□北川潤
おはようほざいます。……ほざいますって何だ。ほざい、ほざ……ほざくの丁寧語?
みんな知っていると思うけど、俺の名前は北川潤っていうんだ。知らない人は……嫌い。嫌いだ。
自己紹介で思い出すのは、なんといっても中学校の入学式。
まだ人見知りが激しかったあの頃、慣れない制服に袖を通したばかりで緊張しまくってた俺は、発音を間違えて潤をジョンって言っちゃったんだ。
せめてそれがジンだったら多少は格好がついたのに、あの頃は若かった。それでもズンよりはマシだよな、って何度も自分に言い聞かせた夕焼けの通学路が忘れられない。
で、予想がつくと思うけど、その日から俺は三年間ハーフと呼ばれ続けた。
……髪の毛は地毛なのに。これでも一応。
でも、そのおかげで皆から親しまれ、人見知りが治ったのも事実なんだ。
だからさ、これからは俺のこと、ジョンって呼んでくれ!
遠慮なくさ。
……できれば、一生。
「あーーーー、駄目だ駄目だ駄目だ、こんなんじゃ!」
残り少ない原稿用紙をぐしゃぐしゃに丸めて、俺は頭を掻き毟って天を仰いだ。空は見えないが見慣れた天井なら見える。星っぽい染みならたくさん。
放り投げた用紙は、ゴミ箱の側面に当たってぽとりと床に落ちた。その数は一つや二つじゃなく、ぶちまけたみたいに箱を中心として放射状に広がる紙くずたち。何故か中には一つとして入っていない。
その有り様が俺の未来を暗示している気がしてならなくて、全部かき集めてきちんと捨てた。
「大体うまくいってもジョンって呼ばれるじゃないか、それじゃ!」
最後の一つをそっと落とし、なんですか、俺ペットですかよ。と間を取りすぎたセルフツッコミ。聴衆がいないので、ただ寒かった。書いてる最中は真面目すぎるほど真面目に考えた文面なだけに、余計に寒い。なんか、根本的に、センスとかそんな問題ではない気がしてきた。
美坂に本気で告白しようと思い立ってから二週間。機会がなかったわけじゃないけど、もっといい場面があるんじゃ、とか、まだその時じゃないような、とか、その場しのぎの言い訳をこねくり回して、結局先延ばしにしたまま。とうとう一昨日、夢にまで見てしまった。
放課後の教室。夕暮れをバックに、窓からそよぐゆるやかな風を受けながら、両手を後ろに組んで俯き加減に立っている美坂の姿。こくりとひとつ頷いたその頬が赤いのは、陽射しのせいか、それとも。
こんな風に妄想じみた夢まで見てしまっているのに、現実はどうかというと……いまだに夜通し怪文書を作成するなんていう、資源の無駄遣いに余念がない日々。その行為すら、手紙で気持ちを伝えるために行っているわけじゃなく、ただ自分の思いをどう伝えたらいいのか分からなくて、こうして字に起こすことで何かひらめきがあれば、とペンにでもすがりたい心境でのことだった。色々駄目過ぎると我ながら思う。思うけど、どうにもならないこのもどかしさ。
ちょうどペンを置いたところで、ベッドの上の携帯が鳴った。鳴ったというか、動いた。
家族が寝ている時間はマナーモードにしているので、着信音の代わりに小刻みな振動。股間に押し付けるとクセになるのはまだ誰にも言ってない。
メールを開くより先に部屋の時計で時間を確認し、驚いた。いつの間に夜が明けたんだろう。
携帯片手にカーテンを開くと、ちょうどお日様が朝の挨拶をしているところだった。せんせー、おはようございます。みなさん、おはようございます。なんとなく、小学校の給食を思い出す。朝ではなく。
窓を開け放って光合成しながら、深呼吸一つ。
ようやく親指でパチンと弾いて開き、目も見開く。
差出人は、美坂香里だった。
「……はれ」
頭が真っ白になった。
その後どうやって学校まで歩いて行けたのか、記憶にない。
逆転サヨナラたらこ唇 〜もつれ合う快男児どもの唄〜
「――」
遅刻スレスレで登校すると、ドアを開けた瞬間、クラス中の視線が俺に注がれた。
二秒半だけその状態が続き、何かの賞が取れそうなくらい揃った動きで、皆が皆、何事もなかったかのように視線を外す。次の瞬間にはもう、いつもの教室と何ら変わりのない空気に戻っていた。
……えーと。
この反応には見覚えがある。
中学のころ、ある日を境にして、クラスメイトほとんどから避けられるようになった奴がいた。
彼が教室に入るたび、これと似たような現象が起こっていたんだ。
一瞬にして空気の密度が増し、彼に対してだけ常にバリアーが形成されている。そんな雰囲気。
この経験から連想するに、この状態は。
「……えっ、なに、おれイジメ?」
結論から言うとイジメではなかった。
訂正する。悪意からのイジメではなかった。
というのも、俺の登校に気付いてないほど熱心におしゃべりをしている数名の、その内容が。
「あの二人、付き合いだしたんだってね」
「へー。なんか、ついにって感じだよね」
「ねねね、どっちから? どっちからいったの?」
「なんでも北川くんからだって!」
「うっそマジ!? ありえねーって」
「俺のスウィート・ハニー・インマイブレインが北川に…………うわぁぁぁぁあ!」
噂。
クラス中で噂。
口が尊いと書いて、噂。
噂になってました。
どこが尊いんだ。下品過ぎるだろと、いつになく強烈に思う。
ドアを開けたところで石になる俺。
えーと。
どうしますか。
窓際に相沢発見。
駆け寄る。
ねえ、相沢よ。
なにこれ。この状況。
つーか、俺、どうしたらいい?
と、頼りになる親友に意見を求めたところ。
「知らん」
三文字で斬って捨てられてしまいました。
いや、知らんじゃないですよ!
何!? その無関心な態度!
「相沢。おまえ、そんなに薄情なやつだったのか」
「いいだろ、別に。噂になって広まってくれた方が余計な虫つかないし」
「そうだけど、もうちょっとこう、なんかリアクション取れるだろ!」
「あぁはいはい。ばぶー」
「ばぶー!」
「よくできました」
うわ、カンペキ流しモード入ってる。つーかばぶーってなんだよ。新しい語尾か? よお、おれ北川ばぶー……なんだこれ。
ともかくだ、相沢。赤ん坊みたいな声出して頭よさげな本読んでるっぽいけど、知ってるんだぜ! とゆーか水瀬が教えてくれたんだが。
さっきから熱心に読んでるそれ、カバーかけて文庫のフリしてるけど、中身、水瀬との交換日記だろうが!
ちょっとの大きめの書店に行けば売ってる、文庫サイズの中身白紙のやつを利用して、カムフラージュのつもりかよ!
っていうかわざわざ学校でやり取りしてんじゃねえよ! 同じ家で、部屋まで隣のくせに!
しかも随所でほくそ笑むな! 相沢!
普段は笑わない人間の癖に、なんだよこの豹変ぶり!
