これは、もしかしたらあったかもしれない――
ある少女と少年の幸せのために、奔走する者たちの物語。
七年の恋叶えます
美坂栞は感動していた。
こんなことは、ドラマや少女漫画の中だけでしかないと思っていたからだ。
そう、ドラマと言えばついこのまえに最終回を迎えたあのドラマ。
幼なじみの男女が様々な困難を乗り越え、晴れて恋人同士になると言うものだ。
栞はそのドラマが大好きだった。
だってロマンチックではないか。
幼い頃からお互いを想い合っていて、長い時を経て無事結ばれるのだから。
栞は思った。
私もこんなロマンチックな恋がしてみたい、と。
だがその願いは果たされる可能性はなかった。
なぜなら、栞には幼なじみがいないのだから。
悲嘆に暮れた。
しょせん、そんなロマンチックな恋は作り話の中でしか有り得ないのか。
そう思っていた。
だが、そうではなかった。
栞の仲の良い友達、栞と同じ学校の高校二年生、月宮あゆ。
あゆは、栞の一つ年上の同級生だが、栞と気が合い、親友とも呼べる間柄である。
関係ないが、ともに似て、精神年齢が低いからという言葉は、ふたりの前ではタブーである。
ともかく、そのあゆには相沢祐一という幼なじみがいると言う話を聞いた。
どうして今までその話を聞かなかったかというと、どうやら祐一は、ついこのまえ転校してきたばかりらしい。
ともあれ、これはチャンスである。
幼なじみの、ロマンチックなる恋を実現させるための。
自分ではなく、友達のではあるが、贅沢は言っていられない。
一度は諦めかけた夢が実現するのかもしれないのだから――
「あゆさん、率直に訊きます。祐一さんのことをどう想っていますか?」
昼休み。
あゆの席で、弁当を囲みながら栞はそう切り出した。
栞とあゆも、いつもは栞の姉、香里や香里の親友の名雪と北川、そして問題の転校生、祐一と他愛ない話でもしながら一緒に昼食を食べている
だが今日はなんやかんやと理由をつけて、あゆとの一対一の状況を作り出したのだ。
そう、全てはあゆから祐一への想いを訊き出すために。
「え……ええっ!?」
いきなり予想外のことを訊かれ、戸惑うあゆ。
その顔は、一瞬にして耳まで赤くなっていた。
そしてその反応は栞の予想通りであった。
栞の乙女のインスピレーションは、祐一とあゆが両思いである確率99%以上であると告げていた。
だがそれを100%にするためには、やはり本人から直接訊くしかないと判断し、今に至るわけである。
「ど、どうしていきなりそんなこと訊くの栞ちゃん?」
「それはもちろん、あゆさんを応援したいからに決まってます」
とびっきりの笑顔で明るく言い切る栞。
「だってあゆさんは親友じゃないですか」
そう、確かに夢の実現という目的もあるが、あゆにも幸せになってもらいたいという気持ちも、もちろんある。
「それに祐一さんとあゆさんは、幼なじみだそうじゃないですか。やっぱり気になります」
「う、うん……祐一君のこと好きだよ。ずっと前から」
おずおずと自らの想いを告げるあゆ。
「やっぱりそうなんですねっ」
あゆの想いを聞き、いよいよ盛り上がる栞。
「そうですっ、だったら祐一さんに告白しないんですか?」
「こ、ここここ、告白っ!?」
その単語にますます顔を赤くするあゆ。
もはや限界ぎりぎりといった感じである。
「そうです、祐一さんにあゆさんのその真摯な想いを告げて、恋人同士になっちゃいましょう!」
ガッ、と立ち上がり右手を握り締め、高らかに言う。
「う、うぐぅ、栞ちゃん声が大きいよ」
「ああ、ごめんなさいっ。つい、まだ見ぬ未来を思い描いてバーストしてしまいました」
素に戻るとかなり恥ずかしい。
栞はそっと座りなおした。
「どんな未来を想像したの……?」
「そ、それは秘密です。ともかく、祐一さんに告白しないんですか?」
「こ、ここここ、告白っ!?」
その単語にますます顔を赤くするあゆ。
「……二回目はやりませんよ」
「何の話?」
あゆがよく分からないといった感じで訊ねる。
「いえ、ともかくきっと祐一さんもあゆさんのことが好きだと思いますよ」
「そ、そうかな……?」
「はい、私の乙女のインスピレーションがそう告げています」
栞はキッパリと言い切る。
「でもボク自信ないよ……祐一君いじわるだけど、すごく優しいし、かっこいいし……それに比べてボクなんかすぐ転んじゃうし、ドジだし、それに――」
「そんなことないですよ。あゆさんと祐一さん、とてもお似合いだと思います」
栞はそう言い切った。
あゆは、普段は明るいのに、こと自分に関しては少し卑下する所があるのだ。
栞は、あゆのそんな所を良く知っていて、そしてもっと自分に自信を持って欲しいと思っていた。
だって――
「あゆさんは、自分が思っているよりずっと素敵な人です」
少なくても、栞は自信を持ってそう言い切れる。
「えっと……ありがとう、栞ちゃん」
「それに、あゆさんと祐一さん、ふたりでいるとき、とっても楽しそうです。相性バッチリです」
「え、え……?」
またまた顔を赤くするあゆ。
さっきから栞の言葉に照れっぱなしである。
「あゆさん、とっても可愛いですっ」
「う、うぐぅ……」
あゆには幸せになって欲しい、そう思った。
そして、栞は決心した。
ふたりの恋の成就のために、頑張ろうと。
栞の出来ることは、背中を押すことだけ。
最後はやはり、ふたり次第。
でも、出来るだけふたりのために頑張ろうと、栞は決めた。
まず、ふたりをよく知る人物の協力が必要だと考えた。
栞はあゆのことは良く知っているが、祐一のことに関しては、ある程度までしか知らないからだ。
祐一は、水瀬家に居候しているらしい。
栞の姉である香里の親友名雪が住む家であり、その母である秋子には栞も良くしてもらっている。
また水瀬家の養子、真琴とも栞は仲が良い。
彼女らの協力を仰ぐため、栞は最初に水瀬家を訪れることにした。
もちろん、祐一は北川と商店街に出かけ、しばらく帰ってこないであろう事は確認済みだった。
「よく来てくれたわね、栞ちゃん」
秋子はそう言って、リビングに案内してくれた。
いつ、どんな時に訪ねようが、秋子はとても嬉しそうに対応してくれる。
栞の知る限り、この人が笑顔を絶やしたところは見たこともない。
まるで、人の応対をすることがこの人の一番の趣味ではないかとさえ、思えてくる。
「栞ちゃんのためにバニラアイスを作ってみたの。お口に合うと良いんだけど」
秋子は、優雅な動作で栞の前にバニラアイスを置いてくれた。
見ただけでとても美味しそうなアイスクリームだ。
「ありがとうございます。頂きます」
食べてみると、やはりとても美味しかった。
そこらのアイスクリームのお店とは比べ物にならない程に。
「とても美味しいです」
「そう、良かった。お代わりもたくさんありますからね」
秋子はとても料理が上手なのだ。
まさに完璧な人である。
栞は、こうなりたいと目標にする人の第二位に秋子を据えていた。
ちなみに一位は姉である。
香里は二学期の期末テストもやっぱりトップだった。
対して栞はというと、中の中、上から数えても、下から数えても同じという、ど真ん中の順位だった。
ある意味、なかなか貴重である。
秋子も、あゆや真琴によく勉強を教えている。
そのお陰か、あゆと真琴ともにかなり成績は良い方だ。
いつか自分もふたりのようになれるだろうか。
そのためには頑張らないと、そう思った。
とりあえず――。
「栞ちゃん、ここで砂糖を加えてね」
「はいっ」
秋子にバニラアイスの作り方を教えてもらっていた。
秋子の様に料理上手になりたい、そう思い、最初に自分の好きなバニラアイスの作り方を教えてもらいたいと願い出て、秋子さんはこころよく引き受けてくれた。
さすが秋子さん、教え方も上手だ。
でもなにか忘れてるような……?
