水瀬家には一匹の猫がいる。
 飼っているというべきか、住み着いているというべきか。
 性別はオス。性格は至って気まぐれ。元は捨て猫だったが、なぜか初めて出会ったときから真琴に懐いていた。
 それから紆余曲折を経て――現在は彼女のペットであり、友達であり、また保護者を気取っていることさえある。

「あれ、ぴろ。肉まん食べないの? 冷めたら美味しくないのに」
 ――うなぁ。
「じゃ、真琴が食べてあげる」
 ――なぅ〜。
「あー、美味しかった。さあ、マンガの続き、続き……『帆を揚げろっ』『面舵いっぱーい』(ざざーん)『ついに来たわ。このかいばらの向こうにあるのね……伝説の大陸が』」
 ――うなっ。
「え……これ『うなばら』って読むの? でも、昨日のマンガは『かいばら』だったよ、海原」

 名前はピロシキ。名付け親は俺――相沢祐一だ。縮めて「ぴろ」と呼んでやってくれ。
 見ての通り、こいつはなかなか頭が良い。例えば、猫狂いである名雪の魔手を避けながら食事と寝床をキープしているという一点にしても――もちろん秋子さんや真琴の配慮もあるが、何よりぴろ自身の要領が良くなければ無理だ。
 他にも、外出する俺にお土産を催促したり(図々しいヤツだ!)、肉まんを食べ過ぎている真琴を諌めたりする(結局、残り物はぴろの腹に入る)。それに、秋子さんの前では犬よろしく「お手」や「おすわり」をする(水瀬家の中で、いったい誰に服従すべきなのか分かっているのだ)。

 そして何より――こいつは時速40kmで空を飛ぶ。



空飛ぶ猫




    1.

「猫さん、玄関のところにいたんだよ。本当だよ」
 涙と鼻水で顔をぐちゃぐちゃにしながら名雪が訴えてきたのは、八月の午後だった。窓の外に目を向ければ、景色は晩夏の黄色い日差しに染まっている。
「だから、それは『ぴろ』じゃないって。どっかの野良が通りかかっただけだろ」
 さっきから俺は否定を続けているのだが、名雪は「真琴の猫だった」と言い張って納得しないのだ。
「見間違うはずないよ。だって猫さんなんだよ? ちっちゃくて、ふわふわなんだよ? すりすりで、ごろごろなんだよ?」
「まあ、まずは涙を拭け」
 いくら「ぴろだった」と断言されても、猫に近寄れば近寄るほど涙で視界が霞んでしまう名雪の台詞では説得力に欠ける。

 そもそも――今日の昼間、ぴろはこの家にいなかったのである。



「行ってきま〜す」と真琴が家を出たのが今日の朝。保育所は既に一週間のお盆休みを終えている。
 見送る俺は、まだまだ長い夏休みを残した高校生だから気楽なものだ。寝起きの格好のまま、遠ざかる背中に向かって「ガキに泣かされるなよ」などと適当に声を掛ける。水瀬家の玄関で見られる普段通りの光景だ。
 しかし、今日はいつもと違う部分があった。
「連れていくのか、それ?」
 俺の指差した先――真琴の頭の上には、眠そうに目を細めた猫が載っていた。
 仲が良いのは結構だが、職場に同伴するようなものじゃないだろう。実際、普段なら家に置いていくところだ。
「き、今日だけよぅ……」
 真琴はそう呟いたきり、バツが悪そうに地面を見つめる。なおも追求すると、原因がおよそ判明した。

「で……その子が『お前、友達いないだろ』って……」
「つまり、真琴センセイは悪ガキにいじめられて『友達』を連れていくわけだ。情けない……っていうかそれ、ダメだろ、猫じゃ」
 完全に「私には友達がいません」と認めているようなものだ。
「美汐も来てくれるから大丈夫……だと思う」
「手近なところで、名雪でも良かったんじゃないのか?」
 名雪の方が人当たりは良いし、多分、子供の世話をするのも好きだ。天野だと、今度は「暗い」などと罵られてしまうんじゃないだろうか。
「名雪には無理なの。保育所は朝早いし、それに――」
 あ。そういえば。
 天野より名雪より、適任がここにいるじゃないか。
「ゆ、祐一はもっとダメよぅ!」
「どうしてだ? そのガキを一発こらしめてやろうってのに」
「はっ、もうこんな時間!? 遅刻したら責任取ってもらうからねーっ」
 走り出す真琴。
 話題をはぐらかされたような気もするが、確かに時刻も危ない。
 去り際、彼女はもう一度「祐一は絶対に来ちゃダメ」と念を押していった。



「ダメ」といわれて止めるヤツはいない。当然、俺は手早く身支度を済ませて真琴の仕事場へ向かった。
「……と、ここか」
 秋子さんに聞き出した住所を頼りに駅の裏手を歩き回ること十数分、ようやく目的地に辿り着く。いや、実際にはとっくに到着していたのだが、それが「保育所」だとは思わなかったのだ。
 広い。
 地方都市らしい贅沢な土地の使い方である。外から眺める限り、高校と比べても遜色のない面積だ。そして――
「なるほど、これは名雪には無理だな」
 広大な空間の一角に、大小様々な檻や籠が並んでいた。定番のウサギやインコはいうまでもなく、ニワトリにハムスターにリスに……あれはムササビだろうか。手前にある池には鯉でも泳いでいるのだろう。まるで動物王国だ。犬や猫に至っては、敷地内を我が物顔で闊歩している。
 名雪がここに足を踏み入れたら、一瞬で涙まみれになってしまうに違いない。

 ――と、動物ばかり目立っているが、もちろん保育所の主役は人間の子供たちだ。
 奥の方に見える赤い屋根の平屋――多分、それが施設の本体だろう――その大きなガラス戸が開放されると、小さなテラスを乗り越えてちびっこの軍団がわらわらと飛び出してくる。その一個中隊が広い敷地の隅々を制圧するまで、わずか十秒足らず。特殊部隊も真っ青の進軍速度だ。
 途端、辺りに充満する笑い声、泣き声、叫び声。
 駆け回る男の子がいるかと思えば、転げ回る女の子もいる。東に歌い出すヤツがいれば、西には見事なバク転を決めて喝采を浴びるヤツがいる。あちらでは犬を追い回し、こちらでは猫を振り回し――
「真琴はどこだ……?」
 視線を注意深く動かしてみる。物陰から保育所を覗き込む俺の姿は、あからさまに変質者――などと考えたら負けだ。
 ――発見。
 屋外へ飛び出したガキどもの最後尾、テラスの段差に腰掛けて、真琴と天野、それに数人の小さな女の子たちが談笑していた。

