夕凪の贈り物
【美汐】
遠い山に夕日が落ちて世界は光を失う。急速に色彩を欠いていく空はくすんだ橙色に染まっていく。地平線は微かな燐光を纏い、緑の稜線は真っ黒に縁取られていく。
先ほどまで吹いていた冷ややかな晩夏の風も今はない。何処からか僅かに薫る草いきれは、昼間降った雨の生温い感触を帯びている。青を減少させていく空に、白い雲の欠片が風にたなびくように広がっているのが見える。すべてが今日という日の終わりを告げている。ここから見える風景は酷く寂寥としている。
膝の上にいる君の温もりはだんだんと消え始めていた。君に表情はもうほとんどなくて、ただ虚ろな顔つきであーとかうーとかしか言わない。体はまったくと言っていいほど動かずに、私に向かって体重のすべてをかけている。だがその重みもさほど大したものではない。君はあまりにも小さい。泣きたくなるくらいに小さく、脆く、儚い。
空気が澄み切っていく。何もかもが遠い世界へと向かっていく。音も匂いも感触も、あまねく要素が欠落し、ただ圧倒的な橙色だけが目蓋の裏から離れない。濃い緋色をした透明な球体が沈んでいくのがスローモーションのように見える。そっと私は君の手を握る。記憶なんてとうの昔に消えていて、人間的なことなんて何一つできなくて、ただ生きているだけで、でも君はその時、しっかりと私の手を握り返してくれた。
もうわかっている。すべては終わりなんだということ。君はここでささやかな奇蹟の代償として消える運命にあって、私はそれを見守ることしかできない。逃れることはできない。
だけど私はずっと祈り続けようと思う。いつか君が想い出の中だけの存在へと私の中で変容しても、私はいつまでも願い続けよう。
――いつかまた、再び君に逢えますように。
やがて夕日は沈み切る。
落日の穏やかな光を闇夜が払う。
気が付けば君はもう目を閉じている。
私は、一筋の涙を流した。
【夏】
忌々しい夏がやって来たおかげでTシャツ一枚でもかなり暑い。かといってクーラーで作られた人工的な涼しさというのにもいまいち馴染めず、相沢祐一は結局図書館の入り口前でうろうろしていた。
空を見上げれば、それは透き通るかのように綺麗な青をしている。時折見かける雲はぷかぷかと水面に浮かぶ羊のようにも見えて、その光景を想像した祐一は一瞬和んだが、けたたましいまでの蝉の鳴き声に、穏やかな幻想も一瞬のうちに払われた。
汗が不快に背中を伝う。
いっそこのまま立ち去ろうか。そう考え始めたとき、「お待たせしました」という声が後ろからして、祐一は振り返った。祐一の通う大学が誇る巨大な図書館の入り口から姿を現した天野美汐の声だった。
「遅いぞ」
「わざわざ待っていたのは、祐一さんです」
美汐は素っ気なく答える。
それにしてもいつから彼女は俺のことを「相沢さん」ではなく「祐一さん」と呼ぶようになったのだろう、などと祐一が考えていると、「それでは、さようなら」と言って彼女は立ち去ろうとした。
「おい、ちょっと待て」
「どうしたんですか?」
「それじゃあ、わざわざ天野を捕まえた意味がないじゃないか」
昼過ぎに講義も終わり、あとは昼食をとって帰るだけというところで、たまたま図書館へ向かう美汐を発見したのが十五分ほど前。このまま行かれては本返しに付き合っただけということになってしまう。
「これからメシ食わないか?」
「講義です」
二つの台詞は、ほぼ同時だった。
「……は?」
「ですから、これから講義が入ってます。もう昼食は食べました。残念」
くすりと笑って彼女は今度こそ立ち去った。
あんな表情を見せるようになったとは出会った頃と比べて彼女もずいぶんと柔らかい人間になったものだが、独り取り残されるとそんな感動も薄れて、寂しさと物悲しさしか感じない。祐一は一人暮らしのアパートで自炊するか帰り道にファーストフードに寄るか悩みつつ、大学の敷地を出た。
暑さに内心呻き声を上げながら駅に辿り着き、電車に乗る。かつて美汐と一緒に通った高校は川の向こう側にあって、電車は鉄橋を通り目的の駅へと至る。
橋を渡る途中、窓の外に視線をやると白い鳥が一羽、上空をくるりと旋回して彼方へと飛び去っていくのが見えた。日差しに反射してきらきらと光る川面がたとえようもなく美しい。平日の昼間ともなれば電車の中にほとんど人はいなかった。駅を経るにつれ僅かに乗っていた客も降り、ついに車両の中には祐一しかいなくなる。
「家で食べようかな……」
誰もいないのをいいことに独り呟く。昼食のことだ。
が、その直後重要なことを思い出す。
「冷蔵庫空だ……」
独りでファーストフードに突入というのはなかなか気が引けたが、我が家の冷蔵庫の現状を考えると仕方がない。外で食べて帰る他なさそうだった。
がたん、ごとん。
電車が心地よい揺れを奏でる。
つい、うとうとしてしまう。
昨夜は発売直後のゲームをほぼ徹夜でしていたせいで、睡眠時間が足りていないのだ。正直言うと講義も半分くらい寝ていた。
そしてその眠気は限界に来ている。このまま睡魔に負けてしまいそうだった。
がたん、ごとん。がたん、ごとん。
揺れが祐一を睡眠へと導入する。
「…………」
で、本当に寝てしまったりする。
電車が駅にとまる緩やかな衝撃で目が覚めた。緩慢な動作で開く扉。その上にある電光掲示板――そう呼んでいいのか定かではないが、それ以外の呼び名が思い浮かばないのでそう呼んでいる――を見ると、そこに映し出された駅名は終着駅一歩手前のそれ。
寝惚けた頭で状況を推察する。
一、自分はたぶん今まで寝ていた。
二、ここは目的の駅を通り過ぎたところにある駅である。
以上の二つの条件から導き出される結論は?
