―――生きとし生けるもの全てに愛と幸せを。



1.

 
 長く厳しい冬が終わりを告げた。
 雪一面だった白い世界がゆっくりと色づき始めていくのを俺は初めて感じていた。
 俺の以前まで住んでいたところではありえない光景、この街でも当たり前のようにこうやって気温が上がり桜の花が蕾をつけるのだ。
 雪のない道を春の香を感じながら歩く。
 隣にはいつものように穏やかな笑みを浮かべた名雪が「春だね〜」と口に出している。
 冬休みの最終日の再会からまだそんなに時間は経っていないけれど俺は名雪ともずいぶん仲が良くなれたと思う。
 数ヶ月前のこの街に戻ってきたばかりの俺ではもうなくなっているからだ。
 久々に戻ったこの街でいろんな出来事を思い出して、いろいろなことがあって、まさにそんな激動の冬は終わったのだ。
 新しい予感。
 この柔らかな日差しのように、とても穏やかで幸せな日々がはじまると思わせた。

「祐一。あんまりのんびり歩いていると遅刻しちゃうよ〜」
「そうだな、新学期早々遅刻なんて縁起悪いし」

 結局いつもどおり軽く走り始めた。
 陸上部である名雪の背を追いかけながら、やっぱり自然に笑えるようになったよな。俺も名雪も、と同い年の従妹との良好な関係を嬉しく思った。




「おっす、今年も1年よろしく」
 見慣れた顔が俺の肩を軽く叩く。席が近かったことが最初の要因だったんだろうが転校して3ヶ月しか経たない俺にとっての一番の野郎のダチだったりする。

「おっす、北川。『今年も1年』っていうか、去年の俺はまだここに転校してきてないんだけどな」

「そんなことで揚げ足をとらなくてもいいじゃない。またこうして同じクラスなんだから」
 クールでありながら穏やかな響きを持つ声で香里が微笑してみせた。
 ああ、香里もこうして笑えるようになったんだな、そう思うと嬉しくて俺も自然と笑みが浮かんだ。

「わ。香里も同じクラスなんだ。良かったよ〜」
「そうだな、これでまた美坂チーム再結成だな」

 俺の従妹である名雪、名雪の親しい友達だった香里、俺と俺に最初に話しかけてきてくれた北川。
 当たり前といえば当たり前の偶然で出来たこの4人のグループ。
 男女とも2人ずつっていうのもいいし、俺からみても3人ともいいやつだと思った。
 そして、この4人は仲もいいし楽しかった。
 俺も名雪とはもう打ち解けたし、北川ももう気の合う仲間だ。香里も栞の件以来、俺と以前より気安く話せている。
 高校最後の1年もこの4人で過ごせるかと思うと確かに嬉しかった。
 きっとたくさんバカやって真面目なこともして4人で楽しく過ごせる。それを確信していた。

「じゃ、改めて。今年もまたよろしく」






「今日の昼はどうする?」

 新学期の初日は当然のように半日で終わる。約束したわけでもないのに俺の机には今発言した北川を含めいつもの3人+1人がいた。名雪と香里以外にもうひとつの女子制服の姿。ただしリボンの色は違う。

「よっ、久しぶりだな栞」
「こんにちは、祐一さん。その節はご心配おかけしました」

 にっこりと数ヶ月前までの症状を伺わせないような花のような笑顔だった。

「はじめて見たけど制服姿も似合ってるよ」
「ありがとうございます。これでやっとお姉ちゃんとおそろいなんですっ」

 と、ふざけたみたいに香里の腕にしがみつく栞。

「もう。みっともないわね。そういうところがまだまだ子どもなんだから」

 そういいながらも香里の顔はどこまでも穏やかでちっとも嫌そうじゃなかった。仲の良い姉妹に戻れたんだ。昔の二人を俺を見たことはないけど、ずっとこんな風なだったんだろう。

「そうそう、お昼なんだけどみんなで話してたんだけど。ついこの間できたパスタ屋さん行ってみようってことになったんだよ〜」
「ちょうどいいだろ? せっかく栞ちゃんも来てくれたんだし」
「ああ、記念すべき栞の高校登校復帰だしな」





「うん。美味いな。平日の昼なのに結構入ってるのもうなずけるな」
 サーモンクリームソースのパスタをあっという間にたいらげてしまった。これは当たりだな。

「確かにこれはなかなかイケるな」
 各人それぞれのパスタに舌鼓を打っている。おいしいものを食べて腹を満たせば単純だけど幸せを感じることが出来る。みんなの頬もさりげなく赤い気がした。
 ただその中で頬以外に口の中まで赤くしているやつがいる。というか名雪だ。

「おいしいよ〜」
 満面の笑顔で赤いパスタをすする名雪は輝いていたがとても近寄りがたい。

「……名雪。それうまいか?」
「名雪はイチゴならなんでもいいんでしょ」
「ひどいよ〜、そんなことないよ〜」

 しかし、それは甘口イチゴスパとかいうメニューを頼んでいる身には説得力は皆無に等しかった。

「いいじゃないですか、人の好みはそれぞれです。私も満足してます」
 にこにことみんなでおいしいものが食べれて良かったですね、と栞は微笑んだ。デザードのアイスクリームを食べながらまさに完璧な説得力だ。
 ランチということもあってデザートか飲み物をひとつ選べたのはラッキーだった。俺もコーヒーを飲みながら食後のひとときを味わっている。
 せっかく栞が元気になったから今度の休みにでもどこか出かけないかと言う話をしていたときだった。