などと、言いたいことはたくさん山盛りにあるが、野暮になってしまうから言わない。
「北川くん、ゴメンね。祐一って無関心なことには冷たいから……わたしには優しいんだけどね」
「ばか、名雪。余計なこと言わなくていいって」
「うー、ばかじゃないよ……」
しかも何。水瀬よ。
なんかいま、スゲー酷いこと言った挙句にノロケました?
俺にオノロケを聞かせてくださいました?
ちくしょーっ。
家で日記を交換するだけじゃ刺激が足りず、わざわざ教室でやり取りして読むくらい貪欲なカップルだよ、こいつら!
読むだけならいい。俺だって。文庫本だと思ってればいい話だし。
ただ、それを、二人で読むなよ! っつーか恥ずかしくないのかよ水瀬!
もうさ、気になるから俺にも見せろよ!
しかし、見せろと言ってはいどうぞといくわけがない。
というわけで、背後から忍び寄る。
……二秒で見つかってしまった。
「貧乏神ごっこをしようとしてんだぁ」
咄嗟の言い訳もかなり苦しい。しかも方言混じった。
「頼むから見るな」
「北川くん、そういうことしたらだめだよ」
「いや、悪い。でも、見られたくないなら教室で読まないほうがいいと思うぞ」
「ま、読書すんのにいちいち移動するのもな。とりあえず見られたくない本だから見ないでおいてくれ」
見せびらかしているんだか見られたくないんだか判断つかないのは、女子高生のスカートの丈と同じってことか。この学校もご多分に漏れず、前屈しただけで下着が見えてしまう連中が存在する。もとい、存在してくださる。俺は専ら見る方ですとも。
本人の思惑は分からないが、見せられる側としちゃ、やっぱり気になってしまうわけで。
まあとにかく、不肖北川潤、つい先日、長年の恋を実らせたばかりであります。
そしたら、次に学校に来たら、ものすごい勢いで噂されまくってたんです。
こう、みんな、相沢夫妻(既にそう呼ばれている)みたいな熟練したカップルを見てきて、初々しいのが新鮮なんでしょうね。
他のゴシップに飢えてるのは分かる。ああ、分かるとも。
でもさ、そっとしておいて欲しいんだよ!
俺は相沢夫妻とは違うんだ、まだ出来立てほやほやのカップルなんだ。
だって考えてもみろ。
……回想できるほど鮮明に覚えてないので、うまく機能しない頭で整理してみる。
土曜日の放課後にカップル成立して、興奮して寝付けなくて、日曜も色々遊んで、帰った途端爆睡。0時過ぎに目覚めて、寝惚け眼で手紙に着手。徹夜明けの月曜、遅れて登校したら、クラス中で話題もちきり。しかもなんか、美坂は休みだって。昨日は元気だったのに、一晩で体調崩したんだろうか。かなり心配だ。
……そう。俺は美坂と付き合い始めたのだった。
夢じゃなかった。夕焼けを浴びながら想いのたけをぶちまけたのも、美坂が頷いたのも、何から何まで実際に起こったことだった。
こういうのって、何ていうんだろう。夢オチの逆だから、現実オチ? というか、実際に体験したことを本気で夢と勘違いするとは。……とっくに付き合い始めているのに告白の文面を徹夜で考えていた俺ってば、一体何なんでしょう。良くて馬鹿、悪くて大馬鹿。いくら寝惚けてたといっても限度ってもんが。
とまあ、俺の愚行は思い出したくないからいいとして、問題はこれ。この状況。
「なあ相沢……もしかして、言ったとか?」
「……な、嘘だろ……名雪、上に乗るのがそんなに……ぐはっ」
「祐一、声に出さないで。……その、はずかしいよ」
「おい、日記媒体にいちゃついてないで聞けって! 人の話を! ここ学校だし! ありえないだろ!!」
「ああ? なんだよ」
先方ラブタイムを邪魔されて機嫌悪くなってますが、んなの知ったこっちゃない。
「だから、なんでクラスにこのことが伝わってんだろうって。相沢と水瀬にしか教えてないはずなんだけど」
「そんなもん、俺が広めたに決まってるだろ」
「え、本当にか」
「冗談だ」
「驚かせるなよ……」
「わたしと祐一が来たときには、もうみんな知ってたみたいだよ」
「誰かに見られてたんじゃないか? 昨日うろついたのって商店街なんだろ」
「そうか……それならあるかも」
いくら色ボケ絶頂期といっても、相沢も水瀬もそういうことをする人間じゃない。
……水瀬はそれでもちょっと心配なのは否めないが、美坂との付き合いを考えれば、気遣いはあると考えてよさそうだし。
相沢と水瀬が付き合いだして三ヶ月。
俺と美坂が付き合いだして一日ちょい。
この差は、きっとずっと埋まらないんだろうな、とか。そうなればいいって思う。
桜ももうすっかり散って、毛虫の季節が近づいてきた。天気予報からお日様の数が減り、むっと鼻をつく雨の匂いがたまにすごく好きになる。夜まで降り続いた日は、わざと傘を差さずに雨に打たれたりもした。髪の毛がなかったら、きっともっと開放感があった。服を着てなかったら、きっと捕まってた。
雨も風もない夜は、部屋の中でただひたすら美坂を想う。
この気持ち、悪くない、なんて呟いて、あまりの似合わなさに自分で噴き出した。
○
○
○
□相沢祐一
北川ほど騙しがいのある奴はなかなかいない。本気で。
だって、あの名雪の嘘を平然と信じ込んでいるんだ。根が純粋なのか、それとも単に馬鹿なのか。それは親しい俺でも分からない。付き合いの長い名雪でも分からない。分かるとすれば、それは香里だけだろう。
そもそも俺が、交換日記を学校で交換するはずがない。あの文庫本は美坂香里お勧めの、普通の文庫なのだ。交換日記をしていること自体は否定しないが。
たった二人での情報操作。そんなことも見抜けないほど、北川の目は雲ってしまっている。思ったよりずっと重症らしい。
北川といえば、土曜日の夕方、水瀬家に一本の電話があった。
『はい、水瀬ですが』
『あ、あ、あィィッ、あィ沢っ、ざわっ!』
『どちら様ですか』
『お、俺、おれおれお、きたguぁ間L;みsjkおりぎおじかsdlんkt縫いおじゃおpjりkんだあなsんっこksつぃっぷすnlbぉ!!?ッ〜 「ガチャ」』
『……おーい』
『……ツー・ツー・ツー……』
『…………パンツ何色だ、こら』
やたらとテンションが高くてろれつが回ってなくて声が裏返ってて噛みまくってたその電話の主は、何を言ってるか聞き取れないうちに一人で勝手にしゃべりまくって切った。次かかってきたらトランクス派かブリーフ派か訊いてやろうと思って待ち構えていたが、五分経ってもかかってこなかった。
その日の夜に香里から名雪へ連絡があり、日中の変態電話が北川からのものだったと判明した。事情を聞いたところ、二人で学校で用事を済ませているところで告白され、OKしたそうだ。その喜びを一刻も早く誰かと分かち合いたくて、全力ダッシュで下校中に公衆電話に飛び込んだ北川、というのがあらまし。
「みさかーみさかー。さみしーよー」