「わわっ、最初の目的を忘れてましたーっ!」
水瀬家に来た理由を思い出し、大声を上げる栞。
「あらあら、どうしたの、栞ちゃん?」
「はい、実は――」
アイス作りを仕方なく中断し、再びリビングに戻る。
その時、学校から帰ってきた真琴も交え、事情を話す栞。
「なるほど、栞ちゃんの気持ちは良く分かりました……」
秋子が瞳を軽く閉じて、話の内容をゆっくりとかみ締めるように言う。
「それは楽しそうですね」
そして笑顔になる。
彼女の瞳は輝いて見えた。
「やっぱりそうですよねっ」
やはり嬉しそうに同意する栞。
「でも残念です……明日から数日間仕事が忙しくなりそうなの」
申し訳なさそうに断る秋子さん。
「そうですか……」
秋子に無理に頼むのは忍びない。
そう思って、引き下がることにする。
「ごめんなさいね」
「いえ、こちらこそ無理言ってごめんなさいです」
もうひとりの水瀬家の住人に頼んでみる。
「真琴さん、協力してくれませんか?」
「やだ」
一秒で却下された。
「どうしてですか?」
「だって、めんどくさそうなんだもん」
酷いが、単純明快な理由だった。
「そこをなんとか、あゆさんと祐一さんのためですっ」
「あゆお姉ちゃんの為ならともかく、なんで祐一のために頑張らなくちゃいけないのよ?」
なかなか、かたくなな態度である。
このままでは真琴の協力を得られそうにない。
だが、栞ひとりではやはり心許ない。
だからこそ、水瀬家に来たのだから。
仕方なく、栞は懐柔策に出ることにした。
「協力してくれたら、肉まん三個」
ぴくっ!
真琴の体が一瞬反応する。
「……ま、真琴は物でつられるほど安い女じゃないわよ」
強がっているが、明らかに無理してるのを栞は見逃さなかった。
「じゃあ五個でどうです?」
ぴくっぴくっ!
やや間を置いた後。
「……八個よ」
「分かりました」
商談成立。
「でも、そうですね、あゆちゃんと祐一さんが……」
今までふたりの様子を笑顔で見ていた秋子が、ふとつぶやいた。
「もうふたりともそんな歳になったんですね」
感慨深げに言葉を紡ぐ。
きっと秋子は、ふたりの小さい頃を思い描いているのだろう。
「七年前、出会った頃から凄く仲良かったですものね。ふたりともとても良い子でしたし」
「そういえば秋子さんが私たちくらいのときって、どんな感じだったんですか?」
思い出話を始めた秋子に、ふと気になった栞が訊ねる。
「あっ、真琴も聞きたい〜っ!」
真琴も、興味津々といった感じで訊いて来る。
「ふふっ、こんなおばさんの話なんて、ちっとも面白くないと思いますよ?」
そんなふたりに、やや恥ずかしそうに答える秋子。
「そんなことないですっ」
「お母さんとても若いし、それに絶対面白いーっ」
栞と真琴が、はやし立てる。
「あらあら……それじゃ期待に添えるかどうかは分からないけど、お話しましょうか」
「やったーっ!」
「そうね、まずなにから話しましょうか……。あれはわたしが高校に入学したとき――」
ゆっくりと自らの思い出を語る秋子。
その話は、三時間後、部活動を終えた名雪が帰ってくるまで止まることはなかった。
そして次の日曜日。
天気は雲ひとつない、とは言わないまでも、見事な青空。
普段はずっと寒いこの街も、今日は陽射しが暖かく感じられた。
「祐一さん、あゆさんっ、お待たせしました」
先に待っていたふたりの元に駆け寄る栞。
「よっ、栞。まだ時間前なんだからそんなに急ぐ必要ないんだぞ」
「いえっ、私がおふたりをお誘いしたのに、一番遅くに来てしまって申し訳ないです」
ペコッと頭を下げる。
「ううん、ボクも祐一君も今来たところだから、大丈夫だよっ」
「そうそう、それに今回は栞がスポンサーだしな」
うんうんと祐一がもっともらしくうなずく。
「そう言ってもらえると助かります」
「でも本当に俺が混じってよかったのか?」
「全然平気です。私がもらった映画のチケットは三枚ありますし、それに祐一さんなら私もあゆさんも大歓迎です」
「そ、そっか。ありがとな」
少し照れくさそうにする祐一。
ちゃ〜ちゃらら〜ちゃららら〜。
突然、軽快な音楽が流れ出す。
「あっ、すいません。私の携帯です」
ポケットから携帯電話を取り出し、電話を取る。
「はい、栞です。お母さん、どうしたの? えっ、お姉ちゃんが!? それで!? はい分かりました! すぐに戻りますっ!」
そう言うと、電話を切る。
「すいませんっ、お姉ちゃんがアイスの食べすぎで倒れたので家に戻ります!」
慌てた様子で言い放つ。
「……は?」
祐一とあゆは栞の言葉に唖然とする。
「ですから、お姉ちゃんがアイスの食べすぎで倒れたんです!」
「はあ……というかアイスの食べすぎで倒れるのか?」
よく分からないといった感じで祐一が訊ねる。
「というわけで、映画にはおふたりで行ってくれませんか? チケットは渡しておきますので」
「栞ちゃん、ボクも一緒に行こうか?」
あゆが栞に申し出る。
「いえ、大丈夫です。幸い症状は軽く、二、三日安静にしていればいいみたいですから」
「でも、香里が心配だし……」
