彼女の心は捉えどころがない。まるで退いてはまた押し寄せる波の様に。

 ただ、それよりも何よりも問題なのは。
 そんな彼女に翻弄されることが満更でもないと思ってしまう、自分自身だ。






きみのこころ。








 いつから好きになったんだろう。

 そんなことを考えながら、北川潤は、自分で金色に染め上げた髪の毛を所在無げに弄りながら、彼女の横顔を見つめていた。視線の先には、親友である水瀬名雪とお喋りに興じている、彼の想い人が映っている。

 彼女は、美坂香里といった。
 学年トップの成績を誇る彼女は、それと同時に見目も麗しく、才色兼備という言葉をそのまま具現化したような少女である。少しウェーブがかかった長い髪、絶妙のプロポーション、力強い意思を感じさせる瞳。彼女に憧れる男子生徒は数知れず、北川も、ある意味ではそんな男子生徒の一部でしかなかった。
 ただ一点、彼らと違う所があるとすれば。それは、北川が香里とクラスメイトであり、席が比較的近くでもあるから、それなりに仲の良い友達付き合いをしている、ということだった。そしてそれは些細ながら、それでいて重大かつ絶大な差異でもあるのだった。

 視線を送る。見つめるその先の、秀麗な横顔。楽しげな表情。
 不意に振り向いた。思わずどきりとする。彼女は少しだけ表情を和らげて、

「どうしたの、北川君?」

 そんな他愛の無い瞬間。それだけで幸せだった。



   ◆



 そんな北川の幸せが崩れたのは、二年の三学期。
 一人の転入生の訪れが、彼の時間を大きく狂わせることになった。

 その転入生は、相沢祐一といった。
 香里の親友である名雪の従兄弟だという彼は、名雪と香里が気を利かせたからか、時期外れの転入生にしては随分と早くクラスに馴染むことができたようだった。北川も祐一とは席が近く、いつも下らないことを話しては笑いあうような、そんな関係になっていった。
 香里に、名雪に、祐一。それに北川。4人でいるのは心地良かった。

 香里が祐一に向ける意味深な視線に、北川が気付くまでは。

 何か悩みを抱えている香里の様子には気が付いていた。彼女が笑顔でいる時間は極端に少なくなり、代わりに何かを思い悩むような表情に支配されている時間が増えた。けれど、それはあくまでも彼女のプライベートに関わることなのだろうし、どうやら名雪にも話していない事のようだったから、深入りして話を聞くことなど北川には出来なかったのだ。
 だが、祐一は違うらしかった。おそらく祐一は、香里の支えになっているのだろう。そして香里も、祐一を頼りにしているのに違いない。北川には、事の成り行きを見守ることしか出来なかったのだ。

 そして春が来て。香里には、再び笑顔が戻って。
 北川はただ、何も出来なかった自分の無力さを痛感することしかできなかった。

「香里は、わたしにも話してくれなかったんだよ」

 そう言って哀しそうに笑う名雪の表情が、北川の胸を深く抉る。
 名雪にでさえ話さないのであれば、自分なんかに話してくれるはずなど無くて。だとすれば、そんな香里が唯一打ち明けた祐一は、香里にとってどれほど大きな存在なのだろう。



