そして全てが閉ざされた



【1/ホーム】 

 吹き荒れる冷涼の風が、頬を切り裂くように撫でていく。防寒具として着込んだコートを突き破り、冷気が背筋を這い上がってくる。身体の芯を徐々に蝕まれるような感覚に、相沢祐一はため息を漏らす。駅のホームは豪雪に染め上げられ、足元にも多量の雪が積もっていた。祐一はもう、一時間以上に渡ってベンチへと腰掛け、ぶつ切りの意識を保ち続けている。
 無防備な顔面に、雪が容赦なく叩きつけられる。薄く開いた瞳の奥、舞い散る雪を潜り抜けるようにして、ちらちらと動く人影が見えた。祐一は目を見開いて、ゆっくりと立ち上がる。長時間雪に晒された両足は萎え切っており、ともすれば膝から崩れ落ちるような衝動に襲われていた。
 歪んだ視界の向こうに、一人の少女が立っている。流れるような蒼髪が、生き物のように空を踊っていた。両の手に握り締めた缶コーヒーを胸に抱いたまま、少女は震える唇を小さく開いた。

「……待った?」

「当たり前だ。今、何時だと思ってる?」

 少女はきょろきょろと辺りを見渡し、壁に取り付けられた柱時計を食い入るように見つめる。長針と短針が示す時刻は、本来到着しているべき時間を大幅に振り切っていた。しばし呆然と表情を凍り付かせた後、曖昧に、そして気まずそうに笑う。

「ごめんね。寝過ごしちゃった」

 缶コーヒーを用意していた辺り、遅れた事には気付いていたのだろう。祐一は差し出されたそれを受け取ると、プルトップを引き上げる。未だ温かみの残る液体を嚥下すると、喉を滑り落ちていくコーヒーの熱が、全身を巡っていくような感覚を覚えた。無言のままでいる祐一に一抹の不安を感じ取ったのか、少女は顔を伏せ、上目遣いの視線を向けてくる。

「えっと……ごめんね?」

「こいつに免じて許してやるよ。さぁ行こうか、名雪」

 その瞬間、目の前にいる名雪が、吹き荒れる雪が、音が、世界が、全ての動きを停止した。
 狼狽した祐一は名雪の肩を揺すってみるが、手応えが返って来ない。まるで石像相手に格闘しているような、そんな空虚さだけが手に伝わってくる。それを嘲笑うかの様に、ふいに祐一の指先がぼろぼろと零れ落ちていく。砂の様に変化した細胞が、指先から付け根へと、更に肘を通り過ぎて肩までをも侵食し始めた。不思議と痛みは無い。砕け散った肉体の欠片は、雪と溶け合うように消えていく。

「う、あっ、ぐあぁ……」

 叫び声を上げて、祐一は雪面に膝をつく。だが、沈痛な悲鳴は時の止まった世界で誰かに届く事は無い。虚しい言ノ葉だけが、灰色の大空へと霧散する。
 加速する恐怖に拍車をかけるかの如く、毒々しげな紅の液体が、ぼたりと雪の上に落下して円を描く。祐一が視線を持ち上げた先、硬直したままの名雪の瞳から鮮血が流れ落ちていた。それは目尻を伝って頬に赤い線を引き、顎の辺りからぽたぽたと雫を落とし続ける。

「……嘘、だろ?」

 思わず呟いた祐一へ語りかけるように、名雪の形をした何かが言葉を絞り出す。

「嘘じゃないよ。ここは人間の二面性が顕現される場所。現実と薄皮一枚で隔てられた精神世界とでも呼ぶのが正しいかな。人は誰でも心に闇を持っている。表層に現れる事は無いけれど、それは確かに存在する感情なんだよ」

 自然と祐一は後退りしていた。威圧的な態度の名雪には、禍々しいまでの狂気が宿っている。心臓を抉り取られる様な恐怖が、現実の物として動悸を激しくさせる。

「無理だよ。ここからは誰も逃げられない。絶望の迷路を駆け回り、最後は闇に食われて命を落とす。……そーだ。このままだと味気無いからゲームをしよう。仮にアナタが勝てば、無事に現実へと帰る事が出来る」
 
 張り裂けんばかりの笑みを浮かべて、名雪はくくくと笑う。

「脱出方法は一つ。この精神世界を作り出した人間を殺す事。それが誰なのかは言えないし、もっとも、簡単には殺させてくれないだろうけどね。……もしかしたら、ワタシかもしれないよ?」

 いつの間にか生え揃っていた腕を振り上げて、祐一は名雪の顔面へと固めた拳を突き入れる。それだけで彼女の顔面は弾け飛び、祐一は勢い余って態勢を崩す。

「ざーんねん」

 名雪がにんまりと笑い、カッターナイフの刃先が、横薙ぎに振るわれる。
 B級のホラー映画を連想させる動作で、祐一の右指が第二間接の部分からもぎ取られた。鮮血が迸り、切断された骨が皮膚の隙間から覗いている。激しい痺れを伴う痛みが、何度も弾けた。先ほどの様な
生温い傷では無い。