――カラ、カラン。

 入店者を告げる音が鳴る。

「舞っ。ここが最近評判のパスタ屋さんなんだって」
「うん。楽しみ」

 知っている女性二人組みの顔がそこにはあった。
 高校を卒業した先輩たちはこの春から地元の大学に通うことになったのだ。相変わらず仲が良さそうに手を繋いでいた。
 他の人からみたら奇妙な光景かもしれないけれど俺はそれが二人の普通なんだって知っていた。

「――あら?」

 と、こっちから声をかける前に気づいたようだった。いつもの笑顔で軽く会釈してくれる。
 川澄舞と倉田佐祐理。二人は俺の一つ上の先輩だった。
 舞は本当はいいやつなのに誤解されて学校をやめさせられる事態になったことがあった。そのときに俺と先輩たちはいっしょに戦った。だから二人が互いに互いを思っている優しくて素敵な関係だと思っていた。
 そしてそんな二人にその仲間であったと思われているのがとても嬉しい。
 一時期だっただったけど、俺は彼女たちといっしょに時間を共有できた。
 二人は卒業してしまったけどまた二人とは交友は続いている。俺も二人の世界にたまに参加させてもらえるのだそれはとても光栄なことだった。

「よ、舞。元気か?」

 その挨拶には舞はうん、とうなずいて、

「佐祐理といっしょに過ごせているんだ。幸せじゃないはずなんてない」

 小声で少し頬に朱を散らしたまま「祐一のおかげだ」ってささやかなお礼に照れる舞は可愛かった。

「今日はクラスメイトたちといっしょなんだ。また俺もなんかあったら誘ってくださいよ」
「はい、また誘います。舞ったら祐一さんがいないと情緒不安定なときが多くて――」
 と言いかける佐祐理さんをぽかぽかと完熟トマトの舞が小突いている。ああ、二人が制服を着ていた頃と全く変わらない幸せそうな絵図だった。

 軽く手を振って、俺は視線を名雪たちに戻した。

「良かったね。先輩たちすごく幸せそうで」
「ああ。あの二人の笑顔を失くさずに済んで本当によかった」





 その後はゲームセンターにカラオケっていう学生っぽいコースで過ごした。
 夕方になってみんなそれぞれに家路につくことになる。

「じゃあな、また明日」
 家の方向がみんなと違う北川が真っ先に別れを告げた。
 残るは水瀬家は帰る俺と名雪。美坂家へ帰る姉妹だった。その二組に分かれて帰ることになるだろうなと思っていたが。

「あのさ、ちょっと相沢くん借りていい?」
 姉の方がそんなことを言い出した。名雪と栞は以外にも表情一つ変えていない。

「なんだ、愛の告白なら今ここでもいいんだぞ?」
「違うわよ。あなたはちゃんとした相手いるでしょうに……」
 軽くため息つかれると少しだけ哀しかった。そりゃ俺だって冗談で言ったんだけどさ。

「うん、わたしはかまわないよ。先に帰ってるね、祐一」
 名雪は簡単に了承した。もしかしたら前もって何か香里から聞いてるのかもな。

「私もかまいません。お姉ちゃん、先に家で待ってますね」
 同様に栞も同意して、二人は去っていった。
 取り残されるは俺と香里の二人。

「で、改めて愛の告白か?」
「違うって言ってるでしょうに……」
「じゃあ、香里のイケナイ秘密の告白とか? 実はあたし1ヶ月前までシャンプーハットなしで髪が洗えませんでしたー、とか」
「殴るわよ?」
 拳を作って微笑む香里。不敵な笑いだったらもちろん怖いが冗談のような笑顔だった。

「なんていうか。その……まぁ、ね」
 もじもじとはっきりしない態度で香里が目を逸らす。

「改めてこういうこと言うのアレだけど。
 相沢くんには本当に感謝してるわ。栞のことちゃんと考えてくれたし、あたしの言葉も受け止めてくれたし、栞とあたしの関係がうまくいくようにいろいろ気をつかってもらったし」

「なんだ、そんなの気にするなよ。俺がやりたくてやったんだから。
 名雪だって北川だって、みんなで協力しからだよ。みんな香里と栞の力になりたかった。それだけだよ」
 そっちこそ、俺にこんな照れくさいこと言わせるなよな。って重くならないように敢えて軽い口調で付け加えておいた。

 それに一番大きかったのは結局のところ、栞が死ななかったっていう結果だ。
 そうでなければどんな言葉をかけていても香里は今みたいに過ごせていないだろう。

「それでもね。相沢くんにはありがとうって言いたい。
 奇跡がたとえ起こらなかったとしても、あなたにお礼を言えなかったらあたし後悔してると思う」




――××××××




 あ……れ?

