『カオリちゃん……』
 北の壁一面は窓だったが、開閉は出来ない。それ以前に、この『遊戯室』の夜間の出入りは禁止されている。ほとんどの子供たちは、昼間に遊ぶこの場所で、夜に何が行われているかを知ってはいない。だから、遊戯室の真ん中で静かに泣く少女と、それをおずおずと眺めやる少年の姿も見たことはない。
 鼻を啜る音が、自分を呼ぶ声で途切れる。振り向きもせず、蹲っていた少女は力なく呟いた。
『ジュン君はあっちへ行って。シオリをお願い、って言ったでしょう』
『でも……』
『あっち行ってよ。あたしに近寄らないで、お願いだから』
 気丈な目で、少女は少年を睨み付ける。乱れていた着衣と髪を、なんでもないことのように整えながら。少年は何かを言おうとして口を開きかけ、結局また視線を下げた。
『さ、もう寝ましょう。明日も早いんだし、みんなももう寝てるわよ』
 動かない少年に、少女はため息交じりに言う。
『でも、カオリちゃん……』
『いつものことよ。別にジュン君が気にすることじゃないわ』
 立ち上がる。その仕草の中で、頬に残っていた涙の痕を、少女は少年に気づかれないように拭った。さらにぱんぱん、とそれを隠すように服をはたく。
『それに、もう慣れちゃったし』
 すたすたと歩き始める。自分がなんでもないと証明するように、やけに毅然と、姿勢を伸ばして。立ちすくんでいる少年の傍を、少女は黙って通り過ぎようとする。
 瞬間。少年の手が、少女の腕を掴んだ。反射的に振りほどこうとして、少女は決然とした少年の瞳に気がついた。
『一緒に行こう。ここじゃない、どこかに。僕らをいじめる奴らがいないところに』
 真摯な目だった。少女は一瞬、きょとんとその目を覗き込んで。しかし、疲れたように、やるせなく微笑んだ。
『それ、どこよ。それに、あたしたち、まだ子供じゃない』
 それでも。ぎゅ、と少女の腕を握る力は衰えない。少年は思い詰めた口調で、少女に言った。
『いつか、僕が強くなったら。ここじゃないどこかに、一緒に、逃げよう』
 窓に、珍しく月が映る。半月の逆側を光らせて、揺らめくように光る。星々の光を吸い込むかのような輝き。
 真摯な幼い顔に、少女は緩く微笑んだ。
『うん。待ってる。ここじゃないどこかに、あなたと』






“Dolls in the blue sky” 






「いいか、ここは試験に出るからな。きっちりと押さえとけよ」
 適当に淀んだ空気が教室内を侵食する。日常に埋没した教師を、生徒たちはまるで敗北者のように眺める。どうしようもなく退屈で、どうしようもなく平凡な日常風景。
 半分だ。北川潤は机に頭を投げ出して、片手のペンを弄りながら考える。ここには半分しかいない。昼と夜とが同じ場所にいられないように、半分に完全に埋没すれば、他の半分を見ることは出来ない。想像すら出来ないかもしれない。ちらり、と斜め前に視線をやると、いつもうとうととしている少女が、この時間は妙にしゃきっとしていた。珍しいこともあるものだ。
 黄昏。自分を形容してみて、机に突っ伏したまま、北川は自嘲気味に笑った。とても隣の奴には聞かせられない。相変わらず真面目な顔の美坂香里は、今も軽快にペンを走らせている。
「1615年の大阪夏の陣。これの冬との区別、発端、歴史的意義。徳川家の……」
 つんつん、と頭を突付かれて、北川は頭を上げた。前の席の相沢祐一が、にやにやと笑いながら何か紙切れを差し出してくる。『クラス美少女選手権!!』と書かれた、なんの知性も無いような紙が、ぽとりと北川の机に置かれる。
『一人一票まで。合わせて賭けも行う予定』
 まったく、と一人愚痴る。教師に目を付けられないように起き上がって、やる気のなかったペンを握る。前の席の祐一が微妙に肩を震わせているのが見える。
 10個ほど、そこにはクラスの女子の名前が書かれていた。北川も少し考えて、そこに名前を書こうとする。
 水、と書いた。その字に、ふと右手が止まる。水、の字をじっくりと見て、なんとなく北川に笑みが浮かんだ。ぐしゃぐしゃ、とそれを塗りつぶして、その下に走り書きのように書いた。
『カオリちゃん』
 右の席で、相変わらず香里は背筋を伸ばしている。



「悪いけど、こっちも仕事だからさ」
 夜の校舎に、影が二つ。立っている方が、地べたに尻をつき、じりじりと後じさる方に言った。後ろに壁を確認し、額の汗を多くした片方が、やけになったように影に叫ぶ。
「お、お前。俺に手を出して、ただですむと思ってんのかよ。お、俺はなあ……」
「あんた、うるさいよ」
 とん、とサイレンサイー付きの拳銃が跳ね上がる。断末魔さえも封じて、影は悠然と闇を裂く。しばらく自分が撃ったものを見下ろした後、影はポケットに拳銃を戻し、かわりに携帯電話を取り出した。闇夜にすかして、短縮の番号を押す。
「ああ、俺だ。奴は始末したよ。掃除屋に指令を出してほしい」
 短く言う。耳元からの声に、影はまた2,3回頷く。
「わかってるって。彼女には気付かれてない。ああ、そうだ」
 半径1メートルにしか届かないような、低い響かない声。黒ずんだ液体が、その床を侵食して行く。それを避けるように、影は2歩後ろに下がる。
「ああ。予定通り、香里のところに行くさ」
 そして、通話終了の独特の電信音が、無意味に明るくそこに響いた。
 

「早いわね、相変わらず」
 煙を吐き出しながら、香里はこともなげに言う。北川は苦笑して、防寒と人相隠し用のフード付きコートを脱いだ。
「香里。男には絶対言っちゃいけない言葉があるんだ。それは」
「『はやい』と『みじかい』 だった?」
 言葉に詰まった北川に、香里はにこりと笑いかける。ついでに手招きも忘れない。
「まったく。あんたとは昨日今日の仲じゃないでしょ? ほら、さっさとこっちに来なさい」
「……もうちょっとさ。なんかあってもいい気がするんだけどなー」
「何があるっていうの?」
 ベッドサイドの灰皿に咥えていた煙草をおいて、香里は少しけだるげだ。コートをハンガーにかけると、大きく反動をつけて、北川は香里の隣にどすんと座った。
 す、と慣れた手つきで、香里が煙草を1本差し出す。北川がそれを咥えるのを確認もせず、すべてを了解したように手を離し、サイドからライターを取る。しゅ、と小さな音が漏れ、北川が大きく息を吸い、ゆっくりと吐いた。煙と共に出た、もとは体内にあった空気が、じんわりと部屋に広がっていく。
「大丈夫だったの?」
 香里も倣って、灰皿の吸いかけを手にとる。
「別に。いつも通りだって。問題なんてあるわけないし、あったとしたって、それはたいした事じゃないさ」
 普段よりも、少しだけ大きい息を吐く音。煙で、ベッドから見えていたクローゼットの扉がけぶる。それが北川には、どことなく何かの象徴のように感じられた。白い幕の向こうに、わずかに見える茶色の何か。
 強く、煙を吐き出す。
「香里の方は?」
 明るめに言った。その言葉に、香里はしなやかに北川に向き直る。姿勢を後ろに崩して、下から北川の顔を覗き込むように。
「問題ないわ」
 そして、煙混じりに笑む。
「さっそく試してみる? あたしの身体」
 北川も、答えるように笑み返す。目を合わせたまま、右手の煙草をその高さまで持っていく。火を、ゆらめくように香里に差し出す。
「最近、天国は規制が多くてさ。一日に何回もイっちゃいけないんだって」
 ふふ、と香里の唇の隙間から声が漏れた。
「誰に聞いたの? そんなつまらないこと」
 ベッドサイドにあった、口紅のついたコーヒーの缶を北川に差し出す。受け取って、北川はとんとん、と落ちかけだった灰を器用に缶に落とした。
「夜の学校には、情報通がいるものさ」
「別にどうでもいいわ。あなたの話って、基本的につまらないから」
「うわ、それすっげーへこむよ」
「はやい、ともみじかい、とも言ってないわよ」
 誘惑するように、目の光が揺れる。
 参ったなあ、と北川が頭をかく。あなたはかっこつけるタイプじゃないわよ、と香里は笑って、なんか飲む? とベッドから立ち上がった。任せる、と答えて、北川は缶のへりで煙草の火を消して、それをベッドサイドに置いた。
 乱れが直りきっていないベッドシーツを、なるべく見ないようにしながら。


