空への翼




 
 色あせていく思い出――
 淡々と過ぎて行く時間――
 月日は ただ 過ぎてゆき、
 体は 次第に 老いてゆく。
 思い出ではいつしか 消え、
 いつしか そのことすらをも 忘れさせる
 ……ひとりだった
 ずっと ずっと ひとりだった。
 ……寂しかった
 すごく すごく 寂しかった。
 流れ行く 時の中で 思うこと
 ココロに強く 思うことは、ただひとつ
 たったひとつの、俺の――



 少し雨の跡の残るガラス窓から見える空は、白く澄み渡っていた。
 白い壁。白い天井。カーテンも白。花も白い。何もかもが白だった――人すらもが白くぼんやりとしか見えない。光が明滅するような、ひどく曖昧な世界を見ていた。
 そこは病室だった。
 それなりの広さを持った個室には、いつもに比べれば大勢の人間がいた。
 ……私はベッドに伏し、ぼんやりと白い人影を眺めていた。
 もうそれぞれの区別はつかないが、そこには私の家族がいるはずだった。娘に、その夫に、孫夫婦に、そしてひ孫たち。ひ孫のうちの一人は今年で小学校に入学するらしい。
 妻は数年前に他界していた。
 それ以後、私は死を受け入れて生きてきた。
 ――長く生きたほうだろう。このまま生きていけば、もうすぐ九十に届く。
 悪くない人生だった。挫折もそれなりに味わったが、それでもこの人生は悪くないものであったと。そう、胸を張って子供たちに言えるほどには、満足している。
 ただ、妻に先立たれたのは寂しかった。長い間連れ添ってきたのだ。最後まで一緒にいたかった。それが叶わぬ夢だとしても、そう願わずにはいられないほどに、愛していた。――愛していたのだ。
 そこまで考えた所で大きく咳き込んだ。思考が霧散し、頭の中が真っ白になる。途切れたのは数瞬か、それとも数分か。
「おじいちゃん!」
「父さん――」
 ……声が、やけに遠くから聞こえていた。
 どうやらもう、本当に。
 私は……死ぬようだった。
 ――怖くはなかった。
 死ぬことは決して怖くない。
 そう思うと、すっと心が軽くなったような気がした。
 私は口を開いて、
「――ありがとう」
 と。そう囁いた。
 その言葉が誰に向けられていたのかは、自分でもわからない。
 ――それが境だった。
 視界がぼやけて……
 何も、見えなくなる……
 白……
 世界が、白く染まる……
 人も、空も、みんな……
 全てが、純白に染まって――
「祐一くんっ」
 声が――