 急激に視界が揺れるような感覚がする。
 今、俺は何を考えた!?
 身体の奥底から燃えるような熱い何かが零れ落ちそうなそんな感覚がする――

 やばい、やばい、やばい。

 考えるな、考えるな、何も考えるな――


――――――――――
――――――――
――――――
――――
――


 嘘のように、頭痛と眩暈が消えた――
 世界は何も変わらない。
 穏やかな春の夕暮れ。
 ここにいるのは俺と美坂香里。その二人だけだ。
 何も、問題なんてない。

「なぁ、香里? 俺、いまどうしてた?」
「どうしてたって、別にあたしと話してただけでしょう?
 あの子の病気で悩んで否定してたあの頃のあたしを支えてくれてありがとう、って」
「……そうだよな。別に、ただそれだけだよな」
「なあに? 変な相沢くん」











「ただいま」
「あぅ、祐一遅いわよぅ」
「おかえりなさいませ、相沢さん」
 俺を出迎えてくれたのは従妹でもなくましてや家主の秋子さんでもなく居候の真琴。その友だちの天野だった。
 天野は制服のままってことは昼からずっとこの家にいたんだろうか。そんな俺の視線に気づいたのか天野は自分から言葉を紡いだ。

「今日は真琴と約束をしていたんですよ、相沢さん。私が所持しているマンガを真琴に貸して欲しいと頼まれまして」
「えへへ。ありがと美汐」
 甘えるみたいにぎゅって天野に抱きつく真琴。じゃれてる動物をあやすかのように天野はゆっくりと頭を撫で返す。

「というか、天野……おまえ、マンガ持ってたのか」
「む……失礼ですね。私だってマンガのひとつやふたつ所持しています。最近は読みませんけど少女時代はは『りぼ○』とか『な○よし』を愛読していたものです」
「ふ〜ん。意外っていうか難しい文学書とか好きそうなタイプだと思ってた」
「そんなことないです。ああいうのはむしろ苦手です。図書館でも子どものころは絵本ばかり読んでたクチです」
 やや頬を赤らめて天野。ていうか自分で言って恥ずかしがってるし。
 いやそれはいいとして。

「ていうか、俺は真琴になんで『遅い』とか言われないといけないんだ?」
「ふん。早く帰ってこないからせっかく天野に教えてもらいながら作ったクッキーが冷めちゃったじゃないのよぅ」
 ていうか、マンガはついででお菓子作りだし。
「すいません。相沢さんの寄り道がこんなに長いと思わなかったので」
「いや、天野が謝ることはないけどな。ありがとう天野。こいつの我侭に付き合ってくれて」
「私が好きでやっていることですから問題ありませんよ」
 静かにだがはっきりと天野は言った。
 天野の目はすでに新しい輝きを灯していた。
 俺と同じで幼いころに狐子と出会い、そして悲しい別れをした経験をもつ少女は、すべてに諦めているかのような生き方をしていた。
 だが、俺も真琴と出会いがあの頃の天野と同じで、天野はそれを見抜き。俺に手を差し伸べてくれた。
 だから、今。真琴はここで元気に健在している。
 寒い冬は終わり桜の花が咲く春が来たのだ。天野は何度も俺を支えてくれたおかげで俺は真琴を失わずに済んだ。

「それでは、私はこの辺りで失礼しますね」
 確かに外はもう暗くなり始めていた。あんまり遅いと天野の両親も心配するに違いない。

「あぅ。またね、美汐〜」
 真琴がまた遊ぼう、と天野と指きりをした。

「途中までだけど送っていくよ」
 俺も天野といっしょに玄関を出た。

「ありがとうな、天野」
「何がですか?」
 軽い微笑まじりで天野は返してきた。
「真琴と友だちでいてくれて、さ。それにあのときずっと天野が支えてくれたお礼だよ」
「私は何もしていませんよ。相沢さんは私よりも強くあった、それが一番良かったんだと思います。そんな真琴と相沢さんに私は諦めたはずの希望を見てしまっていたんです。救われたのは私も同じだと思います」
「でも、それは真琴が帰ってきたからって結果ありきだろ?」
「いえ。相沢さんに言いましたが『強くあっていてください』とそれを受け入れた相沢さんの姿こそが私にないもので必要だったのだと思います」