――寝過ごした。
慌てて立ち上がり、閉じかけた扉から無理矢理外へと出る。見たことのない景色。知らない駅の風景が、目の前に広がっていた。
居眠りで乗り過ごすなんて。間違えて降りたい駅にとまらない快速に乗ってしまうのならともかく、これは相沢祐一一世一代の不覚である。……とまではいかないけれど。第一、快速に乗ってしまうのだってかなり間抜けだ。
溜息をつく。仕方がなく反対側のホームで電車を待つ。
静かな駅だった。雑音という雑音が消えうせて、打ち壊してはいけないと思わせるような静寂が漂っている。
……落ち着かない。
祐一は左右を見渡した。
ベンチに座る初老の男性が目に入ったのはそのときだった。
穏やかで、でも鋭い目つき。いるだけで圧倒的な存在感を保っている老人だった。近くに立っていると何処か気圧されているような気がしてならない。
近くに住む人なのだろうか、通りかかった年配の人たちが名前を呼んで老人に挨拶していく。それを何気なく聞いていると電車がホームに滑り込んできた。もっと待たなくてはならないかと思ったが、存外早く来た。音をたてて開く扉。乗り込むが、同じホームで電車を待っていたはずのその老人は乗らなかった。
電車を待っていたのでないとすればあんなところに座って何をしていたのだろう。
だがそれを考える暇もなく、列車は緩やかに動き出した。やがて速度を上げて急速に駅から離れていく。
視界から消えるまでずっと、その老人は姿勢を変えなかった。
【妖狐考察】
「よう、自称ちょっぴり不思議系美少女魔法使い天野みっしーじゃないか」
「そんな自称していません」
美汐はそう言って、小さく、だが祐一に見えるように溜息をついた。
「お願いですから、普通の会話をしませんか」
「しているぞ。……たぶん」
もう一度溜息。そして祐一をおいて、美汐は歩き出した。
同じ私立大学に通う身となった今、二人は時間が合えば一緒に大学へ向かうようになっていた。とは言うものの、二人の間に男女としての関係などない。祐一にその気もないし、美汐にもたぶんないだろう。だが互いに大切な人だとは思う。同じ過去を共有するものとして、大きな精神的支柱となっていた。傷の舐めあいと言う人もいるかもしれない。だがそれで救われ癒されるのなら、それを悪いことだとは思わない。
美汐と一緒に電車に乗り込んだ。二人の話題はいつもとりとめのないものだ。あの出来事の話はあまりしない。気軽に話すには――否、真面目に話すにしても、その話題は辛すぎた。
「昨日、どんな本返しに行ったんだ?」と祐一。「いや、そもそも天野はどんな本を借りる?」
「研究書とかですね、ほとんど。昨日返しに行ったのも、その類です」
「ああ……。俺には関係のない類の本か」
「ええ。不真面目な学生を絵に描いて立派な額縁に飾ったような祐一さんには、縁のない本です」
「天野……」祐一は泣きそうな顔で言った。「俺のこと、嫌いか?」
「いえ」さらりと答える。「そんなことありません」
電車は鉄橋に差し掛かっていた。
進行方向に対して右側の窓から透明な朝日が差し込んでいる。美汐は眩しげに目を細めながら、「そういえば、祐一さんは夏が嫌いでしたね」と言った。
「ん? ああ、そうだな」
「何故ですか? 理由を聞いたことないです」
「うーん、天野のスリーサイズを教えてくれたら、教えてやろう」
「上から百、百、百です」
「……そこまで自然に嘘を言えるってのは、ある意味すごいな」
「で、何故ですか?」
「んー」祐一は少し悩んだ様子を見せて、「暑いの、嫌いなんだ」
「単純ですね」
「ああ。それがとりえだ」
「…………」
「いや、否定してくれないと困るんだが」
「もうすぐ着きますよ」
既に橋は遙か後方。降りる駅までもうすぐだった。それにしてもなんだか、意図的に話を逸らされている気がしてならないのだが。
「祐一さん」
不意に美汐が声をかけてきた。
「どうした?」
「今日は、お昼、ご一緒できると思いますよ」
二人そろって午前しか講義がなかったため、祐一は美汐と食事を共にすることができた。とはいっても高級レストランに入るわけでもなければ、夜景が見えるレストランとか、海辺の爽やかなレストランとか、そんな雰囲気のいい店に行くわけでもない。ハンバーガーでないだけまだましといった程度のファミリーレストランに、帰路の途中寄るだけだ。
「祐一さんは、民俗学に詳しいですか」
店員に案内されて席に座り、料理を手早く注文すると、美汐はすぐにそう切り出した。
薄暗い照明で照らされた店内はそれなりの賑わいを見せていたが、それでもなお彼女の声ははっきりと祐一の耳には届いた。おそらくは民俗学という言葉で、今から始まる話がいかなる類のものであるか判断できてしまったからだろう。
「妖狐のこと、か?」
「そのとおりです」
「……民俗学ね」祐一は肩をすくめる。「天野より詳しくない自信はあるな」
