スポーツの秋とか、芸術の秋とか、読書の秋とか。
 4つの季節の中でも特に秋には、俺が知ってるだけでも色々な名前というか称号がある。くそ暑かった夏も終わって涼しくなる今頃は何かを始めるにはうってつけだって事なんだろう、多分。

 
「わーい、たいやき〜♪ いただきまーす!」
 ただまあ……中には秋に限らず、年がら年中そうじゃないかってのもあるけど。俺の横でさっき買ったばかりのたいやきの袋を嬉しそうに抱きしめて、あゆがにこにこしていた。
 そして、はぐはぐと早速頭から食いついているあゆ。
「ん? 祐一君ボクの方じっと見てどうしたの?」
 じっとあゆの顔を見ていた俺に気が付いて、背の低いあゆが俺を見上げるように声をかけてくる。
「いや、たいやき食ってる時のあゆの顔見てると、お前って幸せな奴だなぁ……としみじみ思ってな」
「うぐぅ……もしかして祐一君、ボクが子供っぽいって言ってる?」 
「安心しろ。もしかしなくてもそう言ってる」
 俺の切り返しに、あゆはたいやきをくわえたままで『うぐぅ』とうめいて下を向いた。まあ、良いか悪いかはさておいて、そういう所も含めて子供っぽいって事なんだが。
 そう思ってる間にあゆはぷいっと横を向いて拗ねていた。 
「おいおい。そんなんで拗ねるなって」
「拗ねてないもん。横の景色が見たかったんだもん」
 パクパクとたいやきを一気に口に入れて頬をふくらましながら、全然説得力のない反論があゆから帰って来る。
「それより、祐一君もたいやき早く食べないと冷めちゃうよ」 
 とりあえずは気を使ってくれてるのか、眉を寄せながら俺にそう言ってまた横を向くあゆ。
 一気にたいやきを口に入れたからか、あんが口にしっかり付いてるあたりが何とも子供っぽい。が、それを言うと本格的に拗ねるからやめておくとして……さて、どうしたもんか。素直に謝るのが一番良い気はするが、たまには普段と違う方法でいきたいもんだ。 
 考える事しばし……唐突に俺の脳裏に、自分で言うのもなんだが相当ダメな案が浮かんだ。


 ちょっと待て。本当にそんなんでいいのか、俺。
 効果はそりゃ絶対にあるだろうけど、羞恥心って単語はどうした、俺っ。
 いくら恋人同士だって言ってもだ、人通りのある商店街でそれをやるのか、俺!


 3回ほど自問自答していた時、不意に俺の中の悪魔が囁いた……気がした。
『別に今さら人の目なんて気にするなよ。初めての時だって、外で堂々とやったんだから。あゆの奴も昔言ってただろ、一度目も二度目も一緒だ』 
 心の中の悪魔に俺は何も言い返せず……結局きっちりと俺は自分の欲望に負けた。 
 おもむろに俺はあゆの側に近づく。
「……どうしたの?」
 拗ねた顔のまんまで、俺の方を見るあゆ。
 心の中でまっとうな俺が叫んでいる。よせ相沢祐一、今ならまだ戻れるぞと。
 しかし、俺はその声を無視した。
「いや、俺もたいやき食おうと思ってな」
「え? でも祐一君も手にたいやき持ってるじゃな……うぐぅ!」
 いや……まあ流石に俺にだって人としての羞恥心くらいある……つもりだ。
 ただ、人前でこういう事をやる後ろめたさな緊張感を味わってみたいって好奇心も……まあ、ほんのちょっぴりはある訳で。平たく言えば一度文字通りの甘いキスをやってみたかったんだ。

 唇を合わせたあゆの反応はというと、予想通りというか見事に銅像になっていた。
 もし人に『お前バカだろ?』と今聞かれたら、俺は確実に即答できる。
 絶対にバカだ。間違いない。
「ゆ、ゆゆ、ゆゆゆ。ゆーいちくんっ!」
「な、なんだあゆ……」
 硬直が解けると共に一気に慌て出すあゆの反応を見て、今さらながらに俺も自覚する。
 やばいくらいに、すっげー恥ずかしい。
「ぼ、ボク…………うぐぅ」
 何か言おうとしたらしいが、結局何も言えなくなったのか顔を真っ赤にしてあゆは俯いた。
 つーか、自分でやっておいてなんだが俺も恥ずかしさで顔を上げられなかった。何言ってるかは聞こえないが、周りのおばちゃん達のひそひそ声がかなり痛い。
「あゆ、と、とりあえず逃げるぞ!」
「わっ! きゅ、急に引っ張らないで――!」
 あゆの手を掴んで、俺は脱兎のごとく商店街を疾走する。食い逃げをしなくなったあゆと、まさかまた商店街を全力疾走する事になるとは思わなかった。
 今回だけは確実に俺のせいなんだが。


