『死神ってね、ただ人を殺すだけじゃないのよ』
 ずっと前、まだ私が入院したばっかりで、毎日毎日不安で仕方がなかったころ、お姉ちゃんがこういったのだ。
 私は二人の相部屋だったんだけど、生憎入院患者は私一人しかいなくて、真っ暗な中目を閉じると、とても怖い夢を見る。死神に連れて行かれる夢だ。
 多分、最近読んでいた推理小説が原因だ。そりゃあ探偵がまるで魔法のように謎を解決していく様は見ていて痛快だったけど、本当は、私は推理小説が好きじゃない。よく人が死ぬし、何より推理が出来ないから。にもかかわらず、お姉ちゃんに本を頼むと頼んだ本+お姉ちゃんお勧めの推理小説がやってきた。
「あんたのオイルの少ない頭をこれ以上さびさせるわけにはいかないわ」とよく言ってくるけれど、そんなの大きなお世話だと思う。実際はお姉ちゃんが推理小説が好きで、ただ話を共有したいだけなのだ。じゃないと感想なんて求めてきたりしない。
 で、お姉ちゃんと小説の話をすると、結論が明かされるまで事件の真相がわからなかった私はお姉ちゃんに馬鹿にされるわけで。でもまあそんな時間が私にとっては結構楽しかったりした。それに、普段はいじわるだけど、本当はとてもやさしいお姉ちゃんだから。
『死神は本当に死ぬべき人の魂を迷わないように運んで、死ぬべきじゃない人の命は、まさに自分の命を賭けて守るの。死神は人を殺す者じゃなくて、死を司る者なのよ』
 夢を見てうなされた次の日、泣きじゃくる私の頭を撫でながら話してくれた言葉。
『こういう話知ってる? ヒトに恋をした、死神の話』
 首を振る。ファンタジーか何かだろうか。お姉ちゃんは私がファンタジー小説を読んでいると子供っぽいとからかうけれど、実はお姉ちゃんも隠れて読んでるの知ってる。
『そのままなんだけどね。死神が人間の少女に恋をして、でもその人間は、死ななきゃいけない人で、その魂を運ぶのが、その死神の仕事で―――』
 それで、と先を促す。お姉ちゃんは人に話をするのがうまい。お姉ちゃんが話をすると何故か気になって仕方がないのだ。
『―――出来なかったわ。死神はその少女を生かしたいと思ってしまった。そして、死神自身が死んだのよ。死神である自分が死ねば、少女は死ななくても済むと思って』
 私には、まだよくわからなかった。誰かを愛するってことがまだよくわかっていなかったから、なんでその死神が自分の命を捨ててまで、本来死ぬべき人を生かしたのか。お姉ちゃんのさっきの話と、矛盾しているその話が、よくわからなかったのだ。
『なんで死神がそうしたか? 愛していたから、っていうのは簡単だけど、まだわからないから。……ねえ栞? 死神と天使の違い、知ってる?』
 まったく逆の存在だと思っていた。天使は優しくて、困っていたら助けてくれそうで。死神は怖い。
『死神は天使の一種だ、っていう人もいるのよ。誰にでも救いを与えるのが、天使。愛した人にしか与えないけれど、それでも救いを与えたのが、死神。どっちが正しくて、人間らしいのかな』
 そう言って微笑みながら、お姉ちゃんはその小説の最後の一説を歌うように読み上げた。

【私は彼女の為に死ぬならば後悔はしない。誰もが私を見ては怯え、逃げ出したのに。彼女は私の姿を見て、「あなたは天使さん?」とたずねた後、私のこけた頬を撫でながら「大変なお仕事ですね」と笑ったのだから】

