ある日、でんたるする日。



「──うぐっ!!」

「なんだあゆ。どうかしたか?」

 ご機嫌でたいやきを頬張っていたはずのあゆの顔が苦悶に満ちる。

「どうしたの、あゆちゃん」

 急須にお茶を淹れてきた秋子さんも心配そうだ。

「は…ははひはいほ〜」

 通訳 : 「は…歯が痛いよ〜」

「あらあら、虫歯かしら」

 心配そうにあゆの顔を覗きこむ秋子さん。

「歯医者に行った方がいいんじゃないか?」

「ヤダ」

 プイと横を向いてしまった。

「………は?」

「歯医者なんてヤダ。行きたくない」

「わがまま言うな! お前子供か!? ……子供か」

 その話題を語るとき、ため息は禁じえない。

「うぐぅ! 子供じゃないもん!」

「だったら…」

「お母さ〜ん」

「どうしたの、名雪?」

 情けない声と共に名雪がリビングに入ってきた。

「痛み止めない〜?」

「痛み止め? 頭でも痛むの?」

「ん〜ん。歯〜」

「お前もか…」

「うにゅ〜?」

 不思議そうな目をこちらに向けた。普段は眠気で半分閉じられたそれは、今は痛みからやや涙ぐんでいた。

「いや実はな、こいつも歯が痛いらしくてな」

「そうなんだ〜。お互い不幸な星の下に生まれたね〜」

「…大げさな。とにかく、明日2人で歯医者行ってこい」

「ヤダ」

 こいつもプイと横を向いてしまった。

「おい」

「歯医者なんてヤダ。行きたくない」

「お前もかい! いい大人がわがまま言うな!」

 泣くほど痛いなら素直に行けばいいものを…。

「うぐ〜。祐一くん、ボクの時とコメントが違うよ」

「うるさい、黙れ。いいか、2人とも。明日は歯医者に行くんだぞ」

「(うぐぅ〜)(うにゅ〜)」

 どうしても首を縦に振らない2人。間違いない。こいつらは絶対に行かないつもりだろう。まあ返事だけしておいて行かないような奴よりはいいと思うが(「呼んだ〜?」by真琴)。

「よし分かった。俺が一緒に行ってやる。いいな?」

「分かった…」

「分かったよ…」

 そこでふと浮かんだ疑問を口に出す。

「そういえば秋子さん。あゆの保険証ってあるんですか?」

 いろんな事が終わってみて、気がつけば一人になっていたあゆと真琴。結局水瀬家に引き取られる事が決まったのだが、その時に秋子さんはいろいろ行政上の手続きにも奔走していた。あまり多くを語らない人なのでよくは知らないが、実質的な身寄りのいないあゆと、身寄りどころか戸籍すらない真琴。決してラクではなかったはずだ。