 どうやら何も心配は要らなかったようだ。
 真琴だけでなく、天野もぴろもすっかり子供たちと打ち解けている。というより、新参者の一人と一匹は大人気のようで、右へ左へのひっぱりだこだ(文字通り引っ張られている!)。
 天野は両側から子供たちに抱き付かれて困惑し、ぴろはヒゲを掴まれて苦しげに喉を鳴らし――それを、真琴が上手く取り成している。経験の差というヤツだろう。
 普段は妙に落ち着いている天野も、今日ばかりは年相応に幼く見える。むしろ真琴の方が年上に見えてくるから不思議だ。まあ、二人とも楽しそうだから良いのだが。
 ――と、そこへ生意気そうな男の子が近寄っていく。
 途端に気色ばむ真琴。
 なるほど、あいつが例の悪ガキか。さて、真琴はどう出るか――
 しかし、悪ガキの標的は真琴じゃなかったらしい。偉そうに天野を指差すと、何事かを言い捨てる。
 真っ赤になって下を向く天野。非難の声を上げる女の子たち。
「……」
 天野はすっかりいじめられっ子である。さっきは「年相応に幼く」と思ったが、それ以上だ。
 真琴は毒気を抜かれてしまったのか、ぴろを頭に載せたまま傍観を決め込んでいた。
 そういえば――俺はここ数分間の光景を思い返す――真琴はまがりなりにも「お姉さん」として子供たちと接しているように見えたが、天野の方は完全に同年代扱いされていたような節がある。

「そこからじゃ見えにくいでしょ。中に入ったら、お兄さん?」
 唐突に背後から聞こえる声。俺は慌てて振り返り、
「いや、すみませんっ。怪しい者じゃないです!」
「怪しいわね」
「本当に、ただの通りすがりの善良な高校生なんです。髪も染めてないし、夜の街に繰り出したりもしないし、遅刻は不可抗力だし、テストは赤点だし……」
「ハハハハッ、あなた、祐一クンでしょ? 真琴ちゃんから聞いてるわ」
 豪快な笑い声を上げたのは、たくましい体格をした中年の女性だった。年齢は――俺の母親と同じくらいだろうか。自然な動作で入り口のゲートを通り抜けるあたり、保育所の関係者なのだろう。ベテランの保育士、という可能性もあるが――
「もしかして、ここの所長さんですか?」
「ええ、大正解」
 秋子さんの知り合い、という人だ。俺が「真琴がいつもお世話になって」などと挨拶すると、彼女は再び笑いながら「中に入らないの?」と尋ねてくる。
「いえ、真琴に『来るな』って言われてるので……俺はもう帰ります」
「ハハハハッ、女心は複雑だからねぇ」
 まるで話が通じていない。
 しかし、短い会話ながらこの所長さんの性格はおよそ分かった。
 ――とにかくよく笑う。
 最後に「この動物たちは『生き物と触れ合う』って教育方針ですか」と質問してみると、彼女は今までで一番の笑い声を上げて「単なる趣味よ」と答えた。



「――というわけで、ぴろはずっと保育所にいたんだ。子供たちが証人だぞ。それでもまだ『ぴろを見た』って言うのか?」
 説明を聞いているあいだ、名雪は鼻水を拭いつつ俺の方を恨めしそうに見上げていた。
「でも、保育所でずっと一緒にいたわけじゃないでしょ? 一秒も目を離さなかったの?」
 猫のことになると、名雪は疑り深い。まあ、少々気の毒ではあるし……納得するまで付き合ってやっても良いだろう。
「……おい、真琴」
 俺は、ソファーに寝転がっているもう一人の当事者の名を呼ぶ。彼女は読んでいた漫画から顔を上げ、
「なに?」
 全く話を聞いていなかったようだ。いや、聞いていたら聞いていたで、俺が禁を破って保育所へ行ったことがバレてしまうので厄介なのだが。
「はぁ……」
「なになに?」

「――つまり、真琴がぴろから目を離したのは二回だけだ。午前11時頃、トイレに行ったときと……午後1時半頃、年少組の子供たちを昼寝部屋へ連れていったとき」
 確認の意味を込め、俺はここで言葉を切る。真琴は頷いて、
「うん。ぴろがいると、遊び始めちゃってお昼寝どころじゃなかったから」
「ほら、やっぱりわたしの言った通り! ぴろちゃんを見たの、ちょうど1時半だったもん。家に帰ってきてたんだよ」
 勢い込む名雪。しかし、彼女の考えには無理がある。
「目を離したっていっても、ほんの5〜6分だろ?」
 保育所は駅の反対側にあるため、家からの道のりは遠回りになる。真琴が徒歩で通勤しているとはいえ、片道3kmは下らないだろう。それを仮に6分で往復したとすると――
 常識的に考えて、猫に時速60kmは無理だ。
「ち、直線距離なら近いよ」
 名雪は食い下がるが、もはや言動が支離滅裂である。
「『直線』って……確かに、塀やら屋根を伝ってくれば距離は縮むかもしれないが。そんな障害物だらけだったら、なおさらスピードなんて出せるわけがない」
「うー」
 涙目になる名雪。
 俺が悪者にされたみたいで、何だか居心地が悪い。さて、このくらいで納得してくれると良いのだが――

 と、そこに意外な横やりが入る。
「ほら、空の上なら障害物なんてないよね?」
 真琴だ。
 おい、お前はどっちの味方なんだ……って、敵も味方もないか。
「何だよ、そりゃ。鳥じゃあるまいし」
「鳥じゃなくても飛べるでしょ、ムササビとか」
 そういえば――保育所で飼ってたな、ムササビ。しかし、考えるまでもなく、
「猫は飛べない」
 飛べないはずなのだが。
 手足を広げて、大空を滑る「ムササビぴろ」を想像すると――その姿が妙に似合っているような気もするのだ。
 直線で片道2kmとすると、時速40km……まあ、妥当な速度だろうか。いや、待て。カール・ルイスより速いぞ、これ。
 ――というか、そもそも「空を飛ぶ」という前提からしておかしいのか。
「トラックの荷台に乗ってきたのかも」
 真琴はまだアイデアを出し続けている。
 しかし――「飛んできた」より「トラックに乗ってきた」の方が現実的だとはいえ、それもまず無理だろう。都合良く保育所と水瀬家を往復するトラックが走っていた、という時点で奇跡的な可能性だし、
「住宅街の路地を平均時速60kmで走るなんて、とんでもない暴走車だぞ」
「な、何よぅ……」

 結局、議論にならない議論は秋子さんの「晩ご飯ができたわよ。お皿を並べてくれる?」という台詞によって打ち切られた。
 正直なところ、いくら話し合ったところで結論が出るとは思えなかったから、この夕飯の存在はありがたい。食事を前にすれば名雪の機嫌も直るだろう。
「あ、このトマト」
「ええ、さっき収穫したばかりだから新鮮ですよ。このキュウリも」
「美味そうですね」
 冬の間は積雪に隠れて見えなかったが、水瀬家の庭はちょっとした家庭菜園になっているのだ。今の季節はこうして夏野菜を実らせ、秋子さんの料理に彩りを添えている。
 もう少し経てばトウモロコシも採れるはずだ。醤油で焼いたところを想像するだけで垂涎モノである。
「真琴、ピーマン残しちゃダメだよ。わたしだって食べてるんだから」
「た、食べるわよぅ」
 案の定、名雪は上機嫌で箸を運んでいる。
「……なに、祐一?」
「いや、別に」

