風が吹く。

草をなびかせ、音を奏でる。

その音はまるで囁く声のようだった。

それを聞き入るため、大地に身を預ける。

音源が近くなった所為か、少しうるさい感じがした。

でも、そのうるささが

―――どこか懐かしかった。







また風が吹く。

今度のは体を軽く震わせた。

体をさすりながら身を起こして、それに気づいた。

空が青から赤になっていることに。


「…帰るか」


立ち上がって、周りを見渡す。

ここはものみの丘。

俺がアイツと会った場所。

俺がアイツと……別れた場所。







〜忘れられない、忘れたくない〜







「―――祐一っ」

「……ん?」

「祐一ってば」


目が覚める。

身を起こして周りを見ると、そこは見知った教室。


「もう放課後だよ、祐一」


隣であきれたように名雪が俺を見ていた。

どうやらさっきのは夢だったらしい。


「うむ、ご苦労。名雪」


とりあえずえらそうに言っといた。


「どういたしまして、だよ」


それに素で対応するもんだから、名雪はリアクションというのが分かっていない。


「…なんでそんなえらそうな物言いなわけ?」


それにきちんと応えてくれるから、香里はリアクションというのが分かっている。


「気にするな」

「そうするわ」


…ただ、最近俺の扱いに慣れたのか、そのままさらりと受け流す事が多くなった。

少し悲しい。


「で、祐一」


俺の悲しみにこれっぽちも気づいていない名雪が話を進めようとする。

くっ、これだから天然と言う奴はっ!