「平気です。お姉ちゃんが自分のことでおふたりの時間を潰したと知ったら、きっと気にしてしまうと思いますから」
ついて来ようとするふたりに、栞は心配ない旨を伝える。
「ごめんなさいです。それじゃ、おふたりともこのことは気にせず楽しんでくださいっ」
「あ、おいっ栞!?」
一方的に言って走り去ってしまう。
取り残されるふたり。
「……うぐぅ。香里さん大丈夫かな?」
「と言うか色々とおかしいだろ。香里がアイスの食いすぎとか、栞の様子とか。大体アイスの食いすぎで何か症状が起こることがあるのかっ?」
「最近いろんな病気が出てきてるし、食の安全とか騒がれてるし……もしかしたらあるのかもよ。ボク達も気をつけないとね」
「あるかっ!」
「……うぐぅ」
もっともらしく言うあゆに突っ込む祐一。
「まあともかく……せっかくだから映画見るか」
「うん、そうしようよ」
「あゆ。おまえどんな映画か栞から話聞いてるか?」
栞からほとんど何も聞いてない祐一があゆに訊ねる。
「ううん、ボクも知らないよ」
「まっ、行けば分かるか」
「うんっ、早く行こうよ祐一君っ。ボク見るの映画久しぶりだから楽しみなんだっ」
祐一の手をとり、小走りになるあゆ。
「おいっ、そんな急いでも時間にならないと映画は始まらないぞ」
「どんな映画なのかな? 祐一君、楽しみだよねっ」
「ふう、危ないところでした。なかなかふたりとも勘がいいです。もう少しで嘘がばれてしまうところでした」
栞がほっと胸をなで下ろす。
「というか、栞の嘘が下手すぎなのよぅ!」
真琴がもっともな意見を言う。
「そうでしょうか? 何はともあれ、真琴さんナイスタイミングでの電話でした」
「まっ、真琴にかかればあんなの朝飯前よっ」
得意げに言う真琴。
「さて、作戦通りおふたりで映画に行くシチュエーションを作りましたね」
「で、どうするのよ?」
「なに言ってるんですか真琴さん? 男女ふたりで見る映画と言えばラブロマンスかホラーと相場は決まっているんですよ!?」
「……なんで?」
「なっ、分からないんですか!? 残念です、この原理を理解してもらえないなんて……」
「いや、さっぱり分かんないんだけど?」
「真琴さんもですか……お姉ちゃんも理解してくれませんでした。どうしてみなさん映画をふたりでみるシュチュエーションのロマンチックさを理解してくれないんでしょうか?」
「それが分かるのは栞ぐらいだけだよぉ……」
栞の考えにあきれる真琴。
まあいつもの事なのでたいして気にしないことにする。
「今回の作戦を考え出し、お姉ちゃんに相談したところ、いくつかのアドバイスを貰いました。ロマンを理解してくれないのは残念ですが、さすがはお姉ちゃんといったところです」
楽しそうにポケットからなにやらメモらしき紙を取り出す栞。
「香里さん実は意外と暇なの……?」
「先ほどの考えを伝えたところ、ラブロマンスの場合の場合、祐一さんが途中で寝てしまう確率87%との計算をはじき出しました」
「その数値、いったいどこから導き出したのよ?」
「お姉ちゃん頭良いですから。で、ホラーの場合、あゆさんが終始思いっきり怖がり、ロマンもなにもあったものじゃないとの考えらしいです」
「香里さん意外と毒舌……」
真琴が持つ香里のイメージが、少しゆがめられた様な気がする。
「そこで、お姉ちゃんが今上映されてる全映画を吟味した結果、ふたりにもっとも適した映画は――これですっ!」
栞が真琴の顔に映画のチラシを突きつける。
「……マジ?」
真琴の目が点になった。
『今までにない新感覚アニメーション! 大食い格闘アクション! いよいよ登場!』
思いっきりうさんくさい宣伝文が、でかでかと載っていた。
「あう〜、大食いで格闘?」
「ば、馬鹿なっ! 俺がこんな小娘に敗れるわけがないっ!」
見るからに屈強な大男が叫び、地に崩れ落ちる。
今まで彼は無敗だった。
負けというものを経験したことがなかったのだ。
初めての屈辱。
しかも、それを味わらせられたのはまだ高校生の、とても大食いが得意そうには見えない少女だった。
彼女の目の前のテーブルには、カレーの空き皿が二十枚積み重なっていた。
それに対し、彼の目の前のテーブルには、十五枚。
差は明らかだった。
「ごちそうさま。腹八分目ってところかな?」
彼女は余裕の表情でそう告げる。
「何故だっ!? 俺は最強なはずだ! 今まで幾多の強敵を打ち破ってきた! それが何故こんな少女に!?」
彼は目の前の現実を信じることができずに、ただ叫ぶ。
「君の敗因はただひとつ――」
彼女が、男にゆっくりと言い始める。
「いかに、速く、多く食べるかにこだわりすぎたことだよ。そして食べることの大切さ、その楽しみを見失ってしまった。……やっぱり食事は楽しくしないとね」
彼女はにっこりと笑った。
「そうか……俺はもっとも大切なものを見失っていた。最初はおいしいものをただいっぱい食べれていれば、それだけで満足だったのにな」
男は顔を伏せる。
そんな彼に、少女はゆっくりと手を差し伸べる。
「でも、ナイスファイトだったよ。大丈夫。君ならきっとやり直せるから」
「まだやり直せると……? まだ間に合うと、そう言うのか?」
