『茜色のパラダイムシフト』



 世界は、変わる。

 + + +

 大学生は酒を飲む生き物である。いやむしろ、酒で駆動してるのではないかとすら思う。
 勿論、それには地域差もあるのだろう。地方によってはそうではないのかもしれない。
 しかし目下の問題は、オレがいるこの地域において、この大学においてその法則が実現されているということであり、今まさに、オレがその集団飲酒活動に巻きこまれている、ということである。
 理由はなんでもいい。いや、むしろ理由などいらないのかもしれない。学期がはじまったのなら「新気一転酒を飲め」であり、学期が終ったのなら「今期の締めに酒を飲め」であり、何かいいことがあったなら「景気がいいから酒を飲め」であり、人類が初の有人火星探査に成功したならば「火星だから酒を飲め」である。
 思うに、この飲みっぷりはここが寒い地方であることに関連しているのだと思う。遠く北国ロシアでは、子供から大人までウォッカを飲みまくると伝え聞く。あの地方の寒さに耐えるには、あんな強い酒を飲んで腹から暖まるのが一番であるというからだ。
 ロシアの寒さにはかなわないものの、ここらへんも冬は大分冷え込む。ならば、酒を飲んで暖まろうという行動も、なんらおかしなところのない自然な行動と言えるだろう。うむ。証明完了。こんど論文にしてみようか。「北川潤式酒飲み理論」とか言って。
 ――たぶん、オレもそれなりに酔っていた。
 高校の頃、悪友どもとこっそり酒を飲んでみて気付いたのであるが、オレは酒を飲んでも酔わない。いや、酔うことは酔うのだが表に出ない。かわりに意識が鮮明になり――なったような気分になり、その実あとから思えば意味のわからないことを小難しい文法でえんえん考え続ける。ゆえに無口になり、酒の場においてはまったく楽しくないやつとなる。
 だから、大学に入って成人をむかえてからも、出来るだけ酒飲みには参加しないようにしてきた。
 が。まあ何事にも例外はあるわけで。
 そしてオレは今、その例外処理の原因である存在を、目の端で気付かれぬようしかしじっと見つめていた。
 考える。今のあの彼女を、かつての彼女を知る人が見たならば、どんな感想を抱くのか。
 画像ではその現実を否応なくつきつけられるだろう。音声でも聞き分けることは難しくない。では文字媒体ではどうか。うむ。これなら喋っている内容以外の情報は伝わらず、ゆえにそれだけ聞いた人の反応は優位に想像が付く。すなわち「誰これ?」だ。かけてもいい。
 と、そんなことを考えていたら、それ――彼女と目があった。
 こうなったらもうお終いだ。ギリシア神話に見たら石になる怪物がいるがそれに近い。こっちは石にされるかわりに、ひどく絡まれるという違いはあるが。まあどっちにしろオレは動けなくなるのだが。
 ということで、彼女はオレの顔を見て、酒のせいで真っ赤に染まった顔で、なにか悪企みでもしてるようにニヤリと笑い、そしてとててとオレに近づいてきて、ろれつの回っていない口調でこう言う。

「やっほぉーっ、北川くん、飲んでるぅーっ!」
「……ああ、まあ、ボチボチ」

 さて問題だ。これは誰でしょう。オレだってこうして目の前に本体がいなければわからないかもしれない。
 ともあれ、とりあえずヒントを小出しに。赤い顔のままオレに近づく彼女。その柔らかなウェーブを描く髪がオレに触れる。ここでふわ、とシャンプーの匂いでもしてくれたら、ときめけたかもしれないが、残念ながらするのは酒の匂いのみ。暑くなって脱いだのか薄着になっていて、その均整の取れた体のラインが目に写る。酒の飲みすぎで崩れないか心配だ。続いて顔。おそらく大概の男が美人の範疇に入ると答えるだろうその顔は、普段のクールさはかけらもなく、茹であがったタコのように真っ赤である。

「んー、どーしたのぉー、なんかついてるー?」
「……いや、別に」

 あんまりヒントにならなかったかもしれない。そもそもオレはだれに問いを出しているのか。
 まあ自分でもわかっている。これは、彼女にこんな近くに寄られて動転している自分自身をごまかすための逃避運動だと言うことを。彼女はしばらくオレのそばでにゃーにゃー言っていたが、オレの反応が芳しくないことを知るとつまらなくなったのか、ふぃと振り向いて別の席に行ってしまった。そしてまた飲んでいる。まったく、さすがに飲みすぎではなかろうか。体にも悪いだろう。
 そんなことを、オレは思う。

 彼女は、その名を美坂香里と言う。

 中学からのオレの知りあいで、縁があったのかそこから大学まで同じ学校に通っていて、そして――オレの、ささやかな想い人でもある。
 ずっとクールな奴だと思っていたのだが、どちらかというと「ビールなんて水と一緒。いくら飲んでも酔えないわ」とか言ってそうなイメージだったのだが、しかし実際の彼女は酒を飲んだらぐでぐでな、ちょっと困ったやつだった。