 そうして雑木林の方まで全力で走ってきた俺たちは、ようやく足を止める。
「うぐぅ……びっくりした……」
「いや、悪いあゆ。まさか俺もあんなに恥ずかしいとは思わなかった……」
「う、ううんっ! ぼ、ボクはその、嬉しかったから良いんだけど……祐一君がああいう事するって、ボク思わなかったらその」 
 俺の言葉に、あゆは首をぶんぶんと横に振った。が……あゆ。お前も相当に恥ずかしいこと言ってるぞ。
 それからお互いに一瞬黙る。が……黙っていると、より恥ずかしくて仕方が無くてとりあえず俺は口を開いていた。こういう平静じゃない時に、まともな言葉なんかが出る訳も無いってのに。
「べ、別に俺だってあゆ以外でこんな事……あ」
 ブレーキの壊れた車で無理に走ろうとするときっとこうなるんだろう。俺はさらに自分から電柱に突っ込んだ気がした。
 もう墓穴なんてもんじゃない、墓穴の下にさらに墓穴掘ってどうするんだ俺はー!
「い、いいかあゆ! これはその……そうだ! 医学的ショック療法の実験という奴だ。より強い衝撃を与えてそれより前の事を忘れさせ……」
 無駄と知りつつ、それでも何とかごまかす俺だが……あゆの表情見ると案の定効果ゼロ。
「…………えへへ……ありがと」 
 そして、最後にトドメとばかりのあゆの台詞。しかもはにかんだような笑顔まで付いていた。
 二度とこんなバカな真似はやるまい、恥ずかしすぎる。そう俺は心に固く誓った。

      *              *                *

 あゆが退院した春からこっち、色々な事があった。定期的に検査で病院に通わなければいかない事、あゆの親戚が相当に遠くに住んでいてこの街から離れなければいけなかった事。 
 俺と離れるのは絶対に嫌だと言って……あゆが泣いた日の事。
 全ての意見を考えて話し合った上で、結局一時的に水瀬家に居候することで話はまとまった訳なんだが、本気でいろんな事があったと思う。
 ふと気が付いたら暑い夏はあっという間に過ぎ去って秋になっていた。


 あゆに言わせると秋はたいやきがこれからドンドンおいしくなってくる季節だそうだが。
 そんな色々と厄介な問題があった時でも、あゆと俺は一緒に出かけて真夏でもたいやきを売ってる店を強引に探しては、食いに行っていた。
『祐一君とこうしてるのが一番楽しいよ、やっぱり。これだけは昔も今も……かな』
 そんな頃、あゆから聞いたその言葉は今でも特に頭に強く残っている。
 7年で色々なものが変わった。時間は流れているんだから、それは当然だ。ただ、そんな中で変わらない事も少しはある。そんな変わらない小さな事に暖かさを感じるのは。

 ……きっと幸せな事なんだろう。


秋の枕詞と言えば?

  


 ……おほん。まあ、それはさておくとしてだ。
 秋に入ってからもやっぱり、さっきみたいな感じでバカ騒ぎをやりつつ、しょっちゅうあゆはたいやきを食っていた。
 俺の中で『あゆ=うぐぅとたいやき』という公式は、もうしっかり出来上がっている。
 そんな折、いい加減そろそろ寒くなってきた10月も半ばに差し掛かった今日。
「おーい、あゆ。たいやき買ってきたぞ、下に降りてこーい」
「…………えっとボク今日は、いらないよ」
 学校から帰って来た俺が二階のあゆにそう声をかけた時、あゆからそんな返事が返ってくるなんて、それこそ俺は夢にも思わなかった訳で。