 天野は天を仰いだ。
 空からは天野が冗談みたいに言った空からお菓子が降るようなことはなかった。
 しかし、俺の願いは届いた。

 本当に真琴が帰ってこなくても、俺は笑えていただろうか?
 しかし、天野はそんな俺に「相沢さんなら、きっと」と告げた。






「いただきます」
 水瀬家の居候を含むメンバーが揃って夕食が始まる。

「うまい」
 何度食べても秋子さんの手料理は最高だった。名雪も真琴も、床で皿をなめているぴろもそう思っているに違いない。

「おかわりありますからね、どんどん食べてください」
 今年の冬から俺がこの家に居候することになって。俺の周りは変化していた。
 真琴という名の狐子と出会い居候を増やした。栞の病気のことで俺や香里や本人はそれぞれの生き方を思わされた。先輩との出会い、生徒会に目をつけられたり舞が深夜の学校で徘徊していた件、俺は毎夜のようにこの家を出ていた。いろいろな出来事があった。でもそれでも。やっぱりこの家が、秋子さんが居たからこそ、俺は今こうしていられるのだろう。
 時には言葉をくれたり、いっしょに行動してくれたり見守ってくれたり。秋子さんの母性的な温かさがなければ俺はあの冬に気が狂ってしまっていたかもしれない。
 そんな、安心すべき帰る場所がまさに秋子さんだった。
 まだまだ甘えてしまうし頼りにしてしまう。いずれ自立するけれどもやっぱり秋子さんがいるだけで精神的な支柱みたいに安心できる。
 今日も精一杯のありがとうを込めて。

「ごちそうさま」





「祐一。明日はデートだねっ」
 晩御飯の後、自室でごろごろしている俺に名雪が誘ってきた。

「俺とおまえが?」
「違うよ〜。わたしじゃないでしょ。もうちゃんとした彼女さんなんだから大切にしないと」
 まったく、祐一は薄情者だよ。なんてひどいこと言われている。

「嫌われないようにしないと駄目だよ?」
 言われるまでもない。
 俺は彼女のことはとても大事だと思っている。

「わかってるよ。寝坊しないように早く寝るさ、名雪並の早さで」
「う〜、なんかひどいこと言われてる?」
「そんなことはないぞ」

 明日はデートだ。
 早く、朝よ……来い。








67.



 ゆっくりと重いまぶたをあげるとそこは白い天井が見えた。
 んんああ〜っと声をあげながら身体を伸ばそうかと思ったが身体が何故か動かなかった。
 どういうことだ?
 眼球だけを動かして自分の姿を確認しようとする。
 しかし、そのあまりにも細すぎる腕が視界に入ったとき意識が飛びそうになった。

 なんだ。このやせ細ってしまった腕の細さは?
 何かの病気なのか?
 だれか、たすけて。
 なゆき、あきこさん、まこと、まい、しおり、かおり、あまの、さゆりさん
 たすけてく






2.



 いつもの待ち合わせ場所だ。
 空は晴天。流れていく人の波もいつもと変わらないはずなのだがみんなが穏やかに幸せそうに見えるのは自分の心にゆとりがあるからなんだろう。
 来ない相手をずっと待つのとは違う、これから過ごす楽しいときを待ちわびた時間。それはただ待つという行為さえも全てを変えてしまう。心境の変化、精神状態でまったくそれを変えてしまうのだなと感じた。
 だから別に待つことは苦痛ではないし、こう遅刻しそうな彼女が必死に走ってくる姿をするとそれなりに幸せではあるのだが、

「それにしても、早く来いよ……」

 遅刻も30分超えて連絡がないと不安になってしまうだろう。

「うぐぅ、ごめんなさい」
「いや、ちっとも待ってないぞ。俺も今来たとこさ、マイハニー」
「……そんなあからさまな嘘つかなくていいよ。それと『ハニー』って何」

 あゆは小さな唇を少し尖らせた。
 この小柄で拗ねている女の子が俺の彼女、月宮あゆだ。

「それよりもだな。いつも先に待ってるくらいのハニーがどうして今日は遅れたんだ?」
「うぐぅ、だからハニーはやめて……」

 相変わらずからかい甲斐のあるやつだなと思いつつあゆの頭部を見ていた。
 理由はどう見てもこの変な帽子だろう。

「で……、なんで帽子かぶってるんだ?」

 聞いてやると小動物のようにわかりやすい過激な反応をするあゆ。わかりやすいなぁ。

「べ……別になんでもないよ。おしゃれだよ。最近の流行。羽リュックで羽帽子で次は羽ぶとん」
「……布団かよ」

 ていうか、おまえの帽子は羽なんかついてないし。

「ううう。実は髪の毛切りすぎちゃって……」
「なんだ。照れるなよ。見せてくれよ」
「ううう。嫌だよ、祐一くん、絶対子どもっぽいって笑うもん」
「そんなことないって、なんだよー、俺はあゆの恋人なんだろ? あゆの全てを見せてくれよー」
「ううう。本当に笑わない?」
「ああ、笑わない」

 あゆの帽子を取った。

「……ぷっ」

 吹いてしまった。
 一度吹いたら止まるはずもなかった。噛み殺した声がだんだんと漏れる。

「ううう。ひどいよーーーー。笑わないって言ったのにーー!」
「あは……あはは、いや、似合ってるって。小学生みたいで」
「ボク、祐一くんと同い年だよっ!」
「ひ……ひぃひぃ。いや、少年みたいぜ可愛いぞ」
「ボク女の子だよっ! そんなの嬉しくないよっ!」

 もう帰る。なんてへそを曲げるあゆを慌ててなだめにかかる。
 いっぱいの本気の言葉と口付けであゆを引き止める。

「もう。ずるいよ……そんなの、許すしかないもん」
 ぎゅっと、小さな手が俺の指に絡む。

「今日はどこ行こっか」
 俺たちが出会ったのは冬だからあのときはたいやきをいっしょに食べたけど、春にだっていろいろおいしいものはあるんだから。
 子どものころになけなしのお金で買ったたいやきだけじゃなくて、俺はいろいろなものをあゆにあげたい。
 あゆといっしょにこれからひとつひとつの季節を楽しんでいきたいんだ。