「栞ちゃん、どう?」
 結局、その日は二人は何もしなかった。夜の闇の中で、北川が香里に話しかける。寝ているかいないか、そのくらいの区別は付いた。長い付き合いだ。
「変わらないわ。そうね、元気よ」
「……そりゃそうだよな」
 ため息にごめんの意味を込めて、北川は呟いた。至近で、寝返りの音が聞こえる。
 過去に縛られている。今にも縛られている。二人に共通して、その想いは強い。孤児院を出るときの取引が、今でも未来を阻んでいる。
「ねえ、潤」
 それが少し暗かったから、北川は明るい声を出した。
「ばーか。二人きりの時ぐらい元気だせよ。なあ香里?」
 漏れた声が耳に当たる。いくばくかのくすぐったさが、なぜか昔を思い出させる。孤児院では、いつも3人で、栞を挟んで眠っていた。香里がいなくなると、栞はいつも寝ているくせにむずがった。それを宥めるのが北川の役目でもあった。
 多分、泣きたかった。3人ともが。
「潤。栞があなたに会いたがってたわ」
 北川と同じように。どこか懐かしむような、香里の言葉。現実と空想の中間のような、ベッドと毛布の暖かさの中。
「昔から、栞は潤が好きだったから」
「頼れる兄貴だからな。香里も、頼れる姉貴だし?」
 軽く背中を蹴られる。
「たまにはお見舞いに行ってあげてよ。すぐ退院って言っても、一度ぐらい行くのはいいでしょう?」
「どうもね。監視のヤツがいるんじゃ、会いたい気はあってもなあ」
 もう一度蹴られた。今度はゆっくりと、撫でるように。
「どこにだっているでしょ。そんなの、今更気にしないでよ」
「香里は見られる方が好きなわけね」
 もう一度蹴られると思っていた。そうして、冗談だよ、ごめん、と言って、この話題を打ち切ろうかと思っていた。
 ふわりと、北川の背中に、香里が体を合わせた。まるで、覆いかぶさるように。頬の辺りに、押さえた息遣いを感じる。
「……潤」
 いつかの、何かを押し殺したような。
「あたし、怖いの。嫌な予感が、して」
「香里」
「栞のことも、あなたのことも」
 香里の癖。震える声を隠そうとして、妙に平坦になる口調。
 体を反転させる。向きを入れ替えて、北川は香里を自分の下に組み伏せた。ある程度それを予測していたのか、香里には驚いた様子がない。思い詰めた、潤んだ瞳が、北川を下から捉えている。
「あんまり、考えすぎんなよ」
 だから、北川はその瞳に口づけた。


 一度、鋏で院長を刺そうとした。香里を助けたくて、栞を泣かせたくなくて。だけど、やっぱり子供じゃどうにもならなくて、北川はかすり傷さえ付けられずに、腫れ上がるまで全身を殴られた。
 涙が出たのは、傷よりも自分の弱さが痛かったから。殴られる痛みよりも、香里と栞の泣き声の方が、何倍も。
 香里と栞が『組織』に目をつけられたとき、震える手を隠して名乗りを上げたのも。多分、それと同じ理由だった。守れないなら、天国よりも地獄が良かった。そこがどれほど、過酷な場所だとしても。
 二人の笑顔が、大好きだったから。

 その日の目覚めは、特にだるかった。雀の鳴き声も妙に大きく聞こえる。香里が隣でぐっすりと眠っていた。それを目に入れて、北川は淡く微笑んだ。


 
「おーす北川。今日はやけに遅かったな」
 1時間目が終わった休み時間。のんびりと登校した北川に、さっそく祐一が声をかける。ちくちくと責めるような視線を右に感じながら、けだるげに北川は答えた。勿論、香里とは時間をずらして登校している。
「いつもお前ら遅いじゃねえか。ったく、水瀬と何やってんだか」
「まあ、ナニやってるかもね」
 じろりと睨み付けても、相変わらず祐一は、何を考えているのかいまいち掴み辛い笑顔。
「で、今週はお前の順番」
 その笑顔で、ずいっと本の束を机に乗せた。どさりと派手な音と共に、やけに眩しい肌色が目を刺激する。
「……ヨロシクナニってたんじゃねえのかよ」
「そういうプレイもあるんだぜ?」
 堆く詰まれた通称『エロ本』と、周囲女子の鋭い目つき。朝からヘビーだな、と北川は天井を仰いだ。

「嘘だからね」
 学食の列で、唐突に後ろの名雪が耳元でささやいた。
「は? 何が?」
 今日のA定食はトンカツ。北川のお気に入りメニューのひとつ。祐一と香里のいつものメンバーも、それぞれの場所に散っている。
「今日の朝のことだよ」
 ひそひそ声は、ざわついた学食には不向き。なんだろ、と振り返ると、名雪は真っ赤な顔で、上目遣いに北川を見上げていた。心なしか、目も潤んでいるようだ。
「今朝?」
「わたしと祐一が、その、夜に……」
 ああ、とさすがに北川もぴんときた。同時に、なんとなく微笑ましく思う。純情な高校生の女の子とはこういうものかもしれない、なんて。ふ、と微笑みが漏れてしまう。
 本当に、自分と香里とはえらい違いだ。
「OK、分かった。水瀬を信じるよ」
 ぽんぽん、と頭を叩く。う〜、と納得してない顔で睨まれて、北川も苦笑いになる。仕方ないな、ともう一度頭を小突こうとして、瞬間。ポケットの携帯電話が派手に振動する。
『俺の女に手を出すな!!』
 画面を見てため息をつく北川を、名雪は一転して不思議そうに眺めやった。




