『ね、あなたはどう思う? このウサギさんの耳』
 にっこりと笑って、少女は天使の人形に語りかける。でもそれは、頭に揺れるうさ耳からしたら不釣り合いなくらい、真剣な、とっても大切なことを聞く口調。
『なんだかアリスのうさぎみたい。なら、あなたを導くのはあたしってこと?』
 手を差し出して人形を、そっと手のひらに乗せてあげる。
 世界は一枚の絵。不思議な色で描かれている。ぽたり、落ちた雫ひとつで、ぜんぶ滲んだ。淡くぼやけた輪郭も、しだいに水に溶け、どこまでも広がってゆく。
 きっと最初は真っ白だった。何もかも。
 何度も何度も描き直されて。いっぱいいっぱい塗りつぶされて。今となっては、もう、あちこちすり切れたみたいに。
『ああでもでも! これじゃアリスはあたしになっちゃう!』
 困ったなあと腕を組み。
『そうだ! ねえ、あなたは夢を見た?』
 空から欠片が舞っている。きらきら光輝いてる。地に触れたなら、汚れるだなんて気付きもしない。
 真っ白なキャンバスに、今より描かれようとするものを、いったい誰が知るだろう。
『誰のことを想ったの?』
 そうして終わりのない夢を、どうして求め続けたのだろう。
 聞こえる足音は誰のもの。
 永い、永い旅路の向こう。出逢うために、歩み続けてきた。
 帰り道も知らずに。
『そう。それは旅みたいだね。さよならの無い旅』
 そんな矛盾した世界で。たとえば少女と天使の人形が、こうして共に同じ場に在るように。
 不可分のアリスとウサギ。天使は何処かへ消えて。
『これからあなたが見るのは夢。長い道を歩いてきた誰かが、色々な夢に回り道して寄り道して、ふと気づいたそのときに。いつしか手にしていた、ひとひらの雪』
 雪解けの街で語られる、他愛もないおとぎ話。その、ひとつの終わりはここにある。
 彼女はじっと見つめる。射抜くみたいな強い目で。
 風が生まれた。
 まっすぐに、人形へと――人形を通して見ている、向こう側の誰かへと吹いている。彼女は微笑む。そして言う。
 しまっておいた大切な言葉、ようやく告げるときがきたからと。
『どうか、あなたに』





君のファンタジック…なんてねっ






 秋子さんと相談中、眠たげな目をこすりこすり、名雪がパジャマ姿で階段を降りてきた。
 とたとた足音がしたので、俺はそっちを見た。
「お前! じつは名雪じゃないなっ!」
「わ。いきなり存在丸ごと否定されたよー。って、ひどいよ祐一!」
「いやほら、あれを見ろ」
 時計の針に注目する一同!
 こんや 12じ だれかが しぬ
 ――って、ここは雪で閉ざされたペンションじゃないからっ。鎌鼬ならぬ妖狐はいるけど。
「短針は12を指し示している。外は真っ暗。草木も眠る時間だな。名雪が起きているイコール偽物の証明だっ」
「祐一さん、いくら名雪でも夜中に起きることはあるんですよ」
 いくら。でも。さらっとひどいこと言ってます秋子さん。
「いや、ここで甘やかすと名雪が別の存在になりかねない! 寝るんだ名雪! 寝れば明日イチゴサンデーが空から降ってくる! …かも」
「くー」
「早っ! 寝るの早っ! 演技じゃなかろうな」
「くー」
「わ。ほんとに寝てるよ。びっくり」
「わたしの真似しても、祐一のそれじゃ、ぜんっぜん似てないよ!」
「力一杯否定したところで悪いが、引っかかったな」
「……あっ!?」
「すぐ寝ないと、けろぴーが怒るぞ」
「けろぴーは優しいから怒らないもん」
 と言いつつ、素直に名雪が自分の部屋に戻っていった。おやすみなさいーの声の余韻を残しつつ、ドアの向こうに消える。で、けろぴーはいつから喜怒哀楽を手にいれたんだ。
「それで祐一さん、真琴のことはどうしましょう」
「水着選ぶことなら天野に頼んでおきました。了承、取り付けてきましたんで。明日あたり、一緒にデパートにでも探しに出かけてきます」
 なお天野に真琴の話をした後『私のも、……いいんですよ?』と顔を真っ赤にさせながら、小さくささやかれました。服の裾も握られてました。逃げられませんでした。
「…え?」
「いや、だから天野から了承を」
「な、なんてことを!? 祐一さん、そんなことをしたらだめですよ!」
 叱られてしまった。こんな激高した秋子さんを見るのは初めてかもしれず。
「ど、どうしてですか」
 聞くと顔の前で手をそっと組み、微笑まれた。
「だって、それは私の決めゼリフなんですから」
 恥じらいつつ、うっすらと頬を染め――そうか、これが萌えか。萌えなのか! アホな発言して香里にぼっこぼこに殴られながら北川が更に気持ちよさそうに叫ぶ(そしてまた殴られる)感情ついて、たった今、開眼した。
「結婚してください」
「あらあら」
「実は七年ほど前から秋子さんひとすじでした。ラブでした。秋子さんのためなら奇跡どころか名雪のひとりやふたり、これでもかと言うほど起こしてみせます!」
「こらーっ! 嘘つくなー! 血迷うな祐一のバカぁーっ!」
「どっからでてきやがったキツネっ娘」
「さっきからいたじゃないのよぅ」
「いたっけ?」
「いたのっ!」
「まあ、そんなことはどうでもいい」
「よくなーい! それに、結婚は真琴とだけでしょうがぁっ!」
「うむ。じゃあそうしてやるから、祐一あいらびゅーと言え」
「祐一、あいらびゅー?」
「…こんな直接的すぎる愛の告白は初めて。ぽっ。よし、今日は真琴をこれでもかこれでもかと抱きしめながら寝てやろう」
「あぅ…。暑苦しいからやめてー」
 手をわきわきさせると、顔をしかめて逃げられた。
「じゃ、真琴。今から一緒に風呂入ってくるか」
「絶対イヤ」
「……」
 鼻をつまんで遠ざかってみる。真琴は挑発だと気づかず手を振り上げる。
「な、なによぅ。お風呂ならもう入ったんだから! イヤなのは一緒に入るのがなんだからあっ!」
「じゃあ時間差な。真琴が先入ってるところに俺も入る。これでどうですか秋子さん」
「祐一さん、あの…なんでも了承する、だとか思ってませんよね?」
「…ごめんなさい」
 ちょっと思ってました。
「もう。しょうがないですね。さあ…もう遅いし、真琴もそろそろ寝なさい」
「お母さんは?」
 真琴の肩に手をやり、寝室へ押してゆく途中で、いったん立ち止まる。
「ええと、…そうね、私もすぐに寝るわね。それから祐一さん、あんまり悪ふざけしてはいけませんよ」
 少し大きめのパジャマからのぞく肩甲骨が。肩甲骨がっ!
 あとうなじ。ああ、もはや言葉にならない。とにかく幸せだったのだ。
 見とがめる秋子さん。近寄ってきて、
「祐一さん、めっ、ですよ?」
 そういって、息がかかるほどの距離に。叱られたので、こくこくと素直にうなずいておく。
 気分を切り替えてっと。舞と佐祐理さんも誘おう。
 栞と香里には昨日、百花屋で会ったときに話つけてあるし。
 つーかあの姉妹め、パフェ二人で分け合ってる現場に出くわしたからって延々付き合わせるなよっ。『相沢君、あーん』じゃねえ! めちゃくちゃ恥ずかしかったぞ! 『祐一さん、食べてくれないと嫌いですっ』とか脅されたので仕方なく。そう、仕方なくだったんだ。差し出されたスプーンをくわえてるとこなんて誰かに見られたら…。
 百花家の店員のおねーさん(かなり美人。但し現在失恋してから二ヶ月目)、そんな目でみないでください。みないでー…
 いや、嬉し恥ずかしで美味しかったんだけどさ。

