大人になりたい
大人に、なりたい?
大人になれない。
なりたくても、なれない。
「で?」
「で?」
「とぼけることじゃないでしょ」
「とぼけるって、何を?」
香里は苛立っている。でも苛立っているのは香里だけじゃない。わたしだって苛立っている。
情けないわたし自身に。
「はぁ」
香里のため息。何度となく目の当たりにしてきたけれど、今日のは今までの中で最長かもしれない。
申し訳ない気持ちで一杯になる。せめてものお詫びにコーヒーでも
「注文はしなくてもいいからね」
「わ」
どうしてわかったんだろう、まだウエイトレスさんを呼んですらいないというのに。
わたしの疑問を気にもかけずに、香里は届けられたばかりのコーヒーを啜った。
「で?」
「で、って?」
香里がまた盛大にため息をついた。最長記録更新。もっと更新されるかもしれない。わたしに勇気がないから。
考えてみるととても失礼なことをしていると思う。わたしの方から頼みたいことがあると言っておきながら、一向に本題に入らないんだもん。普通の友達ならもうとっくに席を立っていると思う。
香里だから、ため息をつきながらもこうやって待っていてくれている。
そしてわたしもまた、香里に気付かれないようにため息をつく。
「あ、お冷やのおかわりください」
「……名雪、文句言ったりしないからため息ごまかすのに水を飲むのは止めなさい。トイレ近くなって大変よ」
あう、ばればれだったみたい。
でもわたしも素直じゃない。香里の言うことを聞き入れるけれど、すぐにじゃない。その場で注いでもらったお水をくっと飲んだ。
「ああ、それが最後の一杯ってわけね」
「香里は時々意地悪だよね」
「あたしほど親切な人はいない、って近所で評判よ?」
香里はそう言っておどけた。でも間違いじゃないと思う。わたしにとっては一番頼りになる存在だもん。
それを思うと申し訳ない気持ちで一杯になる。わたしは普段から香里にお世話してもらっているだけで、何も返していない。
いつかまとめて返してあげないと。
「だから、近所で評判の親切な香里ちゃんが聞いてあげるから、お腹壊す前に言いなさい。怒りも笑いもしないで聞いてあげるから、ね?」
「……うん」
香里の目はとても優しくて、本当にお姉ちゃんみたいに思えた。わたしの悩みを聞いてくれる、相談に乗ってくれる優しいお姉ちゃん。よくお母さんのことを「お母さんというよりお姉さんって感じね」と言う人がいるけど、わたしにとってお母さんはお母さんで決してお姉ちゃんじゃない。だって悔しいもん。わたしと香里は同い年なのに、わたしは全然子供で香里はすごいお姉ちゃんで。
あ、でもそれはそれでいいのかも。だって香里はこう言ったら悪いけど、一緒の時は必ず年上に見られるぐらいに老け顔だし、わたしはどっちかっていうと童顔だから、きっといつまでも若い顔でいられるもんね。お母さんだって香里のおかあさんよりも遥かに若く見えるし。うん、そう考えれば全然悔しくない。若いのはいいことだよ。
最後に勝つのは若さだもんね。
……うわ。今すっごいぞくっとした。香里が凍るような冷たい視線でわたしのことを睨んでる。
「どうしたの香里、わたしの顔、どこかおかしくなってる?」
「そんなことないわよ。いつも通りの可愛い名雪だわ」
「ありがとう。香里もいつも通りの大人の色気を感じさせる香里だよ」
「あんたそれ誉めてないでしょ」
「そんなことないよ〜」
「目が笑ってるわよ」
「わたし元々こういう顔だもん」
香里は「どうだか」何て言ってるけど、本当だよ。だって大人の色香を出すなんて、わたしには絶対出来ないことだもん。羨ましいもん。
だって……大人の色香が少しでもあれば祐一だってわたしのこともっと意識してくれるはずだよね。
そう、わたしの悩みは祐一のこと。
それも今に始まったことじゃない、ずっとずっと抱えて、抱え続けていたこと。