「潤さん!!」
 弾んだ声。入ってきた人を確認するなり、栞はベッドから跳ね起きる。や、と北川は花束を掲げて見みせた。
 総合病院の白い個室。組織の息がかかった部屋には、始終監視員がいる。栞には気付かれないように、逃げられないように。そして、北川と香里も、気付かせないように接している。余計な心配をかけたくないから。
「潤さん、最近会えなかったので寂しかったです」
「ごめんごめん。ヤボ用があってさ。なんか色々忙しかったんだ」
 ちょうど、ベッドの傍の棚に空の花瓶があった。前に誰かが持ってきたのだろう。そこに花束を刺して、水差しの水を注ぐ。光がカーテン越しに降り注いでいて、それがとても暖かい。
「私、もうすぐ退院できるらしいです。またお姉ちゃんと通えるんですよ!!」
「お、そりゃ良かったな。俺も、栞ちゃんと同じ高校に通えるのは嬉しいよ」
 はい、と明るく栞は笑う。ぼかしたように北川もそれに倣う。
「このごろは体の調子もいいんですよ。みんないい人たちばかりですし」

『君たち姉妹は美坂、君は北川、と名乗ってもらう。なに、近ごろ裏切った者の名だ』

『栞に何をしたの!? 栞をどうする気!?』
『開発した新薬を投与した。ふふ、死にはしないよ。君たちの働き次第だがね。勿論、彼女には何も知らせていないさ。何も、ね』

『なんで香里にそんなことやらせてんだよ!! 俺が全部やるって言った筈だ!!』
『彼女の安全のためさ。それに、思ったよりも筋は良い。もしかしたら、君以上の使い手になるかもしれないよ』

 いつだって、すべてはガラスの向こうに。空の向こうの天国のように、海の底の地獄のように。

「潤さん?」
 大きな目が、不思議そうに開かれている。ごめん、と北川は軽く笑って、辛うじて耳に残っていた話の続きを促した。ここでこんな顔をしてちゃいけない、と自分に言い聞かせながら。病室の外から、舐めるような視線を感じていても。
 楽しそうに喋る栞は、それでもどことなく香里に似ていた。



『これ、あげる』
 ふにゃりとその子は笑った。今まで見たことがないほど、純粋に、可愛く。体が動かなくなって、その代わり鼓動が早くなる。何故か、その子から目が離せない。
 不器用な、ただ、咲いていた花を繋ぎ合わせただけの冠。それが、何故か北川には、絵本でも見たことがないような金色の王冠に見えた。
『でも……』
 いくばくかの迷いの後。北川が言いかけると、横から機嫌の悪い声がかぶさって来た。
『シオリ、何してるの。早く戻ってこないと、ご飯貰えないって言ったでしょう?』
 その子と同じような服を着た、でも随分大人びた喋り方の女の子だった。駆け足で近づいてきて、北川には一瞥もくれずに、満面の笑顔で冠を差し出したその子の手を取る。
『お姉ちゃん、冠だよっ』
『そうね。それよりも急ぎなさい』
 反動をつけて妹を起こし、そのまま棟にとてとてと駆けていく。二人で手を繋いで、姉の方は本当に北川には一瞥もくれない。妹の方は、その無垢な笑顔のままで、北川に向けて手を振っていた。

 そんな、単純な出会いだった。なんでそこにいたのか、その後どうなったのか、全く記憶には残っていない。北川が覚えているのは、その時の栞の笑顔と、やけに必死だった香里の横顔。そして、その二人に声をかけるまでに、1週間もかかってしまったことだけだった。





「み、美坂君……。その、いいのか?」
「あら、先生。今更ですか?」
 妖艶に香里が笑む。その制服には似つかわしくない、大人の、どんな夜も知っているような表情。それが、夜の教室に、鈍く輝く。
 白い蛍光灯。窓の外に、星空のような民家の明かり。少し乱れた机の列と、白く濁った黒板。ごくり、と鳴る喉。
「誘ったのはあたしですよ。気にしないで、ねえ……」
 教卓に腰掛けて、香里は緩やかに体を後ろに倒す。こころもちスカートをあげる。白い太股が、蛍光灯の白と合わさり、扉の前に立ち尽くす男の目の中をさまよう。
 また、ごくりと喉の鳴る音。
「いいんですよ、何をしても。だって、あたし、なんでもされたいもの」
 口を半開きにさせて、ちろちろと舌を内側に滑らす。少しずつ、ゆっくりと体をくねらせて、目だけはじっと離さない。
 男がそれに惹かれるように、ゆっくりと近づいてくる。2歩、3歩。こわばっていた表情も、既にその歳相応の、性欲の混じった顔になってきている。獣性で、油っぽい。はじめの頃にあった警戒心も、今はすっかり抜け落ちている。
 もう一度。深く、香里が笑んだ。そして、ゆっくりと体を倒し。
 教卓の中の拳銃を引き抜き、ぴたり、と男の額に銃口を向けた。
「……なっ」
「もちろんいいですよ。何をしても」
 扉を大きく開ける音。窓が開かれる、レールをプラスチックが通る音。幾人かの銃口が、ひとつに狙いを定めている気配。
「何をしても、無駄ですから」
 網の中の、絶望感。心当たりがあり過ぎる男は、うなだれて唇をかんだ。


「OKだ。君たちの仕事ぶりにはまったく感謝してるよ」
 豪奢な椅子と大きな机。社長室のそれを思わせる部屋の内装に、若々しい実業家を思わせる容貌。組織の支部長と名乗る彼の名前を、北川と香里は知らない。監視員でも知らないだろう。末端には、彼は偽名ですら伝えない。
「2年。長かっただろう。だが、作戦は大成功だった。この地域一帯の薬、拳銃、女のルートは全て把握できたし、その工作の結果、いくつかを横取りすることも出来た」
 大きく手を広げて、彼はまるで政治家の演説ように話す。北川も香里も表情を消し、ただ、それに聞き入る。
「大きなプロジェクトだった。だが、それは上手く行った。しばらく、仕事はないだろう。ゆっくりとしていいよ」
 彼は、退出を要求する仕草すら、どこか芝居がかっている。表面はうやうやしく、二人は揃って、機械のような礼をした。

「で、どうなるんだろうな」
 普通のマンションに偽装された本部の建物。そこから出るや否や、北川はポケットから煙草を取り出す。横目で問われ、香里は首を振る。
「どうもならないわよ。せっかくの身分なんだし、何かでセコく稼ぐんじゃないかしら?」
 火がつかずにてこずっていると、横から香里がそれを奪い取った。カチリ、と香里は一度で点火に成功する。二人ともため息交じりで、北川は大きく息を吸った。ぼう、と煙草に火がつく鈍い音がする。
「妥当かな。あそこ、3年の先輩が夜にちょこちょこやってるからな。隠れ蓑にはもってこいだし」
「学校関係者は、最近じゃそういうのの宝庫だものね」
 ふう、と煙を吐き出す。街の裏通りで、何を気にすることもない。表向きこの街が平和なのは、裏がしっかりと取り仕切られているからだ。北川と香里が来た頃には、まだまだ危険だった。今は、組織が良いバランスを整えている。流通も、人間も。
 自然と、二人の間に言葉がなくなる。そっぽを向くような目線で、アスファルトの上を進む。
 二人とも、自分の年齢を知らない。孤児院ではそんなものは与えられなかった。頼れるのは自分の記憶だけで、それすらもおぼろげで。信じられる気がする何人かで、獣みたいに暮らしていくしかなかった。
 人数は上下し、誰かがどこかに消えていく。顔の綺麗な奴が優先されていた。彼ら、彼女らとお互い再会することは、もうないのだろう。
 北川たちは、不本意な短距離ランナーだった。生まれたときから、長い距離は走れそうもなかった。意思と無関係に捨てられ、売られ、犯され、そして殺される。孤児院にいた何十人かの子供たちに、未来なんてなかった。
「なあ、香里」
 北川が知っている孤児院での顔の、一体何人が今も生き延びているだろう。北川と香里は、拳銃と様々なテクニックを手に入れることが出来た。それがとても不本意で、とても嫌なことであっても。それは、北川たちが生きるためには必要なことだった。
 香里は答えず、まだそっぽを向いている。煙を吸い込み、吐き出し。北川は凍ったような青空に、ぼそりと呟いた。
「俺たち、実は結構、幸せなのかもな」