 一日あゆとデートをして、夜はあゆも加わって秋子さん手作りの晩御飯を堪能した。
 あゆも加わって5人の団欒。
 この家はとても暖かく、俺や真琴だけじゃなくあゆも温かく迎えてくれる。
 夕食も終わって、途中まであゆを送ろうと家を出ようとしたときに3人から別れの挨拶。

「あゆちゃん。祐一さんをよろしくね。また気兼ねなく遊びにきてね」
「あゆちゃん。祐一は意地悪だけど本当は優しいけど見捨てないでね」
「あゆ〜。祐一は最悪だけどあゆのことは好きみたいだから我慢して付き合ってあげてね」
 口々に好き勝手なことを言われて俺もあゆも苦笑いした。

 黒い夜の闇の中を腕を組んであゆと歩く。
 冬とは違って穏やかな夜風が気持ちよかった。

「ここまででいいよ」

 交差点で別れることにした。
 少し距離をとってこっちを振り返って、にっこりと笑ってあゆは言う。

「祐一くん、ボク、幸せだよ。
 だって、名雪さんがいて、秋子さんが居て。みんながいて。
 そして祐一くんがいる。
 みんな優しいし暖かいし、本当に幸せなんだ。ずっとこんな幸せが続くといいね」

 俺もあゆと同じ気持ちだった。みんなが幸せに暮らしている。ずっとこんな時間が続けばいいと思った。
 ああ、そうだな。とうなずこうとした。

 けれど。
 何故か動かない。

 俺は同意するつもりなのに声が出ない、首が動かせない。どうして――

「祐一くん?」

 なんで、涙が出て……?

「祐一くんっ! 祐一くんっ!?」




3.



「あ、祐一さん。こんにちは」
「……こんにちは、祐一」

 街で偶然先輩たちと会ってお茶することになった。
 大学生活はどうですか? とか、受験生はどうなんですか? って互いに近況なんかをいろいろ話して、話題は高校時代の頃になった。
 たった数ヶ月だけだが俺は舞と佐祐理さんといっしょの時間を過ごしていた。
 それはとても大切な時間だった。

「それで佐祐理が祐一さんといっしょに選んだアリクイのぬいぐるみを持って夜の学校に行ったんですよね」
 そうだ。あのときの舞と俺は毎日のように夜の学校へ行きそこで魔物と戦っていたのだ。

「はじめての夜の学校はちょっぴりどきどきしました。でも舞や祐一さんがいるってわかってましたから、怖くはありませんでした」
 そのときの心境を穏やかに話す佐祐理さん。そうだ、あんなことがあってももう過去のなんだからな。

「それで魔物に佐祐理さんが襲われたときはどうしようかと思っちゃいましたよ――」
 と、自分で言いかけて違和感を覚える。
 舞へのプレゼントを街で佐祐理さんと選んだ。
 いつものように舞と夜の学校にいるときに、佐祐理さんが現れて――佐祐理さんは……襲われ……た?

 記憶に霞のようなものを感じる。
 何か霧がかかっている。
 なんだ。あのとき佐祐理さんは魔物に襲われて佐祐理さんはケガを負って、舞は心を傷めて――

 あれ?
 なんで、どうして泣いてる?
 あのときの俺と舞が泣いてるどうして?

 今はこうして3人で無事でいるはずの現実がここにあるのに?

 動悸が激しい。息苦しい。
 霞のかかった頭で俺は2人の顔を見る。二人はさっきまでと同じで穏やかな顔、

「なぁ、二人とも。あの夜……佐祐理さんが魔物に襲われてどうなったんだっけ? 本当に無事だったの






3'.





 街で偶然先輩たちと会ってお茶することになった。
 大学生活はどうですか? とか、受験生はどうなんですか? って互いに近況なんかをいろいろ話して、話題は高校時代の頃になった。
 たった数ヶ月だけだが俺は舞と佐祐理さんといっしょの時間を過ごしていた。
 それはとても大切な時間だった。

「それで佐祐理が祐一さんといっしょに選んだアリクイのぬいぐるみを持って夜の学校に行ったんですよね」
 そうだ。あのときの舞と俺は毎日のように夜の学校へ行きそこで魔物と戦っていたのだ。

「はじめての夜の学校はちょっぴりどきどきしました。でも舞や祐一さんがいるってわかってましたから、怖くはありませんでした」
 そのときの心境を穏やかに話す佐祐理さん。そうだ、あんなことがあってももう過去のなんだからな。

「それで魔物に佐祐理さんが襲われたときはどうしようかと思っちゃいましたよ――」
「ふえ? 魔物ってなんですか?」
 あれ? 俺はなんでそんなわけのわからない単語を口にしたんだろう?