「お前は誰なんだ? どうして、俺にこんな事をするんだ……?」

「誰って、わたしは名雪だよ。どうしてって……。祐一は覚えていないの? そっか。罪の意識なんて、記憶の片隅に追いやっちゃったんだね」

 記憶の海が、どくりと胎動する。

「思い出してよ! この街で、祐一が殺した人のことを!」

 地面に亀裂が走り、ぱっくりと巨大な穴が口を開ける。途端に雪が流動を始め、祐一は思わず足を取られた。背中に地面を押し当てた状態で、闇の中へと身体が飲み込まれていく。必死の抵抗で両手の爪を突き立てるが、既に支えは失われている。
 爪が剥がれ落ちたか、砕けたか。指先からふっと感覚が消失し、目の回るような浮遊感が押し寄せる。景色が下から上へと、信じ難い速度で過ぎ去っていく。

「ネェ……ユウイチ? ドウシテ……ムカエ、ニ、キテクレナカッタ……ノ?」

 名雪の声が、遠く聞こえる。


【2/水瀬家】

 目覚めは唐突で、瞬時に暗闇から引き上げられる感覚は異質だった。祐一は視界の焦点を絞り、ゆっくりと景色を瞳に映していく。
 そこは水瀬家にある、名雪の寝室だった。
 立ち上がって電灯のスイッチを入れるが、全く反応が返って来ない。相も変わらず黒に塗り潰された世界では、誰の気配も感じない。窓から差し込んだ月光だけが、唯一の光源だった。それが逆に不安感を煽り、背筋を這い上がってくる様な寒気に祐一は身を震わせる。
 やがて目が闇に慣れてくると、おぼろげながら家具の輪郭が見えてくる。そこでふと、机の上に一枚の手紙が無造作に置かれている事に気付いた。祐一がそれを拾い上げようと手を伸ばした時、異物が指の腹を擦り、同時に鋭い痛みが伝わる。

「痛ッ……」

 カッターナイフ。刃先が半分ほど出された状態で固定され、手紙に添えられるようにして置かれていた。月の明かりに照らしてみると、微量の血液が鈍く輝いている。
 傷口を舐めて、手紙の文面に目を落とす。そこには血文字で、

 『サヨナラ』

 ただ、それだけが。
 背後で、扉が軋む音が聞こえた。
 瞬時に身体は凍り付く。首筋に、刃物を押し当てられたような冷たい殺意を覚える。

「祐一さん?」

 聞き覚えのある優しい声。咄嗟に振り返った先で、秋子が笑みを浮かべていた。室内が暗く、廊下側に電灯が点いている為、その姿はおぼろげで、現実感が奇妙に乏しい。そのせいか、張り詰めた空気は一向に弛緩する素振りすら見せず、針のような傷みが皮膚を襲っているようだった。
 祐一は変に粘着く口を開き、唾液が混じったような声を絞り出す。

「あのっ、秋子さん。名雪は……名雪は何処にッ?」

 秋子は意外そうな顔で首を傾げると、あぁ、と納得がいったように手を叩く。

「死にましたよ」

「え……?」
 
 心臓が強烈に脈動する。見えざる何かに鷲掴みにされ、そのまま抉り出される様な痛み。恐怖、絶望、慄然、そしてあらゆる負の感情が全身の毛穴から放出されていく。
 祐一は一歩後ずさる。それに呼応するように、秋子は一歩を踏み出す。じりじりと壁際に追い詰められ、距離が徐々に詰められていく中で、秋子は変わらぬ表情を張り付かせたまま、真っ赤な唇をゆっくりと押し開けた。

「あの子、手首を切って自殺したんですよ。可哀想に。あらあら、それは遺書だから触っちゃいけませんよ。そのカッターナイフも、遺品ですから」
 
 そこまで言った時点で、秋子の顔が真っ二つに裂けた。ずるりと剥けた皮膚の向こう、赤黒い固形物、血管や神経が覗いている。思わず叫び声を上げた祐一の目の前で、彼女の両手がぼとりと千切れる。途端に鮮血が流れ始め、床を汚く染めていく。

「そうそう……。原因はきっと、ワタシが交通事故ニ遭ッテ……死ンダカラ」
 
 ぶづん、と音がして、廊下の電気がふっと消える。
 全てが闇に飲み込まれた。
 五感の一つである視覚を完全に奪われ、祐一は恐慌状態に陥る。見えはしないが、眼前には秋子の無残な肉体が転がっているはずなのだ。平常心を保っていられる訳が無い。事故で潰れた秋子の顔が、瞳の中に鮮烈に焼き付けられている。それを引き剥がそうとしても、容易には取れない。
 
 ――殺される。

 明確に脳裏を掠めたその言葉が、祐一を縛っていた感情の鎖を解き放ち、ドアの方向へと走らせた。生温く、柔らかい物体を踏み潰す感触を足の裏に感じて、喉の奥から酸っぱい液体が込み上げてくる。振り向いたり、足を止めたりする行為が、世界を破滅させる引き金のような気がして、ただただ廊下へとひた走る。