 ――ふたりと別れた直後。名雪がその現場を見ておりひっしと腕を掴まれ店内に連れ込まれた挙げ句特大イチゴサンデーを頼まれ同じことをやらされたのであった。ちなみに食べさせられる方じゃなくて、食べさせる側な。
 その回想。
「ゆういちー、食べさせてほしいな」
「自分で食え」
「うー。けち」
「けちじゃない。だいたい、その、なんていうか…恥ずかしいだろ」
「恥ずかしくてもいいもん」
「俺が嫌だっつーの」
「祐一がでれでれしてるのがいけないんだよっ」
「いや、どこをどう見たらそうなる」
「どっからどうみてもそう! それに、食べさせてくれないともっと恥ずかしいこと言うよー!」
「待て。頼むからちょっと待て」
「じゃあ食べさせて。ちゃんと『あーん』って口に出して」
「く。…諦めるしかないのかっ」
「口移しでもいいよ?」
「名雪さん、本気で恥ずかしいのでやめてください」
「でも前いちご牛乳飲んでたときわたしが飲みたいって言ったら祐一むりや」
「…あーん」
「……」
 ぱくっ。
「うー。美味しいよー」
「そりゃ良かったな…」
「祐一がスプーンで食べやすい量をすくって、わたしの口に運んでくれてると思うとよけいに美味しい気がするよー」
「名雪、あーん! あーんっ!」
「わ。祐一、すっごく張り切ってるよ…」
「口のなかが埋まって何もしゃべれないくらい食ええっ!」
「だーめ。ゆっくり食べるから。あと祐一、お店のひとたちの視線が集まってるみたいだから…ちょっと、恥ずかしいよ…」
 食べ終わるまで延々やらされました。
 回想終わり。店員のおねーさんの目が殺気立っていたのはご愛敬! 会計のときラブコメってんじゃねーよとか呟かれたのもきっと気のせい!

 さておき、哀れなり北川。まさか三年生の夏の今になって夏休みの間中、予定をアルバイトだけで埋めてしまったとは。
 久瀬? あー…なんか受験戦争に疲れたらしい。『僕はこの常夏の島で爽やかなジェントルマンに生まれ変わるのさ』で、現在ハワイに旅行中だそうだ。自慢ったらしい暑中見舞いのエアメールが届いた。舞のことがあって一応和解したけど、そんな仲良くなった覚えはないぞ。筆まめなやつめ。
 と、不意に電話が控えめな呼び出し音を響かせた。気付くと傍に誰もいなかったから、慌てて受話器を掴み取る。
「もしもし、水瀬ですが…」
「倉田と申します。夜分遅く申し訳ありません。相沢祐一さんはご在宅でしょうか」
「あ、佐祐理さんっ」
「ふぇ…あら、祐一さんでしたか。びっくりしました。電話だとお声、けっこう違うんですね」
「そう? 自分じゃ分からないけど」
「そうですよ。格好良いお声です」
「そりゃありがと。で、ご用件は」
「こんな夜遅くに電話してしまってごめんなさい。あの、実は来週から、舞と一緒に海辺の別荘に行こうって話をしてまして」
「ほう」
「もし宜しければ祐一さんたちも、ご一緒にいかがでしょう」
「たち? ってことは、他に何人か連れて行っていいってことかな?」
「はい。そこそこの大きさですから、十人くらいはなんとかなりますよ」
「オッケー! ちょうど秋子さんたちと海に行こうか、って相談してたところなんだ。えーと、名雪に真琴に秋子さん、香里に栞に天野、それから俺で七人。あー、佐祐理さんの知らないのも混じってるけど」
「気になさらないでください。祐一さんのお友達、ですよね?」
「ああ」
「なら、問題ありません」
 どういう意味かなんて聞くのは野暮だ。がさごそと向こうの背後で音がした。
「…え、何? すみません祐一さん、舞が…。替わりますね」
「祐一」
「おー、どした」
「うちに遊びに来てくれるって話は」
「舞は寂しがり屋だなー…って、一昨日行ったばかりだろっ!」
「佐祐理もさびしがってる」
「なにっ、それは本当か」
「本当」
「マジか!」
「マジ」
「QXか!?」
「QX」
「はちみつくまさんかっ!?」
「はちみつくまさん」
「よし、じゃあ明日…はダメだから、あさって行くよ」
「ん。替わる」
 がし。
「――あ、舞が」
 佐祐理さんの脇から、何か小さな息が聞こえてくる。舞の寝息らしかった。すぅ、とすっかり寝入っている。
「あの、すみません、祐一さん」
「はっはっは、佐祐理さんは気にしない気にしない」
「それで、ですね。舞の水着も新調したいので、次にうちに来たときにでも…選ぶのを手伝っていただけませんか? そのほうが舞も喜びますし」
 真琴のも探しに行かなきゃならんというのに。
「いいけど、舞は今どんなの持ってるのさ」
「それが…学校で使っていたものだけなんです」
 つまりスクール水着ですか、そうですか。
 不憫な。
 想像してしまった。むせび泣きそうになりつつも心の底から震えた。心の中は滝模様。それは号泣であった。まさしく男泣きであった。嗚呼!
「分かりました…っ! そういうことなら…徹底的に…っ!」
「はい」
 佐祐理さんは楽しげに頷いた。
「じゃあ、遅くにすみませんでした」
「いえいえ。おやすみ、佐祐理さん」
「はい。おやすみなさい――あ…そうそう」
 受話器が耳から離れる前に、ひとこと。
「祐一くん。わたしが寂しがっている、というのは本当ですからねっ」
 と、佐祐理さんの声が聞こえてきた。一呼吸の間を開けて、静かに電話が切られた。
 一瞬耳を疑った。でも驚いたような、嬉しいような、そんな複雑ながら楽しい気分になって、こらえきれずに笑みを浮かべてしまう。
 春までの寒い寒い冬のさなか、いろいろなことがあった。
 壊れてゆくもの。失われたもの。奪われたもの。すべてはその手が届かぬほど遠くにあった。
 悲しいということを知っている。気持ちが届かないことだ。
 夏、こうしてみんなでわいわいがやがや一緒に遊びに行く。たったそれだけのことが、とても尊いことに思えてしまう。感傷が過ぎる? いいや、そんなことはないさ。それは本当に、奇跡みたいなことなんだ。
 夢みたいだ。だって、知っているから。現実が、こんなに何もかも上手くいくわけがないから。本当は、都合の良いだけの、嘘っぱちの夢かも知れない。
 この幸せにずっと浸っていたい。こう思うのは、わがままなんだろうか。
 にゃあ、と背後から鳴き声が聞こえた。っと、ぴろのことを忘れてた。分かった分かった。お前も一緒な。ま、放っておいてもどうせ真琴にくっついて来ただろうけど。
 さぁて。十二時過ぎても解けない魔法は、ここまで。
 ではでは皆様、良い夢を!