 
 今になって、何でそんなことを思い出したのかというと。
「おねえちゃん、もう助からないよ。僕は死神だから」
 なんて言う男の子が現れたからだろう。




君がくれたもの






 相沢祐一という男性に会えたことが私の人生で一番の幸運だった。
 たった一週間の恋人。たった三週間の付き合い。私が生きてきた時間の中で、取るに足らない短い時間。それでも私にとって祐一さんは特別なのだ。
 恋人の一週間を終え、私は病院に戻った。私の体はもうすっかり弱っていたのだ。
 幸いなことに、私の気力は充実していた。重病の患者が持ちこたえる場合、往々にしてその人の精神が関係すると先生に言われたが、まさしくそのとおりだった。あの人がくれたいろんなものが、誕生日まで生きられないという壁を越えさせてくれたのだ。
「この調子なら、きっと治るよ」と先生は言う。ゆがんだ笑顔。私は知ってる。治る病気ならこの一年間、まだ体力のあったころに完治させていた。
 新しい治療法が見つかった? 見つかってはいない。そうでなければ私は今までのように同じ注射と同じ薬を飲むだけの治療なんて受けていない。
 変わったことといえば、ベッドに磔にされていることくらいだろうか。といっても、病院を脱走して雪の中を出歩いていた私にはもう自由に歩き回るだけの体力なんてなくなっていて、動けないだけなんだけれど。
 別にそのことに反論はない。もともと入院はずーっと昔から繰り返してきたし、室内での時間のつぶし方も心得ている。
 ただひとつ残念だったのは、二人部屋なのに私一人しか入院していなかったことだけれど、それもたった今解決した。昨日看護婦さんに聞かされていた、相部屋の男の子が今現れたから。
「こらっ! 何言ってるの! も、もうしわけありません……この子少しふてくされていて」
「ふてくされてなんかないよ。本当のこと言っただけだから」
 男の子のお母さんと思われる女の人と、男の子が口論している。私は「気にしてないですから」と男の子に笑いかけた。目をそらされて、結構傷ついた。
「私、美坂栞だよ。よろしくね」
 お母さんが帰ってから、ベッドにもぐりこんだ男の子に自己紹介をする。
「…………」
 返事をしてくれなかった。相当傷ついた。
「……長谷川。長谷川浩太」
 そして、しばらくした後に、ぶっきらぼうにそう言ったのだった。


 病院が退屈だとはよく言われるけれど、それは確かに否定できない。でも、一部の人間にとっては間違いでもある。
 病院には病院にしかないものがある。ただそれに気づくことが出来るか出来ないかの違いだ。私は出来る。小さいころからよく入院していた私にはその生活を楽しむ術を知らなければやっていけなかったからだ。だから私は出来る。……出来るはずだった。
「退屈……」
 長い期間で見たら、病院には確かに楽しみがある。窓から見る四季の変化は病室から見ているとはっきりと感じ取れるし、病院内でしか培えない人間関係もある。
 けれど私は知ってしまった。短期間で楽しむことを。穏やかな木漏れ日のような輝きではないけれど、流れ星のように一瞬だけど、強く、強く輝く生き方を。
「って言われてもねぇ……。この時間だとあんた散歩にも行けないわよ」
 花瓶に花をさしながら、お姉ちゃんが言った。もうすっかりおなじみの光景。まだしこりのようなものは消えない。けれど、これから少しずつ、時間をかけて戻っていけばいい。もしもまだ、時間があるのならば―――だけれど。
「うー……。最近お日様が照ってくれないよぅ」
 私が動ける時間は極限られている。よく晴れた日の一時から三時。それ以外の時間は病院の中庭ですら散歩に出ることは許されない。その時間帯でも散歩に出るには許可が要る。……発作が出たとき、すぐに連絡がつかないと取り返しのつかないことになるから。
「明日は晴れて、暖かいってよ。明日半日で学校が終わるから、その後寄って散歩に付き合ったげる」
「半日? なんで?」
「うちの高校、推薦入試が明後日でね。その会場の準備するから半日なんだって」
 どうせ広い学校なんだから、一部立ち入り禁止にして授業続ければいいのに。なんて文句を言いながら新しい花をさし終えた。最初は色とりどりの花束をどさっと買ってきたいたが、最近はいろんな種類の花を一輪ずつ持ってきている。毎日持ってきてくれるから、お姉ちゃんのお財布も結構心配。一輪とはいえ、花代って結構馬鹿にならないものなのだ。
 今までそんなに花を持ってきてくれたことのない姉だったから、最初はそのことに違和感があったけれど、三日目からはそれもなくなった。何より、お姉ちゃんが花と戯れてる姿は妹の私から見てもすごくきれいで、私の自慢で、少しだけ、嫉妬してしまう。
 今日の花は勿忘草。花言葉は『私を忘れないで』だったと思う。本はよく読んだので、花言葉もよく知っていた。お姉ちゃんは多分、そんなこと考えてないと思うけれど。
「お姉ちゃん学校好きだもんね」
「まあね……授業にも楽しみ方があるのよ。特にあの馬鹿クラスだとね」
 りんごを洗って、皮をむき始める。ウサギさんだ。お姉ちゃんの知り合いに、実はお姉ちゃんがかわいいもの好きだといったら、どんな反応をされるだろうか? すこしだけ気になる。
 私が以前お弁当に入れたものと違って、すごくきれいなウサギの耳が出来上がる。なんで姉妹なのにこれだけ手先の器用さが違うのか、少し不公平だ。
「……はい、できたわよ」
「うん、ありがとう」
 りんごをお皿に並べて、ナイフを洗う。ひとつかじってみると、そのりんごの線の滑らかさに驚いた。私が剥いたときは、カクカクだったのに。
「さて、あたしは帰るわね。りんごおいとくから、ゆっくり食べなさい。動けそうになかったらお皿明日までおいといてもいいから」
「うん。今日は調子いいから、大丈夫」
「そう……。それじゃ、ちゃんとお医者様の言うこと聞くのよ」
 鞄を持って外に出る。見送りをしたかったが、絶対に病室を出たら止められるのでベッドの上からだ。医局が目の前にあるというのは非常にめんどくさい。
 窓の外を見る。相変わらずのどんよりした空で、雪もぱらついている。お姉ちゃんのことだから防寒対策は万全だろうが、やはり少し心配してしまう。
 ひとつため息。テレビでもつけようかと思うが、こういう時個室でないと不便だと実感する。浩太くんはあまり関わってこようとしないので、なんとなくテレビの音ひとつでも干渉するのがはばかられた。
 ―――だから、それはきっと、気まぐれでしかないのだろう。二つのベッドを仕切るカーテンから、こそこそとこっちの様子を伺っているのは。
「……りんご、食べる?」
 なるべくやさしく尋ねる。こういう時、作り笑いのうまさにうんざりとしてしまうのだ。ここ一年、本当に笑っているのか作り笑いなのか、自分でもよくわからない。
 だけど、本当に、笑っていられた時もある。少しだけ、生きようと決心した、あの日から。誕生日まで、私は確かに笑っていた。
 ぼんやりしていたのはほんの一瞬。その一瞬で、浩太くんは私のひざの上に載っていたお皿からウサギを二匹攫って行った。
「……ふふ」
 となりから聞こえてくる控えめなしゃくしゃくと言う音がなんだかとてもかわいらしく思えて、私は笑った。本当に笑った。