「いや、なんでだろう。まったくどうかしてるな、忘れてください佐祐理さん」
「あははー。はい、忘れてあげます」
「祐一はたまに変なことを言う……」
 などと舞に言われてはこっちも苦笑いだ、ちぇっ。

「でもさ。思うんだけど――」
 にこにこ笑う二人の顔を見たまま何気なく言った。

「どうして俺たちは夜の学校になんか行っ





3”.




 街で偶然先輩たちと会ってお茶することになった。
 大学生活はどうですか? とか、受験生はどうなんですか? って互いに近況なんかをいろいろ話して、話題は高校時代の頃になった。
 たった数ヶ月だけだが俺は舞と佐祐理さんといっしょの時間を過ごしていた。
 それはとても大切な時間だった。

「それで祐一さんといっしょにアリクイのぬいぐるみを選んだんですよね」

 そう。舞へプレゼントを渡すことにして街でアリクイのぬいぐるみを選んだんだ。

「その夜の学校に佐祐理さんは持ってきたんですよね。舞に早く渡したいからって」
 と言って、あれと自分で首をひねった、意味が分からない。

「もう、何言ってるんですか祐一さん。佐祐理も舞も夜の学校なんて行くはずないじゃないですか」
 そうだよな。行く理由がない。

「いつものお昼に渡して、舞はとても喜んでくれて祐一さんと選んだ甲斐がありましたねって喜んだじゃないですか」
「そうだった……な」
「……祐一は物忘れが激しい。私はちゃんと覚えてるから、佐祐理」
「あははーっ。ありがとう、舞」

 そうだよな。ただプレゼント選んで渡しただけの話だった。





4.






「こうしてまた真琴といられるなんて夢のようですね」
 遊び疲れて眠ってしまった真琴の頭を撫でながら天野が感慨深げにつぶやく。

「そうだな。真琴が衰弱していくのをみて本当につらくって、でもどうしようもならなくて」
 でも水瀬家は受け入れてくれた、消えゆく日が近い真琴を。
 いっしょに外食してプリクラをとって、あいつの笑顔をみて泣きそうになって、出来る限りのぬくもりを真琴に与えたいと思った。

「ほんのつかの間の奇跡の中で俺はいろいろなことを経験したよ」
 あいつが居た期間は本当にわずかだった。だから俺はそんな時間を真琴といっしょに出来るだけ過ごそうと――

「あれ?」
「どうしたんですか、相沢さん?」
 俺はあいつと街で因縁をかけられて出会って。あいつの命の燃え尽きるのが迫っていることを知って、あいつの正体を知って……。
 あいつとずっといっしょに……

「いや……俺は栞の病気のことも悩んでいた気がするんだけど、真琴のことを放っておいた記憶もないんだ。一体どういうことな




4'.


「こうしてまた真琴といられるなんて夢のようですね」
 遊び疲れて眠ってしまった真琴の頭を撫でながら天野が感慨深げにつぶやく。

「そうだな。真琴が衰弱していくのをみて本当につらくって、でもどうしようもならなくて」
 でも水瀬家は受け入れてくれた、消えゆく日が近い真琴を。
 いっしょに外食してプリクラをとって、あいつの笑顔をみて泣きそうになって、出来る限りのぬくもりを真琴に与えたいと思った。

「ほんのつかの間の奇跡の中で俺はいろいろなことを経験したよ」
 あいつが居た期間は本当にわずかだった。だから俺はそんな時間を真琴といっしょに出来るだけ過ごそうと――

「あれ?」
 いや、待て。
 俺は栞の病気のことで悩んでいたはずだし、舞や佐祐理さんとも過ごしてたはず、それが真琴とずっといっしょに?

「俺は栞の病気のことも悩んでいた気がするんだけど、真琴のことを放っておいた記憶もない。どういうことだ?」
「美坂さんの病気を相沢さんが知ったのはもう少し先の話じゃなかったですか?」
 ああ、言われてみればそんな気もする。
 だから、両方の記憶があるのか。
 しかし、夜には何故か毎日学校に行っていたような?
――なんで、どうして?

 そういえば、俺と舞はどうやって出会ったんだ? 
 ああ、名雪のノートを忘れて夜の学校に行ったんだ。

――なんでそこに舞が居た?

「なぁ……天野」
「はい。なんでしょうか?」

「あったことがなかったかのように、なかったことがあったかのように感じるんだ。
 他の自分がいるとかそういうものじゃない。記憶はあるんだ。
 でも、矛盾がある気がして仕方ないんだ。
 なぁ、俺はこの3ヶ月間どう過ごしていた?」

 天野は無言、少しだけ意味がわかりかねるというような瞳で見返している。

「間違っているはずなんだ。俺か世界のどっちかが――」

――気×か×い×






0.




 再生。
 改変。
 修正。

―――生きとし生けるもの全てに愛と幸せを。

 それが××の望み。







5.



 朝起きる。名雪を起こす。朝食を食べる。学校へ行く。授業を受ける。日が沈む。帰宅。夕食。お風呂、睡眠。
 それはありきたりの当たり前すぎるはずの日常のはずだ。
 そしてそれは今も続いている。

――間違っているのは世界ではない?