「喋るか寝るか二つに一つにしろって」
本人がそこにいたら、寝てようが覚めてようが死んでも言わないくせに。
学年が変わっても同じ席をゲットして、幸せそうな寝息を立てているこの北川という男。俺から見るとかなりいい奴なんだが、いい奴すぎるのと、たまにアホなのが玉に瑕。むしろ総合的に見ると瑕だらけの玉って感じがする。
こうなってしまった、と言うと本人に失礼だが、こんな風になった成り行きを説明すると、こっちがこっちで色々……秋子さんのこととかで忙しい間に、奴は一人で頑張って香里をゲットした、ということになる。この頓珍漢がどうやってそこまで漕ぎ着けたのか、詳しく聞きたくて仕方ない。
その機会はいずれ用意するとして、今はそれより、パッと見は経験豊富そうだが、実際のところはとんでもない経験の持ち主(0回)だったこいつに、教えなくてはならないことが山ほどある。
「はーっ」
「後頭部に息がかかってる息が。あと微妙にいい匂いなのはなんでだ」
「ブレスケア。でも今日は美坂がいない……はー」
「学食に新メニューできたらしいな」
「そうか、でも美坂休みだしな……ふー」
「見舞い行くのか?」
「いや、風邪だから、移したら困るからってメールで言ってた。はー」
「そうか。じゃあ今日の放課後は俺に付き合え」
「でも相沢、美坂じゃないしなー。ほーっ」
「いいから来いこの色ボケ熱中症野郎」
念入りに観察したが、ほぼ確実に何も分かってない。考えてすらないと確信した。だって見てて、恋愛初心者そのまんま。
本人たちだけでなく、俺と名雪のためにも、しっかりとステップアップしてくれなくては困るのだ。
「というわけで名雪、俺、今日泊まりかもしれないから」
「わかったよ。でも、うちに呼べばいいのに」
「ま、今回はな。ちょっと男と男で腹を割った話がしたいんだ」
「そうなんだ……」
ほへ、と口を開けて感心しているが、言葉の意味は分かってなさそう。
「どっちにしろ、遅くなるようなら連絡入れるから」
「がんばってね」
「がんばるのは俺じゃなくてこいつなんだが。まあ、うちに泊めるのはもっと面白くなってからにしよう」
「おもしろく……?」
「いや、言葉通り。まだ早いってことだ」
「ふうん」
「ん、そろそろ時間じゃないのか、水瀬」
「わ、そうだった。急がなきゃまた遅刻だよ」
「がんばれよ、部長さん」
「ありがと祐一。北川くんも、またあした〜」
「おー。ていうか部活にまで遅刻してたのか水瀬ー」
ぱたぱたと上履きを鳴らして走って行く名雪を見送る。
ちょうど姿が見えなくなったところで、脇腹を突付かれる。
見ると、にやにや顔の北川ジョンがいる。
「おれは潤だって」
「夜な夜な訳わからんエピソードを織り交ぜて手紙したためてる馬鹿なんかジョンで充分だ。あ、世界中のジョンごめん」
「相沢はっきり言いすぎ!」
「いや、俺は何事もはっきりさせる方なんだ」
「知ってるけど」
「今日はこれからが本番なんだから、これっぽっちで音を上げられると困るぞ」
「……のぞむところだ」
油切れのロボットみたいになった北川を横目で見ながら、いい奴なんだけどな、と口の中で呟く。
名雪や香里になら何度か言った台詞だが、本人に直接伝えたことはない。まず間違いなく誤解されると思ったからだ。
いい奴という評価は、言葉尻だけなら誉めてるように聞こえるが、その実半分以上誉めてない。
他に取り得がない人間に対しても使われる表現だが、それより何より、こう呼ばれる人には共通項があった。
特に自分のことに関して、不幸や災厄をしょいこむ損な人間。
そういった人たちを、苦笑と憐れみの混じった視線でみんなこう言う。
いい奴なのにな、と。
○
○
○
□北川妹
珍しい。お兄ちゃんが友達を連れて来た。
社交的で友達も多いけれど、どちらかというと自分から遊びに行くタイプのお兄ちゃんは、あまり家に友達を連れてくるということがない。あと女っ気もサッパリ。
玄関でばったり会って挨拶した。何度かお兄ちゃんから聞かされてきた、ちょっとどころか相当変わった転校生のひとと名前が一緒だ。それを笑顔で本人に確認すると、唇の端を何ミリか持ち上げて笑い、お兄ちゃんを部屋まで引きずっていった。「それも含めて詳しく聞こうか」って囁きながら。お兄ちゃんとは正反対のタイプっぽい。
お茶を用意して部屋まで持っていくと、お兄ちゃんは何故か正座していた。
相沢さんはベッドに腰掛けて、足と腕を組んで難しい顔。
思いっきり説教の体勢だった。
「あ、お構いなくね」
「いいんです、兄の命令なので」
「お、妹ご苦労。さがってよし」
足の裏を思いっきり踏んで部屋を出る。まだ痺れてはいなかったらしい。残念。
私の部屋はお兄ちゃんの隣にある。
付け加えて言うならば、うちの壁には完全防音なんて便利な機能、ついてない。
そして、なぜか手元にはコップが。
…コップが。
「……許せ、兄よ」
中学三年は多感で好奇心旺盛なのよ。適当に言い訳しながら、逆さにしたコップを壁と、そして耳にしっかり添えた。
ちょっとくぐもってるけど、声を拾うには申し分ない。
『確認。香里にはなんて告白したんだ』
『い……言えない。さすがに』
『言え、ジョン』
『でも相沢』
『言え』
『……はずかし『言うんだ』
終始相沢さんのペースで話が進んでいるようだった。
会話に集中することにする。
『じゃあ質問を変えよう。いつから香里のことを好きだったんだ?』
『中学二年のころから、だ』
『なるほど。きっかけは……おいおい聞くとして』
『助かる』
『じゃ先日について。お前が告白して、香里がOKした。これでいいんだな?』
『ああ、一応は』
『一応ってなんだ。確率論で言うところの70%と見ていいのか』
『いやたぶん』
『たぶんってなんだ。統計学で言うところの30%と見ていいのか。減ってるよ、オイ』
『美坂はOKした! これでいいだろ!』
『よし。その香里についてだが』
『あぁ……なんだ、何かあるのか』
『その時の反応はどうだった?』
『反応?』
『だから、仕方なしにっぽかった、とか、その場のノリだった、とか、あるだろ色々』
『……』
『状況によっちゃ、お前の今後の身の振り方について指導しなきゃならないんだ俺は』
『……』
『で、どうだったんだ? 香里は』
『……も』
『も? もか。もだったんだな。もってなんだ』
『ものっすごい、かわいかったっ』
『誰もそんなこと聞いてねえYO! 満足そうな顔しやがって』
『あ、YOって言った! 相沢いまローマ字発音した!』
『だからんなこた聞いてないって言ってるだろうが』
『だって、すごいかわいかったんだって! あの美坂が俯いて目泳いでたんだぞ? しかも声も俺くらい震えてた!』
『……は?』
『ああもう、思い出すだけでおれはもう……もー辛抱たまらんっ』
『ちょっと待て。誰の声が震えてたって?』