一人じゃ解決出来ない、わたしだけじゃどうしようもない悩み。
でも、どうしても踏ん切りがつかない。
だって、祐一についてのことなんて、小さいころからずっとわたしの中でだけ抱え込んでいたことなんだもん。
わたしの中でずっと祐一のことを、時には嬉しいことを時には悲しいことを考えて、そうやって10年ぐらいの時間を過ごしてきた。だから祐一についてのことは誰にも言わずに、そう、お母さんにも言わなかった。
口に出すと、その分祐一への想いを失いそうな気がするから。
勿論今のわたしは揺るぎない自信がある。
祐一への気持ちだったら誰にも負けない。わたしの中は祐一で満たされているから。
それは絶対の揺るぎない自信だけど、それでも不安になる。
今まで祐一への想いを他人に話したことがないから。
溜め込んでいたものの大きさも溢れかえりそうな気持ちもあるのに、どうしても不安が拭えない。
けど、無理もないよね。
だって、本当に小さいころからずっと溜め込んでいた気持ちだったんだもん。
最初のころは恋愛という感情だという意識はなかった。「一緒にいたい」という気持ちしかなかった。
でも、時間が経つにつれて「一緒にいたい」という気持ちが段々強くなっていった。
祐一と遊べたのは冬休みという限られた時間だけ。だからこそその限られた時間の中で祐一を独占していたかった。
ぶっきらぼうで意地悪でひねくれ者だったけど、時折り見せる優しさがとても嬉しかった。
約束を忘れることがあっても、決して破らなかった。後で「ごめんな」と言う祐一は、いつも見せる意地悪そうな顔が偽物に見えるほど輝いて見えた。
一年が待ち遠しかった。
祐一が来る冬という季節が待ち遠しかった。
一緒にいるのがとても楽しかった。
少しでも長い時間一緒にいたいと思った。
祐一が来なくなってからも、ずっと思っていた。
会いたい気持ちをずっとずっと心の中に溜めていた。
いつからだろう。
それが祐一を「好き」なんだって気付いたのは。
会いたいのに会えないというもどかしさが募って、それがちょうど思春期に重なって切り替わってしまったのかもしれない。
でも、それでも別に構わない。わたしの気持ちに嘘はない。
仮に勘違いから始まった感情だったとしても、今わたしは祐一が好き。それをわかっているんだから構わない。
小学校低学年から会えなくなって
中学年から高学年の間に気持ちを募らせて、好きだと思っていることに気付いて
中学校に上がった時からは色々と想像をするようになって
祐一の存在はどうしようもないぐらいに膨れ上がっていた。
寝ぼけ眼で「おはよう」の挨拶をして。
一日あったことを心に描いている祐一と話しながら過ごし
夜は祐一と一緒に寝た。
祐一に抱かれる夢を見ながら、祐一の鼓動を感じながら。
それはとても心地が良くて、ぐっすりと眠れる幸せの瞬間だった。
夢の中での祐一は、いつものように意地悪で、素っ気無くて。
わたしを困らせて…困ったわたしに優しくて。
繰り返しそんな夢を見ているうちにどんどん我慢出来なくなって、一度祐一のところに行こうと計画を立てたことがあった。
おこづかいをちょっとずつ溜めて、計画を練って。
香里に手伝ってもらって準備をしたんだっけ。
あの時は祐一のこと―――姿ををずっと想像していた。わたしの想像していた祐一は、小さい頃の祐一をそのまま大きくした祐一だった。
期待に胸を膨らませながら計画を練って、予定していた休日の連休を待っていた。
でも、結局行かなかった。ううん、行けなかった。
土壇場でわたしが恐くなってしまったから。
行きたかった。すごく行きたかった。
でも行けなかった。お母さんに内緒で遠くに行くのが恐いのもあったし、何より祐一を見るのが恐かった。
祐一はどうなっていても祐一だったと思う。例えおでぶさんになっていたとしても、関係ないと思っていた。
恐い不良さんになっていたとしても恐くなかった。
