景色
奇跡の力、とは本来、奇跡そのものを起こす力ではない。その力を誰かに与えることを指す。
人間で言えば、自分では使えない小切手のようなものである。
さて、ある冬の朝のことだ。私はその力とやらを、自分が持っていることに気がついた。
話には聞いていたが、それはまるで若枝が芽生えるように、気がつくと私に備わっていて、ちょうど身体の具合の良し悪しが分かるように、自分の中にあることが実感できた。
これで私は、昔話の神様のように、誰かにこの有り難い力を授けることが出来るんだ、と思った。
同時にひどく困った。
そんな相手など、いなかったからだ。
困っていても時間は過ぎた。陽は次第に高くなってゆく。
朝から昼に移ろうとしていた時だった。雪の上に薄っすらと伸びていた朝の影は、既にはっきりと濃くなっている。
一匹の毛並みのいい獣が、雪の上に四つ足の跡をつけながらやってきた。
親友の狐だった。
森の中の一角で、草と雪に覆われた広場に一本の大きな木がそびえ立っている。私達はいつもそこで会っていた。
「おはよう」
彼女は言った。
「ああ、おはよう」
私は挨拶を返したが、彼女に聞いている様子はなかった。
代わりに、私をまじまじと見つめると、
「あなたも?」
と、驚いた顔を見せた。
狐の言っているのが、奇跡の力のことであるのはすぐ分かった。
彼女は妖狐だったからだ。歳をえた狐は不思議な力を得て、その力を誰かに授けることができるようになるという。彼女もそうだった。
「ま、狐に限らず、ここらじゃ、歳取ったやつはみんな変な力をもらっちゃうみたいだけどね」
以前、狐はそんなことを言っていた。
退職金のようなものね、と笑い、私がその例えにピンと来なかったのを覚えている。
驚きがやむと、狐は笑って言った。
「おめでとう」
満面の笑顔の奥に、半分からかいが見えた。自分と同じく、私が歳を取ったのがよほど嬉しいらしい。
「ありがとう。だがね」
「うん?」
「使い道がないんだ」
「あら? でも」
仲間の誰かにあげればいいじゃない? と彼女は言った。
「仲間のためねえ」
私は困ったように空を見上げた。初雪のように真っ白な雲が、頭上高く飛んでいる。
「少し前なら、迷わずそうしていただろうがねえ」
かつての私には目標があった。ずっと上を目指してきた。だが、今はそれに何の意味があるのか分からなくなっている。
だから、同じ目標を持つ同種族のために力を与えるのはためらわれた。
黙っているうちに、さあっと風が通り過ぎる。静寂の空間を、枝から飛ばされた雪が白く粉のように舞う。
「あなた、きれいな尻尾してるねえ」
唐突に、狐は言った。
私は苦笑した。
それが彼女なりの励ましであることは知っていたが、狐でない私にとって尻尾など褒められても嬉しくなどなかったからだ。
「ま、じっくり考えてみなさい」
別れ際に狐はそう言うと、たーんたーん、と跳ねるように雪道を駆けていった。
「またね」
という声だけが、静かな森に響き渡った。
奇跡の力を誰にあげるか、が私と狐のしばらくの話題となった。
遺産を誰に相続させるか、に似ているね、と狐は言った。
それは、ウサギだったりフクロウだったり、あるいはタンポポだったりした。
タンポポなんかに奇跡の力を与えたら、街中が綿毛だらけになるよ、と私は言う。
そうして、私たちは互いに顔を見合わせて笑うのだった。
案は決まることはなく、そもそもお互いに決める意志がないように思えた。
その時までは、それでもよかった。
しばらく狐が来ない日が続いた。暦でいうとひと月ばかりの間だろうか。
冬が深まり、木の根元を覆う雪が一層厚くなっていた。風が吹けば、時折枝に積もった雪が、どさどさ、と音を立てて落ちる。
そんなある日のことだった。
狐が久々に姿を見せた。いつもの森の広場だった。
「ずいぶん、ご無沙汰だったねえ」
私が言うと、彼女は、まあね、と言った。
「実はね、子供が出来たの」
「子供?」
思わず聞き返した。つまり、この妖狐が遅まきながら嫁入りしたということだろうか?