『だから美坂の』
『それ本当に香里か? 話すのが嫌で替玉使われてたんじゃねえの』
『なに酷いこと言ってるんだよ! 間違いないし、そんなこと起こるはずがない。正真正銘天上天下唯我独尊美坂香里だったったっ』
『なんか色々多いぞ』
『いや落ち着け、おれ。どうどう。相沢も落ち着け。どぅどぅ』
『なんで俺だけドゥなんだ』
『DOだっていいだろうがYO』
『……お前こそ落ち着け』
『すまん相沢、茶でも飲んで落ち着こう』
『ああ……ん、これなんだ。紅茶か』
『ウチの妹、お茶汲みだけは手際いいんだよ。便利だろ』
『いやその言い方は……ん、いけるな。美味かったって伝えといてくれ』
『おけー』
とりあえずお兄ちゃんは後で制裁決定。
相沢さんには次は違う紅茶を振舞おう。
『まあ、つまり香里もお前に惚れているらしいということはわかったよ』
『だろ、相沢。いや俺も信じられないんだけどさ』
『俺だって信じられないし信じたくないが、信じざるを得ない』
『そうだよな。で、なんか、だんだん悲しくなってきたんだけど』
『いやお前は何も悪くない。こんなお前を好きだという香里が信じられないって話だからな』
『……泣いていい?』
『気持ち悪いから却下』
『くそっ、つまりどんな話なんだよっ』
『相思相愛なら問題ないって話だ。お互いを思いやりながら普通に付き合っていけば大丈夫だろ。今のところアドバイスできることもないし』
『そうか、問題ないかっ。相沢よくやったっ』
『俺なんもしてないけどな。ところで、もう家には上げたのか』
『いや、まだ。さすがに早すぎて抵抗あるし』
『ま、ゆっくりいけよ。特にお前なんか、焦ってもなんもいいことなさそうだ』
『まあそう言うな。あ、相沢ベッド使っていいから。俺スメルつき』
『たいして嬉しくないのはどうしてだろう』
『照れ隠しすんなって! 俺はベッドの下に寝るから。夜中にギシギシ鳴ったらゴメンな』
『……すんなよ?』
『俺、寝相悪いんだ』
『そりゃ仕方ないが』
『だよなー。あ、風呂どうする? 先入っていいぞ』
『いや、先の方が急かされてるみたいでくつろげない』
『よっし、じゃあ、妹の直後ってのはどうだ?』
『最後ならなんでもいいよ』
『じゃ決まりな』
話が終わり、お兄ちゃんは着替えを持って部屋を出たようだった。
お風呂に行くのかなと思ったら、そのまま部屋に来た。
「聞こえてたと思うけど、そういうわけだからよろしく頼む」
「あーうん。その、美坂さんだっけ? いつ連れてくん……」
「相沢のために風呂の中に毛の一本や二本落としといてく……おごっぷ」
近頃パンチに捻りがきいてきたみたい。
ともかく、お兄ちゃんにようやく春がきたようで、妹としては嬉しさ二割、寂しさ三割。好奇心五割。
このお兄ちゃんを好きになるなんて、よっぽど気のいい人なんだろうな。
あと、頭の回転も早そう。
○
○
○
□そして夏休み前。
リーダー曰く、放課後、チームのミーティングがあるから集合ね。
集合した。
というかそのまま着席して向かい合っただけだった。
「パジャマパーティしない?」
そう提案したのは、チームリーダーこと美坂香里嬢。彼女はこの日のため、極秘裏に計画を立てていたのだ。寝る前に思いついたことを次の日になって話しているだけ、とも言うがその辺は気にしない。
パジャマパーティとは、任意の友人宅へ集まり、寝間着姿で食って飲んで喋って寝るという読んで字の如しイベントである。主に女子中高生の間で人気。ちなみに男連中がこれをやると、特に夏場では、ブリーフ集会にしかならないので注意されたし。下着はトランクスでもいいが、そうすると中央部の隙間からはみ出ているやつが一人か二人は発生する。
ともあれ、香里は提案したのだった。
それに対するチームメンバーの反応は惨憺たるものであった。
「なにっ、パジャマパンティ? はい美坂、おれ、パジャマいらないとおもう!」
「待て、北川。ここはパンティが要らないと主張するところだろ」
「お、言われてみれば」
「な?」
「だな。うほっ、ぶかぶかのパジャマの上着一枚の美坂。ちらりと覗く毛。毛! たまんねーっす」
「いや、キャラ変わってるから。あとお前、毛フェチじゃなかっただろう」
「死にたい?」
こめかみに青筋三本立てて、立案者が咳払いをひとつ。
スタート一歩目ですっこけて、上から漁業用の網をかけられた按配だが、その程度でへこたれるようではリーダーは務まらない。
「すまん、美坂。おれ、調子に乗りすぎた」
「ああ、俺も間違ってた」
「わかればいいのよ。で、話戻すけど、パジャマパーティ」
「はい美坂、おれ、ブルマがいいとおもう!」
「何の話よ」
網の上から木工用ボンドをバケツでかけられた按配。
でもリーダーはたくましかった。
「北川、それ、どっちも穿くものだろ」
「お、言われてみれば」
「な? それじゃかたっぽ死んじまう。それじゃ、駄目だ。浪漫がない。浪漫だよ、ロゥマン。ルドルフ・ロゥマン」
「誰だ」
「しらね。でも、言いたいことはわかるだろ?」
「おう。ありありと伝わってくる。でもさ、それなら別の場所につければいいんじゃないか?」
「そうか、その手があるか」
「アイテムの用途は一つじゃない。なんなら靴下を手につけたって、ズボンを両手に通したっていいんだ。それだと不便だから誰もしないだけで。でも今回は美坂がわざわざ場を用意してくれるわけだろ。それを踏まえて、」
「ああ」
「ここは是非、ブルマの上からパンツを穿こう」
「パジャマはどうする」
「着ても着なくても、そりゃ相沢、お好みに合わせて、だ」
「なるほどな」
「おれは着ない派だなあ。ほら、いいかい? 想像してごらん。君の好きな人が、照れくさそうに、勝負下着に勝負ブルマをつけてるんだ。西日に照らされて、いつもより君の頬は赤く見えるよね。でも僕は、ブルマと下着に目を奪われてしまって、そんな君に、気付かない。そんな、水曜日の昼下がり」
「平日なんだね」
「名雪それ突っ込むとこ違う」
「じゃあ、なんで森本レオ調なの、かな?」
「いやそれも間違ってはいないけど少しピントずれてる、っていうか大丈夫か北川」
香里の掌が一閃していた。
地に倒れ伏すその彼氏。
「美坂……なんか最近、威力増してきてないか……」
「妹さんのおかげでね」
このタイミングでばっちりウィンク。それに応える北川。
名雪にはこのひねくれた愛情表現がさっぱり分からなかったが、仲が良いということだけは分かった。
祐一は大体分かっていた。
「はい、あんまりいちゃついてないで本題な。どうする? 夏休み初日いくか?」
「わたしはいつでもいいよ〜」
「おれも大丈夫かな」
「そうね、夏期講習が始まったら夜更かしもできないし、早い方がいいかも」