『ジュンさんって、私とおねえちゃん、どっちが好きですか?』
 いつだっただろう。孤児院の狭くて薄いベッドで、栞が北川に言ったことがある。
『いや、どっちも好きだよ』
 北川を挟んで、香里と栞が左と右に。香里は既に寝入ったのか、落ち着いた息が聞こえてくる。
『どっちか、って言われたらどうですか。もちろん、異性として、ですよ』
『異性って、シオリちゃん……』
 随分と、考えることがませている。そして、男の方は特にそうでもないことが多い。10歳前後なら、尚更だ。
 う〜ん、と唸って、何度か栞にせかされ。ようやく、北川は答えた。
『そうだね。カオリちゃんとシオリちゃんなら、シオリちゃんを守りたいかな』
 香里が栞を庇うのをいつも見ていたから。香里より栞の方が弱い。それだけの価値観で、北川はそう答えた。まだ、香里がたびたび何をされているか知らなかったこともあった。本当に、北川にとって、それはそれほどの意味を持っていなかった。
 栞は一瞬動きを止めて、とても嬉しそうに微笑んだ。少しだけ罪悪感が混じっているのを、今の北川なら見抜いたかもしれない。だけど、その時は北川も答えを見つけたような気分になって、よく分からずに微笑み返した。
 逆隣の寝息が一瞬止まったことに、二人とも気付けなかった。




「ねー香里。ここ教えて」
「また? 名雪、たまには起きてなさいよ。いつも、とは言わないから。せめて大事なときには、目の下にメンソレータム塗ってで起きてなさい」
「うん、次からそうするよ」
 がたがたと椅子を下げて、名雪が後ろの机にノートを広げる。香里はため息混じりに、それでも筆箱からペンを取り出した。休み時間の、いつもの風景。ざわざわと、教室中で似たような、少し違うやり取りが繰り広げられる。
「平和だねー」
 椅子をぐらぐらと揺らして、祐一が呟いた。大げさな欠伸。今日も、祐一と名雪はギリギリに登校してきた。
「ああ、平和だな」
 昨夜の出来事など、誰も知らない。窓の外を眺めて、北川もそう同意する。何か名雪が変なことを言ったらしく、少しだけ香里の声が大きくなった。
「あのさ」
 がくん、と椅子が机に当たる。祐一の頭は、勢い天井へと向く。
「名雪と香里って、仲いいよな」
「いいな」
「なんで? 結構正反対、って感じがするけど」

『そうだな。香里君には、初日あたりにさっさと親友を作って貰いたいね。出来るだけ地元で、あまり深く突っ込んでこなさそうな子がいいかな。そうだ。まず後ろの子と話すんだ。個人的には、綺麗な子だといいんだけどね』

 楽しげなやり取りが、隣の席から聞こえる。目を閉じて、少し北川は微笑んだ。
「運が良かったんだろ。気が合う、ってのは、要するにそういうことさ」

『名雪は、いい子よ。ふふ、いい子過ぎるかもしれないわね。あんな子、初めてよ』
 少し頬が上気していた。そんな香里を、北川もはじめて見た気がした。そしてはじめて、自分の運命に感謝したくなった。

「なるほど、運か」
 ぐる、と祐一が後ろを振り向いた。ずいっと顔を北川に近づけ、目の中を覗き込む。何かを思いついた、いつものいたずらな表情。
「てことは、お前は運が良かったな。この相沢祐一様と出会えたんだから」
 一瞬、北川はあっけに取られた表情になる。それをにやりと見やって、祐一はぴん、と北川の額を弾いた。
「OK?」
 その仕草に、ようやく北川の脳も動き始めた。ニヤリと笑い、何か気の聞いたことを言おうと、その脳を検索して。

『た、頼む。見逃してくれ。最近子供が出来たんだ。これが終われば足を洗おうと思ってた。だから、だからたの――』
『……こんなの、たいしたことじゃないわ。ええ。どうせあたしたち、こうでもしなきゃ生きていけないわよね』
『潤君は筋がいいらしいな。うん、その調子で殺してくれよ。君を見初めた僕も鼻が高いね』

「……OK」
 それしか言えず、顔も上げられず。祐一の不思議そうな顔を、北川は直視できなかった。隣の席は、変わらず楽しげに笑い合っている。
 希望みたいな光が窓から流れてくるのが、北川にはたまらなかった。




「やあ、北川君。よく来てくれたね」
 また、大げさに彼は両手を広げる。政治家の街頭演説のようなそれは、いつも北川を、どこか不快にさせる。
「いえ。それより、用件を」
 まだ5時間目に、唐突に北川は呼び出された。どんな時であっても、それが命令なればやらなければならない。北川や香里のような、金で買われた人間には自由意志はない。
 彼は、また大仰に手を組む。沈むような柔らかいカーペット。護衛の大男が、ドア付近に二人。趣味が悪いと呟いた香里は、今日は隣にいない。
「つれないなあ。普段あまり会うこともないんだ、ちょっとはお喋りでもしようじゃないか」
「…………」
 その沈黙に、気を悪くした様子もない。余裕に満ちた口調が、しかし逆に怖さでもある。
 北川の怪訝な表情を十分堪能したのか。急に顔を下げ、彼はそれまでと違う笑い方をした。
「いや、失礼。君への指令もこれが最後だと思うと、少しこちらも寂しくてね」
「最後?」
「そう。この先我々は、君に命令をしない。ということは、だ」
 その蛇のような笑い方には、北川には何度も見覚えがあった。
「この指令を成功させれば、君は晴れて自由の身になれる」
 香里を犯していた、あの院長が浮かべていたもの。それと同質の、暗い笑みだった。そして、それよりも彼の方が覇気に満ち溢れている。それが、北川に寒気を覚えさせる。
 何をたくらんでいるのか。どうせ良くないことに違いないが。
「しかし、香里や栞ちゃんが……」
「そう。その美坂君に関わる内容だ。今回の指令は」
 よく分かってるじゃないか、と彼が嘯いた。北川は鳥肌を抑えることが出来なかった。まさか。
 訳も無く、身に着けている拳銃の場所を気にする。後ろの護衛に動きは無い。汗が、何故か流れる。
「ん? どうしたのかね? 暑いのなら、冷房を入れさせるが」
「……いえ、お構いなく」
「そうかね?」
 楽しんでいる気配が、びりびりと北川に差し込んでくる。
 ふふ、と彼は笑う。防音対策の完璧な部屋は、唾を飲む音ですら、すべてに伝わっている気がする。気のせいであっても、北川に主導権が無いのは確実だった。
「その美坂君なんだが。どうも反逆、いや逃亡を企てているようなのだ。栞君に使っている薬を持ち逃げして、ね」
 覚悟していなければ。その言葉を聞いたときに、北川は前後不覚に取り乱しただろう。ぎゅ、と拳に力を入れて、それをギリギリのところで堪える。
 また、彼は笑う。
「実は、護衛の一人が撃たれたらしくてね。それをどうも、美坂君がやったらしい」
 茶番だ。きっと証拠など無い。こうしてかみ合わせていき、最後には誰も残さない。
 必要なくなった末席を切り捨てる。特に北川達は、孤児院から買われた存在だ。それこそ生殺与奪は思いのまま。そしてこの彼は、それを自らの手を汚さずにやるつもりらしい。勿論、北川が簡単に香里を殺すはずは無い。そう確信しているとしても。
「……いえ、しかし。香里に限って、そんなことは……」
「私は君に意見を求めているのではない。そんなことは分かっているはずだし、私も理解を求めようとは思わない」
 勝敗の見えているゲームを、いかにも楽しげに。
「北川君。君はイエスとしか言ってはいけない。そして私は、君に美坂香里君を殺してもらいたいのだ。今までのように、ね。そうすれば、君の自由は保障してあげよう。戸籍と金つきだ」
 睨み付けるのが精一杯。血がにじんだ手が震えているのを、北川は自覚していた。
 凍りつくような青空が、窓から少しずつ藍をばら撒いていた。




