ふたりの事情




I. ふたりは仲良し

「ご馳走様」
 栞は食卓に箸を置いて挨拶をすると、一目散にリビングのソファを占領し、テレビのスイッチを入れた。
 画面に映りだしたのは最近よくテレビで見かけるようになったお笑いコンビ。目当ての番組があってスイッチを入れた訳ではないので、栞は取り敢えずテレビのリモコンをテーブルに置いた。
 5分程その番組を見て笑い声を上げていた頃合だろうか、ダイニングから2つのコーヒーカップを持って香里がやって来て
「栞。あなたこんなの観てたの?」
と呆れた調子で言った。
「観てみると結構面白いよ」
 対する栞は姉に視線を遣るでもなく。
 もう、と溜息をついた香里は栞の隣に座り、栞用のコーヒーカップを置いてその代わりにリモコンを手に取った。
「変えるわよ?」
 香里の口調は問いかけだったが、指は栞の返事を待たず躊躇無く別チャンネルのボタンを押し込んだ。
「あーっ!?」
 ぱっと切り替わった画面に栞は叫ぶ。
 お笑いコンビに代わって登場したのは、全然知らないスーツの中年男性と、彼と比べると格段に若いが堅苦しい服装の為に若さを感じられない女性だった。
「ぶー。面白くなさそうー!」
「あなたの観たい番組は20分後でしょ? それまでは良いじゃない」
「でもー」
 確かに、栞の目当てのドラマは午後8時から始まる番組で、それまでの繋ぎとしてお笑い番組を観ていただけなのだが、栞にしてみれば、だからといって見るからに面白くなさそうな番組に付き合う義理は無い。
「ちょっとだけだから、ね。お願い」
 姉にそこまで低姿勢に出られたら、栞も強いてお笑い番組を推せなかった。

 やはり番組は公共放送のニュース番組で、財界で起きた出来事を経済面から解説していた。そこから放たれる言葉はとことん栞の理解の範疇外の語彙だ。
『ここで経済アナリストの畠山さんに〜』
 アナウンサーがゲストの登場を告げた。その言葉に、ふと気になる点があった。
「ねえ、お姉ちゃん」
「何?」
「"-ist"って『〜主義者』とかいう意味だよね?」
「そうね」
 だから何なの、というような興味も示さず、香里は軽くコーヒーを啜った。
「アナリストって、『アナル主義者』の事?」


アナリスト(analist) = anal + -ist ?

anal:[adj.] 【医】肛門の(名詞形は anus)
-ist:[suf.] 〜主義者


 香里、口の中身を一気に大噴出。
「わ、きたない」
「あ、あ、あなたねえ! 意味解って言ってんの!?」
「え? その……」
 いきなり向き直った香里の詰問に、その意味を思い出されて栞は赤面した。
 恥じ入っておろおろする妹の様子にサディスティックな悦びを感じる姉。そんな姉は勿論意味を知っていた。なぜならお年頃だから。
「ほら、知ってるんだったら言ってみなさいよ」
「あ、えと……おしりの……あなが、好きな人の、こと?」
 切れ切れに、恥ずかしさのあまり声まで小さくなりながらも、素直に答えた栞の姿に何だか倒錯した感情を香里は覚えた。が、ぐっと堪えて。
「はい、0点。アナリストとは綴りが違うわよ」
 アナリストの綴りは analyst、栞は実は惜しいところをついていた。
 一体どこでそんな事を覚えたのやらと溜息を吐いた香里は、ふと心当たりに思い至った。
 相沢祐一。栞の恋人で、香里のクラスメイト。情報源はこの男か、女の子同士の猥談くらいしか香里には思いつけない。後者ならまだ良いが、前者ならば?
「相沢君……ね?」
 栞の体がぴくりと震えた。その様子で確信を得た香里は、次に栞の貞操が心配になった。
「栞、あなたまさか、そこまで許したんじゃ?」
 香里の声に少し、栞の警戒を呼び起こすきな臭いものが混じっていた。
「う、ううんっ! そこまでは、さすがに……」
「じゃあどこまで許したのっ!?」
 哀れな栞は、香里の誘導尋問にいとも簡単に引っ掛かってしまった。

 その晩、実に久しぶりに姉妹は同じ部屋で眠りについた。
 ……と言えば微笑ましかろうが、その内実は姉が妹の体験談を聞き出す為の事情聴取だった。



II. 秘密のふたり

 翌日。
「相沢君。ちょっと話があるの。校舎裏まで来てくれない?」
 恥ずかしそうな表情を顔のどこかに浮かべ、それでいて決意に満ちた瞳の香里のこの言葉を教室で聞いた人々は、二通りの印象を持ったという。曰く告白か、曰く決闘か。
 当の祐一自身、腑に落ちない様子だったが、人前ではちょっとねと恥ずかしげに言う香里の言葉に校舎裏への同行を快諾、2人は教室を出て行った。


 香里は祐一に釘を刺すつもりだった。つまり、あまり栞に対して卑猥な事を覚えさせないようにと。できれば結婚まで何もするなと。
 妹離れのできない香里にとって栞は、蝶よ花よとその美しく成長する様を愛でる対象である。恋人が出来て姉よりも優先するものが栞に出来てしまった事ですらも耐え難いのに、事もあろうにその恋人に汚されてしまうのは全く我慢がならなかった。
 勿論のこと、栞の名誉に関わるこのような話を人前でするつもりは全く無かった。だからこそ、祐一を校舎裏へと誘ったのだ。
 だが香里は間違っていた。場所の選定よりも、誘い方にこそ気を遣うべきだったのだ。


