二人の声が世界に響く。
 もう一度、この場所から始めよう。
 今なら出来る。今ならやれる。


 無骨な指きり。左右対称の指は、絵画のよう。
 あの時のように、左の掌に右の掌を重ねた。







ミギテとヒダリテ










 夢をみた。
 夢の中で彼と一緒に走っている。
 ああ、これはどのシーンだっただろうか。胡乱な頭で考えると、思いのほかすらりと回答が顔を出した。
 彼と商店街でぶつかった。彼は誰かから逃げていて、いつの間にか私も一緒になって逃げることになった。
 彼の利き腕の左手、私の利き腕の右手。それらが堅固に繋がれた。二人で走り出した。
 そんな出会いのシーンだった。

 彼はよく笑い、私もよく笑った。
 何処までも何処までも走っていけそうな、そんな感覚が蘇る。
 空を飛べると信じていたあの頃の、そんな思い出が掌に還る。
 頑張れば、太平洋だって泳いで渡れると信じて疑わなかった。
 ――いつまでも一緒に居られると、思っていた。
 ただし、それらは大いなる勘違いで錯覚だったことを後に知り、私は打ちひしがれた。
 本当は何処にもいけない、何処にも飛べない、何処にも泳げない、一緒に居られない。
 そんな矮小な存在だったことを思い知らされた。
 幸せの終焉は、妙にあっけない雪の中。
 温もりを逃がさぬよう、彼の左手に私の右手を重ねながら、泣いた。 

 ああ、天使のような彼は、その私の慟哭を聞いて、最後になんといったっけ。
 雪の風が丘を吹いた最後の時、彼はなんといったっけ。
 考えるけれど、ぼんやりとした輪郭しか思い出すことが出来ない。
 磨硝子越しにみた風景のように、それは曖昧だった。

 ――やがて、夢が終わりを迎える。
 けたたましく鳴る目覚ましの音が、今は愛しかった。






 それは、十一月初旬の、よく晴れた朝の出来事だった。

 目から星が出る。生まれて初めて、美汐はそんな痛みに襲われた。
 見通しの悪いT字路、遅刻間際のダッシュ、足元は前日のみぞれ雪で摩擦係数が極限まで抑えられ、急激なブレーキも方向転換もままならなかった。
 それらが重なれば、起こる出来事は一つしかない。
 美汐はぶつけあった頭を抱え、地面にうずくまっていた。
 涙目のまま視線を動かすと、相手もかなり痛そうに頭を抱えているのがみえた。
 女の子、だろう。
 髪もそれなりに長いし、赤いカチューシャは明らかに女物だ。
 体格も美汐と同じ程度なので、間違いはない。
 女の子は頭を抑えている以外に外傷はないようだったので、次は自分の身体のチェックへと回ることにする。
 痛みの震源地、前頭部を恐る恐るさすってみる。大きなこぶが出来ていた。
 軽い前傾姿勢をとっていたから、おでこの少し上の辺りだ。
 あと僅かでもぶつかった場所が低ければ、額が切れて悲惨なことになっていたかもしれない。
 もう一度、相手の姿を見る。彼女も押さえている場所は似たようなところなので、やはり同じような姿勢だったのだろう。
 互いに大きな怪我がないらしいことが不幸中の幸いだった。
 と、そこで美汐は手にしていた鞄がないことに気づく。周りを見渡すと、5mほど前方に茶色の学生鞄が放られていた。
 中身は飛び出していないようなので、美汐は心の中で安堵した。
 濡れた道路にぶちまけてしまえば買い替えは必至だったので、これもまた不幸中の幸いだった。
 ――しかし。都合よく不幸中の幸いが起きているのは美汐の方だけのようだ。
 みれば、女の子が持っていたであろう紙袋は大きく前方に投げ出され、中身の茶色の物体――たい焼き――が雪の地面に放り出されている。
 湯気がホカホカと経っているところから焼き立てなのだろうが、丁度、残っていた雪に埋没してしまっていた。
 ああなっては到底食べることは出来まい。
 自分の教科書は無事だったため、妙な罪悪感を美汐は感じた。
「……あの、大丈夫ですか?」
 女の子はまだ痛みが引かないのか、首をフルフルと横に振った。
 何とかそれを緩和できるような方法がないかと考える。
 冷たいものがあれば患部を冷やすことが出来るが、都合よく氷などは持ち合わせていない。
 そこらかしこに雪があるが、まさかそれをそのまま使うわけにもいかないだろう。
 近くのコンビニまで一っ走りしてこようか、と思案し始めたところで思い出した。
 先ほどコンビニで昼食にする予定だった品物を買った際、ビニル袋がついていたはずだ。
 美汐は鞄の元へと走りより、それを取り出した。おにぎりとお茶はいらないので、中に戻す。
 ビニル袋の中に手近な雪を詰め、簡易の保冷材にした。あまり清潔とはいえないが、触れる部分はビニルなのでそれほど問題はないだろう。
「さ、少し手を退けてくれますか? 今から冷たいモノをあてますから」