 小さいころから病気がちで、あまり学校に行けなかった私にとって、遊びたい盛りの男の子というのは理解できない存在だった。
 浩太くんは普段絶対に関わろうとしてこないくせに、たまにふらっと近寄ってきては私のベッドにゴム製の蛇を置いたり、私が読んでいた漫画雑誌を取って行ったりした。
 最初のうちは浩太くんが一方的に私に何かをしてくる、という構図だったけど、最近では浩太くんと一緒に遊ぶということもたまにある。
 で、今リフレッシュルームから借りてきた将棋盤で将棋をしているわけなんだけれど……。
「……栞ねーちゃん、学習能力ないんじゃないの?」
「そんなこという人、嫌いです」
 あっさり負けた。今は二回目なんだけれど、一回目と同じ手で、ほとんど同じような詰め方をされて。
「初めてやったんだし……」
 言い訳する。力いっぱい。
「それでも、やっぱり学習能力ないっていうのに違いないわよねぇ」
 私でも浩太くんでもない声。ふと見ると、私の担当の看護婦さん、青葉さんだった。
「はいはい、仲がいいのも結構だけど、栞ちゃん点滴かえる時間だから、ね?」
「……別に仲良くなんかないやい。遊んでやってるだけだし」
 そういって、浩太くんは乱雑に将棋をしまって、部屋を出て行った。
「やれやれ、あの子にも困ったものね……。といっても、以前のあの子を考えたらずいぶんといい傾向だけど」
「浩太くん、長いんですか?」
 パジャマの袖をめくり直しながら答える。長いか、というのはもちろん入院期間のことだ。新しく入ってきたからといって、そこがはじめとは限らない。実際転院する患者も多く見てきた。
 といっても、今私たちが入院している病棟は長期入院患者が主に入る病棟であるから、大体想像は出来ていた。
 この病棟の奥のほうが、……死に至る発作の危険があったり、病院で最期を迎える決意をした、末期患者の病棟なのである。おおっぴらに言われてはいないが。そして、私は本来そこに入るべき人間だったのだ。
 今、私たちがいるのはそこと一般入院との境界線である。ほとんどが個室だが、大部屋のところもある。長期入院なので、私が入るときに個室が開いていなかったので今の病室に入院している。
「あの子ももう五年くらい前かな。一時期はもっとひどかったんだけど、一応持ち直してきてるんだけど……他の入院患者と溶け込もうとしなくて、殻に閉じこもってるのよね。だから栞ちゃんと遊んでるのはとっても珍しい」
 前の点滴針を外す。どうやら『かえる』というのは本当に変えるらしい。 
「浩太くんが、自分のこと『死神』って言っていたのと、何か関係があるんですか?」
 新しい針の刺さる微妙な痛みに顔をしかめながら、尋ねる。慣れたとはいえ、ちくっとした痛みがなくなるわけではないので我慢するのがうまいだけだ。
「――――」
 前の点滴のゴミを回収して、無言になった。それだけでわかってしまった。沈黙の意味も、彼が関わりを拒否する理由も。
 私はお姉ちゃんによく馬鹿にされるように、鈍感だ。
 だけどわかる。会話の流れと、長く染み付いた病院のひどく嫌な面の経験が。
「相部屋の人の、死別ですか」
「……わかるかぁ、やっぱり」
 失敗したなぁという顔で頭をかく。青葉さんは前から思っていたけど、すこし乱暴な印象がある。きっと注射が下手だっていうのもその印象にすごい影響してると思うけれど。
「言っていいのかわからないけど……今まで相部屋になった三人、全員なくなってるんだよ」
 多分、私が四人目だ。