見るだけのつもりだった。遠目からちらっとだけ見て、すぐに帰るつもりだった。
それだけなのに、出来なかった。
家から離れることすら適わなかった。恐くて動けなかった。
祐一を見てしまったら、どうなるかわからなかったから。
壊れてしまうのが恐かったから。
もしあの時祐一を見に行って、祐一を見てしまっていたら、もし祐一と目が合ってしまったら…
もしその時祐一から何の反応もなかったとしたら
そう思ったら恐くて動けなかった。
何も出来なかった。足が竦んで身体が震えた。
酷いパニックになって、わたしが行くのを断念するまでずっとその状態が続いていた。
そしてわたしはそれ以来、祐一のところに行くのを諦めた。再び待つ道を選んだ。
待つ分には恐くなかった。だってわたしの近くにいてくれるんだもん。来てくれるんだもん。
待てる。いくらでも待てる。
そして待っていた。ずっと待ち続けていた。
それまで声一つ聞けない生活だった。夢の中での声のみ、祐一の声がわたしに響いた。こんな声じゃないかもしれない、と思いながら、それでも祐一の声はわたしの想像での声以外に考えられなかった。
本物の声を聞いてしまえば完全に消し飛んでしまうような虚像、それがわたしにとっての祐一だった。
本物の代わりでしかない。幻。まさに偶像。
でも全然構わない。
だって束の間だってことはちゃんとわかっているんだもん。むしろ消えてくれないと、本物の祐一に会うことが出来ないんだからすぐにでも消えて欲しいぐらいだった。
それにどんどん空想上の祐一が大きくなると困る。いくら現実とは違うとはいえ、あまりにも幻が大きくなってしまうとギャップに苦しめられることを思うとと不安になったから。
わたしの妄想している祐一が幻であると自覚出来ている間に、祐一が来て欲しい。
でないとわたしは妄想の中の祐一に取り込まれ、逃れられなくなる。引き篭もってしまう。
そう思って情緒不安定になってしまったのが高校入学時期だった。
中学になって陸上を始めたけど、それは祐一のことを忘れる時間が必要だと思えたから始めた。
結果的にそれがわたしを踏みとどまらせたと言ってもいいかもしれない。
陸上があったからこそ、わたしは妄想の世界に引き篭もることはなかった。
気付いた時は祐一と同じぐらい走ることが好きになれていたから。
朝から昼、そして夜は祐一で頭が一杯だったけど、部活の時間は部活のことだけを考えていられた。
今はもう、部活もわたしの中で重要な位置を占めている。何があっても祐一だけに逃げることはない。
そして二年になり、祐一のご両親の都合の話を耳にした。
「祐一さん、一人になっちゃうかもしれないのよ」
お母さんはこんな感じでわたしにその話を持ちかけてきた。
祐一のご両親の仕事の都合で、祐一は選択を迫られているという話だった。ご両親と一緒に行ってしまうか、分かれて暮らすか。
でも一人だけで暮らすなんて、ご両親は許さないということだった。無理もないと思う。そして祐一の選択はどうやら離れて暮らしたいと聞かされた。
「もし祐一さんが一人暮らしを選ぶとしたら、うちで預かるってことになっているんだけど、名雪はどう思う?」
最初実感が湧かなかった。
あれだけ望んでも届かなかった祐一が、来るかもしれない。
わたしの中に住んでいる祐一が消え、本物の祐一が、触れることの出来る祐一が、わたしの側に来てくれる。
すぐに信じられる話じゃなかった。頭の中で整理することが簡単には出来なかった。
「名雪が「嫌」だって言うのなら姉さんにはそう伝えておくけど、私は祐一さんを受け入れてあげたいと思っているわ」
そんなことないよ!と叫びたい気持ちを抑え、その場は「考えさせて」と言っておいた。考える必要なんか、まるでないのに。
そしてお母さんはそのことをわかっているはずなのに「そう」とだけ言ってその話を打ち切った。
なんて道化なんだろう。失笑が零れた。
部屋に戻る時に「わかっているんでしょお母さん」と言ったら