「おう、北川」

 と、そんなことを考えているオレに横から声。今度は美坂のそれとは百八十度違う野太い声で、振り向くとそこには、名前はおぼえていないが多分先輩だろう人物がいた。以後仮に先輩Aとする。
 横に座りこむ先輩Aに対し、オレは、

「はい、なんスか先輩」と訊ねる。
「お前さあ。美坂が寄ってきてんだから、もうちょっと相手してやれよ」
「あー、はい。そりゃわかってますけど、あいつテンション高すぎるんですもん」
「まあ、そりゃそうだな。美坂ってクールなイメージあるのになあ」

 その点では先輩Aとオレは意見が一致するようだった。

「けど、お前美坂と付きあってんだろ? テンションあわねぇからってほったらかしてていいのか?」
「はぁ?」

 この点では先輩Aとオレは意見が不一致なようだった。

「……なんスか、それ?」
「え? 違うのか? おれらン中じゃ、お前ら半ば公認カップルってことになってんだが」

 公認カップルって単語久しぶりに聞いたな。

「……そんなことないですよ。別に。そりゃ住んでるとこ近いから行き帰りは一緒になることが多いっスけど、それだって美坂にしてみれば、夜道でも安心タダで仕えるガードマンくらいにしか思ってないでしょうし」
「そーなのか? いや、美坂って顔も体もいいから、」随分ストレートな言い方ですね「――結構狙ってる奴多いんだが、でもお前と付きあってるってことになってるから、みんな遠慮してんだぞ」
「そうなんスか。いや、初耳ですけど」

 ちょっとうそ。確信はないがそんなことになってるんじゃないだろうか、という気はしてた。

「ふーん。しかしお前にそんな気はないってわけか」むしろオレにだけあるのが問題なのだが。
「……まあ将来はどうなるかわからないっスけどね」
「はー、なるほどねえ」

 そう言って先輩Aは何やらニヤリ。何考えてんだろうか。いやだいたい想像つくけど。
 でもやめといた方がいいと思うなあ。美坂の手綱を取るのは相当大変そうだし。
 そして「んじゃな」と言って先輩Aは去っていった。その先を見ると、そこには美坂がいる。そう言えば、と思いだしたが、あの先輩は「そんなに悪い人ではないのだが存在がセクハラくさい」という評判を受けているお方ではなかったか。もしやその手腕を存分に発揮なされるおつもりだろうか。
 やっぱりやめといた方がいいと思うなあ。
 もしかしたら、今宵は久しぶりに美坂の鉄拳が炸裂するのを拝めるかもしれない。
 そんなことを考え、美坂の姿を再び目端に捉えながら、オレはふと、昔のことを思い返してみた。

 + + +

 はじめて美坂のことを強く認識したのは、いつのことだったか。
 いや、それは考えるまでもないことで、あれから十年近くたった今でも、オレはその時のことを鮮明に思いだすことが出来る。
 その頃、オレ達は中学生で、思春期まっただなかのガキで、そしてクラスでは男子と女子の間で冷戦が勃発していた。
 そういうことは小学生のウチにすませておけ、と今となっては思うし、やってたこともたわいないものだし、そもそも何が原因でそうなったのかは覚えていないのだが、しかし当時のオレ達にしてみればそれはまさしく実感できるリアルな戦争だった。無論、体力差もあるしとっくみあいのケンカなどは行わない。
 しかし、たとえばクラス行事を決定する際における双方のイデオロギーの衝突は、お前らいいかげんにしとけと毎回担任がサジを投げてしまうほどのものだった。今思うとなにやってんたんだオレ達は。
 さておき、そんななかで、美坂香里という少女は一人だけ異質だった。
 両者の仲を取り持っていたというのと、どちらからも孤立していた、というのとでは、近いのは後者だが、それともちと違う。
 言うなれば「独立勢力美坂国」であり、唯一人で他の二勢力と同等の発言力を持つ第三勢力であり、クラスの誰もが認める最強の女だった。
 思えば。美坂から見れば、オレ達のやっている冷戦などガキじみたママゴトであり、つきあっていられず、かといって放っておけばなにをするのかわからない、というまるで保護者のごとき観点から接されていたのかもしれない。たぶんあってる。
 そして、そんな美坂に対する当時のオレの印象は、「なんか冷めてる奴」だった。それ以上、特に興味も関心もなかった。まあ美人だな、程度には思っていたかもしれない。