 そうそう、ひとつだけ。
 もう伝えられないけどさ…。おやすみ。あゆ。







 夢を見ている。
 透明な空気が、大きく動きもせず、ひっそりと停滞している。不意に、ひたひたと、スリッパが床をすべる音が彼女の耳に届く。
 走るわけにはいかないくせに、慌てていることを隠しきれない客らしい。想像して、くすくすと笑いがこみ上げてくる。
 とたんに、感情が丸ごと混じったような早足のリズムが崩れる。あんまりにも慌てすぎたせいだ。何もない廊下の途中、つい転んでしまうかもしれない。
 だって全力で走って、それで勢い余って止まれないっていうのは、誰にだってよくあることじゃないかなぁ、なんて彼女は思う。もちろん、みんなボクみたいにどんくさくないからホントは大丈夫だと思ってるもん、とか内心で言い訳もする。
 転んでほしいような、転んでほしくないような。
 個室のドア向かって左上辺りに、月宮あゆ、と名前が表記されている。
 彼女の近くでは、足音に紛れて、なだらかなカーブを描き、ゆっくりと沈んでいく流れがさざ波に変わっていた。白い線が、黒板じみて緑がかったその画面に、絶え間なく映し出されている。
 波打っているものは、命、とでも言えば、ちょっと格好いいかもしれない。
 途絶える瞬間はまだ遠い何年も先かもしれない。もしかしたら明日だとか、何分後かもしれない。それは誰にも分からない。
 鳴り続ける小さな小さな電子音を耳にしている、こんなとき。
 彼女は目を閉じてぼんやりとしたまま、こんな病室の窓から見える一本の木のことを考えていたりする。モチーフにされたのは何の木だったんだろう。葉っぱが一枚や二枚散ったところで命が削られるわけがない。どうせ冬になれば散ってしまう。そんなの、誰だって知っていることなのに。
 だから鼓動や呼吸が失われるほうが、よっぽど薄幸の美少女を演出してくれる。
 薄幸。
 ほんの少し、難しい言葉に思える。
 彼女がお母さんとお別れをしたころ、お葬式に顔を出したどこかのおじさんが優しそうな顔をして呟いた。彼女に向かっていかにも哀れんだ声で口にした。そのときは意味が分からなかったのに。
 疑問が生まれる。いつ、こんな言葉を覚えたんだろう。曖昧な記憶にとまどう。
 風がざわめいた。空の影も揺れた。飛び交う鳥たちの鳴き声も遠く聞こえるけど、それだって普段より多いくらいだった。
 完全に締め切られた窓の外は青くて、まるで別の世界みたいだ。静寂を壊さない太陽の光だけが、射し込んでくることを許されている。白い世界に彼女は閉じこめられている。
 万全の空調設備。暖かくもなく寒くもなく暗さだって感じるはずはない。天井から降るやわらかな光と、殺された風だけが唯一、その部屋を満たしてくれる。
 何度もお見舞いに来てくれた女性がいる。女性は彼女に声をかける。彼女は何も応えない。でも優しい目を向け、静かに窓を開ける。すると外から気持ちいい風が吹き込んでくる。
 目蓋は閉じられたままだ。彼女は肌にそれを感じて嬉しげに目を細める。そんなふうに見える。果たしてそれは見る者の気のせいだろうか。
 そのひとが帰るときになると、窓がゆっくりと閉じられる。
 ひとの気配がドアの向こう側に去ってしまうと、この四方を壁に囲まれた部屋に、彼女はまた、ひとりぼっちになってしまう。
 誰も知らない。
 いつか目覚めたらそのひとに向かって、ありがとう、って彼女が言いたいことなんて。何度でも。何十回でも。
 顔さえ知らないのに、優しかった母の面影を重ねていることなんて。彼女が、そんなふうに思えるという、その事実すら。
 彼女は眠り続けている。真っ白な世界に置き去りにされて、その場所に忘れ去られたまま。
 そうして幾たび新しい冬を重ね、彼女は眠りに守られたまま、色々なものを見つめていた。
 ドアの外もなんとなく覚えている。薄暗い廊下だっていうのは、彼女はずっとずっと昔から知っている。たぶん別の形で訪れたこともあったはずだ。この部屋の外を元気よく走り回ったこともあったのかもしれない。いいや、病院だからそれは無いだろう。
 不安になる。
 かもしれない。だろう。はずだ。何もかも、彼女にとっては曖昧で。
 眠っている彼女には、何一つとして分からない。だが、嬉しかったことも悲しかったことも、いろいろなことを知っていた。いろいろなことを感じていた。違う。今も感じている。分かっている。理解している。
 それらすべてが不安定な、虚構の世界にも思える。
 でも。
 あらゆるものは、自らを、嘘ではないのだと叫んでいる。砕けた鏡も。戯画化された影さえも。
 何の根拠もない確信を胸に抱いて、少し笑う。なんだかそれすらも見ていた夢のおかげに思えて、あんまりにもおかしくて、彼女は笑わずにはいられない。
 一人っきりで、夢を見ていた。
 永い、永い夢を。
 何もかも同じで、あらゆる意味で違って、ずっと変わらないままに、いつも変わってゆくすべてのものを。
 終わりのない夢を繰り返し見続けていた。
 最初の夢。いつか目覚めるまで続く、永遠の物語を。
 ああ、じゃあ。どうしてだろう。どうしてそれは夢だったんだろう…。
 この七年のあいだ、ひとりきりで泣いていたっていうのに。
 足音がふっとかき消えた。立ち止まったらしかった。
 がちゃり、とノブが回る音がして。
 ドアが開く。
 そこには、また――誰もいない。
 伸ばそうとした腕が凍り付く。痩せ衰えた少女の手は微動だにしない。
 彼女は長いあいだ、呆然と、空っぽの廊下を、じっと、見つめていた。
 ベッドの上から動くことも出来ず、目覚めもせず、ただ何処からか運ばれてきた生まれたての風だけを、濡れた頬に感じながら。
 やがて、このたった一瞬の出来事さえ、夢だったんだと気づくまで。







