その日も、雪が降っていた。

 彼女に会った、最後の日のように。

 いや、最後だと思っていた日のように。

 そう、最後では無かったのだから、訂正しなくてはいけない。

 もう一度会えた、彼女に。

 諦めてはいなかった、けれど、助かるとも思っていなかった。

 けれど、巡り合えた。

 人の命は重い。

 そんな事は知っていた。

 けれど、全然分かっていなかった、知っていたつもりにしか過ぎなかった。

 自分にとって一番大切な人が、生きている。

 これが、どれだけ幸せで、どれだけ素晴らしい事か。

 今、それを知った――――
















大切なもの、すぐ傍に。














 まだ止まぬ雪が積もる学び舎の中庭で、向き合っていた。

「もう一度、会えたら絶対に言おうと思っていたんです」

「でも、次は無いと思っていましたから、ですから……」

 次の句は言わせない。

 ぎゅっと、逃さぬよう、離れぬよう抱きしめた。

「――栞」

「はい、祐一さん」

「――栞っ!!」

「私は――ここにいます、祐一さんの傍に」

「ああ、夢でも、性質の悪い冗談でもない、現実にこうして触れ合えてるんだな、俺達」

「はい。すごく……すごく嬉しいです」

「俺も次に会えたら伝えたい言葉があったんだ」

 胸の裡に溢れる思いと共に、愛しい人に伝えたい言葉。

 それは、他人からみればちっぽけな、陳腐な言葉かもしれない、でも俺には、俺達にはとても大切な約束。

「ずっと、一緒に居てくれ、俺の傍に」

「ずっと、一緒に居てください、私と共に」

 一度は居られないと、世界に突き放された。

 あの日、栞が俺の前から姿を消した時に、もう切れてしまったのだと思っていた。

 大切な、絆。

 だからこそ、この約束は違えるわけにはいかない。

 だからこそ、どれだけ大切なモノか、感じる事が出来る。

 そして、どれだけ虚ろいやすいかという事も――――

 それを考えて、思わず身が震える。

「祐一さん?」

「あ、いや……何でもない、何でも……ないんだ」

「私は、ここに居ます」

「――え?」

 想いが伝わったのかと、そう思った。

 恐れ、不安、恐怖――――似たような負の感情、栞にも分かったのだろうかと。

「実は、私も不安なんですよ? ……また病気になったりしないかとか」

「栞……」

「でも、でもっ!! 決めましたから、約束、しましたから……負けません。今度何かあっても、きっと吹き飛ばしますっ」

 途中から泣きそうな声で、栞は俺の胸に顔を埋める。

 現実はそんなに簡単に行かないと、栞も俺も思い知らされているから。

 でも、それでも言いたかったのだろう。

 宣言しておきたかったのだ、思いだけでも、それが現実に塗り潰されてしまう事もあると分かっていても。

「ああ、きっと、栞なら大丈夫だ」

「祐一さん――」

 だからこそ、俺も言った。

 強がりでもいい。

 もしかしたら太刀打ちできない現実もあるかもしれない。

 でも、それでも、俺の気持ちだから。

 本心だからこそ、言葉に乗せて伝えたいんだ。

「それに、もうちょっとこの感触を楽しんでいたいし、な?」

「えぅっ!? 祐一さんエッチですっ」

 身を捩って逃げようとするが時既に遅し、俺の腕の中にいる栞をギュッと抱きしめて逃がさない。

 仄かに香る、微香も。

 体の柔らかさも。

 照れて赤く可愛いその顔も。

 腕の中から、零さず、きっと。













 そして、そんな様子を眺める影。

 校舎内から、暖かい笑みを浮かべて。

「……本当に良かった」

 姉としての責務、重すぎた運命から逃げ出したその少女は、笑っていた。

 受け止めてもらえたあの雪の夜から、美坂香里は、笑えていたのかもしれない。

 全ての荷物を一度下ろして、休めたのかもしれない。

 だからこそ今、この場でこんなにも暖かい気持ちで妹とその大切な人の事を見守っていられる。

「本当にっ――」

 不意に、言葉に詰まる。

 知らぬうちに泣いていたらしい。

 頬を伝う涙を感じて、思い出す。

 栞が奇跡的に回復して、最初に面会した時の事。

 今まで自分が溜め込んでいた事と、心の底からの謝罪。