「うぐぅ……」
 珍妙な返答だったが、手は退けられたので肯定だろう。美汐は雪の入ったビニル袋を女の子の額に当てた。
「どうです。少し楽になりましたか?」
「うん。気持ちいい……」
 女の子の表情が柔らかなものに変わったので、美汐は安堵した。どうやらちゃんと効果はあるらしい。
 この分なら、もう暫く当てていれば動けるようになるだろう。
 そこで、美汐は腕時計に目を落とす。もうチャイムは鳴ってしまっているから遅刻は確定なのだが、一時間目には間に合いたい。
 しかし、この場をこのまま放置していくのはよくない。
 責任は自分にも半分あるので、最低限の責務は果たさなければいけないと自分自身を戒めた。
「それでは、少し自分でもてますか? 私は飛んでしまったたい焼きを片付けるので」
「うん、わかったよ……って、うぐぅ!? たい焼き、どこいっちゃったのっ?」
 今の今まで気づいていなかったのか、左手でビニル袋を受け取りながら女の子は辺りを見回した。
 自分が遮蔽物になっていることに気づき、美汐は立ち上がってそこを退く。
 先ほどまで湯気を経てていたそれはすっかりと冷たくなってしまったようだ。周りの雪が少し溶け、皮が深い茶色に染まっている。
 美汐はそれを一つ一つ摘み上げ――全部で6個もあった。家族で食べるつもりだったのだろうか――紙袋に戻す。
 紙袋もじっとりと濡れてしまっていて、このままゴミ箱へ捨てるしかなさそうだった。
「もう食べられないようですね……どうしますか?」
「うぐぅ……捨てるしかないみたいだね」
 女の子は心底残念そうな顔をした。一度ビニル袋を右手で押さえなおし、左手で紙袋を受け取る。
「――――」
 その、一見不自然な仕草――左利きのそれ――に美汐は過去を回顧してしまう。
 脳裏に浮かぶ様々な映像を美汐は振り払った。霧のように霧散していくそれは、やがて完全に立ち消えていく。
 手馴れた作業に淀みはなかった。
「……とにかく、ぶつかってすみませんでした。痛かったでしょう?」
「うん。でもキミも痛かったでしょ。こちらこそごめんなさいっ」
 ペコリと彼女が頭を下げたのでビニル袋の中に入れていた雪がザァと落ちた。
 女の子は慌てて雪をかき集めなおす。パタパタと背中の白い羽が揺れていた。
 ――さて、と美汐は立ち上がる。そろそろ頃合だろう。
「それでは、私は学校に向かいますね。……一人で大丈夫ですよね?」
「もちろんだよっ」
「そうですか、良い返事です。では、私はこれで失礼しますね」
「うん、ボクもいくねっ」
 そういって、彼女は飛ぶように立ち上がり、駆け出した。時折振り返り、手を振ってくる。
 危なっかしいなぁ――と思っていたら、案の定雪に足を取られて転んでいた。
 彼女は照れたように頭をかき、立ち上がる。太陽のような笑みを、美汐に向けた。
「これ、ありがとうっ! とっても役に立つよっ」
 雪を詰めなおし、今度は鼻に当てていた。美汐は苦笑しながら、手を振る。
 女の子も手を振り返し、今度は何事もなく美汐の視界から彼女の姿は消えた。
 ――のだが。彼女は血相を変えて、こちらへ戻ってきた。
「どうしたのですか?」
「う、うぐぅ! 追われていたのを思い出したんだよ!」
「追われている?」
 じゃあ、先ほどまで走っていたのはそれから逃げるためだったのか。
 何から追われているかは判らないが、近頃は物騒だ。
 少々年は幼いかもしれないが容姿は紛れもなく可愛い部類に入る女の子だし、ストーカーという可能性も否定はできない。
 もしそうなら彼女を一人にするのは得策ではないだろう。
 なら自分がついていてやらなければ――と考えたところで、美汐は額に手を置き、溜め息をついた。
 おかしい。今日の自分はどうやら本格的におかしいようだ。
 自分は、人を遠ざけて生きていくと決めたはずだ。それが、さっきから妙にズレている。
 今し方、頭をしたたか打ったからだろか。そうでもないと、自分の取る行動の変化に説明がつかない。
「追手は一人ですか?」
「うん、そうだよ」
 確かに人がむざむざ傷つくのをみるのは好ましくない。可能な限りであれば助けたいと願う。
 しかし、願うだけで彼女が行動に起こすことはない。人を助け、人に触れ、それで自分が傷ついてしまえば本末転倒だから。
 なのに――彼女はいつの間にか右手を差し出していた。
 それは、彼女の信念からすれば明らかに過剰なモノ。
「なら、こちらへ来てください」
「う、うんっ」
 女の子は左手を差し出す。その手を引いて、美汐は走った。おぼろげな景色が蘇る。
 ――ああ、そういえば。今朝もこんな風に走っている夢をみたな。
 同調した夢と今に思わず彼女は苦笑し、同時に気づいた。
 なんだ、簡単なことだった。

