海に行こう、なんて誰が言い出したのかもう忘れてしまったけれど。
あたしはその日、水平線を見た。
Sound of the OSEAN [20XX]
ぼけっと外を眺めていたら、ラジオの音が唐突に途絶えた。どうやらトンネルに入ったらしい。等間隔に設置された灯りが、窓の外で踊るように駆け抜けていく。
「ね、ね、まだかな?」
助手席で背凭れを抱くように降り返って、名雪。瞳が輝いてみえるのはきっと、走るライトせいだけじゃない。期待なんて言葉じゃいくつあっても足りないくらい。
「もう少しじゃない? それより、少しは落ち着きなさい」
慌てなくても逃げたりしないわよ、なんて。
まるであやす母親みたい。
「そういうことだ名雪。とりあえず、落ち着こう」
あと、香里もな。さっきからそわそわしすぎ、なんて。
…………。
名雪と顔を見合わせた。
困ったように笑う名雪。あたしはこめかみを押さえて小さくため息を一つ。
「……相沢君。それは鏡を見てから言ってくれる?」
「なにっ。俺の格好になにか問題でもあるのか?」
サングラス。赤いアロハシャツ。あと、来る前からずっとはきっぱなしの、海パン。
「あ、祐一。そのビーチボール、もう膨らませちゃったんだね」
「ばばバカを言うなっ。これは最初から膨らんでたんだっ」
「あと、もう一つ言うなら、相沢君、そんなに座高高かったかしら?」
「あ、ホントだ。祐一、浮き輪も膨らませちゃったんだね」
「ち、違うっ。俺は断じて期待なんかしてないぞ! わくわくもしてないし、ドキドキもしてない!」
「もう少し素直になれば、相沢君のそういうとこ可愛いのにね」
祐一は素直じゃなくてもかわいいよ。言ってろ。ほら、やっぱりかわいい。うがーっ。
そっぽを向いて不貞腐れる。なんとなく、名雪の言ってたことがわかったような気がした。クスリと息が漏れる。
確かに、ちょっとだけかわいいかも。
なんて思ってたら、もう一人、不貞腐れた少年が前の方で。
「……なんかみんな楽しそうだよなー……」
「はいはい。運転ご苦労様。そんな北川君、あたしはかっこいいと思うわよ」
ホント?! なんて振り返ろうとして慌ててハンドルに齧りつく。助かったー、なんて声が聞こえてきそうなくらいに、深い深い安堵の息。
そんな彼の姿にみんなで涙が出るくらい大笑いして、北川君が何か抗議の声を上げようとした時に、目が醒めるような眩い光。
思わず目を瞑って、恐る恐る、ゆっくりと目を開く。
「海だーっ」
名雪の声。車窓には薄い空の青と深い海の蒼。
止まっていたカーラジオが唐突に流れだす。陽気な夏のメロディーがちょうど今始まったところだった。
# Summer Memorys / NO.01 [海と太陽と、それを見つめる名雪]
/
車から降りると、途端に潮の香りで辺りが満ちた。
飛ばされそうになる麦藁帽子を押さえながら伸びをすると、なんだか本当に来たんだなぁなんて実感が湧いてくる。
「祐一、海だよ海っ」
「ああ、わかってるからそんなにはしゃぐな……って、手を引っ張るなっ」
「ほら、祐一。早く早く、こっちに」
「あー、わかった。わかったから」
なんてやれやれと追いかける。妙に疲れたような仕草をしてたけど、その表情は――。
「楽しそうだな、相沢も」
「そうね」
ビーチパラソルに、クーラーボックス。大き目の浮き輪と夏用の曲がいっぱい入ったラジカセ。荷物おばけみたいになった北川君。
「いるだろ?」と問い掛ける彼に、あたしは「ラジカセ以外は」と答えた。
「あたしにも何か手伝えること、ある?」
彼は首を振って笑う。
「こういうことは男の役目」
「相沢君は?」
「あいつは水瀬を運んでるだろ」
「それは大変ね」
遠くの方で「香里も早くー」なんて手を振っている名雪を見て、あたしたちは二人で笑った。
「荷物の方はいいから、美坂も早く行ってきなよ」
「え、でも――」
流石にそれは悪くて――振り返る。
視界に広がるのはおばけみたいな北川君じゃなくて、近づいてくる丸っこい何か。
ぽんっ、とその何かが顔にぶつかって、跳ねる。
わぷっ、なんてらしくない声を出してしまった。
「それだけよろしく」