 そして、それはそんな冷戦下で催された文化祭の、準備期間のできごと。

 ウチの中学はなんかよくわからんがやたら文化祭に力を入れる校風で、開催期間はいわずもがな準備期間でさえあからさまに校外の人間まで混じってなにか作業しており、期間中制服を着ている生徒なんかいやせずみんな動きやすいジャージ姿で、本来は禁止されている徹夜での準備作業も半ば黙認と化していた。
 そういうわけで他のクラスは皆意気揚揚か一騎当千かという勢いで準備をしていたのだが、ここで困ったのが目下冷戦中である我らのクラスである。
 出し物はクラスで一つが基本ルール。ゆえに、いかに仲が悪かろうとこのときばかりは男子と女子で互いに協力せざるを得ない……のだが、そこは所詮にわか仕込みの同盟関係。強調性になど期待出来ようはずもない。それでも色々トラブルがあったりしつつも、我がクラスが催す喫茶店「一触即発」は、なんとか当日までに準備を終えることが出来そうな雰囲気となっていた。
 が。やはり偽りの平和とは長く続かないもので、一見沈静化したかに見えた両者の関係は、その実水面下にて危険物質を溜め込んでいて、そしてそれは静かに、しかし確実に爆発した。
 何時どうして爆発したのか、それは誰にもわからない。だがその影響は顕著なもので、雰囲気は険悪化し、作業効率は急低下し、部隊の士気は乱れに乱れた。外敵よりもむしろ内部に潜む敵に気を付けよ、とか昔の偉い人が言ったような気がするが、オレ達のクラスはまさにそれを現代において実現させていた。
 それまでに行ってきた作業による貯金はあった。そこからまっとうに頑張ったなら、多少完成度は落ちるかもしれないが文化祭当日までに仕上げることは、充分に可能だっただろう。しかし、誰もが動き出すのをとまどった。ためらった。めんどうくさがった。だがそんなことをしている間にも時間は流れる。「完全にだめ」になるラインは刻一刻と近づいていく。
 そんな、ときだった。
 ところで自己分析すると、オレは「地味に色々やってる奴」というポジションだ。けして表舞台には立たず、というか立てず、常に裏方に徹している。縁の下の力持ちというと多少は聞こえがいいが、実際は単に影が薄いだけだろう。とはいえ、いやだからこそ、そんな状況下にあっても周囲の雰囲気にあまり作用されずに行動することが出来た。もちろん本来クラス全員でもって行う作業であり、オレ一人だけが頑張ったところで自体が進展するとも思えなかった。それでも何もしないよりはマシということで、オレはちまちま小物を作ったりしていた。
 本来喫茶店など食料関連の手続きさえすませてしまえばそれほど手間のかかるものではないのだが、だがいらんとこだけ校風にしたがう我がクラスは、外装やら何やらにむやみやたらと工夫を凝らし面倒くさいものに仕上げていた。誰だ「ウエイトレスは全員メイド服を着用せよ」なんていう案を出したのは。ごめんそれはオレだ。
 さておき。

「よいしょっと」

 とかそんな風に呟きながら、オレは机に座って何かの作業をしていたように思う。細かい所はもう覚えていない。
 けれども、その場面だけははっきり覚えている。
 それは、放課後も一人その作業をやり続け、そしていつしか薄暗くなってきたときのこと。
 周りには物音一つせず、しかし、なんとなく人の気配を感じるような夜。おそらく、オレと同じように作業を続けている生徒が、そこかしこにいるのだろう、とか思っていた。
 そこで。

「北川くん?」

 という、声を聞いた。
 かなり、びびった。
 何事かと思い、声のするほうを見たならば。ジャージ姿の美坂が、そこにいた。

「……月宮か」
「名前間違ってるわよ」
「冗談だ。どうしたんだ美坂」
「北川くんこそなにやってんのよ」
「見てわかれ」
「まあわからなくもないけど」
「ならいいだろ。もう夜だ。中学生は帰って寝る時間だろ」
「まだ寝るほどの時間じゃないし、そう言うあなたはどうなのよ」
「オレはまだやることがある」
「……やること?」
「見てわかれ」
「まあ、わかるけど。でもそれ、北川くんがやる作業じゃないでしょ?」

 よく覚えてるなあ、とか思った。

「いや、オレはオールラウンダーだから」
「なによそれ」
「助人専門。作業が遅れてるところの手助けをする役回り。だから問題はねーの」
「ふぅん」

 呟き、そして美坂は近くにある椅子を、オレが座っている机の側に寄せ、座りこむ。

「何やってんだ?」
「あたしも手伝うわよ。一人じゃ大変でしょ?」
「いいって別に。つかお前もう帰れよ。女の子が夜一人歩きすんなよ」
「北川くんだって一人でしょ」
「オレは男だ」
「差別?」
「区別だろ」
「……ま。そーね」
「わかったか、んなら、」
「まーいいじゃない。どーせ今からじゃ多少遅れたって対して変わらないし」
「いやそーゆー、」
「それにしても北川くん、結構不器用ね、これなんかちょっと形が崩れちゃってるわよ」
「うるせー。そういうんなら美坂がやってみ、」