 この女の子と彼は、似ている。

 よく笑う暖かな雰囲気も、とっさに差し出した左手――左利きのそれも――色々な部分が彼と酷似していた。
 だから、思わず手を伸ばしてしまった。届きもしないのに、手を伸ばしてしまった。

 今からでも振り払ってしまおうか、と一瞬思うが、それは何も知らない純粋無垢なこの女の子を傷つけることになる。
 美汐は過去、深い傷を負ったがそれで他人を傷つけようと思ったことは一度もなかった。
 彼女は本当の痛みを知っている。同時にそれを怖れている。
 痛みを誰よりも理解し、故に怖れているから彼女は誰も傷つけない。
 だから、一番手っ取り早く、もっとも簡単で、最高に確実な方法を彼女は選んだ。
 その結果が、独り。独りになれば誰も傷つけない。自分も傷つかない。
 今とっている行動はその信念を侵す冒涜に近かった。
 無意識だったとはいえ、やはりそれは美汐にとって後々重くのしかかるだろう。
 ――やはり、これが終わったら元に戻ろう。また独りになろう。
 間違いは一度だけ。美汐はそう堅く心で誓った。

 雪の街に、冷たい風が吹く。
 本格的な冬の到来まで、あと少しだった。





 住宅街の路地を縫うように走り、公園へ入った。ここまで来ればひとまずは安心できる。
 走る速度を緩め、一息つくことにした。丁度都合よくあったベンチに二人並んで腰を下ろす。
 流石に鼓動は随分と早くなっている。ほてった身体に冷気が心地よかった。
 偶には運動も悪くないな――と思ったところで、制服のすそが女の子に引っ張られた。
「どうかしましたか?」
「……えっと、どうしてボクが追われていたのか訊かないのかな、と思って」
「訊いて欲しいのですか?」
「そういうわけじゃないけど……。例えばさ、ボクが悪いことをして、それで追いかけられていたら、一緒に逃げたあなたも共犯者だよ」
「ああ、なるほど……そういうことですか」
 確かにその通りかもしれない。あまり深くは考えていなかったのでそこまで思考が回りきっていなかった。
「それだと色々困るかもしれませんね」
「うぐぅ……」
 みるからに元気がなくなる女の子を見て、美汐は苦笑した。
 なんて判りやすい子なのだろう。心象が全て表情にも表れてしまっている。
 ここまで百面相振りが板についてしまっていると、カードゲームではさぞかし苦労するだろう。
「その時はその時で対処法はありますから気にしなくていいですよ」
「……そう?」
「まぁ、悪いことの程度にもよりますが……一体何をしてしまったのですか?」
 女の子はばつが悪そうに、茶色の紙袋を軽く掲げた。
 ――ああ。この類の出来事は、昔にも体験していた。
「……持ち逃げ、ですか。それは確かによくありませんね」
「財布を出そうとおもったら無くって……思わず逃げてきちゃったんだよ。よくよく考えれば、素直にそこで謝るべきだったよね」
「気持ちはわからなくないですが……その通りですね」
「でも、結局食べられなっちゃったね。あー、ここの鯛焼き美味しいのになー」
 女の子は、しめった紙袋を名残惜しそうに見詰めた。
「……因果応報、ですね」
「え?」
「――過去における善悪の業に応じて現在における幸不幸の果報を生じ、現在の業に応じて未来の果報を生じる。簡単に言えば、悪いことをすると未来によくないことが起こる。逆に、良いことをすれば未来にいいことが起きる、という感じでしょうか」
 女の子は感心したように頷いた。
「それって素敵なことだね。皆が良いことを沢山すれば、世界はどんどんよくなるってことでしょ?」
「モノの例えですけどね。そこまで世界は単純には出来ていませんから」

 美汐はそう答えたが、因果応報という言葉はそれなりに正鵠を射ているのではないか、と思っていた。
 決してそれだけが世界の理だとはいわないし、例外もあるとは思う。
 ただ、それでも幸せが回ることは往々にしてあるのだ。
 小さなコミュニティ――例えば学校や職場――でいえば、笑顔は人の心を豊かにさせるしコミュニケーションも円滑になる。
 そうなれば自然、人との摩擦は緩和されるし気分よく生きることも出来るだろう。
 結果、笑顔から笑顔が生まれ、いつかは自分に返ってくる。これは因果応報だ。
 逆も言える。誰かが嫌な気分をしていれば、それが周りの人間に移ることはあるし、場の雰囲気が悪くなれば摩擦も増えるだろう。
 もちろん、これらは極端な例だから他にも色々なパターンがあるし、例外も多々あるだろう。
 それらを踏まえた上で人間と幸せと不幸の関係は病≠ノ似ている。
 治る治らないの概念が無いので薬というものが存在しないのと、人体に与える根本的な効果が違うこと。
 それ以外は、本物の病気とさほど原理は変わらない。
 移されやすい人もいるし、移されにくい人もいる。
 その場所にいるだけで幸せを移していく人もいれば、逆に不幸を移していく人もいるだろう。

 ふと、目の前の女の子はどうだろうと思った。
 彼女は間違いなく、幸せを呼ぶ子だろう。彼女の笑顔は心地良いし愛嬌がある。
 話すだけで周りを幸せにするタイプに違いなかった。
「でも、やっぱり良いことをしたら良いことが起きるって信じたいよね。……あ、そっか! ボクがいけないことしたから、さっきぶつかっちゃったってことだね!」
「……判っていなかったのですか」
「うぐぅ、だってちょっと難しかったんだもん。でもそうだね、確かにいんがおうほう≠セよ。やっぱり悪いことはいけないね」
「ええ、そうですね」
 ――さて、そろそろ良いだろう。
 ここまで来れば彼女も一人で大丈夫だろうし、これ以上は自分の信念を折り曲げる行為になりそうだった。
 責務は果たした。後はいつもの日常に戻るだけだ。
「それでは、そろそろ私は行くことにしますね」
「あ、うん。……って、もしかして遅刻しちゃったかな?」
「まぁ、そういうことになりますね。……今からいけば、大体2時間目の最初くらいから出ることができそうですが」
 時計の針は一時間目が始まってから半分ほど過ぎた時刻をさしていた。
「うぐぅ、ごめんね。付き合わせちゃったみたいで」
「いえ、いいですよ。遅刻はお互い様です」
 そういって、立ち上がる。振り返った先にある女の子の顔は、どうにも浮かないままだった。
 それはあまり好ましくない。自分のせいで誰かかが悲しみ、傷つくのは嫌だった
 美汐は、右手を差し出して彼女を立たせる。
 彼女の鞄から生えているプラスティックの羽が持ち主にあわせてふわりと揺れた。
 まるで天使みたいなそれは、彼女のイメージとしては良い得て妙なものに思えた。
 天使に元気がないのはよくない。美汐は口に人差し指を当て、言葉を続けた。
「大丈夫。因果応報――その内、私にはいいことが起きますから。人助けはいいことでしょう?」
「――あ、そうだねっ」
 女の子はそれをきいて朗らかに笑った。
 これで、お別れ。やがて二人は別々の方向に足を向け、互いに手を振った。



 ――美汐は嘘をついた。

その内、私にはいいことが起きますから

 自分には、もう金輪際いいことなど起きはしない。
 因果応報は、何かをしなければ何も起きないともいいかえられる。
 ある意味、それは彼女が理想とする世界だった。
 
 幸せも不幸せも病気だ。伝染する病だ。
 けれど、どちらでも実際はそう大きな痛みにはなりえない。
 ふり幅の上限が決められているからだ。どんなにどん底だと自分自身が思っても、そう思えるならまだ大丈夫
 本当にいけないのは、そう思えることすら出来なくなった時。

 美汐の場合――最上級の幸せのすぐ後、最上級の不幸が来訪した瞬間に、生きることを放棄した。

 ふり幅なんて全て掻き消える。因果応報なんて働かない。後はただただ堕ちるのみ。
 物理の位置エネルギーに似ている。
 マンションの上から鉄球を落とせば、手の高さから落とすよりも速い速度でより強い破壊を地面へ引き起こす。
 それは人の心の世界でも同じだった。高い場所から地面へ落ちた。
 耐え難い痛みだった。だから、美汐はもうそれを身に受けたくなかった。