 病室から、楽しげな会話が聞こえてくる。姉妹の、春の木漏れ日のような交流。
 扉に手をかけて、一瞬戸惑う。右目に写る監視員の姿。
 分かっているけど、それでも扉は開かなければならない。それに、栞を一目見ておきたい。息を吸い、吐き。北川は一気にそこを開けた。
「あ、潤さん」
 振り向いて北川を確認すると、いつも栞ははじけるような笑顔を見せる。それがどんなに幸せなことか、北川には分かりすぎるほど分かっている。そして、その隣の香里が、どうしてかバレないように、顔を隠すように微笑むのも。
 ずっと、そんな2人が好きだった。
 今は、香里は節目がちに笑っている。動揺を隠そうとしているのが、北川には手に取るように分かる。昔から、少なくとも北川よりは、香里は嘘が苦手だった。
「ああ、潤。来たのね」
 少し。こんなときなのに、おかしくなる。
「栞ちゃんの病院着姿が可愛いからね。それに、お土産も持ってきた」
 後ろ手に隠していた花束を、大げさな仕草で前に出した。その芝居がかったセリフでも、うわあ、と栞は顔を赤くして歓声を上げる。ほっとした顔で、北川はそれをベッド脇の棚に置いた。
 香里が何も言わないのが、少し寂しかった。いつもなら、絶対に何かちくちくと言うはずなのに。
「あれ、お姉ちゃん。今日は何も言わないんだね」
 栞が北川の気持ちを代弁するように言う。一瞬はっとなって、しかし、香里はなんでもないように返した。
「え? ああ、そうね。たまには、そういうのもいいんじゃないかしら?」
「? ふうん……?」
 その姿に笑いながら、北川は花束を余っていた花瓶に移し代える。造花にしなくて良かった、となんとなく呟いた。枯れて、何もなくなったとしても、それがとても自分に似合っている気がしたから。ちょっとヤバいかな、と少しだけ北川は目を閉じた。
「なあ」
「ねえ」
 ほとんど同時に呼びかける。北川と香里は、それにはっとしたように顔を合わせて、また同時に目をそらした。二人ともが同じ確信を秘めて、病院の清潔なベッドを挟んでいた。
「今日は、お姉ちゃんも潤さんも、ちょっと変ですね」
 それでも。くすくすと楽しそうに、栞は笑っていた。



「どうしたの、潤。今日はちょっと、いつもよりカッコつけてたじゃない」
「いや、たまにはこういうのもいいだろ。栞ちゃんだって、刺激が欲しいさ」
 香里の部屋で、いつものようにベッドに座る。二人でいるのは、決まって香里の部屋だ。どうして、と聞かれれば、はじめてがここだったから、と答えるしかない。些細な理由だった。
 煙草の煙が、いつもより薄い。クローゼットの扉も、いつもより濃い。言葉を捜すような会話は、北川はあまり得意ではない。
 香里は、ぼーっと一点を見据えて、時折思い出したように煙を吐き出している。らしくもなく、呆けたように。嘘をつくのが下手な香里の仕草に、逆に北川は冷静になっていく。
「しかし、あれだなあ。俺、もう何回ここに来たかな」
 煙と共に、過去を吐き出す。
「何? いきなり」
「いや、なんとなくさ」
 いつもよりも単調な軽口。いつも通りなら北川も、おいおいどうした、なんていうはずなのだ。まったく、とため息をつきながら、北川は半分ぐらい残った煙草の火を、灰皿にぐりぐりと押し付けた。
「これ、やるよ」
 その手でポケットを探る。用意していたそれは、簡単に指に引っかかった。白い紙切れ。無造作に掴み取ると、まだ視線をさまよわせている香里に突き出す。
「なによ、いきなり……」
「天国行きのチケット」
 不思議そうに、香里はそこに書いてある文字を見つめる。何の変哲も無い航空券。煙草を咥えたまま、香里はそれをくるりと逆さに向けた。
「……なにそれ」
「いや、今回の仕事が終わったらさ。ヒマとか出来るらしいから」
 その言葉に、ぴくりと香里の背中がこわばる。やはり、とその確信を強めて、でも北川は視線を香里の目に合わせた。
 不安げな、迷子の瞳が揺れていた。
「一緒に行こうと思って。天国に、さ」

『ここじゃないどこかに、あなたと』

「いいだろ?」
「でも、潤。これだと、なんか」
 煙を吐き出し、香里も灰皿に灰を撒き散らす。迷子の瞳のまま、振り向いた先の空間を悲しみながら、香里はどこか震えた声で、北川に向き直った。
「天国経由で、地獄に行っちゃいそうね。あたしたちだと」
 言いながら、香里はそれをぎゅっと握り締める。北川は苦笑いで、そうかもな、と合わせる。
「でもね潤。あたしはね」
 あなたと栞がいてくれたら。そこでふと、思い出したように香里は言葉を切った。
 煙の多い部屋。土色のクローゼット。無意味に大きいダブルベッド。少し黄ばんだ内装。そして、手と首が汚れた二人。
 ふふ、とどこか自暴自棄気味に、香里は微笑んだ。
「そうね。天国経由の地獄旅なら、そんなに悪くないかもね」
 悪くないかもな。そう北川も、試しに微笑んでみた。