「……もういいかーい?」

 名雪の声。
 音源は皆目検討が付かない。狭い廊下に反響しているせいもあってか、前後左右、果ては上に至るまで、言葉尻が間延びしていたような声が反芻されて響いてくる。

「……まーだだよ」

 背後。今しがた駆け抜けてきた扉の向こう、声が聞こえる。それは紛れも無く、秋子のものだった。
 死骸が喋る事など、現実で有り得るはずが無い。祐一は名雪の言葉は思い出す。『現実と薄皮一枚で隔てられた精神世界とでも呼ぶのが正しいかな』。この場所が精神世界である以上、あらゆる事象は支配者に左右されている。常識から逸脱した世界では、死人が動き出す事も、全ては意のままなのだろう。

「……もう、いい、かーい?」

 声。

「……もう、いいよー」

 二つの気配が、同時に消える。
 直後、荒い息遣いが前後から聞こえる。誰かが両肩に手をかけている。
 動けない。息が出来ない。固く閉じ結んだ目を――。

 ――名雪の顔が其処に在った。
 血の気が引いて、青白く罅割れた皮膚。硝子玉の様な瞳。学生服を纏った体躯。そして、カッターナイフ。
 朱を帯びた唇を動かして、彼女は言い放った。

「……みーつけた」

 声が出ない。
 その反応を見て、名雪は大きな溜め息を漏らすと、カッターナイフを持つ手を振り上げる。

「こんな苦しみじゃ足りないよ? もっと、もっと、もっと、もっと……もっともっともっともっともっともっともっと」

「うぁ、ああぁああ、あぁあぁぁぁあああぁぁああぁぁぁぁぁぁぁぁ!」

 刃先が眉間に突き立てられる。傷口から血液が逆流していくのを感じる。意識が遠のいていく。崩れていく。


【3/ものみの丘】

 夕日が沈んだ冬空に、切れ長の月が輝いている。気が付くと祐一は、柔らかな雑草の上へと身を横たえていた。仄かに香る草の匂いと、涼しげな微風とが妙に気持ち良い。冷たい底冷えが胸を突き抜けるのを感じて、祐一は額に手を当てる。微かな体温。肌の感触。そこに傷は、無かった。
 祐一は思う。この世界の支配者は、自分に何を求めているのだろう、と。それが償いや贖いだとすれば、助かる道理は無い。ただ、たとえそうであれ、現時点で殺すつもりは無いのだろう。しかし同時に、これは復讐なのかもしれない、という考えが頭を掠める。満足するだけの恐怖を与えて、その上で嬲り殺す。その説もあながち、否定は出来ない。

「……死んで」

 反射的に身を翻す。頬を掠めるようにして何かが風を切る。
 祐一の顔には、一筋の赤い線が走っていた。破られた静寂に、じわりと滲み出た鮮血。避けるのが一歩遅れていれば、今頃は顔面に刃先が突き立っていただろう。
 暗闇の中に、蜜柑色に輝く髪が映えていた。両側で結ばれたクリムゾンレッドのリボンは、色濃い血を連想させる。そこにいる、あどけない顔つきの少女は、片手に包丁を握っていた。使い方を知らない幼児のように、今しがた側面に散った血飛沫を、物珍しげに見つめている。

「なに、すんだよ、お前……」

 唇が震えていたせいで、情けない声しか出せない。こいつは誰だ。頭の中で疑念が交錯する。
 祐一は前を伺いながら、ゆっくりと後ろを振り返る。そして、驚愕する。果てしなく、小高い丘が横たわっている。地平線の彼方まで、ずっと同じ景色だけが延々と伸びている。終わりの無いメビウスの輪。逃げ道の無い迷宮。
 かちかち、と小気味良い音が鳴る。自分の歯が噛み合わない。彼女は、無邪気な相貌を祐一へと向けた。

「ねぇ、あたしは誰? ここは何処? 分からないのに、殺意だけが込み上げて来るよ。……ねぇ、殺させて? いいでしょ? いいでしょ? いいよね?」
 
 もう喋らなかった。振り返らなかった。少女が言葉を言い終える前に、駆けていた。
 心臓が恐ろしい勢いで脈動している。脂汗を垂れ流しながら、祐一は出口の無い空間へと向かっていた。どんなに力を振り絞ろうとも、足音はすぐ背後を追いかけてきて、それが更なる恐怖を煽る。絶望的な状況の中、ふと、鬼ごっこという遊びを思い出す。あれは非常に排他的な側面を持っていると、祐一は思う。鬼として君臨した人間は、他の人間を追い詰め、自らが持つ鬼としての役割を擦り付ける。新しく鬼となった人間はまた、たった一つの『迫害者』としての座を、自分以外の誰かに押し付けるため、違う獲物を探す。この繰り返しだ。
 大分夜目が利く様になってくると、この場所の異常性が顕著に現れる。全く同じなのだ。比喩でも何でも無い。細部に至るまで、目に映るあらゆる物が、景色の一部を切り取り、敷き詰めて配置したかのよう。それが続くと、もはや自分が走っているのかさえ分からなくなる。遊離した魂が、世界と同化してくような一体感。身体と精神が、切り離されているような錯覚を覚える。