 校舎裏はいつも寂れている。ここに用があるのは、掃除当番の生徒か用務員、あるいは他人に聞かれたくない話をする者だけだから、香里には打って付けの場所と言える。
 校舎裏に誰も居ない事を確認して、香里は口を開こうとして、詰まった。
「栞の、ことなんだけど……」
 何と言い出すべきか、全く思いつかなかった。言いたい事ははっきりしているし、言う相手だって目の前に居るというのに。
 恥ずかしいのだ。
 内容が内容だ。乙女があからさまに口に出すべき事ではない。
 かといって、どのような婉曲表現があるだろうか?
(何ていえばいいのよ、こんな事!)
 言葉が見つからない苛立ちが募ったが、面と向かって相手にぶつける訳にもいかない。
「おい、香里、どうしたんだよ?」
 栞の名をだすなり黙り込んで赤面すら始めた香里を、祐一も心配し始めた。
 祐一の認識では、普段の香里はこのようにもじもじと思い悩んで言葉を止めるようなキャラクターではない。
「調子悪いのか? 保健室に行くか」
「悪くはないわ。大丈夫」
「じゃあ何なんだよ」
 祐一の声と表情に僅かに苛立ちの色が見え始めた。
 呼び出した立場上、それに愛しい妹の貞操の上からも、保健室に引っ込んでバイバイという結末を迎えるなんて香里には出来ない。
(美坂香里、覚悟を決めて!)
 自分で自分にエールを送って。
 すうと息を吸って。
 まっすぐに祐一の目を見据えて。
 肺にためた空気を一気に吐き出す勢いで言った。
「あ、相沢君はお尻が好きなのっ!?」
「え?」
 虚を突かれた祐一がきょとんとした表情を浮かべた。
(言葉をまちがえたーっ!!)
 やはり内心で叫んだ香里。そんな事を言っても後の祭り。覆水は盆には戻らないのだ。
 もはや、恥ずかしさのあまり先ほどの勢いは残っていなかった。香里には言いたい事を速攻で伝えきるしか無い。それこそ、言葉を選んでいる余裕なんて無かった。
「あ、あの、だからね、さっきのは違ってて、相沢君ってお尻に興味があるって」
「まてまてまてーっ!!」
「あたし、べつにダメって言ってる訳じゃないのよ。ただ栞は」
「なんだって───っ!?」
 まだ結婚前だから、という言葉は複数の第三者の声にかき消された。声のした所を見てみると、校舎裏に面した1階の窓のいくつかに、見知った顔がいくつもあった。
 教室での2人の様子に興味を持った、あるいは心配したクラスメイト達が、校舎裏を見ることの出来る場所に陣取って2人の行く末を見守っていたのだった。



III. 学級日誌のふたり

『……何事も無い一日だった。明日もこのような一日であることを望む』
 石橋教諭は、ふむと頷いて検印欄に判を押した。
「ごくろうさん、帰って良いぞ」
 日直はあからさまにほっとした表情を浮かべ、それでは失礼しますと石橋教諭に頭を下げた。
「あ、待て」
 だが日直が踵を返したところで、石橋教諭は思い出したように呼び止めた。
「美坂に伝えておいてくれるか? ほどほどにしとけって。あまり派手にやると表面化するからな」
「……しかと伝えておきます」



IV. ふたりはやっぱり仲良し

 姉の言動は、冷静に火消しに動いたクラスメイト達の働きによって、それほど広まらなかった。生徒会の耳に入ると厄介だし、教師に目を付けられると痛くない腹まで探られる事になりかねない。
 だがしかし、栞は風の噂で聞いてしまった。
「お姉ちゃん!」
「だからさっきからあたしは無実だって言ってるじゃない」
 むすっとした栞の前で正座させられた香里はうんざりと何度目になるか判らない弁解をした。
「だってお姉ちゃんはっきり言ったそうじゃない! 祐一さんなら良いよって。友達からそんな言葉を聞かされた私の気持ち、解る?」
「だーかーらー、それも誤解だって言ってるじゃないの!」
 実際のところ、香里はあの時の事を良く覚えていない。動転していたし、何より言葉なんて選んでいる余裕も無かった。思いついた言葉を並べていただけのような気もする。そんな時に口に出した言葉なんて、一字一句正確に覚えている訳は無い。言いたかった事の趣旨は覚えているので栞には反駁しているが、勿論の事栞は納得していない。
「えーい。こうなったら私自ら調べてあげる!」
「え?」
 要領を得ない香里に堪忍袋の緒が切れたらしい。栞が突然香里の手を取って立ち上がらせた。
「お姉ちゃん! 一緒にお風呂入ろう?」
 誘い文句だった。イントネーションは質問だった。だが、栞の眼は、香里から反抗する意志を根こそぎ奪い去る光を放っていた。
「お姉ちゃんが隅々まで潔白かどうか、私自ら調べるから覚悟して一緒にお風呂に入ろうね」

 その日の美坂家のバスルームは、いつもよりちょっと賑やかだった。
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