 しかし――「機嫌が直った」と思ったのは、どうやら俺の勘違いだったらしい。名雪が気にしていたのは、昼間のぴろが本物だったのかどうかとか、そんなことじゃなかったのだ。



 夜中。
 ふと寝苦しくなって、俺は水を飲みに台所へ降りた。その帰りのことだ。
 名雪の部屋の扉が少しだけ開いていて、廊下に月明かりが漏れていた。いや、それ自体は何も不思議なことじゃない。恐らく風通しのためだろう。北の街とはいえ、夏はやはり暑苦しい。
 けれど――俺は小さな違和感を覚えて、その扉をそっと押し開いてみた。
「名雪?」
 ベッドの上はもぬけの殻だ。いつもは枕元に鎮座しているけろぴーの姿もない。目覚し時計の秒針だけが、カチカチと耳障りな音を立て続けている。
「……祐一?」
 声はすれども姿は見えず――いや、違う。
 名雪は、扉の陰にうずくまっていたのだ。部屋の中で、月明かりの唯一届かない場所に。カエルのぬいぐるみを、ぎゅっと抱いて。
 ――猫が近くにいるわけでもないのに、頬を涙で光らせて。
 こんなとき、俺はどう声を掛けてやれば良いのだろう。
「わたし、どうして猫さんアレルギーなんだろ……」
 猫を見るたび、名雪はこんな風に独りで泣いていたのだろうか。
 彼女のアレルギーは「慣れれば治る」という性質のものじゃない。むしろ、発作を起こせば起こすほど酷くなっていくのだ。
「こんなに好きなのに……どうして」

「名雪。俺じゃダメかな」
 自然に、その台詞が口から出てきた。
「え?」
「俺が猫の代わりになるから。俺を猫だと思って、存分に愛でてくれ」
 ――って、何を言ってるんだ、俺は!?
「冗談に聞こえるかもしれないけど、俺、本気だから」
 駄目押しかよ。止まれ俺の口。
「……祐一、出てって」
 案の定、変態を見るような視線を向けられた。
「ご、ごめん」
 それでも――少しは名雪の気晴らしになれたのだと信じたい。
 部屋の扉を閉じる直前、名雪の口許が「ありがとう」と動いたような気がしたからだ。





    2.

 当初は「今日だけ」ということになっていたが、それからもずっと真琴とぴろの同伴出勤は続いていた。子供たちにせがまれて、引くに引けなくなったのだ。当然、天野も一緒である。
「……ついでに俺も一緒、と」
「どうかしましたか、相沢さん」
「いや、今日も良い天気だな」
「そうですね」
 まあ、つまるところ――
 外から覗いているところを天野に見付かり、真琴の知るところとなり、所長さんに招き入れられて――なし崩し的に団体行動を取ることになってしまった。それが二日目の出来事だというのだから、俺の隠密能力も大したものだ。
 言い付けを破った代償は、肉まん四個となって俺の財布から消えた。

 しかし――
 がっかりだ。非常にがっかりだ。
 人気が衰えるということを知らない天野とぴろの横で、テラスに腰掛ける俺の周りには猫の子一匹寄り付いていない。これでは保育所の外にいても同じである。
 動物や子供は本能的に人の本質を知るというが、そんなに魅力がないのだろうか、俺は。
 ふと、ぴろと目が合う。
 ――うなぁ。
 くそ、勝ち誇ったような顔をしやがって。
「気にすることないよ、祐一クン」
 所長さんが慰めの言葉を掛けてくれる。それに答えて俺の口から出てくるのは、単なる負け惜しみだけだ。
「いや、大丈夫です。俺は保護者としてここにいるだけですから」
「ハハハハッ、美汐ちゃんが特別なんだよ。あれは一種の才能だね。臨時と言わず、欲しい人材だなぁ」
「『特別』ですか」
 数人の子供たち、ついでに犬や猫にまで追い回されている天野の姿を認めて納得する。「追い回され」といっても、いじめられているわけじゃない。むしろ、「桃太郎」や「ハーメルンの笛吹き」と同じ――カリスマなのだ。それを指して、所長さんは「才能」と呼んでいるのだろう。
 高校生活ではむしろ孤立していた――孤立することに成功していた――天野だが、この保育所でそんな偽りは通用しないらしい。子供たちや動物たちは皆、自分のことを本当の意味で好いてくれる「天野美汐」という人物の本質を見抜いていた。

 けれど、楽しそうな天野たちの様子を見るたび、俺は不安になる。
 ――「好いている」は「好かれたい」と同義ではないのだ。
 天野は傷を抱えている。
 俺も一度は体験した「別れ」だ。しかし、「真琴の生還」という幸運に恵まれた俺に、彼女の心情を完全に理解することは適わない。
 もしもここにいる天野が、ずっと以前――それこそ保育所の子供たちと同年代の頃の彼女だったとしたら、きっと無邪気に好意を返すことができたのだろう。
 だが、今の彼女は違う。
 動物や子供に好意を感じれば感じるほど、相手とどう接して良いのか分からなくなってしまうんじゃないだろうか。好意を向けられれば向けられるほど、やがて訪れる「別れ」のことが頭をよぎってしまうんじゃないだろうか。
 そんなことを考えている所為かもしれないが――子供たちに囲まれた天野の表情が、心なしか強張っているようにも思える。
 杞憂なら良いのだが。

 大丈夫だろうか。

 ――いくら心配とはいえ、あからさまに「大丈夫か」と問い質すわけにはいかない。
 帰り道、先日の「ぴろ出現事件」の顛末を話している真琴と天野の隣で、どうやら俺は難しい表情をしていたらしい。逆に心配されてしまった。
「相沢さん?」
「祐一、なに怒ってるのよぅ?」
「ああ……怒ってるわけじゃない。考えてたんだ。天野はどう思う? こいつは――」
 と、真琴の頭上を指差し、
「走ったのか。それとも、飛んだのか」
 単に話題を変えたかっただけなのだが、天野からは興味深い答えが返ってきた。
「猫は九回生きるといいます。命を重ねるうちに、不思議な力を持つ、と」
「……妖狐みたいなものか」
 何の迷信だ――と思わなくもないが、こう見えて真琴も妖怪の一族なのだ。惹き合うものがあってもおかしくない。そういえば、伝承の中で妖狐は「九本の尻尾を振り回す化け物」とされているらしい。
 九つの尾を持つ狐と、九つの命を持つ猫。
 ぴろが「妖猫」なのだとすれば、神通力としか思えない高速移動の謎も既に謎ではなくなる。それに、いつもの頭の良さの説明にもなるだろう。
 さて、何が真実なのか。
 自分が話題になっていることに気付いていないのだろうか――ぴろは、我関せずという風に大きな欠伸をしていた。