「逃げないで。逃げないで。動くとやりにくいから。それに意味ないわよ。あたしは絶対に、振り切れないんだから」

 どれぐらい走り続けたのだろうか。もはや棒と化した足に、朦朧とした意識。背後の足跡だけを、祐一は薄れ行く聴覚で聞いていた。時に早く、時に緩慢に、足音は自分の動きに合わせて付いてきた。もう限界だった。膝から崩れ落ち、草の上に呆然と座り込む。同時に、足音も停止した。
 祐一は覚悟を決めて、首を傾がせる。だが、そこには誰の姿も無かった。一陣の風が吹き荒れる。そこで祐一は、はたと気付いた。

「うそ、だ……」

 空が、消え失せていた。
 そこには、反転した地面が在る。空を覆うほど巨大な反射鏡を眺めているような。其れは、紛れも無く小高い丘の風景だった。所狭しと生えている雑草の緑。重力を無視して、地面に向かって伸びている樹木。祐一は双眸を瞬かせると、引き込まれそうになる不気味な光景から視線を逸らす。
 すぅ、と全身の産毛が総毛立つ。幾度と無く向けられた殺意を、前方から感じる。後ろを追従していたはずの彼女が、何故そこにいるのか。そんな疑問は、もはや意味を成さない。ナイフの刃先を地面へ向けたまま、少女は空気を震わせて、祐一へと語りかけてくる。

「どうして、こんなに憎いのかな。もしかして……あんた、あたしを殺したの?」

 少女の双眸が、濁った輝きを魅せる。
 凶器を握った隻腕を持ち上げ、少女は狂気を剥き出しに、殺人という名の行為に狂喜する。

「あはっ、当たってる? そうなの? そうなんでしょ? じゃあ何されても文句言えないよね。殺すよ? 殺すよ? 殺しちゃうよ?」

「……見ず知らずの人間を殺す莫迦が、何処の世界に居るってんだよ。とりあえず、その物騒な物を下ろせ」

 恐怖を押し殺し、努めて冷静に返答する。水瀬家に居た名雪や秋子とは、この少女は違う。異常性を秘めてはいるものの、会話が出来ない程、錯乱している訳でも無い。彼女はしばしの間、逡巡していたようだったが、こくりと頷いて、刃物を投げ捨てる。

「あんた、名前なんていうの」

「相沢。相沢祐一だ」

 少女は眉根を寄せる。その名を何度も呟いて、記憶の糸を手繰っているようにも見える。その過程の中で、少女が小さく「あっ」と声を上げるのを聞いた。

「え……? 本当に祐一なの? あたし、真琴よ。沢渡真琴」

 沢渡真琴。聞き覚えがある。だが、記憶の断片は濃霧のように曖昧で、輪郭を持った像を形成しようとはしない。捕まえようと手を伸ばしても、それは指の隙間から簡単に抜け落ちていく。記憶を内側から操作され、鍵を閉められているような。それを引き出そうとしても、大切な部分は出てこない。
 その思考の渦を断ち切って、真琴は突然泣き始めた。何かを堪える様に、しゃくり上げながら、大粒の涙を零していく。頬を伝う水滴を見つつ、祐一は困惑する。
 それを無視して、真琴は不器用に泣き笑いを浮かべながら、祐一の胸へと飛び込んできた。そのまま背中に手が回り、抱き締められた格好になる。彼女の息遣いが聴こえる。温かい体温が、じんわりと服を通して全身に浸透してくる。祐一はふっと笑みを形作り、彼女の頭にぽんと優しく手を乗せる。

「あぅ……祐一ぃ……会いたかった……」

 甘えるような声。
 祐一は敢えて返事をしないまま、艶のある髪を撫で続けた。

「嬉しいよぉ……。これで……これでやっと……」

 ずん、と何かが突き入れられる。

「殺せるね」

 身体が痺れる。背中の肉を鋭い物が抉っている。
 目の前にいる真琴の肌から、大量の獣毛が生じる。至る部分に薄い体毛が伸び、全身の筋肉が変質していく。鼻が前方に突き出され、歯が研磨された牙へと生え変わる。柔らかな尻尾が顔を撫で、彼女は完全なる獣へと変貌した。人間の体躯を凌駕する容貌。口元から唾液を滴らせ、妖狐――沢渡真琴は低く咆哮する。
 動けない。異形の魔物に絡め取られ、常に激痛が走り回る。合計十本の爪で貫かれていれば、無理も無い。

「お前……そうか、あの時の仔狐か……」

 唸り声。妖狐の牙が、祐一の首筋へと容赦なく食い込んだ。喉を割られ、赤い飛沫が弾け飛ぶ。喉からは、ひゅーひゅーと、隙間風のような呻きが漏れ始めた。
 その牙は徐々に侵入し、反対側の皮膚を貫こうと妖狐は更なる力を込める。
 強烈な異物感に顔をしかめながら、祐一は漠然と、死を感じていた。終わる。間違いなく。