   ◆



 聞いて欲しいことがあると、北川が香里に中庭に呼び出されたのは、桜も散った4月の終わり頃のことだった。

「あたし、ずっと悩んでいたことがあったのよ」

 そう言われて、北川は思わず知らず、自分の胸元の辺りを押さえた。
 鼓動が速くなり、手に汗が滲む。ごくりと、唾を飲み込んだ。

「あたしに妹がいるの、北川君は知ってる?」

 ぶんぶんと、北川は首を左右に振った。初耳だった。

「ずっと重い病気に罹っていて、学校にもまともに通えなかったの。それどころか、今年の冬を越えることは出来ないだろうって言われてたのよ。それで、あたしは……」

 辛い表情。何か嫌な事を思い出すような、苦い過去を搾り出すような、そんな表情で。

「妹の、栞の存在を無かったことにしたの。自分には最初から妹なんていない、そう思うことで、辛い現実から逃げようとしたのよ」

 吐き出すように、香里は言った。

「酷い姉でしょ? あたし、こんな酷い女なのよ? なのに、栞は、」

 涙を堪えるように。力いっぱい手を握り締めて。

「あたしのこと、許してくれたのよ……」

 零れ落ちそうな涙。北川は思わず、香里を抱きしめたい衝動に駆られた。

「でも」

 そこで、香里は表情を緩めた。ふうっと、身体から力が抜ける。

「栞は助かった。助かる見込みは数パーセントだって言われてたのに。医者は、栞の回復を奇跡だって言ってた。でもあたしは、栞が元気になったのは、相沢君のおかげだと思ってる」

 柔らかな香里の表情。対照的に、北川の表情は、少しだけ険しいものになった。

「相沢君は、あたしと栞を仲直りさせてくれた。他人事なのに、一生懸命になって。……本当、相沢君って不思議よね」

 ふふ、と香里が微笑む。その度に北川は、自分の胸がずきりと痛むのを感じた。

「聞いてくれてありがとう、北川君。名雪と北川君にだけは聞いて貰いたかったのよ。随分と心配させちゃったみたいだし……」
「美坂は」

 遮るように、北川は声を上げた。少し驚いたような表情で、香里が北川の顔を見た。

「相沢のことが好きなのか?」

 最初その顔に見えた表情は、困惑。そして次に、



 哀しみ。



 北川は思わず息を飲んだ。もしかしたら拙いことを訊いてしまったのかも知れない。
 少しだけ焦ったようにわたわたと手を動かして、

「いや、いいんだ。別に答えたくなければ答えなくてもいいし、あの、その、」
「北川君」

 そんな北川の様子を見て、香里は少しだけ苦笑した。ふぅっと息を吐き出して、

「別に、そんな気にしないでよ。……ただちょっと、分からないだけだから」

 そもそも相沢君は栞の彼氏だしね。そう言って遠くを見るその瞳は、一体誰を向いているのだろう?
 ……それは、たぶん、きっと。

「なぁ、美坂」

 彼女の想いは、多分自分と似たような想いなのだ、と。
 そう思ったから、だからこそ北川は、こんなことを言ってしまったのかも知れない。

「俺は、お前のこと好きだぞ?」



   ◆



 夏が過ぎ、秋が来て。
 高校三年生の彼らは今、本格的な受験シーズンを迎えている。

「相沢君、ちゃんと人の説明ちゃんと聞いてるの?」
「ああ、ちゃんと聞いてるよ、美坂先生」
「茶化さないでよっ。北川君も、その公式じゃないって、何回説明すればいいのかしら?」
「いや、だって、この場合はこの公式を使うって習ったような気が……」
「あたしは、間違いやすいから違う解き方が良いって言ったわよね、しかも何回もっ?」
「……くー」
「名雪も直ぐに寝ないでよっ。もう、本当に勉強する気あるわけ?」

 受験シーズンになっても、4人の関係は今までと変わらなくて。香里のことが好きな北川としては、やきもきするような毎日が続いている。

 好きだと告白して、ありがとうと言った香里。けれど、相変わらず変わりばえのしない関係。
 おそらく香里は今でも祐一のことが好きで。北川はそんな香里のことが好きで。そんな北川の気持ちに対して、香里は満更でも無いと思っていて。

 香里の心は、まるで退いてはまた押し寄せる波の様に、北川を翻弄して止まないのだけれど。
 そんな彼女に翻弄されることは、むしろ心地良くて。



 こんな日々が続くのも悪くは無いんじゃないかって、そう思ってしまっていること。
 それが、北川潤にとって一番の問題なのだった。

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