「ええ。職員の方が知り合いで、いろいろとよくしてもらいましたから」

「へ〜、そうだったんですか」

 それなら安心だ。

「それがあの人ったらおかしいんですよ。あんなに美味しいジャムを、『もういらない、もういらない』なんて…。挙句の果てに同僚の女性の方に泣きついていまして…」

「…もう寝ます、俺」

「おかしいですよね。ふふふ…」

 ジャムの犠牲者、1名追加。レコード更新。





「さ、帰るぞ、名雪」

「う…うにゅ〜」

 で、翌日の放課後。見慣れたようで少し違う光景に、香里が口を挟んだ。

「あれ? いつもと逆なのね。今日は相沢君が誘うんだ」

「それがどうかしたか、香里」

「いえ。だっていつも部活のない日は名雪から誘ってたから」

「今日はな、こいつを歯医者に連れて行くんだ」

「歯医者…? ああ、なるほど」

 と、「納得」とでも言わんばかりに香里は頷く。

「だから今日は学食、Aランチじゃなかったのね」

「そうだったのか?」

 今日は佐祐理さん弁当だったので知らないのだ。

「そうだったのよ。名雪が『きつねうどん一つ』って言い放ったときの学食のあの水を打ったような静けさ。相沢君にも見せたかったわ〜。時が止まったかと思った」

「ああ…アムロ…刻が見える…」

 後ろから北川の寝言が聞こえてきた。

「ひどいよ、香里〜。わたしそんなにAランチばっかり食べてないよう」

「じゃあ今日の前にAランチ以外の注文をしたのはいつ?」

「……………………さあ」

「…帰るぞ、名雪」

「あ、待って、待って。じゃあね、香里」

「また明日。たっぷり削られてらっしゃい」

「う〜。う〜。う〜」





「「ただいま〜」」

「お帰りなさい」

「秋子さん。あゆ、います?」

「ええ。あゆちゃん。祐一さんが帰ってきましたよ〜!」

「う…ぐぅ〜」

 まるで売られていく子牛のように暗い顔をしたあゆが階段から下りてきた。

「どうした、あゆ?」

「おなか痛いんだよう」

「そうか…。じゃ、歯医者はまた今度にするか」

「ホントッ!?」

「うそ。行くぞ」

「うぐぅ〜!!」

 一瞬浮かべた満面の笑みは、さっきよりも数段暗い顔つきに変わった。

 ころころと忙しいやつだ。

「あ、祐一さん…」

「はい、なんですか、秋子さん」

「………いえ、なんでもないです」

 たっぷりと間を取ってからの「なんでもない」。これはなにかある。

「なんですか、秋子さん」

「いえ、ホントになんでもないんです。予約の時間もありますし、よろしくお願いします」

「…はぁ。まあ…。分かりました。行くぞ、あゆ、名雪」

 多少なりとも気にはなったが、予約の時間は午後5時。そろそろ出ないと間に合わない。

「「行ってきます〜(泣)」」

 2人の襟首を掴んで引きずるように歩き出す。背後からは「ドナドナ」の合唱が聞こえてきた。





「水瀬名雪さんと…月宮あゆさん…ですね。はい、ご予約いただいております」

「よろしくお願いします」

「では、保険証をお預かりしてもよろしいでしょうか」

「え〜と、はい、どうぞ」

 カバンの中から行きがけに渡された保険証を出した。透明なカバーに入っていたそれをそのまま看護婦さんに手渡すと、2〜3確認して書類に書き込み、またすぐに返してくれた。

「…はい、確かに。では、待合室でお待ち下さい。順番がきましたらお呼びいたします」

「――だってさ、よかったな、あゆ、名雪」

「う〜、ちっともよくないよ」

「祐一くんは卑怯だよ」

「はあ? なんで?」

「だって歯医者に来ておいて自分だけイタイ思いしないんだもん」

 恨みがましい視線をこちらに向けるあゆ。

「知るか」

 そう話している間に待合室についた。中は平日にもかかわらず結構混んでいる。その中でも3つ、出入り口の横の椅子を陣取り、みんなで腰を下ろした。

 隣からはひそひそと話し声が聞こえてくる。

「知ってる? 歯医者さんって、削るとき笑ってるんだよ」

「うぐぅ! 恐いぃ!」

「痛いっていっても止めてくれないんだよ!」

「うぐぅ〜!!」

 …どうして余計恐くなるような話をするんだろう…?

 そう思いながら暇を持て余して目の前のブックラックに手をやると、なぜか2人が揃って腰を上げた。

「…? どこ行く気だ?」

「うぐ〜。祐一くん、普通女の子にそれ訊く?」

 2秒考えて、納得。

「おぉ、悪い悪い。さっさとすませて帰ってこいよ。名前呼ばれるからな」

「祐一ぃ、そういうコメントもどうかと思うよ…」

 知るか。





 適当に取った雑誌のページを6〜7枚繰ったところだった。

「祐一さん」

 いつもの優しい声に応えて雑誌から目を上げると、秋子さんがこちらを覗きこんでいた。

「秋子さん。どうしたんですか?」

「ちょっと気になる事があって…。ところで…あの娘たちは?」

 キョロキョロと辺りを見渡しながら、秋子さんが訊いてきた。

「ああ。トイレですよ」

「…ちなみにそれはどれくらい前から?」

 という問いかけに待合室の時計を見る。

「そう…ですね。5分くらい前でしょうか。そういえば遅いな」

 そこで秋子さんは「ふぅ」と小さくため息を漏らした。

「…やっぱり遅かったんですね」

「…は?」

「逃げましたよ、あの娘たち」

「ははは…」

 驚きを通り越して笑いが出る。

「そんな訳ないじゃないですか。飛んでったとでも言うんですか?」

 状況を考えれば笑いが漏れるのも仕方がない。出入り口の前には自分がいたし、トイレの窓から出ようにも、この歯医者はビルの2階にある。どう考えても自分に気づかれずにここから逃げおせるはずがないのだ。