 浩太くんとは仲がいいんだか悪いんだかわからない関係が続いていた。少し極端になってきたけれど。もしかしたら機嫌に左右されているのかもしれない。 
 良いときは遊びに誘ってくれるが、悪いときは声をかけただけでも邪険にされる。
 浩太くんはよく笑うようになった。その意味では、良好な関係といえるかもしれない。けれど、彼は気づいているのだろうか―――
「栞ねーちゃん! アイス買っといたよ」
「ん。ありがとうっ」
 そして、今日は機嫌がいい日だったらしい。
 バニラアイスだった。思えば久しぶりだ。といってもここ二、三日食べていないというだけなんだけれど。
 この時期売店にはアイスが売っていない。お姉ちゃんに頼んだりするけど、毎日買ってきてくれるわけではなかった。
「んー、おいしい」
 冬に暖かい部屋で食べるアイスは何故かおいしい。病室は大体いつも暖かいので、冬場にアイスを食べるには最適の場所かもしれなかった。
「ねーちゃん、バニラアイス好きだよなぁ……」
 モナカアイスをかじりながら言ってくる。モナカの中のアイスもバニラだから、浩太くんもあまり人のことは言えない気がした。
 思えば浩太くんのことはあまりよく知らない。知ってることといえば本好きということと、あと好き嫌いが激しいことくらい。
 好き嫌いといえば、彼には少し面白い点がある。
 病院で出される食事はアレルギーなどの問題がない限り基本的に好き嫌いなんて考慮してくれない。嫌いな食べ物も当然出てくる。
 そんな時、彼の自称・百の宝物の一つである銀皿が出てくる。彼は嫌いなものと好きなものが一緒に出てくると、好きなものだけその銀皿に取り分けて食べるのだ。
 嫌いなものだけ取り分けるほうが楽じゃないかと尋ねたら、「嫌いなものなんかこの皿に乗っけたくない」と返された。皿が大切なのは十分わかるが、苦笑するしかなかった。
 もっとも、そうして嫌いなものを残したり、売店で買い食いばっかりではだめなので看護婦さんがにらみにくるようになったけれど。
 アイスを食べ終わってから、ぼんやりと外を眺める。もう何回も、いや、何千回も行ってきた行動。日光が積もった雪に反射して外がすごく眩しかった。
 今日は快晴。新しい花はアイリス。花言葉は『伝言・恋のメッセージ』
「雪だるま、作りたいな……」
「作ったことないのか?」
「うん。浩太くんは、あるの?」
「すっげー小さいころに、一回だけ。とーちゃんとでっかいやつ作った。俺の一番最初の記憶だよ」
 自慢げに言う。少しうらやましい。
「私は、結局作れなかったから……」
 一週間では、足りなかった。いろいろやった。満足している。ただ、一つだけ心残りなのは、雪だるまだった。
「そっか。よし、じゃあ今度……」
 言いかけて、気づいたような顔をして、やめた。
「今度?」
「……なんでもない。リフレッシュルームで漫画読んでくるよ」
 そう言って、部屋を出た。
 ―――ほら、また。そうして、無理した、繕ったような笑い方をしているの。