「そうだろうと思っていました」
美汐は苦笑して、
「私がいつか調べたと言った妖狐に関する伝説ですが、あれには違った方向からアプローチできるのではないかと最近考え始めました」
「違った方向からのアプローチ?」
「はい。私たちが今まで考えてきたのは、いわゆる『恩返し』のようなパターンです。昔助けた動物が人に化けて恩人のもとへとやって来る、という」
「そうだな」
「私たちが体験した出来事に非常に酷似しているので、今まではこういった方向性で考えてきましたが、ちょっと見方を変えてみたいと思いまして。つまり、妖狐に目を向けるのではなく、妖狐を使役する者に目を向けるのです」
「使役……?」
美汐の言葉を祐一が反芻する。確かにそれは今までとは違った見方だった。美汐がかつて語った伝承の中にも、そのような記述はなかったように思う。が、霊を操る人間というのは確かに伝説の中にその存在が示唆されている。であれば、霊の一種である妖狐を使役す人間だって、いるかもしれない。
――そして、その人間ならば、或いは妖狐を甦らせることができるのではないか。
美汐はたぶんそんなことを考えているのだろう。
「祐一さんにお願いがあります」
「なんだ?」
「私の変わりにこれを調べてください」
「――は?」
「私、今忙しいんですよ。レポートとか溜まっていて。祐一さん、暇でしょう?」
「暇決定ですか、俺は」
「違うんですか?」
「まあ、暇といえば暇だが」
「ではお願いしますね」
その言葉には言外の圧力が込められていた。何となく拒否しにくくて、祐一は結局了承する。
……それから話題は、どの教授の講義は駄目だ、あのサークルはいかがわしい、などといったものへすり替っていき、やがて料理も到着して、食事を終えると、このまま帰るという美汐と別れて祐一は大学の図書館へと向かった。美汐が言った「妖狐を使役する者」について調べるためだ。
図書館に入るとエアコンに冷やされた嫌な空気が肌にまとわりつく。我慢して資料を片端から手にとっていく。
それらしい記述のある本は予想以上に多かった。妖狐の新たなる一面を見た気分だ。鞄に詰め込めるだけの書籍を借りて建物から出る。これから帰宅して、資料をゆっくりと読もうと思った。
鞄のずっしりとした重みを感じながら駅までの道のりを歩く。
夏の昼間は長く、未だ太陽は翳りを見せていなかった。
家に帰ると早速、借りてきた本、コピーしてきた資料を机の上に広げる。短時間で詳しいことまで調べ上げることができるとは思えない。が、概略だけはつかんでおきたい。
資料を読み進めていくと、美汐が示唆した「妖狐を使役する者」は確かに存在することがわかる。
憑物筋である。
この世のものならぬ存在を使役するという伝承はこの国には少なからず存在する。たとえば陰陽師はいわゆる「式」を自在に操る。彼らがその「式」に人格を与えた「式神」を使役するというのは有名な話だろう。
正確には憑物筋とは一人の人間を示す言葉ではなく、動物霊を代々飼い養っている、或いは祭っている家系そのものをさす語である。彼らは動物霊――憑物を使い、他人に病理などをもたらすとされている。本当にそれが可能なのかはともかく、そういった伝承が地方の民俗社会に連綿と受け継がれ信じられてきたことは間違いない。
一般に使役される霊は童子の形状をとることが多い。式王子や護法童子などがそれにあたる。何故そうなのかはいろいろと説があるらしいが、そもそも「童」という字は召使というような意味であるからして、そこから「使役されるもの」というようなイメージが定着したのだろう。だが憑物筋が使役するものは一般的に人間の形をとることはない。そのほぼすべてが犬や狐といった小型或いは中型の獣である。関東の尾裂狐。中部、東北の管狐。中国、四国、九州の犬神。南九州の野狐、といったように。中国、四国のトウビョウだけが蛇の姿をしている。
妖狐はだから、形状としては憑物筋に使役される存在としての条件を満たしているといえた。
憑物筋の成立過程は諸説紛々のようだった。そもそも憑物を払い落とす役目だった宗教者が民俗社会に溶け込み、そのまま憑物筋となったと解釈するのは一番ストレートだろう。だがそれ以外にも複雑な説がいろいろと記述されている。だが必要ないと判断してそこまでは祐一は読まなかった。
続いて手に取った資料は、大学の図書室から持ち出したものではなかった。大学を後にして祐一はその足で地元の図書館へ向かった。そこの書庫の奥底に眠っている郷土資料。司書に頼んでわざわざ出してもらったものだ。
読み進めていくと、それらしい記述――憑物筋という言葉が民俗学用語として使用されるのは戦後のことらしく、憑物持ちといった言葉が使われているが――を発見する。祐一たちが妖狐と呼んでいたのは、いわゆる野狐のことらしい。野狐というと妖狐の中でも悪さをする種類のもので、九尾の狐などが有名だが、この野狐は主人が好いてくれているのなら決して悪さはせず、むしろ福をもたらす善狐と同様の働きをするという。しかし、先ほどの資料には南九州に流布するとされていた野狐が、何故この北の地にいるのか。わからなかったが、それは問題ではない。