 しかし――。

「実は、名雪には前科があるんです」

「前科…?」

「小学校低学年くらいの時でしょうか…。お恥ずかしい話ですが…やられました」

「…マジですか?」

「ええ。まじです」

 この秋子さんから逃げおせた。…驚異的である。

 秋子さんはストンと横に座った。

「全く…。あの小さな体のどこにそんな行動力があったのやら」

 ちょっと想像してみた。

 ものすごいスピードで街中を疾走する影。ふと立ち止まって振り返り、2本のおさげをなびかせながら、目を怪しく光らせて「ニヤソ」とか嫌な笑みを漏らす幼い名雪。

 …見たくない。というより、秋子さんから逃亡を果たしたというのが本当に信じられない。

「結局夜になるまで帰ってきませんでした」

 ふ〜む。あの名雪がね〜。

「傭兵部隊まで使ったのに…(ぼそっ)」

 ははは…。傭兵…ね。秋子さんの事だ。それこそ合法違法問わず、いろんな事をしたんだろう。

「私、ちょっとお手洗い見てきますね」

「お願いします」





「はぁ…はぁ…はぁ…。ったく…どこ行ったんだ…」

 そして数分後、俺達は商店街を走っていた。

「多分商店街にいると思います。家に帰るわけにもいきませんし、あの娘たちが行きそうな家にはもう電話でお願いしましたから」

 さっきからずっと一緒にいたと思うんだが、いつの間にそんな事したんだろう…。

「ですから、捜索範囲はおのずと限られるわけです」

 どうでもいいけどこれだけ走ってどうして秋子さんの息は乱れないのだろう。うむ、やはり秋子さんへの疑問は尽きない。

「祐一さん、どうですか。何か心当たりがあります?」

 その問いに一生懸命頭を捻ってみるが…まさかあそこではあるまい。





「お待たせしました、ごゆっくりどうぞ」

「わぁ〜」

「おいしそうだね、名雪さん」

「いただきま〜す! あくっ…!」

 イチゴとたっぷりのクリームが乗ったスプーンは、名雪の口まで届く事はなかった。

 途中でそのスプーンを持った手首を俺が掴んだからだ。

 名雪の前歯が空しく空を噛む。

「う〜。痛い〜」

「な…ななな、名雪さん! 後ろっ!」

「………いいご身分じゃねえか、名雪」

 思いっきり底冷えのする声で呼びかけながら、名雪の腕を握り締めてやった。これまでの俺の体力的疲労を考えれば当然の罰だろう。

「ゆ…祐一…! お母さん…!!」

「名雪、あゆちゃん。ダメでしょ? 歯医者さんから逃げ出したりしちゃ」

 対照的に秋子さんの声はいつも通り。少しおとな気なかったかもしれない。そう思い直して手を放してやった。

「ほら、帰るぞ」

「でも祐一、私まだイチゴサンデー食べてないよ?」

「『食べてないよ?』じゃない! んなもん俺が食ってやる!」

 名雪のパフェグラスを強引に奪い、かき込むように喉に流し込む。

「あぁ!! 私のイチゴサンデー!!」

 ついでとばかりにあゆのも同じように乱暴にかき込んだ。

「ボクのまで!!」

「ぐ…!」

 冷たい物を急に流し込んだ為一瞬走った頭の痛みに顔をしかめ、側にあったお冷で今なお残る口内の甘味を押し流した。

「ふぅ…。これで満足か?」

「わ…わたしの…イ…イチ…」

「ボクの…」

 特に名雪のダメージは大きかったようだ。椅子から半分だけ立ち上がったような姿勢で、もはや空となったグラスに虚ろな視線を向けている。

「ダメだよ…。ダメなんだよ、祐一。私…もう笑えないよ…」

「いいからさっさと歯医者に戻れっ!」

「うぐぅ〜〜〜!!」

「うにゅぅ〜〜〜!!」





「…と、いうわけで、こいつらお願いします」

「は…はぁ…」

 文字通り首に縄付けて引っ張ってきた2人を前に出すと、受付の看護婦さんは明らかに不審な目で俺達を見比べる。

 これで後ろに秋子さんがいなかったら、通報されていたかもな。

「本当なら足枷の一つでも付けてやりたいくらいですが、あいにく持ち合わせがないので。看護婦さん……椅子に縛り付けてでも治療してやって下さい」

「分かりました。とりあえずお任せ下さい。……というか、是非。最近骨のある子供がいなくて、退屈してた所なんです」

