私は走るのが好きです。大好きです。
準備運動をしているときのドキドキや、スタートラインに立つ直前のワクワク、試合開始の真っ白な時間。
それら全てが、走り出そうとする私の周りを取り巻く。
そういう時間は、普段の生活では決して味わうことの出来ない感覚を与えてくれる。
真っ白な鼓動と真っ白な思考、そして真っ新な幸福。
全て私にとって大切で、大好きな、かけがえのない時間だった。
そこには試合だ、ていう気概はなくて、私は自分が陸上部の部長さんだということも忘れる。
私は勝負なんて全然気にせず、空中に流れる風のように走る。
よくみんなに「もっと真剣に走ったら?」と聞かれるけれど、私はそれに「努力はするよ」と返すしか出来ない。
勝ちとか負けとかではなく、私はただ私だけのために、ゴールに向かって走りたかった。
でも。
最近は何だか違っている。
以前は何にも考えず走り出していたのに、今は全然違ってしまっていた。
ある一つのことを考えてしまうと、それまでの走るという思いが突風に吹かれた木の葉みたいに飛んでいく。
胸の奥のドキドキやワクワクが、スタートラインに並ぶ瞬間には全く感じられなくなっている。
あるのはただの緊張感。
身体が振るえ、筋肉が硬く動かなくなる焦燥感。
鼓動は早く胸を打って、呼吸も少しばかり荒くなる。
どんどんと身体の奥が熱くなり、とてもじゃないけど静止し落ち着いてなんていられない。
私はどうしようもなく逃げ出したい気持ちに駆られた。
そわそわと落ち着かない視線を、ラインのすぐ横に立つ、よく見知った女の子の顔へ向ける。
彼女もまた、目線をこっちやあっちにさ迷わせて、せわしなく脚を震わせていた。
周りにいる選手は、みんなそういう様子だった。
誰一人として余裕の顔を見せていない。
私は、みんなの顔を見回して思った。
普段なら絶対に思わないようなことを決意した。
『勝ちたい』
いつもの大会なら、自分の全力を出すことができたら、それで全く悔いは残らない。
全身で風を切って、頬で風を感じて、周りの全部と一緒にゴールまでの道のりを走りきるだけで、もう何の後悔だって残らなかった。
だけど、今日今のときだけは違っている。
私は、きっと生まれて始めて一等賞になりたいと思っていた。
一番初めに先頭へ踊り出て、一番速く道のりを走り抜けて、誰よりも早くゴールラインを駆け抜けたいと思っていた。
刻一刻とスタートの時間が近付いてくる。
季節は夏に差し掛かろうとしているのに、身体の芯から発せられている寒気で、全然温かくならない。
筋肉が冷え切っちゃって、どうにも脚が自由にできない。
きっと生まれて始めての緊張と、生まれて始めての気持ち、想い。
誰よりも早く、速く、一直線に駆け抜けたいという心。
号令が掛かり、選手の女の子たちはみんなスタートラインの上に集められる。
すると、何とも言えない緊張感がその場の全員を包み込んでいく。
私は思わず息を飲んだ。
自分がこの試合で一番になるには、みんなより速くゴールへ走り込まなければいけない。
今の私には、その力があるだろうか。
周りの人たちを追い越していく強い気持ちがあるだろうか。
そう考えてしまうとすごく不安になる。
これまでの試合とは全然違う、不思議な感じ。
試合への期待や楽しみとは正反対の、とてつもない不安や焦り。
それらは徐々に身体を縛り付けていって、私を動けなくさせようとしていた。
やがて訪れるスタートの瞬間。
緊張は頂点に達する。
あともう数秒後、空砲と同時に勝負は始まってしまう。
そこでふと、私は真っ白になりかけている頭を回転させて考えた。
『何故、こんなにも勝ちたいのだろう』
これが大事な試合だから?
うん。それはきっと間違いない。
今までの練習の成果を確かめたいから?
うん。それもきっと正しいだろう。
じゃあ、一等賞を獲得したっていう栄誉が欲しいから?