どっちにしろ名雪には変わらないけどね、と最後に冗談めかし、男二人がそれに賛同する。拗ねた名雪が夏期講習の定期試験の前日にしようなどと言い出すが、結局、香里の説得と祐一の宥めによって名雪が折れ、夏休み初日に決行することとなった。
・題目・
『美坂チーム主催 第一回 最初で最後のパジャマパーティ』
参加資格:
美坂チームに所属していること。
これは現在のチーム生全員の了承を得て初めて認可される資格である。
よって自称チーム生である斉藤、石橋は不可とする。
先日、下校途中に尾行されたため、精鋭相沢祐一隊員により両名処分した。
服装:
パジャマに限るものとする。自称でも可。
ただし全裸、下半身裸、或いは右半身裸、左半身裸は不可とする。
なお、女性メンバーはこの限りではない。
本音:
酒と愚痴りと男と女
文責 相沢祐一×北川潤
情報処理室で要項をコピーしながら、難しい顔をした祐一と、のほほんと印刷機を見ている名雪。他に人はいない。
北川から渡されたファイルを確認もせずに印刷にかけたらこんなんが出てきて、この場に香里がいないのがせめてもの救いだった。
「ねえ祐一、この×ってなんの記号なの?」
「名雪は知らなくていい。きっとすぐに汁……知る時がくるから。つーかあの野郎、ナチュラルに間違えやがった」
「ふーん……ねえ、これって、二人でってことだよね?」
「ま、外れちゃいない」
「それ以外に意味があるの?」
「なくはない」
「はぐらかさないでよ〜」
「すまん、だけど今ここで全部説明するわけにはいかないんだ。こんな俺を許してくれ」
「そ、そんな謝られても困るよ……」
「家で教えるから」
「うん、期待してるよ」
家に帰るとさっそく、ちょっとえっちな教科書でその意味を教えた。
この日は夜通しで体力を使う予定なので、行為は控えた。
「移動は普段着でいいって伝えた方が良かったか……」
集合時間の三十分前、祐一は自室で時計と睨めっこをしながら、トランクス一丁で街を練り歩く親友の姿を思い描いていた。それがあまりにも夜の商店街に似合うものだから、どんどん想像が変な方向へいってしまう。
「大丈夫じゃないかな。北川くんって馬鹿じゃないから。どっちかって言ったら祐一のほうがアホっぽく見えるもん」
「おまえ最近、段々と毒舌になってきてないか?」
「え、そうみえる?」
「……たまにな」
「うー」
「さすがに寝間着で外を歩いたりはしないだろう、たぶん」
「途中で香里と合流するって言ってたよ」
「あ、なら大丈夫だ」
少なくとも水瀬家に辿り着くまでには見れる姿になっていると確約を得た。たとえ香里と合流するまでにどんな格好をしていようとも。
懸念材料がひとつ減り、これで後は客人を待つのみ。
時間ぴったりに現れた二人は、やはり普段着だった。
気になる点があるとすれば、しっかりと荷物を持っている香里に対し、北川が手ぶらであるというあたり。
「名雪の部屋は何度も入ったけど、相沢君の部屋は初めてね」
「あんま物色するなよ」
「ね、ベッドの下とか調べていい?」
「いいぞ」
「いいの?」
「別になんも隠してないし」
「残念」
本当に残念そうに肩を落として、用意された座布団に腰を下ろす香里。良くない使用目的があったらしい。
健常な男子なら誰でも持っている某ジャンルの雑誌は全て名雪のベッドの下にあるので、この日に限っては見つかる心配はない。それも、臨時の避難場所としてではなく、常時そうなのだった。それどころか、その手のアイテムの使用率は祐一よりも名雪の方が高かったりする。
「そうだ香里、今度こいつのベッドの下調べてやれよ。あ、やっぱりタンスの一番下の段の奥あたり」
「あいざわっ」
「じょうだんです。くれぐれも調べてはなりません」
「なんでゲーム調なのよ」
「まあいいじゃないか。で北川、香里の荷物と一緒にしてきたのか?」
「いや、着込んできた」
「は? パジャマを?」
「ああ。ちょっと暑いけど、それも我慢のうちだ」
「暑いというか厚いよな、それは。というかさ、そもそも今は夏だろ。名雪もなんか言ってくれ」
「むさいよね」
「……」
期待していたのはもうちょっと包み込んだ言い回しだったが、外れているわけでもないので流した。
ともかく、宴会である。
「ねえ名雪、ほんとに何も買ってこなくてよかったの?」
「うん、お母さんに言ったら、色々と分けてくれたから」
「あ、そうなんだ」
「わたしもまだ確認はしてないんだけど……祐一?」
家主から贈られてきた品々は、食品の管理を担当している祐一の手にある。
既にチェックして、全て把握していた。
「ん、ああ。別にふつーだぞ。スナックやらチョコやらツマミやら」
「む、そりゃ普通だな。酒はないのか?」(※未成年の飲酒は駄目です)
「あのね北川君、高校生の親が酒を出すわけないでしょ。まして名雪のお母さんなんだから」
「いやそれが……あったりするんだよな、酒」
「え、まぢで」
「うわ、香里もまぢなんて言うんだ……」
「相沢、ちょっとその袋みして」
酒に反応した北川が袋の中を覗くと、カクテルやら酎ハイやらがゴロゴロしていた。その辺のコンビニでも手に入るポピュラーな種類に限られているが、よく見るとワンカップや角瓶も混じっている。
「さすが水瀬の母上様。これだけあれば楽にイける」
「イくなよ」
「ねえ、名雪……あなたお酒飲めるの?」
「え、うん。わたしは飲めるけど」
「……相沢君は?」
「俺もまあ、人並みにはな」
「じゃあ北川君も?」
「最近はご無沙汰だったけど、割といける」
「そうなんだ……そうなの。へえ」
何故か急に落ち着きをなくした、しきりに何かを納得している様子。
その理由は一発でばれた。
「なるほど、美坂は初めてかー。親が厳しかったりしたのか?」
「ううん、そういうわけじゃないんだけど。ただ、なんだろ。普通に飲む機会がなくて」
「じゃ、今日はその分楽しまなくちゃな。一応俺は介抱役ってことであんまり飲まないから。特にこいつとか、飛ばすだけ飛ばして絶対トぶし」
「いやだな相沢。それじゃ俺がまるで悪酔いするみたいじゃないか」
「当たらずとも遠からずだろ?」
「へえ……」
付き合い始めてから一ヶ月以上経つが、お酒に関する話題が出たのはこれが初めてだった。
あたしの彼氏はお酒に弱い。頭の中で呟いて、登録しておく。
「わたしも、お酒飲むなんて久しぶりだよ」
「嘘つけ、俺がこっち来てから何度か飲んでたろ。まさか七年ぶりに再会した名雪が酒飲みになってたなんてなー。俺、ショック」
「あれはお母さんに付き合っただけだもん」
「へいへい」
「ま、ともかく飲もう相沢」
「飲むか」
「名雪って、どんなの飲むの?」
「わたしは、これかな」
「ストロベリーカクテル……なるほどね」
「あ、香里いま笑ったでしょ。ちゃんとイチゴ酎ハイも飲むもん」
「なるほどね」
「なんで笑うの〜」
「誉めてるから気にしないで」
「うー」
