この日、香里の朝は遅かった。
 数日前に買った推理小説が昨日の夜に山場に入ったので、夜を徹して読破したのである。おかげでまだ頭と体の調子がいいとはいえず、足取りもどこか危うい。
「お姉ちゃん」
「え?」
 栞に呼ばれて反射的に振り向いた香里の顔が光に照らされた。目をぱちくりさせてから香里は妹のしたことを知って叱りつけた。
「なにするのよ、まだ顔だって洗ってないのよ」
「確かに、寝起きのお姉ちゃんの顔はかなり無様でしたね」
 さすがに失言であると気付いて栞は踵を返してドアに走って行く。
「分かってるなら撮るな!!!」
 姉の怒声を背中に受けて栞は新たな被写体を探しに出て行った。


 祐一が公園のベンチで昼食を摂っていると、突然彼の顔が何かに覆われた。急いで被せられたものを外すと、それがケロピーの顔そのもののマスクで、被って外を歩けば不審尋問されること間違いないものであることが分かった。
「何すんねん」
 ベンチの裏でコソコソする真琴を引きずり出した。
「いたーい。なにすんのよ!!」
「こんなもの被せといて言う台詞か!!」。 
「証拠はあるの?」
「んなもんいるか!!!」
 真琴の言い訳を暴論で一蹴すると、マスクを示して言う。
「大体、こんなものどこから」
「買ったもん」
 買ったうんぬんではなく、どこにこんな怪しげなものが売っていたのかを尋ねているのが、とりあえずそれは置いといて続ける。
「確か、お前の給料はもう全部なくなったんじゃなかったか?」
 先日、漫画の買いすぎが原因で真琴の給料は底をつき、祐一に泣きついてきたのである。勿論、祐一は丁寧にではないが断っているので、もう彼女に自由に出来る金はない。
「借りたから」
「ん、名雪にでも頼んだか?」
 一応は納得できると思い予想したが、真琴はしれっと否定する。
「ううん、祐一から」
 どうも言葉の意味を理解できなかった祐一は重ねて問う。
「おれは貸した覚えはないぞ」
「なしょで借りたから」
 同時に祐一は真琴の胸倉をつかんで顔を険しくして問いただす。
「それは泥棒だろうが!!!」
「違うもん、カンキチは部下や身内から黙ってお金を借りるのは別に問題ないって、言ってたもん」
「んなわけあるか!!! 脳髄まで漫画に汚染されやがって」
「後で返すもん」
「これはお前が被れ!!」
 怒鳴り飛ばすと同時にケロピーの顔を真琴に被せた。本来ならすぐにでも抜けるそれはどこをどう間違ったのか、簡単に外すことは出来なかった。
 自分が史上屈指の恥ずかしい姿をしていることを理解した真琴は祐一に向き直って、
「なにすんのよ!!!」
 怒っていることは間違いないが、ケロピーの顔で抗議する真琴はとても滑稽だった。不気味であるが、これ以上なく滑稽な存在なのである。それも被ったマスクを脱げなくなったという事実が合わさっては、こみ上げてくる笑いを抑えるなど不可能であった。
 盛大な笑い声は真琴が蹴りを入れて抗議しても続いた。