「……祐一、今失礼なこと考えなかった?」


…天然で鋭いというのはある意味反則ではないのか、と考える今日この頃。


「そんなことないぞ」

「本当に?」

「本当だ」

「うん、分かったよ」


こういうとき天然は助かる。

いや、この場合は純粋と言った方がいいだろうか。

まあ、どっちにしても素直に信じてくれることは良いことだ。

……非難がましい視線を送ってくる誰かさんは無視しておく。


「で、俺に何か用か?」

「あ、そうだった。ねぇ、祐一」


名雪がにこりと笑みを浮かべる。


「今日部活お休みなんだ」

「それで?」

「だから一緒に百花屋行こ」

「ふむ」


断る理由は無いが、特に行く理由も無いので少し考えてみる。

…そういえば最近、百花屋に行っていないことに気づく。

何せこういう機会でもない限りあそこに行く事ないからな。

あそこのコーヒーを久々に飲んでみたい欲求に駆られた。


「よし、それじゃ行くか」

「うんっ」


返事をしながら立ち上がろうとした時、ふと


「あ」


さっきの夢が頭をかすめる。そして


「…悪い、名雪」

「えっ?」


今日がどんな日か思い出した。


「今日、用事があるんだ」


名雪の顔が少し怪訝になる。

だが、名雪も思い出したのか、


「…そっか、今日は一日だったね」


月初めの一日。

その日、ある場所に行くのが俺の日課になっていた。


「悪いな。この埋め合わせはいつかするから」

「…うん」


誤りつつ、教室から出ようとしたが


「ねぇ、祐一」


名雪に呼び止められる。


「これから直接行くの?」

「いや、一度商店街に寄ってから」

「……それなら」


名雪は上目遣いで、少し言いづらそうに言葉を紡ぐ。


「…それなら、商店街まで一緒に帰ろ?」


断る理由は無かった。


「行くぞ、名雪」

「うんっ」


俺の後を嬉しそうに名雪がついてきた。

話についていけなかった香里は少し拗ねていた。







「―――ありがとうございましたっ」


名雪と分かれた後、俺はコンビニに寄っていつものを購入。

抱えている袋から熱が伝わってくる。

…今の季節ならまだしも、今が夏だったら拷問以外の何物でもないな。

と、夏にそれが売っているのかという問題を無視して考えを進めていると


「―――相沢さん」

「ん?」


誰かに呼び止められた。振り返ると


「年上の貫禄を持つ後輩の女の子がいた」

「…物腰が上品な後輩の女の子と言ってください」

「おばさんくさい、よりはマシだろ?」

「……」


何とも言えないような表情で女の子―天野美汐―が俺の方を見る。

どうやら、否定はできないみたいだ。


「で、俺に何か用か? 年上の貫禄を持つ後輩の女の子よ」


…何か名雪の時と同じやり取りしてるな、俺。

天野はため息をつきながらも、口を動かす。


「…いえ、たまたま見かけたものですから挨拶を、と思いまして」

「そうか」


返ってきた答えはさっきのやり取りとはまったく別のもの。


「挨拶は大事だもんな」

「はい」


お互いきちんと向き合った。


「こんにちは、相沢さん」

「ああ、こんにちは、年上の貫禄を持つ」

「……相沢さん?」


…仏の顔も三度までらしい。


「…こんにちは、天野」

「はい」


俺は素直に折れた。


「天野は今帰りか?」

「はい、掃除が少し長引いてしまって」


ちらりと腕時計を見る。

帰宅部にしては多少遅い時間が表示されていた。


「そういう相沢さんは」


そう言いかけて


「あ」


天野は俺が抱えているものに気づいた。

目に見えて、天野の表情が気難しいものになる。


「…今日も、行くんですね」

「…ああ」


天野にとって、余り触れたくないもの。

だから、天野をそのままにしてあの場所に行こうとしたが


「私も、一緒に行っていいですか?」

「…え?」


思っても見なかった言葉が返された。

正直、少し戸惑った。

何せ、今まで天野が行きたいと言った事が無かったから。

しかし、戸惑いは一瞬。何故なら


「ああ、行こうか」

「はい」


元から断る理由なんて持ち合わせていなかったから。







「変わって―――るか、さすがに」


目の前の光景と夢の光景を照らし合わせると、さすがに変わっていた。

今は季節の変わり目。

一ヶ月で確実な変化をもたらしていた。

視線を天野のほうに向ける。


「……」


天野は無言でこの丘を見渡していた。

俺が知る限り、天野がここに来るのは数ヶ月ぶり。

ここの変化を俺以上に感じているんだと思う。

そして、その変化から天野は何を感じているのだろうか。

生憎、天野の表情から察することはできなかった。

見渡し終わったのか、天野の視線がこちらに向けられた。

そのとき俺は、袋からそれを取り出そうとしていた所だった。


「食うか?」

「…いいんですか?」

「ふっふっふ、こんなこともあろうかと天野の分もきちんとあるぞ」

「え」


そう言って、袋の中を見せる。

中に入っているのは三つの肉まん。

俺の分と天野の分、最後の一つは…アイツの分。

それを見た天野は首を傾けた。


「こんなこともあろうかと…ですか?」

「おうっ」


俺の返答でさらに疑問に思ったようだが、次の瞬間、天野は口元を緩ませた。

……気づかれたかな。


「今までどうしてたんですか? 私の分は」

「俺が食ってた」


即答。


「あの娘が一個で、相沢さんが二個ですか」


天野の顔に笑みが浮かぶ。


「怒りますよ、あの娘」

「いいんだよ。悪戯されてた仕返しだ」


天野に手渡した後、自分の肉まんにかぶりついた。

一ヶ月ぶりの味が口に広がった。







風が吹く。

草をなびかせ、音を奏でる。