【秋の枕詞と言えば?】


 一瞬、俺は自分の耳を疑う。
 あゆが? たいやきを? 要らない!?
 ドドドドドド! 
 あゆの台詞を頭の中で理解してすぐ、俺は猛スピードで階段を駆け上がる。
「どうした、あゆ! よっぽど体の調子でも悪いのか、すぐ救急車呼んだほうがいいか!?」
 ドアを開けて開口一番、俺はあゆにそう尋ねた。あゆがたいやきを食いたくない理由なんぞ、俺にはその位しか考えられない。なんてこった、あゆの体の調子が悪いなんて様子は全然無かったってのに。
 しかし、あゆの反応は全く違った。
「うぐぅ。祐一君、ボクをどういう目で見てるの……。ボク元気だよ。ただ……今日はボクちょっとたいやきはいいかな……って」
 困り顔で俺を見上げるあゆ。
 しかし、その言葉を頭っから信じる訳にはもちろんいかない。
 真っ先に俺はあゆの額に手を乗せる。『わっ』と小さく声を上げるあゆだったが、それ以上バタバタ動いたりはしなかった。
 熱は……無いな。
「うぐぅ、なんともないって言ってるのに〜!」
 困ったような顔で、俺に抗議するあゆ。
 じっくりとあゆの顔を見ていても、確かに体の調子が悪いようには見えないが……。
 ん。待てよ。
「あゆ。ひょっとすると、もしかしてもう自分で買いに行って目一杯食った後か?」
 考えてみたら、あゆだって小遣いくらい貰っている。
 まあ『小遣い』と書いてたいやき代とあゆの場合は読むんだが……。
「え? ……あ、うん」
 一瞬の間をおいて、あゆは俺の質問に頷く。はぁ……。まあ、そんな事だろうと思ったけどな。
 我ながら相当バタバタ慌てたのが今さらだが恥ずかしい。くっそ。
「お前なあ、夕飯も近いのにそんなに食うなよ。まあ、後でレンジで暖めなおしてから食っとけ」
「……うん」
 全くしょうがないな、と言ってあゆの頭をポンポンと叩いてから俺はあゆの部屋を出る。
 そんなこんなで俺が納得した後、腹が一杯だといって少しだけであゆが夕飯を終わらせて今日は終わった。しょうがない奴だなぁ……と思いながら。



 しかし、次の日の朝に流石に俺もあゆの異変に気がついた。
「ごちそうさまでした」
「あら……? あゆちゃん、朝ごはんもそれだけでいいの?」
「う、うん」
 不思議そうに尋ねる秋子さん。その言葉に、俺が箸を止めてあゆの茶碗を見ると……相当に残っていた。基本的にご飯を残すなんて事はほとんどやらないあゆが、である。 
「あゆちゃん……体の調子、悪いの?」
 俺が何か言うより早く、横の名雪が心配そうに声をかける。
「えっ!? な、なんでもないよ、ボク元気だよっ!」
 名雪の言葉にあゆは首を横に振っている……が、何か隠してそうなのは明白だ。
 俺は席を立って、昨日同様あゆの頭に手をのせる……が、やっぱり熱は無い。顔色も普段どおりだ。何かを無理してる様子も無い。
「なんとも……ないなぁ」
「うぐぅ、昨日からそう言ってるのに……」
 じゃあ何故だ? 食事の量こんなに減らす意味なんか無いだろうに。
 そう思ったとき、あゆの腹から大きな音が鳴った。『ぐぅ〜♪』と。
「あ、あはは……」
 誤魔化したように笑うあゆ。
 ……つまり腹は減ってるわけだ、あゆは。でも量を減らそうとする。そして、最近は特にだがあゆはたいやきをしょっちゅう食っていた。
 その流れから導き出される結論はただ一つ。
「……あー、学校行くか名雪」
「う、うん。そうだね」
 タネが割れたら何てことは無い。
 心配する気持ちが一気に吹っ飛んで、俺はいってきますと伝えて学校に向かった。
 とりあえず、俺には隠しておきたいんだろうからダイエットという単語はあえて出さずに。



