倉田さんの話をしようと思う。
 彼女は友達の彼氏を見つめてブリーチした髪と一人称を手に入れ、トレードマークだったリボンを捨てた。
 ねえ、倉田さんは僕のことを男として見てくれていたんだろう?




 ぼくを尊敬して




 僕が倉田さんに声をかけたのは遅咲きの桜がそろそろと芽吹き始めた春だった。その日は朝イチの講義が終了した直後で、まだ慣れない手つきでレポートパッドとペンをバッグにしまった彼女が1人で教室の外に出ようとしているのを見て「ちょっと」と話しかけた。
「1回生?」
 軽い気持ちだった。
「はい」
「そっか、じゃあまだ慣れなくていろいろ大変だよね」
「そうですねえ」彼女の肩の力がふっと抜けた。
「俺2回なんだ。俺もこの授業でてるから、なにかわからないことがあったら声かけてよ。力になるから」
 倉田さんは会話のあいだ終始笑顔を絶やさなかった。僕たちは軽い自己紹介をして、僕は携帯の番号とメールアドレスを書いたメモを彼女に渡した(彼女は携帯電話を持っていなかった)。ふと彼女は駆け足で自分の次の講義の教室を僕に訊くと、軽く頭を下げ、小走りに教室を出ていこうとした。そしてドアの前で振り返ると僕に向かって手を振ってみせた。口元がお礼の言葉を結んでいた。
 それから僕たちは週に何回か顔を合わせ、その度に僕が倉田さんに話しかけた。何回か話すうちに僕たちはだいぶ自然な感じで言葉をやりとりするようになり、そのうちに倉田さんからも声をかけてきてくれるようになった。人当たりのいい女の子だな、とそのときの僕は思っていた。
 そんな調子で僕は何人かの気に入った新入生に声をかけていた。


 僕には何の取り柄もない。だからせめて精一杯にたくさんの恋をすることで僕が僕であることを確かめようとしていた。できる限りの出会いのチャンスを作り、できるだけたくさんの好みの女の子に声をかけられるような状況に身を置くことを望み、またそのための努力は惜しまなかった。必死だとあざ笑われても言い返すつもりはまったくない。僕にはそれしかなかったし、本当に大切だと思える彼女を得た経験は誰にも罵りようのない僕の誇りだった。
 恋人が複数いたことだってけして短い期間じゃない。
 でも、女の子だって馬鹿じゃなかった。深く付きあっていくうちにうすっぺらな僕の内実なんて次第に暴かれてしまうのだ。僕はそうしていつも最後にはお払い箱だった。
 別れを僕から切り出したことは1度もない。恋人が僕のもとから離れていく。でも僕は食い下がることができなかった。僕のどうしようもない矮小さは僕自身が一番知っていることだったから。
 ばいばい。せいぜい僕を踏み台にしていい男を見つけろよ。数分前まで恋人だった女の子の背中を見つめながら思う。そして拳を握ってもっと……もっともっといい男になりたいと強く願う。
 それ以外僕にはなんにもなかった。


「先輩が声をかけてきてくださったんですよね。私そんなにおろおろしてるように見えました?」
 ふと前に投げていた視線を僕に合わせ、そんなことを倉田さんが言ったことがある。
「どうだったっけ」
 横顔が綺麗だったからと直球過ぎる本音はセーブして僕はとぼけた。「でも役に立ったでしょ」
「そうですね。いつもいつもお世話になってます」
「俺、倉田さん好きだよ。気にしないでおろおろしてなよ、見えるところではフォローするよ」
「あはは」
 そうして倉田さんはいつになく気の抜けた、子供みたいなしぐさを見せた。
 愛想笑いを最高レベルで表現すればこんな表情になるのだろう。
 きっと彼女はこういう笑いかたをする女の子じゃなかった。いつも精一杯笑って、それでもうち解けた人から見たら考えていることがぜんぶ筒抜けてしまうようなコだったんだと思う。たぶん、ごく最近までは。
 好きな男がいるんだろう。その男以外は本当にどうでもいいと思えるくらいの。