 謎というものは、いつだって唐突に氷解する。今回の場合がまさにそれだ。
 商店街の前で天野と別れ、いつものように帰宅した俺たちを出迎えたのは、不機嫌そうな名雪の顔だった。
 聞けば、今日も「猫さんを見た」のだという。慌ててぴろの方を確認すると、名雪は両手を振って、
「違うよ」
 ちょうど、正午を少し過ぎた頃。
 のんびりと起き出した名雪の目の前――部屋の窓の外に現れたのは、ぴろとは似ても似つかない純白の猫だったのだ。
 驚いている一瞬のうちに、その珍客はひらりと身をかわして消えてしまった。
 結局、名雪の見間違いだったのである。
 そのことがショックだったのか、それとも彼女にも分別が付いてきた証拠なのか、我を忘れて窓から飛び出すようなことはなかった。だから、アレルギーの所為で視界が曇ることもなく――先日の「確かにぴろだった」という証言と今回の証言、どちらが信頼できるかと問われれば、答えは明らかだ。

 そもそも、俺は最初から「別の猫」だと言っていたはずだ。それなのに、当の俺まで「ぴろが飛んだ」という意見に傾いてしまったのはなぜだろう。
 名雪が強固に主張していた、ということもあるが――
「でも、珍しいよね」
 不思議そうに首を傾げる名雪。
「珍しいって、何が?」
「この家に猫さんが来るの」
「そうだな……」
 確かに、水瀬家の敷地内でぴろ以外の猫を目撃したことはなかった。
 今まで疑問に思ったことはなかったが、恐らくぴろが「縄張り」のようなものを守っているからだろう。もしかすると、ぴろの飼育を許可した秋子さんには「頭の良い猫を一匹飼って、他大勢の迷惑な猫を名雪から遠ざけよう」という心算があったのかもしれない。
 とにかく――そのぴろが家を留守にしていたのだから、代わりに別の猫が侵入するのも道理といえば道理である。
 まあ、窓を開けさえしなければ害はない。名雪には我慢をしてもらうしかないだろう。



「わ、ホントだ。猫さんがたくさん」
 目を輝かせる名雪。
「外から見るだけだぞ」
「分かってるよ……」
 しかし、名雪はますます目を潤ませ――って、猫が多すぎて、この距離でもアレルギーの症状が出てるのか!?
「うー……祐一、見えない」
「裏口の方へ行こう」
 多分、そちらの方が風上だ。

 偽ぴろの正体が判明した翌朝。
「わたしも保育所に行く」と言い出した名雪を、俺も真琴も止めることができなかった。
 うっかり「動物王国」と漏らしてしまった俺も悪いのだが、猫に関してはいつも苦い思いをしている名雪の希望である。可能な限り適えてやりたい――そう思ったから、「外から眺めるだけ」という条件付きで一緒に出掛けたのだ。
 そういうわけで。
 保育所の中に入っていく天野たちと別れ、俺と名雪は所長さん公認の「覗き魔」になっている。
「猫さん……ここからじゃ遠いよ」
 近付きすぎると涙が邪魔をして、かといって遠ざかると猫が豆粒にしか見えない――本当に不憫だ。
「ほら、猫以外にも色々いるぞ」
 俺はウサギやムササビの小屋を指差してみせる。
 前庭の方に目を向ければ――今日はニワトリもケージから出され、子供たちに紛れて歩き回っているようだ。嘴とか爪とか、危険じゃないのだろうか。大人しく雑草をついばんでいる様子はいかにも安全そうだが。
 危険といえば、あの悪ガキだ。
 ――アイツ、また女の子に絡んでやがる。
 他にすることはないのか。まったく、将来が思いやられるぞ。
 とはいえ、今日のターゲットは真琴でも天野でもないらしい。悪ガキに向かって怒鳴り返している勝ち気な少女は、正真正銘、保育所に通う就学前の子供だ。昨日、天野にくっついていた子のうちの一人かもしれない。
 そういえば、天野はどこにいるのだろう。いつもなら「桃太郎状態」になっていて目立つはずなのだが――
「あれ……?」
 真琴の姿も見当たらない。二人とも、どこへ消えたんだ?

「祐一」
 俺の袖を引っ張る名雪に気付くのが遅れてしまったのは、保育所の中を覗き込むようにして二人の行方を探していた所為だ。
「祐一。わたし、先に帰るね」
「え?」
 振り向いたとき、名雪の背中は既に10m以上遠くにあった。
「待てよ」
 呼び止めるが、彼女は歩みを緩めない。そのまま、俺は追いかけるタイミングを逸してしまった――
 薄暗い裏庭の方から、こちらへ人影が近付いてきたからだ。
「……天野」

 彼女の顔から、子供たちに向けていた優しい表情は消えていた。眉を歪めて――まるで、「私を巻き込むな」と拒絶されたあの日に戻ったような気分になってしまう。
 どうやら、俺の不安が的中してしまったらしい。
「天野」
 俺は狭い裏口をくぐり、再び名前を呼んだ。
 彼女は一瞬、俺の存在に驚いたような仕草を見せるが、
「すみません……独りにして下さい」
「でも」
 押し問答を繰り返していると、真琴が息を切らせて走り込んでくる。どうやら天野を追ってきたようだ。
「どうしたのよぅ、美汐。急にいなくなったりして」
「……」
 天野は俯いたまま、何も答えられない。
「もしかして、ヒヨコが嫌いだったの? あんなに可愛いのに……」
 いや、それは違う。
 恐らく――
 彼女の抱える問題は、好きだとか嫌いだとか、可愛いとか可愛くないとか、そういうことじゃないのだ。好きだからこそ、可愛いからこそ――

「なぁ、天野」
 呼び掛けたのは良いが、何を話して良いのか分からない。結局、俺の口から出てきたのは「大丈夫か?」などという月並みな言葉だけだった。
「大丈夫です。大丈夫……じゃないといけないんです」
「でも、ここは……子供も動物もたくさんいる」
 ぴくん、と肩を震わせる天野。
 そう。ここには無邪気な命が多すぎるのだ。それは、彼女にとって強すぎる薬になってしまうんじゃないだろうか――俺はそれを危惧していた。
「いいえ、『たくさん』かどうかは関係ありません。私が……いつか、乗り越えなければならないことですから」
 誰かが自分に好意を向けてくれて、自分自身も相手のことを好きなのに、心のどこかで一線を引いている――そんな残酷なことはない、と天野は呟いた。
「……」
 ここまで聞いておいて「無理をするな」というのは、少し違うような気がする。かといって「頑張れよ」と無責任に応援するような筋合いでもないだろう。
 何か気の利いたことを言ってくれるかと期待して真琴の方を見ると、真琴は真琴で期待を込めた視線を俺に向けていた。
 そのとき――
「疲れたら休む」
 明快な答えは、横手から降ってきた。
「所長さん」
 彼女は「のっしのっし」と音の聞こえそうな足取りでこちらにやってくると、天野の目の前で静かに身を屈め、
「疲れちゃったんだね、美汐ちゃんは。大切な誰かのために、いつも一生懸命になっていたから。だから今は……ゆっくり、お休みなさい」
 天野が顔を上げると、所長さんは「『寝る子は育つ』だからね」と笑った。