「……と言うわけでさ。いやー、心配して損した損した」
 昼飯時、いつもの美坂チームで学食に向かった俺は開口一番今朝の事を話す。
「へーへー。結局相沢のノロケ話な」 
 対面に座っている北川は、不機嫌そうに俺の話を聞いている。ちなみに現在も彼女はいないらしい。
 ……ん? しかし、なんでこれがノロケ話になるんだ?
「おいおい。俺はただ、あゆがたいやきの食いすぎで少し太ったらしいって話しただけだぞ」
 俺の普通の疑問。しかし、何故か北川はこける。香里や名雪はため息。……何故に!?
「あのなー相沢。前々からもしかしたらと思ってたんだが……お前、恋人同士の話をこうやって俺達に話すだけで、相当にノロケになってるって自覚、ないだろ」
 頭を掻いて北川は軽く肩をすくめる。
 …………あ。
 た、確かにそうだ。俺、あゆとくっついてから舞い上がりすぎなのか!?
 その時香里も口を挟む。
「それにねぇ。あゆちゃんがダイエットのこと相沢君に内緒にしてた理由を相沢君の話聞きながら想像したら、それだけでもう十分にお腹一杯よ」
 香里はそれだけ言って苦笑した。
 げ……そう言われたら確かに、相当恥ずかしい話をしている気がする。
「おほん。いや悪い、つまらん話をして」
「あら。少なくともあたしと北川君はつまらないと思ってないわよ。むしろ楽しんでるかしら。恋愛の秋なんて言葉があるけれど、相沢君の場合は秋の枕詞として不適当ね」
 香里はさっきの苦笑とは違って、クスクスと笑う。
 ……あゆの食欲と同じにされますか、香里ぃ!
「おう。ノロケに気が付いてない相沢を見ているだけで十分面白かったからな。しかし、相沢もそれに気がついたしなー、俺は今日から聞き手としての第二段階に移行するぞ」
「……一応尋ねるんだがが、第二段階って何するんだ?」
 聞きたくないが今後を考えると聞かざるをえないんで、北川に俺は尋ねる。
「当然お前を全力で冷やかすに決まって……ああ、俺のエビフライをっ!」
「やかましい、黙ってて楽しんでた分の税金みたいなもんだ」
 もしゃもしゃと戦利品を食う俺。
「あ、月宮じゃないかあれ?」
 その時、不意に北川が俺の後ろを指差す。なに? なんであゆが学校なんかに……と、後ろをふりむこうとした一瞬の隙だった。 
「はっはっは。油断大敵だぜ」
 慌ててテーブルに目を落とすと、俺の注文がカツカレーである事を証明する最後の一切れが綺麗に消え去り、ただのカレーに成り下がっていた。
「おのれ、謀ったな北川!」
「ふふふ。みつからなければどうという事はないのだよ、相沢」
 北川とバカをやりつつ、香里が呆れたようにそれを眺め、名雪が楽しそうだねと笑う。今日も、そんないつも通りの昼飯だった。


 そして学校からの帰り道。名雪も夏で部活を引退していて、とりあえず今は一緒に帰っている。
「まあダイエット中らしいし、今日はたいやきを買って帰らない方がいいな」
 恐らく昨日のたいやきもまだ冷蔵庫の中だろうし……まあ、あゆが我慢できればだけどな。
 その時、横にいた名雪は俺の方を見て笑った。
「祐一はあゆちゃんが、本当に大事なんだね〜」
「……なんだよ名雪、急に」
「だって。祐一、今日は朝からあゆちゃんの事ずっと気にしてるなー、って思って」
 ぐ……考えてみたら、確かに。名雪の突っ込みに何も言い返せない俺。
「別に大した事じゃないぞ。ただな。普段のあゆだったらもっと『うぐぅ〜! どうしよう、祐一君ボク太っちゃったよ〜!!』くらい言うもんだと思ってたから、意外だっただけだ」
 あゆは相当に甘い物(というか、たいやき)を食っているし、太ってダイエットする事になったっておかしくはない。
 ただ、あゆの性格なら俺に何か一言くらいはある気がしていたから、俺に隠そうとしたのがあゆっぽくなくてちょっと驚いただけだ。
 けれど名雪は、俺の言葉に何故か一つためいき。
「祐一わかってない……。あゆちゃんだって女の子だし、成長してるんだよ。祐一には隠したくなる気持ち、わたしには凄く分かるな」
 