 いつかは天使も消えていなくなる。だから、幸せなんて最初からいらない。
 彼女は、幸せも不幸も、全てを遠のけて生きてきた。そして、これからもそう生きてゆく。

 それが天野美汐が選んだ、たった一つの逃避手段――孤独だった。





 それからは美汐にとって、なんでもない、普通の日が続いていた。
 朝目覚め学校へ行き、それなりに勉学を学んで帰宅する。その後は自堕落に過ごして、朝まで眠りにつく。
 決められたグラウンドの中をずっとずっと歩き続けるその作業じみた時に、彼女は深い安心を覚えていた。
 辛くなどない。悲しくなどない。ただただ安心がそこにはあった。
 それのなんと楽なことか。彼女はやはり自分にはこの時間が合っていると再認識した。
 何もしなければ何も生まれない。マイナスが欲しくないから、常に自分はゼロになろう。
 やはり、それは間違っていなかったのだ。
 あの女の子とも、あれからは顔を合わせていない。
 元々積極的に外に出るタイプではなかったのも幸いし、徐々に美汐は彼女のことを忘れていった。
 ただ、入れ替わりに彼のことを思い出してしまうことが多くなったのは、季節が本格的な冬に近づいてきたからだろう。
 冬は二人の別れの季節。願わくば来て欲しくない雪の景色は、そういった理由からだ。
 道行く人の中に左利きがいるのをみつけてしまっただけで彼のことを思い出す。
 その度に美汐は意識を振り、懸命に映像を頭から追い出す。
 空想という自慰すら彼女は律している。何もしては、いけないのだから――。



 冬が深まり、恋人たちが愛を語らう聖夜が過ぎ、やがて年が変わった。
 とはいえ、新しい年になっても美汐がやることは変わらない。
 学校は休みだが、別に何をするでもない怠惰な時間が過ぎていった。
 ただ、休みの最後にいつもと違う時間が生まれ、結果的にそれが美汐の運命を変えることになる。
 以前から入院していた祖母の退院がそろそろだということで、家族全員でお見舞いをしに行くことになった。

 祖母が入院している街で一番大きな病院は、
 昏睡患者の治療に力を入れていることで有名な大病院だった。





 白い壁で構成された病院という空間は、あまり居心地が良くない。
 生来、健康体で生きてきた美汐にとって縁がない場所だからというのもあったが、病院の雰囲気自体があまり好きではなかった。
 ここには否応にも生死が集まる。一枚の壁越しに人が死に、別離が生まれ、手術室では命が掬い取られる再生が行われる。
 それは――彼女からしてみれば、あまり気持ちのいいことではなかった。



 隣では美汐の母が祖母と話をしている。
 美汐は、時折振られる話に適当に相槌を打ちながら時間が過ぎるのを待った。
 窓際だったらよかった。そうすれば景色を見ながら、もっと早く時間が過ぎるはずだったのに。
「――それでねぇ。可愛そうでしょう?」
「ええ、不憫ですわ……。美汐と同じくらいの年だとか?」
「ええ、確か一つ上じゃなかったかしら――」
 他愛もない会話が続いている。何でも隣が――昏睡状態が続く女性なのだそうだ。
 窓際の場所なので、寝たきりならこの場所と変わればいいのに。そんなことを美汐は考えながら、話を聞き流す。
 額の少し上に正体不明のこぶが出来ていたらしい、最近うわごとを時々いうようになって目覚めが近いのでは、病院内では様々な噂が流れているようだった。
 もっとも、美汐にとってそれは瑣末事でしかない。そういう雑多な噂話は興味に値しなかった。
 ――が、昏睡というフレーズには少々考えることがあった。
 昏睡。意識が完全に消失し、目覚めることが出来ない状態を言う。
 それは果たして生きている≠アとになるのだろうか。
 生きるということを生命活動と定義するなら、生きているのだろう。酸素を取り込み、心臓だって動いている。
 だが、生きるということをもっと他の――例えば、意識がある状態、とすれば昏睡は死した状態になる。
 生きている人間のほとんどは意識があるわけだし、何も出来ない昏睡状態の人間は仮死状態であるともいえるだろう。
 じゃあ、自分はどうなのだろう。限りなくそれに近いのではないか。
 何もせずにただ息を吸って、生きている。それは昏睡状態の人間とあまり変わらない。
 同じだとは思わない。昏睡状態の人の中にはもちろん生きたがっている人だって沢山いるはずだし、何の前触れもなしに突然そうなってしまった人たちも多いはずだ。
 何もしない≠ニいうことに、自分の意思が介入しているかしていないか。その違いは大きいはずだった。
 ――そこで意識は打ち切られた。回診の先生がやってきた。
 退院の近い祖母にはもうあまりチェックする項目もないようで、体温や脈拍を測ってすぐに終わる。
 暖房を効かせるためにカーテンは全て開いていたので、先生が隣――寝たきりの女性――のカーテンを開くのが視界に入った。

 瞬間、美汐は呼吸を忘れた。
 これが息を飲む、ということなのか。
 頭の芯でそんなことを思う自分を、やけに遠めに見詰めている自分がいた。

 そこには見知った女の子が眠っていた。
 記憶の中の赤いカチューシャこそないものの、遠目からでも全く同じ顔をしているのが判る。
 一ヶ月前の朝、過去の夢をみた朝、頭と頭をぶつけた。その時の感覚が蘇る。
 あれは夢だったのだろうか――そんなことを思うが、それは絶対にない。
 あの日は遅刻したし、こぶだって数日は消えなかった。
 ミトンの手袋の温もりは今でも思い出せそうだったし、あの笑顔が自分の空想だったとは思えない。
 なら、双子あるいは姉妹かなにかなのだろうか。
「……ねぇ、お母さん。あの人、家族はいるのでしょうか?」
「え? あぁ、あの寝たきりの子ね……可愛そうに。なんでもお母さんが死んでしまった後、登っていた木から落ちてしまったそうよ。家族は……お父さんだけでしたよね?」
 母が祖母に小声で確認を取っていた。
 ということは、美汐の勘違いでなければ――赤いカチューシャの女の子と、寝たきりの女の子は同一人物ということになる。
 心臓が鷲掴みにされたような感覚に襲われた。まさか、あの子がそんなことになるとは夢にも思わない。
 この一ヶ月の間に母が他界し、木から落ちた。そんなことが矢継ぎ早に起こったと考えると、彼女の不運を嘆くしかなかった。
 ――奇しくも因果応報の話をしていたのを思い出す。
 彼女はあの後、きっと鯛焼き屋の店主に謝りにいったはずだ。
 なのに、なんでこんなことに?
 彼女は悪行を悔い、相応の償いをしたはずだ。
 もちろん、美汐とてそんなモノは何ら関係なく、偶然の悪戯によって起こされた不幸だということは理解している。
 だが、あんな無垢で純粋な女の子の笑顔が奪われてしまっている現実に、やり場のない悲しみと怒りを感じていた。
 ――その感情は、あの時感じたモノにも似ていた。
 大切な人を失い、世界の不条理に絶望した過去。
 哀しみこそそれには及ばないが、何処にも行く当てがない怒りだけは美汐の中に渦巻いていた。
 医師と看護婦が手馴れた様子で診断を進めているのをみて、美汐はやるせない気持ちになっていった。