――この地に、間違いなく憑物筋はいた。
祐一は資料を閉じようとした。が、頁の端の一説に目が留まる。
憑物筋とは、基本的に疎まれる存在である。おそらくは遙か戦前に書かれたのであろう、土俗的な差別意識が色濃く残るこの資料には、現代の感覚では信じられないほど、憑物筋が忌み嫌われる存在として明確に記述されていた。そこに記された苗字。それを見た瞬間、体が凍りつきでもしたかのように強張った。
本を机の上に放り出す。テーブルの上に放置されている電話の子機を手にとって、もう暗記してしまった電話番号を素早く押す。二回のコールで相手は出た。
「天野さんのお宅ですか?」
「はい……祐一さんですか?」
出たのは美汐だった。好都合だ。
「昼間の件について話したいことがある」
「何かわかったのですか?」
「これからその妖狐を使役する人に会いに行くんだ」
「いたのですか、そんな人」
「ああ」
何処かのんびりとした美汐の声に、微かな苛立ちを覚える。
「行くか、天野も」
「いえ――」美汐は少し躊躇ってから、「祐一さんに、任せます」
その返事に祐一は拍子抜けした。美汐のことだから、妖狐がらみのことであれば万難を排してでもやってくると思ったのに。そうか、と返事して受話器を置いた。美汐が来ないのであっても行かなくてはならなかった。昨日の帰り電車を乗り過ごしてついてしまった駅。そこにいた一人の老人。通りがかった人に名前を呼ばれつつ、彼は挨拶されていた。耳に入ったその名は、確かに文献に記載されていたそれと同じだったのだ。おいそれとある苗字ではない。おそらく間違いない。
財布だけを持つと、祐一は玄関まであわただしく駆けていった。靴を履いて外に飛び出す。
一刻も早く、あの老人に会わなくてはならなかった。
【憑物筋】
憑物筋の人間と思しき老人を見た街に着いた頃には日はだいぶ傾き始めていて、もうそろそろ紅の夕日になろうかという様子だった。
よく考えたら馬鹿なことをしたものだった。わかっているのはあの老人の苗字だけ。もちろん住んでいる場所はわからない。そんな状況下でいったいどのように彼を探し出すというのか。電車を降りてから祐一はそのことに気がついた。
「どうするんだよ……」
溜息をつき、途方にくれる。引き返して調べなおしてまた来るか、それとも通りがかりの人に訊いて回るか。
そう考えていたときだった。
「妖狐の呪縛から逃れることのできぬ方、ですか」
しゃがれた声がホームに響いた。
背後を見遣った。気が付けばホームから人気がなくなっている。そして真後ろのベンチにあの老人が座っていた。あのときと寸分違わぬ眼光をして。
「何故、ここに」
「偶然……いや、虫の知らせという奴かな。とにかく確証はなかったが、あなたが来ると思ったのだよ」
「本当ですか」
妖狐を使役するといわれる一族だ。霊感のようなものがあってもおかしくはないのかもしれないと思いつつも祐一は問い返す。
「さあ。本当は、毎日飽きもせずここから景色を眺めるのが習慣なのかも知れぬ。そこに偶然あなたがやって来た」
「…………」
黙りこんだ祐一に老人は、
「……何か、訊きたいことがおありか」
「はい」祐一は首を縦に振る。「妖狐について。――あなたは、憑物筋の人なのでしょう?」
老人は視線を落として自嘲気味に溜息をつく仕草をした。視線を再び上げて、先ほどよりも強烈な目つきで祐一に言った。
「ひとつあなたに自覚してもらいたい。憑物筋は、忌み嫌われる存在だ。婚姻など論外、その他様々な迫害を受ける。それは憑物筋だからに他ならない。その成立過程には諸説あるが、憑物筋が民俗装置であることは間違いないだろう。農村で何か異常事態が起こる。するとその責任をなすりつけ、村全体の安定を図る必要が発生する。その際責任を負わされるのが、憑物筋だ。全体を生かすために一部を切る知恵。だから図式は逆転する。憑物筋が異変を起こすのではない。村で起こった異変はすべからく憑物筋の仕業でなくてはならないのだ」
「…………」
「或いは異人殺しの伝承同様、富の偏りを説明する手立てだったのかもしれぬ。貨幣経済が成立し、すると富の偏りが村の中で発生する。だがあまりにも偏りすぎれば、出る杭は打たれると言わんばかりに、富を持った家は憑物筋とされ迫害される。――いや、この物言いは正確ではないな。逆だ。富を持った家が憑物筋となるのではない。富を持った家が凋落する際にそれは憑物を飼い養うことができなくなったためと説明する。そこから遡って、過去の繁栄を憑物の仕業であると断定する。――いずれにせよ、憑物筋という扱いは我々にとっては差別でしかない。実際に裁判沙汰にもなっている。今のあなたの質問は、そのようなものであることを、念頭に置いていただきたい」