 ……それは名雪に言われるまでもなく何となく分かっていた事だ。時間は流れている、半年前のあゆならそんな反応だったかもしれないが、あゆだっていつまでも子供っぽいままじゃないだろう。
 別に俺も、それが悪いなんて思ってない。
 ああ、あゆも段々と成長して少しづつ変わっていくんだな。ただ、そう思っただけだ。
「そうだなぁ。考えてみたら来年はあゆも18歳か。タバコだって吸える年齢だしな」
「祐一……タバコやお酒は『はたち』になってからだよ……」

 

「えっと。ごちそうさまでした……」
 そうして帰ってきて夕食。いつも通りに明るい食卓だが、今朝同様に、いつもと一つだけ違う点がある。朝よりはちょっと食べる量は増えたが、やっぱりあゆは食事を残した。
 秋子さんも、少し浮かない顔をしている。
「秋子さん……ボク……うぐぅ。ごめんなさい」
「私の事は良いのよ。ただね、私にも経験があるんだけど、ご飯の量を減らすのはあまり体に良くない事だから。やりすぎにはならないようにね」
 秋子さんの言葉に、あゆは困り顔のまま小さく「うん」とだけ言った。そうして、俺の方をちらっと見ると恥ずかしそうにもじもじしつつ、そのままパタパタとリビングの方に向かう。
 ……なんか、ここ数日であゆが普通の女の子になったみたいに見えた。いや、別にそれは良いんだけれどな。
 その時だった。
「祐一さん、少しいいかしら?」
「あ、はい。大丈夫ですけれど……」
 秋子さんに呼び止められて、俺は食卓の自分の椅子に座りなおす。
「あゆちゃんの事なんだけど……。私ももちろんそうするけれど、祐一さんもあゆちゃんを注意して見てあげてくれないかしら。危なくなりそうだったら、私からあゆちゃんに言って聞かせるけれど……」
「ええ……そうします。あゆって見ていて相当危なっかしい奴ですし、無理に背伸びしてやり過ぎないかどうか心配ですから」
 それは素直な俺の気持ち。秋子さんには隠しても仕方が無いから、正直に言った。
「お願いしますね」
「分かりました。……でも、秋子さんにもダイエットの経験なんかあったんですか?」
「ふふ。私も昔は結構無茶な事をしたんですよ、若かったですから。だから、あゆちゃんの頑張りを無理に止めるのもかわいそうには思うんです」
 そう言う秋子さんの言葉は子供の事を心配して、でも干渉し過ぎないようにする……母親の言葉そのものだった。
 今も若いですよ、秋子さん……などと言って俺と秋子さんはくすくすと笑いあう。
 最後に秋子さんは一つだけ付け加えた。
「それから今月の終わりのあゆちゃんの定期検診ですけれど、今日のお昼に病院に電話して明日の午後に早めました。あゆちゃんにも伝えてありますので、祐一さんの用事が開いてたら良かったら付き添ってあげてくださいね」
 何気ない感じの秋子さんの一言。その言葉の意味を考えて、少し背筋が寒くなる。
「念の為ですよ。きっと大丈夫だと思いますけれど」
「わかりました、明日は土曜ですしすぐに帰ってきます」
 そうして、俺は自分の部屋に戻った。


 …………それから部屋で本を適当にめくる。受験勉強もとりあえずやって見るが、集中できないで10分で放り投げる。ベットに横になってみたが、全然眠気も無い。
 何分そうやってぼーっとしたのだろうか。結局俺は『暇だから』という事にして、あゆの部屋に向かった。

