雨の香がする




 意識が急速に浮上して、唐突に目が醒めた。
 なぜだろう、と感じることはなかった。
 目を開けるまでもなく感じる、部屋に漂うどこか重く淀んだ空気。
 雨だ、とわたしは思った。
 雨だ、と。
 雨の香がするから、だから、わたしは目が醒めたんだ、と。



 雨の香(におい)がする。
 それは、もちろんはっきりと感じる匂いではなくて、例えばいつもより暗い光だったり、耳を澄ませばかすかに感じるさぁ、という細い音だったり、いつもより心持ち髪に重く感じる空気だったり、そんないつもとは違うもろもろの差異を両手に集めたら、そんな表現がしっくり来るような気が、わたしはした。



 ゆっくりと目を開ける。
 部屋は天候を差し引いてもまだ薄暗く、どこか灰色じみた光がカーテンの隙間から薄く漏れている。
 たぶん、まだ起きるのには早い時間。
 枕許の、赤い目覚し時計を手に取る。その針が差しているのはまだ6時前。目覚ましに設定した時間より、まだ1時間以上も早い。
 そのまま布団を被って寝ればいいのに、なぜかその気になれなくて、わたしはぼうっと薄暗い天井と灯りを落とした蛍光灯を見つめる。
 何も考えることなく、かすかに聞こえるノイズに耳を傾けて。

 冬に雨が降る、ということに、わたしが不思議な感覚と共に、軽いショックを覚えたのは、そう昔の話じゃなかった。
 わたしが生まれ育った北の街では、もちろん冬に降るのは雪で、それを当然だと思っていたから。もちろん、すべての街で雪が降ると思っていたわけじゃないけど、身体に馴染んだ感覚との差異を、不思議に感じたものだった。

 ここでは、冬でも雪が降らないんだ。
 雨が降るんだ。
 冬に降る、冷たいつめたい雨。
 冷たい雨は服に染み込み、身体に染み込み、心に染み込み、その温度を奪ってゆく。

 生まれ育ったあの街とは比べものにならないほど暖かいこの街で、雪よりつめたい雨が降るのは、どうしてなんだろう。

 雨の香がする。



 わたしはパジャマを着たまま窓辺に立ち、厚手のカーテンをそっとめくる。
 冷たい外気が、厚いガラス越しに部屋に流れ込んで、わたしのむき出しの手や、首もとを伝ってゆくのがわかった。 
 外はまだ薄暗く、雨ににじんだ黒いアスファルトと、まだ灯りのつかない街の中で、電信柱の蛍光灯だけがはっとするようなしろい光を放っている。

 窓に雨粒が当たり、いく筋かの流れになって、つ、と下に滑ってゆくのを、わたしはじっと眺める。
 ガラスにわたしの息があたって、しろく霞んで、消える。
 しばらくそのまま、窓を雨粒が流れるのを見つめつづける。

 雨の香がする。



 部屋はしん、と静まり返っている。
 今更振り返るまでもなく、綺麗に片付いた、わたしの住む部屋。
 綺麗というより、物がない、と言ったほうが、たぶん正確だと思うけど。

 ここの部屋に住むときに、わたしがそれまで住んでいた家から持ってきたものは、片手で数えられる程度でしかなかった。
 たくさんの目覚し時計から、なるべく地味なものを選んでひとつだけ。服も、ぬいぐるみも、いちばん大切にしていたものは、すべて今もわたしの家のわたしのいない部屋に置きっぱなしのまま。
 きっとわたしの笑顔とか、大切なもろもろの感情も、そのまま置いてきたんだと思う。
 そこにはわたしの全てがあって、ここにはわたしの全てがない。
 ちいさな目覚し時計ひとつで目的の時間に起きれるようになったわたしは、それ以外の全てを忘れてしまったに違いない。
 大切なものと、冬に降る雪と、笑顔と、大切な大切な誰かの笑顔とか、例えばそんなものを。

 雨の香がする。



 空をじっと見つめる。垂れこめた密度の高い雲は薄暗く、まだ晴れる気配は伺えない。
 たぶん、今日はこのまま、雨が降るのだろう。
 晴れることもなく、雪が降ることもなく。
 いつか、晴れるときがきたら、わたしの心も晴れるのだろうか。
 いつか、雪が降るときがきたら、わたしの心もあの頃に戻れるのだろうか。
 
 この冷たい雨の降る街で、この綺麗な部屋で、まだ何も掴めていないわたしは、ただ雨の音を、薄暗い光を、冷たく湿った空気を感じる。

 雨の香がする。



 わたしはベッドに戻って、毛布をかぶりなおす。
 目をつぶり、ベッドに残った暖かさに身をゆだねる。
 目覚ましが鳴るまで、あと1時間。

 でも、きっと眠れない。
 冬の冷たい雨に、どこか惹かれているわたしは、きっと。

 雨の香がする。
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