 ――ぶちりっ。

 首と云う名の噴水が、血液を撒き散らした。
 ぼとりと転がった生首。切り離された胴体。妖狐と化した真琴。
 ものみの丘に、鮮血で刻まれた紅い花が咲いていた。


【4/夜の校舎】

 リノリウムの廊下が、月明かりを浴びて青白く光を放っている。
 壁面に背中を押し付けて、祐一は大きく息を吐き出す。自らの左胸に手を当て、間断なく振動を伝えてくる心臓を確認し、ようやく自分はまだ生きているのだという実感が沸いた。確かに殺されたはずだった。首を引き裂かれた瞬間から、自分の頭が地面に転げ落ちた時まで、それは鮮明な記憶として残されている。
 何故、死なないのだろうか。此処が精神世界であるが故、なのだろうか。
 自らの意思とは関係なく、様々な場所へと連れられる。そんなのは、もう御免だった。運命に抗おうともせず、この世界の支配者とやらに従ってやる道理は無い。祐一は前方の窓へと歩み寄り、取り付けられた鍵へと手を伸ばす。逃げてやろう。そう、思った。
 しかし。渾身の力を込めた所で、それはぴくりとも反応をしない。舌打ちをして、窓へ向かって拳を叩きいれたが、硝子で作られているはずのそれは、中途半端な音を鳴らしただけだった。衝撃を吸収されているような、そんな手応えの無さが苛立ちを誘う。

「莫迦にしてんのか、こいつは。何で……何で壊れないんだよッ!?」

 夜の校舎に、無粋な騒音が木霊する。
 
 ――バリィィィィン!

 咄嗟に振り返る。廊下の遥か先、砕け散った硝子の破片が、床に散らばるのを見た。
 連鎖反応的に、次々と何かが割れる音が響き渡る。音源は徐々に近づき、波紋が渡るようにして、破壊の手は迫ってくる。狼狽した祐一が身を伏せた直後、真上で裂くような轟音と共に、無数の粒子となった破片が降り注ぐ。思わず顔面を庇うと、両腕の皮膚に小さな痛みが跳ねる。

「何なんだよ、ちくしょぉ……」

 突き立った破片を、慎重に抜いていく。体内に残りでもすれば、重大な怪我にもなりかねない。
 荒げた息を鎮めて、今しがた、目に見えざる何かが通り過ぎていった先に視線を向ける。
 そこには一人の少女が立っていた。廊下の中央に仁王立ちし、無の空間へと鋭い視線を投げている。隻腕に握られた真剣が、異様な輝きをちらちらと放つ。すると、少女は一歩足を後ろに引いて、切っ先を前方へと構え、臨戦態勢へと入る。
 直後、空間を包む生暖かい空気が、ちりっと振動する。漠然と、何かが其処に"居る"のが分かった。
 少女の透き通るような蒼髪が翻る。無数の青い線が、残像となって闇の中で鮮やかに広がる。その余韻に浸る事も許されず、信じ難い速度で剣が振り抜かれ、金属を打ち合うような音が鳴る。大剣は空中でその動きを停止し、見えない何かと拮抗している風に見えた。

 ――ガギィッ!

 剣が弾かれる。むしろ、少女が弾いたというべきか。
 振り被った勢いを殺す事無く、溜め込んだ力を解放するように、それは横薙ぎにはらわれた。
 そして、それは呆気なく訪れる。
 
 無の空間に、鮮血が炸裂した。
 
「あと、四体ッ……!」

 無表情を崩さぬまま、少女は新たな空間に向かって床を蹴る。
 祐一は呆然と、空中から血飛沫が溢れ、壁に、床に、それらの液体が散らされていく様を眺めていた。 圧倒的な強さとでも言おうか。剣術について無知な祐一にも、少女の実力の程が並々ならぬ事が分かる。軽やかな身のこなし、状況判断力、我を失わぬ冷静さ。剣術以外にも、武術や体術を会得しているのだろう。
 
 その時、偶然にも月光が差し込み、彼女の顔をさぁっと照らす。
 それは、見知った顔だった。
 七年前、記憶の奥底に埋もれてしまった記憶。独特の面影も、顔立ちも、何一つ変わってはいない。
 麦畑で楽しく走り回った日々。懐かしさが、胸に込み上げて来る。

「残り、二体ッ!」

 どうして、彼女はこんな所で闘っているのだろうか。

 ――どしゅっ。

 当然の疑問は、突然訪れた静けさによって断ち切られた。
 気が付くと、彼女の戦いは終わっていた。返り血を浴びた髪は夜叉の様に振り乱され、その美しく繊細な肌には、生々しい傷跡が残されている。剣についた血を払い落とし、ゆっくりと視線を持ち上げた。それが祐一の瞳と重なった瞬間、彼女は目を見開いた。
 戦いの最中には気付かなかったのだろう。
 祐一の存在に気付いたらしく、少女は唇の端に笑みを讃えて、ゆっくりと一歩を踏み出す。