 コンコン。
「あゆ、入るぞー」
『あ。うん、いいよ〜』
 ドアの向こうからあゆの声が聞こえて、俺はドアを開ける。
「祐一君、どうしたの? もしかして暇だったのかな?」
「おう。たっぷり目一杯暇だぞ。そんな訳であゆでもからかって遊ぼうと思ってな」
「うぐぅ……」
 話をしてても、いつもと変わらないあゆだ。別にどこがおかしいって訳でもない。……ふぅ。
「さてと。あゆ、お前俺に隠してる事はないか?」
 腹の探りあいなんて変化球は俺には合わないし、そもそも、あゆと俺が腹の探りあいなんかするのは変だ。結局俺は一球目から直球で入った。
「え? べ、べべ、別にボク、何も祐一君に隠してなんかないよっ」
 目が泳ぐ。ついでにどもる。手を胸の前でいったりきたりさせる。
 ……嘘ついてる時のあゆ特有の反応が全部でていて、それでも隠そうと頑張るあゆの様子に可愛いと思う俺は、多分恋人がかかる病気としては相当に末期だと思う……って、そうじゃないだろ、俺!
「まあ、俺としては今朝も言ったが、見当はついてるんだが……」
 俺の台詞にびくっと反応するあゆ。分かり易い事この上ない。
「別に何があったって俺は気にしないさ。ただ、こうやって隠すのはあゆらしくないなって少し思って心配してるんだ。……無理に言えとは言わないけどさ、言いたくなったらいつでも言ってくれ……恋人同士なわけだし」
 思っていたことを俺はあゆに伝える。……最後につい余計な一言間違えて出たけどな!
「……祐一君」
 あゆの部屋を出ようとした時、俺の後ろから声がかかる。 
 俺は足を止めて次の言葉が出てくるのを待っていた。
「……えっと。お、おやすみなさいっ」
「おぅ。ちゃんとあゆも歯みがいて寝ろよー」
 まあ、焦ったって仕方が無い。そう思って俺はあゆの部屋を出た。
 ……結局この日俺は、寝付くのが12時近くになった。


 そして、次の朝。7時を少し回った時間にリビングに行くと、そこには秋子さん一人。
「あれ? あゆはまだですか?」
 名雪がまだかは、別に聞かない。あいつの場合この時間に起きている訳が無いからな。ただ、あゆが俺より遅いのはそれなりに珍しい。
「ええ。祐一さん、あゆちゃんを起こしにいってあげてくれませんか?」
 今日は秋子さんは仕事のせいで、今の内に昼の全員分の弁当も作っているようだ。台所から油の音がするから、それで手が離せないんだろう。
「分かりました……ふぁ〜」
 でかい欠伸を噛み殺しながら、俺はあゆの部屋に向かいノックをする。
「おーい、あゆ。起きろー。起きないと顔に落書きするぞ〜」
『わっ! う、うぐぅ……今起きるよ〜」
 俺の言葉にあゆがすぐに反応する。一回夜更かしして寝ているあゆに、本当に顔に落書きした事があるからな、俺は。「水性」と「油性」を間違って使ったせいで、後であゆに凄く怒られたが。
「ゆういちくん、おはよう……」
 眠いのか、目を少しこすりつつあゆが起きだす。おう、はっきり目が覚める前のぽーっとしたあゆも中々……って、何考えてんだ俺は。
「珍しいな、あゆが俺より遅いなんて。夜更かしでもしたのか?」
「うぐぅ、昨日はちょっと寝付けなくって」
 ふらふらするあゆと一緒に階段を降りる俺。
 ……その時だった。
「わーっ!!」
 俺の後ろのあゆが叫んで振り返ると、階段から足をすべらせて落ちるあゆの姿があった。
「うわぁっ!」
 あゆが俺の方めがけて突っ込んでくる。
 なんとかどんな形でもいいから止めたい。あゆが怪我しないならなんでも。
 そう思ったら、自然に体が動いていた。……結果。あゆはどうにか支えられたし、運良くお互いに怪我しないですんだのだが……。
「どうしたの!?」
 派手な音に、秋子さんが慌てて飛んでくる。
「いえ、あゆが階段踏み外しそうになっただけです。大丈夫です」
 それだけ言って、俺はあゆを支えたままさっさと階段を降りる。
「二人とも、本当に大丈夫?」
「う、うん……。祐一君、秋子さんごめんなさい。ボクドジで……うぐぅ」
 怖かったのか、目には少し涙が浮かんでいた。
「いや、何とも無いならいいさ。あゆがドジなのは今に始まった事じゃないしな」
 ポンポンと頭を軽く叩いてから、俺たちはリビングに向かう。
 が、台所に戻る秋子さんに俺は声をかけた。
「秋子さん。今日の病院の予約って時間早められます?」
「……ええ。あゆちゃんは最初から先生が今日一日開けてくれてるそうだから、多分大丈夫よ」
「すいません、朝食の後にすぐ俺、あゆを連れて病院に行きます。どうせ気になって授業集中できないでしょうし」
 心配のし過ぎなのは自分でも分かってる。あゆがドジなのだって今に始まった事じゃない。
 でも、気にせずに学校に行く気はとてもしなかった。
 秋子さんは、少しの間俺を見ていたが程なく小さく息をはいた。
「……わかりました。祐一さんも風邪を見てもらいに病院に行ってください。風邪は良くかかり始めに行くのが一番と言われますけど……本当はかかる前に行くのが一番ですからね」
「すいません」 
 秋子さんは俺の気持ちを汲んでくれた。
 我ながら心配のしすぎだな、本当に。あゆ絡みで学校をサボるのも初めてじゃないし。
「祐一さんは、きっと良い父親になれますよ」
 そう言う秋子さんは笑顔だった。