そんなこんなで、めいめいが好きな酒を手に取ったところで、北川が立ち上がる。左手に乾杯用の缶を、右手にマイク代わりの缶を持って、咳払いを挟んだらどっちがどっちだか分からなくなり、終いには二本同時に飲み始めた。
「一気! 一気! ってオイ、まだ乾杯してないぞ」
「うるせー、グフ、ごほがはァ。お前らも飲め、飲め、飲んでしまえっ」
「じゃ、いただきます」
「かんぱ〜い」
かくして、パジャマパーティもとい酒盛りは開始した。
参加者のアルコール歴を振り返ってみると、初体験の者、あまり飲まない者、初っ端から飲みまくる者、マイペースに飲む者、が集まっている。加えて、夜中にこうして肩を並べるのも初めて。学校や商店街とはまた違った、言ってみれば無礼講の空気が漂いつつあった。
そうなれば、一人に引っ張られてペースが上がるのは必然。
出来上がるまでに、一時間も必要としない。
「相沢、飲んでるか〜。おれは飲んでます」
「ああ、飲んでる。お前こそまだそれだけかよ」
「何をう。美坂、そこのワンカップ取って」
「これー? はい」
一人で総消費量の五割を担っている北川、マイペースにくぴくぴやっている名雪、恐る恐る口に運んでいる香里、の三人が、既にいい感じになりつつある。香里は体質的にアルコールには強くないようで、ほろ酔い気分から一歩先へ進んだあたりでうまく停滞していた。
ただ、それでも、酔っていることに変わりはない。
「相沢君、相沢君」
「なんだ香里」
「ね、折角の機会なんだから、学校とかで話せないような話しましょうよ」
「……たとえば」
「そうねぇ。いい女の条件とは何か? とか、どうかしら」
「そりゃ、人によってまちまちだろう」
「そんな教科書通りの答えじゃなくて、あたしは、相沢君と北川君の答えが聞きたいのっ」
「だそうだ北川」
適度に酔いながらも、ブレーキ役としての理性を失わない祐一。父親譲りなのか、アルコールには強い。
「俺の条件なんて決まってる。いいか、いい女であるための十五の条件、その一、美坂香里でなくてはならないっ」
「それ、一で終わっちゃうよー」
「む、いいところに気が付いたな水瀬! 酔ってるくせに」
「お互い様だと思うよ」
「北川君も。ありがたく受け取っておくけどね、もっとこう、女性一般に対する言及が欲しいところなのよ、ここは。そこんところよろしく、ね?」
「おーけー、じゃ真面目に。どうだ相沢」
「艶と媚の使い分け、だな」
「ストレート過ぎるんじゃない、それ」
「いや、こんなもんだ」
「……北川君は?」
「そうだなぁ。伸びとキレがあって、あとコクと深みがあって、それでいてまったりとまろやかで、スタミナがあってある程度硬い、ってとこ」
「逆にアバウト過ぎてわかんないわよ。女性っていうよりラーメンだし」
「え、投手の条件じゃないのか。いやぁ解説の美坂さん、北川投手の球にはなかなかコクがありますね、とか。たぶん、打たれると悪臭を放つ球」
「そんな女の人がいたら、わたしお友達になりたくないかも」
「なんだよ、お前らが言えって言ったんだろー」
「どうしてこう、期待しているのとかけ離れた回答しか寄越さないのよ二人ともっ」
「だって」
「なあ?」
「男は」
「女に」
「浪漫を」
「求めるからな!」
腕を組んで、ごくごく喉を鳴らす男連中。
「だからそのロマンってなんなのよー!!」
「そんなもん、言葉で説明できるもんじゃない!!」
「解説するのに二時間かかるからあとで!!」
まだまだ、宴は宵の口。
「相沢、そういや今日ってパジャマパーティだったよな。あれ、でもまだみんな普段着じゃないか」
「酔ってるくせにいいとこに気付いたな」
「おう。でも、水瀬がノーブラなのは来たときから気付いてるぞ」
「え、気付いてたのか」
「もち」
親指をビッと立てて、爽やかに。
その笑顔が胴体からスライドした、ように見えた。
逆側からもう一発叩き込まれていたので惨劇には至らなかったが。
「だめだよ、北川くん。香里の前でそういうことするとボコるよ」
「もっとデリカシーってもんを知るといいんじゃないかしら」
「あご、あごとほっぺた痛い」
「……自業自得だ」
「でもちょっと嬉しい」
「……正直すぎだ」
「というわけで、いったん風呂入ろう」
「だな。順番どうする?」
「わたしと香里は一緒に入るよ」
「あ、じゃあ俺ら先にいっとくか」
「おう」
セオリー通りなら女性が先に入るのだが、今回は男が先陣を切った。
早くパジャマ姿を見たいが一心で。
それと、戯れ合う女体をどーちゃらこーちゃら。
「入って来た」
「あー、いい湯だった」
「わ、早いね二人とも」
「……ねえ、いくらなんでも早過ぎない?」
「そうか? そうでもないだろ」
「まだ五分しか経ってないんだけど」
「男の風呂は早いんだ」
「頭洗って体洗って浴槽浸かってはい終わり、だからな」
「着替えだけして戻ってきたんじゃない……の割には湯気出てるし」
「なんだよ香里、ひょっとして覗こうとか考えてたのか?」
「きゃー、美坂のえっちー」
「うん、そうだけど……残念。じゃ名雪、行きましょうか」
「ちょっと長くなるから待っててね」
つかつかと部屋を出て行く二人。
残された二人は呆然とドアを見つめるしかない。
「なあ……相沢」
「ああ」
「いま美坂、覗く気だった、って言ったのか」
「だよな」
「……」
「……」
「……もっと長く入ってれば良かったー!」
「くそ、まさかそうくるとは……酔うとこうなるのか、香里は!」
悔やんでも悔やみきれない二人の声だけが部屋に響いた。
髪から立ち昇る湯気が、余計に体温を奪っていった。
残念無念。
男二人の飲み会なんて見たくないので風呂サイドへ移ります。
「名雪ってやっぱり大きいわよねー」
「わ、香里ダメだってば、そんなふうに触ったら」
「いいじゃないのよ、減るもんじゃないし? 逆に増えるかもしれないし」
「それは祐一にやってもらうから……あ」
「へえー、ほおー。そうなんだぁ」
うっかり口の滑った名雪に、うっすらと頬に赤みが差している香里。湯煎に浸かって血行が良くなったところで、またアルコールが回ってきた。
「やっぱりその……してるんだ?」
「それは、うん、してるよ」
「そうよね」
「その、香里たちは……まだ?」
「まだって言うか……」
「もう、しちゃった?」
「もうって言うか……」
「どっちなの〜」
「っていうか聞いてよ名雪! この前、二人でホテル行ったんだけど!」
「う、うん……」
唐突に逆ギレして話し始めた香里に圧倒されながらも、話を合わせて聞きに入る。
何せ内容が内容だった。
「もうね、最悪だったの!」
「えっと、なにが?」
「名雪、ラブホ利用したことないの?」
「え、あるよ。あるけど、そんなに設備悪いところだったの?」
「違う、違うの! それ以前よ。まず入室する時だったんだけど、カウンターで北川君、なんて言ったと思う?」