 ――祐一くん、久しぶりだね
 甲高い声が聞こえて、私はゆっくりと目を開いていった。
 目の前には……ひとりの少女がいた。
 白い白い、何もない世界にぽつんと彼女が立っていた。
 カチューシャを付けた、小さな女の子だった。一見しただけでは、小学生のように見えてしまう。
 そして……その顔には見覚えがあった。
「あゆ……」
 自然と口から、名前が滑り出た。
 それは、懐かしい名前だった。
 何十年も前の出来事だった。
 雪の降る町で私は彼女と出会い……そして、別れた。それきり彼女とは会っていなかった。
 そこまで思い出してから私は自分の姿を確認した。あゆが若いままならば自分もまたあの時に戻っているのではないか、と思ったからだ。しかし、私の手はしわくちゃなままだった。そうして私は嘆息した。それからそれはどうでもいいことだと気付いた。もうそんなことはどうでもいい。
 ゆっくりと、一歩前に踏み出した。
「そうだ、あゆだ」
 私が確かめるように何度も頷くと、あゆは情けない顔をした。
 ――うぐう。祐一くん、ボクのこと忘れてたの?
「ああ、そうみたいだ」
 すまない、と頭を下げる。
「でも、ちゃんと思い出したよ」
 ――うん。それなら、許してあげるよ
 そうして、あゆはにっこりと笑う。
「……あゆ」
 ――うん?
 私は少しばかり慎重に尋ねる。
「探し物……みつかったのか?」
 ――……うん
 あゆは少し寂しげに頷いた。それから静かに笑った。
 ――見つかったよ
「そうか……」
 私は破顔した。
「よかったな」
 ――うん
 あゆもまた、少しだけ遠慮がちに微笑んだ。それから、あ、と声をあげて、
 ――祐一くん
「なんだ?」
 何故かあゆは恐る恐る聞いてきた。
 ――祐一くんは……幸せだった?
「そうだな……」
 私は迷わず頷いた。
「幸せだったよ」
 ――うん
 あゆは……少しだけ泣きそうだった。半歩後ろに下がり、俯いてしまう。
 ――ボク……ボクはね、ずっとひとりだった
 その言葉に、何も答えられなかった。
 一瞬静寂が広がりかけるが、その前にあゆは顔をあげて、
 ――でも
 と言って、笑顔を浮かべた。
 ――でも、最期に祐一くんと一緒にいれて……すごく嬉しいよ
「あゆ?」
 今までとは違う空気に、私はあゆに詰め寄ろうとした。
 ――さ、祐一くん
 問いただす前に、あゆは右手を差し出してきた。
 ――いこう?
 あゆがそう言ったと同時、白い世界が輝いた。遠く――ずっと遠くに、光の渦がきらめいている。
 そして……あゆの背中には、白い翼が生えていた。それでなんとなく……なんとなくではあるが、俺は納得していた。不思議と驚きはしなかった。そういうことも、あるのかもしれないな――と。そう思っている自分がいた。
「――ああ、そうだな」
 私は頷く。そして笑った。
「いこう、あゆ」
 差し出された手を掴む。小さな、柔らかくて温かい掌だった。
 そして……私たちは歩き出した。
 光へ向かって、二人で。
 手を、つないで。



 その病室から一人の人物がいなくなってから、部屋は嗚咽に包まれていた。泣く者、呼びかける者、部屋を飛び出す者。そして何が起こったのかわからずに、きょとんとする者。医者と看護婦は鎮痛な顔をしつつも、残った仕事を片付けている。
 と、唐突に扉が開き、一人の看護婦が入ってきた。彼女はぼそぼそと小さな声で医者の耳元に何かを囁いた後、くるりときびすを返し、入ってきた時と同じように早足で出て行った。
 その中で、小さな子供がねえねえ、と母親の服の裾を引っ張っていた。祐一からすればひ孫に当たる男の子だった。少年は不思議そうに、
「お母さん、ひいおじいちゃん、どうしちゃったの?」
 その少年の母親は、ハンカチを目元にあてがったまま涙声で答えた。
「ひいおじいちゃんはね……天国にいったのよ……?」
「てんごく?」
 意味がわからなかったのか、少年は聞き返す。
「遠い……遠い国なのよ」
 母親が説明すると、少年はふうんと頷いた。それから祐一の元へと歩いていき、ねえねえ、と呼びかけた。当然、返事は返ってこない。少年はそれが不満だったのか、さらに大きく呼びかけようと息を吸い込んだ。が、そこで動きを止めた。視線は祐一の手――シーツから手首だけがはみ出ている――に注がれているようである。
「あれ」
 少年はそう呟くと、
「ひいおじいちゃん、何かもってる」
 と言って、そっと祐一の手を開いてみせた。
 中から出てきたのは、白い一枚の羽だった。
 その羽は、少年の見守る中、静かに輝き――
 ――薄れて、消えた。



 色あせることのない思い出――
 流れることのない時間――
 月日だけが ただ 過ぎていき、
 体だけが 老いてゆく。
 思い出だけが そこに 残り
 決して 覚めることのない 夢を見ている
 ……ひとりだった
 ずっと ずっと ひとりだった。
 ……寂しかった
 すごく すごく 寂しかった。
 止まったままの 時の中で 思うこと
 ココロに強く 思うことは、ただひとつ
 たったひとつの――
 ――ボクの願い。

「どうか、もう一度、祐一くんと――」

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