「わかりました」
「――よろしい」老人は満足げに頷くと、「では、どんな質問でもしたまえ。答えられる限り、答えよう」
「あなたは、憑物筋なのですね?」
「そうだ」
「使役する憑物は、妖狐?」
「野狐と言ったほうがいいかもしれないが、そのとおりだ」
やはり祐一の考えは正しかった。
「それならば」と祐一は言った。「俺の質問は、あとひとつだけです」
「何だ?」
「あなたに、奇蹟は起こせますか」
風に揺れ、擦れた葉の音が異様に大きく響いた。太陽は沈み始めている。綺麗な夕日だった。
祐一の質問に老人は一瞬だけ沈黙した。が、すぐに口を開いて言った。
「無理だ」
「どうして」
「君は、一度死んだ妖狐――それも変化した狐を、生き返らせて欲しいと言うんだろう?」
「そのとおりです。無理、ですか?」
老人は頷いた。「憑物筋は、あくまで自然の運行に人為的な作用を働かせるだけの存在だ。自然の法則に反する事象を発生させることは、できない」
「絶対に?」
「ああ」
「……わかりました」
口調では冷静を装いつつ、だが祐一は落胆の色を隠せない。
老人の言葉は奇蹟の明確な否定だった。この老人なら、妖狐を使役する家の者なら、或いは奇蹟を起こせるかもしれない。祐一はそれだけを考えてここまで来た。しかしそれも潰えた。
ホームに電車が滑り込んでくる。祐一がここまで来たのとは反対側の電車だ。老人が立ち上がる。そう、話は終わりだった。祐一はこみ上げてくる脱力感に呆然と立ち尽くしていた。もう――奇蹟は起こらないのだろうか?
「そんなことない」自分に言い聞かせるように、「奇蹟は起きるよ……起きるさ」
「最後に二つ、言っておこう」老人が、低い声で。「まず、私に奇蹟の否定そのものはできない。私が起こせない、というだけで、或いは起きるかもしれぬ。もうひとつは――」
風が――鳴った。
老人の言葉は掻き消され、ほとんど聞き取れなかった。だがその意を汲み取ることは十分できる。そして意味を知った瞬間、祐一は目の前の閉じかけた電車のドアへ走り出していた。
間一髪で電車に乗る。振り返り、硝子越しにホームを見ると、あの老人はもういなかった。
駅から天野家まで休まずに走った。到着すると門の脇にあるインターホンを連打する勢いで押す。何処かで鴉が鳴いた。夕焼けに鳴く鴉の声は、つい昨日までは間抜けで可愛らしいものにすら聞こえていたのに、今は不吉の象徴としか耳に届かない。待つこと数秒、インターホンから聞こえてきた「はい」という声は期待していたものではない。
美汐は家にいなかった。
それを告げた彼女の親に礼を言うと祐一は天野家の前を離れる。
美汐は何処にいるだろう。彼女の行きそうな場所を考える。だが浮かばない。親しい友人であるとはいえ彼女の行動すべてを熟知しているわけではないし、何より美汐はそれほど行動的な人物ではなかった。
祐一は一つの確信を持った。
夕暮れ空を見上げる。屋根と屋根の隙間に微かに見える低い山稜。この街を見下ろすことができるその丘の名は、ものみの丘。
美汐はそこにいるに違いないと思った。美汐は祐一を待っているはずだ。祐一と話をすることを望んでいる。いや、それは正確な表現ではない。彼女の行動を考えれば、彼女は祐一が希望に満ちた報告を携えてゆくのと同時に、一方的なそしりを受けることすら望んでいるかもしれない。
そしてその舞台は、ものみの丘こそがふさわしい。二人の最も深い共通項であり、すべての始まりでもあるあの場所。あまりにも非日常的な情景が当たり前のように広がるあの草の海の真ん中で。
――結局俺たちは永遠にあの丘を忘れることはできないんだ。俺たちの記憶はあの丘を基として今成り立っているんだ――。
美汐が待っているその場所へ。
祐一は走り出した。
【美汐】
君と別れてからの日々はすべてが空虚だった。
三日三晩泣き明かした後、私はだからあらゆる感情を悲しみごと封印した。そうすることでしか潰れてしまいそうな自分の心を守れなかった。
けれど君がいなくなった瞬間は鮮明に思い出すことができる。なだらかに続いていく草原、斜面が落ち込んだ先には古びた木の柵があって、それを境に眼下には町並みが一望できた。街だけでなく夕日の沈む様も望むことができる。物憂げでまるで幻影なのではないかと思えてくる、現実感を完璧に欠いた赤色の球体。山の向こう側に青を橙で上塗りしながら静かに沈んでいったそれは、今でも記憶の奥底に残っている。
忘れることなど、できない。
記憶は螺旋模様を描いている。そんなことを言ったのは誰だったろう。或いは何かの本に書いてあったのかもしれない。
確かに記憶は螺旋階段のようだった。過ぎ去った記憶でも、忘れ去った過去でも、手すりから身を乗り出してみればそれはすぐ真下にあるのだ。離れることはできない。私が私である限り。