 祐一は腹の底から笑いに笑ったわった後、さすがにこの顔をなんとかしないわけにはいかないので、いきなり真剣な顔になって真琴のマスクを外すのに協力した。だが、手で行える手段の全てを試しても外れることはなかった。
「外れないな」
 滑稽な顔を外すのに疲れ、二人はベンチに座り込んだ。
「なんで?」
 声の様子から涙ぐんでいることは理解できたが、ケロピーの上からではそれを伺うことは出来ない。
「呪われてるんじゃないのか?」
「じゃあ、これは世界一格好の悪い呪いになるわね」
「とりあえず、帰ろう。ここにいると、単なる見世物になりかねん」
 言いながらも祐一はその可能性は低いと考えている。何故なら、こちらに目を向ける人全てがすぐに目をそらして足早に立ち去ってくれるからである。
 さすがにそんな視線をむけられていい気持ちはしないので、真琴は頷いて立ち上がった。
「うん」
 瞬間、真琴の顔を何かがかすめ、思わずベンチに腰を戻した。
「魔物」
 声のするほうに目を向けると、舞が剣を構えていた。いったい何処から湧いてきたのかは不明だが、舞が真琴のこの姿見て魔物であると勘違いしたのは間違いなさそうである。確かに、あのケロピーの顔をした真琴は魔物といえば魔物だろう。
「あれはまこ」
「離れて、祐一。あれは悪質なものだから」
 舞は祐一をケロピー真琴から守るように間に入ると、不定形の魔物を真琴に放つ。
「な、なによー!!!!」
 魔物は真琴の動きを封じようと手足を狙って来るが、真琴の必死の動きはなんとかそれを凌ぎきる。
 公園を駆けずりまわって魔物の追撃をかわそうとするが、次第に増えてくる魔物は徐々に真琴を追い込んで行き、とうとう公園の一角に追い詰めた。もう逃げ場のないことにおろおろする真琴に舞は冷たく告げる。
「とどめ」
「ちょっと待てぇ―――」
「!!!」
 振り下ろされた剣は微妙にずれてケロピーを引き裂き、彼女の顔を露わにした。そこでようやく舞は自分の勘違いに気が付いた。


 舞が謝罪してから公園から出て行くと、真琴も憔悴しきった顔で公園から去っていく。
「今日は疲れたから帰る」
「ああ、気をつけろよ」
 二人が公園から見えないところまで出て行くと、入れ替わるようにして首にカメラをおろした栞がやって来た。
「祐一さん、こんにちわ」
「栞か、いい写真は撮れたか?」
 香里から栞が写真にはまって街を徘徊していると聞いていたので尋ねると、彼女は笑顔で答えた。
「ええ、とってもいいものを撮りました」
「それはよかったな」
「ですから、今日はもうやめです」
「ん、もう帰るのか?」
「いいえ」
 まだ家で姉の怒りは収まってはいないだろうから、時間潰しが必要である。言いながらカメラをバッグに入れると、両手で祐一の手を包み込むようにして提案した。
「今日はどこかでショッピングしませんか?」
「しよう」
 女の体温にあっさり屈した祐一が即答すると、公園から出て行く直前に栞は本日最後のカメラの話題をだした。
「そうそう、今日撮った写真はどこかに投稿しますから、出来れば見てください」
「それじゃあ、楽しみにしてるよ」
 最後に悪戯っぽい笑みを浮かべて彼女は言った。
「ええ、楽しみにしててください」


 祐一が栞の写真のことなどすっかり忘れていた日に、栞が投稿した写真がテレビに出てくることを報せた。祐一はテレビに出たという事実以上に、その番組のジャンルにも驚いた。それは夏の心霊写真特集であったのである。
 不安と期待を胸に水瀬家の皆がゴールデンタイムのテレビに見入っていると、とうとう栞の番となった。
『今度はS・Mさんからの写真です』
 目にした祐一が思わず口の中のジュースを吹き出してしまったそれは、舞が剣を片手に真琴を追い込んでいたあの写真であった。まわりには舞の召喚した不定形の魔物と、追い立てられるケロピー真琴が写し出されている。
「ねえ、これってまさか」
 隣の真琴も気付いたらしく、口の中のコーラでテーブルを汚した。
 二人は秋子に注意されて、汚したテーブルを布巾で拭きながら噂しあう。
「栞だろうな」
「隠し撮りなんて、許せない。明日にでも異議を申し立てるわ」
「大賞ねらえそうだな」
 大量の魔物が映し出されているこの写真なら、結構いい線にいくだろうと見ていると、どうしたことかテレビの向こうの霊能者は魔物には一切言及しないで、ケロピーの顔を被った真琴を指して言う。
『酷いですね。これはかなり悪質な霊です。蛙にコンプレックスを持った女の恨みつらみが感じられます』
「真琴は霊じゃない!!!」


 完膚なまでの勘違いを残したままその写真は大賞に輝いた。
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