 付きあってる女の子と休日に予定を合わせてデートして、その夜に電話もする。一緒にいる時間さえ長く取れれば話題はいくらでもできる。話す内容のくだらなさなんてお互いに楽しければ問題にならない。僕はもともと声が聞きたくて電話をかけているのだ。
 ドラマは僕が作ってあげる。疲れる裏方も汚い手回しも全部僕が引き受けてあげる。歯の浮くような言葉も、雰囲気をアツアツにキープし続けさえすればなにかすてきな甘いものとして2人の心に行き渡っていく。幸せとはたぶんそういうものなんだと僕は思う。
 その翌日に倉田さんに出会ったのは本当に偶然のことだった。
 平日の講義の空きを利用して駅ビルに入っているレコードショップを覗こうとしていた僕は、その通り道のおもちゃコーナーに友達と一緒にいる倉田さんの後ろ姿を見つけた。僕が声をかけると、倉田さんはこんにちはと会釈して笑顔を見せた。
 倉田さんもどうやら僕と講義の空きが重なっているらしく、横にいる友達(大雨にでもすすがれた清流のように見事な黒髪を後ろで結ったつり目の女の子だ)にはわざわざ電話して買い物に付き合ってもらっているという。
「誕生日なんですよ、大切な人の」
「倉田さんの彼氏?」
「違いますよー、舞の、あ、この子舞っていうんですけど、舞と付きあってる人なんですよ」
 ねー、と倉田さんが同意を求めると舞と呼ばれた女の子はストレートに顔を赤くする。前髪が長くわかりづらいが、よく見るとかなり整った顔立ちだ。
「でもさ、おもちゃプレゼントする気なの?」
 僕が周りを見回して言う。その合間にも右側のぬいぐるみコーナーは甘ったるい声でいかに自分たちが可愛いかをアピールし続け、左手側では大がかりなプラレールセットの上をトーマスがカチカチと音をたてて走り抜けていく。子供にはちょっとした楽園かもしれないけれど……。
「舞がこのコーナーから離れないんですよー。ね、今日は祐一さんにあげるもの見に来たんだから、あっちも見てみようよ」
 倉田さんが指し示す方向には男物の財布や手帳のコーナーがある。倉田さんが友達の手を軽く引っ張ってみるが、彼女はぐずるようにしてもう少しここにいたいことを目で訴えている。端麗な印象とは裏腹にずいぶんと子供っぽさの残る女の子だ。
「彼氏ってことは男なんだよね? CDとかはどう?」僕はレコードショップのほうを示して提案する。
「あ、それもいいかもです。祐一さんけっこう聴くみたいですから」
「選ぶの手伝おうか。俺今から行くところだったし。一緒に行こうよ」
「舞、行ってみよ」
 倉田さんが誘うが、舞というコは動かない。彼女はぼそぼそと倉田さんになにか話したが、僕には声が小さくて聞き取れなかった。
「そう? じゃあ佐祐理たちはちょっとあっちにいってるね」
 倉田さんが言った。
 佐祐理たち、と僕は口の中で言葉を反芻してみる。小さな子供みたいに自分のことを名前で呼ぶ倉田さん。
「舞、あっちで1人で探してみるって言ってました」しょうがないな、と含み笑い。「あの私は、CD屋さんに付きあってもらっていいですか?」
「うん、佐祐理」
「え?」
「さん」とあわてて僕は付け足す。なんだか無防備になっていたみたいだ。彼女が自分を名前で呼んだ、それだけのことなのに。
「佐祐理さんって呼んでいい? 倉田さんのこと」
 思いつきで口を滑らしてみる。倉田さんは僕の目をじっと見つめる。恐ろしい錯覚が一瞬僕を捕らえる。もしかして倉田さんは、僕の考えているくだらないことぜんぶ、とっくに見透かしてしまっているんじゃないのか?
 いいですよと倉田さんが笑顔になって言う。そして僕は不安定な足場で簡単なステップすら踏めないまま、後先考えずに彼女との距離を縮めようとする。