 それを栞は、長年の想いと共に、平手一つで済ませてしまった。

【これで――許してあげる。だから、今日から、は……お姉ちゃんの、妹、で居て、ひっく、いいんだよ、ねっ?】

 自身の涙を流しながら、香里の腕を掴んで言ったその言葉は、胸の裡に強烈に響いた。

 ――こんな、大切な妹を、私は長年冷たくあしらってきたのか、と。

 そして、泣いた。

 姉妹で、涙が出尽くして、枯れてしまいそうなほど。

 お互いに、ごめんね、ごめんねと、謝り続けながら。

「涙脆い方じゃ、ないはずなんだけど……ね」

 そう呟いて、ハンカチを探す。

 だが、忘れてきてしまったのだろうか、目的の物が見つかる様子はない。

「――お嬢さん、ハンカチの出前いらないか?」

「え……?」

 ぐしっと、涙を袖で拭いて横を見ると、立っていたのは金髪のクラスメイト。

「北川……くん?」

「よ、美坂。今日の俺はハンカチの出前人って役どころなんだが、いるか?」

 呆れるほど陽気に香里の隣に立ち、窓の外へと視線を向ける。

「――ええ、じゃあ貰おうかしら」

「ほいきた、ちゃんと今日家から持ってきたやつだから大丈夫だぜ、清潔感100%だ」

 窓の外への視線は外さずに、香里に渡したのはブルーのチェックが入ったハンカチ。

 香里は遠慮なくずずっと鼻をかむ。

 それを見た北川が、なるほどそう来たか……と呟いているのが少し印象的だった。

「にしても北川君、意外と几帳面なのね、ハンカチなんて普段絶対に持ってなさそうなのに」

「ん? ああ、ウチの妹がさ、『何だか今日は絶対に必要な気がするから持っていきなさい』って予言の如く言うもんだからな、勢いに負けたってワケだ」

「出来た妹さんね、誰かさんにはもったいないくらい」

「……そりゃ、違いない」

 香里が思わず本心からの言葉を受け取ると、北川は面白いように笑う。

「にしても……俺は蚊帳の外、か。力になりたかったが、どうも心配事には向いてないみたいだな」

「北川君、まさか……」

「ああ、詳しい事情は分からんが、美坂の様子がおかしい事ぐらい、俺だって水瀬さんだって気づいてたさ」

「ごめんなさい、あたし……」

「気にしなくてもいいさ。美坂が今笑えてる事、それが重要だと思うぜ?」

 違うか? と北川は言う。

 香里は、すこし唖然として、言った。

「……訂正、誰かさんには少しばかりもったいないって事にしておいてくれるかしら、今少しだけ見直したから、その誰かさんの事を、ね」

「少しだけ、か……そりゃ手厳しい」

「ええ、少しだけ。だから、もっと頑張ることね」

「――了解、いつか認めさせてやるからな?」

「期待してるわ」

 そう言って笑いあう。

 一ヶ月前とは比べ物にならないほどの眩しい笑顔。

 そんな日常の尊さを、彼女達は知っている。

「お姉ちゃ〜ん!!」

「栞?」

 ひときしり笑いあうと、外から香里を呼ぶ声。

 こっちへ来てと、呼んでいるようだ。

 中庭への扉を開けて、祐一と栞の場所へと辿り着く。

「どうしたの、栞?」

「雪合戦しましょうっ!!」

「え?」

「栞がどうしてもって言うからな、いいだろ香里?」

「え、ええ私は構わないけれど――」

「あいざわぁ〜、俺は無視なのか」

「……居たのか北川?」

「テメェっ、ワザとだろっ!!」

「勿論だっ!!」

「親友甲斐の無い奴めっ!!」

「お前だけには言われたくないぞっ」

『なにぃ〜〜〜!』

「な、何なんでしょうこのノリは……」

「慣れなさい、栞。これがこの二人の普通よ」

「ま、まぢですかお姉ちゃん」

「マジよ」

 いきなり乱入してきて、既に雪球をぶつけ合っている祐一と北川を見て呆然としている栞。

 多少慣れたとは言え、先程とのテンションの違いにさすがに呆れている香里。

 そんな二人の背後から急激に迫る影――

「かおりぃ〜、しおりちゃ〜ん!!」

『きゃあっ!?』

 その影――――もとい名雪は、二人を巻き込んで雪の上へとダイブする。

「げほっ、な、名雪?」

「ひどいよ〜二人とも〜、栞ちゃんが学校に出てきたなら教えてくれてもいいのに〜」

「ひどいってアナタね……わぷっ」

 今の行為の方がよっぽど……と言いかけた所で、香里の顔面に雪球が当たる。