 全力で開けたドアの向こう。小刻みに肩を震わせて、香里が床にうずくまっている。薄れ掛けの死臭が、それでも濃厚にそこかしこに漂っている。
『香里』
 ぴくり、と震えた肩が止まる。はあっ、はあっ。北川の息遣いが、その空間に争うように飛び込んでいく。
『潤……』
 子供のような頼りなさで、香里が顔を上げる。
 返り血が頬と両手にこびりついていた。既に変色している。引っ掛けているバスローブが、震えた体からずり落ちそうになっている。
『いま、今ね。今、運ばれたわ。でも、でも、まだ、なんかそこにある気がして。ね、ねえ、潤……』
『香里っ!!』
 薄っぺらい笑顔のような表情が、香里の顔を滑り降りる。
 何も考えさせたくはなかった。転げるように部屋に入り、震える香里の体を抱きしめる。熱い、汗ばんだ肌が、まるで濁っているかのように、鈍い感触を与えてくる。
 抱かれたことで、逆に香里の震えが大きくなった。
『潤、潤。ねえ、あたし、あたし』
『分かってる。何も喋らなくていい。香里は十分やったよ。だから、震えなくていい』
 かちかち、と歯があたる音が響く。それを止めるように、北川は香里を抱く腕に力を込めた。耳元で響く吐息が、熱にうなされた様だった。
『大丈夫だ。俺が傍にいる。何があっても、俺が傍にいる。だから落ち着けよ』
『潤、……潤』
 北川の背中に手が回される。震えたまま、北川の服をぎゅっと握り締める。
『……こんなの、たいしたことじゃないわ。ええ。どうせあたしたち、こうでもしなきゃ生きていけないわよね』
 自分を落ち着かせるように、香里は呟いた。精一杯の強がりは、しかし、すぐに部屋の空気にのまれた。握った手の震えは、全く引きそうになかった。
『行かないで。今日は一緒にいて。お願いだから。お願いだから』
 香里が目を閉じた気配が、北川に伝わった。

 はじめて、香里が人を殺した夜。はじめて、二人きりで抱き合った夜。お互い何かを手に入れて、何かを失ったような気がした夜。
 自分の気持ちを、知った夜。


『依存性はあるな。だが、定期的に与えていれば問題は無い』
 室内の荒い息遣いを全く意に介することなく、彼の口調は冷静そのもの。むしろ激昂する香里と、それを必死に抑える北川を愉快げに眺めている節すらある。
『風邪の諸症状。出るのはそれくらいだ。あとのデータは君たちが関与する種類のものじゃない』
『栞はあたしのたった一人の妹よ!! あなたたちに勝手なことはさせないわ!!』
 一瞬の沈黙。荒い息をつく香里を見やり、しかし彼は、はっはっはっは、と大きく笑い声を上げた。とてもわざとらしく、感情を逆なでするように。
『何がおかしいのよ』
『いや、香里君の正義感がね。なるほど、妹を守るのは姉の義務とは言えるね。だが――』
 にやりと香里と、その後ろの北川を見据える。
『君たちは僕らに買われたんだ。結局、そういうことだよ』
 帰りたまえ。箒でごみを払うように、彼は軽く言った。
 北川に抑えられた香里の体は、直後に激しく動き。幾秒か後、空気の抜けた風船のように、ぐったりとなってしまった。北川の体にもたれるようにして、ようやく彼に目線を合わせる。覇気の無い、しかし暗く燃える瞳。
『あんた。いい死に方、しないわよ』
 そして、やっと搾り出すように、香里は息を吐いた。




 特にこの場所に愛着があるわけではなかった。ただ、場所と所要時間。それが一致したのがここだっただけ、という、とても色気の無い理由。それが少し寂しい気もしたが、自分に似合っているという妙な喜びもあった。
 この街に来て、拳銃を握り締めてから。いつも北川は、自分の死に場所を想像してきた。あまり香里や栞の傍では死にたくはない。そんなことを考えながら、愚痴交じりに傷の手当てをしたこともある。
 祐一や名雪と一緒に過ごしていた時間さえ、北川から死の影が離れることは無かった。鞄にはいつも拳銃が入っていたし、監視員の視線も離れなかった。いざとなったときの尻尾切り要員。自分の立場の不確かさは、いつも自覚させられていた。本当に、級友と話しているときでさえも。
 いつからだろう。生きる意味よりも、死ぬ理由を望むようになったのは。
 卑屈だと思いながらも、北川はその思考から逃れられなかった。少なくとも、香里と栞に出会わないことなんて、想像すらつかなかったのだから。あの2人に出会って、ようやく自分が生きはじめたんだと思っているから。



「随分、寂しいところね」
 聞きなれた声が、背後から。彼女が嘘をつくときの妙に機械的な声が、街のふわふわとした風に乗る。
 街の隅にあった、工事現場の跡地。人気の無い、見晴らしのいい場所。住宅地が多く、あまり広くないこの街だと、ここが一番理想的な場所だった。
「そっちこそ、随分遅かったな」
 らしくないぜ、と北川は振り返る。ウェーブのかかった髪が、ぱたぱたとなびいている。相変わらずの、迷子のような表情。
「仕方ないじゃない。あんなとこに挟まってるなんて、普通気付かないわよ」
「学年主席の美坂さんなら、あっさり気付くと思ったんだけどな」
 北川は香里に渡した航空券に、この場所のメモを挟んでおいた。長い付き合いで、香里の几帳面さは承知済みだ。それに、こういう伝え方をしないと、後々面倒なことになる。盗聴されている可能性は、とても高いのだから。
「茶化さないでよ、こんなときに」
「こんなときだからだよ、香里」
 右手で弄んでいた拳銃を、そのまま香里へと向ける。
 表情を変えないように、香里が苦労しているのが分かった。自分の方は、表情を完璧に制御できているのも分かっていた。結局、向き不向きはあったのかもしれない。北川はそう思いながら、銃口を香里の額に合わせた。
 一瞬だけ揺れた体を、香里はようやく元に戻す。そして自らも肩かけの鞄から拳銃を引き抜いた。ぴたりと、こちらも北川に照準を合わせる。
 いつか感じたような風が、荒野然としたその場所を駆けて行く。北川がまだ孤児院で一人ぼっちだった頃、いつも吹いていた風に似ていた。
 いや、似ている気がしただけだ。
「あなたも、同じことを言われたのね」
 かすれた声で、香里が問う。
「栞と逃げようとしてるって。全部、捨てようとしてるって。だから殺しなさい、って」
 言葉を紡ぐたびに、香里の拳銃を持つ右腕は震えた。
 空気の流れも、北川には簡単に読めた。香里の動揺も、そこから見える隙も。そして、そんな香里だからこそ、北川は守りたいと思ったのだ。小さい頃、香里が強いだなんてどうして思えたのか、今では全然分からなくなったほどに。
 少し彼の真似をして、北川は笑って見せた。
「まあな。やっぱ香里もか」
 香里も、少しだけ笑った。