 その日から僕はよく倉田さんと川澄舞について話した。というよりも倉田さんが話して僕が一方的に聞いていた。違う大学に通うという彼女に僕も多少興味があったし、なにより倉田さんが喜んだからだ。川澄舞という女の子について話す倉田さんはいつも明るい声でにこにことしている。誰かに彼女のことを本当に話したくてしょうがないというように。川澄舞と彼女の彼氏についてのささやかな一挙動までもを倉田さんは慈しむように話した。
 倉田さんは川澄舞が好きだ。
「舞は親友です」てらいなく倉田さんは断言する。「舞が幸せだったら、それだけで私も幸せなんです」
「でも、佐祐理さんも彼氏くらい欲しくない?」
「そうですね。そういうのいいなって思うんですけど、でも、舞が幸せなの見てたら最近はもういいかなって気分になるんです」
「そんなにかっこいいの、川澄さんの彼氏?」
「それはもう、舞が選んだ人ですから。でも、そういうんじゃなくても私、祐一さん大好きですよ」
 僕に笑いかけるが、倉田さんは僕を見ながら僕を見ていなかった。この笑顔は僕に対してのものじゃないと僕は思った。まいったな、今の笑顔は恋する女の子そのものじゃないか。
「そういうのいいね。妬けるなあ」
「あはは」
 冗談めかして言ったつもりでも明らかに冷静さを失っているのが自分でもわかる。気づかれる前に話題を変えたほうがいいかもしれない。僕はバッグから裸のCDが20枚ほど入るポータブルケースとCDプレイヤーを取り出した。
「CD、いろいろ持ってきたよ。あそこ試聴できるの少なかったからね」
「わざわざすみません」
「趣味だから。川澄さんの彼氏は普段どんなの聴いてるのかな」
 倉田さんが本格的に考え出す。音楽を普段から自分であさって聴く習慣のない人にはつらい質問だったかもしれない。
「ま、一通りちょちょっと聴いてみたら。俺の持ってきた中に佐祐理さんの気に入るのが1つあれば儲けもんってとこ」
 助け船を出しつつ僕はCDケースの中身を思い出す。昨日試聴したわずかなデータをもとに、邦楽はスピッツとCymbals、ジャズはSonny ClarkにOscar Petersonの聴きやすいやつ、クラブジャズ系もPe'zとIncognitoを、洋楽ではThe Stone RosesのファーストにEric ClaptonのUnplugged、あと、とても気に入るとは思わないがOvalとBoards of Canadaも一応持ってきた。僕のコレクションだからカバーできる範囲はたかがしれている。他人の音楽嗜好は本当に予想できないものだ。
 倉田さんはヘッドフォンをかけるとまずUnpluggedを試した。スウィングするギターのリズムに軽く頭を揺らす。いいですねと言いながら選曲ボタンで楽曲をつまみ食いしていく。
「あ、これいいですよ。これにしようかなあ」
 ヘッドフォンを外して倉田さんが言う。いくらなんでも早すぎる。
「まだ数分しか経ってないし。どうせならもう何枚か試しなよ」
 倉田さんは再びヘッドフォンをかけ、スリーブに入ったCDのラベルをパラパラと見て何枚かのCDを聴いた。ゆったりと構えながらもプレイヤーのボタン操作は頻繁で、本当に聴いているのかどうかわからなくなる。でも、倉田さんならほんのわずかなリスニングでCDのスケルトンを掴んでしまったとしても、あまり不思議じゃないと思うのは人徳と呼んでいいのだろうか。
 これはどうでしょーとひとりごちながら次に倉田さんが取ったCDは今日入れてきた覚えのないものだった。
「それは」
「あ、ダメでした、これ?」
「いや、いいよ。聴いて」
 Kahimi KarieのI am a kitten。丸く暖かいベースギターを中心にした小規模編成の曲。比較的落ち着いた音なのにバスドラムとギターのリズムに胸をえぐられるような感じがする。尖った耳になんて私はもう興味ない、私は愛されたいとKahimi Karieがフランス語でささやく。僕は最近この曲をくり返し聴くことが多かった。なんとなく倉田さんみたいだと思いながら聴いていたのだ。
 倉田さんが初めてボタン操作なしにこの曲に聴き入る。いくら倉田さんでも、フランス語の歌詞までは聴き取れていないと思うが。
「そういえば私、つい最近までリボンしてたんですよ」
 視線を落として倉田さんがお喋りする。
「佐祐理さんが?」
 なぜそんなことを突然言い出すんだろう。倉田さんは手持ちぶさたに自分の髪の毛を枝毛を探すように指先で持った。
「この髪もね、もともと色は薄かったんですけど、ちゃんとブリーチしたのは高校を卒業してすぐのことです」
 特に珍しい話をしているわけではない。でもこの話は倉田さんの根幹に関わっている気がする。
 後ろでゆったりと大きめのリボンを結った倉田さんは想像するまでもなく可愛らしかっただろう。でもそれはあくまで「女の子」としての可愛さが先に来る。女としての、ではなく。自分をより魅力的に見せようと女の子が変わっていく理由を僕は1つしか思いつかない。
「この曲、個人的に気に入りました。なんて人が歌ってるんですか」
 僕はミュージシャンと曲名を教える。この曲に対する感傷を僕は倉田さんとわずかながらも共有できたのだろうか。それは想像の域を出ない。でもいまのうち明け話をするには僕がちょうどよかったのだろう。きっと僕じゃなくてもよかった。でも川澄舞や川澄舞の彼氏では絶対に駄目だったのは間違いない。
 倉田さんが気になったいくつかのCDについて僕に訊く。僕は詳細を話して倉田さんがメモを取る。
「じゃあ、あとはこれで舞と相談することにしますね」
「その彼氏の部屋に行って、持ってるCDとあげるCDが被ってないか偵察しておきなよ」
「あはは、本当にいろいろとありがとうございます。そのうち、何かお礼ができたらいいんですけど……」
「礼なんていいよ。そうだ、じゃあ今日講義ぜんぶ終わったら遊びに行かない?」
「私とですか?」
「そう」
「私と遊んでもつまんないですよ。普通よりちょっとだけ頭の悪いただの女の子ですから。あ」
「?」
「この口癖は、やめたんでした」
 僕はいまの言葉を口癖にしている高校生の倉田さんを想像してみるが、無理だった。僕は高校生のころの倉田さんを理解できない。
 理解できないけど、いい。僕は僕にみせてくれる倉田さんをありのままに受け入れる、それだけだ。
「でもきっと退屈しますよ」
「だいじょうぶ。退屈させない」
「先輩が退屈するんですよ」
「ふふふ」
 口を閉じて変な顔をして笑ってみせる。僕の顔に倉田さんが吹き出す。
「佐祐理さんといると楽しくてしょうがないから、いつもこんな顔になっちゃうのをがんばってこらえてるんだ」
「そうだったんですか?」
 きょとんと真顔で返す倉田さん。ほら、退屈しない。