「食べることは、一生続くことだよ。 だから、大丈夫だよ」
「ふっ、負けたよ。胃袋のでかさでも、そして心でも」
男は、彼女の手をしっかりと握った。
「ぐすっ、感動です……」
栞がスクリーンを見ながら、涙をハンカチで拭く。
「どこが? いろいろと矛盾がありまくりだと思うんだけど」
対照的に、真琴はお菓子を食べながら冷静に言う。
祐一とあゆの様子を見るために、栞と真琴は同じチケットを購入し、映画館に入っていた。
栞はふたりに見つからないよう、変装していた。
マスクとサングラスというベタベタでとても怪しい格好である。
まず映画館に普通に入れたことが奇跡かもしれない。
「そんなことはないですっ。真琴さんはおかしいですっ」
「分かったから、あまり大声出すんじゃないわよぉ。映画館の中なんだから」
「あ、ごめんなさい……でも絶対あゆさんと祐一さんも感動してるはずですっ」
「絶対してないと思うわよ……」
そう言いながら、ふたりの様子を覗いてみる。
「うぐぅ、すごくいいお話だよ……」
「くうぅ、かっこいいぜっ」
感動していた。
「なんであの話で感動できるのよぉ!? それともなに、真琴がおかしいわけっ!?」
「真琴さん、周りの人の迷惑ですっ!」
「いい映画だったね、祐一君っ」
「ああ、栞に今度お礼を言っておかないとな」
映画館から出る。
闇に慣れた目に、太陽の光がまぶしかった。
「昼飯には丁度いい時間だな。なんか食いに行くか」
「うんっ」
「何が食べたい? たい焼きはやめておけよ」
「うぐぅ、いくらボクだって、三食たい焼きを食べてるわけじゃないよっ」
「冗談だ、なにがいい?」
商店街のほうに歩きながら、祐一が訊ねる。
「ボク、ハンバーグがいいなっ」
元気にあゆが答える。
「ふっ、お子様だな、あゆは」
「そんなことないもんっ。ハンバーグは子供からお年寄りまで大人気だよっ」
「そんなもんか?」
あゆの言葉に祐一は軽く笑う。
「祐一君はどうするの?」
「そうだな……俺はオムライスだ」
「祐一君だって、ボクと同じようなもんだよ」
「なっ、おまえオムライスを馬鹿にするなよっ」
「うぐぅ、馬鹿になんかしてないよ」
「まあ、これも冗談だけどな。どっちもきっと幅広い年代に根強い人気だぞ」
「そうだよねっ」
ふたりは定番メニューの年代別人気について語りながら、洋食屋へと向かっていった。
「栞、次はどうするの?」
洋食屋から出てきたあゆと祐一を尾行しながら栞に訊ねる。
「よくぞ聞いてくださいました真琴さん。作戦にぬかりはありません」
「どーも信用出来ないわね……」
「そんなこと言う人嫌いですっ、しっかり聞いてください」
「分かったわよぅ、で、自信あるみたいじゃない」
言い合ってても話が進まないので、栞を立てる真琴。
「はい、次にふたりが向かう先はゲームセンターです。お姉ちゃんの読み通りですね」
「で、どんな作戦を立ててあるの?」
「はい、強力な助っ人を呼んであります。どうぞ」
栞の言葉と共に、ふたりの少女が狭い路地から現れる。
ゆっくりとした足取りで、栞たちの前まで歩いてくる。
「……私の力が必要なの?」
ふたりの少女の中、黒い髪のおとなしそうな少女が口を開く。
「はい、おふたりの力が必要なのです。偉大なる目的を達成するために……」
「でも、わたしでふたりの役に立てるでしょうか?」
もうひとりの、上品な雰囲気をまとった、人柄の良さそうな少女が言う。
「はい、むしろおふたりでなければ出来ないことです……頼めるでしょうか?」
「栞の頼み、そして祐一とあゆのため……やれるだけのことはやる」
「分かりました、わたし達にお任せください」
「……なにこの雰囲気は?」
「いえ、なんとなくかっこいいかと」
栞がさも当たり前かのように言う。
「あう〜ただの変な人だよぉ……」
思いっきり周りから注目されていた。
「あ、あははーっ……場所を変えましょう」
「さてと、あゆ、何をやりたい? いつもの様にもぐらたたきでもやるか?」
「うん、今日こそリベンジだよっ。……だけどとりあえず祐一君がやるのを見てるよ」
「それでいいのか?」
「人がやるのを見てるのも意外と楽しいんだよっ」
明るくそう言ってくる。
「そっか……じゃまずなにを――」
「祐一君っ!」
その時、いきなり背後から声をかけられた。
「だれだっ?」
さっそうと現れるふたりの少女。
周りの人たちがその姿を見てざわざわと騒ぎ始める。
ふたりが歩く前から、人がどき、道が作られる。
その中を悠然と歩く姿は、正に威風堂々。
そして、祐一の前で止まり――
「格闘クイーンの佐祐理!」
「クレーン荒らしの舞……」
そしてポーズを決める。
周りから歓声が上がる。
「……なにやってんの、舞、佐祐理さん?」
呆気にとられた祐一が、ようやくそれだけ口にする。
となりであゆも、ポカンと口を開けていた。
(佐祐理、やっぱりこれ恥ずかしい……)
舞が小声で佐祐理に言う。
(あははーっ、わたしも恥ずかしいけど、他ならぬ祐一君とあゆちゃんのために我慢だよ、舞っ)
(でもこれポーズとか、やる意味あるの?)