「うーん……」
「やはり、難しいですか?」
 カルテを見ながら、長い間私を見てきてくれた山下先生が唸っていた。お母さんが心配そうな顔で尋ねる。
 初めて診てもらった時、まだ若かった先生も今ではすっかりおじさんになっていた。多分、家族以外で一番長い付き合いなのが山下先生だ。
「はっきりと申しておきますと、やはり根治は難しいです。手術をしても再発する可能性が高い上、現状で栞ちゃんの体力が持つ保障がありません」
「……そうですか」
「しかし、もし根治を考えるなら、今回が最後でしょう。今ならまだ可能性はありますが、これ以降はもう……」
 一年前、手術をした。お姉ちゃんの誕生日だったからよく覚えてる。
 そのころはもうお姉ちゃんに嫌われてて、何で嫌われてるのかわからなくて。きっと弱い私が嫌いなんだって思って、手術を受ける決心をしたのだ。
 私の手術が成功したら、お姉ちゃんに報告してくれるようお父さんとお母さんに頼んだ。入院してて、お姉ちゃんは会ってくれなくて、プレゼントを準備することができなかったから。そんなものでもプレゼントになればと思って。
 ……結局、そのプレゼントは渡せなかった。そもそも『手術の成功』というプレゼントが存在することが出来なかったから。三歳のころ、私の誕生日にお姉ちゃんがくれたクレパスで書いたお姉ちゃんの似顔絵を渡して以来、初めて渡せなかった。
 それでも一命を取り留めただけでも成功といっていいらしかった。手術をしたその場で初めて、致命的な組織の脆さと予想外の病気の進行が発見されたのだから。
 長い手術だったのだ。だから、大きくなるまで、十五歳になるまで、手術が出来なかったのだ。十五歳まで待ったから手術が出来て、十五歳まで待ったから治らなくなっていた。
 医療の世界では選択肢は二つだけではない。メリットとデメリットを天秤にかけて一方を選んでも、正しいとは限らない。
 ただ一つはっきりしているのは、私の病気はもう治らないということだけだったのだ。
 一つの希望があった。治るものだと信じていた。夢はかなうと信じていた。その結果は、一枚の合格通知として現れた。
 でもそれだけ。私の希望はもっと先のことだ。手段を得たことは目的の達成とは違う。
 いや、一度くらいは適うだろう。たとえそこで終わりだとしても、せめて―――
「決めるのは、栞ちゃんです」
 言われ、我に返る。山下先生がまっすぐ私の目を見つめてきていた。
「今までも何度か聞いてきたね。栞ちゃんはこの質問をするといつも逃げたけど……もう先延ばしには出来ないんだ。根治の可能性にかけるか、本格的に延命に切り替えるか、よく話し合って決めなさい」
「あの……もし本格的に延命に切り替えるとしたら、どれくらい……」
 お母さんが尋ねる。もう私以上に涙目で、どっちが患者かわからなかった。
「栞ちゃんは一度気力で私たちの予想を覆したことがあります。けど、それでもおそらく後一月は……」
 お母さんが泣き崩れる。山下先生はそれをなだめながら、私に言った。
「考えなくては、いけないね……」


 そして、決断を迫られた夕方、私は倒れた。
 起きたとき、部屋は真っ暗だった。一瞬だけ自分が死んでしまったのかと思った。
 目が慣れて、感覚が戻ってくるうちに落ち着きを取り戻し、ナースコールを押した。
 軽い発作だったらしい。一度処置室に運ばれたけど、すぐに病室に戻されたそうだ。
 原因は精神的なものだろうといわれて、少しだけショックだった。
 もうあきらめたはず。あきらめたはずだった。そうじゃなければならなかった。
 生きたくないわけではなかった。祐一さんとあって、一層その気持ちは増していた。だけど、あきらめなければならないとずっと言い聞かせていた。その気持ちも、増していた。
 求める気持ちと、拒まなければならないという気持ちが両方あり、拒まなければいけない気持ちが勝っているはずだったのに。
 いつの間にか、生を求める欲求が、求める気持ちが上回っていたのだ。
「祐一さん、少しだけ、恨みます……」
 山下先生が出て行ったのを確認して、電気を切る。光に慣れた目は闇の中ですぐには働かず、完全に漆黒の世界に飲まれる。それを確認して、声を出した。隠しながら、けれど自分の存在を確認するように。
 出会えたことは何よりも幸運だった。
 だけど。
 出会わなかったなら、こんな涙を流す必要もなかった―――!
「……目が覚めたんだ」
 闇の中に一条の光がさす。逆光で見えないけれど、間違えようもない、お姉ちゃんだ。
「つけるわよ?」
 返事をする前に電気をつけられる。お姉ちゃんは胸に花瓶を抱えていた。新しく増えた花を探したけれど、すぐには見つけられなかった。
 代わりに、本来この部屋にあるはずのないものが目に入る。花瓶が合った隣。冷蔵庫の上。少し溶けかけた―――雪だるま。
「浩太くんからよ」
 お姉ちゃんは何かをしている時はすごく愛想がない。今も花瓶にささった花の形を整えている。だけど、それを考えてもお姉ちゃんの声色は冷たすぎた。
「……浩太くんは?」
 私は立ち上がりかけていた。綺麗な銀の皿の上で、溶けて情けない顔になった雪だるまがまるで泣いているようだった。
「……屋上から飛び降りたそうよ」
 気づいたら、ベッドを降りて走りだしていた。呼吸が微かに苦しかったけれど、どうでもよかった。
 銀皿の下に、震えすぎの汚い字で『ゴメンナサイ』と書かれた紙が冷たくなった銀皿で濡れて、それもまた泣いているようだった。