 ふたりが同棲を始めてから、もう二年が過ぎていた。
 アパートでの暮らしには、それまでとは異なる生活が広がっていた。舞にとってはさして大きな変化とは言えないかもしれない。しかし、佐祐理にとっては新しいことばかりの、二人きりの生活が始まったのだった。
 目覚まし時計が鳴り響く前だ。あまり大きな音を立てないよう気をつけて布団がどかされる。
 長い髪をひとつにまとめた佐祐理が、体を起こしたままぼんやりとしていた。普段から先に目が覚めてしまうため、隣に寝ている舞を起こすのが日課となっていた。
 茫洋とした気分を振り払うため、舞に目を向けた。あどけない表情が覗く。起きているときには見られない無防備な姿があった。
 あの様々な出来事のあった学校を卒業してからも、張りつめた空気をぬぐいきれない舞のことを、佐祐理は否定しない。
 舞は何かを隠している。それを誰に教えることも無かったし、きっとこれからもないのだろう。佐祐理は少し悲しくなり、それゆえに安堵が心のどこかを満たしてくれる。
 舞が気遣ってくれていることを知っているからだ。
 二人暮らしでかかる生活費は、必要ならば実家からの援助も受け取るが、今のところそういう事態には陥っていない。成績は文句ないものだったから、佐祐理の学費は、ほぼ全てを奨学金で賄えた。舞は進学しないことを選んだ。
 出奔とも呼ぶべき事態に倉田の家は当惑したが、頑として意を変えない娘の態度に父親が折れた形だ。居場所さえ分かっていればいつ何時でも、どうにでもなると考えたのか。代議士であれば世間体が気にもなる。あまり騒ぎ立てないはずだ。その予測が当たった。それだけのことだった。
 とにかく佐祐理は親友と共に古めかしい安アパートの一室を借り、平穏な日々を過ごし始めた。贅沢なことを言わなければ、それなりに生きていけるとも学んだ。
 自分のことに舞は割合無頓着であるから、財布のひもを締めるのは自然と佐祐理の役割となった。
 この日はまだ朝早く、日が昇り始めた時刻であった。舞を起こさないよう十分気を遣い洗面所に向かう。顔を洗った。目に少しくまが出来ているが、これくらいなら化粧をする必要は感じない。部屋は値段相応に狭いため余計なものは置かないようにしている。
 舞は清掃や夜間の交通整理などを中心に、給金をもらって生活費に補充している。佐祐理は人当たりの良さか、それとも器量のおかげか、接客業で採用されることが多かった。
 無駄に長い髪が邪魔だ。しばらく切っていない。ゴムを外すと髪の束がばらけ、ふわりと広がった。
 手入れは怠っていない。けれど手で梳くたび、空しくなることがある。今日みたいな日だ。鏡に映った自分の姿が妙に気にくわない。見慣れた顔に浮かんでいる笑みは、何で笑っているのかさえ判然としない。
 笑うことは、時に峻拒に通じる。誰にでも与える親切とは、誰に対しても同じように振る舞うことに等しい。笑顔は、もはや自分の一部となってしまっている。
 優しくありたいと思っているから。
 笑みを消す。むしろこのことに努力を要した。ゆっくりと顔を鏡から背け、まったく動かない舞の顔をじっと凝視した。
 新しい、生き方。
 手に入れたいと願いながら、漫然と遠くに描いていたもの。舞を救うことができたなら、きっとそこに見いだせると確信したもの。
 しかし舞は泥の中から抜け出せないでいる。佐祐理は自分の影におびえている。鏡の向こう側にいる自分の手は汚れていない。精算できない過去の罪は、いつまでも佐祐理を苦しめ続ける。
 悲しみの輪廻。絶望を乗算したとしても決して希望には変化しない。マイナスはマイナスのまま変質してはくれない。
 ずっと笑っているのだ。
 わたしという存在を、否定しながら。
 いつか認めなければならなくなる。何も変わらなかったことを。未来永劫ここに留まり続けるしかないことを。大切だから動けない。幸せにしたいと、どちらもが思っているのに。
 鏡に映らない場所で、舞はひとり穏やかに眠り続けている。何も知らないその無垢を胸に抱き、いつまでも佐祐理を愛してくれる。佐祐理はそんな舞を愛し続ける。
 気付いている。ふたりきりでは同じ闇から決して抜け出せず、凍り付いた時間はひどく心地よいから、優しいままでいられるから、前にも後ろにも踏み出せなくなる、なんて。
 それでもかまわなかった。佐祐理は舞と共に永遠を過ごすのだから。
 ガタガタと窓ガラスが鳴った。風が強いらしい。完全に閉め切った部屋にはすきま風も入ってこないから、暖かいけれど。
 起きたら、ちゃんと厚着していくよう言わないと。
 思って、現実に逃避する自分に気付く。慌ただしくも平穏な日々は、物事を考える暇もなかなか与えてくれなかったのに。
 ふと、この親友がとうに目覚めているような気がした。起きているのに、眠っているフリをしているのだと。そんなはずはないけれど、そう思った瞬間、背筋が震えた。
 おそるおそる舞の顔を見て、口をついて出そうになった問いかけを、佐祐理はついに飲み込んだ。
 ――ねえ、舞。佐祐理たちは、どこで、何を、間違えちゃったのかなあ。
 だから、答えはなかった。







 いつも通りに騒がしい朝だった、それは否定しない。
 ただ、いつもみたいに笑っているのがちょっとつらかった。
 ほんの少しだけ、笑いたくなかった。
 そんな、三年に進級してすぐの日のことだった。
 祐一のいる位置からはるか前方。名雪はいっそゆっくりとさえ見える動きで、それでいて、とてつもない早さで進んでゆく。
 雪解けによって路面は何ヶ月か前に比べ格段に走りやすくはなったが、それにしたって早すぎる。全力疾走とはまさにこのことだ。向かい風をものともしない。遅刻間際でもないというのに、風を切って走る顔は、ひどく真剣だった。
 綺麗に整ったフォームは長い間、走る練習を欠かさなかった人間にしか作り得ないものなのだ。地を蹴る力強い足音には、陸上部の部長の名にふさわしい響きがあった。
 その名雪が速度を落とし、それから肩越しに軽く振り返った。息を切らせながらも、置いていかれないよう必死に追い掛けてくる人影が視界に入った。
 本気で走ったから、引き離してしまった。祐一のわずかに悔しそうな顔。そんなつもりはなかったけれど、もしかしたら距離を離したかったのかもしれない。
 待っていてあげようか。
 それとも、このまま置いていっちゃおうか。
 ぼんやりとしたまま、そんなことを考える。小さな逡巡のあと、そっと、見えないように薄い笑みを浮かべた。背中を向け、後ろ手に鞄を持つ。ちらっと横目で盗み見ると、祐一の姿がだんだんと大きくなった。
 ため息ひとつ。
 昔、追いかけるために走ることを覚えたくせに、今は逃げるために走っているみたいに思えてしまう。たぶん、知らないうちに色々なことが変わってしまった。
 そんなの祐一がこの街に帰ってきたときから、分かっていたことだ。昔よりはるかに臆病になった自分は、ほんとうは何もしたくないんだ。勇気なんてもの、とっくにどこかの道ばたに忘れてきちゃったんだ。
 迷っている。まだ。
 今更だったから。みじめで悔しくて、隠しきれなくなりそうでいやだった。
 ふわり、まだ白やんだままの吐息が空に上る。春が訪れ、気候は穏やかになったといっても、いまだに冬はその名残を消させてはくれない。
 変わらない季節はない。そして朝のこない夜もまた、ないのだ。
 夢と、目覚め。それはひとつづきのものだから。
 晴れ渡った空を見上げた。どこか透明で、優しくて、まぶしすぎて、泣きたくなるくらい鮮やかなブルーの。目が痛くなったから足元を見た。顔を上げたくなかった。
 ……わたしは、泣いてなんかいない。
 そうやって、また、目を閉じる。
 春に日差しが降り注ぐのは当然で、だから、幼な子の作った雪うさぎも、この陽気では昼を待たずして溶けてしまうことだろう。そういうものなのだ。そういうふうに、現実はできているのだ。
 気付かなければ。知らなければ。ずっとずっと、幸せでいられた。でも、一度それを直視してしまったら、目をそらすことなんてできない。まぶたを閉じるしかないのだ。
 冬が終わらないでくれればよかったのに、なんて思う。だけど春はそこまで来てしまったのだ。
 祐一のばか。わたしの……ばか。
 終わってしまったことは二度と思い出さないで忘れてしまえばいい。たったそれだけのことだ。そうだ。しもやけになったこの手で優しく胸の奥底に沈めてしまえ。いつか、別の白で塗りつぶされるその日まで、ずっと。
 大切なものは、そこに置いてきてしまったのだから。
 名雪は前を向いたまま、いつもの笑顔を取り戻した。
 もう後ろは振り向かなかった。
 祐一がようやく名雪の元にたどり着いたとき、それでも彼女は身じろぎもせず、じいっと、ひとつだけ道の端に残された、ちいさな雪うさぎのことを思っていた。
 誰かが丁寧に心をこめてつくった、どこかいびつなかたちの。