(よく分からないけど、栞ちゃんがやるように言ったからきっと意味があるんだよ)
(……ただ単にやらせたかっただけだと思う)
「佐祐理さん、今日は俺がお相手願います!」
「いえ、私を先に!」
周りの人が口々に対戦の希望を出す。
「そうですね、今日のわたしのお相手は、祐一君っ、あなたですっ!」
「えっ、俺?」
いきなり指名され、困惑する祐一。
「はいっ、お願いします」
「おい、クイーンに指名されるなんて光栄なことだぞっ」
見知らぬ男に肩を叩かれる。
「はあ……」
とりあえず祐一は曖昧にうなずくことしか出来なかった。
「栞、これはいったいどうゆうことよ?」
さっぱり意味が分からない真琴が、栞に訊ねる。
「実は佐祐理さんは格闘ゲーム、舞さんはクレーンゲームがものすごくうまいことで、一部では有名なんですよ」
「そうなんだ……」
初めて知った真琴は驚く。
あの様子だと、どうやら祐一とあゆも知らなかったのだろう。
「で、いったいこれでどうしたいの?」
「佐祐理さんの格闘の腕前は先ほども言いましたがかなりのもので、クイーンと呼ばれるほどです。その佐祐理さんと祐一さんがいい勝負をしたらどうなるでしょう?」
「どうなるの?」
「こうなります」
「くっ、あともう少しのところだったのに。驚いたよ、佐祐理さん強いんだなあ」
「あははーっ、祐一君も強かったですよ」
「やるじゃねえか、ここまでクイーンと互角に戦ったのは兄ちゃんが始めてだぜ」
ギャラリーのひとりが祐一に話しかけてくる。
「え、そうなのか?」
「そうですね、祐一君が良かったら、また対戦しましょう?」
「ええ、俺はもちろんオッケーですよ。今度までに腕を上げておきますね」
「はいっ、あゆちゃんにも良い所を見せたいですもんねっ」
「えっ、いや別にそういうわけじゃ」
顔を赤くして否定する祐一。
「あははーっ、祐一君照れてる?」
そんな祐一に佐祐理は少し悪戯心を出して、からかう。
「佐祐理さんっ」
「ふえ、違うの? ふたりともとてもお似合いだよ?」
「う、うぐぅ……」
照れて、顔をうつむかせてしまうあゆ。
「照れてるあゆちゃんもかわいいよね、祐一君」
「ま、まあ……って、佐祐理さん、からかわないでくださいよ」
「あははーっ、ふたりの邪魔するといけないから、わたしたちは帰るね、行こう、舞」
「分かった……」
舞と佐祐理がゲームセンターから出て行く。
「あはは……あゆ、俺たちも行くか」
立ち上がって、歩き出そうとする祐一。
しかし、祐一の服のすそをあゆがぎゅっとつかむ。
その手は少し震えていた。
「どうしたんだ、あゆ?」
ゆっくりと顔を上げるあゆ。
少し息を吸い込んで、たどたどしく言い始める。
「祐一君……ボクたちって、周りの人からみて、恋人同士に見えるのかな?」
「えっ、あ、あゆっ?」
「祐一君は、どう思う? やっぱり見えないかな? ボク、子供っぽいから……」
そう言って、また顔をうつむかせてしまう。
「……見えるんじゃないかな」
小声で言った祐一の言葉にあゆが驚く。
「俺たち、恋人同士に見えるよ、きっと」
「祐一君……?」
「でも、見えるだけじゃ、俺は嫌だ……」
「えっ……?」
ゆっくりとあゆの手を引っ張る。
自然と、あゆが祐一の胸の中に納まる格好になる。
「俺は、あゆと本当の恋人同士になりたい」
「うぐぅ……」
ぽろぽろと、あゆの目から涙が溢れ出す。
「あ、あゆっ? ごめん、いやだったか!?」
「違う、うれしいんだよ。祐一君がボクと同じ気持ちでいてくれたから」
「あゆ……」
「祐一君……」
見つめ合うふたり。
ゆっくりとその距離は縮まり――
「って、これ以上は恥ずかしくて私の口からは言えないですっ」
「絶対ありえないから」
妄想に舞い上がる栞を真琴は一言で切り捨てた。
「それじゃ、あのゲームで勝負しよう、祐一君」
佐祐理が、今一番人気がある格闘ゲームを指差す。
「ええ、いいですよ」
「それじゃ、私は別のゲームをやってくるから……」
舞は、栞の作戦通りに一旦、祐一たちから離れるように言う。
……栞に渡された台本を見ながら。
「舞、何見てるんだ?」
案の定祐一が疑問を持つ。
「舞、台本っ」
「……しまった。でも佐祐理もそれ言ったら駄目」
「……あ。あははーっ、うっかりですっ」
「台本?」
「台本ってなに?」
祐一とあゆが舞に訊く。
「……逃げるっ」
脱兎のごとく早足で逃げ出す。
「あっ、舞っ!?」
「うぐぅ、どうしたの舞さん!?」
「祐一君ごめんねっ、わたし舞を追うからっ」
佐祐理も舞を追って、あっという間にいなくなってしまった。
「いったい何なんだ……」
「さあ……?」
ふたりとも、わけが分からないという顔になる。
周りのギャラリーも残念そうな顔をしていた。
今日は置いてきぼりにされることが多いなと、祐一は思った。
「おっ、相沢じゃないか?」
聞き覚えのある声に振り向く。
「よう北川。おまえもゲームやりに来たのか?」
「ゲーセンに来て他にやることないだろ?」
「おまえだったら、ゲーセンの新しい利用方法を編み出すかもしれない」
「あるわけないだろ。あったらオレが聞きたいぐらいだ」
いつものように冗談を交わす。
「なんだったら対戦しようぜって言いたいところだが……月宮とデート中だったか」
「うぐぅ!?」
「なっ、なにを言い出すんだいきなり!?」
北川の思ってもいない言葉に慌てるふたり。
「はっはっはっ、照れるな。じゃあお邪魔虫は、馬に蹴られない内に退散することにするわ」
意地の悪い笑みを浮かべながら軽く言う。
「おい、北川っ!」
「ははっ、じゃあまた明日学校でなっ」
手を振りながら走って去って行ってしまう。
「くそっ、北川め。明日学校で会ったら覚えてろよ……」
「北川さんナイスです……今年の最優秀助演賞は、北川さんのものです」
栞が軽くガッツポーズを決める。
「最優秀『助演』ってなによ?」
恐らくその場の雰囲気で言ってるのだろう、真琴にはさっぱり意味が分からない。
「少々狂いましたがこれであとは計画通りに……」
「祐一君、ボクこのゲームやってみたいっ」
「おっ、いいぞ。あゆの不器用さを、しかとこの目に焼き付けてやるからな」
「ゲームに、器用かどうかなんて関係ないよっ!」
「なってませんーっ! えう〜どうしてですかっ」
「栞の思考が飛びすぎなだけよっ」
「そんなこと言う人嫌いですっ」
「はあっ……もう良いわよっ」
あきれて、真琴がため息をつく。
「どうしたんですか?」
「こんな回りくどいことやらずに、あの馬鹿に直接文句言ってやるのよ」
「はい?」
栞が首をかしげる。
「栞、北川君を連れて来て」
「ふえ〜大失敗だったね、舞」
祐一たちがいなくなったの頃を見計らって、舞と佐祐理は再びゲームセンターにやって来た。
栞と真琴の姿を捜す。
「真琴ちゃんたちいませんね……」
「もう別の場所に行ったのかも。私があんな失敗しなければ……台詞が分からなかったから、つい台本見てしまった」
さっきからずっと舞は落ち込んでいた。
「舞のせいじゃないよ。急にあんな台詞覚えられないもんね」