その音はまるで囁く声の―――いや、今日は違った。

今日は寝転がらなくても、その声はうるさく聞こえた。

それはまるで、久々に親友と会えて嬉しさのあまり声を上げているかのようだった。

そしてその声は、俺たちにとって非常に懐かしいものであった。

俺たちは草むらに腰を下ろして、それを聞き入っていた。

……聞き入っている中、ふと、その声とは別の声を俺の聴覚が捉える。


「……忘れられないからですか?」

「ん?」


その声は隣にいる天野から。


「あの娘が忘れられないから……ここに来ているんですか?」


天野は視線を前に向けながら話していた。

俺もそれに倣って視線を前に向け


「……いや」


否定の言葉を言う。

その言葉に反応してか、天野の顔がこっちを向く。

だけど、俺は視線を変えず言葉を紡ぎ続ける。


「忘れないため」


腰を上げる。

視線が高くなったおかげで、遠くの方まで見えるようになる。


「忘れないために来ているんだ。アイツのことを」


風が俺の頬なでる。

それが妙にくすぐったかった。

その横で、俺の言葉の意味が分からないのか天野が怪訝な顔をしていた。

俺は苦笑を浮かべながら、再び話し始めた。


「俺さ、前科があるんだよ」

「前科、ですか?」

「ああ」


視線を上に向ける。

視界に入ったのは青々とした空。


「大切な…とても大切な友達のことを忘れてたんだ」


……そう、俺は忘れていたんだ。あいつのことを。

確かに、まだ子供の、未成熟な心に対してその処置は正しかったのかもしれない。

だけど

頭では分かっていても、理屈では分かっていても

とても許せるものじゃなかった。

だから、と言って天野のほうを向く。


「忘れたくないんだ、アイツのことを。絶対に」


俺と天野の視線が絡み合う。

俺の視線を受けたまま、天野はすっと笑みを浮かべて言葉を発す。


「お強いですね、相沢さんは」

「そんなんじゃないさ」


俺は視線をそらす。

何となく気恥ずかしさを感じてしまったから。


「俺なんかより天野のほうがよっぽど強いよ。ずっと…忘れずにいたんだから」


恥ずかし紛れに言った言葉。

だけど、それは紛れもない本心。

悲しみを背負いつつ、忘れずにいた天野。

それは強さ以外の何物でもない。

俺があいつのことを思い出して、最初に感じたことだった。

もう一度、天野のほうを見る。

天野は首を横に振りながら弱々しく発した。


「…違います」


否定の言葉を。そして


「私は…忘れたかったんです」


言葉を紡いでいく。


「忘れたかったんですよ、本当は。あの子のことを…」


その一つ一つに、哀を込めて。


「でも」

「忘れられなかった、だろ?」


天野の言葉を俺の言葉で遮る。

一瞬戸惑ったようだが、天野はゆっくりと頷いた。


「やっぱり強いんだよ、天野は」


俺は口元を緩めながら言葉をかける。

しかし、天野はまだ何か言いたそうな感じだった。

すかさず俺は


「ていっ」

「きゃっ」


天野の頭を強めに撫ではじめた。


「先輩の言葉は素直に受け取るもんだぞ」


さらに撫で続ける。

天野の髪がくしゃくしゃになっていく。


「わっ、分かりました。分かりましたっ」


手ストップ。

天野は解放された隙に立ち上がって、俺と距離を取った。

そして、頭を抑えながら俺を睨んでくる。

と言っても、擬音が“む〜”だと怖さよりも微笑ましさが目立ってしまう。


「相沢さんは強引過ぎます」

「今知ったのか?」


口元に笑みを浮かべながら訊きかえす。

天野の視線が少し強くなったが、すぐに苦笑を浮かべ


「…いえ」


首を横に振った。


「…知ってましたよ、前から。あの娘と会わせてくれた、あの時から」

「そうか」


俺たちは同時に笑みを浮かべた。






空が徐々に赤みを帯びていく。

夕暮れが訪れようとしていた。

俺たちはあれからずっとこの丘を眺め続けていた。


「そろそろ帰りましょうか」


天野の顔は夕日に照らされ、空と同じように赤みがかっていた。


「そうだな」


俺の言葉を聞いて、天野は歩き始める。

しかし、俺はその場から動こうとはしなかった。


「…相沢さん?」


そんな俺を不思議に思ったのか、天野は振り返って俺を見る。


「…なぁ、天野」


足を動かす。


「はい?」


天野に近づいて


「少なくとも」


ポンッと頭の上に手を置く。


「忘れられるより、覚えててくれたほうが嬉しいと思うぜ」

「え?」


天野は呆けた表情を浮かべたが、すぐに俺の言葉を理解し


「…そうですね」


言葉と共に頷いた。

俺はまた天野の頭を撫で始めた。

今度はできるだけやさしく。


「だからさ、ずっと忘れないでいようぜ。それがアイツ等に対して、俺たちが出来ることだからな」

「はい、はい……」


天野は何度も頷く。

まるで、自分の中の何かに言い聞かせるように。

天野の頭を撫で続けながら視線を上に向ける。

視界に入るのは赤く染まった空。

それはあの時の光景を思い起こさせた。

正直、まだ抵抗がある。

忘れたいとさえ思ってしまう。

だけど、そんなことは絶対にしない。

だって、忘れてしまえばアイツ等と積み重ねてきた出来事が全て零になってしまうから。

それは、悲しみの記憶を持つことより悲しいことである。

だから俺は


―――絶対に忘れないぞ、お前達のことは。


もう一度深く心に刻みつけた。







風が吹く。

草をなびかせ、音を奏でる。

その音はまるで声のよう。

それはアイツ等の声。

とても大切な人達の声だった。







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