螺旋階段のずっと下のほうにあるもの。それは祈りだ。いつかまた、再び君に逢えますように。そんな願いだ。夕焼け色に染まった幼い望み。未だかなわぬ永遠の願望。
奇蹟は起きる。きっと起こる。ずっと信じてきた。そう信じ続けないと心が張り裂けてしまいそうだったから。君はきっといつか帰ってきて、私にかつてのように、その素敵な笑顔を見せてくれる。凍りついたままになっていた私の中の時間はまた動き出し、永遠に楽しい時が続いていく。それは比類なき幸せな日々――。
信じたかったのだ。
だけど君が帰ってくることなんてなくて。
奇蹟などというものは結局存在しないのかもしれない。
【夕凪】
夕日は確実に落日へと向かっている。冬であれば雪に足をとられるこのものみの丘への道だが、夏の今となってはその心配もない。すべての光を閉ざした森は闇に包まれて鬱蒼としている。すぐ近くに住宅地があるとは思えないほどに深い木々。その中を駆け抜ける。
視界の奥に一点、光が差した。森の出口に違いなかった。足をとめる。疲労が限界に達していた。ゆっくりと土を踏みしめて歩いた。
密集していた木が唐突に途切れ、世界が瞬間的に広がった。
そこは小高い丘の上。目の前の大きな夕日がこの世界全てをオレンジ色に染め上げていた。幾筋も浮かんだ雲に光が反射して、空全体に橙が散りばめられていく。風はない。静かだ。夕方の一瞬の無風状態。夕凪。
「綺麗な夕日だな」
「そうですね」
「真琴がいなくなったときも、こんな夕日だった」
「あの子が消えたときも夕焼けが見えました」
「綺麗だったか?」
「はい……」
美汐はここにいた。夕日のほうを向いて、何をするでもなく座っている。
空の茜はだんだんとその色を濃くしていく。幾重にも折り重なるようにして、光がまっすぐに降り注ぐ。美汐の顔もオレンジ色に染まっていた。
「天野、お前――」どのように切り出そうか、迷った。が、結局自分は愚直にしか問いただすことができないだろうと踏んで、祐一は事実をありのままに口にする。「俺に妖狐を使役する者の存在を示唆したときにはもう、その人と実際に会ってたんだろう? 俺も会ったよ、電話で話したとおり。奇蹟は起こせるかって訊いたら、起こせないと言われた。その後にその人は言った。数日前、同じ理由で同じことを質問した女の子がいる、ってな。ちょうど、俺と同い年くらいだったそうだ」
「たぶん」
美汐は抑揚のない声で言う。
「それは、私です」
「だろうな」
祐一は首肯して美汐の隣に座った。盗み見た美汐の横顔は酷く儚げに見えた。今にも泣き出してしまいそうな――壊れてしまいそうな、ひとりの少女にしか見えなかった。
「天野家は古くからこの地に住んでいます。母が小さいころ、祖父から憑物筋に関する話を聞いたことがあると漏らしました。それを聞いた私はそこから必死になって調べました。でも駄目だった。――祐一さん、もう奇蹟は起きないのでしょうか」
「…………」
「私はそんな気がします。憑物筋の話を聞いたとき、妖狐を使役する家系の人間なら、妖狐を蘇らせることも可能なのではないかと思いました。期待に胸を膨らませて、その人のところへ向かった。奇蹟は起こせない、そう言われたとき、もうどうしようもなくなって。……でも、真琴を失ってなお強くあることのできた祐一さんなら、或いは別の解答に辿り着いてくれるかもしれない、そう思って……いえ、私は怖かっただけです。自分の口から、奇蹟が完全に否定されてしまったことを言うのが、怖かっただけ……。いずれにせよ、結論は同じでした」
「ああ。だが、奇蹟が起きないって決まったわけじゃない」
「気休めです、そんな言葉!」
美汐は祐一のことを睨むように見据えた。その目に溜まった涙が頬を伝って流れ落ちる。
「奇蹟なんて、最初からあり得なかったんですよ。知っていますか? 奇蹟は人間の願望に過ぎないんです。絶対に起きないと、頭ではわかっている。でも、ひょっとしたら起きるかもしれないという期待がある。それが奇蹟という概念を生む。奇蹟は、人間の頭の中の存在でしかありません」
それは心からの叫びだった。
今まで聞いたこともないような、美汐の心中の奥底よりの声。その主張は痛いほどよくわかった。確かにそのとおりだ。奇蹟なんてものはたぶん人間の期待にすぎない。起こり得るのならばそれは奇蹟とは呼ばず、起こる奇蹟は見せかけで、実は奇蹟ではないのだろう。
「なあ、天野――」
でも、それでも、祐一は奇蹟を信じたいと思った。
「奇蹟はあり得ないなんて、そんな悲しいこと言うなよ」
「……でも」
「確かに、そのとおりなのかもしれない。いや、たぶん、そのとおりなんだと思うよ。いつか必ず、絶対に奇蹟は起こるんだって、心の底から疑わずにただひたすらに信じきっていられるほど、俺たちが味わってきた絶望は小さいものじゃない」