なんとか舞を立ち直らせようと励ます佐祐理。
「でも佐祐理は覚えてた……」
「き、きっと舞も頑張ればすぐ覚えられるようになるよ」
「うん、頑張る。今日から暗記術を習得する」
「その意気だよっ、舞」
なにか違う意志を固める舞と、どこかずれた応援をする佐祐理。
「あれ……」
足を止め、ある一点に注目する舞。
「どうしたの、舞?」
舞の様子に気づいた佐祐理が舞の視線を追う。
ゲームセンターの中に置かれたクレーンゲーム。
中には、色とりどりの女の子向けの人形やぬいぐるみが置かれていた。
そこに、見知った人物がいた。
「ああっ、また駄目でした。結構難しいですね……」
「秋子さん、こんにちはです」
佐祐理が、クレーンゲームに熱中していた秋子に声をかける。
ビクッと秋子の体が震えた。
一瞬の後、慌てて振り返る。
「ささささ、佐祐理ちゃんっ?」
ひどく慌てている様子の秋子さん。
「……私もいる」
舞が少しすねたように、つぶやく。
「ま、舞さんまで。ど、どうしたんですかふたりとも?」
「いえ、少し人を捜しているんですが……秋子さんはどうしたんですか? 今日まで仕事が忙しいって真琴ちゃんから聞きましたけど」
「ええ、予定より仕事が順調に行ったから、今日は早く帰れるようになったのよ」
「そうなんですか。秋子さんもゲームセンターに来るんですね」
「ええ、でもゲームというよりは……」
そういって秋子はちらりと後ろのぬいぐるみを見る。
「カエルさん……」
カエルのぬいぐるみが、たくさんあった。
「はあ、そのカエルさんが欲しいんですね?」
「ええ……でもなかなか取れなくて」
秋子が困った様子で言う。
舞が静かに秋子の前に出る。
「川澄さん?」
「私に任せる……」
「川澄さん、上手なんですか?」
「舞は『クレーン荒らしの舞』の二つ名で、辺り一帯のゲームセンターで恐れられているんですよーっ」
佐祐理が舞を誇るように言った。
「お任せしてよろしいんですか?」
舞がこくん、とうなずく。
「ありがとうございます。ただ……」
秋子が恥ずかしそうに続きを言う。
「みんなには内緒にしてくださいね?」
佐祐理はその言葉に少しポカンとした後――
「もちろんですよっ」
笑顔でそう言った。
祐一とあゆはお馴染みの店、百貨屋に来ていた。
そしてもちろん、ふたりを尾行していた栞と真琴、そして真琴たちに連れてこられた北川も少し離れた席にいた。
「あっ、あゆさんが離れましたっ」
「今よ、北川君っ。あゆお姉ちゃんを足止めしてっ」
「えっ、足止めってどうすればいいんだっ?」
急に連れて来られ、事情がよく分かってない北川は困惑する。
「とにかく、何とか時間を稼いで欲しいの。祐一と話すことがあるから」
「でも別に今日無理にすることじゃないんだろ? いや、事情はよく知らないけど」
「北川さん……それがそういうわけじゃないんです」
「えっ?」
栞が北川に口を挟む。
「だって……善は急げって言うじゃないですかっ」
楽しそうに言う。
「栞……ただ楽しんでるだけでしょ」
真琴が冷静に突っ込む。
「そうとも言います」
「おいおい……」
北川がなにか言いたそうに、栞を見る。
「分かった? このままじゃ栞がなにやらかすか分からないわよ」
「じょ、冗談ですよっ」
「分かった、行って来る」
北川があゆの元へと走り出す。
「北川さん、ひどいですっ……」
栞が北川の後ろ姿をすねるように見る。
「ほらっ、真琴たちも行くわよっ」
栞を連れ、真琴が祐一の方へと歩いていく。
途中で、祐一と目が合う。
祐一が軽く手を上げた。
「こんにちはです、祐一さん」
「よう、栞に真琴。俺たちの後つけていろいろやってたのは、やっぱりおまえたちだったんだな」
そう言って祐一は軽く笑う。
「えっ、祐一さん気づいてたんですかっ?」
祐一の言葉に驚く栞。
「あんだけやって、気づかないと思ったのか?」
「あんだけやって、気づかれないと思ってたわけ?」
祐一と真琴ふたりに突っ込まれる。
「う〜そんな、さも意外そうに言わないで下さいっ」
「悪い、栞の天然は地だったか」
「そんなこと言う人、嫌いですっ」
「冗談だよ」
「冗談でもひどいですっ」
プイッ、と顔を背ける栞。
「こんなコントをやってる時間はないのよ。祐一、なんで栞がこんなことやってたか分かる?」
「俺に分かるわけないだろ。どうしてだ?」
即座にそう訊き返す。
「それはね、祐一がどうしようもなく根性なしだからよ」
いきなりな発言に祐一が少し怒った顔をする。
「なんだそりゃっ?」
「ま、真琴さんっ?」
「あゆお姉ちゃんの気持ち、分かってないとは言わせないわよ」
その一言で、空気が変わった。
祐一が沈黙する。
ややあって、祐一が口を開いた。
「……おまえには関係ないだろ」
低い声でそう言い放つ。
「関係あるわよ。あゆお姉ちゃんを悲しませたら、絶対許さないんだから。祐一って思ってること隠してるようで、ちゃんと顔に書いてあるのよ。あゆお姉ちゃんのこと好きなくせに」
バツの悪い顔をする祐一。
「まさか真琴にズバリそう言われるととはな……結構傷つくぞ」
「誰でも気づくわよ、祐一見てれば」
「そうですね」
「マジかよ……俺ってそんな分かりやすい人間か?」
祐一が真琴に訊ねる。
「分かりやすい上に、好きな子をいじめる典型的な小学生タイプねっ」
真琴が得意げに言い放つ。
「真琴だけには言われたくないぞっ、それに今それは関係ないだろっ」
「なによぅ、真琴は祐一と違って立派な大人なんだからっ」
「真琴さん、自分が思ってるより子供だと思いますよ」
栞が真琴に冗談めかして言った。
「あう〜、栞までそう言うのっ?」
「にしても、あゆのやつ遅いな?」
あゆがなかなか戻って来ないことを、疑問に思う祐一。
「あっ、北川さんと話してると思いますよ」
栞が祐一に説明する。
「なんでそんなこと分かる?」
「祐一と話すために、お願いして時間を稼いでもらってるのよ」
真琴が補足説明する。
「また手の込んだことを……」
「これも全部祐一のせいなんだから。あゆお姉ちゃんの気持ち分かるんだったら、ちゃんと祐一の気持ち伝えなさいよね」
「まあ、そうなんだけどな……」
言葉を濁す祐一。
「なによ、この期に及んで?」
真琴が祐一に詰め寄る。
「……はあ、分かった、白状するよ。どうせ言わなきゃずっと訊かれそうだからな」
「分かってるじゃない」
真琴がさも当たり前のように言う。
「怖いんだよ、今の関係が壊れるのがな」
「ん? どういうこと?」
「つまりだ、あゆとは七年前からずっとこんな関係を続けてきたんだ。ずっと仲のいい友達って感じのな。それに慣れすぎてしまったんだよ。そして、現にその関係が心地よく感じているのも事実なんだ……」
祐一がゆっくりと言葉を紡いでいく。
その言葉を真琴と栞は真剣な面持ちで聴いていた。
「確かにあゆのことは好きだ。恋愛感情としてのな。でも、怖いんだよ。この気持ちを告げることで、今までの関係が全て壊れてしまうんじゃないかって、そう思うと――」
「なに馬鹿なこと言ってるのよっ!」
祐一の言葉を割って、真琴が叫んだ!