 医師が診断を終え、病室を出るとにわかに室内はざわめきたった。
 やはり、病院内だと彼女は有名な存在らしい。母と祖母も話を再開していた。
「大変ねぇ……。昏睡って、なかなか目覚めないんでしょう?」
「そうらしいわ。それこそ目覚めたら、奇蹟、と呼ばれるらしいから」
「……七年間も眠ったままなんてねぇ」
「お医者さんたちも、もう手の尽くしようがないらしいわ」
 ――え?
 もし自分の耳がいかれてなければ、母か祖母のどちらかが、おかしなことをいった。
「……美汐、どうしたの? 顔色が悪いわよ」
「……いえ、大丈夫です。それより、今なんといいました?」
「え? 手の尽くしようがないらしい、って……」
「その前です。お婆ちゃんですか?」
「どうしたんだい、しおちゃん……」
「いいから早く!」
 思いのほか大きな声が出てしまう。
 病室の人間の注目を集めてしまったが、そんなことを気にする余裕はなかった。
 やがて祖母の口から出た言葉に、美汐は再び呼吸を――生きることを――忘れた。

「七年間、眠っているなんて」

 その言葉が頭の中にリフレインする。何度も何度も、警鐘のように鳴り響いた。
 そんな莫迦な。ありえるはずがない。
 七年前からずっと眠っている? じゃあ私が会ったあのカチューシャの女の子は誰なのだ。
 今度は立ち上がって隣のベッドの方へと行く。まだ居残ってシーツのズレを直していた看護婦が訝しげな視線を向けてきたが、無視した。
 ――記憶の中の彼女とは細部は違う。
 ただ、それは衰弱している――例えば髪のつやがない点だったり、やせ衰えた四肢だったり――ということだけで、カタチをつかさどるパーツは完全に同一のようにみえた。
 陽光に光る亜麻色の髪。自分よりも年下に見える幼い顔。
 そして――左手の中指にうっすらと残る、鉛筆の握り跡。それは紛れもなく左利きの証だった。

 娘の突然の奇行に狼狽していた母が我を取り戻すのと、美汐が無言のまま病室を後にするのはほぼ同時。
 美汐はわけもわからぬまま、走り出した。





 気がつけば、赤いカチューシャの女の子を探している自分がいた。
 病室の名札は見てこなかったので名前は判らないが、会えば絶対に判る。
 もちろん会えるなんて保障はなかったし、そもそも彼女は病院にいたのだから会えないのが必然。
 そこまで判っていながら、美汐は尚も走りつづけていた。
 初めて出会ったT字路、そこから公園までの道のり、人通りの多い商店街。
 特に最後は行きかう人も多いので念入りにしらみつぶしに探していった。
 どんどん奥へと進んでいく。
 商店街の反対側にまで行き着いたところで、美汐は目的の姿を見つけた。
 一ヶ月前と何ら変わらない姿。赤いカチューシャ、白い羽、飛ぶように跳ね回るその仕草。
 彼女は美汐もよく利用する大型書店の周りを歩きながら、時折中を覗きみていた。
 どう声をかければいいか判らなかったが、考えた末――いつか彼女がやったように、服のすそを引っ張った。
「うぐぅ?」
「……こんにちは」
「あ、この間のー! こんにちはーっ」
 向こうも覚えていてくれたようで、ぺこりとお辞儀をしてくれた。
 ――やはり、幻じゃなかった。彼女は今この瞬間、ここにいる。
 美汐は嬉しいような悲しいような、複雑な心境になった。
 ひょっとしたら彼女の事は見つけられないほうがよかったのかもしれない。
 そうすれば、あの時のことは自分の幻覚だったと片付けられたろう。
 だが、実際に彼女が目の前にいることと――病院に彼女と同じ姿をした寝たきりの患者がいた現実。
 それらは完全に矛盾していた。
「……どうしたの? 顔色よくないよ。たい焼き食べる?」
 正直食欲なんて完全に失せていたが、断る気力もなかった。
 なすがままに受け取る。雪に冷たくなったそれとは違い、暖かな温もりは微かに美汐を落ち着かせた。
「たい焼き、ということはもう謝罪は済ませたのですか?」
「うん。あの日のうちに謝りにいったよっ。お金がないことと、どーしてもたい焼きが食べたかったことを頑張って話したらね、許してくれたよっ」
「……これは?」
「これは自分のお金で買ったよ。あ、気にしなくていいからね。前のお礼みたいなものだから」
 それより、と彼女は続ける。
「この近くにケーキ屋があったと思うんだけど、知らないかな?」
「ケーキ屋?」
「うん。本当はここだと思うんだけど……どうみても本屋さんだよね」
 二階建ての大型書店を女の子は見上げた。
 ここが本屋だということが信じられず、彼女は先ほどから中を覗いていたのだろう。
「ケーキ屋さんなら反対側の入り口にもあったと思いますが……」
「うーん、そこじゃないんだよ。どこなのかなぁ……この商店街、結構広いから判らなくなっちゃうよね」
「…………」
 美汐は記憶を手繰るまでもなく、その問いの答えを見つけてしまった。
 ――この書店が建つ前、この場所は確かにケーキ屋だった。
 二年前のことだ。美汐はケーキ屋よりも大型書店の方を歓迎していたので、喜んだ記憶がある。
 ただ、その事実を言葉に出す勇気はない。
 その代わり、自分は再び神秘の中にいるのだと、そう実感した。
「あ、そうだ! ケーキ屋さんなんて探してる場合じゃなかったよ。ボク、探し物をしているんだ」
「探し物?」
「大切なものを埋めちゃったんだ」
「……タイムカプセルですか?」
「う〜ん、そんな感じかな。それで、それを探していたんだけど……みつからなくって」
「そうですか……」
 探し物。それはなんなのだろう。
 何か、この矛盾――神秘の真相に迫ることができるモノなのだろうか。
 興味はある。いや、もう彼女は矛盾に気づいてしまったのだ。
 なにかしらの方法で真実を知らなければ彼女が納得することは無い。
 だが、それでも美汐は動くことは出来なかった。
 踏み込むということは、踏み込まれるということと同じだ。
 自分にそのラインを越える勇気はない。美汐は口をつぐんだ。
「…………」
「…………」
「ねぇ、ちょっといいかな」
「……なにか?」
「あのさ、スコップって持ってるかな?」
 だから――向こうから踏み込んできたことに、美汐は少なからず狼狽した。
 向こうもそれは同じだと思っていたからだ。
 ――神秘は秘匿するもの。安易にそれを明かすことは出来ない。
「……いい、のですか?」
「うん。キミにならいいよ」
 そういって、女の子は左手を差し出す。
 美汐は僅かばかりの逡巡の後、右手をそれに重ねた。