美汐ははたと気付いて、過去に同種の悲劇を共有する、目の前の青年のことを見た。彼だってずっと辛い目にあってきたはずだ。奇蹟は起きない――そんな残酷なまでの現実を、今までずっと突きつけられてきたはずだ。それなのにどうしてこんなにも凛とした声色で話すことができるのか。
「真琴がいなくなっちまったあの日からずっと、奇蹟が起きる、真琴はいつか必ず帰ってくる……そう信じようと努めてきた。だけど、やっぱりそれはなかった」
「じゃあ――」
何かを言いかけた美汐を、だが祐一の「でも、さ」という声が遮る。
「いいのか? それで。奇蹟は起きない、真琴は帰ってこない。――それでいいのか? 諦めることができるのか、天野は。俺にとっての真琴――“あの子”のことを、忘れることが、できるのか?」
「…………」
「どうだ?」
「……祐一さんは、卑怯です」
「どうして」
「……そんな質問」
彼女の声は小さくて震えている。美汐の言うとおり自分は卑怯なのだろうと祐一は思った。
「そんな質問、いいえ、って答えられるわけないじゃないですか」
「じゃあ、返事は?」
美汐は少しの間だけ逡巡して、
「……忘れるなんて、できません……」
最初は、小さく。
「できるわけ……ありません!」
だが二度目には大きな声で、涙を目に一杯にためて、叫んだ。
「願って、願って、願い続けたんです。いつかまた再び逢えますように、って――」
それを聞いて祐一は満足げに頷く。
「だったら、完全に奇蹟を否定する、なんてことはやめよう。きっと、何処かに奇蹟は存在するんだよ。俺たちの前に現れていないだけで、きっといつか奇蹟ってものは起こるんだ――そう、信じ続けよう」
「気休めですね」
美汐は即座にそう返した。でもその表情は、どことなく笑顔に見える。
「ああ」と祐一は言った。「でも、素敵な気休めだろう?」
「…………」
「あれ、駄目か?」
「……いえ」
美汐は首を大きく横に振ると、頬に涙の跡を残しながら、でも笑って、「気休めです。とても、とても素敵な、ただの気休めです――」と言う。
「だろう?」
祐一も自然と笑顔でそう返す。
そのとき。
――ちりん。
それは、鈴の音だった。
するはずのない音。ちりん、と、もう一度。それは確かに祐一の耳に届いた。美汐には聞こえているのだろうか。ふと疑問に思ったが、それを問う時間も惜しくて、祐一は視線を左右に走らせ、辺りを見回した。
風は相変わらず吹いていない。美しい夕凪だ。果てしなく彼方まで続いていく鮮やかな色が、大気の中へと霧散して、世界は淡く、透明に純化した静寂に満ち溢れる。十重二十重に重なった光は空高くでゆっくりと攪拌し、降りしきる粉雪のようになって世界全体を包み込んでいく。遙か向こうの草むらに、独り走る幼い少女の姿があった。硝子越しに見たかの如くリアリティが欠如した世界で、彼女だけが、奇妙な現実感を伴っていた。
――真琴、だ。
この場に彼女がいることの不自然さを、だが祐一は考えない。ともすれば炎の前の硝子のように、脆く粉々に砕け散ってしまいそうな目の前の光景が、ただ愛しく思えるだけだった。
真琴がこちらを向く。逆光でよく見えない。オレンジ色の光が満ちる。彼女の揺れた髪が、光を中空に紛れ散らばせた。さらさらと、夕暮れは流れ落ちて。まるで、あの日のように。人生で一番の悲しみの記憶、その色のようだった。足元では草が揺れている。なのに、風はない。
いても立ってもいられなかった。あれほど待ち望んだ人が、今ここにいる。
祐一は立ち上がって、一歩を踏み出した。真琴に向かって、近付いていく。
踊るように、ステップを踏むように、舞い降りる夕凪の中を駆け抜けていた真琴が、不意に立ちどまった。祐一も立ちどまる。光は強くなっている。眩しさに、目を開いていることができない。彼女がそんな穏やかな光の中で、静かに微笑んでいる。
なあ、真琴――。
祐一は真琴に、心の中で喋りかけた。
なんで、そんなところで立ちどまっているんだ? こっちに来いよ。もっとお前の存在を感じたい。抱きしめて、頭を撫でるようにして。その温もりを感じたい。存在を全身で感じたい。
俺は今でもお前のことを愛しているよ。たとえお前がこの世から消え去って、想い出の中だけの存在になってしまっても、俺はお前のことが好きだよ。この世界が終わるまで、俺はお前のことを愛し続けるよ。
祐一は歩みだした。
だけど、それはやはり、幻で。
刹那、夕日が爆発的に広がった。
落日は訪れた。一瞬、眩しいほどの鮮やかな光芒を放って、夕日は低い空に橙を残しつつ沈んでいった。その瞬間に、真琴も夕凪も消えていた。
「どうしたのですか?」
背後に美汐の声だけが聞こえる。祐一は答えた。
「幻を、見た」
「奇遇ですね」と美汐。「私もです。あの子がいました」
「そうか……」
オレンジ色の空を見上げる。
たぶんそれは、この静かな夕凪がくれた、優しくて切なくて、そしてとても悲しい贈り物。祐一は色彩を失っていく空を仰ぎ見た。雲が流れている。風が吹き始めていた。