「うわっ、急になんだよっ」
「あのねえ……いつまでも変わらないものなんて、ありはしないのよっ」
「えっ?」
祐一は、真琴の言ってることがいまいちよく分からずに、困惑する。
「例えば、祐一とあゆお姉ちゃんがこのままでいたとしたって、いつかは変わってしまうのよっ。十年経ち、二十年経っても、今のまま、変わらずなんて、あると思うのっ?」
「……!」
「まあ、まず間違いなく今より疎遠になってると思うわよ、真琴は」
「私もそう思います」
「祐一、あゆお姉ちゃんと一緒にいたいんでしょ?」
「ああ、ずっと一緒にいたい……」
祐一ははっきりと、そう口にする。
「だったら、しっかりそう言いなさいよっ、あゆお姉ちゃんをしっかり捕まえておきなさいよねっ!」
「……これは夢か、幻か? 真琴がすごくまともな事を」
真琴がゴン、とテーブルに頭をぶつける。
「必殺っ、怒りの真琴チョッープっ!」
するどい手刀が、祐一の後頭部に右斜め四十五度の角度で突き刺さる!
「ぬおおおおーっ!?」
祐一が頭を抱えてうずくまる。
「わっ、ずごく痛そうです」
「まったく、人が真面目な話をしてるって言うのに……!」
「いや、真琴が一瞬真琴じゃないような気がしてだな」
祐一は後頭部を押さえながらも、笑顔を作る。
「まだ言うのっ」
真琴が再び攻撃態勢に入る。
「祐一を倒すため、道場に通ったこの五年間の成果……今こそ見せてあげるんだからっ」
「無駄にすごい努力ですね」
「いや、それはもう嫌というほど味わったから別にいい」
祐一がブンブンと手を振る。
「だがおかげで目が覚めた。ありがとな、真琴」
「今お礼を言われたって全然うれしくないんだから」
「うっ、言うなおまえ……」
「祐一さん、ちょっといいですか?」
栞が会話に割り込む。
「なんだ?」
「祐一さん。七年前にあゆさんにあげた、プレゼントを覚えていますか?」
「プレゼント……」
祐一がさして深く思い出そうとするまでもなく、すぐに思い当たる。
「カチューシャ……」
「はい、そうです。あゆさん、今でもそれを毎日着けているんですよ」
「ああ、知ってる」
「とてもうれしそうにあゆさんが話してくれました」
それを話す栞自身も、とても楽しそうな笑顔だった。
「あゆさんの思い、受け止めてあげてくださいね」
「ああ、それと栞」
「なんですか?」
「あゆの友達でいてくれてありがとな。これからも仲良くしてやってくれるか?」
とても穏やかな様子で、祐一は言った。
「頼まれなくても、もちろんですよ」
満面の笑みだった。
「祐一君っ、遅れてごめんね。ちょっと北川君と偶然会ってそれで――」
「ああ、知ってる」
「知ってるって、どうして?」
当然の疑問を持つあゆ。
だが祐一はその疑問に答えず、言葉を続ける。
「あゆ、今から学校に行こう」
「えっ、学校?」
「ああ、俺たちの『学校』に」
冬の太陽は沈むのが早く、暖かい今日の日も例外ではない。
既に日は傾き、世界を茜色に染めていた。
赤く照らされた思い出の場所。
思い出の大樹。
子供の頃訪れた場所は、大概は大きくなってから訪れると、ちっぽけに感じてしまうけれど、この場所は例外だった。
成長した今でも、この木は大きな存在感をふたりに与えてくれる。
「変わらないな、この場所は」
「うん、そうだね……」
その姿は、子供の頃の好奇心を思い出させてくれる。
「なんだか、久しぶりにあの景色が見たくなったよ」
「登るのか?」
「良いかな……?」
「もちろんだ。俺は後ろ向いてるからな」
「うんっ」
振り返るこの時も。
「よっと……」
後ろから聞こえる少女の声も。
ただ待つこの間も、とても懐かしかった。
「まだかぁ、あゆ?」
向きはそのままに、上にいるあゆにも聞こえるように、大きな声を出す。
「もういいよーっ」
その声に祐一は振り返る。
「どうだーっ?」
「うん、すごくきれいだよーっ」
見える景色がどうか訊ね、返ってくる感嘆の声。
七年前とまったく同じ。
ただ違うのは、見上げた先に見える、成長した少女の姿。
そして、自分の思いへの自覚。
一歩、踏み出そう。
まずはそこから。
「よしっ、俺も登るぞっ」
「ええっ、大丈夫なのっ?」
あゆが心配そうな声をかける。
祐一は高所恐怖症なのだ。
「なめるなよっ。あゆあゆに出来て、俺に出来ないはずはないっ」
「わっ、その呼び方懐かしいねっ」
恐る恐る登り始める。
やはり怖い。
いきなりくじけそうな心を奮い立たせて、ひたすら登る。
上に見える少女を目指して。
「祐一君っ、頑張って!」
あゆを応援してくれてる。
だが、その距離は思った以上に遠い。
(なぜだっ、俺のほうがあゆより握力も体力もあるはずなのにっ)
手がどんどん痛くなってくる。
あゆって意外にすごいのかもしれないって、そう思った。
「ほらっ、あともう少しっ」
あゆが手を伸ばす。
「って、その手をつかんだら一緒に落ちるだろっ」
「あっ、そうだねっ」
結局手はつかまずに、自力であゆの隣に到着する。
「し、死ぬかと思った……」
「大げさだよっ、祐一君」
とりあえす息を整える。
「ご苦労様、祐一君」
「おう、まあこれぐらい、なんてこと、ないぞっ」
そう言いつつ、無意識に足が震える。
「やっぱり怖い?」
「そそ、そんな、こと、ないぞっ」
そう言いつつ、歯がうまく噛み合わず、少し言葉が出にくい。
「無理しなくてもいいよ……でも見てよ祐一君っ、ほんときれいだよ」
あゆが指差す方を見る。
――その瞬間、恐怖も震えも吹き飛んだ。
茜色の街は、本当に美しく見えた。
自分たちがあの街に住んでると思うと、なんだかむずかゆいような、うれしいような不思議な気分になる。