 美汐は一度家に戻り、園芸用のスコップを二つ持ち出してきた。
 二人がやってきたのは、公園沿いにある街路樹。この木の下のどれかに、瓶を埋めたとのことだった。
「……これは、相当多いですね」
 規則的に生えている木は両側にあるため、その数は数える気にもならない。
 この中のどれかに埋まっているとはいえ、それを探し出すのは至難の業に思えた。
「目印か何かつけなかったのですか?」
「うん。つけてないよ」
 しらみつぶしに探すしかないようだった。
 彼女たちは手分けして、木の根元を掘り始めた。





「ねぇ」
「……なんです?」
「なんだか元気ないみたいだけど、どうかしたの?」
「……別にどうも。私はいつもこんな感じですよ」
 ざくざくと掘っていく。土は存外に固く、それなりに力が要った。
「嘘だよ。前会った時は、もっと笑ってたもん」
「それは――」
 過ち、だろう。あんなことをするつもりはなかった。無意識だった。
 ざくざくと音が鳴る。掘っても掘っても、目的のものは出てこない。
「……なんでもありません」
「そっか。じゃあね、ここからは独り言だからあんまり気にしなくていいよ」
「……」
「あるところに、仲のいい女の子と男の子がいました。二人はとても幸せでした」
 一瞬、美汐は自分のことを言われているのかと思い、顔を上げた。
 女の子は、こちらをみていない。
「独り言だから反応しちゃ駄目だよ」
「……そうですね」
 別に反応まで律せられる必要はないのだが、美汐は頷くしかなかった。
 尚も土を掘っていく。目的のものは、みつからない。
 ざくざくというリズムの中、女の子は続ける。
「けれど、二人の仲は引き裂かれてしまいます。女の子は遊んでいる最中、不運な事故にあって長い長い眠りについてしまいました」
 ――昏睡。生きているか生きていないか判らない、そんな状態。
「男の子は泣きました。悲しみました。女の子も、心だけで泣きました。とても悲しかったので、一つだけのことを、ずっとずっと願いました」
 女の子は、眠っている。自分は、起きている。
 女の子は、生きている。自分は、死んでいる。
 二人は、昏睡している。二人は、覚醒している。
 相反する矛盾と神秘を孕んだそれに、美汐は唇を噛んだ。
「女の子の願いは、こう。――生きていたい。そうすれば、また会えるから」
「……嘘です。生きていても、再会なんて、ありえません」
 今度は視線があった。透き通るような瞳。眩しいと思った。
「ありえるかありえないか、そんなことはきっと問題じゃないよ。だって、やってみなくちゃ判らない」
「……あなたはポジティブなんですね」
「そうかな?」
「そうですよ」
「ボクとキミは似ているよ」
「……そんなことはありません。私はそんなに前向きじゃない」
 視線を逸らして、土を掘る。目的のものは、みつからない。
「ボクはね、わがままなだけなんだ」
 彼女も再び作業を再開する。ざくざくと土を掘っていく。
「欲しいものが沢山ある。もっと生きていたい。もっとたい焼きを食べていたい。会いたい人がいる。それはキミも同じでしょ?」
 人が人である証。些細な、ほんの些細な幸せを望む小さな欲。
 ――そんなモノ、私にだってある。
 美汐は尚も唇を強く噛んだ。このまま力が入れば切ってしまうかもしれない。
 それでも――痛みで衝動が抑えられるなら、安いものだと思った。
 欲はある。あるけど怖い。怖いから遠ざける。これ以上痛くならないように、これ以上悲しくならないように。
「やはり、違いますよ……私は、何も欲しくない」
「それは本心なのかな。ボクには無理をしているようにみえるけど」
「…………」
「……これ以上、強くはいえないけどね。とにかく女の子――ボクは願った。その思いがカタチになったから、ボクはここに居るんだ。冬になるとね、出てきちゃうんだよ」
「……幽霊、なのですか」
「どうなんだろう。よく判らないけど、似たようなものじゃないかな。身体は死んでないから、生霊、みたいな感じなのかも」
「……そうですか」
「驚かないんだ」
「この世には、他にも信じられないような神秘があるので」
「……そっか。キミも体験者なんだね」
 ざくざく、ざくざく、音がする。探し物は、まだみつからない。
「でもね、今回は凄いよ。こんなに色々なことを思い出すことができたのは初めてだよ」
「……どういうことですか?」
「ボクはね、忘れているんだ。色んなことを忘れている。例えば自分が事故にあったことや、今探している探し物の場所。そういうのを覚えていると、彼と再会した時に簡単にコト≠ェ運んじゃうからね」
「ああ……本当は、彼と会って、思い出さなければいけなかったんですね」
「そういうこと。でもね、今回は不思議と色々なことを思い出したんだ。自分が事故にあったこと、自分の正体、探し物の場所」
「……ケーキ屋は、どうしたのですか」
「うん、あれもさっき思い出したよ。この場所に来てから、全部繋がった。ボクの正体も、ボクの願いも、ボクがしようとしていたことも……全部全部繋がった」
「――この場所に来るのを、避けていたのですね」
「うん。無意識かどうかはわからないけど、きっとそうなんだと思う。やっぱり思い出が深い場所は印象が強いから、思い出しやすいんじゃないかな」
 ざくざくざく。女の子の音が、止まった。
「でもね。多分、暫く経ったら――ううん、明日にでもこのことは忘れちゃうと思う。彼が来たみたいだから」
「そんなことまで判るのですか?」