「今の幻は、ひょっとしたら――」祐一は言った。「小さな奇蹟だったのかもしれないな」
「――そうですね」
美汐は立ち上がり、背中についた草を払うと、「もう、暗いです。行きましょう」と言った。彼女の言葉どおり、空は薄墨を引いたように暗くなりつつある。残り香のように山の端から漏れる光も、やがて消えるだろう。
「ああ」
言って、夕日の残滓に背を向けた瞬間、ふと誰かに呼びとめられたような気がして、祐一は振り返った。だがそこには何もなく、ただ眼下に街並みが広がっているだけだ。
「俺さ」祐一が、独白のように。「夏、嫌いだって言っただろ?」
「はい」
「真琴がさ、言ったんだ。春が来て、ずっと春だったらいいのに……ってな。夏は、春の終わりを告げる季節だ。ずっと続いていく春が来なかったことの証明なんだよ」
美汐は微笑んでいた。それは深い深い慈愛を湛えた、穏やかな微笑。
「奇蹟が何処かに存在するのだとすれば」と彼女はその表情のまま言った。「信じて、待ち続ければいいのではないですか? ――永遠の春の、到来を」
草が風に波のように揺れた。
「もちろん」と祐一。「そのつもりだ」
流れゆく雲が微かに反射していた光も、今はない。一瞬の間だけ西の空の彼方を見据えた祐一は、踵を返して、今度こそ振り返らずに、歩き出した。
【美汐】
――数日後。
自動改札のようなゲートでカードを通して、私は大学の図書館に入った。右側に位置する大きな窓から木漏れ日がたゆたうように差し、広い部屋のそこここに打ち立つ白い石柱が冷え冷えとした印象をもたらしている。最近操作を覚えたコンピュータで検索。目的の本の場所を確認し、そこへ向かう。三階で一冊の雑誌を巨大な書架から見付けると、掲載されている論文のコピーをとってまたすぐ本棚へと戻した。一通り目を通して考えていたのと同じものだとわかると鞄に仕舞う。
――あの夕凪の幻は結局なんだったのだろう。あの日以来、私はそう考えることがある。
あれがささやかな奇蹟だったのだとすれば、それは何て残酷な奇蹟なのだろうか。あの子が楽しげにはしゃぎ回るその光景。その中に自分が入っていくことはできないのだ。そしてそれが精一杯の奇蹟だったというのならば、私はやはり思う。あの子が帰ってくることはたぶんもうないのだろう、と。
奇蹟などというものは、やっぱり人の願望に過ぎなくて、季節はきっと何事もなかったかのように回り巡る。この夏が過ぎれば、色鮮やかな紅葉に彩られた秋が来て、雪で真っ白に埋め尽くされる冬が到来し、すべての生命が芽吹く夜明けの春が訪れれば、それすらも過ぎ去って、また、暑い夏が来るのだろう。永遠の春は訪れない。私は永久に繰り返される季節の中で、一生の間ずっとあの子を待ち続ける運命にある。
さて。私は心の中でそう呟くと、図書館の出入り口へと足早に歩き出した。そこではたぶん不機嫌そうな顔をして、いつかのように彼が待っている。彼を恋愛対象として見ることはやはりないけれど、でも彼はかけがえのない友人なのだ。他の誰でもあってはいけない。彼でなくてはならない。悲劇によって結びついた絆は、だからこそ、深い。
カードを通して外へと出る。夏はまだ始まったばかりで、熱い陽光が燦々と降り注いでいる。
そんな夏の日差しの中に彼を見付けた。背中を丸めて暑さにへばり、力なく地面に座り込んでいる姿にやる気は感じられない。まったく仕方のない人だ。彼に発見されないように背後から近付く。すぐ後ろに立った。
「元気ないですよ、祐一さん」
私は彼にそう声をかけた。
「当たり前だ。こんな暑いのに外で待たされてるんだぞ」
「なら、中に入ってればいいんです」
「あの涼しさは逆に健康に悪い」
「だったら文句言わないでください」
……奇蹟は起きない。それは明確に私の中に確信としてある。確かな理由はないけれど、十年近く待ち続けても帰ってこない者が、今更帰ってくるとは思えない。私が胸に抱き続けてきた悲しみの暗黒は、もう無条件の信用など赦さないのだ。たぶんあの子は生命を投げ打った。あの子はこの地上にはいない。私はそう思っている。
だけど、それでも。
人のいない道端を歩いているとき、友人と他愛ない言葉を交わしたその瞬間、ふと視線に飛び込んできた風景が息を呑むように綺麗だった刹那――そんな緩慢とした日常の何処かで、私は本当に少しだけの期待をこめて、奇蹟はひょっとしたら起きるんじゃないか、なんてことを考えてみるのだ。
だから私は昨日までと同じように祈ろうと考えている。明日も明後日も、ずっとそうしようと思っている。
「――ほら、立ってください。お昼ご飯、食べに行きましょう」
「はいはい……わかったよ」
願わくは――いつかまた、再び君に逢えますように。
感想
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