 誘われるように、美汐はゆっくりと歩いた。目的地など無いのかもしれなかった。雑踏から遠ざかって、はっと気づくと静かな丘にたどり着いていた。
 先客を見かけたような気がしたが、見回しても誰もいない。どうやら気のせいだったらしい。
 一人きり。何をするでもなく、落ちゆく夕陽を見つめる。空がオレンジ色に焼けていた。厚い雲が色鮮やかに輝いている。どうしてこんなところに来てしまったのか、よく分からないとでも言いたげな表情だった。
 少しだけ丘の頂上を目指して登る。振り返り、街を見下ろした。別に怒っているわけではない。自嘲混じりの行為だった。
 言葉にならない叫びが胸を内側から突いた。何も出来なかった自分に対しての後悔にも似た、別の何か。怒りかもしれない。呆れかもしれない。頬が熱い。感情が熱を持ち体中を巡っていた。それは喜ぶべきことだと思った。激情にかられるほど、自分は未だに拘泥し続けているのだから。
 草が揺れている。
 風がびゅう、と空へと吹き上がり、あたりが凪いだ。
 それが妙に寂しい光景だったせいだろう。立ちすくんだ。涙まで出てきた。沈みかけた太陽がものみの丘を余すところ無く照らしている。影が後ろに伸びた。境目に気づかぬうちに、いつしか夜になった。
 また、風が降りてきた。背後の草むらが鳴った。
 慌ててそこに目をやる。ぼやけた輪郭の人影を見いだしてしまって、美汐は走り出す。近くまで行って確認した。もちろん誰もいない。
 当然のことだった。
 何かの痕跡も見あたらない。そのことに、美汐はほっとした。
 ほっとしてしまった自分に気づいて、愕然とした。
 何もかも風化してゆく。どんな大切なことであっても、いつかは色褪せて、消え去ってしまう。
 あの子は、もはや過去だからだ。現在だけが確かなものなのだ。この手に握りしめておくことの出来ないものは、どうしても遠ざかってしまう。
 忘れることは幸せだろうか。忘れられることは幸せだろうか。忘れられてしまったら、あの子は――
 大切なものを失った悲しみに苛まれていても、やがてその大切なものを忘れて、悲しみだけが残るだろう。未来に何も見いだせないから。過去形になってしまったから。そして空っぽの未来だけが残るのだ。
 惜別を経て孤独を知り、幸福を失い後悔を得た。
 心は欠け、そこには淡い空白が漂う。
 そよいだ風の手触りに、言葉もなく息をのむ。何だか、とても綺麗なものに置き去りにされた気分になって。
 指先のぬくもりが風にさらわれ、空気に溶けてしまったみたいに感じられた。
 いつしか静かに天を仰いでいた。手をかざし、その指の狭間から覗く紺色の世界をにらみつける。夜空には幾千、幾万もの星くずが広がっているだけ。ひそやかに、寂しげに。
 瞬きもせず…。







 学校で、それも教室の衆目のなか、名雪と言い争う羽目になった。
 香里が転校することを、担任が漏らしてしまったせいだ。ホームルームの時間だった。名雪には教えていなかったから、怒るのも無理は無い。誰にも言わなかったはずだ。名雪もよく放課後まで我慢したものだ。授業中も眠たげな顔ひとつ見せず、ひたすら顔を伏せて考え込むようにじっとしていたくらいだった。
 ぎりぎりになっても黙っていたのは、栞のことさえ誰にも言わなかったのだから当然のことだった。だが、名雪に同じことをされたなら、自分でも怒り狂ったに違いない。親友と呼べる相手に対して行うには、これは手ひどい裏切りでしかなかった。
 言う気になれなかったのは、やはり相手が名雪だったからだろう。引き留められるか、それとも優しく送り出してくれるか、可能性は半々だと思っていた。もし前者だったとして、最後は名雪が折れるだろうとも。
 それは甘えなのだと、思った。身勝手な感傷だと承知しているし、香里自身、そんな名雪だからこそ、こんなにも親しくなれたのだとも理解していた。感謝しているのだ。
 あえて話に決着はつけないまま、名雪から逃げ出した。帰宅してすぐ駆け込むように自室に向かい、ベッドに体を投げ出した。力が抜けてしまって、当分のあいだ起きあがる気になんて、とてもじゃないがなれそうになかった。
 瞼を閉じる。こんな未来を想像していた。香里は逃げるのだ。ここではないどこかへ。悲しくなる思い出の無い、新しい場所を求めて。そんなもの在りもしない。分かってる。分かってた。
 栞が死んだ。医師の見立ては正しかった。しかし運命とするには早すぎる死だ。他の誰でもない一番近しかったはずの、そしてもはや謝れもしない愛しい相手の。悲しみたくなくて苦しみたくなくて自分の心ごと切り捨てた。今更気付いた。最後の最後に栞は独りぼっちで死んだ。今更その事実が変わるわけもない。寂しかったに違いない。悲しかったに違いない。栞から逃げて。再び、何もかもを忘れるために逃げ出すのだ。
 何もかもくだらなかった。いっそあたしなんか死ねばいいのにと本気で思う。いや、そんな勇気があったなら栞と一緒に死ねば良かったんじゃないか、なんてことも強く。そうすれば栞だって、少しは寂しくなかったろうに。こんな臆病者の、姉とも呼べなくなってしまった誰かであっても、一緒にいてあげれば。後から考えるのはそういう他愛もない、ついには実現することのなかった思いつきでしかない。
 断罪の声が聞こえる。きっかけがあれば逃げ出さないで済んだなんて言い訳に過ぎない。生きている意味も失って、むしろ自分の存在が害悪でしかないと考え出して、どうしようかなと胡乱な頭で思考を続ける。結論を出すのが怖いから考え続けるうちに体が勝手に動き出してくれる。起きあがった自分の体が何をしようとしているのかよく分からない。おそらくそれは自分が考えるより何倍も何十倍も正しいに違いない。目が痛かった。頬にひんやりとした感触。なんか…考えるのに疲れた。もう、やだな。腕が勝手に動く。カチ、カチリ。小気味いい音。あれ、栞の部屋だここ。なんで? 手首が少し冷たい。鉄に似た匂いが鼻をつく。視界が酷く暗い。あぁ、そっか。そういうことか。
 ごめんね。やっぱりあたしは最後まで馬鹿のままだったみたい。本当に、ごめん。