「名雪、開けてくれ」
 少し強めにノックしてやると、「なゆきの部屋」と書かれたプレートがカタカタと揺れた。しかし、中からの返事はない。
 夕飯の時間を過ぎても、名雪はダイニングに現れなかった。
 秋子さんによれば、独りで帰宅してからずっと部屋にこもっているらしい。保育所まで行って、結局ほとんど猫を見られなかったのだから、気持ちは分からなくもない。
 ――何やら最近、俺の周りで猫絡みの厄介事が頻発しているような気がするな。
 とはいえ、今日の名雪の件については、彼女を保育所まで連れていきながら放っておいた俺に非がある。どうにか元気付けてやりたいのだが――
「寝てるのか、名雪?」
 解決はなかなかに難しそうだ。
 秋子さんの作ってくれた一人分の食事を足下に置き、ひとまず俺も自室に戻ることにする。
「夜食、ここに置いとくからな」
 そう声を掛けて踵を返すと、背後で留め金の外れる音がして――次いで、細長い月光が俺の右足を照らした。

 今夜の名雪は、先日のように暗がりにうずくまっているわけじゃなかった。
 姿だけ見れば普段通りだ。しかし、食事も取らずに閉じこもっていた人物の言動がいつも通りであるはずもない。
 俺が「ごめん」と謝ったきり黙っていると、彼女は「大丈夫」と笑いながら――哀れな従兄弟に命令したのだ。
「猫さんになって」
「へ?」
 最初、自分が何を言われたのか分からなかった。次に、自分の耳を疑った。そしてようやく、それが先日の戯れ言の答えなのだと気付いた。
「ね、猫っていうと……俺は、いったいどうすれば?」
「それはもちろん、すりすりしたり、ごろごろしたり。身体はふさふさで、肉球はふにふにで」
 ――秋子さん、短い間でしたがお世話になりました。海の向こうにいるお父さん、お母さん、先立つ不幸をお許し下さい。南無。
「冗談だよ」
「……冗談?」
「ううん、猫さんになってほしいのは本当。でも、ふさふさもふにふにも要らない。祐一は、そこでじっとしててくれれば良いから」
 それはそれで、別の危機感を覚える。しかし、何の因果か「猫になる」と宣言してしまった俺は、命じられるまま大人しくしていなければならないのだ。

 名雪は――
 びくびくしている俺の隣に座り、
「猫さん……」
 呟きながら、俺の腕を抱え込んで撫で始める。
 そのまま、一晩中そうしていた。
 二人の間にそれ以上の会話はなかった――ただ一度、名雪がこう訊いたのを除いては。
「祐一、鳴いた?」
 鳴いた、というのは――つまり、俺が本物の猫のように「ミャア」という音を発した、という意味だろうか。
 失礼な。そこまで堕ちたらおしまいだ。





    3.

「うぁ、これは……」
 目の前の光景に、俺は呻き声を上げた。隣に立つ秋子さんも「あらあら」と顔をしかめている。
 事件の現場はぐちゃぐちゃで、グロテスクな肉の破片が散らばっているようにも見えた。
 夕飯のおかずを採集しようと庭の菜園に向かった秋子さん。「俺も手伝いますよ」と気楽に後を追ってきたのだが。
 すっかり熟れていたはずのトマトの実が――ものの見事にやられていた。
 恐らく五個以上あったはずのそれは、判別不能のバラバラ死体となって地面に転がっている。
「今夜のサラダはトマト抜きですね」
 秋子さんは「キュウリは無事で良かったわ」などと呟きながら飄々としたものだが、俺は自分の失態をはっきりと悟っていた。

 あの猫だ。
 野良を甘く見ていた。名雪が何度も目撃した時点で、きちんと追い払っておくべきだったのだ。
 今日はトマト一株の犠牲で済んだが、放っておけばどんどん増長していくに決まっている。
「笑い事じゃないですよ、秋子さん」
「一週間もすればまた実りますから、それまで我慢して下さいね」
「そうじゃなくて!」
「ええ、分かってます……どうしましょう」
 秋子さんは今度こそ本当に困ったという表情をした。
 本来なら、この大らかな叔母は動物の悪戯にいちいち目くじらを立てるような人じゃないんだと思う。しかし、相手が猫となると――名雪のアレルギーがあるから、厳しい態度を取らざるを得ない。そんな葛藤が見え隠れしている。
「とりあえず、ヤツを近付けないようにするのが先決でしょう」
 秋子さんの中に「保健所に連絡」という選択肢がないのは分かっている。人間の都合で動物の命を操作してしまうことが、何よりも嫌いなのだ。
「ぴろちゃんにお留守番してもらえば……」
「ええ、そうですね。以前はそれで上手くいっていたわけですし」

 ところが、ぴろを番犬代わりにすれば野良猫は入ってこないはず、という期待は完全に裏切られた。
 いや、確かに最初のトマトほど手酷くやられることはなくなったのだが――トマト、キュウリ、ナスと続いた小さな悪戯も、積もり積もれば結構な損害になる。
「おい、ぴろ。お前、本気でやってるか?」
 ――なぅ〜。
 当たり前だが、話にならない。
「こら、祐一。ぴろをいじめないでよねっ」
 俺を叩いてくる真琴も、心なしか普段より元気がないようだ。
「まったくどうなってるんだ。畑荒らしは少しも収まらないし……保育所のガキどもに『ぴろを独り占めするな』って責められるだけ損だ」
 ここまで頻繁に襲われるとなると、敵はこの近所にねぐらを構えていると見るべきだろう。探し出して懲らしめてやるのも良いかもしれない。
「もしかしたら……」
「何だ?」
「野良猫、この家に住んでるのかも」
「バカな」
 それこそまさかだ。
 いくらぴろでも、そこまでされて黙っているはずがない。
「だって、物置の陰とか、隠れるところいっぱいあるし……ぴろには、名雪の部屋の方には近付かないように言い付けてあるから」
「うーん……確かに」
 敵は名雪の部屋のすぐ外に現れたし、秋子さんの菜園があるのもその真下だ。
 考慮してみる価値はあるかもしれない。
「よし。あしたは日曜だし、ひとつ家捜しでもしてみるか」