「覚えてるか、香里」
 その姿勢のまま、北川は明るい声で言った。香里が怪訝そうに眉をひそめるのもおかまいなしに、そのまま語り出す。
「孤児院を出てさ。俺たちの名前に、漢字当てただろ」
 孤児院での名前には、漢字は付いていなかった。ただ、呼ばれていただけ、読みがあるだけ。だから、北川も香里も栞も、孤児院を出てから漢字を当てたのだ。
「俺には順とか純とか。香里にしたって色々だったよな」
 3人とも、標準的な名前だった。だから、何通りもの名前を考えた。旬、香織、詩織。それは普段感じないようなわくわくする作業で、だからこそ話し合いにも身が入った。3人が3人とも、どれもが似合う気がしていた。
 思い出して、また北川の声は明るくなる。
「結局、栞ちゃんが泣いたんだよな。これがいいって、3人ともの名前決めちゃってさ。で、俺は潤に、お前は香里になった」
 少し、北川は視線を落とす。戸惑いと懐かしさが混じったような香里の顔が、何故だか眩しく感じられる。
 ほんの少し、視界がにじんだ。
「でもさ」
 また視線を上げる。拳銃の安全装置を、わざと香里に気取られるようにはずす。きっ、と香里に緊張感がみなぎるのが感じられる。
 それで、いい。
「俺、大好きなんだよ。俺の名前も、栞ちゃんの名前も。香里って、名前もさ」
 大丈夫。この距離なら、お互い絶対に外さない。その確信が、嬉しい。
「それじゃ、早速。1,2の3で、決着つけようか」

 だって、香里は嘘をつけないから。それを、おそらく彼も分かっていたから。香里に付いた監視員が、一番凄腕な理由は。
 生きる意味より、死ぬ理由を。
「1……,2……」
 いっそ清々しい声が出たことに、北川自身驚いていた。しかし、確かにこれが北川の望んだ形だった。目の片隅で、歪んだ香里の顔と、その向こうの空が見えた。
「3」
 そして、引き金を引く。2発の銃声が、凍ったような大気を切り裂いた。





「ふむ、片付いたか。うん、ごくろうさま」
 電話口の報告に、彼は満足げに頷いた。鼻歌交じりで、決済をしていた書類を片付けていく。受話器を持った手を使わずとも、そのスピードはかなりのものだ。
「ああ、多少の予定変更はかまわないさ。今までは必要だったが、これからはそうじゃない。どうせ殺し屋連中のリストラは免れなかったよ」
 場違いな鼻歌が殺風景な部屋に響く。上機嫌をそのまま抜き取ったように、彼は仕事を進めていく。
「うまく痕跡は消すように。そう、彼ら2人の面は割れてない。あくまで存在をアピール出来ていればそれでいい。腕利きの暗殺者の影は、確実に残して置くように」
 武の組織から治の組織へ。その転換の捨て駒として、あの二人は良くやってくれた。逆らう者を殺し、相手に絶対的な恐怖を与えることに成功し、ひとつの立場に立てた以上、非合法な手段に訴える必要は無くなったのだ。勿論、圧力はかけ続けなければならないが。
 彼の鼻歌が止まる。次に、ふふふふ、と、愉快そうな微笑に変わる。
「君も知っての通り、僕のターゲットは初めから栞君だからね。彼女はいいよ。成長を抑える薬のおかげで、きっちり僕の好みに仕上がった。しばらくは、あれで楽しめそうだ」
 人質としてではなく、あくまで愛玩用として。彼が栞をも引き取った狙いはそれだった。一目ぼれにも近かった。殺しきれないおかしさが、彼の中で膨れ上がる。無垢な少女の形をしたおもちゃを、どのように可愛がるか。どのように刻印を刻み込もうか。
 美坂君も北川君も、まったく良くやってくれたものだ。胸の内で、彼は一人、既にいない二人に感謝した。予定がいくらか狂ったとはいえ、そんなことは大きな問題ではなかった。必要なくなったら消える。なんて見事な道具だろう。
「ああ、分かっていることは聞かなくていいよ。僕は今、最高に嬉しいさ。ああ、じゃあね。気をつけて帰っておいで」
 電話を切った後も、しばらく彼は笑い続けた。その笑い声は、2人の護衛以外には、防音の壁のために聞こえることはなかった。




「潤!!」
 自分の叫び声は、どうしても自分のものとは思えない。自分の手足も、自分のものとは感じられない。どこか深い海を歩いているような感覚が、香里の全身を包んでいる。
 その距離を駆け寄る間にも、北川の体から血が流れ出していく。致命傷なのは間違いない。しかし、それ以上に。
 北川が香里ではなく、どこかに潜んでいた香里の監視員を撃ったことが、香里を動揺させていた。瞬間の左後方のうめき声が、香里にそれを悟らせた。
「潤!! 潤!!」
 わけも分からず、北川の体を揺する。香里が撃った弾で激痛の中にいるはずの北川は、しかしどこか満足げに、その香里の腕をぎゅっと握り締める。
「香里、逃げろ……。今なら、ここから、病院までは」
 がふっ。大量の血が、北川の口から戻ってくる。それでも、北川は喋り続ける。
「俺に、付いてた奴は。俺が、カタをつけた。だから、栞……。それで、渡したチケット……」
「潤……?」
 切れ切れに、必死に。体に残る力を使い切るかのように、北川は喉に力を込めた。
「栞ちゃん……と。行け。ここじゃない、どこかに。栞ちゃんと、一緒に、逃げるんだ」
「あ……」

『ここじゃないどこかに、一緒に、逃げよう』
『うん。待ってる。ここじゃないどこかに、あなたと』
 いつかの、遠い約束。覚えているのは自分だけ。墓の下に持って行く。そう、香里は思っていたのに。
 いつかの、ベッドの中で。北川が栞を好きだと言った、その時から。好意なんて絶対に見せないと、硬く心に決めていたのに。

「なん……で。なんで潤、あたしを撃たなかったの。あたしを撃って、あなたが栞を連れて逃げてくれれば、あたし、それで良かったのに。そうなるって、思ってたのに……」
 自然と香里は呟いていた。北川の腕なら、自分が撃つ前に決着がつくし、撃てたとしてもかわされる。そう思っていた。
 頬を涙が伝っているのが分かった。ただ、自分の腕が抱く体からどんどん血が失われているのだけは、強く理解していた。呆けたような頭が、取り返しが付かない、と何度も叫んでいた。
 そして。北川の血まみれの唇が、僅かに歪んだ。
「だ……って、香里さ。俺、香里の、こと。好き、だっ……」
「……え?」
 へ、へ。そんな笑い声のような空気音が、香里の耳に入ってくる。思わず、息を吸い込む。周囲が暗くなる。目が、ぐるぐるとなる。
「好きな奴……、なんて。撃てない、だろ?」
 腕が、震える。北川はそれだけ言うと、す、と目を閉じた。香里の目を見て、最後に少しだけ唇の端を上げて。
 血が、地面に広がっていく。目の焦点が合わないまま、その鮮やかな赤が隅に焼きつく。
「そんな……」
 自分の声とは思えない、遠くから聞こえる呟き声。震えは伝わっているはずなのに、もう動かない北川の体。血管が全て凍ってしまったように、ひどく現実味の無い自分の体。
「あたし、あたしずっと、あなたが栞を好きだって。だって、そんな」
 満足げな北川の顔。口から漏れた血。そして、どこか懐かしい、乾いた風。
 動かない、北川の唇。上下が止まった北川の胸。妙に白い表情。すべてが頭の中を駆け巡って。


『いつか、僕が強くなったら。ここじゃないどこかに、一緒に、逃げよう』
『うん。待ってる。ここじゃないどこかに、あなたと』
 どれだけ、その微笑に恋焦がれたか。どれほど、その決意に救われたか。伝わったとしても、伝わらなかったとしても。嘘でも、嘘じゃなくても、それだけでよかった。どんな辛いときでも、嫌なことでも、それを思い出すだけで。
 ただ、それだけで。そのときのことだけで。