……それだけは絶対に違っている。
私は、ただ私だけのためにゴールへの道を走りたいのだ。
陸上部の部長さんがそういうことを言うのは間違っているかもしれない。
でも、私は他の誰かのためではなく、水瀬名雪一人のために走りたかったのだ。
スターターさんの腕が上がっていく。
もうまもなく一大レースが始まる。
私はさっきまでキョロキョロと見回していた視線を、地平線のように平らなあちらへと向けた。
そこは本当に、綺麗な景色だった。
息を飲むことも忘れたそのとき、ついに火ぶたは切って落とされる。
みんな一斉に走り出す。
わき目も振らず、一点だけを見つめ、夢中になって……。
頬に感じる風は温かかった。
「名雪」
…………。
「おーい!」
………………。
「こーら、いい加減起きろよ名雪!」
……名前を呼ぶ声に、私はうっすらと暗い視界を、明るく広げていく。
温かい空気と暖かい日差しが、今まで狭くしぼんでいた瞳の中に入ってくる。
とてもまぶしい。
そのまぶしさに、開き始めた目ぶたをもう一度閉じる。
すると部屋中のあたたかさが相まって、空気の中に溶けていきそうなほど、心地良い感覚が身体を包む。
「一度起きたのに寝るな!」
ぽかり、という撫でるくらいの衝撃が頭に走る。
それは気持ち良い睡眠への欲求を妨げた。
周囲がまだ薄暗いまま、ぼやけたまま、私は上体だけを起こす。
そして、たぶん、少しだけ怒り顔をした彼に、先程の不思議な夢の話をする。
内容はほとんど覚えていない。
何が不思議だったのか判然としない。
でも私は口をもごもごと動かして、言葉を紡いだ。
「ねぇ、ゆういち……」
「ん、どうした?」
「わたし、ねこさんあれるぎー、なおったよ……」
その直後の祐一の顔は、とっても可笑しなものだった。
季節は何度目かの冬を迎えていた。
それは私と祐一の二人にとって、本当に久しぶりな季節だった。
相変わらずこの地方は雪が多くて、川の水も全部凍ってしまうくらい寒い。
じっと立っているだけで、身体の真ん中からどんどんと熱を奪われてしまうような、そんな寒さだった。
「名雪……今度からは、夢の、報告はいらないから、もっと早く、起きてくれ……」
「うーん。努力はするよ」
そんな寒さの中を私たちは走っている。
厚く積もった雪や、踏み固められた氷の上を、二人は転ばないように気をつけながら、学校への道を急いでいた。
何故か、温かかった。
私は走るのが好きだ。
頬で感じる風の感覚が好きだし、歩くときと違う速さで流れていく景色を見るのも好き。
走り出す前の「走るよ」ていう気持ちも好きだし、走り出す前の鼓動の音も好きで
――とにかく、私は走ることの全部が好きだった。
だから陸上部に入って、一生懸命に練習した。
放課後になれば、部活のみんなと一緒に毎日走った。
好きこそ物の上手なれ、ていう言葉のせいか、私はいつのまにか陸上部の部長さんになっていた。
先輩や友だちや後輩の目には、私が練習熱心な人に見えたかもしれない。
でも、それは違っていた。
私は走るのが好きだったから、毎日の練習に一生懸命だったのだ。
「名雪」
少し思考をめぐらせていた私は、その声に反応して祐一の方を向く。
彼は相変わらず紅く頬を染めて、息を吐き出しながらこちらに視線を合わせていた。
「あんまりぽーっとしてると転ぶぞ」
そして、そんなことを言ってくる。
私はその親切な気遣いに、顔をほころばせる。
祐一はこっちの表情を確認すると、また視線をまっすぐ前に向け直す。
私もそれを見てから、目を正面に向けた。
と。
目線のはしっこ、私たちが行く先に、見慣れたコートを着た女の子の姿があるのに気づいた。
彼女は特徴的な大きくまあるい瞳をあちこちへ飛ばしながら、雪の上を歩いている。
祐一もすぐに見つけたようで、何か一言を呟きながらそちらを見ていた。
何となく、胸の鼓動が変な動きをした。
「あ、祐一くん!」
彼女はやっぱり、あゆちゃんだった。
茶色のコートに可愛らしい羽を生やしながら、パタパタとあゆちゃんはこちらに走り寄ってくる。
祐一はそれを見て、少しばかり走る速度を落とした。
「足下に注意しないと転ぶぞ」
「大丈夫だよ、祐一く……」