 土日を挟んだ休み明け。名雪たちはホームルームの時間に、香里がすでに転校したと伝えられた。祐一はそのことに友人として怒り、名雪は目に涙をためた。担任は生徒たちの反応に、困ったように背を向けた。
 どこに転校したのか誰も知らず、住所も電話番号も分からない。担任は沈黙を守り続けた。
 その後、香里から手紙一枚送られてくることはなかった。







 さて。それはいくつ目に見たシーンだったのか。
 目まぐるしく変わり続ける夢に翻弄されてきて。
 最初の白。何十の淡色。何百のセピア。何千のモノクローム。そしていくつかの原色と、ネガポジ反転と。
 似たものも、まるっきり別のものもあった。それでもコントラストの異なる夢ばかりだったから、すべてを覚えてないのは当然とも言えた。
 一万個目かもしれないけれど、これが最初だったのかもな? なんて、自分に問いかけたくもなる。
 春色の夢だった。百花屋だ。窓際の真っ白なテーブルで、栞はひじをついたまま語る。少し前に話した誰かの夢の話の、続き。
 自分たちが実は誰かの夢の登場人物で――なんて、突拍子もない空想の翼を広げて。
 栞はその誰かのことを想い、とても優しく微笑んでいる。
 来た道を、静かに振り返るように。


 ちょっと不思議で素敵な出来事が起こって、誰もが驚きながらも最後は笑顔になれるような――そんなふうにして、この楽しい日々が続いてゆくのなら、それこそが奇跡なんじゃないかな、って。
 大丈夫ですよ、きっと。これから何が起こっても。
 なんなら私が保証しますっ。
 ちょっと、手を貸してほしいです。いえ、べつに深い意味はなくて……こうやってぎゅってされると、安心しますよね。
 がんばってください。きっと何もかも上手くいきますから。


 後にして思えば。あのときの言葉は、栞なりの確信だった。

 あり得ない奇跡を、ただあるがままに受け入れるなんてこと、いったい誰が出来るだろう。死に至るほどの難病が突然に治った? 再発するかもしれないという危険性も孕んではいないか? 恐れから綺麗な辻褄合わせを求めたって不思議ではない。
 問いかけは恐怖から来る逃避だった。栞はふいに、答えを得たのだ。たったひとつの奇跡という、夢の欠片を。
 ひとかけら零れた夢が、そこには残された。たったひとつだけの奇跡で、彼女は朝に目覚めた。
 だが空白だった七年間を誰かに分け与えたところで、それは奇跡だろうか。最後の最後まで、本当は奇跡なんか起きてはくれなかったんじゃないか。
 時が流れ、栞は再び、病に倒れることになるのかもしれない。
 そんなことはないなんて誰にも言えない。分け与えた本人すら救えもしない――そんな奇跡なんか、誰が信じることが出来る?
 選択肢が過ちだったか否か、誰にも分からない。しかし後悔にも意味が無い。それは未来からしか見ることが出来ないが故に。
 それでも、栞は、今を生きることを選んだのだ。