 ならば間違っているのは俺のほうだろう。
 間違っているはずの俺はしかし、この状況を打破しようと考える。
 口に出せば何者かが気がついて俺の記憶だか人生だかを改変しようとしている。そんな気がする。
 しかし、行動をしなければ何も変わらないのも事実だった。
 タブーが生まれれば再生させられる。
 だが、この世界を終わらせられるほどの致命的な行動を起こせないのか?

「俺は勝手に人生を変えられるなんてのはごめんだからな。ふざけるなよ」

 見えない誰かにそう宣言して部屋を出た。





0.



 勘違いをしている。
 人生など変えることはできない。
 そんな力なんてない。
 だって、もう彼の人生は――
 だから、お願い。この世界のからくりには


――×づ×な×で





6.



 それから俺はいろんなことをした。
 殺人、窃盗、レイプのような犯罪を犯した。
 正確には犯そうとした、だが。
 しかし、何事もなかったかのように次の日は別の朝だった。
 自殺を試みるも同じ結果。
 電車に乗ってこの街を出ようとした。
 しかし、世界の果てはあっさりしていて次の駅に着く前に次の日の朝を自室で迎えていた。
 だからこそ、世界の方が間違っているのだと核心する。

 ここから抜け出して本当の世界に帰る。

 しかし、その方法だけがわからない。
 無駄なことをしている気がする。しかし、故にわかりかけている気もする。

 何故ここにいるのかの理由を理解しないと抜け出すことができないのではないか?
 どうしてこの世界の主は何度も再生しようとする?
 それは知られたくないことがあるということなのか。
 残念ながらそいつの記憶操作は何度も繰り返してるせいで甘い。
 基本的に俺がこの3ヶ月間に疑問を思ったときにそれは介入してくる。
 しかし、俺は一度だけ違う朝を迎えている。それこそがきっと――
 俺は核心に近づいてるはずだった。

「なぁ、あゆ」
「なあに、祐一くん」
「たとえばの話なんだけどさ。俺が今にも死にそうだとしたらどうする?」
「え?」
「ある朝に目が覚めると、俺の腕が異常なほど痩せ細っていたんだ。俺はそれが信じられなくて気を失ってしまったんだ」
「祐一くん。それこそ夢じゃないかな?
 祐一くんはここにいるんだし、まだこの頃の祐一くんなら健康だよ?」
「……いや。夢は今みてるんだ。あの痩せ細った身体こそが現実。つまり……これは――」

 『まだこの頃の祐一くんなら』、そう言ったあゆの言葉で今度こそ完全に確信した。
 思い出した。
 これは、この夢は。

「俺の死ぬ間際にあゆが見せている偽りの過去だろう?」





67.




 一人だけで暮らしている安アパート。
 いや、暮らしているというよりは寝ているだけと言った方が正確だろう。
 布団の上でロクに動けずに痩せ細った身体で細く息をしている。
 ああ、これが本来の俺だ。
 誰にも見取られずに今まさに命が尽きる寸前の男の身体。

(どうして目覚めちゃったの? 目覚めなければずっと幸せな記憶の中で生きていけるのに)

 どういう理屈なのかは知らない、うっすらと開けた視界にはひとりの少女の姿がぼんやりと映っていた。

(祐一くんの人生は不幸だったよ。こんなの全然幸せじゃない。)

 そうか?

(つらい未来しか待っていないのなら、永遠に夢の中でいいじゃない)

 そうだ。
 あゆの夢の中の世界。
 そこではみんなが生きていた。幸せそうに笑っていた。
 だが、しかし。

 全ての人が幸福な世界なんてありえない。
 たとえ、どこでも。
 この世界の果てまで旅しても、そんな場所は見つからない。

 そんなのは現実ではないのだ。
 人の幸せ不幸せはそんな単純なものじゃない。
 人の幸せは千差万別。
 たとえば、それは。
 夫の幸せのために髪を切った女が、夫から髪飾りをプレゼントされることだったり。
 孤独なライオンが返答のない植物相手に語りかけることだったり。
 人の幸せのその分誰かが不幸とまでは言わないけれど、歪んだ幸せもある。
 みんなが同じなら世界に戦争や紛争なんてなくなっているだろう。

 人はいつも正しい道ばかりは選べない。
 だから失敗もする。後悔もする。
 嬉しいことばかりじゃない、楽しいことばかりじゃない。
 でも、それも全部含め、俺の人生なんだ。
 だから今までの俺を否定したくはない。
 俺は結婚もしてないし、子どももいない。
 仕事を定年して、今では寝たきりで死ぬ間際だ。
 だからといって、いいことが何もなかったわけじゃない。
 あの冬は大きな出来事ではあったけれど、人生は長い。
 たくさんの人のぬくもりに触れた。たくさんの人の幸せを見た。
 奇跡なんかなくても必死に生きている人たちを見た。
 だから俺は間違ってるって気がついたよ。
 みんなつらいことがあっても今を精一杯生きている。

(だけど祐一くんはあの冬から全てを失ってしまったじゃない。奇跡なんて何一つ起きなかったじゃない)