「はあっ……。はあっ……」
 どのくらいたったのか。香里には全く分からなかった。5分かもしれない。15分かもしれない。それとも、ほんの5秒ぐらいなのかもしれない。
 それでも。香里の中の何かが、それをさせるのをやめない。どれほど絶望的でも、香里の理性がそれを認められない。そんなことは許せない。もしかしたら、既に全部が壊れてしまっているのかもしれない。
「一緒に行くんでしょう!? 連れて行ってくれるんでしょう!? あたしを、ねえ、このあたしを!!」
 出血部分には、自分の上着を押し付け、固定した。それで止血されているかどうか、そんなことは分からない。北川の右腕を自分の首に巻きつけて右手で支え、北川の腰に左手を回し、引きずるように歩を進める。
 じり、じり、と重くなっていく。血の跡が、ただ広い地面にこびりついていく。がくがくと目線が上下して、呼吸が徐々に上がっていく。
 それでも。
「ねえっ。一緒に行くんだから。一緒に、ここじゃない、どこかに」
 息が切れる。眩暈がする。頭の後ろがぐらぐらとなる。それでも、体は進むのをやめない。頭は、ただ前に進むことを命令する。たとえそこに、何も見えなかったとしても。結果的に破滅に向かうことになったとしても。
「ほら!! 立って!! 歩くの!! まだ栞がいるのよ。一緒に行くの!! ほら!!」
 はあっ、はあっ。喉が焼け付くように痛い。耳が、自分たち以外の音を拾う。ばらばらと集まってくる気配がする。足がもつれて倒れそうになる。
 目が、前に立ちふさがる黒い服の男たちを見る。構えている銃を見る。肌がその殺意を捉える。
 それでも。約束したのだから。その通りに生きてきたのだから。最後のときでも、既に終わっていたとしても、その通りにしか生きられない。
「潤、行くんでしょう!! 約束したじゃない、いつか行こうって!! ねえ、潤!! 潤!!」
 自分に向けられた拳銃を知覚していた。それでも、香里は。北川を引き摺り、ただ、どこかに進もうとした。北川の体を支えて、妹の顔を思い浮かべて。あのときの約束を、どんな形でも果たして欲しかった。
 乾いた空に、銃声が響いたときにも。地面を感じた、その瞬間も。



『あのっ……』
 信じられる人なんていなかった。物心付いたときから、妹の栞以外には心を閉ざしていた。開いたところで、優しくなどされない。栞と、自分と、それ以外。香里にとって、世界はそういうものだった。妹の手の感触だけが、香里にとっての温もりだった。
 その、不器用な声を聞くまでは。
『なに。なんか用?』
 小さい男の子が、両手をぎゅっと握り締めて俯いている。自分たちと同じ粗末な衣服に、同じ薄汚れた顔。誰、と疑問を感じる暇も無く、一回り小さな妹が明るい声を上げた。
『あ、お花のお兄ちゃん』
 ぱたぱた、とその子に向かって手を振る。言われてみると、香里もなんとなく見たように思える。そういえば、いつか栞が花冠を作っていたとき、似たような感じの男の子が傍にいたような気もする。
 もっとも、だからといって気は抜けない。院長だって、少しだけ心を許したときに、自分にひどいことをしたのだ。それが繰り返されるたびに、自分の体が切り取られてく感覚すら覚えるほどのことを。
 知らず、唇をかみ締める。誰も信じてはいけない。それを、胸の内で繰り返す。
 そして、香里がそれを10回ぐらい繰り返したとき。
『あの。これ、一緒に食べない?』
 男の子が、すい、とそれを差し出した。
 食事のときに、珍しく配られたおやつだった。幾粒かのチョコレート。色とりどりのそれを、子供たちは先を争って食べた。勿論、栞と香里も。その子はそうじゃなかったらしく、それを配られた数だけ、自信なげな手の上に乗せている。
『くれるの?』
 栞がはしゃいだ声を上げる。相変わらず警戒心の無い妹に、やめなさい、と香里は言おうとした。いつものように、それには裏があるのだから。
 だけど。なんだか、自分が何も言えなくなっている事に気が付いた。とても、その子の持つ雰囲気に安心している自分がいた。栞もそうなのか、はしゃぎながら、チョコレートよりもまずその子に近づいて行く。その子はそれに戸惑ったように、でも嬉しそうに近づく栞を見ている。
 それもいいかもしれない。ふと、香里は微笑んでしまった。また、人を信じてみるのも。すぐに自分をそんな気にさせてしまったこの子は、何か違うものを持っていそうだから。微笑む自分が、香里は少し、嬉しかった。
 
 あの時のチョコレート。それがマーブルチョコレートだという名前だと知ったとき、2人で顔を見合わせて笑い合った。そんな笑顔を、失いたくなかった。それは、多分お互いが。
 体の熱を感じられて、同じ場所で重なって。少しだけ、お互いの鼓動が重なった気がした。刹那の、ほんの少しだけ。





 担任が出席を取り終えると、頬杖をついてぼんやりしている名雪に、祐一がひそひそと呼びかけた。
「なあ、なんか聞いてないか?」
「うん。何を?」
「香里と北川の奴だよ。もう3日も、揃って休んでる」
 知らないよ、と名雪が言う。どうしたんだ、と祐一はぶつぶつと呟く。
「ったく。せっかく優勝者の香里には、男子一同からのステキな商品があったってのに……」
「なに、なんの話?」
 名雪に首を突っ込まれて、慌てて祐一は首を振る。男子一同でのことを、いかに親戚とはいえ女にバラす訳にはいかない。なんでもない、と言うと、微妙に納得していない顔で、名雪はふーんと頷いた。
「でも、祐一。先週ぐらいから何か隠してるよね。変な紙をこっそり回したり、商店街でふらっと消えたり」
「いや、全然そんなことないぞ。俺は至って普通だ。春に桜が咲くぐらい普通だ」
「ふ〜ん……?」
 名雪の視線に、祐一の額から汗が出る。香里や北川がいれば、少しは話を逸らせるのに。そこまで考えて、ふと祐一はぴんと閃いた。
「なあ名雪。北川と香里出てきたらさ、4人でどっか行かないか」
「え?」
「今度の連休にでもさ」
 まだどこか疑いのまなざしで、名雪は祐一をねめつける。しかし、新たな自分の思いつきにとらわれた祐一に、そんな視線は既に関係ない。
「うん。4人で、たまにはこの街出てみようぜ。どっか遠いとこにでもさ」
「また祐一は。それに遠いところってどこなの」
 名雪はため息交じり。昔から、そういう祐一の思いつきに、あまりロクな目にあっていない。それでも祐一は、元気はつらつとそれに答えた。
「どこでもいいさ。ここじゃないどっかに。うん、それで行こう」
 そして。早く北川の野郎出てこないかな、と、祐一はせわしなく窓の外を眺めた。

 窓の外には、雲ひとつ無い空。誰かの血を吸ったような、薄い、それでもいつも通りの青空。すべてを受け入れ、そして全てを吐き出すような、遠い、遠い場所に。
 そしてまた。誰かが誰かと、ここじゃない、どこかに。



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