言うが早いか、祐一が注意の言葉を発した途端、彼女は雪に足を取られて転んでしまった。
それも顔から、勢いよく。
祐一は呆れたように
――でもどこか嬉しそうな、そんな複雑な表情をしながら彼女の方へ駆け寄る。
私もあゆちゃんのすぐそばまで走っていく。
けど、何故か身体は祐一ほど彼女の近くに行かなかった。
「よく何にもないところで転べるよな、あゆは」
「うぐぅ……違うよ、今のは少し雪に滑っちゃって……」
言いながら祐一は、苦笑いを浮かべてあゆちゃんに手を差し伸べる。
かわいそうなほど雪に濡れてしまった彼女は、その手袋に覆われた黒い手を握るとそっと立ち上がった。
そしてぽんぽん、とコートに付いた雪を払う。
そんな彼女の仕草は私が見ていても可愛らしくて、きっと祐一から見ても愛らしいものだった。
「祐一くんたちはこれから学校?」
ああ、と祐一が頷く。
するとあゆちゃんは笑いながら、ボクもだよ、と言った。
それから少しばかりお互いに話をして別れた。
祐一は終始笑顔で、あゆちゃんをからかったり、撫でたりしていた。
彼女も真夏の太陽を思わせるような、爛々とした表情でお喋りしていた。
ただ私だけが、笑えずにいた。
私は朝の夢を思い出していた。
楽しむことを忘れて、ただひたすらにゴールへと走る自分。
周りの景色を見ずに、一直線でゴールへと向かう自分。
でも隣や前や、後ろを走る女の子たちを、必死に目で追いかける自分。
勝ちたがる自分。
負けられない自分。
それら全てが、今の私の心を表していた。
水瀬名雪は、一生懸命にゴールへ向けて走っているのだ。
あの地平線のどこかにある、『彼』というゴールに向けて。
「祐一」
相変わらず白い息を吐き出しながら、私は祐一の後姿に言った。
「なん、だよ、名雪」
彼も相変わらず呼吸を弾ませ、ちょっと苦しそうにこちらを見る。
「放課後、暇かな?」
「……ああ、暇だけ、どさ」
誰かに抜かれるということ。
誰かに追い越されるということ。
誰かに負けるということ。
それは、その試合で永遠にゴールの白線を切ることができない、ということを示している。
私は不安だった。
水瀬名雪という選手の前に、他の誰かが『相沢祐一』というゴールラインを切ってしまわないか、酷く不安だった。
「名雪、は、部活あるんじゃ、ないのか?」
「あれ、言ってなかったっけ? 今日はお休みなんだよ」
だから私は、一生懸命に走る。
たとえ途中でおなかが痛くなってしまっても、足が痛くなってしまっても、変な不安に襲われてしまっても。
結局私にできるのは、走りきることだけだった。
自分の
――水瀬名雪の今までを信じて走りきることだけだった。
「へー、そう、なのか」
「うん。そうなんだよ」
覚悟なんて出来ていない。
自分を信じることもまだ全然出来ていない。
走っている私は頭の中が真っ白なものだから、思考なんてほとんど存在していない。
ただ。
勝ちたい、ていう想いだけは確かに存在していた。
負けたくない、ていう想いだけで私の脚は動いている。
「一緒に帰れるかな?」
「……まあ、良い、けど」
自信なんてない。
覚悟もない。
唯一気持ちだけがある。
思考も信じらない。
毎日鍛えてきた脚だって信じられない。
でも、何故か不思議と、ゴールの存在は信じられた。
あの地平線の向こうには、必ず白いテープが張られている、ということだけは確信が持てていた。
「じゃあさ、祐一」
「ん?」
ゴールまでの距離は42.195キロメートルよりずっと長いかもしれないし、並んで走っている今のように数十センチもないかもしれない。
2時間でゴールに辿り着いてしまうかもしれないし、一生ゴールラインを割ることが出来ないかもしれない。
私に出来るただ一つのことは。
「商店街に遊びに行こうよ」
「別に、良いけど、さあ」
相沢祐一、というゴールに向かって、全力で走ることだけだった。
「ん?」
「イチゴサンデーの、お金は、自分で出せよ、な」
私は走るのが好きです。
大好きです。
でもそれより。
出会ったころの昔から、祐一が……好きです。
私と君との道のりは、今、きっと近付いている。
感想
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