「えっと……俺たちどんな関係に見えますか、とか、そのへん?」
「それならまだ全然かわいかったのに……よりにもよって「学割ききますか?」よ? せっかく私服で年齢も分からないようにしてたのに、自分から素性ばらしてどうするって話よ! ラブホで学割要求する人間なんて聞いたことも見たこともないわ」
「そ、それで学割はきいたの?」
「名雪まで何言ってるのよ、きくわけないじゃないそんなの! だいいち、ああいう施設は高校生には使わせないってルールがあるんだから。しかもそれだけならいいのに、五分も粘ったのよ? 受付のお姉さんも困り顔で、たぶん、引き際を誤ってたらいかつい男の人が来てどうにかされてたわ」
「それで、その、何事もなく入れたんだよね?」
「あーまあ、そうね、うん、入れるには、入れたけど」
「じゃ、しちゃった?」
「それがね、北川君も入るの初めてだったみたいで」
「それはいいことだと思うよ」
「うん、で、しばらく部屋自体を楽しんでたって感じだったのよ。ルームサービスっていうの? 注文して運んできてもらうの。そのメニューを色々見たり、BGMをいじったり、テレビつけたり」
「あ、わたしと祐一もそんな感じだったよ。うお、ここはどこの高級ホテルだ!? って祐一も驚いてたから」
「普通はそうよね。で、まあ、そのうちにそれっぽい雰囲気になってくるじゃない」
「それっぽい?」
「だからその、スるような雰囲気よ」
「うん、それならなるよ」
「それでね、彼が先にシャワー浴びて、次にあたしが浴びるわよね」
「シャワールームまで入って来た、とか?」
「じゃなくて。念入りに洗ってあたしが出ると、」
「出ると?」
「有料チャンネル見て、アレしてたのよ」
「……え、えーと、それってどういうこと?」
「テレビのチャンネルにアダルトなのがあるのは知ってるわよね」
「うん」
「つまり、彼、あたしがシャワー浴びてる間に、それを見てたの」
「うん」
「で、それで、一人でシてたの」
「……一人で?」
「そ。信じられる? あたしもバスタオル一枚で混乱しちゃって、何してるのって訊いたら、待ってるうちに我慢できなくなっちった、とか笑顔で答えるし」
「我慢できなくなっちゃったら、仕方ない……んじゃないかな」
「仕方ないとかそういう問題じゃないわよ! 考えてもみてよ、付き合ってる者同士が初めてホテルに来て、片方がシャワー浴びてるのよ? そりゃ興奮しない方がおかしいっていうかしなかったら不能だろうけど、だからってこれから二人で事に及ぶのに、一人でスるなんて。何考えてるのって言いたいわよ」
「きっと、何も考えてないよ」
「だから余計に腹立たしいの。しかも彼、そのあと普通に、じゃ、しようか、とかえらくキザっぽくなってたし」
「なんか言葉だけ聞いてると思いっきりギャグだね」
「あたしもそんな気がしてきたわ」
「それで、結局のところはしたの?」
「……した」
「え、したんだ!」
「したけど、その、内容については聞かないで……」
「……まさか北川君……」
「いやあのね、別にマニアックなことをさせられたとか、そういうことじゃなくて。ただ単に、どう言葉にしたらいいか分からなくって」
「あ、そうだよね。初めてだったんだもんね。あんまり覚えてないのもわかるよ」
「ううん、鮮明に記憶してるわよ。っていうか、割と、思ったより良かったのは確実なんだけど」
「あ、それいいな〜。わたし、初めてのときはすごく痛かったんだよ」
「うん、でもね、問題がひとつあるのよ」
「問題って?」
「……してないのよ」
「え? してない? したんじゃなかったの?」
「シたけど、してないのよ」
「わからないよ〜」
「だからその……キスを、してないの」
「え、え、え? それって行為の最中にしなかったってこと?」
「そう、」
「でも、そういうこともあるんじゃないかな」
「そうじゃなくて!」
「わ、びっくりした」
「ご、ごめん。でもね、つまりね」
「うん」
「……まだ、一度もしてないのよ」
「……え?」
「付き合い始めてから、まだたった一度もキスしてないのよ」
「ホテルの中だけじゃなくて、それ以外でも?」
「うん。抱き合ったりはしたけど、キスはしてないわ」
「ホテルまでいって、したのに?」
「そう。シたのに、してないの。ねえ名雪、これどう思う? やっぱり順番逆っていうかありえないわよね? そりゃ確かにずっと受身だったあたしも悪いけど、してくれたっていいと思わない? これって男の方が気をつける……って言い方も変だけど、そういうのって普通、意識してくれるものよね?」
「え、えーとね、それ、わたしと祐一も……」
「ああ、もう、ファーストキスが初体験の後です、なんてどう説明すればいいのよ。詳しく聞かせないと売りでもしてるみたいに聞こえちゃうし」
「そ、そのね。わたしも、なんだけど……聞こえてない?」
「でも、行為自体が不満だったわけじゃなくて、あたしも良かったし、彼も良かったから、余計に言い出しづらくって。なんかあっちは忘れてるみたいで……というかとっくにした気でいるのかも……うぃ」
「……あれ」
「もうほんと、何が気に入らないだろって言われると、結局そこに行き着いちゃうわけだけど。つまりさ、あたしにキスしたくないのかな、とか、そういうことまで考えちゃうあたしが居るのよ、あたしの中に! そんな人じゃないってわかってるけど……ヒック」
「ねえ香里、さっきから後ろに隠してるそれ、なにかな」
「え、熱燗だけど。名雪もやる?」
「そんなのどこにあったの〜!」
「ここに入る直前に、秋子さんが渡してくれたの。がんばってね、って」
「お母さん……何をがんばれっていうんだろ」
「うん、で、聞いて名雪」
「かおり、目が据わってる……」
「今頃気付いたって遅いわ」
グログロした女同士の会話は聞きたくないので男サイドに戻ります。
「……なあ北川」
「なんだ相沢」
「おまえもうチェリー卒業してたんだな」
「おう、してた」
「正直、まさか一ヶ月ちょいで到達するとは思わなんだ」
「あの日相沢に言ってもらったからな。俺たちは大丈夫だって。それで自信がついたんだ」
「そうか、それなら俺も言った甲斐があった」
「ありがとな」
「いいよ。でもさ」
「ああ」
「まだキスしてねえんだな」
「そうだった」
「そうだったって。普通するだろ」
「いや、ついっていうか、俺も驚きなんだ」
「今までしてなくたって、ホテルならするだろ」
「いや、ほんとびっくりだ。忘れてた」
「……素で?」
「素で」
「おまえってキスにはこだわりない方だっけ」
「いんや、ファーストまだだし、かなりこだわってたような気がする」
「だよな。初めては好きな子と、どっちかの自宅か放課後の学校で、って豪語してたもんな。今思うと、あれ高三の男子にしては恥ずかしすぎる主張だから」