「久しぶりだな。今のは、何だったんだ?」

 つかつかと歩み寄る彼女。
 祐一は屈託無く笑うと、小さなその肩に手を伸ばし――。
 
 ――左腕が、宙を舞った。

「ぐ、ぐあ、あぁああああああぁああぁぁあああああ!」

 激痛。ぼたりと切り離された腕の断面を、庇うように手を宛がう。
 瞬く間に血に染め上げられた右手を見て、祐一は途切れがちな言葉を吐き出す。

「なっ……う、うそ、そんっ、そんなっ……だっ、だって……」
 
 なおも接近する彼女。切っ先を大きく振り上げながら、言う。

「……手負いにさせた。もう、逃がさない」

「ちっ、ちがっ、おっ、俺はっ、ちがうん、だっ……」

 容赦なく振り下ろされる。残された右腕が根元から引き千切られた。
 彼女は愉悦の微笑を張り付かせて、待ち望んだかのように、再度剣を構える。

「……これで、さいご。あとは、いったい、だけ……」

 臓物の中心部に刃先が侵入し、あらゆる物を貫通して、背中側へと突き抜けた。多量の血が吹き出すが、もはやそれを防ぐ為の両腕も存在しない。膝から崩れ落ち、口から胃液を吐き出した祐一は、満足気に薄笑いの様な表情を見せる彼女が、同じように崩れ落ちるのを見た。

「……やっと……おわる……」
 
 彼女が発したその言葉を最後に、祐一の意識は白濁していった。 


【5/中庭】

 薄く敷かれた中庭の雪を、祐一はしゃくっと踏みしめる。
 仰ぎ見た灰色の空から、雪が舞い落ちてくるのが目視出来る。朝の空気は肌に冷たく、刺々しい風がつま先を掠めていく。降りしきる粉雪は、露出した皮膚に落ちては、溶けるように消えていく。非力だが、激しいその様子に、一種の爽快ささえ感じた。
 視線を転じると、植え込みに生えた草花に水滴が滴っている。雪の瑞々しさからは、生命の鼓動が聞こえる気がした。雨が恵みの象徴とされているのも、そこに帰結しているのだろうか。祐一が白い息を吐き出すと、それはたちまち大気の中に霧散していく。
 
「生きる事は大切です。人は常に、その事を実感しなければなりません」

「……そうだな」

 もはや、驚く事も無いだろう。ただ、またか、という色濃い疲労だけが蓄積される。この世界の支配者とやらに、自分はいつまで付き合わされなければならないのだろう。栞の背中を見ながら、うんざりと、本当にうんざりと祐一は思う。
 非現実的な光景ばかりを見せられたせいか、現実の世界と大した変化の無い此処は、逆に現実とは程遠い。造り物のような、言うなればドラマで使われるセットのように、リアルさを欠いている。目の前にいる栞も、例外では無い。当然ながら、自分自身と云う曖昧な存在すらも。全てを飲み込みそうな鈍色の空だけが、唯一つの現実。

「リストカット症候群、というのを知っていますか」

「……何?」

 一向に振り向かない栞に疑念を抱きながら、祐一はあらぬ所に思考を巡らせる。
 この世界の構造は、どちらかと言えば夢に似ている気がする。睡眠中に形成される妄想に過ぎない癖に、思い通りに事は運ばない。そこでは全てが許される。どんな事もが起こる。故に恐ろしくもある。だが、それは目覚めと言う一点において、泡の様に弾けて消えてしまう。
 言葉を区切りながら、淡々と語り続ける栞のストールが、風にちらちらとはためていた。

「一種の精神病ですよ。またの名を、手首自傷症候群とも言います。自分の手首を剃刀やカッターで切り裂く自傷行為で、男性よりも女性の方が圧倒的に多いです」

 何故、そんな事を話すのだろう。どちらにしろ、自分にとっては、一生縁の無い話には違いない。
 祐一は何をするでもなく、その場に立ち尽くす事しか出来なかった。

「それに、何度も繰り返す事が多いらしいですよ。でも、痛いのに、どうしてこんな事をする人がいると思います?」

「誰かに構って欲しいんじゃ無いのか? 傷付けば、普通は身内や、近くにいる人間が助けてくれるだろうしな」

 栞の素顔は見えないが、彼女が笑ったような気がした。
 けれども、それは単なる予感であり、それ以上でも以下でもない。

「それも、一応当たっています。私の用意した答えとは違いますが。その前に、面白い事を教えてあげましょうか。リストカット、通称リスカの致死率は約五%です。動脈を三分の一以上切り裂かないといけない、そういった難しさもありますけど……」