 ろ、と言いかけて。
 ひょっとしてオレは、美坂の作戦に引っかかってしまったのでは、と思い――発言を覆すヒマもなく、美坂はオレと向かいあって作業を開始していた。

「うん。これはね、こうすると綺麗に仕上がるのよ」
「ああなるほど。ってそうじゃなくて」
「はい。口を動かすヒマがあるなら手を動かす」
「……わかったよ」

 思った通り、口では勝てない。
 仕方ない。終ったらオレが家まで送ってやるか――そんなことを考えて、しかしたとえば護身の腕なんかでも美坂よりもオレの方が上なのでは、という考えがよぎった。男として情けないが、美坂は運動も出来る奴だし。
 そんなことを考えつつも、オレ達は作業を続けていく。最初のうちは多少言葉を交わすこともあったが、次第にそれもなくなり、しんと静まり返った教室で黙々と作業する男女が一組。
 やや気まずい。
 特になんというわけでもないのだが、なんとなく気まずい。しかしオレは軽妙なトークで場を和ませるタイプというよりは、中途半端なボケをして場からつっこまれるタイプであり、こういう一対一の場には適さない。さてどうしたものか、と考えていると、

「今さ」

 と、美坂が呟いた。

「……ん?」
「今さ。静かだけど、でもあたしたちみたいに徹夜で作業してる人って、結構いるわよね」
「ああ、んー、まあそうだろうな。つか二人だけ、ってのがうちのクラスくらいなんじゃないのか?」
「そうね。でさ。もし今大地震が起こったりしたら……そこら中からワラワラワラって、隠れてる連中がわきだしてくるのかしら」

 そう言って、美坂はくすくすと笑いながら、追加する。

「――蜂の巣に、爆竹突っ込んだみたいに」
「せめて突っつくにしとけよ。つか、んなことやってるのかお前は」
「え?」
「蜂の巣に爆竹」
「そんなことはしないわよ、もう」
「昔はしてたのかよ」
「黙秘権を実行するわ」
「……なんだよそれ」

 言って、美坂は再びくすくすと笑う。
 それを見て、オレの心に驚きが二つ。一つは、美坂がこんなヘンな冗談も言うやつであったこと。もう一つは。
 ――そうして笑う美坂の顔が、なんというか……やたらと、かわいらしかった、こと。

 たぶん、それを見たとき、オレの中で何かが変わった。

 黙りこんでしまったのは、美坂のその顔に見入ってしまったのは、おそらく数秒のこと。その間に美坂は笑うのを止め、そんなオレを見つめて「どうしたの?」と聞いてくる。オレは内心少し焦りつつも、つとめて冷静な振りをして、なんでもないように、

「いや、別に」
「ふうん」
「それより、そろそろ本格的に時間やばいだろ」
「そうね。それじゃあ、」

 と、美坂はさっきの微笑みとは違う、悪戯っぽい笑みを浮かべて、

「送っていってくれる? 男の子さん」

 その笑顔で、オレの世界は、完全に変わった。

 + + +

 今にして思えば、あの当時の美坂はまだしも子供で、態度にもまだかわいげがあったのだと思う。あれから随分と長い付き合いになったわけだが、その間に美坂のクールさは磨きをかけていき、反してオレはガキのままで、なんだか随分差をつけられたような気がしまって、告白なんざできないまま、執行猶予のような時間を過ごしてきた。
 けれども今、あれから十年近く経って、なんとなくあのときと同じような状況に陥っている。
 夜。空は雲もなく晴れ渡りやたらと丸い月が世界を支配している。その下で、少し雪の残る道をオレは美坂と帰路についている。もっと言うと、美坂をおぶって、オレは歩いている。
 今はあの飲み会のあと。先輩Aに酔ってるくせにやたら腰の入ったりしたアッパーカットを食らわしたししつつも、さすがにぐでんぐでんになった美坂を、仕方なくオレが連れて帰ることになった。
 季節はそろそろ春も近いのだが、まだ夜は寒さの厳しい折。二人とも服装は重装備だが、それを足しても美坂の体は驚くほど軽く、そのこと自体では苦労しない。
 ……ただ、背中で暴れられたりしなければ、の話だが。

「……ってさ、まったく、しつれーちしゃうとゆーものよねぇ」
「あー、はい。そーですね」

 美坂はまだ酒が残っているらしく、いまいちなにを言っているのかわからないが、どうやら愚痴モードに入ったらしく、何事かぶつぶつと漏らし続けている。オレは無視すると怒られるので適当に返事をしているが、会話が成り立っているかは微妙なところだった。
 しばらくすると美坂はそれにも飽きたらしく。しばらくうーんうーんと唸っていたが、やがてふふーと言う声と共に、
 オレの背中に、ぎゅっと、胸を押しつけた。
 動揺は見せなかった、はずだ。

「……こら締め技しかけるなよ美坂。苦しいだろ」
「締め技じゃないわよー。おっぱいくっつけてるのよー」おっぱい言うな。

 ああもう、だから酔っ払いの相手は嫌いだ。
 いや役得だなんて思ってないぞ。ほんとうだぞ。
 とにかく。

「……服でわかんねえよ」
「あらそう。ほんと?」ごめんうそ。
「そうだ、だから、やめろ」
「ちぇ」

 美坂はそう言って締めつけを緩める。
 ちょっとおしかった気もするが、勿論そんな態度は見せられない。

「じゃあ、どんな作戦でいくべきかしらね」
「どんな作戦もとらなくていい。つかもうすぐお前んちだから、大人しくしてろ」
「もう? そっか。あ、そだ。えとねぇ」
「なんだよ」
「今日、ウチにパパもママもいないの」