 

 幸いなことに、命に別状はなかった。もともと屋上が大した高さにあるわけではなかったし、その上深く積もった雪がクッションになったらしい。
 といっても首が折れていて、手術の直後なので面会は出来ない。浩太くんは部屋を移されてしまった。
 私も倒れたばかりなので、病室を出ることは許されなかった。お姉ちゃんは今日は帰らないつもりらしかった。その後お父さんと一度家に戻ったお母さんが来て、少しだけ話をして、帰っていった。お姉ちゃんは信頼されているから。
 そのお姉ちゃんは今疲れて眠りこけている。私が倒れてから、信じられないくらい慌てたらしくて、疲れたのだろう。山下先生につかみかかって「先生、妹はっ!?」と何度も叫んだそうだけど、お姉ちゃんは頑なに否定したからそういうことにしておこう。
 さて、私は考えなければならない。これからの治療方針についてもそうだが、それよりもまず浩太くんについてだ。
 冷蔵庫を見る。雪だるまは少しでも解けないように冷蔵庫に入れた。が、もうかろうじて原型をとどめている程度だった。
 大切な銀皿を使った贈り物。そして謝罪の分。ここから私は何かを掴まなければならない。彼の意図はなんなのか。彼の気持ちは?
「なんで、自殺なんて考えたんだろう……」
 ああ、なんて愚問。そんなもの他人の視点で「なぜ?」と問いかけてもわからない。私は知っている。全ての環境に背を向けられた後のあの甘やかな誘惑を。
 それは逃げだ。何かに、あるいは世界そのものから責め立てられることから逃げるもっとも易しい方法。そして、最も愚かしい方法。
 だかわからない。何に逃げたのか。何に責められたのか。彼のことをよく知らない私にはわからない。
 わかることは一つだけ。彼は私に似てる。祐一さんに、傍らで見守ってくれる人にである前の私に。だから、私にはわかるはずだった。なのに、わからない。
 悔しくて唇を力いっぱい噛んだ。噛んで、血が出て、まだそんなにも私に力が残っていたのかと少し笑った。
 この私の力は、今という時間は、祐一さんがくれたものだ。
 祐一さんに出会う前の一年間、私は一人ぼっちだった。一人でも生きていられた。……だけど、それだけだ。
 不思議と、悲しみはなかった。ただ少しの諦めと、ほんの一握りだけの希望を持って、体の全てに絶望を抱えて生きてきた。死にたいと思った。事実、一回死んだ。
 自殺、というのはそれを図っただけで一回死んだのと同じことだ。あの真っ赤な血を見て心からそう思った。私はあの夜一回死んだ。だから、次の日から生まれ変わったつもりで、祐一さんに会いに行ったのだ。
 だけど、今私は生きている。後一月の命だとしても、いや、後一月の命だからこそ、私も誰かに何かを残してあげたい。祐一さんが私にくれた、価値の計れない何かを。
「……失礼します」
 ノックの後、数秒遅れで声が聞こえた。暗い部屋に光が入る。お姉ちゃんが起きないかとひやひやしたけど、幸いぐっすり眠っていた。
「体調はいかがですか?」
 浩太くんのお母さんだった。浩太くんの部屋は今回の事件を機に変わることが決まっていたから、荷物を取りに来たのかもしれない。
「私は大丈夫です。でも、そちらは……?」
 遠慮がちに聞く。部屋から出られないので、情報は入ってきていなかった。
「ええ、命に別状はないようで。ほんとうに、よかった」
 涙声だった。どれだけ心配していたかが伺えて、思わず笑みがこぼれた。
「あの、少しお話しませんか?」
「……かまいませんけど」
 お姉ちゃんが起きないかだけが心配だったけど、のんきに寝息を立てるお姉ちゃんは地震が来ても起きそうにないくらい熟睡しているようだった。