 ようやく、栞が振り向いた。その顔に不自然な部分は無い。
 彼女は弾けんばかりの笑顔を作ると、軽快な足取りで祐一の元へと走り寄る。
 
「祐一さん、私、さっきコンビニでアイス買ってきたんです。一緒に、食べてくれませんか?」

 栞は思い出したように、片手に提げた袋に手を差し入れる。
 中からバニラアイスを二つ取り出すと、左手をぐいっと伸ばし、祐一に向かってそれを突き出す。

「あぁ、良いけ――……」

 栞が着込んだ長袖のセーター。
 左の手首を覆い隠すようになっていたそれが、手前にずるりと引き寄せられる。
 
 そこに在ったのは、何条もの細い線。
 明確な傷として、左右から斜めに入った薄い跡は、紛れも無くリストカットによるものだった。

「あらら、見えちゃいましたか。それでは、先ほどの疑問にお答えしましょう。リストカットをする原因の一つに、充実感を得ると云う事があります。流れる血は、"生の証"なのですよ。定期的に手首を切り裂く事で、私ってちゃんと生きているんだなぁ、という実感が沸きます」

 祐一はじり、と後ずさる。だが、突き出た石に足の自由を奪われ、思わず地面へと倒れ伏す。
 栞は声質一つ変えず、表情を崩さぬまま、いつもの栞を保ち続けたまま、祐一の顔を覗き込む。

「今まではそうでした。でも、私、医師の方に宣告されちゃいました。もう来年の冬は越せないって。実感なんて関係ないですよね。もう生きられないんですから」
 
 アイスのカップが、袋ごとどさりと落ちる。衝撃で蓋が外れて、雪面を転がっていく。
 いつしか、歯の根が合わなくなっていた。栞が、あまりにもいつもと変わらない故に。ここが現実感に乏しい世界であるが故に。
 
「祐一さん、私のこと、好きですか?」

 どくん――。

「もちろんだ。嫌いじゃ、無い」

 どく、どくん――。

「では、いつまでも、私の傍にいてくれますか?」

 どく、どく、どく――。

 祐一が戸惑いを見せているのを確認するや否や、彼女はコンビニの袋から、新品のカッターナイフを取り出す。
 ビニールの覆いを取り外し、刃先を、ちきちきと前後させる。
 栞は、満面の笑みを浮かべながら――。
 
「私は、祐一さんに、死んでも一緒に居て欲しいと思います」

 心臓狙いの一撃だった。
 栞が慣れきったリストカットと違って、容赦も、躊躇も、手加減もしない。
 何も言えないまま、祐一は絶命する。

「これでずっと、いっしょですよね?」

 死体に降り積もる雪は、生命の鼓動など、感じさせはしなかった――。
 
 

【6/大樹】

 楕円型に刳り貫かれた空が視える。最初に覚醒したのは、視覚だった。僅かばかりの色彩と、陰影を帯びた世界とが交錯しているのが分かる。遅れがちに、聴覚がゆるゆると取り戻される。叫ぶように荒れ狂う風のざわめきを、途切れがちに聞いていた。
 目を見開く。大地に根を張った、壮大な大樹が空へと突き出されていた。幾重にも枝分かれしたその先を、雪が美しく飾っている。周りにある鬱蒼とした木々は、冬という季節で葉を散らし、残骸のようなその姿を晒していた。それでも、この場所に命を感じるのは何故なのだろう。砂漠の様に全てが朽ち果て、見渡す限り現実感に乏しい風景なのにも関わらず。
 祐一は立ち上がる。鉛を押し込まれたような鈍痛が頭に響く。強烈な目眩が眼球を圧迫し、視界が塗り潰されるように狭まる。足腰がふらつき、思わず雪面へと尻餅をついた。それが引き金となり、全てが一瞬、闇に侵される。


「……君」

 意識が揺り起こされるように、明確な形を持って覚醒した。
 遠い声。聞き覚えのある声。懐かしい声。木々の合間を縫って、どこかから、微かな呼び声が聞こえたような気がする。
 祐一は辺りを見渡す。白銀に彩られた世界を探しても、声の主の姿は無い。

「ゆぅ……君」

 間違いない。此れ程はっきりと聴こえるのだ、幻聴ではない。
 祐一は即座に立ち上がり、音源を必死に掴もうとする。月宮あゆ。その名が胸を満たしている。七年前に別れた少女。数々の思い出を共に創り、共に歩んだ事は今でも忘れ難い。待ち焦がれた再開。言葉を交じわせ、空白の時間を語り合いたかった。

「ゆぅ……ち……君」

 更に近い。もう幾分の距離も無いだろう。
 祐一は歓喜に胸を躍らせる。

「祐一君」

 眼前に、あゆの顔が在った。

 天に向かって足を投げ出し、頭部を地面に向けている。
 大気の中に縫い付けられてしまったかのように、祐一の中であらゆる時間が停止する。
 月宮あゆは、空から降って来たのだ。
 祐一が声を上げる暇も、手を伸ばす時間も、驚愕を感じる余裕さえも与えない。
 刹那の時間が流れた後、彼等を縛っていた呪縛が、唐突に全てを突き破って開放された。