 そう、美坂は言った。
 その言葉の意味を考えて、その言葉が使われるシチュエーションを考えて、オレはほんの少しの間だけ固まってしまい、そしてその硬直が解ける前に、

「あははははははははははははははははっ!」

 美坂のけたたましい笑い声が鳴り響いた。

「動揺した? 動揺した? あはははははははははははははははははっ!」
「もう黙れ酔っ払い」
「あ、ひどいー。でも、父さんも母さんも今日は用事があって帰ってこないのは本当よ」
「だからなんだ」
「でも妹がいるの。がっかりした?」
「いやがっかりもなにも、なにも期待なんかしてねーっての」
「ふーん。そ。つまんないの」

 言って美坂は黙りこむ。たぶん次の悪企みを考えているのだとう思う。
 まったく。悪ノリにもほどがある。
 はたして、今背負っているのは、本当にオレの知る美坂香里なんだろうか?
 もしかして、間違えて美坂香織とか言うそっくりさんを背負っているのではなかろうか?
 そんなことを考えている間に――なんとか、美坂の家の前まで辿りついた。
 なんだかわからないが、やたらと長い旅路だった気がする。きっと天竺に辿りついたときの三蔵法師も、こんな気持ちだったに違いない。
 ともあれ、オレはふぅっと一息つき、背中の美坂に話しかける。

「おーい、美坂、ついたぞ。おろすぞ」
「……くー」
「ねてんなっ! お前は水瀬かっ!」
「……うー、うるさいー。安眠妨害禁止ー」
「オレはお前の布団じゃねえいいからほら、起きろって」
「むー、ほら、鍵あげるからー」

 そう言って、美坂は手を伸ばす。その先にはたしかに、この家のものだろう鍵があるのだが。

「……それでどうしろと?」
「つれてって。部屋まで」
「……お前な。年頃の女が、そう気安く男を家にあげるものじゃないぞ」
「だいじょーぶよ、北川くんなら」
「……なんでだよ」
「なにかする度胸なんて、ないもの」
「……ここに捨ててっていいか美坂」
「うそうそじょーだんっ。ほら立ち話もなんだからあがってあがって」
「台詞だけ聞くとおかしくないが状況からするとワケわかんねえよ……まあ、仕方ないか」

 言ってオレは鍵を受け取り、美坂の家の扉を開く。してみると昔試験前にみんなして勉強しにおしかけたことはあったものの、オレひとりで美坂の家にあがるのははじめてだ。ちょっと緊張しながら中に入ると、そこはまっくらだった。
 ん? とオレは違和感を抱く。

「おい美坂。妹さんがいるって言ってなかったか?」
「言ったけど?」
「でも電気もついてないし、人の気配もしないぞ。どうしたんだ?」
「えっ?」

 瞬間、美坂の声から酔いが抜ける。そしてひどく狼狽したような声になり、

「そんな、栞はどこにいるのよっ!」
「いやオレに聞かれてもっ、って、ん? なんか紙があるぞちょっと待て読むから。えーっと、『おねえちゃんへ。祐一さんとラブラブしてきます。 栞』だそうだが」
「え? ……あーあー、なるほどなるほど。そういうことね。あー、ならいいのだー」

 美坂の声に酔いが戻る。いや器用だなそれ。

「栞って美坂の妹さんだよな。祐一ってのは……相沢か? あー、そういうえば二人って付き合ってんだっけ?」
「そよ。ラブラブらしいわよー」
「ふーん……あ」
「なに?」
「いや、なんでもない」

 そうごまかしたが、じつはなんでもなくはない。美坂の妹さんがオレ達の元同級生である相沢祐一という男と付き合うのは、勝手にラブラブしてやがれバカヤローってことですむのだが、美坂の妹さんまでいないということは、つまり。
 この家には、正真正銘オレ達ふたりしかいない、ということだ。
 ……美坂は、酔っ払ったその頭で、その事実に気付けているだろうか。

「ん? どうしたの、北川くん」
「いや、なんでもない。とにかく、さっさとお前を部屋に連れてってオレは帰るぞ。お前の部屋どこだ?」
「二階」
「難易度高いこというな。この状態で階段昇れってのか?」
「しっかりしがみつくからへいき」
「平気じゃない。そこの居間あたりに置いてくのじゃだめか?」
「やー」
「やーじゃない。そこで幼児退行するな頼むから……ああもう、仕方ないなっ」

 言って、とりあえず美坂を玄関に座らせて靴を脱がせ、オレも靴を脱いで上がる。どうでもいいが、たかが靴なのに「脱がせる」という行為がやたら脳にキたというかそんなことはどうでもいい。とにかく灯りをつけ、再び美坂を背負おうとして、