「言っておくけど、拾い子よ」
彼女は言い、私は黙った。
「義理も何もないんだけれどね」
狐ははにかんだように笑う。笑いながら、その小狐がどういう風にご飯を食べるかとか、どれだけたどたどしく喋るかとか、どんな寝顔を見せるかとか、いちいち語ってみせた。
「ま、ほっとくと死んじゃうしね」
いささか喋りすぎたと思ったのか、照れ隠しのようにそう言った。
ああ、情が移ってしまったんだな。私は思った。それがいいことなのか悪いことなのかは、分からない。だが狐にとっては、きっといいことなのだろう。
「まだちっちゃな子でね、ほんの」
「しっ」
狐の言葉を私は遮る。彼女はさっと反射的に木の裏に隠れた。
がさがさ、と茂みをかきわける音がした。加えて、雪を踏みしめる四本の足音。それがだんだんと近づき、やがて人間の男の子と女の子が現れた。
男の子のほうには見覚えがあった。人間の顔はどれも同じに見えるが、雰囲気が何度かこのあたりで見かけた少年と酷似していた。女の子は、初めて見る。
広場へやってきた男の子は、得意気な顔で中央の大木を指した。女の子は、口を開けてそれを見上げた。
やがて、女の子がその大木に登り始める。高いところまで辿り着くと、やや不安定ながら枝の上に座った。
感嘆の声をあげていた。街の景色を見下ろしているのだろう。
私も見たことがある景色だった。子供だった頃見れなかった風景を大人になって目の当たりにした時のその気持ちは、よく覚えている。
「ちょうど、人間で言うと、あの子たちくらいね」
子供たちがいなくなった後、狐は木から出てきてそう言った。
「ん? え、あ、ああ、お子さんか」
「どうしたの?」
私が慌てたように返事をしたせいか、彼女は若干訝しがった。
「ちょっと、ぼーっとしてただけさ。それより」
お子さんは元気か? と私は訊いた。
答えは分かっていた。
彼女は、ええ、と力強く頷いた。熟した木の実のように、顔から笑みがこぼれていた。
いい笑顔だと思った。彼女が奇跡の力を与えるとしたら、きっと相手はその子だろう。
それは正しいことのように思えた。なぜ私たちに与えられた力が、奇跡を起こす力、ではなく、それを与える力なのか、を考えると、きっと本来彼女のような使い方をしてほしかったからだと思えたからだ。
そして、私はそこから外れていた。
狐の来訪が、春の雪のようにまばらになった。子供のことで、忙しいのかもしれない。
話す時間が減ったことで、私はよく考え事をするようになった。
それは上ばかり目指していた青年時代のことであり、あるいはその目標に意味を感じなくなった今についてであった。
どこか虚しさを覚えた。
代わりに、男の子と女の子がよく森へ来るようになった。
広場へやってくると、二人は仲良さげな兄妹のようにじゃれ合う。見ていてこそばゆいほどだ。
女の子はよく木の上に登った。
だが、その姿勢は私から見れば不安定に映った。よろめいたらどうするつもりだろう、風が吹いたら危ないではないか、など危惧すべきことがあれこれ浮かんだ。
そうして、自分がなぜ異種族の少女の心配などしているのか、疑問に思うのだった。
そんなことを考える時は、決まって背筋がぞくっとした。
嫌な悪寒だった。
ある日のことだった。何日かぶりに広場へやってきた狐は、唐突にこう言った。
「しばらく来れそうにない」
私は少し言葉に詰まった。
「急な話だね」
「もしかしたら、もう会えないかもしれない」
さらに言葉に詰まった。
何と言えばいいのか分からず、やっと、
「そうか」
とだけ言った。
それきり、私は黙ってしまった。
キンと張りつめた空気の中、白い雪をまとった木々が、どこまでも寒々と連なっている。
風が急に止んだような、そんな静けさを感じていた。
「ねえ」
その静寂を狐が破る。
「もし。もしだよ? あたしに何かあったら」
弱々しい声だった。言葉の語尾は風に薄れ、よく聞こえない。
子供に何かあったに違いない、と思った。でなければ、彼女があんな無理に笑ったような顔をするわけがない。
だから、私は努めて明るい調子でこう言った。
「きっと、大丈夫さ」