 ――ぐしゃっ。

「あ、ぁ……」

 雪面のキャンバスに描かれた、赤い、紅い、何条もの線。
 中央部にはぶち撒けられた血痕が、血溜まりとなって、その範囲を肥大化させる。

「うあ、ぁあ、ぁああああああああああああああああああああ!」

 絶望を愉しむかのように、風が吹き荒れ、木々が枝を左右に揺らす。砕け散った頭部から吹き出した鮮血が、祐一の服を真っ赤に汚していた。数秒前まで声を発し、動き、思考を巡らせていた人間が、次の一瞬には命を持たない肉隗となっている。あまりにも脆く、儚い。
 あゆの傍に駆け寄って、その身体を抱きしめる。脳髄がどろりと零れ落ちるが、既にそれは祐一にとって些末な事だった。垂直に地面へと叩きつけられたせいもあってか、頭部以外の損傷は少ない。だらりと垂れ下がり、あらぬ方向へと捻じ曲がった四肢。しかし、いずれも、生命の息吹を感じさせる事は無い。
 月宮あゆは、死んだ。
 そんな単純な事象さえ理解出来ない。生と死の境界線は曖昧で、人間は脆弱に過ぎる。

「あゆ……あゆ……返事してくれよ……」

 二度と還らない事を知りながら。
 引いていく体温があゆの死を象徴していて、残された希望は雪の奥底に埋もれていく。
 寒い。祐一はそう呟いた。
 身体の芯が凍てつくように蝕まれていて、凍り付いた心はぽっきりと折れてしまった。

 いつしか世界は吹雪に包まれていた。
 祐一はあゆの血を浴びながら、それでも彼女を離さなかった。細切れに薄らいで行く意識が、目覚めの時とは逆に知覚を奪っていく。
 最初に閉じたのは触覚だった。あゆを抱いている実感はあっても、そこに感触は存在しない。周りにある、あらゆる物――それと身体が同化しているような。自らが世界の一部として、この精神世界の中に浮かんでいる。吹雪が勢いを増すのと反比例して、その胸中は次第に穏やかになっていった。
 やがて聴覚が閉じ、嗅覚も失われる。残された思考を稼動させて、おぼろげに思う。これが最後なのだろう、と。この世界で幾度と無く殺された。それでも死ねなかった。だがしかし、次は無い、という確信にも似た考えが、祐一の中には在る。

 視覚が閉じる。
 色も光も無い、虚無と混沌だけが支配する世界が広がっている。
 平等に与えられる死を引き金に、誰もが還るべき場所。還らなければならない場所。
 

 思う。
 この世界を創ったのは、誰だったのだろう?
 
 思う。
 自分が殺した相手とは、誰だったのだろう?

 そして。
 全てが閉ざされた。


【7/雪溶けの街】

「こりゃ、ひでぇな……」

「あぁ、いくら何でもな。まだ、若いってのに……」

 年配の鑑識官の呟きに、同僚の青年が同調する。白手袋を嵌めたまま、床に投げ出された死体を丹念に観察していく。当初は荒縄を首に巻きつけた状態で発見された為、下ろすのは骨が折れた。

「死因は、典型的な、首吊りによる縊死だな。刺し傷、殴打痕等の外傷については、認知出来る範囲では見当たらない。もちろん、司法解剖しなければ最終的な決断は下せないが……まず間違いないだろうな」

「他殺の可能性は、無いと?」

「俺の経験から言えばな。それに動機も出ている。ただ、やっぱり引っかかるよな。何だって、仏さんはこんな……」

 そう言いながら、死体の顔を指差す。
 それは苦悶に歪んでいた。だらりと垂れ下がった舌。何か恐ろしい物でも見たように、眼球は剥き出しになっていた。

 青年は思わず身震いする。死を超えた恐怖など、存在するのだろうか。
 この死体は自分で首を吊る前に、何を見たというのだろうか。

「あの、一つ聞いていいですか?」

「何だ」

「その……自殺した動機っていうのは、何だったんですか?」

 本来ならば、これが自殺と断定されている以上、そんな事を聞き出す意味など無い。
 仮に他殺だとしても、鑑識官である自分には、捜査の権限など与えられてもいないのだが。

「あぁ。親しかった同級生が、何人も立て続けに亡くなったそうだ。中でも、幼馴染だった女の子は、母親の事故死を苦にしての自殺だ。それに最近、ずっと意識不明の状態だった少女が、息を引き取ったらしい。どうも幼い頃に、親しく遊んでいた子だと聞いている」

「可哀想に……。だとすると、この顔が意味するところは、強い絶望という事でしょうか」

 青年は沈痛な表情を浮かべると、改めて死体の顔をまじまじと見つめる。

「実は、意識不明だった少女――月宮あゆと言うらしいんだが、どうも一緒に遊んでいる時に木から落ちたらしいんだ。もし、助けられなかった事を後悔しているのだとしたら、並々ならない罪の意識があったのかも知れないな」

 年配の鑑識官は、そう言って、死体――"相沢祐一"を見やる。
 罪の意識ゆえに、精神世界を生み出し、自傷によって自らに裁きを下した彼を――。
 
 
「自分で自分を殺してしまうとは……本当に、皮肉な話だよ」
 
 

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