 
 
 そして俺はあゆを連れて病院に行ったんだが。
「異常は特に認められませんでした。心肺機能、脈拍に体温、血液の流れから他の臓器、念のためレントゲン検査まで行いましたけれど、健康であると思われます」
「あ、そうですか……」
 その言葉を聞いて、軽く力が抜ける。ほっとしたのと同時に、心配しすぎの自分がなんだかなーという感じだった。
「うぐぅ……なんともないって言ったのに……」
 あゆとしては、いきなり定期検診の日程が相当早まった時も、秋子さんになんともないよと言ってたらしいのだが。
「ええと。あ、ありがとうございました」
 気が抜けた感じで俺は医者に頭を下げる。
 それから、医者は今日の検診を定期検診の代わりにしましょうか、などと言っていた。



 そして病院から仕事先の秋子さんに結果を伝えて病院を出る俺とあゆ。
「いや。それにしても何とも無くて良かった。どうする、俺は学校今から行ってもHRに出るのが関の山だし、ちょっと商店街でたいやきでも買って食ってくか」
 軽く俺はあゆに尋ねる。いつものあゆなら、絶対ににっこり笑ってうんと言うはずなんだが……。
「えっと……ボク……うぐぅ」
 もう、お腹が一杯、などという嘘も言わない。困ったように俺を見るだけだ。
 ……あー、ダメだ。これ以上見てられない。俺は側にいるあゆの手をぎゅっと握った。
「あ……」
「あゆ。俺はお前に大事な話がある」 
「な、なに?」
 真剣な俺の反応にちょっと戸惑っているあゆ。変化球は俺は嫌いだ。だから昨日と同様直球で体当たりする。
「とりあえず、先に言っておく。俺はあゆが好きだ」
「祐一君……」
 いきなりの台詞に面食らったあゆ。だが、昨日と違い俺はあゆから三振を取るまで続ける。
「俺はお前が悩んでるなら、困ってるなら最大限なんとかしてやりたい。ただ、それがはっきり何か知らないんなら俺だってどうしようもない。何で悩んでるか、話してくれないか?」
 あゆは俺の言葉に、困ったように俺を見た。
「半分背負うくらいなら、俺だって出来るだろ、それが何だって」
 ちょっとキザかとも思ったが、事実そう思ってるんだから仕方が無い。第一、これ以上無理されていきなり倒れられたら、それこそ彼氏失格だ。
「えっと……うぐぅ」
 困った感じのあゆだったが、俺は努めて優しくほほ笑みかける。
 そして、あゆはとうとう口を開いた。
「実は……が……ぃ……だよ」
「ん?」 
 かすれるように小さい声。その後、あゆは意を決したかのように、大きな声で言った。
「実は……歯が凄く痛いんだよ〜!!」
 は? ……歯!?
「はみがき忘れちゃったことがあって、それで……多分……うぐぅ」
 一瞬呆ける俺。が、すぐに俺はあゆの頭を叩く。あまり加減しないで。
 ボカッ。
「うぐぅ! 正直に言ったのに〜!」
「こんのドバカ! 秋子さんや名雪や俺に余計な心配をかけるな――! ……あー、悩んで損した。本気で損した。……ええい、もう一回言ってやる、損した――!」
「うぐぅ、ごめんなさい〜!」
 昨日の夜の困ったような表情も、女の子らしい仕草も、バレないかどうかドキドキしていてとか、痛いの我慢してたとか、そういうオチか、オチなんだな!?
 普通の医者は虫歯なんか分かる訳無いし。
「ほれ、行くぞ」
「え……ど、どこに?」
 それを聞くか、あゆ。まあ頬に汗がちらっと見えるから察してはいるんだろうな。
「歯医者に決まってるだろ」
「うぐぅ――! いや、嫌だよ、歯医者さん怖いよー!」
 首を横に振っていやいやをするあゆ。
『俺はお前が悩んでるなら、困ってるなら最大限なんとかしてやりたい。ただ、それが何か知らないんなら俺だってどうしようもない。何で悩んでるか、話してくれないか?』
 さっき言った自分の台詞が思い返される。
 ……そりゃあ、俺にも話せないわな! くっそ。あゆは半年経ってもあゆのまんまだ、間違いなく。
「あゆ、いい事を教えてやろう。実はお前が何年も入院している間に、医療は色々と進歩している」
「え? そ、そうなの?」
「ああそうだ。そして今では歯の治療も相当進んでいてな、全然痛みは感じないようになっているんだ」
 真顔でスラスラと嘘が出る。うん、流石だ俺。 
「……本当? 本当に本当?」
 大嘘だ。といっても仕方が無いので、首を縦に振ってやる。
「そうなんだ……。うぐぅ、昨日痛いの我慢して寝たから寝不足になっちゃったけど、それならもっと早くに行けばよかったなぁ……」
 ……そうか、階段から落ちた理由もそれか。同情・情状酌量の余地なしだ、あゆ。力一杯歯医者の洗礼を受けて来い。