「なるほど……たしかにこれは写真なんかじゃなくて、直接見ないともったいないよな」
祐一の素直な感想が、自然と口をついて出た。
「そうだよね。祐一君とこの景色を見れて、とってもうれしいよっ」
祐一は、そう言ってよろこぶ夕焼けに染まった少女の横顔は、陳腐な言い方だけど、その景色よりもきれいだと思った。
「なあ、あゆ」
「うん、なに祐一君?」
「ずっと、十年先も、二十年先も、ずっとこうして、ここでこの景色を見てみたいと思うよ」
「そうだよね」
息を落ち着かせる。
次の言葉を言うのには、勇気が必要だった。
「あゆと一緒に」
「……えっ? 祐一……くん?」
あゆがいまいち言葉の意味が理解出来てないのか、祐一の顔を呆然と見つめる。
「はっきりと言う。あゆが好きだ。あゆと出会ったこの街で、あゆとずっと一緒にいたい。あゆとずっと笑っていたい。あゆと、この景色を見に来たい」
自分でも顔が熱くなってきてるのが分かる。
すごく恥ずかしいこと言ってる気がする。
なんとか自分にそんなことはないと言い聞かせながら、顔が赤いのを、夕焼けでごまかせないかと、なにか違うことを祐一は考えていた。
「これが俺の気持ちだ。次は、あゆの気持ちを聞かせて欲しい」
「……ボクは、ボクも祐一君とずっといたいよっ、祐一君と商店街をまわって、大好きなたい焼きを一緒に食べて、一緒にこの景色を見てから、それから――」
あゆが早口でまくし立てる。
「それから……うぐぅ」
自分でも、なにを言えば良いのか分からなくなってしまったのだろう、そのままうつむいてしまう。
そして、意を決したように、顔を上げる。
「ボクも、祐一君が好きだからっ!」
一生懸命に、それだけを告げる。
ポン、と祐一があゆの頭に手を置いた。
「ありがとな、あゆ。あゆの気持ち、うれしいほど十分に伝わった」
「うん……ボクっ、ずっと祐一君のこと好きだった。出会った頃から、七年前から……」
「ああ、七年も待たせて、ごめんな」
そっと、あゆを抱きしめる。
あゆの体温が伝わってくる。
それが、この瞬間が夢でないことを確信させてくれる。
「ううん、今ボクすごくうれしいから……」
ふたりの距離がゆっくりと近づき――
約束のくちづけを交わした。
日が沈み、もうすぐ完全に夜のやみに包まれる、そんな時間。
「はい、真琴さん。約束の肉まんです」
コンビニから出てきた栞が、紙袋を真琴に手渡す。
「わーい、肉まん、肉まんっ! ありがとね、栞っ」
妙な歌を口ずさみながら、さっそく一つ目にがぶりつく。
「いえ、真琴さんには感謝してますから」
「しかし、よく八個も肉まんあったな」
北川がごく普通の疑問を口に出した。
「運が良かったです」
栞がそう言ってほほえむ。
「あっ、でも、肉まんこんなに食べたら、お母さんのご飯食べれなくなっちゃう……」
「あっ、それもそうですね。分割払いにした方が良かったかもしれません。ごめんなさいです」
「肉まんもおいしいけど、お母さんのご飯の方がもっとおいしいもの。あう〜、どうしよう……」
肉まんの処遇をどうするかに悩む真琴。
「あははーっ、すごい量になっちゃったね、舞。一弥にもおすそ分けしようかな」
「つい取り過ぎた……」
カエルのぬいぐるみがたくさん詰め込まれた紙袋を持った、佐祐理と舞が前から歩いてくる。
「あっ、舞さんっ、佐祐理さんっ」
栞がふたりに声をかける。
「あっ、栞ちゃん、やっと会えたねっ」
「どうしたんですか、そのぬいぐるみの山?」
北川が紙袋を指して言う。
「……今日の戦利品」
それに舞が答える。
「さすが『クレーン荒らしの舞』の名は伊達じゃないですね」
栞が感嘆の声を上げる。
「そうだっ、はい肉まんおすそ分けっ」
真琴が肉まんをひとり一つずつ渡していく。
「ふぇー、いいの?」
「こんなに食べたら、夕ごはんが食べれなくなるもの。それにみんなで食べたほうがおいしいし」
「肉まん……」
舞が器用に紙袋を持ったまま、肉まんを口に運ぶ。
表情には出ないが、もくもくと食べるその姿を見ればおいしく食べていることは一目瞭然だ。
「ありがとな、沢渡」
「ありがとうございます、真琴さん」
「ありがとうございます、真琴ちゃん」
「……おいしかった」
みんながそれぞれお礼を言う。(ひとり例外がいるが)
「あとの三つは……お母さんと名雪お姉ちゃん、それと場合によっては、しかたないから祐一にあげるか」
「場合によったらって、どういうことですか?」
栞が真琴に質問する。
「あゆお姉ちゃんを、泣かせてなかったらってことよ」
「えーと、もしそうじゃなかったら?」
さらに今度は北川が質問する。
「その場合は、五、六発叩き込むわよ」
右拳を握り締めながら、笑顔で言う。
「……相沢死ぬぞ」
想像したのか、北川が青い顔をする。
「でも、それはまずありえませんよ」
栞がはっきりと言った。
それは、ここにいる全員の気持ちだろう。
「とりあえず、明日学校行ったら相沢のやつを冷やかしてやるか」
「あっ、それおもしろそーっ! 美汐も呼んでおこーっと」
北川の提案に真琴が乗り気になる。
そんな会話をしながら、それぞれの家路につく――。
後日談。
北川のもとに一つの小包が届けられた。
中身は一枚の賞状と、バニラのアイスクリーム。
どちらも、手作りである。
その賞状には、こう書かれていた。
『最優秀助演賞 北川潤殿』
「……最優秀『助演』ってなんだ?」
その答えは、栞しか知らない。
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