 確かに倉田さんと一緒にいて退屈することはなかった。初めてやるという遊びを教えても、すぐにコツを掴んでそつなくこなしてみせる。それに加えてこんなにも美人で、一体誰が退屈するというんだろう?
 倉田さんはきれいだ。あまりにきれいすぎるから、もう少し泥をかぶってみせないと周りはその美しさに気づかないのかもしれない、なんて思う。リボンを捨てたりしなくても川澄舞の彼氏は倉田さんの可愛さを十分にわかっていただろう。それでも倉田さんは足りずに自己改革を始めた。
 そうやってもっともっと可愛くなって、きれいになって、美人になって。
 それからどうする?
 親友の彼氏を見ているというのはほんのわずかな情報しかない僕の想像に過ぎないけれど。

 ――でも、舞が幸せなの見てたら最近はもういいかなって気分になるんです。

 倉田さんの言葉を思い出す。彼女の努力はすべて無駄になってしまうのだろうか。彼女が想いを向ける相手が例えば僕なら、僕はどのくらい幸せになれるだろう。そのとき、倉田さんはどのくらい幸せだろう。
 僕は恋をしていた。
 いまさら恋というには強すぎるほどの恋だった。いろいろな感情を含みすぎていた。正直に言うと、それはたぶん恋という言葉からは決定的にかけ離れた感情だったように思う。
 何日か経った昼過ぎに、僕は付きあっている彼女に初めて自分から別れ話をした。


 ずっと恋だけを求めていた。ヒーローが僕の中にいてくれたらいいと思っていた。
 でもいまはそれ以外の、なにか無償のものがまわりにふわふわしはじめている。


 ねえ、倉田さんは僕を男として見ていてくれていたんだろう?
 頼むから僕のほうを向いてくれよ。僕を尊敬して。僕は君に憧れられたかったんだ。







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