 確かにそれは真実だ。
 美坂栞は病気が回復することもなく死を迎えた。
 美坂香里は妹が死ぬまでに心開くことができずに余計に大きな傷を作った。
 川澄舞は自分の一部である魔物で大切な友人に大きな傷を与えた。
 倉田佐祐理は怪我が原因で周りに舞に近づくことを奪われた。
 沢渡真琴は結局消えてしまったきり戻ってこなかった。
 天野美汐は真琴が消えてさらに自分の殻を作ってしまった。
 水瀬家を、名雪を支えてきた水瀬秋子は交通事故で帰らぬ人となった。
 名雪はそれが原因で心を閉ざした。

 みんなが傷ついた。
 でも、そうじゃない。
 それだけじゃない。

――それでも、香里は笑ってくれた。
 何年もして香里に再会したとき、彼女は俺にお礼を言ってくれた。
 そして、栞には最後まで素直な自分を見せることはできなかったけれど俺のあのときの言葉で死を受け入れて時間がかかったけれど前に進むことが出来たと。
 人の死は結局、残される側の話でしかない。
 死者は口をきけない。
 それを受け入れた。栞が幸せか不幸せだったかは俺たちはわからなかった。でも前に進まなきゃならない、生きなきゃならない。
 香里は受け入れて生きた。
 それは決して楽な人生ではないけれど。
 幸せではない、幸せになれないなんて誰が決め付ける?

――それでも、川澄舞は開放された。倉田佐祐理は諦めなかった。
 大切な人を傷つけた力を舞は呪った。
 倉田佐祐理は「弟の代わり、自分の代わりに誰かを幸せにするために生きる」という過ちに気がついた。
 川澄舞の幸せはそれではない。自分あってのそれであると自覚した。
 受け入れ、彼女らは前を向いた。
 それは決して楽な人生ではないけれど。
 幸せではない、幸せになれないなんて誰が決め付ける?

――それでも、俺は真琴を忘れない。天野美汐は生きた。
 真琴というぬくもりを求めた少女がいたことを俺は忘れない。いっしょに短い間を過ごしたことも忘れない。
 天野美汐は忘れない。いっしょに過ごした短い奇跡のぬくもりを。
 その想いのせいで新しい恋愛ができないからといって誰が不幸だと決める?
 人は結婚し自分の家庭を持たないと必ずしも幸せになれないなんてことはないはずだ。
 だから俺はここまで生きた。天野美汐も生き続けた。

――それでも、名雪は立ち直った。
 水瀬秋子が亡くなって、自閉になったとしても周りが放っておくはずもない。
 親戚である俺の両親が名雪を引き取った。
 いくら泣いても秋子さんは帰ってこない。
 時間はかかったけれど名雪は現実を見た。
 そして、結婚もして幸せな家庭を築いた。
 俺も式では泣いてしまった。
 傍らでずっと名雪をみていたから――

――それでも、……あゆ。
 おまえに会えて良かったと思ったよ。
 初恋の相手のあゆは、俺の目の前で木から落ちてしまったあゆを俺は一度は記憶の底に閉じてしまったけど。
 それでもあゆに会えてよかった。
 あのときの想いは本物だったと今も思うよ。
 そして今は思い出にできる。

 人の心は確かに強くはないのかもしれない。
 心は傷つき壊れてしまうかもしれない。
 けれど奇跡が起きなくたってゆっくりと前を向けるくらいには弱くはないんだ。

――だから、もう満足だ。
――――おやすみなさい。
――――――幸せだった、人生






































0.





 涙を流して、祐一は67年の人生に終焉を告げた。

 あゆはその涙を触れ、気づく。
 自分の世界には、涙がないことに。
 こんな温かい涙がないことに。
 夢の中の人々は穏やかであったが、ただそれだけ。
 激しい感情に揺り動かされることはない。
 それが幸であろうと不幸であろうとも。
 全ての人が幸福な世界なんてありえない。
 過去に戻ってなかったことにして、そうまでしてしないと得られない幸福なんてあってはならないのだ。
 人は苦しくつらい思いをするからこそ、幸せを求めるし、幸せを感じることができる。
 自分だって同じだったではないか。

 最愛の母親の死去。
 それなくして、はたしてあの少年との出会いがここまで大きなものになっていただろうか?

 母親が死んだ。
 もし、生きていたら。と何度も思った。

 でも、それは祐一や、その他の人々との出会いまで否定することになってしまう。
 そんな都合のいい未来などない。
 それはとても嫌なことだった。

 だから、終わらせよう。
 遠い昔に終わっていたはずの長い長い夢物語を。

 おやすみ、祐一くん。
 ボクも今、逝くよ。
 もう、寂しくなんてないから。
 ボクも祐一くんが大好きでした。





































−1.


 小さな少年と小さな少女が大きな木の前で楽しそうにじゃれあっている。
 そこは二人だけの学校。
 宿題もない、お菓子の持ち込みも自由の二人だけがルールの学校。
 そこで笑いあう二人のその短い永遠は、確かにひとつの幸せのかたちだった。







〜〜〜永遠に続く、奇跡の中で〜〜〜


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