「あ、お姫様だっこ希望」
「ふざけろ」

 背負って、美坂の案内に従いやや早足ぎみに二階へ。美坂を落としたりしないよう、ちょっと緊張しながら階段を昇り、昇り終え、そして美坂の部屋の前へと辿りつく。

「ここか?」
「うん」
「開けてくれ。手がふさがってる」
「うん」

 そして扉が開く。薄暗い美坂の部屋が目に入る。そこにある美坂のベッドが目に入る。あそこで美坂が日々眠っているのかと思う。その姿を想像してしまう。無意味にどきどきする。背中には本物の美坂がいるってのに。

「……じゃあ、とりあえずベッドに降ろすぞ。それでいいか?」
「うん……あ、ちょっと待って。もうちょっと歩いて……うん、このあたりでいい。ここで降ろして」
「って、立てるのか?」
「へいきへいき」
「なら、いいけど」

 とにかく時間の勝負だった。これ以上ここにいたら何かがやばかった。美坂の言葉の意味を深く考えることも無く、美坂をおろし、背中の重みが消えるのをちょっと名残おしく思い、そして「わわっ」という焦るような美坂の声を聞いて。
 慌てて、振りかえりながら、

「おい美坂だいじょうぶ、」
「にゃーっ」
「なにっ!」

 美坂に、ボディプレスを食らった。
 衝撃自体は大したことは無かったが、何しろ突然のことだったし、美坂の動きにはなかなか体重がこもっていた。オレはバランスを崩し、後に倒れこみ、そこにあるのは、
 美坂の、ベッドで。
 灯りのついていない、窓からの月光のみが照らす室内。その中で、オレはベッドに倒れこみ、そして上を見れば、オレに覆い被さるようにする、美坂の、体が、あって。

「……なんの、つもり、だよ」
「んー、なんのつもりかしらねー」
「お前、絶対まだ酔ってるから。しかもかなり悪質に」
「この状況になっての感想がそれ? ちょっと悲しいわね。あたし、魅力ないのかしら?」

 突然何を言うのか。

「おい、美坂、何を考えて、」
「えっとね。今日は北川くんに迷惑をかけちゃったから。だから。お礼をしようと思って」
「……そりゃ、殊勝な心がけだが、これはお礼をする体勢じゃないぞ」
「何言ってんだか。ほんとは期待してるくせにー」
「……何を、だよ」
「そーね」

 と、美坂は、たぶん獲物を狙っているときの肉食動物はこんな顔をするのだろうな、という笑みをたたえながら、オレを見て、

「なんかえっちなことでもする?」
「っ! し……ねえよ、バカ」
「その間における葛藤が気になるわね」
「気にするな」
「じゃあ下着でも見せたげよっか」
「なぜそうなるんだ」
「ふふふ、今あたし、かなりかっくいーの穿いてんのよ」
「人の話しを聞け」

 しかしかっくいー下着とはどんな下着なのか。
 ……いやまて落ちつけ考えるな北川潤。

「なによ別に。それくらいもう見たことあるでしょ」
「人に聞かれたら誤解されそうなことを言うなって」
「……そんなに、いやなの?」
「なに?」
「そっか、そうよね。やっぱり北川くんはあたしのこと嫌いなのね……無理もないわよね。こんな女」
「じょっと待てそんなネガティブモードに入ってんなっ」
「だって、北川くん。ちっとも相手、してくれないし」
「あー、あのなー」

 なんか今度は泣き上戸が入ってしまったらしく、鼻をすんすん言わせながら涙ぐむ美坂。
 どちらかというと、泣きたいのはこっちの方なのだが。

「泣くなってのっ! あー、なんつーか、オレとしてはこんな状況はいかがなものかと思うだけで」
「思うだけで?」
「……別に、お前のことは嫌いじゃないから」
「ほんと?」
「嘘ついてどうすんだよっ。まあとにかくそこをどいて、それから落ちついて話しあおうじゃ、」
「嫌いじゃない、だけ?」

 そう。
 少し真剣な声で、美坂が、言った。

「……なに?」
「嫌いじゃないだけ? それだけ? 北川くんが思ってるのは、それだけなの?」
「……何が言いたいんだ、美坂」
「あたしはね、それだけじゃないわよ」

 美坂の顔が、近づく。
 その表情は、冗談で出せるものじゃ、無かった。

「おい、ちょっと……」
「うん。それだけじゃない。あたしはね」

 美坂の顔は赤い。それが酒だけによるものなのか、オレにはわからない。美坂の匂いがする。酒の匂いがする。オレが酔いそうになってるのは、どっちに対してなのかわからない。少しの沈黙が流れる。心臓の鼓動だけがやけに大きな音で響く。それがどちらのものなのかすら――オレには、わからない。
 そして、その沈黙を破るように、美坂が言う。

「北川くん……あたし、もう我慢できない……」
「美坂……」

 そして、美坂は、オレが今までの人生で見たなかでもっとも綺麗な顔で、オレが今までの人生で聞いたなかでもっとも艶めかしい声で、ただ一言、呟いた。

「吐く」
「……なにっ!」
「だめ、もう、出る。我慢できない」
「吐くって、ちょっと待てお前っ。こら、その、アレかっ。だから待てっ。体勢を考えろっ! オレは下にいることを考えろっ! 万有引力の法則って知ってるかっ! ニュートン力学って理解できるかっ!」
「うーうー」