 ふふふふふふ…。と、怪しげな笑みを漏らす看護婦に対し…あゆと名雪は…壁の隅でしゃがみ、頭を寄せ合って震えていた。

「じゃ、これ」

「はい、確かに」

 手に持っていた2本の縄を看護婦さんに渡す。言うまでもなくあゆと名雪の首輪だ。

「じゃあ2人とも、しっかりね」

「俺達は買い物に行ってくるからな」

「「はぁ〜い」」

 さっきの事もあり、いくらか殊勝な態度を見せるようになった2人を残し、秋子さんと共に商店街へと向かった。





「しかし…あいつら…大丈夫…ですか…ね」

「大丈夫ですよ。一度捕まえた事ですし、もう逃げようなんて考えないでしょう」

 夕暮れの商店街を秋子さんと2人。本当ならちょっとは胸躍るようなシチュエーションなのだが(「あら、ちょっとだけですか?」 by秋子)、背中に背負った米袋(計16キロ)が体だけでなく精神にまでも重くのしかかっていた。

「ホントなら…俺がついててやり…たかったんですけど」

「仕方がありません。お米屋さん、ものすごく安かったんですもの」

「はは…」

「…大丈夫ですか、祐一さん。すみません、調子に乗って買いすぎてしまいましたね」

「だい…じょうぶですよ、これくらい」

 もっとしっかりと返事したいのだが、勝手に声が震えてしまう。情けないとはいえ、これは仕方がない。

「本当にすみません。帰ったらすぐに夕飯…と言いたい所なんですが、今日はかなり遅くしたいんです。……いいですか?」

「それはいいですけど…。どうしてですか?」

「麻酔…効いていては、美味しい物も美味しくありませんから」

 なるほどね。つくづくよく気がつく人だなあ。

「それなら、あいつらの好きな物を作って下さい」

「はい、そのつもりです」

「そうですよね、あいつらだって…頑張って…るんですから、ご褒美用意してあげないと…ですね」

「はい…」

 そして、俺も頑張ろう、と、重荷を背負い直し、水瀬家に向かって一歩を力強く踏み出したところで。

「おじさん。タイヤキ4つ!」

 ズシャーーーッ!!

 と、秋子さんと2人、仲良く地面をすべる。

「あ…あいつら…!」

「また、逃げ出したみたいですね」

 そう言いながら少し赤くなった鼻頭をさする秋子さんはそれでも笑みをたたえていたが、どう見てもそれは苦笑いである。

 それでも視線の先でタイヤキを受け取ったあゆは、幸せそうに袋を開けた。

「どうしましょう…?」

 16キロにも及ぶ重荷のおかげで、俺の体力は限りなくゼロに近くなっている。

 もう今日は奴らの治療は諦めろという事なのか…。

 この世に正義はいないのか…!

 と、思考がややアブナい方向へ飛びかけた時、真横で靴音がした。

 白い人影が視線を過ぎる。

「………!?」

 それは、絶望の淵に現れた一筋の光。

 そう、その背中には確かに、光る双翼が見えた。

 夕日に映える…ナース服。…看護婦!?

 ── ヒュサッ! ──

「あっ…!」

 俺の前方10メートル。そこに名雪たちがいた。さらにその先5メートル。流水のようにゆっくりと宙を飛んだ人影は、そこにしゃがみこむように着地する。

 つまりその人物は、ゆうに15メートルを跳躍したわけだ。

「あれ…?」

「うぐ…?」

 すくっと立ち上がり、振り返った人影の右手には、荒縄が2本。

 その先には、あゆと名雪の胴を両腕ごとがっちりと捕らえていた。

「ふぅ…。久々に楽しめたわよ。お嬢さん方」

「「あぁ〜! あの時の看護婦さんっ!」」

「ふっふ。さ、病院へ戻りましょうか。あら、お母さんにお兄さん?」

 …それは俺達の事を指してるのだろうか?

「ご安心下さい。かならず治療してお返しいたしますわ」

「は…はぁ。よろしくお願いいたします」

 紅に染まる町並みの中で。

 ビルの合間を縫って差し込む夕日の中で。

 今、2人の少女が、喧騒の中に消えていった。

「うぐーーーーーーーーーーー!!」

「だおーーーーーーーーーーー!!」

 …意味不明の叫び声を残して。


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