「名雪の口から聞かなければいけないことだから」と言われてしまった。
それから三日後、無駄に引き伸ばしてから「仕方がないからOKにしておいてあげるよ。祐一に恩を売ってあげないとね」と言って了承した。
お母さんは「そう」と言って笑っていた。見透かされたみたいで悔しかったけど、喜びの方が大きくって何も言わなかった。
今わたしのカレンダー、いつも飾ってあるカレンダーの下に隠してあるカレンダーには、ある日付のところだけ大きく印をつけてある。
その前の日も手を入れてある。数字の上に赤いマジックで1,2とカウントダウンするように書いておいてある。
朝と寝る前、必ず確認している。日課になっている。
あと、二日。あと、一日。言い換えよう、明日。
明日祐一が来る。わたしの住む家に、この街に。
「で、そろそろ本題に入る気になった?」
「あ、ごめん」
今までのことを思い出していたら香里のことをすっかり忘れていた。
すっかり冷めたコーヒーを見て、悪いなと思う。
でも香里は全然怒った顔をしていない。
香里は大人だなって、こういう時に思う。
お母さんは当たり前だけど、香里も大人だな。
余裕があるんだろうな、きっと。
わたしがいつまで経ってもお母さんみたいに落ち着けないのは、余裕がないからなんだと思う。
周りを見る余裕があれば、香里みたいに構えていられるんだろうか…
駄目。余裕があるわたしなんて全然想像出来ない。
「はぁ…」
「…随分な態度ね、それは」
「あ、ごめん」
「いいわよ」
その余裕、分けてもらえないだろうか、なんて無茶なことを考えてみて、また溜息をつきそうになった。
……ここじゃ言い難い。それに、言うだけというのもあれだし。場所を変えよう。
「ねえ香里、場所変えたいんだけど、いいかな」
「は?」
「ちょっとここじゃ言い難くって…」
説明がし難い、というか説明なんか出来ない。どうしよう。
香里にごねられたら話が進まなくなっちゃう。
でもそれほど不安はなかった。だって香里は大人だもん。わたしの我侭なんか溜息一つで許してくれるもんね。
「はぁ……わかったわ。出ましょう」
ほら、ちょっと億劫そうだけど、ちゃんと立ち上がってくれた。
わたしもレシートを持って立ち上がる。ここはわたしの奢り。そういう約束だもん。
けどレジの前で香里が立ち止まりちゃり、と小銭を置いた。
「話を聞いていないんだから、奢られるのも申し訳ないしね」
「いいよ別に。付き合わせたのはわたしなんだもん。香里は出さなくてもいいよ」
「いいわよ。今日は懐暖かいし、もし気が引けるなら変えた場所で何か奢って」
…適わないな。悪く考えれば「わたしに借りを作りたくない」というところなんだろうけれど、そんな素振り全然見せない。
おとな、だな。
夕暮れで赤く染まった商店街を歩く。
人ごみは賑やかで、どちらかというとせかせか歩いているように見えた。
スーパーのタイムセールのせいなのか、それとも急がないとお夕飯が出来るのが遅くなっちゃうのか、見たいテレビに間に合わないのか…みんな早足に見える。
そんな中ゆっくりとゆっくりと、わたしと香里は歩いている。
わたしがゆっくり歩いているから香里が合わせているだけなんだけど。
でも、文句はあがらない。無理もないかもしれない。
「珍しいわね。いつもはもっと早足なのに、随分ゆっくりじゃない。あたしは助かるからいいんだけどね」
「たまには香里に合わせないとね」
「言ってなさい。その方がありがたいから許してあげるわ」
「あはは、許されてあげるよ」
そうやっていつものように軽口を叩き合う。でも気が重い。
わたしにはこんなに余裕がないのに、香里は悔しいぐらいに余裕があるから。
わたしはいっぱいいっぱいなのに、香里は全然そんなことがないみたいだから。
本当は香里に合わせて歩いているわけじゃない。気の重さに比例して足が重いだけなんだ。