自分の前でゆっくりと転がっていくビーチボール。なんか怒りも彼に悪いという感情もどこかへと失せてしまった。
「はいはい」
よっこらしょなんておじさんっぽい声を出している北川君を背に、あたしはビーチボールを抱きしめて走る。
彼女たちに追いついたのは白い砂浜の上。波打ち際で、両手を広げながらはしゃぐ彼女と関係なしに足元を濡らしている彼。
二人分の足跡を、波が少しずつさらっていく。
とおい海の向こう。水平線の彼方から、風がいつもよりも少しだけ強く吹いた。
この夏買ったお気に入りの麦藁帽子が、空へと舞い上がった。
# Summer Memorys / NO.02 [砂浜、消える足跡、波打ち際の二人]
/
「ねえ名雪」
「なに?」
「男の子って、みんなああなの?」
「多分、祐一と北川君だからじゃないかな?」
真夏の太陽の中、真っ青に染まった海を目の前にして、パラソルの下で只管待たされてる二人。
まわりには男女混合のグループが、楽しそうに浅瀬でじゃれついている。
それに比べて、うちの男どもと来たら――。
ため息が重なった。
その男二人が遠泳から帰ってきた最初の一言は待たされた身としては何とも傍若無人な意見だったけれど、それ以上に魅力的な話だった。
「いやー、わるいわるい。ついつい熱くなっちゃってさ」
「そうそう。てか、今からビーチバレーしようぜ」
ぜいぜいと息を切らしていたのは、多分死闘だったのだろう。少しだけ赤く染まった顔でにぃっと笑いながら彼らは言った。
だから、頬っぺたを膨らませて彼らを迎えた名雪も、今は輝かんばかりの笑顔を回りに振り撒きながらビーチボールを追っている。
「はい。北川君」
「食らえ、相沢ァ! 俺の魂の一撃をォォ!! ……と、見せかけて水瀬」
「はい。祐一」「マジかよッ。めっちゃ普通に返されたよオイッ」
こういう時、名雪の切り替えの早さは羨ましいと思う。そして、そんな名雪はやっぱりあたしから見ても可愛くて、すごく魅力的な女の子で……。
可愛げないな、なんて自分でも思う。別に、さっき置いて行かれたことを根に持っているわけじゃない。けど、自分だって女の子なんだから少しくらい気を使ってくれてもいいんじゃないかな、なんて。
いやいや、別に意識しろなんて思っちゃいない。というか、これだけ普通に友達として接しているのに今更意識されても困る。
けど、なんだ……その……やっぱ悔しいかも。
「香里ー。行ったよー」
「え?」
なんか見たことある光景。丸っこい何かが視界いっぱいに広がっていく。
ポコンと音がして、また跳ねた。
「……えーと」
固まった相沢君。にこにこと笑ってる名雪。冷や汗を流しながら、こそこそと逃げようとしてる北川君。
犯人は、お前か。
「……北川君?」
「ははははいっ。なんでしょうかっ」
莞爾と微笑んで。
「そこになおれーっ」
ビーチボールを掴んで、水を跳ね上げる。相沢君も待ってましたとばかりに北川君を追いかけ始めた。
お助けーっなんて言われてもきかない。名雪も楽しそうに笑いながら、北川君に水をかけている。
バシャーンと大きく水音が聞こえた。ドッと笑い声が響いた。
# Summer Memorys / NO.03 [沈む北川君]
/
夕陽が沈んでしまった後の海は、どうしようもないくらい寂しげであった。真っ暗な海の中には道路沿いに建てられた街灯の些細な光なんて届かない。
「なんだかパーティが終わっちゃったみたいだね」
砂浜へと降りる階段に越しかけて、名雪がぽつりと言った。
「そうね」
楽しかった時間は過ぎていく。消え去っていく。
「……そんなの考えてもどうしようもないことよね」
「なにが?」
「ううん。なんでもない。本当にとりとめのないこと」
あたしはそう言って、名雪に微笑みかけた。
涼しげな風が頬を掠めていった。あたしはそのまま夜の真っ暗な世界に視線を戻し、ただあたまの中を真っ白にして、何も考えないように務めた。もしかすると、真っ白ではなく、この海のようにまっ暗闇だったのかもしれないけれど。
そう思うと、余計に気分が滅入った。なんだか、海に来ると物想いに耽りやすくなる気がする。いけないと首を振って、あたしは名雪に話し掛けようと、すぐ隣りに顔を向けた。