「わっ、お姉ちゃん大丈夫ですか?」

「か、香里、大丈夫?」

「お、おい、相沢マズイぞ」

「分かってる、逃げるぞ北川」

 雪球を当てた張本人である祐一と北川は、やべっと顔をしかめてそろ〜っと立ち去ろうとする……が。

「待ちなさぁ〜〜〜〜〜い!! 二人とも、成敗してあげるからそこになおりなさいっ!!」

「や、やばいっ!!」

「ま、待て相沢俺も――がふっ!?」

 逃げ出した二人に雨あられと注ぐ雪球。

 その一つに当たって北川が撃沈される。

「お、おいおい……雪球一つでこれって、どんな肩してるんだよっ!?」

「次は、アナタよ……相沢君」

「ま、待て香里っ!! 話し合えば分かるぞっ、多分!!」

「問答――わぷっ!?」

 ――無用、と剛速球を投げようとした香里に、またもや雪球が直撃する。

「いくらお姉ちゃんでも祐一さんを傷つけるのは許しませんっ!!」

「……いい度胸ね栞、あたしに逆らおうなんて」

「わっ、わっ、二人とも落ち着いて」

 名雪が急いで間に入ろうとするが、ギロリと香里が一睨みすると、それきり動けなくなってしまう。

「な〜ゆ〜き〜、アナタはあたしの味方よねぇ?」

「あ、あはは……だ、だおー」

 かくん、と名雪の意識のブレーカーが落ちる。

 その顔は割と楽しそうではあったが。

「栞っ、協力して香里を倒すぞっ!!」

「はいっ、祐一さん」

 香里を挟んで対極の位置にいる二人が声を掛け合う。

「いい度胸ね……来なさいっ!!」

 カッと眼を見開いた香里がその二人を迎え撃つ。

「とぉぉりゃあああああああ!!」

「えいっ、えいっ!!」

 即席で作った雪球を投げながら突撃する二人。

 そして――

「獲ったぁあああああああ!!」

「そこですっ!!」

「――ふ、甘いわよ、二人とも」

 至近距離からの一撃を浴びせようとした栞と祐一、その両者の顔に雪球をカウンターで返す。

「む、無念」

「えぅ……」

 どさっと、二人の体が倒れようとするが、香里がそれを支える。

「まったく……」

「香里?」

「お姉ちゃん?」

「ほんの一ヶ月前までは、こんな事が出来るなんて思いもしなかったのに、貴方達は……」

「お姉ちゃん……」

「香里、泣いてるのか?」

「馬鹿ね、嬉しいときでも涙は零れるもんよ」

 そんな香里の泣き笑いを見て、祐一は気づく。

 こんな、何でもない遊びが一ヶ月前までは考えられもしなかったんだと言う事を。

「ああ、そうだな――だから今から一杯やろう、雪合戦でも、10Mの雪だるま作りでも、さ」

「はい、皆でやりましょう」

「栞……相沢君……」

「あー、いってぇ……まぁ、そういう事だな、今からでもやればいいさ、なぁ、水瀬さん?」

「うん、北川君の言うとおりだと思うよ、香里」

 後頭部を擦りながら立ち上がった北川と、いつのまにか起き上がっている名雪がそれに同意する。

「ええ、そうね……本当に」

「まぁ、その前に栞は勉強だろ?」

「そ、そんな事言う祐一さんは嫌いですっ!!」

「ふふ、遅れてる分は私がみっちりとしごくから大丈夫よ」

「お、お姉ちゃんの眼が本気です、祐一さん助けてくださいっ!!」

「すまん栞、俺の愛を以ってしても香里に立ち向かうのは……」

「――何か言ったかしら、相沢君?」

「ナンデモナイデス」

「ぷっ、祐一棒読みだよ?」

「情けないぞ相沢っ!!」

「なんだと北川っ!!」

「二人とも、さっきの事、忘れたとは言わさないわよ――」

「ちょ、ちょっと待て美坂、俺まで――げふっ!?」

「わっ、わっ、危ないよ〜香里」

「死にたくなかったらどいてなさいっ!!」

 そう言って皆で笑いあう。

 楽しいこと、幸せなこと。

 それはすぐ傍にある。

 きっと、気づかない人もいるだろう。

 気づけない人もいるのだろう。

 でも、それに気づいたのなら、変わらぬ日常を、飽いた日々を、大切にしてほしい。

 楽しい事だけの現実ではないからこそ。

 だからこそ、価値があるのだから。

 続く日常に、奇跡と言う名の祝福を。

 そう思い、空を見上げたのは、自分か、愛しい人か――――
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