 そうして、俺はあゆと一緒に手近な歯医者に行く。
 待合室に座っている俺の耳に、ほどなく泣き声が聞こえてきた。
「うぐぅ――! 痛い、痛いよー! ゆういちくんのうそつき――!」
 まあ、天罰だな。



 それからおよそ1時間後。
「うぐぅ……」
 俺の横であゆが拗ねていた。全力で。
「ドリルでキーン。ギュルギュルギュル……」
「うぐぅ〜! いじわるー!」
 効果音を口で言うだけで、あゆは耳を押さえてうずくまる。まあ、十分お灸は据えられただろうし、このくらいでいいか。
「俺だけならいいけど、今回の件は俺だけじゃなくて、秋子さんや名雪も心配したんだからな。体の調子が悪いなら、今後絶対にすぐに言え。そうしないと今度は全身油性マジックで落書きしてやる」
 流石に、今の俺の言葉で自覚したのかあゆもしゅんとなる。
「うぐぅ。ボク歯医者さん怖くて……ごめんなさい」
 下を向くあゆを見て、俺は不意に。……少しほっとした。
 だからだろうか、あゆの頭を軽く撫でながらこんな事を口に出したのは。
「あゆは変わらないものって、どう思う?」
「え? なんの話?」
「だからさ。あゆって、一言で言ったらドジで子供っぽくて、うぐぅでたいやきって感じだろ?」 
「…………うぐぅ」
 あ、やっぱり拗ねた。しかし、言い返さないあたり分かってるじゃないか。
「いや、あゆをからかう為に言ってるんじゃなくてだな……。これが10年たっても、あゆが結婚しても今のままかって言ったら、まあ『流石に違うんじゃないか』とか、『大人になってるんだろうな』くらいに、最近不意に思ってさ」
「……祐一君?」
「きっと、あゆがそうなった時にはそれが自然な形なんだと思うし、俺もそれで良いんだと思う。……別に俺に変な趣味ある訳じゃないし。ただ、さ。……変わらないでいる中での楽しさっていうのもあるんだろうな、って思って」
 年がら年中たいやきを食ってるあゆを見てると特にそう感じる。変わらない事に幸せって言うのも、きっと感じる事なんだろう。
「うーん。ボクはよくわかんないけど……。でもね、ボク今幸せだよ。すっごく幸せ」
 そして、あゆは俺のほうを見た。
「動いてる時間の中で、大好きな人たちと一緒にいられる。幸せだなぁ……って。今が幸せだったら、他のことあんまり気にしないもん、ボク。幸せになるのに忙しくって。……えへへ。祐一君の言葉の意味、あんまり分からなかったから、思ったことそのまま言ってみたけど、どうかな?」
 …………ははは。そうだな、考えてみたら俺も幸せになるのに忙しかったんだ。
「いや。あゆらしくて良い考えだぞ、いやー本当に『あゆ』らしいな」
「うぐぅ。なんだか、バカにしてない?」

 いや、全然そんな事はないさ。いい答えだったよ、あゆ。
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