 後にして思う。そんなこと、それこそあり得ない。
 だけどそれは、本当に、懐かしい未来だった。







 旅の終わりに。閃光のように蘇ったのは、ひとつの記憶だった。
 いつか栞が照れたように語った、おとぎ話。
「自分たちが、誰かの夢のなかにいる……」
 夢に思えた。今の祐一はまだ栞と出逢っていないのだ。だというのに、鮮明に覚えている。栞の手の感触を。ぬくもりを。
 様々な記憶が幾重にも揺れる。名雪の告白も、消えゆく真琴の満足げな顔も、あゆの涙も、赤く染まった雪も、魔物から受けた痛みも、夜の学校での哀しみも、誰かの笑顔も、憐れなほどに悲痛な声も、起こりえたいくつもの結末のその全て。自分自身がただ叫ぶしかなかった絶望の瞬間でさえ。けれど優しさも愛しさも、日だまりに似てあたたかな思い出もまた、祐一は忘れずにいられた。
 覗いた夢はまるでカレイドスコープのよう。煌めきの欠片を継ぎ接ぎて景色を描く。故に、内側に存在する者にとって、覗く誰かがいてこそ己が存在できるだなどと知り得る術は無かった。そのはずだった。
 相沢祐一にとってのあらゆる未来。悲劇の上に成り立つ優しい結末。ひとつの世界に光が当たると、それ以外のものは闇の中に消えてしまう。それは本来、祐一が知り得ぬ闇だった。
 その闇を見せられてきたのだと、思った。
 終わりのない世界から始まった。永遠に、誰かが作り続ける物語の片隅。あるいは楽園の中心で。どこにもない夢の終わりに――祐一は、奇跡を見たのだ。
 しかし、それが欠片でしかないことに、誰が気づくだろう。
 視界の端には、川辺じみた影が落ちていた。どこからか一筋の光が射してくると、風景が一変する。生い茂った葉の隙間から陽光が射し込む。祐一は見上げた。見覚えのある大樹が、眼前で腕を大空に広げている。
 世界はまぶしいほどの光に包まれていた。朝としか思えない光景だった。静かすぎるのだ。虫のざわめきも、鳥の唄さえ聞こえない。
 声が聞こえてきた。風と共に。
「こんばんは? ちょっと違うかな。おはよっ」
「おはよう」
 挨拶があっさりと返ると、満足げに笑った。うさぎの耳をつけた、可愛らしい少女だった。
「祐一にひとつ質問しとくね。ここはどこだと思う?」
「いいかげん気付いてるって。夢だろ」
「その通り。でも、この夢は少しだけ違う夢」
「明晰夢、ってやつか」
「そんなとこ。この世界は誰もが知っていて、誰にも気付かれない場所だから…うん、たとえるなら秘密基地みたいな感じだねっ。夢には時も場所も関係ない。ずっとあたしはここにいる。ここからなら未来が覗ける。過去も視える。あなたの望むままに」
 可能性のフィラメント。誰かの恣意によって、未来の夢を見せられてきたのだと。
 うん? と不思議そうな顔をする祐一。その違和感の理由にも少女は気付いていて、お見通しだとでも言いたげに、ゆっくりと言葉を紡ぐ。
「すでに終わった物語。それが嫌だったからといって、過去は改変できないのにね。過去を変えるということは、現在も、未来も、すべて消し去るということだもの」
 でもね、と続ける。
「たとえば…原因不明の難病に蝕まれているなら、原因不明の理由で治ってもおかしくないでしょ?」
「無茶だろう、それは」
 祐一は呆れたように答える。今日は引っ越してきた初日なのだった。たしか部屋で寝ていたはずなのに、どうしてこんなややこしい夢を大量に見てしまったのか。もう数も憶えていない。
 何もかもびっくりするほどドラマチックな夢だった。似たようなものも、あり得ないくらいハチャメチャなのもあった。
 自分とは思えないほどすごく恥ずかしい台詞を語っていたし、まんま自分の情けない姿を見る羽目にもなった。やれやれと、肩をすくめる。
 延々と雪の中で待たされたから、疲れているのかも。祐一は苦笑する。いくら子供だったとはいえ、あんな形で色々なものを投げ出し、逃げ出したことを思い返しながら。
「そうかな。死人が生き返る。狐が人間になる。意識不明の少女が、幽霊みたいに街中を歩き回ってる。それが前提のおとぎ話だよ? 問題なんかないじゃない」
「大ありだ。ひとつのものを選べば、他のものが切り捨てられる。そんな奇跡、認められるか」
「それが祐一の優しいところ。だから、ひとつの悲劇の中にいると、祐一は、他の悲劇には関われない。知っちゃったら苦しいもんね。どうにかしてあげたいもんね」
「俺は……知らなかったから、どうにもできなかったのか?」
「誰が言ったの? 一人を選ぶと、他の選ばれなかった者たちは救われない、なんて。そう思いこんでた――思いこまされていただけかもしれないのに?」
「うん? ……どういう意味だ」
「つまり、祐一は、たったひとつやふたつの選択肢によって、あらゆる未来を呪縛されていたんじゃないか、って思う。そもそも最初にあったはずの物語じゃあ、ひとつ失うことによって、悲劇をひとつ無かったことにしてない?」
 少女は、意地悪そうに、あるいは不安を必死に隠すような笑みで、続けた。
「美坂栞は原因不明の難病。川澄舞は自らの死。水瀬名雪は母の事故。沢渡真琴は完全な消滅、かな。失われるのは月宮あゆの命。間違えちゃいけないのは、選んだのは誰か、ってこと。うん、でもまあ、命一個と悲劇一個って」
「釣り合いが取れてるんだか、取れていないんだかな。とりあえず分かった。ひとつ未来を選んだ瞬間に、必ず奇跡というプロセスを経てしまう。核になるのは俺ひとりだけ。だから、その選択だけがすべてに関わってくるってことだろ?」
 一呼吸置いて。
「…たとえば、俺が、もし夜中に名雪のノートを取りに行かなかったら?」
 言葉を止め、先を促す。少女は穏やかな声で聞いた。
「それは偶然だったのかな。そこで出逢うのが必然? その出逢いは、たった一回だけですべてを決めるもの? そのとき再会しなければ、祐一は彼女と二度と出逢うことができない?」
「俺が思い出していたら」
「だからといって、世界は数個の選択肢で選びきれるほど狭くない。あなたはひとつの世界を見るたび、ひとつの結末だけを選んできた。時を経て、描かれ続けた数多の世界を覗いて、それでも祐一は決められた結末に進むの?」
「俺が選んだんだろう? なら」
「心まで捏造されていたら? 悲劇のための悲劇を経験して、させられて、気持ち悪くならないのかな。終わらない夢を見続けるなんて」
「誰だって夢くらい見るだろ」
「夢を見るのはいいんだよっ。いつも。何度だって。でもね、終わらせないために夢を見るなんて、そんなのただの逃げじゃない。その夢を見ているのは、だれ?」
 静寂が、しん、と暗闇をたたいた。足下から、ほのかな輝きが沸き上がった。世界そのものが叫んでいるかのようなやわらかな光。祐一は声を飲み込んだ。
「最初はひとりだけだったのかもしれない。だけど。自分の都合の良いストーリーを誰かが心に描いた。普段は心の奥に隠している、いろいろなもの。それを悪いとは言えないんだ。誰にもね。だって同じ行為であっても、それに悪意を感じる人間もいて、そこから善意や好意を受け取る人間だっているから」
「夢を作る人間が、次第に増え続けてたって?」
 見たくないものに対し無意識に目を背け、自分の描いた世界こそ正しいと信じながら。
 沈黙していると、視界がぼやけ、切り替わるように世界が変容した。ふたりは薄暗い廊下にいた。眼前には、なゆきのへや、と書かれたプレート。そのドアを開けながら少女は語る。
「そう。夢っていうのはね、本当は自分のなかにあるものでしか描けないの。たとえ悪夢でも。そこに他者が介入しているとしたら――それは、ひどく歪んだ夢だよ? なのに、どうして物語は破綻をきたさないのかなあ」
 言葉が、一際澄んで響いた。
「それとも、この夢も、あたしたちも、とっくに壊れちゃってるのかな…」
 少女は強くかぶりを振った。
「ううん。わたしはそうは思わない。絶対にそんなこと信じない」
「どうして」
「過去を改変することはできないとしても、そういうものに対して、違う解釈をするならできる。たとえば――想像と認識によって、形のないものは初めて世界に生まれようとする。あたしが、嘘から魔物を作り出してしまったみたいに」
 さぁ、と闇が晴れた。一面、草の生い茂った丘にふたりはいた。ものみの丘。朝露が一滴、輝きながら跳ねていった。
 少女は向こうを見ていた。はるか遠く、ここから見えない世界の果てを。
 永遠があるとすれば、それは意識の中にこそ存在するという。ここはモルペウスの腕の中だ。時間から切り離された、誰が望んだのか、とても穏やかな世界だった。
「ひとの想いはきっと、現実には頼りないものだけれど…それが何ら力を持っていないなんて、誰にも証明できない。可能性の否定なんて、誰にも出来ない!」
 くるり、振り返る。満面の笑みの浮かんだ顔で。
 世界はまた変わった。黄金の麦が波打つ。輝きを放つ、鮮やかな光の世界に。
「だからね――もし、誰もが幸せになるために今よりもっと努力をしたら。悲劇を回避するどころか……目覚めのときには、今よりもっと素敵な現実が、もっともっと素晴らしい未来が、そこには広がっているのかもしれない。あたしたちはみんな夢を見る。夢見て、それを現実に近づけようとするんだから」
 祐一は何も言わず、少女を凝視していた。もう、懐かしげな表情を隠そうともしない。ごめん、とも言わない。今はまだ。
 思い出のなかで、祐一は彼女を見つめた。
「選択したものと、選択されなかったもの。何かを手にした瞬間、その手には他のものを持つことはできなくなる、だったら――すべて掴んで、離さなきゃいいだけ。わがままかな? でもね、古い物語で誰かが言ったよ。その手は何のためにあるんだ、って」

  …もし夢の終わりに、
   勇気を持って現実へと踏み出す者がいるとしたら。それは…

「この空の向こうにいる神様に、祈りはきっと届かない。けど、大好きな誰かの心になら言葉が届く。近くにいるなら手だって届く。祐一は、その手で未来をつかむことができる。ほら、出来ないことなんてないじゃないっ!」
「でも、俺は」
「祐一は他の誰でもないんだよっ。出来ないって諦める必要もないっ。祐一は、祐一だから、大丈夫なの。――まいが信じたのは祐一なんだから」
「う…恥ずかしいセリフが大量だな」
「こーゆーのは恥ずかしいくらいでちょうどいいのっ!」
「ははは。悪くない。でも……実は照れてるだろ? 顔赤いぞ」
 そーだね、と笑った。勝ち誇ったように胸を張る。祐一のことを抱きしめるように、腕を広げた。吹きくる春色の風。どこに辿り着こうというのか、いつしか、吹き飛ばされそうなほどの強風に変わる。
 少女は真っ直ぐに、風へと立ち向かう。
「ずっと見ていた『あなた』がいるのは、画面の向こう側かな? 現実? それとも虚構や、別の夢かもしれないね? だけどあなたは祐一じゃない」
 優しさに満ちた、小さな声。
「…夢は、終わるよ」
 強い瞳だ。視線はこちらを向いている。
「どれだけの希望も、期待も、失うことは当人だけの価値、他の誰が受け取ってもいけない。それは傷だよ。他人の傷を見て痛がる人間ほど気分の悪いものはないの。羨望も共感も変わらない。他人であるということの証明……別のものだからこそ生まれる感情なんだから」
 誰もがやがては気付くだろう。持たざるものへの渇望。捨てきれぬ不遇。夢物語に重ね合わせた、自らの欠けた部分に。
 目を伏せ、少女は胸に手をやる。
「あたしたちは、過去を無かったことなんかにしない。悲しかったこと嬉しかったこと、全部、何もかも抱きしめて前に歩き出してみせる。傷跡も、痛みも、いつか思い出になる。忘れない。思い出を消してなんか、あげない」
 いつか振り返ったとき、それは強く痛むのかもしれない。もしかしたら、抱えきれないほど重くなり、最後には消し去りたくなるのかもしれない。だけど、それには価値がある。未来になるという、まだ見ぬ輝かしい価値が。
 まぶたを開き、おとがいを上げ、あどけない笑みを浮かべた。
「あたしたちの物語は、あたしたちが作る。あなたが、あなたの物語を生きているみたいに」