もっと気の効いた言葉があるだろうに、出てきたのはひどく陳腐な台詞だった。
けれども、彼女は笑って、
「ありがとう」
と言った。
「それじゃ」
彼女らしくただ一言そう言って、くるりと背を向ける。
途端、焦燥感に襲われた。
「待った!」
その背中に、叫ぶように声をあびせる。
こんな時に私は何を言おうとしているんだ。そう思ったが、もう狐は振り返っていた。
「いや、その。女の子、いや、それと男の子」
説明になっていなかったが、狐は、
「あの二人組の人間?」
と聞き返してくれた。
「あの子達がどうかしたの?」
「その、一度見ただろう? 木に登ってさ、ほら、なんだ」
慌てたような喋り方は、普段の私のそれではなかった。自身の深部に触れることだったからかもしれない。
「危なかったんだ。つまり、落ちそうで。だから、その、もし森で見かけたら、泥でもぶつけて、帰させてほしい」
狐はしばらく沈黙したのち、分かったわ、と頷いた。私は、ありがとう、と礼を言う。
本来の別れはとうに過ぎていた。
だから、狐は振り向くこともなく去っていった。
後ろ姿が見えなくなった時、あの女の子の顔が頭に浮かんだ。なぜこんなにも気になるのだろうか。
答えはもう分かってしまっていた。だから、彼女には無事でいてほしかった。
だが、実際はそうはならなかった。女の子は木から落ち、私はそれを止めることができなかったのだ。
その日は、朝からよく空が澄んでいた。まるで薄い氷のようだったと記憶している。
透明な空から陽の光が、雪に覆われた森を鮮やかに照らしている。
そんな中、女の子は木から落ちた。
強風が吹いた。ただそれだけだった。
男の子が野兎のように、だっと駆け寄った。女の子は泣きそうな顔で精一杯の笑顔を作りながら、それでもかろうじて命の灯火を燃やし続けていた。
私はそれを高みから見下ろしながら、奇跡の力を発動させていた。
何をやっているのだろう、と思った。百年以上も生きて、そびえるほどの大木になっておきながら。だが、やめる意思はなかった。
女の子の手には、落ちた拍子につかんでちぎれた私のしっぽが握られていた。「きれいなしっぽだね」と狐が冗談半分で評したそれは、私から生えたやわらかい若枝だった。
身体が熱くなっていく。
ゆっくりと、私の中から、奇跡の力と一緒に何か根源的なものが抜け落ちていく。
それがたんぽぽの種のようにゆらゆらと揺れながら女の子に届いた時、自分がもはや木としての役割を終えたことを知った。
だから何日かして切り倒されることになった時も、不思議に思うことはなかった。
そうして私は切り株だけとなった。
それから、何年かが過ぎた。
狐にはあれから会っていない。当時、疥癬症という病がアカギツネを中心に流行っていたから、あるいは最後に会った時、既にやられてしまっていたのかもしれない。
ひょっこり顔を見せるのではないかと今でも淡い希望を持っている。多くの死を見てきた私がそんな期待を持つのは珍しかった。
時々思う。
彼女の子供は元気でやっているだろうか? そして、もし奇跡の力をもらったとしたら、何に使うのだろうか? と。
そして、女の子。
あの子はどうだろうか。当時、まだ子供だった。
だが何年かして、奇跡の力を使いこなせるようになったとしたら、できれば自分のために使ってほしい。そして、幸せになってほしい。そう思う。
ちなみに、彼女に力を与えた理由はつまらないものである。
あの頃の私は、生きることにどこか虚しさを覚えていた。若木だった時分、空を目指しどこまでも高く成長しようとしていた情熱は既に失われてた。
自身をウドの大木と評し、ただ無駄に高いだけだ、それに何の意味があるんだ、と自虐していた。
だから力を与えた訳はつまらないものではあるが、それ以上にやむを得ないことだと思っている。
だって、仕方がないではないか。
初めてやってきた時、木の上に登った少女は、こんな私から見た景色にこの上もない笑顔を見せたのだから。
感想
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