香里。わたしの一番の親友。
一番頼りになる一番大切な人。
わたしが落ち込んだ時は励ましてくれる。
わたしが泣いていた時は慰めてくれる。
わたしが頑張ろうと前向きになったら応援してくれる。
わたしが勉強で困っていたら、意地悪もするけどちゃんとわかるまで丁寧に教えてくれる。
お母さんは「香里ちゃんとはずっとお付き合いすることが出来る関係になるわよ」と言っていた。わたしもそう思う。
たとえ別々の人生を歩んだとしても、香里はずっとわたしの一番の親友。これから多くの出会いがあったとしても、香里はわたしにとって一番の親友だよ。
不意に祐一のことを思い出した。
不意なんかじゃない。わたしは常に祐一のことを考えている。だから不意なんかじゃなかった。
祐一はどんな女の子が好みなんだろう、と考えていた。
この年だから、当然恋人という関係になりいと思うに決まっている。
わたしならいいな、と、わたしの中で恋愛感情というものを知ってからは思い続けてきた。
同時に悔しいとも思った。この感情をもっともっと早く、祐一が来てくれていた頃に気付いていれば、意識していれば、もっともっとストレートに自分の感情をぶつけられたのに。
今となっては無駄なことではあるけれど、今でも後悔している。
その間、わたしはずっとこの気持ちを祐一にぶつけることは出来なかった。
でもそれは無理もないことだとも思う。わたしが祐一のことが好きなんだって気づいたのは、祐一が来なくなってからだったから。
告げられない気持ちがずっとずっと、今の今まで、まるで雪のようにわたしの心に降り積もっている。
世界のように春になれば溶けることもなく、一年中降り積もり、二年経っても三年経っても止む気配はなく、七年。長い時間をかけて募らせた想いは結晶と化し、もう絶対に溶けることのない確固たるものとして出来上がっていた。
そうやって揺るがないだけの気持ちを築き上げても、肝心の祐一の気持ちはどうなんだろう。
祐一の好みが気になって、しょうがない。
大きい子が好きなんだろうか、小さい子が好きなんだろうか。
いや、胸の話じゃないようなそうでいいような。
大人の人がいいんだろうか、子どものほうがいいんだろうか。
年上?年下?
気になってしょうがない。
このことを考えるといつも必ず堂々巡りになってしまう。当たり前だよね、肝心の祐一がいないんだもん、結論に辿り着けるはずがない。
わたしの中の祐一はわたしだけを見てくれる。でもそれはわたしが作った理想の祐一なんだから、当たり前のこと。
本物の祐一は、どう思っているんだろう。
それがわからない。
わからないから、堂々巡りになるしかない。
そして、意識しないことにしていた。
していたんだけど……祐一が来るのが近付くにつれて、どうしても思ってしまう。考えてしまう。
祐一?あなたはどんなタイプの女の子が好きなの?
わたしはどんなタイプの女の子になれば、あなたはわたしを見てくれるの?わたしを慕ってくれるの?想いを寄せてくれるの?
祐一は笑って「名雪だよ」と言ってくれる。
ぶっきら棒にそっぽを向いてじゃなくて、わたしを見て。
違う。
本物の祐一は違う。
本物の祐一は意地悪で、素直じゃなくて、わたしのことを真正面から見て言ったりしない。
それをわかっているのに、どうしてもそんな祐一を「再現」出来ない。
わたしの中の祐一は、どうしてもわたしに優しい、都合のいい存在としてしか再現出来なかった。
だから、やればやるほど不安になってしまう。
それでも止められない。だって祐一は祐一なんだもん。
本当は都合よく考えている段階で駄目なんだろうけど、そんな都合のいい、歪な祐一でも頭の中で作れていたから今のわたしがあるんだと思う。
歪な祐一でも、祐一は祐一。ニセモノでも、祐一は祐一。
もうその役目は終えてしまうんだよね。
今までありがとう、ニセモノの祐一。
最後にもう一度教えてくれるかな?