「……今回は特別。冬が終わるまでは、その時の冬の記憶は最後まであるんだよ。でもね、もう今回の冬の思い出がどんどんと薄れていってる。キミのことも……ね」
 ざくざくざく、ざくざくざく。どれだけ掘っても、みつからない。
「こんなことは初めて。だから多分、彼がこの街に来るんだと思う」
「……良かったですね。再会できます」
「そうだね。こうなったのは、多分キミのお陰なんだよ」
「……よく、意味が判りません」
「朝、ぶつかった時。あれでボク、自分のこと――事故にあったこと――を思い出したんだ。不思議だね、身体は別にあるのにそんなショックで思い出すなんて」
「でも、もう忘れてしまうのでしょう? 結局は、意味はなかったことになります」
「あるよ。――ううん、創る」
 女の子は顔を上げた。
 ――彼女が言わんとすることは判っていた。
「ねぇ、もう一度チャレンジしてみない?」
 ざくざくざく、ざくざくざく。彼女は、首を振った.
「……私は、疲れてしまいました。沢山です。もう、幸せは、要りません」
「それは嘘だよ。幸せが欲しくない人なんていない。痛くなりたくないだけでしょ?」
「幸せに付属する痛みすら、私にはもう耐えられません」
「離れることが怖いから?」
「そうです。あなただって怖いでしょう?」
「当たり前だよ。拒絶されたらどうしようって思うよ」
 ざくざくざく、ざくざくざく。もう、ここにはないのかもしれない。
「でもね、ボクは前に進むよ。痛いのは怖いけど、それ以上に幸せが欲しいんだ」
「……やっぱりあなたは前向きです。私にはそうは思えません」
「……そうかもしれないね。でも、ボクは思い出が大切だから前を向いている。あなたも思い出は大切でしょ?」
 ざくざくざく。彼女は、一度だけ頷いた。
「だったら同じだよ。前を向くのも、下を向くのも、後ろを向くのも。いつかは歩き出すんだから」
「私はずっとこのままです。何もせずに、この場所にいます」
「……うん。そんな気がする」
「判っているなら、なぜこんな話をするのですか?」
「うん、だからね。一緒に頑張ろうよ」
「――――」
「ボクもね、キミの気持ちは判るんだ。いつかは離れてしまう時が絶対に来る。それはきっと悲しいし、実際ボクも悲しかった」
「……お母さん、ですか」
 ざくざく、ざく。彼女は、一度だけ頷いた。
「でもね、彼のお陰でボクは元気になれた」
「……だから、私を?」
「そういうことかな。ボクはね、キミのいったいんがおうほう≠チていうの、信じているんだ。ゲン担ぎみたいなものかもしれない。ここでボクがいいことをすれば、きっと彼と上手くいくんじゃないかなーって」
「……私はついでの踏み台ですか」
「そういうわけじゃないけど……そう取ってもらってもいいのかな。ボクは決めたんだ。歩いている道に泣いている人がいたら、絶対に手を差し出そうって」
「私は泣いてなんかいません」
「泣いてるよ。少なくとも、ボクにはそうみえる。それにね――キミは、ボクを助けてくれた。手を差し出してくれた。そうでしょう?」
 ――似ている
 確かにそうかもしれない。
 二人は、同じことを考えている。泣いて欲しくない、傷ついて欲しくない。
 自分が痛かった。だから、人には痛がって欲しくない。
 その思考回路は――やはり、似ているのだろうか。
「……違います。私はそんな殊勝な人間ではありません」
「そっか……。悪くないと思ったんだけどね」
「悪くは、ないですけどね」
「じゃあそうしない?」
「遠慮しておきます」
「ざんねん」
 ざくざくざく、ざくざくざく。彼女は、笑った。
「じゃあさ、賭けをしようよ。ボクが目覚めた時にキミのことを覚えているかどうか。もしボクが覚えていたら、もう一度頑張ろうよ」
「……忘れてしまうんじゃなかったのですか?」
「忘れちゃうよ。そもそも、目覚めるなんてこと出来ないかもしれないし」
「随分と私に有利な賭けですね」
「だって、そうじゃないとキミが乗ってくれないでしょう?」
「それでも、乗りませんけれど」
「うぐぅ……じゃあさじゃあさ、今日中にボクの探し物がみつかったら、賭けを受けてくれるっていうのは?」
「……賭け事、好きなんですか?」
「そんなことないけど、今の状態が賭け事みたいなものだから一個や二個増えてもいいかなーって」
「私は増えて欲しくありません」
「……あ、そっか! キミが勝った時の賞品がないよね。うーんと、じゃあ、たい焼き一年分!」
「それはあなたが欲しいものでしょう」
「あ、ばれた?」
 ざくざくざく、ざくざくざく。彼女は、また笑った。
「――ボクは絶対にキミのことを忘れない。絶対に離れない。転んだら手を貸してあげる。それじゃあ、駄目かな?」
 ――それは、とても純粋で強い瞳だった。
 何も知らないから無垢なのではない。彼女は色んなことを知っている、色んなことを経験してきた。
 そしてそれを全て踏まえた上で――彼女は、前に進もうといっている。
「……なぜ、そこまで私に干渉するのですか?」
「ききたい?」
「……でなければ訊きません」
「えっとね。ボクにできた初めての友達が――キミなんだよ。ほら、昔の友達はもうボクのこと忘れているじゃない。だから、だよ」
 ――友達。数年振りのフレーズ。
 女の子は、尚も強くやさしい視線で彼女を見ていた。
「……二つ、いいですか?」
「なぁに?」
「もし、自分の命が消える瞬間……大切な人が傍にいたとします」
「あ、それ一回経験したよ」
「なら、それでいいです。その時、あなたはなんといいましたか?」
 美汐の言葉に、女の子は少しだけ考え込む。
 やがて、回顧しながら――彼女は言葉を紡いだ。