 ――さあ、行こっ。みんなを助けようと思うなら、これから祐一はあちこち走り回らなきゃいけないんだからっ。ここは過去を振り返り、未来を探すための分岐点。おとぎ話の最初の一歩っ。矛盾? 不可能? そんなの知ったこっちゃないっ!
 忘れていたことは、全部思い出したよね?
 名雪には誰より先に真剣に謝るよーに。かかってくる真琴は、偶然通りかかるおばさんくさい娘…もとい、美汐に無理矢理押しつけて! でも、ちゃんと彼女の連絡先も聞いて後で引き取りにゴー!
 で、素知らぬ顔で出くわすあゆと一緒に、栞を巻き込んであちこちデート。多少無茶してもオッケーだからね。勢いで香里も捕まえちゃえ。なぁに、名雪が協力してくれれば楽勝楽勝っ。ありゃ一人で悩むからややこしいことになるの。病気だって治る。手段なんていくらでもある!
 佐祐理ともすぐに仲良くなれるよっ。佐祐理は祐一がいれば歩き出せるし、未来のあたしも一緒に引っ張り出してくれれば大丈夫! 天使の人形は知り合ったみんなに頼めば見つかる。うん、北川君はいいひとだねっ。
 あゆも目覚める。祐一が手を握ってあげれば、絶対に。
 ね、祐一。きっとうまくいくよ。あたしも手伝う。一人でどうにもなんなきゃ、二人でどうにかする! 足りなきゃ三人四人、いくらでもっ! だから、がんばろうよっ! みんなで幸せになろうっ!
 ――実はお喋り大好きだったのな、まい。

 びしっ、とチョップが入った。いててと声。うさ耳が揺れる。祐一にやわらかな微笑みを返し、手を取る。こっちを振り返る。振り返って、感謝さえ込めてひとこと、こう告げてくる。
「……出来ることなら、あたしたちの幸せを願って。幸せになれるって信じていて。これからもずっと、愛し続けてほしいよ」
 うん、と一呼吸置いて。
「問答無用なくらい、最高の、これ以上ないっていうほど幸せな結末を、あなたの心に想い描いてほしい」
 親愛なる者へと、別れを語りかけるように。
「長いあいだ、あたしたちを愛してくれた、あなた自身のために」
 ぶんぶんと手を振った。
 始まりには挨拶を。終わりには祝福を。約束のない再会に、精一杯の愛しさを込めて。
「誰もが見た夢をやがては忘れちゃう。少し…寂しくなるね。けど、それはただ悲しいだけじゃない。別れがあるってことは、――出逢えたということだから」
 目の前には、まっさらな世界が待っている。
「おやすみなさい。どうかあなたが、いつまでも良い夢を見られますように」
 世界が幽かに滲んだ。すべては初めから無かったみたいに、淡く薄れてゆく。
 でも。
 いつかまた逢える。彼女たちはそこにいるから。逢おうと思いさえすれば、すぐにだって。
 誰もいない世界が崩れ、ゆっくりと、凍り付いていた時間が動き出す。
 集めた欠片は、ひとつになるのだ。両手に降り積もった夢なら、物語に。彼女たちが抱きしめた奇跡なら、ぬくもりに。
 だから、さよならは言わない。
 別の言葉を風に乗せる。時にはここを振り返りながら、笑顔で、前へと歩き出すために。










 終わる前に。始まる前に。一陣の風が通り抜けていった。
 覗き込むみたいに。


 祐一さん。いきなり黙り込んじゃわないでくださいっ。うー。ホントにちゃんと聞いてました? もしかしていま寝てませんでした? いえ、聞いててくれてるなら、いいんです。
 じゃあ、お話の続きですー。えっと、夢は、やっぱり夢でしかないのかもしれません。冷たい真実も、あたたかな嘘も、夢だったからっていう、それだけで否定されかねません。
 でも…でも、ですよ?
 夢のなかで得た気持ち。生まれた想い。気づけた感情。
 そういったものは、たとえ夢から覚めても、ここにちゃんと残っています。私の心に。祐一さんの心に。誰かの心に、きっと残っています。
 言葉や想い。それはたぶん、すごく大切だけど、とっても不確かで曖昧なものです。奇跡を起こす力は無いかもしれません。ときにはひとを傷つけます。でも、ひとを動かす力にもなります。誰かが動けば、いろいろなことが変わり始めるんです。
 たとえば私の病気が、この何年間の私自身と、病院の何人、何十人、何百人、世界中の、もっといるかもしれないひとたちの努力で治ったみたいに。
 過去から見た未来っていうのは――ドラマみたいなくらいで、ちょうどいいんです。ファンタジーな奇跡なんて普通起きません。誰だって、それくらい理解してます。そういうのを無理矢理にでも起こすのが、人間なんです。
 ありふれた言葉ですよね。起きるんじゃなくて、起こすから奇跡だなんて。
 だけど……だからこそ忘れません。どんな物語にだって、描かれたからには大切な意味があります。私たちは何かを受け取ることが出来るんです。
 私は、ちっぽけなものも、大きなものも、忘れたくありません。誰かの幸せがいっぱい詰まった夢は、いつか他の夢見た誰かにもつながって。
 物語は、そうやって繰り返し、繰り返し、つづられてきたんです。
 祐一さんは、そうは思いませんか?


 そして永かった夢は終わり、そこから、新しい物語が始まる――

















 風がほっぺたを撫でて、こそばったくて目が覚めた。
 開け放たれた窓から、光が射し込んでいる。傍で眠っている祐一君の寝顔は楽しげで。うん、ほんとうにお疲れさま。もう少し寝かせておいてあげたいけど、すぐに廊下から何人もの足音が響いてくる。みんな、ここに向かってるんだ。
 みんなに、初めて出逢う。不思議なことにボクは、ちゃんとみんなのことを知っている。
 ちょっと照れくさい。不安もあって、少し、泣きそうで。なのに。
 気付いたら、嬉しくて、笑ってた。笑ってたよ。

 ボクは、夢を見ていた。
 みんなが幸せになれる、にぎやかで優しい、そんなハッピーエンドがいいな、なんて。
 こんなふうに、ありがとうで終わる夢を見ていたんだ…。

 枕元に置かれた、丁寧に繕われた天使の人形。ボクのことを、じっと見上げている。
 答えが返るわけもないのに、ふと、聞いてみたいなって思った。
 小さな声で、微笑んで。


『あなたが見たのは、――どんな夢だった?』 って。
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