あなたの理想の女の子は、誰?
「名雪だよ」
大人になりたい。
心が乱されない大人になりたい。
祐一が飛びつくような大人になりたい。
そう、祐一は大人な女の人がいいんだと思う。
わたしのように子供じゃない、余裕のある大人の人に憧れるんだ。
小さい時だって、わたしよりもお母さんにすぐくっついてたことを思い出す。
だからきっと大人の人がいいんだ。
本で読んだことだってある。男の人は年上の女性に憧れる、って。
きっと祐一もそうなんだ。
おぼろげになっている記憶を呼び起こしてみると納得出来ることがある。
あれはきっとお母さんの気を惹こうとして格好をつけてたんだ。
男の子は子供っぽい。それはクラスメートを見てもわかる。
北川くんもいつもバカをやってる。それも決まって香里の前。あれはきっと、愛情表現なんじゃないかな。
香里は大人だから笑ってすかしてしまうけど、わたしだったらどうだろう。
きっと、見向きもしないんだろうな。わたし今までずっとそういうこと、なかったし。
でも、いいの。それでいいの。
だって祐一がいればいいんだもん。
「で。ここなんだ」
「ここがいいかな、って思って」
辿り着いたのは公園。
凍らないように常に水を流し続けている噴水がある、大きな公園。
夜はライトアップなんかされてとても綺麗なのに、どういうわけかあまり人は集まらない不思議な場所。もっとも、季節が冬以外なら賑わう場所なんだけど。
この季節だけは周囲から忘れ去られてしまう、そんな場所だった。
冬は陽が落ちるのが早い。ましてや今日の予報は夜から雪が振り翌朝まで振ったり止んだりを繰り返すらしい。ちなみに明日の予報は曇りのち雪。
香里が空を見上げる。鉛色の雲は夜の訪れを告げるように、徐々に黒を強くしていっていた。
もうすぐライトアップされる時間かな。
「…ここにしたのはいいけど、あまり時間ないんじゃないの?」
「そうだね」
あんた傘持って来なかったんでしょ、と続ける香里に苦笑いで答えた。
「わたしは足が速いから大丈夫だよ」
「……あのね。雪の落下速度とか落ちる量とか計算に入れているわけ?」
「入れてないけど、平気だよ」
「…あんたのその能天気具合が羨ましくなる時があるわよ…」
今がその時ね、なんて言われて笑ってしまう。
でも、全然嬉しくないよ。そんなこと言われても。
「座ろ」
ベンチに促して、わたしは先に腰掛ける。この辺りはあまり陽が当たらないから雪解けがし難いため、すぐ座れるようにと雪が積もる時のためにかけられているビニールシートを退かして、腰掛けた。ひんやりと冷たく、思わず顔を顰める。
「濡れているんじゃないの?」
「ちょっとひんやりしているけど、平気だよ。濡れてはいないよ」
「……そう」
溜息をついて、香里もわたしの隣に腰掛けた。ひんやりとした感触に一瞬腰が浮いたみたいだけど、ゆっくり腰を下ろした。
「…………」
「…………」
少しの間、無言で二人、空を見上げていた。
いつまでもこんなこと、やってる場合じゃないよね。
「食べる?」
鞄からパンを取り出して香里に差し出す。
「あ、もらうわ。お腹空いてたのよ、ありがとう名雪。早速いただきます…ん、美味しい。ちょっと苦いのね」
「あ、飲み物、買ってくるね」
「あたしが行くからいいわよ」と言う香里を、「さっきのお詫びだよ」と言って駆け出す。
美味しそうに頬張ってくれる香里をちら、ともう一度だけ見て、わたしは自動販売機の前に来た。
吐息が白く、上にあがっていく。
自動販売機にはもう照明が灯され、商品を照らしていた。
「…コーヒーがいいかな…香里は苦い方がいいかな…」