「えっとね……ボクのこと、忘れないでください≠セよ」

 記憶の奔流が駆け巡る。
 その言葉は、夢をあわせて二回だけ――聴いたことがあった。
 夢の中でおぼろげで曖昧だった言葉がカタチを成す。
 ピースが組み上げられる感覚を伴ったそれは、彼の言葉でもあった。

「……彼と同じことをいったのですね」
「……そうなんだ」
 ――美汐は、そこで決意した。
 理由は、サイコロを振ったり、棒切れで道を決めるような運任せなモノだったかもしれない。
 ただ、それでも幾つもの偶然――あるいは必然の一致は、彼から勇気を貰った、そんな気を彼女に起こさせた。
「――では、もう一つだけ」
 最後の問いは、確認のため。美汐は心髄な眼差しを、女の子へ向けた。
「あなたの利き腕は、右か左、どちらですか?」
「えっとね、こっち」
 差し出された、左の掌。その上に、美汐の右の掌が乗った。
「彼も、左利きでした」
「そうなんだ」
 決まった。美汐は、賭けに乗ることにした。
「――判りました。受けましょう」
「そんな簡単でいいの?」
「潰える間際の言葉が同じだった。左利きが生まれる確率は十人に一人。それが二人いた。それだけでは不十分ですか?」
「ぜんぜん」
「――じゃあ、続けましょうか。探し物がみつかったら、先ほどの賭けを受けます」
「うん、わかったよっ」
 ざくざくざく、ざくざくざく。運に任せる。
 ざくざくざく、ざくざくざく。互いの利き腕で地面を掘る。
 ざくざくざく、ざくざくカツ。堅い何かに、スコップの先があたった音がした。
「あ、みつかったよ!」
「……随分と早くないですか?」
「そ、そうかな」
 みるからに狼狽する女の子を見て、美汐は苦笑した。
 いつかのように、心象が全て表情にも表れてしまっていた。
 とっくの昔に見つけていたのか、音を上手く出したのか。それはもう、どちらでもよかった。
「賭けは私の負けですね」
「うん。続きは、また今度だね」
 女の子はそういって、透明な瓶を穴に戻した。
「また埋めるのですか?」
「うん。……ばれないかな。明らかに土の色が変わっちゃうと思うんだけど」
「それくらいのズルは許されるでしょう。あなたのいう彼が、またここら一帯を全部掘り出すと考えると忍びないですから」
「だよね。……あー、しかし疲れたよ。たい焼き食べたいね」
「……ええ。またいつか、食べましょう」
 穴を埋めていく。探し物は、みつかった。
「今度はもうちょっと美味しそうに食べてよね」
「あ、バレてました?」
「バレバレ。流石のボクでもそれくらいは判るよ」
「じゃあ食欲がなかったことも察して欲しいのですが」
「食欲がなくてもたい焼きは食べられるよ!」
 お互いに自分が掘った穴を埋め終えた。
 空の色はいつの間にか群青に染まっている。終わりが、近かった。
「ねぇ。最後に、名前を聞かせてくれるかな?」
「そうですね。名前を覚えているかいないか、それで決めましょうか」
「うん。ボク、絶対覚えているからね」
「そもそも、目覚めてもらわないと賭けが成立しませんけどね」
「絶対、ボクは目を覚ますよ。約束する」
 女の子は手袋を取り、左手の小指を出す。
 美汐は僅かな思案の後、右手の小指を出した。
 指切りは、互いが同じ手を出さなければ成立しない。けれど、それが二人の指きりだった。
 不恰好でかっこわるい、けれど世界で一番尊い指きり。
「――なら、果たしてもらいましょう」
「――うんっ!」
 二人同時に立ち上がる。
 右の掌、左の掌。二つが重なった。

「私の名前は――」
「ボクの名前は――」


 利き腕同士を重ね合わせ、
 二人は、右手と左手の約束をした。










 春。新しい命が芽吹く季節、始まりの一歩を踏み出すのに一番相応しい季節が来た。
 美汐は空を見上げた。切り取られた絵画のような空に、桜の花が舞っている。
 まるでこの日に合わせるかのように満開になったそれを目一杯網膜に焼き付けてから、美汐は再び歩き出した。
 白い建物に入っていく。嫌いだったその場所も、色々な意味があると彼女は知った。
 別離もある。けれど、それは決して無意味な別離ではないと彼女は知った。
 多くの人はそれを悲しみ嘆き、しかしそれを糧にして前に進んでいく。
 それを彼女は嘲っていた。意味が見出せなかった。判らなかった。
 ただ、やはりそれは違うと思う。
 今でもそのことは難しくて言葉には出来ない。
 元々そういうモノなのかもしれないし、美汐が口下手なのかもしれないし、まだ理解が足りないのかもしれない。
 けれど、彼女はそれでいいと思っている。今は、出来ている。意味を見出せている。
 これからも、そうあってほしい。いや、そうしていこう。
 彼の最後の言葉は、長い時を越えて彼女へと届いた。
 ――忘れない。もう絶対に、忘れない。


 白いリノリウムの床を歩く。すれ違う看護婦に頭を下げ、目的の病室へと向かった。
 六人部屋の一番奥、窓際の席。カーテンを開ける。窓から差し込む光が眩しい。
 美汐は、声をかけた。女の子は、答えた。





「――こんにちは、月宮あゆさん」
「――こんにちは、天野美汐さんっ」


 二人の声が世界に響く。
 もう一度、この場所から始めよう。
 今なら出来る。今ならやれる。


 無骨な指きり。左右対称の指は、絵画のよう。
 あの時のように、左の掌に右の掌を重ねた。


 ――右手と左手の約束は、今この場所で、叶えられた。





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