「なゆ……」
呼びかけた名前は途中で霧散する。
名雪は空を眺めていた。見上げたままで
「見て」
とだけあたしに告げた。
言われるがままに空を見上げる。
「――綺麗」
そこにあったのは満天の星空。隙間ないくらいに煌煌と。
薄くかかった帯は天の川。織姫と彦星もそこに見える。
「香里!」
うっとりとしていたところで、名雪の声。立ち上がり、くるりとターン。
「まだ、パーティは終わってなかったんだよね」
そう言うと、彼女は砂浜に下り、嬉しそうにステップを踏んだ。
「……そうね」
なんとなくわかった。本当になんとなくだけれど。
「踊りましょうか? 名雪」
「うん!」
そう、時間は続いている。いつだって。
あたしはそんなことを考えながら、名雪の柔らかな手を取った。
# Summer Memorys / NO.04 [星と踊る名雪の笑顔]
/
名雪の言うことは本当にその通りだったわけだけれども。
本当にまだ何も終わっちゃいなかった。
「当たり前だろ! これをやらないと締めになんか入れる訳がない!」
「ていうか、何の為に俺たちが買い出し行ってたと思うんだよ」
両手いっぱいに買い込んだ二人が口々に騒ぎ立てる。さっきまでの雰囲気は、物の見事に台無しだ。
「なに買ったの?」
「さーて、なんでしょう?」
「うー。別に教えてくれても……」
「ダメですー。ヒントは夏、う」「花火でしょ」「なんで言っちゃうんだよ美坂っ」
やれ、段取りが台無しだとか。美坂は俺たちの希望を悉く奪い去る悪魔だとか。割と結構な言われよう。
「――とりあえず、花火な訳よね」
なんかどっと疲れたような気がした。あと、とりあえず、なんか悪口言ってたっぽい北川君を軽く小突く。今度は鬼ごっこにはならなかった。
「いたたた。そう花火花火」
あたしに小突かれるのを甘んじて受けながら、北川君はビニール袋を広げる。中には大小様々な花火。
「という訳で、やっぱ海の締めは花火でしょう!」
にっこりと笑いながら力説する北川君に、反対する人なんかもちろんいなかった。
パチパチと火花。儚く綺麗。
「やっぱ男なら打ち上げだよなっ」
なんてとても大きな打ち上げ花火をブンブン振って、相沢君が海の方へ駆けていく。
「あ、待ってよ祐一」
「ま、待て名雪。お前二本も火がついた花火を持ってこっちに近づくな」
「え?」
「あまつさえ振りまわすなーっ」
そんな二人の行動を、あたしはクスクスと笑いながら見守る。
手に持っていた花火が燃え尽きた。「あ」と声を出すと北川君がほいっとまだ使っていない花火を手渡してくれる。
点火。あたしと北川君。二人の顔が花火の光に染まった。ぼんやりと、何か考え事をしてるのだろうか。花火に照らされた北川君は、どことなく寂しそうに映った。
不意に北川君があたしに視線を向けた。交錯する。なにか言おうとして、声が出ない。北川君が何かを言いかけて、けど口篭もる。
唐突に彼の顔が見れなくなった。あたしの持っていた花火は終わっていた。
「なぁ」暗闇の中で、彼が話しかける。
「何?」とあたしは訊ねた。
「楽しい時って、終わるの早いよな」
なんて。少し寂しそうに。
だから、あたしは言った。
「終わってなんかないわよ」
続くんだから。これからも。
少し離れた夜空に、相沢君の持っていた花が綺麗に咲いた。
# Summer Memorys / NO.05 [花火]
/
テールランプが踊る。ラジオの交通情報を聴きながら、あたしたちは家路を急いでいた。
後ろにいる二人は既に熟睡状態。名雪はともかくとして、相沢君は大丈夫かと思ったのだけれど、やっぱり根本的に弱いのかもしれない。
「なあ美坂」
不意に、運転席から。起きてるか? なんて失礼な言葉が。
「何?」
「楽しかったよな」
「……そうね」
「また、来ような」
夏は終わらない。アルバムはずっと埋まっていく。
運転する北川君の横顔を見つめながら、あたしはうんとだけ答えた。
感想
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