 美坂の顔はマジだった。冗談で出せる顔色じゃなかった。そしてオレはその直下にいた。いかに好きな人だろうとなんだろうとゲロは勘弁だった。オレはそこまで寛容じゃなかった。

「みさかー、おちつけー、おちついて息をすえー。つかとりあえず体重を緩めてオレを脱出させろっ」
「北川くん……一緒に死んでちょうだい」
「そこまで言うなーっ」

 そして終局の瞬間は近づいていく。オレの頭に子供の頃からの思い出が走っていった。走馬灯だった。マジか。オレはここで死ぬのか。死因に名づけるならゲロ死なのか。そんなのはごめんこうむりたい。
 と、オレが辞世の句すら考え始めていた、そのとき。

「はいはいー。ちょっと入りますよー。ごめんなさい北川さん、ちょっとどいてください。はい、おねえちゃん。吐くならこっち。体勢楽にして服緩めて。背中さすってあげるから。はい、大丈夫?」
「うーうー」
「……」

 そんな言葉を言いながら、新聞紙を張った洗面器を持ちつつ部屋の入ってきたのが――たしか、美坂の妹の、栞ちゃんだった。

「えーっと。あの」
「あー、北川さん。もうしわけないのですが、出きれば部屋の外に出ていていただけるでしょうか? その、あまり男性に見て欲しくない姿だと思うので」
「あ、ああ、そうだな。出てる」
「下で待っててください。居間にアイス置いておきましたから、それ食べてていいです」
「あ、ああ。わかった」

 言われるがままに、オレは機械的な動作で部屋から出ていく。
 頭の中は、展開についていけず完全にパニックを起こしていた。

 + + +

 言われた通り居間にはアイスがあって、スプーンも添えられていて、食べていいと言われたのでオレはバカみたいにそれを食べていた。なかなか高級なアイスっぽかったのだが、ほとんど味はわからなかった。しかしなぜアイス。冬なのに。アイスを食べきってしまうと、いよいよすることがなくなった。ただただぼんやりしていると、やがて足音が聞こえ、居間に栞ちゃんが入ってきた。

「おまたせしました。アイスおいしかったですか?」
「あ、ああ」
「そうですか。それはよかったです」
「……あの、美坂は?」
「お姉ちゃんは上で眠っちゃってます。飲みすぎですね」
「あ、そうか」

 ともあれ何事もなくよかった。
 のだが、よく考えてみると、なんかおかしい。

「……なあ、栞ちゃん」
「はい。なんでしょう」
「君さ……相沢んちに行ったんじゃなかったのか?」
「……ええと」

 栞ちゃんは言い淀む。瞬間。オレはある推測に行きつく。

「栞ちゃん」
「はい」
「もしかして。留守の振りをして、オレたちの行動を、影から見てたのか?」
「……なんのことかわからないです」

 笑顔でそういいやがるが、しかし額に浮かぶ汗をオレは見逃さなかった。
 あまり似ていない姉妹だと思ったが、どこか腹黒いものがある所は共通らしい。

「まあ、いいけどな。おかげでオレは命の危機から逃れられたんだし」
「そうです。世の中結果オーライです」

 いや本人が言うのはちょっとどうかと思う。

「それにしても惜しかったですね北川さん。あそこでお姉ちゃんがあんな行動しなかったら、こう、」と、栞ちゃんは拳をぐっ、と握り「ラブラブだったのに」
「いやそれはどーだろうな。酔った勢いで、ってのはいかんと思うよ。うん」
「ほんとは惜しかったな、って思ってますよね」
「……まあ」嘘をついても仕方ない。
「でも、北川さんってもうお姉ちゃんの下着を見るような仲なんですね。びっくりしました」
「……ええっと」

 どうやら、オレと美坂の部屋での会話は、ほとんど聞かれていたらしい。
 栞ちゃん、そういうのは悪趣味だから、止めた方がいいと思うぞ。

「あれは、たぶん栞ちゃんの考えてるのとは違うって……ただ、ちょっと、その、美坂がこないだ道歩いててコケたとき、スカートの中がちょっと見えたってだけの話だよ」
「ほんとですか?」
「ほんとだよ」

 悲しいくらいほんとなのだ。

「そうですか。じゃあそういうことにしておきます。でも、二人がラブラブなのは間違い無いようですね」
「……そうか?」
「そうですよ。いくら酔っ払ってたからって、お姉ちゃんがあんな態度とるの、見たことありません」
「まあ、オレだってそうそう見るわけじゃないけどな」
「北川さん、わりと頼りにされてるんですよ。お姉ちゃんに」
「そーかねー?」
「そうですよ。言ってましたよ、お姉ちゃん。昔文化祭であったこと」
「え?」
「なんでも、そのときクラスの出し物の準備がうまくいってなくて、お姉ちゃんはそんなクラスのみんなのことをちょっとバカにしたような気分でいたらしいんですけど、でも一人で一生懸命準備している北川さんを見て、自分は子供だった、ってことに気付いたとか。で、北川さんは意外とやるときはやるって、言ってました」
「……そうなのか」