 翌日の空はからりと晴れて、絶好の捜索日和だった。
 即席調査隊の構成は、相沢祐一隊長以下、隊員一号の真琴、二号のぴろ、顧問の秋子さん――以上。
 名雪は屋内で留守番だ。彼女も参加したがっていたが、探す対象が対象だけに仕方がない。
「仇は取ってね、祐一」
 俺たちを送り出しながら、名雪はしきりにそう激励していた。
 猫に対して「仇」とは名雪らしからぬ言い草だが、無理もない。昨日、彼女の楽しみにしていたイチゴの株が犠牲となったのである。この地方でイチゴを露地栽培する難しさを考えれば、今年はもう収穫を見込めないかもしれない。
 しかし――
「……ここにもいない、と」
 水瀬家の敷地内にいる――という真琴の意見に基づいて、家のぐるりを探してみたのだが。
 物置の裏にも、植え込みの陰にも、野良猫の痕跡はなかった。
 やはり、近所のどこかに住んでいるのだろうか。
「ゆういちゆういち、来てーっ」
「どうした?」
 真琴の指差す先を見ると、縁の下の通気孔を塞いでいる金網が割れて、隙間ができていた。これなら猫一匹くらいは通り抜けられるかもしれない。
「何してるの、祐一」
「足跡とか、残ってないかと思ってな」
 ざっと確認した限り、それらしき跡はなかった。
 本当に、敵はこの縁の下に潜んでいるのだろうか。
「確かめてみようよ」
「さすがに人間は通れないぞ。よし、ここはぴろに任せ――」
「祐一さん。台所から床下に入れますけど」
 余計なことを言わないで下さい、秋子さん。

「へぇ。ここ、外れるんですね」
 台所は床の一部が開くようになっていて、その下はジャムを保存するための小さな貯蔵庫になっている。それを取り外すと、真っ暗な床下の空間が広がっているわけだ。
「それでは、行ってまいります」
 懐中電灯を手に、その闇の中を這い進んでいく。
 名雪の前で一度は「猫」になった俺だ――恐れるものなど何もない。
 さあ、出てこい、我が生涯のライバルよ。
 ――と、初めは意気込んでいたのだが。
「すみません。よく分かりませんでした」
 とにかく暗くて狭くて、身動きが取れないのだ。柱や配水管など、思いのほか障害物だらけだったのも誤算だった。
 一応、生き物の気配は感じなかったが――俺が入ってきたのに驚いて逃げ出した可能性も否定できない。

 結局、調査隊は戦略を変更することになった。
「本当にこんなので大丈夫なの?」
「黙って待ってろ」
 名付けて「食欲大作戦」だ。
 秋子さん特製のマタタビ団子とカツオ節を菜園の隅に並べておき、ふらふらと誘き出された敵を一網打尽――という寸法である。
 餌の効果は折り紙付き。その証拠に――ふらふらと何度もぴろが誘き寄せられては、真琴に連れ戻されている。
 ――って、お前が罠に掛かってどうする、ぴろ。
 そのうち、真っ直ぐ近寄ると真琴に捕まってしまうと気付いたのか、家の裏を大回りして餌を狙うようになってしまった。そのたびにトウモロコシの茂みをカサカサと揺らすので、紛らわしくて仕方がない。
「はぁ、真琴とぴろは美汐の家に避難するね……」
「おう」
 現場には俺一人が残された。
 ――さあ、ここからが正念場だ。
 正念場だぞ。
「祐一さん、おやつですよ。中に入りませんか?」
「あ、いただきます」
「猫さん、まだ出てこないの?」
「ああ、残念だけど」
 こうして窓から眺めていても、餌に近寄る気配はない。今の俺は室内にいるのだから、人間の匂いを警戒されるようなこともないはずだが――
 全く埒が明かない。

「よし、最後の作戦を試そう」
「最後の作戦?」
 ――そんな期待の眼差しを向けないでくれ、名雪。
「ああ、これだ」
 俺は空になったペットボトルを取り出した。こいつに水を入れておけば、近寄った猫は歪んだ自分の像に驚いて逃げ出すのだ。
「それじゃ、ただの猫さん避けだよ」
 無論、そんなことは分かっている。どうやら効き目が怪しいらしい、ということも承知の上だ。
「オーソドックスに勝る方法はない」
 というか、敵の誘き出しを諦めざるを得なくなった今、俺たちにはこういう消極的な手段しか残されていないのである。
 名雪の幻滅の声を背中に浴びながら、俺は大小数本のペットボトルに水を詰め、例の通気孔の周囲に並べた。
 仕上げに、正体不明の青い餅を上に載せる――「猫避けなら、これはどうですか?」と秋子さんがくれた特製の猫避けだ。名雪のアレルギー対策として工夫したもので、活用する機会を窺っていたらしい。
 作り方を尋ねると、案の定「企業秘密」という答えが返ってきた。とりあえず、化学調味料は入っていないのだそうだ。
 とにかく、こいつの効果は抜群である。夕方、天野の家から帰ってきたばかりのぴろが尻尾を巻いて逃げ出したほどだ。少し可哀想だが――まあ、ぴろのことは真琴に任せておけば良いだろう。

 そういえば、真琴とぴろを迎えに行ったとき、天野の家で面白いものを見た。
「どうぞ」という声に従って玄関の引き戸を開けた俺を出迎えたのは、天野でも真琴でもぴろでもなく、一匹の白猫だったのだ。いや、一匹じゃない――その身体の陰から、ひょいと小さな生き物たちが飛び出してきた。
 白毛が一匹と、もう少しくすんだ色が二匹。そのうち一匹の足取りは、よちよちと覚束なげである。
 猫の親子だ。
 やがて現れた天野が「めっ」と一喝すると、小さな家族は廊下の暗がりへ消えた。
「真琴たちは縁側で遊んでます。呼んできましょうか。それとも、上がっていきますか?」
 尋ねる天野に首を振り、俺は廊下の奥を指差す。
「あれは……?」
 表情に出さないように気を付けたが、もしかしたら「無理してるんじゃないのか?」という疑いの視線を向けてしまっていたかもしれない。
 天野は笑って、
「リハビリです」
 それは、いつもの消え入りそうな笑顔とは違っていて――そう、豪快に笑う保育所長の口調に少しだけ似ていた。
「安心した。大丈夫みたいだな」
「はい」
 ――天野の「はい」を久しぶりに聞いたような気がする。



 しかし――
 彼女の笑顔を嘲笑うかのように、それからも水瀬家の菜園は荒らされ続けた。
 俺の仕掛けた罠など何の意味もなかったのだ。





    4.