「一番最初に、あの子が言った言葉を、覚えていますか?」
「死神、ですか?」
 忘れるわけがなかった。あんなにインパクトのある出会いは祐一さんとあゆさんのとき以来だ。
「ええ。……あなたの前でこういうことを話すのは憚られるんですけど。あの子と相部屋になった患者さんは、今までみんな亡くなられてるんです」
「うわさには、聞いたことがあります」
 だからといって、死神だと本気で思うはずはないだろう。それはまるで――― 
「老衰だったり、助かる見込みのない患者さん達だったのですけど、人懐っこい子でしたから、仲良くなって。……それ以来ずっと個室で、一人でやってきていました」
「…………」
「夫の転勤で、転院してきたんです。ですが、今回個室のベッドが空いていなかった。病院に相談しても、そんな確証もない理由で前からいる患者さんを移動させるわけには行きませんから」
「私と相部屋になった、というわけですか」
 長く入院していれば、親しくなった患者さんと死別する、という経験は嫌でもすることになる。私だって、相部屋だったおばあさんが突然発作を起こして、私だけに看取られて死んでいったこともあった。なのに、なんで……。
「……お見舞いに来てた子達が、言ったんですよ。『長谷川って死神じゃねーの』って」
「っ! な、なんなんですかそれは」
「もちろん、軽い気持ちで言っただけなんでしょう。でも、浩太がむきになって、手を上げてしまって」
 エスカレートした。お姉ちゃんが小学校高学年に上がったころ言っていた。男の子はすぐ調子に乗るって。それと同じこと。
「……ごめんなさい。あなたも疲れてるのに、こんな話をしてしまって」
 疲れたような微笑を浮かべて、浩太君のお母さんは立ち上がった。
「いえ、でもなんで私にこんな話を?」
「ぶっきらぼうな態度とって、誤解されたままなのが可哀想だったんです」
 少し呼吸を置いて。
「浩太ね、栞さんのことが大好きだったんですよ」
 笑顔でそういった。
 最後の言葉は答えになっていないようで、全ての答えだった。


 昨日お姉ちゃんが持ってきてくれた時期はずれのハルジオンを撫でながら、問いかける。
「ねえ、知ってましたか? 私からぴったり一ヶ月後。本日三月一日は、お姉ちゃんの誕生日なんですよ」 
 窓から入ってくる朝日が気持ちよかった。空は快晴。風は南向き。今日も一日よく晴れた暖かい日になるでしょう。なんて、わからないけれど。
 一つの決定と、一つの決意を胸に。私は病人とは思えないくらい元気に病室を出た。
 きっとそんな気分なのは、死神さんの優しさに気づいたのも、夢の天使さんが笑っていたのもそうだけど、一番は、見守ってくれている人いることに気づいたからだろう。
 その、メッセージに。



 そもそも青葉さんから話を聞いたときに気づかなければならなかったのだ。あのくらいの子が何もなく一人で自分を死神だなんて言わないことに。
 浩太くんがぶっきらぼうな態度をとっていた理由。仲良くなってしまっては、もし死に別れることになってはもう耐えられないから。だから、私と仲良くなることを拒絶しようとした。
 だけど、死神と茶化されて、友達を失ってしまった浩太くんはやっぱり誰かを求めずにはいられなかったのだ。仲良くしたら殺されるといって忌み嫌われたから、仲良くしないと決めていたのに。
 そして、私達は仲良くなった。浩太くんにとっては、仲良くなってしまったのだ。
 ……最大の不幸は、浩太くん自身が、いつしか本当に死神だと思い込んでしまっていたこと。そしてもう一つ、彼の、優しさだった。
 私が倒れたのを知って、こう思ったに違いない。もし死神である自分が死ねば、きっと栞ねーちゃんは助かると―――
 男の子はみんな不器用な人ばっかりだ。祐一さんも、私なんか好きにならずに、健康でもっと綺麗な人を選べばいらない苦しみを抱えずに済んだのに。
 こんな結論に至ったわけだけれど、私の推理はどうなんだろう? 今度聞いてみよう。
 さて、それで今から私がやろうとしていることなんだけれど。理由はきっと馬鹿らしくなったからに違いない。自分ひとりだけ綺麗にまとめようとすることに。
 だからあなたも、強く生きないとだめだよ?
 ああ、今回は。お姉ちゃんに誕生日プレゼントが渡せそうだ。

―――さて栞ちゃん。死神さんが君に勇気をくれたけど、どうしたい?








