追うことも無く、ただ「そんなもんかもな」と呟いた。
 人は全ての過去を覚えているわけではない。忘れてしまった物も――例えそれがどれほど大事に思っていた事であっても、必ずあるはずなのだ。それは避け得ぬ事で、たぶん正しい事で、そしてどうしようもなく悲しい事。
 だから――――
「もしかしたら、覚えておいて欲しかっただけだったのかもしれないな……」
 無駄に高いビルの窓からは遠く、自分達の住む街と、そして約束の丘が見える。あの場所で何が起きて、そして誰が、どんな想いを抱いていたのか。それはもう、たぶん祐一しか覚えていない。過去はあの大きな樹と共に切り取られ、今はもう無い。
 それはこれからだって、同じだ。十年、二十年と過ぎていく度に様々な物が変わり、やがて失われていく。煙草の煙のように、拡散し、輪郭を失い、やがて見えなくなり、いずれは観測する事すら不可能になる。
 だから、覚えておいて欲しかっただけだったのかもしれない。
 こんな事もあったんだ――と。
 それはたぶん、都合の良い勝手な解釈だったのだろうけれど、祐一は何となくそれで正しいような気がしていた。
「ゆーいちぃ! 何してんのよ、早く行くわよー!」
「祐一さん、早く早くぅー!」
「ほら、お子ちゃま達が呼んでるわよ、相沢君」
「行きましょう、相沢さん」
 いつの間にか集まっていた四人が呼んでいる。
 未来が、呼んでいる。
 だから祐一は歩き出した。
 過去に謝る事なく、自分が選んだこの世界から目を逸らす事もなく、ただ前を向いて歩んでいく。
 もう二度と振り返ったりしない。だけど振り返らない事と、忘れる事は同じじゃない。
 祐一は、二度と忘れない。例え世界の全てが変わってしまったとしても、今日という日は――そしてあの冬の日々は、永遠に胸の裡に残り続ける。


 だから最後に、お別れを。
「さよなら」

 そして――――精一杯の感謝を。

「ありがとう」








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