 哀しい出来事は、連鎖したがるものらしい――
 最近、とみに俺はそう思う。

 夏休み最終日。
 しぶとく残っていた課題(怠けていたわけではなく、野良猫騒ぎで時間を取られた所為だ)を片付けると、時刻は既に正午を大きく回っていた。
 空き時間は少ないが、休みの最後でもあるし所長さんに挨拶しておくべきだろう。
 駅裏へ続く道のりにも、すっかり慣れてしまった。
 恐らく天野も来ているはずだ。彼女は結局、一日も休まず保育所へ通っている。
「あ、ゆーいちがきたぜ」
「ずいぶん、じゅーやくしっきんだな」
「おう。『失禁』じゃなくて『出勤』だぞ」
 天野ほどではないが、俺にも何人かの小さな友人ができた。「ゆーいち」と呼び捨てにされるのは哀しいが、子供たちは真琴に倣っているだけなのだから仕方がない。
「なぁ、天野を見なかったか?」
「みしおちゃん?」
「そう、美汐ちゃん」
「しらな〜い」
 さては、彼女も夏休みの課題に追われているのか。
 ――などということは、天野に限ってありえないわけで。
 彼女は独り、裏庭の片隅で葉を広げる金木犀の下にいた。

「天野?」
 駆け寄ろうとした足を途中で止める。
 別に、苦しくなって逃げ出したわけじゃないようだ。
 彼女は大事そうに抱え込んだ何かをそっと地面に横たえると、両手で土を掻き始める。あれは――ここで飼っていたジュウシマツだろうか。
 墓を掘っているのだ。
 手伝ってやりたい気もするが――何となく近寄り難い雰囲気を感じて逡巡していると、向こうから小さな影がやってくる。影は、木の枝らしきものを自慢げに振りかざしていた。
 ――あの悪ガキだ。
 再び駆け寄ろうとした足を、やはり途中で止める。
 どうやら、今日は天野をいじめに来たわけじゃないらしい。何事かを話し合いながら、彼女の向かいに屈み込む。
「ま……良いか」
 俺はそのまま踵を返し――
「何してるんだ、真琴?」
 建物の陰でコソコソしている真琴と鉢合わせした。彼女は数人の子供たちを率いており――彼らは手に手に小さな白い花を掴んでいる。
「ん、献花か。早く行ってやれよ」
「あんな良い雰囲気の二人の間に割り込むなんて、野暮なことはできないわよぅ」
「勝手にしろ」

 その小鳥の死は、一種の予兆だったのかもしれない。



 退屈な始業式を済ませ、久しぶりに再会したクラスメートたちとのバカ騒ぎに疲れて帰宅した俺を待っていたのは、心細くなるような猫の鳴き声だった。
「ぴろ?」
 いつもの人を食った態度は鳴りを潜め、物置の陰から俺の方を見上げている――背中に何かを庇いながら。
 ぴろの背後に転がるそれに、俺は見覚えがあった。
 天野の家にいた仔猫――あの脚の弱かったヤツだ。
 もう、ぴくりとも動かない。
 母猫よりも少しだけくすんだ身体。その手足もようやく色付いてきて、こうして並べてみると――
 本当に、ぴろにそっくりだった。
 なるほど、名雪は一度も見間違いなどしていなかったのだ。
 ――見間違うはずないよ。だって猫さんなんだよ? ちっちゃくて……
 彼女は確かに「ちっちゃいぴろ」と言っていた。視界を涙に滲ませながらも、相手の大きさは正確に把握していたのである。
「死んじまったのか?」
 確認するために手を伸ばすと、ぴろは「ギャア」と敵意をぶつけてくる。
「分かった分かった、もう近寄らないから」
 ここはぴろに任せるしかない。
 心配なのは真琴だ。彼女は、このことを知っているのだろうか。まだ、保育所から帰ってきていないようだが――
 視線を戻すと、ぴろと仔猫の姿はいつの間にか消えている。

 家の中で、電話のベルが鳴っていた。



「相沢さん……昨日、覗いてましたよね?」
 呼び出しを受けて出頭してみると、向かいに座った天野は開口一番、訊いてきた。
 天野の家は和風建築だが、案内された応接間は洋室だった。その流儀に合わせたのか、テーブルの上には緑茶ではなく紅茶のカップが湯気を立てている。
 大きな柱時計が、鐘を三回鳴らした。
「覗いてたって、何を?」
「保育所の裏庭で」
「ああ」
 こんなところで誤魔化しても意味はない。彼女が悪ガキや真琴たちと何を話していたのかも気になるし、天野の前では正直な態度を通すべきだ。
「『この棒きれを使った方が穴を掘りやすい』って言われたんです」
 ――これは、あのガキの台詞だろう。
 しかし、天野はその申し出を断ったのだという。自分の手で墓を掘ることが重要だと思ったからだ。悪ガキは「深い方がきっと静かに眠れるのに……」と呟いた。
「どうかしてたんですよね、私……あの子の言葉を聞くまで気付かなかった」
「気付かなかった?」
「はい。私はあの小鳥のお墓を作ってあげたかったんじゃない、ただ『自分の手で』何かを埋めたかっただけなんです」
「結局は同じことだろう」
「違います。あの子は、何も残さなかったから……」
 天野が二度目に使った「あの子」は、最初のものとはニュアンスが違っていた。
 つまり、あの悪ガキを指しているわけじゃない。もっと、ずっと昔の――

 束の間の奇跡の終わり、妖狐は文字通り煙のように空気に溶けてしまう。
 後には何も残らない。
 無意識のうちにその身代わりを求めてしまったからといって、いったい誰が天野を責められるだろう。

 こういうとき、どう声を掛ければ良いのか――結局、分からないままだ。
「お前の心の中に残ってる」なんて、陳腐なことを言ってやれば良いのか? 「その経験は無意味じゃなかった」とでも?
 違うだろう。
 ただ、あのガキのように行動すれば良いだけだ。
 そう――
 天野が断ると、ヤツは持ってきた枝きれを投げ捨ててしまったのだそうだ。
 投げ捨てて、一緒に素手でジュウシマツの墓を掘ってくれたらしい。
「あの子、すごく指の力が強くて……」
 深く、深く、と天野は笑った。

 まあ――悪ガキだが、少しは見直してやっても良いだろう。

「相沢さんに似てるんですよ、あの子。ひねた性格とか、本当にそっくり」
 唐突に思い付いた、という顔でこちらに視線を向ける天野。
 今の「あの子」は悪ガキの方だ。
「はぁ?」
 止めてくれ。見直したばかりだが、あんなのと一緒にされるのは心外である。
 天野の目には俺がああいう風に映っていた、ということだろうか。
 ――心当たり、あるな。
「小鳥のお墓を掘りながら、他の子たちはどうしたのって訊いてみたんです。そうしたら、何て答えたと思いますか?」
「んー、そうだな……」
 金木犀の根元に屈み込む二人の姿を思い出しながら会話を想像してみるが――降参だ、全く分からない。
「あの子の答えは、こうでした――『ここじゃ生き物が死ぬなんて日常茶飯事だから、あいつらは何とも思ってないんだ』」
 俺は「おや?」と思って尋ねる。
「でも、真琴たちが花を持っていっただろ」
「ええ。私もびっくりしましたけど、あの子はもっと驚いていたみたいで……『トイレに行く』って、逃げ出してしまったんです。心配になって、追いかけてみたんですけど」
 天野は可笑しそうに声を揺らしながら、「口止めされているから、これ以上は」と口を閉ざしてしまった。
 しかし、あの悪ガキが俺に似てるっていうなら、悔しいがおよそ想像が付く。
「……泣いちゃったんだろ?」
 天野と一緒にいるところを見られてしまったことが、恥ずかしくて。それに――小鳥の存在を皆で覚えていてくれたことが、どうしようもなく嬉しくて。