小銭を入れてボタンを押す。がちゃん!と吐き出されるコーヒーを手に取った。熱い。
「…………」
包むようにコーヒーを持ち、思う。
祐一、明日には会えるんだよね…
明日からは、ずっと一緒にいられるんだよね。
わたしは、ずっと狭い世界でだけ生きていた。
お母さん、そして祐一。この二人さえいてくれればいい、それだけで十分だと思っていた。
陸上の楽しさを知って、香里のような親友に会えた今、少しだけ世界は広がったけれど、お母さんと祐一だけいてくれればそれでいい。その思いは今も変わらない。
わたしの勝手な思い込みだけど、祐一だってそんなに広く足を伸ばそうとは思わないと思う。友達もそんなに作れないと思う。
面倒くさがりで意地悪だった祐一。子供の頃の性格が簡単に直るなんて思えない。わたしがそうであるように。
だから、狭い世界にだけ祐一を置いておけば、きっと祐一はわたしだけを見てくれる。
これもわたしの思い込みだけど、祐一は大人の女の人に憧れるような気がする。だって、わたしには素っ気無かったし。あれはきっとわたしが年上じゃないからだ。
でも、世界を狭めてしまえば、わたしぐらいしか女の人がいない世界なら、きっとわたしだけを見てくれる。
「……だからね」
だからね…ごめんね。
わたしは思ったんだ。
いなくなってくれれば、大丈夫だ、って。
わたしの側にいる大人はお母さん。でもお母さんはお父さんをずっと愛し続けているから、もし祐一がお母さんを好きになっても拒んでくれる。
でも
でも、香里は…
わたしは香里の親友だけれど、香里の全てを知っているわけじゃない。
わたしの知らない美坂香里という女の子がいる。間違いなく存在する。
部活の香里、家の中の香里。何かを考えている時の香里。
物憂げに考えている時に「どうかしたの?」って前に聞いたら「何でもないわ」と素っ気無かったよね。
あの時わかった。香里はわたしの世界に入れてあげられない、って。
わたしの世界にいられる人は、わたしの知らない部分があっても許してあげられる人だけ。
だから、香里は駄目。
でも、誤解しないでね。わたしは香里が一番の親友だって、今も思っているから。
「…わたし、香里の分まで幸せになるから…」
気付いた頃にはコーヒーが冷めていた。
「あ、駄目だねこれじゃ、買い直さないと」
もう一度お金を入れて、同じコーヒーを取り出す。冷めたコーヒーはポケットに入れて、わたしは香里の所に戻る。
香里は、ベンチで眠っていた。
わたしが昨夜作っておいた、睡眠薬を沢山仕込んだパンを食べて。
「…おやすみ、香里。今までありがとう。わたし、本当に嬉しかった。
幸せになるね。大丈夫だよ、これで祐一はわたしだけのものになれるはずだから。もし邪魔が入ったら、ちゃんと取り除くから。
見守っていてね………さようなら」
別れの言葉を告げ、足を持ち上げてベンチに横たえ、脇に缶コーヒーを置いて、ビニールシートをかける。
いつの間にか振り出していた雪は大粒になって、視界を見難くさせていた。
明日は祐一が来る。風邪を引いて待ち合わせ場所に遅れたりしたら大変だから、早く帰らないと。
駆け出すわたしの足元に、大粒の雪が降り積もる。
今夜中に足跡は消えてしまうだろう。それは今までのわたしの足跡を消してくれるようで、嬉しくなって顔が綻んだ。
祐一との再会は、とびっきりの笑顔。
そう、慌てて大人になる必要なんかない。
わたしは祐一と一緒に大人になればいい。
もう、後ろは振り返らない―――――――――――――
感想
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