 そんな昔の話、覚えているのはオレだけかと思っていた。

「はい。ですから。北川さんはもうちょっと自身を持って、お姉ちゃんにアタックしてもいいと思いますよ」
「……でもさ」
「え?」

 と、オレはこんなことを栞ちゃんに話すべきかとちょっと迷い――しかし、結局話すことにした。

「前の学校にいたときさ。美坂のやつ、一時期、すごく落ちこんでたことがあった。もちろん美坂ってああ言う性格だから、表には出さないようにしてたみたいだけど」
「……」
「それは、暫く経ったら直ったみたいだったけど……でもオレは、そのとき何もできなかった。ただ見てるだけだった。情けない話だよ。そんなオレがさ、」
「でも」

 と。
 栞ちゃんは、オレの言葉に割りこみ、

「でも、それなら、北川さんは気付けてるじゃないですか。だったら、次は、なにかできると思うんです」
「……そうかな」
「そうですよ……北川さん。さっきのお姉ちゃんの態度、どう思います?」
「どうって。まあ、いつもからは想像できない姿だな、とは思うけど」
「……お姉ちゃんって、物心ついたときから私がいたんです。ずっと『お姉ちゃん』だったんです。頭もよかったし、スポーツもできるし、ずっと、誰かに頼ったりしないでいました」
「……そう、だな」
「お姉ちゃんって、だから、誰かに甘えるのが下手なんですよ。やりかたをしらないから、ついあんな風に踏みこみすぎちゃったりするんです。でもそれでも、お姉ちゃん、北川さんに甘えてみようって、そう思ってるんです。それって……かわいいと、思いません?」
「まあ、な」

 確かに。
 およそ普段の美坂からかけ離れていて、困ったことばかりして、扱いに困るのも確かだけど――。
 まあ、ああいう美坂もかわいくなくはないと、そう思う。

「きっと、お姉ちゃんも戸惑ってるんだと思いますよ。自分でも知らなかった自分に。北川さんにはそんなお姉ちゃんを受けとめたり、ときにはしかったりして欲しいんです」
「できるかな、オレに」
「できますよ、きっと」

 そう言って、栞ちゃんは笑った。
 それを見て、オレは思う。
 これから、もっと知らない美坂の顔を、オレは見ていくのだろうか。
 その位置に、立てるだろうか。
 見ていきたいし、立ちたいと思う。そして、オレの知る美坂の世界を、もっと変えて広げていきたいとも思う。

「まったく――とんだパラダイムシフトだな」
「? なんですそれ?」
「んー、なんつうか、まあ価値観とか認識とかの根本からの改革とでもいうのかな。ほんとはもっと広い意味に対して使うんだけど」
「あー、でもそれならあってますよ。使い方」
「え?」
「だって。恋している二人にとっては、お互いのことこそが、それこそ世界のすべてですから」

 そう、真顔で言う栞ちゃんに対し、オレはちょっと照れた風にしながら、

「栞ちゃん」
「はい」
「恥ずかしいセリフは、禁止な」

 そう、言った。
 そして、二人ではははと笑った。

 + + +

「じゃあさようならです。北川さん」
「ん。美坂をよろしくな」

 そんな言葉を残して、オレは美坂の家から去る。美坂はまだ眠っているらしいが、今すぐ美坂にあってまともな対応ができるとも思えないし、これでいいのかもしれない。
 道に出て、空を見上げる。美坂の家の窓が見える。位置からして、あれが美坂の部屋のはず。なんとなく見つめていると、その窓がゆっくりと開き、そこから――美坂が顔を出した。
 月明かりのせいかもしれないが、美坂の顔は青い。すっかり酒は抜けてしまったようだ。
 オレはそんな美坂に向かい、言う。

「おーい。起きて大丈夫なのか?」
「……北川くん、あの、今日は、へんなところ見せちゃって、ごめんなさい」
「んー」

 どうやら酒は抜けたが記憶は残っているらしい。
 確かに普段のクールな美坂に戻ったなら、あんな自分の姿は思いだすだに死にたくなるほどのものなんだろう。
 そんな美坂の姿も、なんとなく、かわいらしかった。

「別にいいって。それより、今日はもうさっさと寝とけー」
「……うん、そうする。北川くんも、気を付けてね」
「ああー。っと、あ、そだ」
「え? なに?」

 そうだ、とオレは思う。
 オレばかり美坂の知らない面を見ているのは不公平というものだろう。
 オレもきっと、彼女に自分の知らないであろう面を見せるべきなのだ。
 だから、オレは、大きく息を吸い、ちょっとの覚悟を込めて、見上げる先にいる美坂に、言ってやった。

「じゃーまたなー美坂ーっ。愛してるぜーっ!」

 その言葉を、聞いて。
 ちょっとの、間を置いて。
 青白い月明かりの下で、美坂の頬が、茜色に染まっていた。

fin.
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