「天野」
 俺の呼び掛けで、談笑モードに入っていた会話は中断した。
 そう――今日の本題は別にある。
 何も、昨日のことを話すためだけにここへ来たわけじゃない。天野だってそれを分かっているはずだ。
「何ですか?」
「真琴を出してくれ。ここに……いるんだろ?」
 少しだけ訝しげな表情で俺を見返す天野。

 今日、水瀬家の電話は二回鳴った。
 二回目は天野からの呼び出しだった。そして――
 最初の方は、無断欠席の真琴を気遣う保育所長の声だったのだ。

「真琴を責めないであげて下さい」
「理由による」
 俺はそう答えたが、正直なところ真琴の責任を問うつもりはなかった。縁の下に猫の母子を匿っていたこと、それを皆に黙っていたこと――およそ理由の見当は付いている。
「『見付かったら捨てられてしまう』と思ったんだそうです」
 水瀬家の家主に限ってそんなことはない、と言い切れないのが苦しいところだ。
 名雪のことを考えれば、ぴろ一匹がギリギリの妥協点なのである。
 まさか「殺してしまえ」となるわけはないだろうが、やんわりと余所へ譲り渡すように命じられる可能性は高い。
「ひとつ確認させてくれ」
「はい」
「あの白猫は、ぴろが……?」
「最初に見付けたのはぴろですが、相沢さんのお宅に住まわせていたのは真琴です。元々、猫に『夫婦』の概念はありませんから」
 なるほど、その所為で余計に気負ってしまったのかもしれない。
 懸命になって別の猫の存在を否定したり、床下に何もいないことを証明してみせたり。
 いくら餌で誘き出そうとしても現れるわけがなかったのだ――あの一日だけ、母猫とその三匹の子供は天野の家にいたのだから。
 動物に懐かれやすい天野を見て、真琴は「共犯者に最適」と考えたのだろう。
 ぴろは猫避けを恐れて逃げ出したわけじゃなかった。俺が家の中へ入るのを見届けてから、新しい家族を迎えに行ったのである。

「なぁ、真琴のヤツ、何て言ってた?」
「『自分の所為で仔猫が死んでしまった』と……」
 やっぱりそうか。
 客観的に見れば、そもそも身体の弱いあの仔猫が生き残れる可能性は低かった。とはいえ、「もっと良い環境で育てていれば――」と真琴が考えてしまうのも無理はない。
「相沢さん」
「何だ?」
「私は……真琴に、何を言ってあげれば良かったんでしょうか」
 真琴が駆け込んできたとき、という意味だろうか。
 ――それは、俺にとっても永遠の疑問だ。
 俺自身、天野にどう声を掛けるべきなのか悩んでいた――そう伝えたら、天野は笑うだろうか。
「実際、何を言ってやったんだ?」
「何も……」
 天野は肩を落としているが、そう悲観するものでもないだろう。
 何より今日、俺や名雪や秋子さんを差し置いて、彼女が天野のところへ駆け込んだこと。それだけで、天野の存在が真琴にとっていかに重要なのか分かる。そうじゃないか?
 天野はただ、ここにいるだけで良かったのだ。
「なぁ」
「あの――」
 顔を上げたのは、二人同時だった。



「本当に、天野にあげても良かったのか?」
 新しく実ったトマトを両手でもぎ取りながら、俺は尋ねた。
「ぴろが『そうしたい』って言うんだから仕方ないじゃない」
 少し熟れすぎのナスを引っ張りつつ、真琴が答える。

 午後三時の応接間で、天野は「母猫と仔猫を引き取りたい」と申し出たのだ。それはまさに俺が頼み込もうとしていた内容と同じだった。
 水瀬家で猫を何匹も飼うのはさすがに難しい。貰い手が天野なら真琴も分かってくれるに違いないが、保育所での出来事があったので天野には頼みにくかったのだ。
 しかし――「動物、もう平気なのか?」と不安がる俺に、彼女は笑ってみせた。
「はい。もう、充分に休みましたから」
 真琴の説得に骨が折れるかもしれないと危惧していたのだが、彼女は存外あっさりOKを出して俺と天野を拍子抜けさせた。「なぜ」と尋ねても「ぴろが言っている」の一点張りである。

 さらなる「驚き」は、真琴の背後から部屋に入ってきた。
 白毛の母猫を先頭に、カルガモの親子よろしく白と灰が一匹ずつ続く――ここで、俺は「ああ、やっぱり一匹いなくなってしまったんだな」と感傷に浸った。それなのに――
「ふ、増えてるんだ!?」
 カルガモの行列は三匹で終わらなかった。
 一回り小さいヤツが、ぞろぞろと付いてくる。元々の三匹に加えて、白一匹、灰三匹。合計七匹になった母子の後ろに悠然と現れた父猫――ピロシキは、いつもの偉ぶった視線を俺に向けた。
 俺は「妊娠期間とか、そういうのを無視してないか?」とぴろを疑ってしまったのだが、どうやら猫は妊娠中にも交尾して、順番に出産することがあるらしい(この辺りの知識は天野の受け売りだ)。

「祐一、ナスは採れたよ……って、なに呆けてるのよぅ。秋子さんが待ってるのに」
「あ、ああ」
 どうやらトマトを両手に掴んだまま止まっていたらしい。慌てて赤い実を茎から切り離し、真琴の後を追う。そこで、ふと違和感を覚えた。真琴の頭の上にあるべきものがない。
「おい、ぴろまで天野にあげちまったのか?」
「そんなことあるわけないでしょ。美汐の家で親子水入らずのお別れをしてるだけよ」
「あんまり放っておいて、『こっちの家の方が気に入った』とか、ぴろが心変わりしたらどうするんだよ」
 まさか、真琴まで「美汐の家に引っ越す」とか言い出すんじゃないだろうな?
「心配しなくても、ぴろの家はここだから。ちゃんと帰ってくるよ」
 笑いながら、真琴は「ほら」と腕を広げる。
 彼女の背後――俺の視線の先で、背の高いトウモロコシの茂みが、カサ、と揺れた。





****

 水瀬家には一匹のネコが居る。
 飼っているというべきか、住み着いているというべきか。
 性別はオス。性格は至って気まぐれ。知らぬ間にふらりと姿を消したかと思えば、翌朝には何事もなかったかのような顔をして家に戻っている。

 ――いったい、どこへ出掛けているのかって?
 野暮なことは言いっこなしだぜ。


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