「俺も、今になって気付いた」
「で、なんでそれで忘れちまうんだよ」
「いや、付き合い始めてからはどうやって本番しようか、ばかり考えていたから」
「それでキスのことを忘れてた、と」
「ああ。ほんとにうっかり」
「……アホだこいつ」
「失礼な! 俺は確かに馬鹿だけど、そこまでアホじゃないからな」
「お前みたいなのをうつけ者って言うんだ」
「なんだよ、そういう相沢だってファーストキスより初体験が先だったくせに」
「いや俺、どっちも初めてじゃなかったし」
「……え、そうなのか!」
「……名雪には秘密で」
「初めてだったって言ってあるのか」
「いや、なんとも言ってないけど、念のため」
「了解した」
ちなみに、二人が会話しているのは、風呂場の窓の真下。湿気を逃がすための換気扇もあるが、気温を下げるために夏は開けっ放しにされていることが多い水瀬家の風呂の窓。そこで話していた。
風呂から流れてくる空気の量が変わっていることに気付き、顔を上げる。
目が合った。
北川と香里、名雪と祐一の目が。
蛇に睨まれた蛙の子は蛙。
にっこり笑った香里と名雪。
笑い返した北川と祐一。
生まれたままの姿の彼女と微笑を交わす、この一瞬。憂うことなんてこれっぽっちもないはずなのに、頬は引きつるわ、脂汗と冷や汗は止まらないわ。
夏なのに、身体の芯から震えがきた。
三十分後。
「痛い……」
「喋るなあいざゎ……俺も痛い」
「血が……」
「俺もまだ止まってない……鉄の味が……」
二人とも、初体験だった。
彼女に顔面を正拳突きされるという、この世の男の何%が体験しているかもわからない貴重な体験だった。
殴る時まで笑顔だった彼女を思い出して、首の後ろの方からまた恐怖心が湧いてくる。
祐一の部屋には、男が。名雪の部屋には、女が。綺麗に分断された構図はこの上なく分かりやすい。お互いの痛みを確認する以外に口にする言葉はなく、散らかった食べかすと酒が放つ独特の匂いが、今はただ救いになっていた。
「これ、絶対腫れるよな……」
「もう、言うな……」
「……ああ」
「寝よ……」
「おやすみ……」
「ご武運を……」
ぽつりぽつりと言葉を交わして眠りに着く二人。
彼女ができてから今日までで、一番寝苦しい夜になった。
○
○
○
□たらこ唇の勇者
この街で夕陽の映える場所、ふたつのうちのひとつ。向かい合う二人の影は刻一刻と長さを増し、代わりにその色が周囲に溶け込んでいく。
この色が完全に見えなくなってしまったら、自分たちも終わってしまうのだろうか。頭の片隅でそんなことを考えながら、男は一歩前に出た。思考の大部分を占めているのは、まさにその逆だった。しあわせな未来。
「なあ、美坂」
もう一歩。前に出て、俯いて表情の見えない彼女との距離を縮める。
風は思いのほか強い。制服のスカートがはためくたびに下半身に目が行ってしまう自分を必死に押さえ付けて、こっちを見てないと分かっていながら、その綺麗な横顔から視線を動かさない。
「まだ、怒ってるのか」
問いかけても、返ってくるのは沈黙だけ。どんな罵りの言葉でもいいから、せめて放った言葉に反応して欲しい。それすらも叶わぬまま、時間だけが過ぎていく。耳を澄ますと、野球部とカラスの二重奏にヒグラシの大合唱が突っ走って、どこまでも夏を感じさせてくれる。その風流を解する余裕もなく、聞き流すほどの余裕もなく。追い詰められた逃亡犯に、とうとう逃げ場は用意されない。
「美坂……」
ついには手で触れられる距離まで縮めた。これで払いのけられたら本当に終わるかもしれない、と妙にリアルに感じながら腕を伸ばす。
香里は、逃げも払いもしなかった。ただされるがままに、引き寄せられてその胸に収まった。
拒まれなかったことに安堵しながらも、まずその身体の震えが気になって仕方ない。
体調が悪いのかどうか訊こうと口を開いた、ちょうどそのときだった。
「っ……っく、あは、あっはははははははは!!」
「……え」
「あはっ! あは、はははははは!! あーもう、おかしい!!」
「なに、いきなりどうしたんだ美坂。大丈夫か」
「全然平気よ。っていうか……っぶ。く、うくくくく」
「なんか変なもん食ったのかよ」
「ああ、いや、もうっ、お願いだからその顔で喋らないで」
「ひどっ! 俺はいつもこの顔なのに」
「あのねえ、今日一度でも鏡みた?」
「いや」
「……はい」
お腹を押さえて笑を堪えながら、はてな顔の北川に手鏡を渡す。
それを覗いたら、映ったものの酷さに口があんぐりを開いた。
「なんじゃこら、この顔。ていうか唇」
「150%増量中(当社比)って感じ? 明日からダボハゼって呼ぼうかな」
「えらくまあ、大きくなりおって……おうおう、餌が欲しいか」
「っぷ、やめてよ、笑わせるの。もう、今日一日中、笑い堪えるの大変で大変で仕方なかったんだから」
「感覚なくなってて気付かなかった……とゆーか、なんで誰も教えてくれなかったんだ。相沢と水瀬は休んでるし」
「名雪と相沢君はおうちで色々スることがあるみたいよ。それにその顔、絶対、訊きづらいと思うし」
「って俺、今日ずっとこの顔で生活してたのか……」
「今気付いたっていうのがものすごく笑えるんだけど……さっきなんか酷かったわよ。その顔でシリアスな空気作ろうとしてるんだもの」
「うわ、なんか、自分でも笑えてきそうだな」
「ほんと」
「かっこ悪い」
「うん」
「なんか、駄目だな」
「うん」
「そこは否定してくれると嬉しい、ってか否定してくれないと悲しい」
「だってほんとに駄目だもの」
「痛い、心臓が痛いす」
「馬鹿」
かなり本気で凹んで溜息を吐いた北川の腕を、香里がそっと解いた。
面白いくらい八の字になった眉毛を指でなぞって、そのまま唇に触れる。
空いた手は頭の後ろに回した。
「……みさか?」
「こうすれば、もう、忘れないでしょ」
頭の動きに合わせてぷるるんと揺れるその唇に、そっと自分の唇を重ねる。思ったより熱いんだな、と思った。相手が目を閉じているのに自分だけ開けているのはとずるいような気がして、一瞬だけ閉じた。
唇を離すと同時に、体も離す。視線だけは離さない。そのせいで、恥ずかしくて仕方なくなってしまった。
照れ隠しに背を向けて歩きながら、一度だけ振り返って言った。
「今回のことは、これでチャラにしてあげるわ」
「いいのか?」
「いいも何もね」
くるりとターンして、制服の裾が舞う。
あ、これちょっといいポーズかも、とか思いながら。
「一応あたし、あなたに惚れているんだから」
右手で銃を作って、撃ち抜く仕草。弾丸はウィンクという名の視線。
気が付いたら抱きしめてました、という彼の胸に包まれて、100点に当たったと、確信した。
感想
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