 大学一年の祐一さんと、ようやく二年生に上がれた私が並んで歩く。
 暖かいところだと、四月の後半にはもう桜は散ってしまっているらしいが、この地方では今が見ごろといった感じだった。
 ここは私と祐一さんが始めて出会った場所。二年前は雪がどさっと落ちてきたのに、今では桜が柔らかく頬を撫でてくれた。窓から見る四季も確かに四季だったけど、こうして感じるのも間違いなく四季だった。
 胸にはたい焼きを抱えている。もう無理に寒いときにアイスを食べる必要はない。もう暖かくなってきたから、たい焼きの時期も終わりだということで二人で買ってきたのだ。
「むぐ……」
 のどに詰まった。危うくたい焼きを袋ごと落としそうになるけど、それだけは避けた。どこかであゆさんに見られているような気がしたから。
「歩きながら食うからだ」
 祐一さんはペットボトルのお茶を渡してくれて、背中をさすってくれた。
「けほ、けほ……、く、くるしかったです」
「花より団子の罰が当たったんじゃないのか?」
「そ、そんなこという人きらっほっ!」
「新言語開発か? ファンタジーは絵だけにしとけよ」
「むせただけですっ。そんなこという人嫌いですっ」
 足を速める。だけど、私と祐一さんの歩幅はぜんぜん違うから、祐一さんが普通に歩くだけで追いつかれた。
 どうにか反撃したい。何か切り札は……あった。ずっと忘れていた思いがけない切り札が。
「祐一さん。私が入院しているときに届いた花なんですけど、あの恥ずかしい花言葉の数々を思い浮かべながら花を選ぶ祐一さんの姿が思い浮かべられません」
「…………」
「わっ、無言で走っていかないでください」
「いつから知ってるっ!?」
「なんとなく、そうじゃないかなって思ったのは入院途中なんですけど、治ってからお姉ちゃんに教えてもらいました」
 お姉ちゃんに、絶対に言わないように言い聞かせて。本当に私のところまで届いているかどうか不安に思いながら、毎日花屋で本を片手に悩む姿。
 そのメッセージは届いていた。一緒にいてくれてるんだと思って、うれしかった。押し付けではないほんの些細な思いやり。約束を守って、でもほんの少しだけ、破ってしまった思いやり。
 私に勇気をくれた人たちの、一番の功労者。気づいたからこそ私は今生きている。
 追いかける。チラッと見えた横顔が真っ赤で、いったらまた怒られるんだろうけど、すごく可愛かった。
「ちょ、スピード、あげないで……」
 精一杯走る。すれ違う人が怪訝そうな顔をして見てきていたけど、気にしていられなかった。
 だんだん疲れが限界になってきたころ、学生服を着た中学生の男女とすれ違い、私は足を止めた。振り返ると、男の子がやっぱり足を止めていた。
 止まっていたのは、一瞬だけ。すぐに何事もなかったかのように歩き始める。そして、私も。
「……きたんだ」
「栞? 知り合いか?」
 息を切らした祐一さんが戻ってきて、不思議そうに聞いてきた。なんだかんだで、こういう優しいところが、好きなのだ。
 きっと今私の後ろで彼は笑っている。私も笑う。最後に話したのは手術の前日。ずっと昔、お姉ちゃんが聞かせてくれた恋をした死神の御伽噺をしてあげた。
 本当はなかった時間の中で。もしかしたらそんな御伽噺が現実でもいいかもしれないと思いながら。
 最後に問いかけた言葉。
―――そういうわけだから、私は生きるけど、死神のあなたは一度死んで生まれ変わって、これからどうするの?
 その答えを、面影だけ残して、桜の花びらの中で示して。
「はいっ。元・死神さんです」



 私はいろんな人に、いろんなものをもらって生きている。
 優しさも、ぬくもりも。……悲しみも、絶望も。そして、勇気も。
 欲しくないものも、欲しいものも。自分では手に入らなくても。
 それに、気づいたから。自分ひとりで完結するのはやめようと。
 愛する人と、人の心を持った死神と、夢で笑う天使の少女がくれたもの。
 それを胸に、生きていこう。大切に持って。気をつけないと忘れてしまうかもしれない。なにせ時間はたっぷりあるから。
  




―――私を忘れないで。だからこの恋のメッセージを伝える。『君を待ってる。君を忘れずに』


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